「啄木のこと」 宮崎白蓮
「文藝」昭和30年3月臨時増刊 石川啄木讀本
- いつか何かに書いてあつた、真実立派な芸術品を創作する人は、適当な身の不遇さと、貧しさがなければいけないとーー。啄木を考える時、この人の不遇さ、貧しさは芸術の神の恩寵であつたのかしらとも思う。
はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢつと手を見る
- この歌などは、文学愛好者でない、ほんとうにうたのうの字も関心をもつていない人が知つているのだからびつくりする。そういう人はこの歌を、まるで呪文見たいに口ずさんでせめては自分よりももつと早くこの世に生きて、そうした人生の道を通つた人があつたのだと思うだけでも有難いことだと、宗教的にまで高く仰ぎ見ている姿を私は幾度か見たことがあつた。
燈影なき室に我あり父と母壁の中より杖つきて出づ
たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず
たゞひとりのをとこの子なる我はかく育てり父母も悲しかるらむ
- 斯うした親をうたつた歌、これを或る人は啄木の孝行歌というのだそうなが、この人のこれらの歌には四角張つた道徳的な言葉で批評したくないと思う、よしんばそれが最高の讃辭であろうとも。私はこの人の歌をただ黙つてかみしめているだけで何か味いが出てくる。
- この人の恋歌は又一種特別のもの、
頬につたふなみだのごはず一握の砂を示しし人を忘れず
あはれなる恋かなとひとり呟きて夜半の火桶に炭添へにけり
- これが美しい言葉をならべたのより、もつと辛らく身にこたえるのはどういうわけだろうか。
- そしてこの人は世の中というものを呪い、社会というものに対して烈しい怒りをもつていたという話。そこに我々は云いしれぬなつかしさと尊敬とをもつ。
ーーーーーーーーーー
< 柳原 白蓮(やなぎわら びゃくれん)。 本名は宮崎 燁子(みやざきあきこ)>
────────────────────────────────────