啄木の息 <ブログ版>

─ いまもなお瑞々しく語りかけてくる啄木の魅力を追い その息づかいに触れてみたい ─

     「本家 啄木の息」のリンクは、このページの最下段にあります。

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2014-11-28

[][] 「幻の藤沢周平作品『石川啄木』」講演会

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[バラ]


特別講演会

 藤沢周平の作品を楽しむ会福島例会

  • 29日午前10時半・福島市のMAXふくしま4階A・O・Z。「藤沢周平とっておき十話」の著者、沢田勝雄さんが、「幻の藤沢周平作品『石川啄木』」と題して講演する。
  • 参加費は700円。福島例会の新明代表024・553・0521。

(2014-11-27 読売新聞>福島)

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2014-11-27

[] “渋川玄耳”のふるさと佐賀県を訪ねて <その7 (おわり)>

啄木文学散歩・もくじ


『一握の砂』の序文を書いた“渋川玄耳”のふるさとを訪ねて


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[玄耳墓所近くに咲く「キバナシュクシャ」]


いつ読んでも斬新で面白い

  渋川玄耳(藪野椋十)の序文


◎…… 藪野椋十(渋川柳次郎)の序文は、その後無数に書かれた『一握の砂』評の嚆矢であり、今も読むに値する。

『一握の砂』石川啄木 著 近藤典彦 編 朝日新聞出版(文庫)


◎ …… 玄耳は求められて藪野椋十の別号で序文を寄せる。この中で引いた十一首から、玄耳は回想歌よりも、都市生活の現実の中で不安や孤独を平明に歌い出した歌を高く評価したことがうかがえる。「俺等聞及んだ昔から今までの歌に、斯んな事をすなほに、ずばりと、大胆に率直に詠んだ歌といふものは一向に之れ無い」といった軽妙奇抜な文章は、不まじめだと一部の人々の憤慨を買ったという。独往独来、どこまでも玄耳流である。

『石川啄木事典』渋川玄耳の項  国際啄木学会 編  おうふう


『一握の砂』  石川啄木 著

序文

 藪野椋十


世の中には途法も無い仁もあるものぢや、歌集の序を書けとある、

人もあらうに此の俺に新派の歌集の序を書けとぢや。ああでも無

い、かうでも無い、とひねつた末が此んなことに立至るのぢやら

う。此の途法も無い處が即ち新の新たる極意かも知れん。

定めしひねくれた歌を詠んであるぢやらうと思ひながら手當り

次第に繰り展げた處が、

 

  高きより飛び下りるごとき心もて

  この一生を

  終るすべなきか

 

此ア面白い、ふン此の刹那の心を常住に持することが出來たら、至

極ぢや。面白い處に氣が着いたものぢや、面白く言ひまはしたも

のぢや。


  非凡なる人のごとくにふるまへる

  後のさびしさは

  何にかたぐへむ

 

いや斯ういふ事は俺等の半生にしこたま有つた。此のさびしさ

を一生覺えずに過す人が、所謂當節の成功家ぢや。


  何處やらに澤山の人が争ひて

  鬮引くごとし

  われも引きたし

   

何にしろ大混雑のおしあひへしあひで、鬮引の場に入るだけでも

一難儀ぢやのに、やつとの思ひに引いたところで大概は空鬮ぢや。


  何がなしにさびしくなれば

  出てあるく男となりて

  三月にもなれり


  とある日に

  酒をのみたくてならぬごとく

  今日われ切に金を欲りせり


  怒る時

  かならずひとつ鉢を割り

  九百九十九割りて死なまし


  腕拱みて

  このごろ思ふ

  大いなる敵目の前に躍り出でよと


  目の前の菓子皿などを

  かりかりと噛みてみたくなりぬ

  もどかしきかな

 

  鏡とり

  能ふかぎりのさまざまの顔をしてみぬ

  泣き飽きし時


  こころよく

  我にはたらく仕事あれ

  それを仕遂げて死なむと思ふ


  よごれたる足袋穿く時の

  氣味わるき思ひに似たる

  思出もあり


さうぢや、そんなことがある、斯ういふ様な想ひは、俺にもある。

二三十年もかけはなれた此の著者と此の讀者との間にすら共通の

感ぢやから、定めし總ての人にもあるのぢやらう。然る處俺等聞

及んだ昔から今までの歌に、斯んな事をすなほに、ずばりと、大

膽に率直に詠んだ歌といふものは一向に之れ無い。一寸開けて見

てこれぢや、もつと面白い歌が此の集中に滿ちて居るに違ひない。

そもそも、歌は人の心を種として言葉の手品を使ふものとのみ合

點して居た拙者は、斯ういふ種も仕掛も無い誰にも承知の出來る

歌も亦當節新發明に爲つて居たかと、くれぐれも感心仕る。新派

といふものを途法もないものと感ちがひ致居りたる段、全く拙者

のひねくれより起りたることと懺悔に及び候也。

    犬の年の大水後

                  藪野椋十


玄耳が序文を書いた時、実に38歳!



( “渋川玄耳”のふるさと佐賀県を訪ねて  終わり)

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2014-11-26

[] “渋川玄耳”のふるさと佐賀県を訪ねて <その6>

啄木文学散歩・もくじ


『一握の砂』の序文を書いた“渋川玄耳”のふるさとを訪ねて


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[佐賀県武雄市の観光パンフレット]


啄木日記のなかの渋川玄耳


   明治四十二年当用日記

三月一日 月曜 

  • 昼飯をくつて電車で数寄屋橋まで、初めて滝山町の朝日新聞社に出社した、
  • 佐藤氏に面会し二三氏に紹介される、
  • 社会部の主任渋川玄耳といふ人は、髯のない青い顔に眼鏡をかけてゐた。

玄耳が見た啄木

校正係として入社した啄木

  • 「どっちかといえば無口な……風采もあまり上がらず、いかにも病弱らしい貧弱な体格の人」(吉田狐羊への談話)

   『石川啄木事典』渋川玄耳の項  国際啄木学会編

三月十一日 木曜 晴 暖

  • 晴れた。今年になつての一番あたゝかい日。
  • 九時半菓子折をかつて麻布霞町に佐藤氏を訪ねて礼を言つた。かへりに鈴木氏をとふと不在、蒲原氏を訪ふて三十分許り雑談。
  • 今日初めて渋川、西村の二氏と話した。

   明治四十三年四月より

 ((本郷区弓町二丁目十八、喜之床(新井)方にて))

四月二日

  • 渋川氏が、先月朝日に出した私の歌を大層讃めてくれた。そして出来るだけの便宜を与へるから、自己発展をやる手段を考へて来てくれと言った。

   明治四十四年当用日記

一月十一日 曇 温

  • 何の事もなかつた。空は曇つてゐた。朝に少し風邪の気でアンチピリンを飲んだ。米内山が来て、東北の田舎でも酒の売れなくなつた話をした。社で渋川氏に岩佐等の密輸入の話をした。

一月十八日 半晴 温

  • 今日は幸徳らの特別裁判宣告の日であつた。
  • 「判決が下つてから万歳を叫んだ者があります」と松崎君が渋川氏へ報告したゐた。予はそのまゝ何も考へなかつた。ただすぐ家へ帰つて寝たいと思つた。それでも定刻に帰つた。帰つて話をしたら母の眼に涙があつた。

一月二十五日 晴 温

  • 社でお歌所を根本的に攻撃する事について渋川氏から話があつた。夜その事について与謝野氏を訪ねたが、旅行で不在、奥さんに逢つて九時迄話した。

二月七日 晴 温

  • 朝飯をくつてストオヴにあたつてると渋川さんから見舞の手紙が来た。

[受信]渋川氏、又木君、北村智恵子、和歌山君 その他投書


   明治四十四年当用日記補遺

○前年(四十三)中重要記事

  • 九月──十五日より朝日紙上に「朝日歌壇」を設け、予選者たり。渋川柳次郎氏の好意に由る。月末本籍を東京本郷弓町二ノ十八に移す。
  • 十二月──初旬『一握の砂』の製本成る。序は藪野椋十氏(渋川氏)表紙画は名取春僊君。一首を三行として短歌在来の格調を破れり。定価六十銭。半期末賞与五十四円を貰ふ。またこの月より俸給二十八円となれり。二葉亭全集第二巻また予の労によりて市に出でたり。

[住所人名録]

渋川柳次郎〇


(つづく)

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2014-11-25

[] 「篠 弘 講演 “啄木からの影響”」 ラジオ第1 11/29

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[アワモリショウマ]


NHK ラジオ第1

 文芸選評「篠弘講演 “啄木からの影響”」

  • 放送日時 2014年11月29日(土)

      午前11:05〜午前11:50(45分)

  • ジャンル:ドキュメンタリー/教養 > 文学・文芸
  • 司会 金井直己・松本慶子 〜NHK函館放送局で収録〜

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2014-11-24

[] 「人といふ人のこころに一人づつ囚人がいてうめくかなしさ」啄木

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[セイタカアワダチソウ]

 

サンパウロ新聞

  文協 図書・映画便り

「人といふ人のこころに一人づつ囚人がいてうめくかなしさ」

  • サンパウロにおける日系社会の各団体から「次世代が育たない」ことや「若手日系人が団体活動に参加してくれない」ことで悩んでいると聞くことがある。筆者も、28歳の若手日系人であるが、そう聞くたびに、筆者は石川啄木の冒頭の歌を思い出すものだ。
  • 詩集「一握の砂」に収められているこの歌は、我々人間を各々の心という独房に閉じ込められ、苦しんでうめいている囚人に見立てた歌である。啄木がこのように人を囚人にたとえた理由は、いわずもがなだが、すべての人間が本質的には死へと向かう存在であり、それこそが悲しく、その本質に怯える囚人が一人一人の心にいて、うめいているというのだ。
  • 日系社会の各団体が次世代を育てたいなら、「あいつらは違う」などと言わずに、まずは「友人の輪」をどうつくるかを考えれば良い。石川啄木の歌にそのためのヒントが詰まっている。

(2014-11-19 サンパウロ新聞)

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[] 〈友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買ひ来て/妻としたしむ〉啄木

小社会 高知新聞

  • コラムニストだった青木雨彦さんは、サラリーマンたちが胸の内を詠んだ「会社万葉集」を編んだとき、後書きにこう記した。「それにしてもあの、石川啄木という奴(やつ)はイヤな奴だ」と。
  • 〈はたらけど/はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり/ぢつと手を見る〉。〈友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買ひ来て/妻としたしむ〉。この二首くらいサラリーマンの心情に触れる短歌はないとの思いからだ。
  • 天才歌人に先を越されたとはいえ、青木さんはアンソロジーにつつましい心根の歌を集めた。巻頭の一首は〈サラリーの語源を塩と知りしより幾程かすがしく過ごし日日はや〉島田修二。ローマ時代、兵士に塩を支給していたことから「給料」の意味になったという。
  • きのうは勤労感謝の日で、きょうはその振り替え休日。啄木ではないが「ぢつと手を見る」。

(2014-11-24 高知新聞>小社会)

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2014-11-23

[][] 「2014 啄木学会台湾会議」から

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[シリーズ15「石川啄木詩歌研究への射程 」表紙]


「啄木学会台湾会議から」

    望月善次(同学会会長)


(上) 「実践」を視野に緻密 脱境界の詩人、批評家

国際啄木学会の「2014南臺国際会議」は、台南の南臺科技大でこのほど開かれた。テ−マは「台日相互理解としての〈石川啄木〉。

台湾南部に位置する台南市は、人口約190万。南臺科技大の学生数は、約2万人に上る。

10月25日の会議は、「講演」「研究発表」「記念座談会」の三つの柱で構成された。

講演1の太田登氏は「啄木短歌の評釈への試み ―『一握の砂』の〈放たれし女〉をめぐって―」と題し「短歌を評釈することの意味」を明らかにしようとした。

講演2の梁東国氏の演題は「日本の国民国家形成の中における石川啄木」。<反近代の精神>を掲げた啄木は、国境を超えた脱境界の詩人であり批評家であったと結論づけた。

講演3の望月善次は「「啄木「三行書き短歌」再考〜何故『三行書き』が過大評価されたのか〜」と題して発表した。啄木の「三行書き」の意味を過大評価するのは「ひいきの引き倒し」であるというのがその結論。

講演4の池田功氏の演題は「石川啄木詩歌におけるオノマトペの考察」。オノマトペに焦点を当て、従来研究の遅れていた「悲しき玩具」にも言及した。

(2014-11-14 岩手日報)


(中) 用語基盤、万葉の系譜 音楽性の解明も課題に

研究発表1の高淑玲氏は「啄木短歌における音楽性についての一試論−主に『一握の砂』をめぐって−」と題して発表。「台湾の短歌活動に見られる啄木の存在」についても言及した。

研究発表2の山田武秋氏の演題は「歌語からみた啄木短歌の傾向―『一握の砂』を中心に―」。啄木の用語を分析し、「万葉集」にもさかのぼり得る歌人であることを分析しようとした。

研究発表3の劉怡臻氏は「王白淵における啄木文学の受容についての一考察―『棘の道』の詩歌を中心に―」のテーマで発表した。「棘の道」66首と啄木詩集「あこがれ」との対比を通してその影響は小さくなかったと指摘した。

記念座談会は、「台日相互理解と文化交流をめぐって」がテーマ。櫻井健治氏・平出洸氏・楊錦昌氏・梁東国氏・徐興慶氏の多様な登壇者に恵まれ、活発な意見交換が行われた。コーディネーターは若林敦氏が務めた。

(2014-11-15 岩手日報)


(下) 朗読会で異文化交流 作品の魅力を「再発見」

啄木学会の関連行事として、10月23日「台日文学交流会」が開かれた。

国際啄木学会から4人、高淑玲氏・結城文氏・平出洸氏・望月善次。台湾側の朗読者は、 向陽氏・許悔之氏・席慕蓉氏・陳育虹氏・陳義芝氏の5人。

最後は、会場からの要望もあり、林水福氏が出版されたばかりの「(翻訳)一握の砂」(「悲しき玩具」も収録)からの朗読であった。

(2014-11-18 岩手日報)


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◎『石川啄木詩歌研究への射程』出版

国際会議で行われた基調講演、研究発表をシリーズ15「石川啄木詩歌研究への射程 」として出版

  • 石川啄木(1886-1912)の詩歌をはずして日本の近代詩歌史を精密に語ることはできない。それほどに石川啄木の詩歌は、詩歌研究全般にかかわる、多様で豊潤な表現方法や問題意識を内包している。
  • 本書の論考によって、多くの読者が啄木詩歌の発想と表現がもたらす清新な韻文の魅力を味覚するにとどまらず、編者としては詩歌研究そのものの発展が国際日本学の深化に寄与することを、心から期待している。

(2014.10月発行)

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2014-11-17

[] “渋川玄耳”のふるさと佐賀県を訪ねて <その5>

啄木文学散歩・もくじ


『一握の砂』の序文を書いた“渋川玄耳”のふるさとを訪ねて


澁川玄耳文学之碑


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白木原集落の角に建つ渋川玄耳文学碑。


小田志小学校跡から100メートルほど北へ行ったところ。

カーブした道の角に文学碑がある。







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“われかつてここにすめり”


「白木原集落の中心に建つ渋川玄耳文学碑には “吾曽住此(われかつてここにすめり)” とあります」(「『ふるさとの歴史散歩 武雄』小田志の先人」武雄歴史研究会編 平成19年発行 )






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碑の文字に入れた金が新しく感じる。碑の周囲にいつもどなたかの目と手が行き届いているように思う。

玄耳がここの方たちに大切にされている様子が伝わってくる。


澁川玄耳文学之碑

   吾曽住此


     略歴

   1 明治五年六月西川登村小田志ニテ出生

   1 日清戦争ヘ陸軍司法官トシテ出征

   1 日露戦争ヘ陸軍司法官部長トシテ出征

   1 明治四十二年朝日新聞社入社

   1 大正元年朝日新聞退社

   1 大正三年日独戦争ヘ新聞記者トシテ出征

   1 大正十五年四月東京都本郷区駒込林田町ニテ死去


      年道金語

      三書

     名○学○

     書○文一○

     著


  • 碑文を拡大して読んだが、終わりのほうは判読できなかった。○は、全く読めない文字、漢字で表した文字も確かではない。






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文学碑の後ろ姿。

碑陰の文字は確認できなかった。



  • 文学碑の場所は、武雄・嬉野CCと長崎自動車道を挟んで反対側になる。白木原集会所から100mほどの場所。


(つづく)

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2014-11-15

[] “渋川玄耳”のふるさと佐賀県を訪ねて <その4>

啄木文学散歩・もくじ


『一握の砂』の序文を書いた“渋川玄耳”のふるさとを訪ねて


渋川玄耳が入学した小学校を訪ねて、佐賀県武雄市西川登町小田志(ニシカワノボリチョウ コタジ)に行く。墓所から南方向(直線10数kmほど)のところ。


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八坂神社への階段。右には窯の煙突が見える。玄耳の祖先も窯焼きだった。

静かな小田志集落の道を折れ、階段を上る。


武雄のやきものは、文録・慶長の役の時、武雄領主に同行した陶工たちによって焼き始められた。現在市内には80数ヶ所の窯元がある。(武雄市観光協会HP)







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八坂神社。

始めの階段を上ると鳥居があり、次の階段の上に八坂神社が見える。








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鳥居から北東にある「小田志小学校跡」と思われる広場。

右手前の太い影は、八坂神社の鳥居。


近くの方にお聞きしたら、「確かに、昔ここに小学校があった」とのこと。「小田志小学校」は、合併、移転などをして現在は「西川登小学校」となっている。




<『評伝 渋川玄耳』> 著者 古賀行雄 文芸社

  • 渋川玄耳は、明治8年、7歳で西川登小学校(注)に入学した。「時の文部少輔九鬼隆一が同校を視察、玄耳の英才ぶりに驚き特別表彰を行った。玄耳が、その栄誉に歓喜してますます向学心に燃えたことは言うまでもない。」

(注:西川登小学校 開校当時は小田志小学校)

  • 「玄耳が入所した当時、朝日歌壇は歌風があまりに陳腐なために、玄耳はそれを廃止していた。彼はその歌壇を復活して選者に全く無名の啄木をあてたのである。そして一切合切を啄木にまかせた。啄木は水を得た魚のように、文芸欄に歌論を載せ評論を書いた。そして、後世に不朽の名を残す『一握の砂』を出版することになる。玄耳は薮野椋十の名で序文を書いた。」
  • 「わずか三年の間に啄木は世に出たのである。そのきっかけを作ったのは渋川社会部長その人だったと言わざるを得ない」


(つづく)

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2014-11-14

[] 〜啄木の面影とともに〜 冬の北海道フルムーン

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[ユウゲショウ]


トレたび

冬の北海道フルムーン

 〜石川啄木の面影とともに、3200kmの冬紀行〜

  • 明治時代後期、鉄道の敷設に合わせるかのように北海道を漂泊した歌人、石川啄木。彼は冬にかけて、函館から札幌、小樽、釧路へと列車で転々と旅をした。冬の鉄旅の先駆けともいえる啄木、その詩歌や面影を旅の友に北へ向かおう。
  • 東北新幹線「はやぶさ」は石川啄木ゆかりの盛岡にも停車する。函館、大森浜にある啄木像。彼の代表作『一握の砂』で冒頭の歌は大森浜が舞台だという。
  • 北のウォール街と呼ばれる小樽。ちなみに啄木が小樽に来たのは明治40年のことだった。
  • 小樽から新天地、釧路へと旅立った啄木が「山なほ遠き雪の野の汽車」と歌うように、特急「オホーツク」は石狩平野をひた走る。
  • 釧路で新聞記者として働いた石川啄木。啄木の歌碑が27もある釧路。彼がよく行ったという料亭跡も文学散歩のコースに。

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2014-11-13

[] “渋川玄耳”のふるさと佐賀県を訪ねて <その3>

啄木文学散歩・もくじ


『一握の砂』の序文を書いた“渋川玄耳”のふるさとを訪ねて


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墓所近くの風景。


<漱石の朝日時代とその周辺> 濱川博(大妻女子大学紀要)

  • (渋川が)法務官から新聞記者への転身話がまとまったのは、明治三十九年の末ごろで、渋川は三十六歳であった。
  • 玄耳が朝日を退社したのは、大正元年十一月、四十一歳だったから、在社はわずか五年余にすぎない。
  • 玄耳が大正二年至誠堂から出版した『一萬金』という本の序文である。「予が新聞記者に為ったのは愚であった。羅(や)めたのは更に愚であった。本書は辞職当日より一家離散に至る十数日間の日記である。此の様な日記をつけるのも愚だし、之を出版するのは愈(いよいよ)愚である。其の内容に至っては、愚中の至愚である。……」
  • 『山東に在り』は、玄耳が中国の青島にいたころの自選歌集。与謝野寛はこの歌集をたたえ、「かの奇才玄耳ひとりを容れかねて旅にあらしむ小さき日の本」と詠んだことが、後藤是山という人の『玄耳句集』の「序にかへて」に記されている。






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玄耳の遺言にある「黒髪山」。


左側の雲が湧き出ているように見える山が、黒髪山(516m)。

中央の二つの岩は夫婦岩(左が雌岩・右が雄岩)。

右に青螺山(618m)


(玄耳)本人は「山内町筒江で生まれ、小田志で成長した」と書き残しており、筒江に思い入れが深かったとみられる。墓は遺言で黒髪山を仰ぐ筒江に東京から移された。(2014年5月28日 佐賀新聞)


法名は「清厳院松韻玄耳居士」と刻まれている。(『ふるさとの歴史散歩 武雄』武雄歴史研究会編 平成19年発行)


   かの奇才玄耳ひとりを容れかねて旅にあらしむ小さき日の本

                      与謝野鉄幹



(つづく)

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2014-11-12

[] “渋川玄耳”のふるさと佐賀県を訪ねて <その2>

啄木文学散歩・もくじ


『一握の砂』の序文を書いた“渋川玄耳”のふるさとを訪ねて


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坂道を上ったところは静かな林になっている。

墓所はこの先。






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「渋川玄耳夫婦の墓」の表示板。



<『評伝 渋川玄耳』 著者 古賀行雄> 文芸社

  • 大正11年、病に倒れ、房総半島の鴨川に移転する。多分、肺結核だったらしい。大正15年東京市本郷の病院で一生を終えた。
  • 遺骨は黒髪山の見える丘の麓に、父柳左衛門とともに葬られることになった。父の墓が筒江にあったのは、父が陶工として筒江窯に働いていた関係からだろう。
  • イヨ夫人は83歳で昭和32年に逝去、これもその墓は玄耳の横に建てられた。






武雄市図書館

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渋川玄耳の資料を探して武雄市図書館へ行く。

図書館は、JR佐世保線「武雄温泉」駅より徒歩15分。






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図書館は、昨年4月から「カルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)」が、指定管理者として運営している。

蔵書数を倍増し、年中無休、開館時間 9時〜21時。しかも、コーヒーチェーン「スターバックス」と書店を入れ、購入した飲物を飲みながら本が読める。昨年度の来館者数は約92万人に達したという。(2014年10月15日 読売新聞)







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ガラス越しに見える内部。


歴史資料館は図書館の一部にあり武雄の歴史や、医学・科学・航海術・軍学などの蘭書を多数所蔵している。

その中に「ふるさとの先人たち」として、渋川玄耳の紹介があった。


コーヒーをのみながらゆっくりと本を探し、坐り心地の良い席で読んだ。

「ふるさとの先人たち」


(つづく)

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2014-11-07

[][] “渋川玄耳”のふるさと佐賀県を訪ねて <その1>

啄木文学散歩・もくじ


『一握の砂』の序文を書いた“渋川玄耳”のふるさとを訪ねて


  • 渋川玄耳といえば、朝日歌壇の選者に当時無名24歳の石川啄木を起用した人。
  • 啄木の歌集『一握の砂』は玄耳の勧めにより始まり、刊行のときには玄耳が序文を書いた。



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玄耳の祖先は、佐賀県武雄市山内町宮野の窯焼きだった。

この写真の場所は、黒髪神社を左に見て県道26号を伊万里方面に進む。約1.5km行ったところの左に「黒髪の森温泉」という大きな看板がある。そこを左へ曲がるとすぐに二股に分かれる。右の道をとり、200メートルほど行った所。

右側にある緑色の畑のふち(白線のすぐ右)に黒い棒と白い棒が立っている。それが、渋川玄耳の墓碑案内看板と説明板である。






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墓碑案内板と説明板。


渋川 玄耳(しぶかわ げんじ 本名柳次郎 ペンネーム 薮野椋十《やぶのむくじゅう》)

  • 1872年(明治5)〜1926年(大正15)。
  • 佐賀県武雄市西川登町小田志出身。
  • 日露戦争で満州に出征し、東京朝日新聞に『従軍三年』というルポを寄稿する。
  • 1907年(明治40年)東京朝日新聞へ入社。






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説明板。

  • 明治期に活躍したジャーナリスト、随筆家、黒髪山を愛した文人記者
  • 東京朝日新聞社の社会部長で、当時無名だった石川啄木を登用して朝日歌壇を復活させた。
  • 啄木の歌集「一握の砂」の序文を書いた。
  • 生前からの強い希望で、幼少期を過ごした山内町宮野の黒髪山の見える丘に眠っている。


  • 筒江の馬場家に玄耳自筆の書画がある

  秋の日は女(め)いはのかげにうすれつつたそがれ寒き黒髪のやま

  風たえし一夜はあけて朝戸出(あさとで)の黒髪山に雪ぞ積(つも)れる

                      黒髪山乳待坊会






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道脇に立つ1枚目の案内板。







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二枚目の案内板から右に折れる。少し登ったところに小さく三枚目の案内板が見える。







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三枚目の案内板。


佐賀新聞(2014年05月28日)の記事によれば、「地元のボランティア団体「黒髪山乳待坊会」の会員8人が、歴史探訪者のために説明板1枚と墓地までの案内板4枚を設置した」とのこと。






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一枚目と三枚目の位置関係はこのようになっている。

中央手前が一枚目の案内板。左すみに三枚目の案内板が写っている。

そこから、写真中央の緑の坂道を登っていく。登りきったところが渋川家の墓所。


(つづく)

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2014-11-06

[][] 「新聞記者としての石川啄木」啄木セミナー 11/15

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[ハクモクレンの紅葉]


さっぽろ啄木を愛する会・主催

 啄木セミナー「新聞記者としての石川啄木」

  • 2014年11月15日 午後4時〜
  • 講師 黒川伸一氏(道新論説委員)
  • 会場 KKRホテル札幌(札幌市中央区北4西5)
  • 申し込み さっぽろ啄木を愛する会・齊藤さん

      050・5846・7004

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2014-11-05

[] 啄木や賢治が愛した町 盛岡 <BS11> 11/12

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[ハクモクレン]


日本ほのぼの散歩

 ”色づく街で美食三昧!盛岡グルメ散歩”

 BSデジタル 11ch(211ch)

  • 11月12日(水) 20時00分〜20時54分
    • 石川啄木や宮沢賢治が愛した町としても知られる盛岡市。 岩手山を眼下に望み、雄大な北上川・中津川が市中を流れ、11月頃には盛岡城跡公園を中心に紅葉で町が色づきます。
    • 今回は“食欲の秋”ということで、女優・藤吉久美子さんが絶品の盛岡グルメを堪能する美食散歩!
    • 「神子田朝市」。 郷土料理「ひっつみ」。 盛岡名物「わんこそば」。

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2014-11-04

[] 盛岡で青春を送った啄木と賢治「ふらり旅 いい酒いい肴 BS11」11/11

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[ツルウメモドキ]


ふらり旅 いい酒いい肴

 「盛岡 宮沢賢治の世界と郷愁の居酒屋」

  BSデジタル 11ch(211ch)

  • 2014年11月11日(火)22時00分〜23時00分
  • 出演者 太田和彦
    • 「盛岡」の名は“幾春も華の恵みの露やこれ 宝の珠の盛る岡山”の連歌に由来するといわれる。
    • かつて「盛岡城跡公園」は「不来方(こずかた)城」と呼ばれていた。 城跡の積み上げられた石垣は美しく、東北三名城の品格を今に伝えている。 「もりおか青春館」にはこの地で学生生活を送った、石川啄木と宮沢賢治の青春時代や当時の作品が紹介されている。
    • 盛岡の夕暮れとともに居酒屋「愛染横丁(あいぜんよこちょう)」へ。 蔵を改装した居酒屋、 八幡町の居酒屋へ。くつろぎのひとときを想う。

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2014-11-01

[] 「はるかに北にふるさとの山見え来れば…」啄木

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[クロガネモチ]


内館牧子の仙台だより

「ふるさと」の広瀬川(134)

  • 私は東京から東北新幹線に乗ると、白石蔵王を通り過ぎたあたりから、ソワソワし始める。
  • そろそろ広瀬川が近いからだ。誰に命じられたわけでもないが、広瀬川は絶対に見ないとならない。広瀬川を見ると「ああ、仙台だァ」と思う。そのために、私は白石蔵王からドキドキして心の準備をしているわけだ。
  • 6年前、私は岩手の盛岡で倒れ、九死に一生を得た。盛岡は父の故郷であり、私の体にも岩手の血が流れている。病室から見えた岩手山が力を与えてくれたこともあって、岩手山が近くなるとやはり身が引きしまる。拝みたくなる。
  • そして先日、盛岡に行く車中で石川啄木の資料を読んでいた。するとその中に、「はるかに北にふるさとの山見え来れば/襟を正すも」という歌があった。啄木は岩手の出身であり、山はたぶん岩手山だろう。ああ、ふるさとの山や川というものを見ると、誰でもこういう気持ちになるのだなァ……と胸にしみた。この歌を作ったのは明治43年だが、啄木は明治40年に岩手を出て以来、岩手に帰ることなく死んでいる。この歌はつまり、帰れないふるさとを思い、詠んだのだろう。

(2014-10-31 読売新聞)

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