〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「啄木 賢治の肖像」岩手日報(⑥ 友(下))


[クレマチス]


「啄木 賢治の肖像」

 ⑥ 友(下)
  経済援助、上京後押し
   宮崎郁雨

  • 金田一京助と並び、啄木の第一歌集「一握の砂」に献辞が記されていた人物が、郁雨。啄木の家族の生活をも支えた最大の支援者だった。
  • 啄木が渋民尋常高等小学校の代用教員を辞めて文学結社、苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)を頼って函館へと渡った1907(明治40)年、二人は出会った。苜蓿社同人の郁雨とは特に親しさを増し、金銭的な援助も受け始める。啄木は「死ぬ時は函館で死にたい」と手紙に書くほど気に入っていたものの、大火によりこの港町を離れることになった。その後、郁雨へ多くの手紙を送っている。
  • 漂泊の旅を続けた啄木は1908年、郁雨の勧めで上京する。妻子と母は函館に残し、郁雨に託した。郁雨は翌年、啄木の妻節子の妹ふき子と結婚。二人の仲は、親友から義兄弟へとさらに深まった。
  • その後二人は、郁雨が節子に宛てた手紙が原因で関係を絶つこととなるが、郁雨は函館に啄木の墓を建てるなど、その死後も一家に尽くした。
  • 函館市近代文学研究家桜井健治さんは「郁雨の援助によって、文学のひのき舞台である東京へ行くことがなかったら、啄木は地方の一詩人で終わり、後世に残らなかったかもしれない」と存在の大きさを強調する。
  • 深い友情がにじむ歌

  演習のひまにわざわざ
  汽車に乗りて
  訪ひ来し友とのめる酒かな
                 石川啄木「一握の砂」
 旭川の連隊にいた郁雨が、小樽にいた啄木を訪ねてきたときの喜びを表現している。

(筆者 啄木編・阿部友衣子=学芸部)
(2016-02-10 岩手日報
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