啄木の息 <ブログ版>

─ いまもなお瑞々しく語りかけてくる啄木の魅力を追い その息づかいに触れてみたい ─

     「本家 啄木の息」のリンクは、このページの最下段にあります。

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2015-07-31

[][] 「青森の海を臨む 石川啄木歌碑」 <その8>

啄木文学散歩・もくじ

青森県上北郡野辺地(のへじ)町 愛宕公園-1

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愛宕公園入口


野辺地町愛宕公園は、1884年(明治17)に町を一望できる高台に造られた。

一禎が野辺地を訪れたのは、1879年(明治12)だから、まだこの公園は造られていなかった。






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石川啄木歌碑などの説明板。

歌碑は、1912年(明治45)4月13日に生涯を閉じた啄木の50回忌にあたる1962年(昭和37)5月4日に建てられた。


ほかに松尾芭蕉の句碑などもある。







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広い野原がどこまでも続く公園。

啄木歌碑は、この写真の左側の樹の繁った中腹あたりにある(写真より外側)。


園内には約700本の桜があり、4月下旬からの花の季節にはたくさんの鯉のぼりも飾られて賑わうとのこと。








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愛宕公園案内図

赤線で囲んであるのが石川啄木歌碑。


<野辺地の名の由来>

野辺地という地名は、ヌップベツ(野をながれる川、ベツは大きい川を意味する)アイヌ語だという説と海岸に沿って延びた広い野原を意味する延地(のべち)からきているという説があります。この地名が記録に初めてみえるのは建武2年(1335)のことです。(「野辺地町立歴史民俗資料館」のページ)




(つづく)

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2015-07-30

[] 漱石「こころ」の "K" の「モデルは石川啄木である」

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[バナナ? (カツラの実)]


梅光・佐藤教授が「文学の力とは何か」を出版 山口

  • 夏目漱石の研究で知られる梅光学院大学大学院客員教授の佐藤泰正さんが、市民向けの公開講座や講演録などをまとめた「文学の力とは何か」を出版した。漱石宮沢賢治らの作家・作品論が、初心者にも分かりやすく紹介されている。
  • 漱石の代表作の一つ「こころ」についての作品論では、登場人物の「K」について「モデルは石川啄木である」という説や、先生のKへの「裏切り」の背景にあるものとは何かなど多くの謎について考察し、人間の罪の深さを問う作品であるとしている。(白石昌幸)

(2015-07-22 朝日新聞)

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2015-07-28

[][] 「青森の海を臨む 石川啄木歌碑」 <その7>

啄木文学散歩・もくじ

青森県上北郡野辺地(のへじ)町 常光寺-3

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常光寺本堂

左側の樹は季節になると華やかに咲く枝垂れ桜。


一禎と野辺地とその最期

1879年(明治12)、一禎は行脚僧として野辺地常光寺に逗留。

1906年(明治39)、一家の苦境をしり目に家出し、野辺地常光寺の葛原対月のもとに身を寄せる。

1907年(明治40)、宗費滞納弁済の見通しがつかず、野辺地常光寺の葛原対月を頼り家出。

一禎は家出のたびに家族のもとへは戻ったのだが、1910年(明治43)に師葛原対月が亡くなり、1912年(明治45)3月、妻カツ、同4月、息子啄木が亡くなった。

残された息子の嫁節子と孫京子を置いて、一禎はまた家出をする。今度は、二女トラの夫で鉄道官吏山本千三郎のところだ。その転勤に従って各地を廻り、1927年(昭和2)2月20日、奇しくも啄木誕生日と同じ日に高知でその生涯を閉じた。







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JR高知駅前「啄木の父 石川一禎終焉の地の歌碑」

一禎が晩年を過ごした高知市の高知駅前に、2009年9月に啄木父子の歌碑が建てられた。



  • 吉田孤羊は山本千三郎を訪ね、一禎の思い出話を聞いた。一禎の臨終は「まるで文字通り眠ったままだった」と『啄木を繞る人々』に書いている。
  • 『わが旅路』(岩崎巌松著)の中には、「一禎は、娘夫婦と同居した17年間は幸せそのものだったという。お通夜や葬儀に参列した当時の職員が健在で、その状況を伺ったことがある」とあった。

「眠るがごとき旅立ち」高知県高知市>啄木文学散歩>啄木の息







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本堂の額


野辺地町カルタにいる啄木


野辺地町立図書館のページで、啄木の名が入るカルタを見つけた。


  • 野辺地いろはカルタ

「啄木も旅装を解いた常光寺」


  • のへじふるさとカルタ

「啄木と縁(ゆかり)の深い常光寺」

「見晴らしの良い愛宕山に立つ芭蕉・啄木・絶壁の碑」



  • 野辺地町 常光寺
    • 住所 青森県上北郡野辺地町野辺地字寺ノ沢86


(つづく)

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2015-07-25

[][] 「青森の海を臨む 石川啄木歌碑」 <その6>

啄木文学散歩・もくじ

青森県上北郡野辺地(のへじ)町 常光寺-2

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常光寺境内にある「銘馬御座碑」


六地蔵の祀られているお堂の隣に、背の高い形の変わった碑があった。それが「銘馬御座碑」である。

「高さ七尺五寸、横四尺五寸、大字八行の銘があり字形奇偉筆力確健である。(『啄木の父 一禎と野辺地町』高松鉄嗣郎著)」と紹介されている。

「常光精舎記」

「常光精舎記」について、川崎むつをは『石川啄木青森県の歌人』の中で、次のように記している。

  • 修行熱心な一禎は、明治十二年、諸国行脚の途中、青森県野辺地町の兄弟寺常光寺に鞋を脱いだ。そのとき、住職の中原哲州は、名僧葛原対月の愛弟子で、学僧として知られている一禎に次のことを頼んだ。
  • 明治九年、天皇巡幸のときに、名馬「花鳥」が野辺地町で斃れ、常光寺に埋葬された。二年後に、宮内省から馬の冥福をいのる石碑が送られ、馬の墓のわきに立てられた。その碑を、後日忘れないように文章を書いて貰いたい。

石川家に残っている「常光精舎記」という断簡がそれであろうと私は思っている。

(『啄木の父 一禎と野辺地町』高松鉄嗣郎著)







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「銘馬御座碑」


常光精舎記

常光寺在陸奥国上北郡野辺地駅西距青森十一里、七戸之北五里(略)

(常光寺は陸奥の国上北郡野辺地駅に在り、西は青森を距ること十一里、七戸の北五里(略))


庭中則有泉有老樹有墳墓而座御馬碑有焉住僧中原哲州師憂其之碑之由来湮没於後世請余記(略)

(庭中に泉有り、老樹有り、墳墓あり、御馬をうめた碑がある。住職中原哲州師はその碑の由来が後世湮没するを憂い余に記することを請う。(略))

(『啄木の父 一禎と野辺地町』高松鉄嗣郎著)







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境内の地蔵様


第五日本海丸遭難者供養のため建立

常光寺境内に地蔵様の立像がある。明治42年(1909)、青森県平内町で第五日本海丸が火災を起こして沈没し漁夫228名が溺死し、その供養のために建立されたもの。

この第五日本海丸遭難者合同慰霊祭は、葛原対月と弟子である一禎らが野辺地常光寺で執行した葬儀となる。

一禎にとって、野辺地での生活は一禎様と呼ばれ平穏な日々であったが、遭難者引き揚げに立ち会った一禎の胸には、世の無常が痛く刻みこまれ、寂しく対月和尚と共に野辺地を後にした。

(『啄木の父 一禎と野辺地町』 高松鉄嗣郎著)



   かなしきは我が父!

    今日も新聞を読みあきて、

    庭に小蟻と遊べり。

             (『悲しき玩具』石川啄木

息子啄木が父を見ると、何もすることがなく蟻と遊んでいる。やるせない息子の心。このあとすぐに一禎は家出をする。


   その親にも、

    親の親にも似るなかれ──

   かく汝が父は思へるぞ、子よ。

             (『悲しき玩具』石川啄木

父啄木は娘京子に「親に似るな」と言う。“親に似るな” だけでなく「親の親にも似るなかれ──」と詠う。父に似る自分を知っていたのだろうか。

啄木が一禎ほど生きれば、父をおもう子のこころはきっと違っていたのに。



一禎の生涯のなかで忘れられない輝かしい時代は、野辺地にもあったと感ずる。



(つづく)

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2015-07-24

[][] 「青森の海を臨む 石川啄木歌碑」 <その5>

啄木文学散歩・もくじ

青森県上北郡野辺地(のへじ)町 常光寺-1

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常光寺


常光寺は、啄木の父・一禎ゆかりの寺である。

野辺地駅より北東1.5kmほどのところにあり、後に紹介する愛宕公園に近い。

ここ野辺地に「父一禎は約三年間逗留し、啄木は三度、延べにして三十時間余滞在」(『啄木の父 一禎と野辺地町』高松鉄嗣郎著 青森県文芸協会発行)した。


  • 野辺地常光寺は報恩寺(岩手県盛岡市)の末寺で1632年(寛永9)に開かれたのが始まりと伝えられている。
  • 石川啄木は岩手県盛岡市にある常光寺が生誕の地で、野辺地の常光寺には伯父である葛原対月和尚が住職だった事もあり三度野辺地を訪れている。
  • 伯父葛原対月(かつらはら たいげつ)は、1826年(文政9)生まれ。啄木の母カツの兄。盛岡市に生まれる。武術を学び、和漢の書を修め、和歌や書道を能くし、多才の人。1854年、仏門に帰依。1895年(明治28)青森県野辺地常光寺住職となる。1910年、盛岡市に移り、85歳でこの世を去った。(「石川啄木事典」おうふう)






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本堂へ向かう道


父一禎の生い立ち



一禎の出生の不条理

  • 一禎は「罪の子」(一禎の母ゑつが「夫以外の男性との不倫によって身籠った子)と考えられる。

一禎は一般的両親、或いは肉親からの温かい愛情とは無縁である。

一禎は産まれてくる必要がなかった。そのため生後四年間は養子に出され、戻され、お寺へ預けられ、の転変である。一禎の養育に主にあたったのは寺の関係者である。

一禎は幼児期に三度も家から放り投げられている。四度目に放り投げられないためにはお寺の方針に従順に従うしかない。人格形成に当たって反抗期とか自我の確立などとは縁がなかったであろうことが考えられる。自分の考えを持てない、ただ環境に流されて行くだけの人間になって行くしかなかった。

石川啄木  若者へのメッセージ』西脇 巽著 桜出版


  • 一禎は9歳で得度する。1866年、葛原対月が大泉院十七世住職として赴任したとき、その寺にいた一禎と出会う。1871年(明治4)、対月が盛岡龍谷寺住職となり、一禎は対月を慕い龍谷寺の役僧となる。一禎はここで対月の妹工藤カツ(啄木の母)と結婚する。



(つづく)

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2015-07-23

[] 「短歌甲子園2015」盛岡二高 9回目の出場

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[モモ]


盛岡二高 10代の心三十一文字に 2年連続2つの短歌甲子園

  • 盛岡二高の文学研究部は、8月に全国で開かれる二つの「短歌甲子園」に2年連続で出場する。8月18日から宮崎県日向市で開かれる「第5回牧水・短歌甲子園」と翌19日から盛岡市で開かれる「短歌甲子園2015(第10回全国高校生短歌大会)」の二つ。
  • 同大会の特徴は、事前に題が発表されず、啄木ゆかりの地の題詠ツアーで時間内に歌を作ること。推敲(すいこう)の時間が限られ、日頃から言葉に関心を持ち着眼点を増やすこと、深めることも肝要となる。
  • 前回補欠として参加した番澤部長は、啄木の「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」を初めて小学校時代に読んだときは解釈ができなかったという。「15歳を経た今なら、啄木さんの歌の意味が少し分かる気がする。短歌は面白い」と、啄木の郷里から出場できる喜びをかみしめる。

(2015-07-23 盛岡タイムス)

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2015-07-22

[][] 死に急ぐな!若者よ!啄木を読もう!

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石川啄木  若者へのメッセージ』

西脇 巽著 桜出版

戦争や貧困の時代を、個人の不条理な宿命を、人間関係の苦闘を生ききった石川啄木。そんな啄木のトリビアがつまったメッセージを紹介。たいへんな時代を生きる若者たちへ、ベテラン精神科医が処方する「読むクスリ」。

著者:精神科医。生協さくら病院名誉院長。国際啄木学会理事。文芸同人『青森文学会』会長。著書に「石川啄木の友人」など。

第1章 啄木と災害

第2章 啄木の国語力

第3章 死に急ぐな!若者よ!啄木を読もう!

第4章 啄木悲哀の源泉

第5章 啄木の悪評

第6章 啄木は時代をどう生きたか

第7章 啄木を巡る女性たち

第8章 啄木の結婚生活


「第8章 啄木の結婚生活」より

啄木の才能を深く信じ切っていたとすれば、節子の人生は幸せな人生であったかも知れない。啄木の妻が務まるのは節子以外にはおるまい。啄木と節子は最適最高のカップルであった。


「本書・解説(池田 功 国際啄木学会会長・明治大学教授)」より

啄木には希死念虜があったことが、短歌や日記などを通して詳細に指摘されている。しかし、啄木は自殺することなく最後まで生ききった。どうしてそのような絶望を乗り越えることができたのか。そのヒントは、啄木の代表作の歌集『一握の砂』に隠されていることを筆者は解き明かしてくれている。精神科医であり、啄木研究者の西脇先生が書いた本書こそ、「読むクスリ」箱でもある。さあ、手にとって読んでみよう。


石川啄木  若者へのメッセージ』

西脇 巽著 桜出版

税込価格 2,160円(本体 2,000円)


桜出版 電話. 019-613-2349 FAX. 019-613-2369

桜出版の本は、全国の書店やヤフー、セブン&ワイなどのネット書店から注文できます。

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2015-07-20

[] 南部陽一郎さん訃報「研究がうまくいかない日、啄木の「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ……」

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[ヒペリカム]


天声人語 >朝日新聞

  • 日本の戦後は焼け跡から始まり、戦後の物理学もそこから始まった。ノーベル賞に名を刻む物理学者、南部陽一郎さんの論集『素粒子論の発展』に当方の頭でも分かるくだりがある。戦後すぐに陸軍から戻って東大の助手に就くと、3年間研究室に寝泊まりしたそうだ。洋服がないのでいつも軍服。寝るときは机にござを敷いた。
  • 紙と鉛筆と、あとは頭脳だけ。理論物理学は俊才の集まる分野だが、南部さんは飛び抜けていた。ノーベル賞をもたらした理論は、半世紀余り前の発表時はなかなか理解されなかったという。先進的すぎたためだ。
  • 米国の名門研究所に在籍中、激しい競争の中で研究が一向にうまくいかない日々が続いた。啄木の「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ……」の心境になったと冒頭の論集につづっている。
  • 南部さんの94歳での訃報(ふほう)がきのうの新聞に載った。穏やかな人柄を誰もが惜しんだ。

(2015-07-19 朝日新聞)

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[][] 啄木の盛岡中学時代の恋愛、文学 -盛岡てがみ館特別展- 〜9/1

多感な青春像に迫る てがみ館特別展啄木をめぐる人々

  • 盛岡市文化振興事業団主催の特別展「啄木をめぐる人々〜盛岡中学時代〜」が、同市の盛岡てがみ館で開かれている。知人・友人による手紙や原稿を通して、本県出身歌人・石川啄木の原点となった盛岡中学時代の様子を探り、若き日の啄木の様子に迫っている。9月1日まで。
  • 今回は盛岡中学時代に的を絞った。「怠け者啄木」と題した吉田の原稿には、優秀で模範的だった啄木が次第に成績を下げ、反抗的な学生へと変容した要因について、友人をきっかけにした文学への傾斜と節子との恋愛にあったと記されている。

(2015-07-20 岩手日日新聞)

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2015-07-17

[] 「石川啄木を沖縄県の中学生で知っている人がいるか楽しみ」

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[アカツメクサ]


沖縄・うるまとの友好に決意 市教育長を表敬 派遣の盛岡市内中学生

  • 盛岡市が友好都市同盟を結んでいる沖縄県うるま市に4日間派遣する盛岡市内の中学生10人は14日、千葉仁一同市教育長を表敬した。2012年から派遣し、今年で4年目。25日からうるま市の中学生徒と交流し、歴史や文化などについて直接意見を交わす。参加生徒はこれまで6回の事前研修を行い、盛岡市の歴史や文化を学んできた。今回の研修は、個人でテーマを決めて研修に臨んでいる。


  • 派遣団の団長を務める下小路中2年の佐々木圭人君は「交流派遣団として、これまでの研修の成果を生かし、盛岡市の文化と歴史を伝えていく。うるま市と友好関係を深めていく」と話す。
  • 渋民中2年の佐藤宏哉君は、盛岡市の先人石川啄木について、うるま市中学生と意見を交換する。佐藤君は「渋民は啄木に縁がある土地。沖縄県の中学生で知っている人がいるか楽しみ」と話す。

(2015-07-17 盛岡タイムス)

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2015-07-16

[][] 啄木記念館の宮崎郁雨展<天窓> ~9/6

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[ガクアジサイ]


天窓 > 盛岡タイムス

  • 盛岡市渋民の石川啄木記念館に立ち寄り、周辺を少し歩いてみた。旧玉山村の役場庁舎は岩手山を真西に、北側には渋民公園啄木歌碑がある。
  • 北上川、鶴飼橋、姫神ホール、宝徳寺、愛宕山・生命の森など啄木ゆかりの建物や施設がすぐ近くにあって環境的に一大観光地になっている。
  • 来年は「石川啄木生誕130年」を迎える。石川啄木記念館では、第3回企画展「宮崎郁雨と啄木」が開催されていた。郁雨は、啄木と啄木一家を物心両面から支えた。「啄木を世に出すために生まれてきた人」と郁雨の親友の医者であった阿部たつお氏が述べている。特別展は9月6日まで。

(2015-07--12 盛岡タイムス)

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2015-07-15

[]「 啄木ゆかりの地巡りバスツアー」

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[イタドリ]


啄木の足跡たどる 盛岡・玉山バスツアー

  • 盛岡市玉山区の石川啄木ゆかりの地を巡るバスツアーは11日行われた。県内外から32人が参加。石川啄木記念館の森義真館長が案内役を務めた。
  • 渋民駅がなかった時代、啄木が乗降していた好摩駅の待合室では、全国でも珍しい木製の碑「霧ふかき好摩の原の 停車場の 朝の蟲こそすゞろなりけれ」を見学。好摩駅前広場には「ふるさとの停車場路の 川ばたの 胡桃の下に小石拾へり」の歌碑も。森館長は「啄木は、渋民から線路づたいに歩いて来た道で小石を拾ったのでしょう」と、当時の啄木をしのび解説を添えた。
  • 一行は昼食で、啄木にちなんだメニューの「啄木定食」を味わい、啄木が生まれた常光寺、幼少期を過ごした宝徳寺などを見学した。

(2015-07--14 盛岡タイムス、2015-07-12 岩手日報

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2015-07-14

[][] 「青森の海を臨む 石川啄木歌碑」 <その4>

啄木文学散歩・もくじ

青森県 上北郡 野辺地(のへじ)町 野辺地駅

野辺地は父・一禎が野辺地の常光寺に寄寓した関係で、啄木も3回訪れた地である。


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野辺地駅


2010年(平成22)東北新幹線の全線開業に伴い、東北本線青い森鉄道に移管された。

野辺地駅」は、青い森鉄道東日本旅客鉄道JR東日本)の両社共同使用で、青い森鉄道が管轄している。







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下部に小さい「野辺地防雪原林」の看板が見える(2枚)。

その後ろに並ぶ杉の幹が、1893年(明治26)に造林された日本初の防雪林である。







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鉄道記念物となっている鉄道防雪林


日本最古の鉄道防雪林について

野辺地駅のホーム西側に2kmにわたって続く約700本の杉林。

明治24年9月、盛岡・青森間の開通によって東北本線が全通した。当時、国内鉄道の最北端にあたる当地方の冬季の列車運行は、連日の雪害によって極度の困難に直面していた。

明治26年に、日本初の林学博士である本多静六氏の進言で誕生したこの杉林は、豪雪地である町の線路を守るために植林された日本初の防雪林で、鉄道記念物になっている。(青い森鉄道のページより)







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常夜灯の模型がある野辺地駅構内


北前船で賑わった野辺地には、現存する国内最古の「常夜灯」があり、当時は夜間入港する船への目印として、毎晩火が灯されていた。



野辺地駅が開業したのは、1891年(明治24)。

啄木の父・一禎が初めて野辺地をおとずれたのは、1879年(明治12)、「諸国行脚の途中、常光寺に鞋を脱いだ」ということで、当時、野辺地駅は開業前だった。



(つづく)

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2015-07-13

[][] 「青森の海を臨む 石川啄木歌碑」 <その3>

啄木文学散歩・もくじ

青森県青森市 合浦公園(がっぽ こうえん)(つづき)


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ハマナスの花


ハマナス(浜茄子、浜梨)

夏に赤い花(まれに白花)を咲かせる。根は染料などに、花はお茶などに、果実はローズヒップとして食用になる。晩夏の季語。

ハマナス」の名は、浜(海岸の砂地)に生え、果実がナシに似た形をしていることから「ハマナシ」という名が付けられ、それが訛ったものである。(ウィキペディア参照)








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石川啄木歌碑近くから見る陸奥湾


啄木日記

「丁未日誌」

  明治四十丁未歳日誌

             石川啄木


五月五日  ── 青森 ──(陸奥丸)── 函館 ──

 

 五時前目をさましぬ。船はすでに青森をあとにして湾口に進みつつあり。風寒く雨さへ時々降り来れり。

 海峡に進み入れば、波立ち騒ぎて船客多く酔ひつ。光子もいたく青ざめて幾度となく嘔吐を催しぬ。初めて遠き旅に出でしなれば、その心、母をや慕ふらむと、予はいといとしきを覚えつ。清心丹を飲ませなどす。

 予は少しも常に変るところなかりき。舷頭に佇立して海を見る。

 偉いなるかな海! 世界開発の初めより、絶間なき万畳の波浪をあげる海原よ、抑々奈何の思ひをか天に向つて訴へむとすらむ。檣をかすむる白鴎の悲鳴は絹を裂く如し。身をめぐるは、荘厳極まりなき白浪の咆哮也、眼界を埋むるは、唯水、唯波。我が頭はおのづから低れたり。

 山は動かざれども、海は常に動けり。動かざるは眠の如く、死の如し。しかも海は動けり、常に動けり。これ不断の覚醒なり。不朽の自由なり。

 海を見よ、一切の人間よ、皆来つて此海を見よ。我は世界に家なき浪々の逸民なり。今来つて此海を見たり。海の心はこれ、宇宙の寿命を貫く永劫の大威力なり。

 噫、誰れか、海を見て、人間の小なるを切実に感ぜざるものあらむや。

 我が魂の真の恋人は、唯海のみ、と、我は心に叫びつ。


石川啄木全集 第五巻 筑摩書房 昭和61年)





(つづく)

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2015-07-10

[][] 「青森の海を臨む 石川啄木歌碑」 <その2>

啄木文学散歩・もくじ

合浦公園(がっぽ こうえん)(つづき)


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中央が石川啄木歌碑


『啄木文学碑紀行』浅沼秀政 著

妻子を盛岡の実家に、老母を渋民の知人宅に託して啄木が妹光子とともに新しい運命を開拓すべく津軽の海を越えたのは明治四十年五月四日であった。その時のことを回想して、のちに啄木はローマ字日記に「妹は小樽にいた姉のもとに厄介になることになり、予もまた北海道へ行って何かやるつもりで、一緒に函館まで連れていってやった。津軽の海は荒れた。その時予は船に酔って青くなってる妹に清心丹などを飲まして、介抱してやった」と記している。(つづく)







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(つづき)それからちょうど五十年後の昭和三十一年五月四日、津軽の海に臨む青森市の合浦公園にこの歌碑が建てられた。歌碑建立は戦前、青森の川崎むつを氏らによって発案された。しかし戦争で一時中断し、戦後、当時の青森市長横山実氏らの援助によって、進駐軍の支配から市に返還されることになった合浦公園に、その返還をも記念する意味で建てられた。碑文の揮毫は歌の中の“妹”三浦光子さんである。








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              啄木

    船に酔ひてやさしくなれる

    いもうとの眼見ゆ

    津軽の海を思へば

              光書




碑文の揮毫は啄木の妹・三浦光子さん。








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<碑陰>

石川啄木が石をもて追わる

る如く故里を出て妹光子と

共に津軽海峡を渡ったのは

明治四十年五月四日であった

この歌碑は青森県啄木会

が青森市その他の協力を得て

青森県啄木歌碑建設委

員会をつくり昭和三十一年五

月四日に建てたものである



碑文の文字、碑陰の文字ともにはっきりと読めた。啄木以外のたくさんの碑の手入れも行き届いていた。

合浦公園を支える暖かい人々の手の温もりが伝わってくる。



(つづく)

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2015-07-09

[][] 「青森の海を臨む 石川啄木歌碑」 <その1>


啄木文学散歩・もくじ


青森県青森市 合浦公園(がっぽ こうえん)


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合浦公園は、市街地の公園としては全国でも珍しい海浜公園で明治27年に造られた。平成元年「日本の都市公園100選」に選ばれた。

松と石碑の多い公園で石川啄木松尾芭蕉等の石碑や句牌・胸像が31基点在している。


この写真は、「合浦公園石碑紹介地図(3番目の写真)」のナンバー14 近くから、南側(下方)多目的広場を撮ったもの。







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合浦公園内の「青森市民憲章」と市の木花鳥虫の表示板。


市の花は「はまなすの花」

昔の青森は広く砂浜が続いていてハマナスが一面に咲き乱れていたことだろう。昭和の初めころでも東は合浦公園から野内まで、西は沖館から油川にかけてハマナスが多くの海浜植物と共に群生していた記録が残っているが今はない。(「青森県植物図譜用解説』より)








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「合浦公園石碑紹介地図」

上部の「赤丸22番」が石川啄木歌碑の場所。

歌碑の北側に陸奥湾が迫っている。







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ハマナスの花のむこうに松林、そして陸奥湾のブルーが美しい。



(つづく)

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2015-07-08

[] 石川啄木は「借金魔」だった

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[ユーフォルビア・レウコケファラ]


「小社会」 高知新聞

  • 石川啄木は「借金魔」だった。金田一京助ら友人知人に借りまくり、重ねた不義理は数知れず。新聞社から前借りした月給は妻子に送るべきところを、すぐさま酒色に使い切る。それで平気の平左かというと、そうではなかった。
  • 自分に向けてはさぞかしあざけりの声があるだろう。いつまでたっても老いた親や妻子を呼び寄せられないのが情けない。四方から矢を射られるような気持ちだ。それもこれも自らのだらしない性格を呪うしかない…。
  • 生活破綻者の烙印(らくいん)を押された啄木ではあるが、随筆「一握の砂」にはそんな反省もしたためている。今、財政破綻の危機にあるギリシャのチプラス首相はどんな心境でいるだろう。
  • 債務の返済期限は次々訪れる。一握の砂がさらさらと指の間から落ちるように、時間は刻一刻と過ぎてゆく。

(2015-07-08 高知新聞)

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2015-07-04

[] 石川啄木が通った旧制盛岡中の図書庫、盛岡に戻る

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[ニガナ]


みちのく建物探訪

 盛岡市・旧制盛岡中図書庫 解体の危機、市民救う

  • 盛岡駅から北上川沿いを車で10分ほど下ると、湧き水が流れる共同井戸や町家が並ぶ通りがある。城下町の風情を残すこの場所は、鉈屋町(なたやちょう)だ。一番端にある町家の通り土間を抜けると、小庭にたたずむ赤い屋根瓦の白い蔵が現れた。建物は、宮沢賢治石川啄木が通った旧制盛岡中の図書庫だった。岩手県宮古市に一時移転されていたが、昨春に古里、盛岡に戻った。
  • 1892(明治25)年建造の蔵は、2階建てで延べ床面積は約112平方メートルになる。啄木は旧制盛岡中に通っていた時、「学校の図書庫の裏の秋の草 黄なる花咲きし 今も名知らず」と詠んだ。
  • 旧制中学の校舎は1917年に移転したが、蔵はそのまま残った。それからは、旧日本赤十字盛岡支部の病院倉庫として使われた。その後、明治の文豪・徳冨蘆花の小説「寄生木(やどりぎ)」の世界を紹介する「寄生木記念館」として生まれ変わった。
  • 記念館の収蔵品が2010年、新設の公民館に移されることになり、蔵はボランティア団体「盛岡まち並み研究会」が引き継ぐことになった。2013年に宮古から解体して盛岡に搬送し、翌年3月に鉈屋町に再建した。 蔵の周りでは静かな時間が流れる。2度の解体の危機を乗り切り、明治の面影を今に伝える。【藤井朋子】

(2015-07-04 毎日新聞)

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2015-07-03

[][] 石川啄木を見いだした渋川玄耳の記事を連載

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[コバノガマズミ]


=音信=

渋川玄耳短歌誌「夜行列車」に連載

 「詩形文学」会員 関家さよ子さん

  • 新日本歌人協会佐賀支部の元事務局長で「短詩形文学」会員の関家さよ子さん=佐賀市=が、武雄市西川登町出身で石川啄木を見いだした明治のジャーナリスト渋川玄耳(げんじ)(1872〜1926年)に関する記事をまとめ、短歌誌「夜行列車」で4巻にわたり連載した。

(2015-07-03 佐賀新聞

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2015-07-02

[] 石川啄木は砂山で「ピストル」を見つけた

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[マツモトセンノウ]


風土計【岩手日報

  • 砂の中からは、時に物騒なものが出てくる。石川啄木は砂山を掘っていて「錆(さ)びしピストル」を見つけた。石原裕次郎は「錆びたナイフ」だ。
  • いずれもさびついているからいいものの、これがぴかぴかしたピストルとナイフだったら即、警察の出番だ。かみそりの刃は一晩でさびが浮くこともあるが、二つの歌では掘り出されるまでにかなりの時間が流れているに違いない。
  • 裕次郎の歌詞では、ナイフは男が埋めた「恋のなきがら」だった。砂山ならぬ砂川から掘り出されたものとどこか似ている。

(2015-07-02 岩手日報

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2015-07-01

[] 啄木の学んだ「江南義塾盛岡高校」で啄木祭

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[アジサイ]


高校で「啄木祭」(岩手県)

  • 118年前の6月30日は、詩人・石川啄木が当時の予備校だった盛岡市の「学術講習会」に入塾した日だ。それを記念して啄木の後輩にあたる現役の高校生たちが啄木の功績を称える「啄木祭」を開いた。この「啄木祭」は、「学術講習会」を前身とする盛岡市前九年の「江南義塾盛岡高校」で毎年行われている。
  • 「学術講習会」は、1892年に盛岡尋常中学校、現在の盛岡一高入学のための予備校として、盛岡市加賀野に創立された。
  • 啄木は、この「学術講習会」で約9か月間、勉学に励んだ。啄木の後輩にあたる江南義塾盛岡高校の全校生徒370人が出席し、歌の朗読等が行われ、啄木作詞の歌「春まだ浅く」を斉唱。生徒たちは貧しい中でも文学の道に情熱を傾けた啄木に負けない活躍を誓い合っていた。

(2015-06-30 テレビ岩手)

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・石川啄木 年譜 ………… 26年と53日の生
・ローマ字日記………… 漢字と仮名では書けないことをローマ字で
・啄木文学散歩………… 息づかいの聞こえる ゆかりある場所を訪ねて
・啄木行事レポート …… イベントに参加しての私的レポート
・啄木の 女性たち ……… 啄木の人生を彩った「忘れな草」たち
・啄木と花 ……………… 歌に登場する花や木の資料

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