〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

「啄木 賢治の肖像」岩手日報(⑩ 女性(上))


[サンシュユ]


「啄木 賢治の肖像」

 ⑩ 女性(上)
  文学観変えた妻節子

  • 「吾れはあく迄愛の永遠性なると言ふ事を信じ度候」。これは、啄木が結婚式に来ないことから節子に同情し、別れを勧める啄木の友人に宛て、妻節子が書いた手紙の一文だ。2人は深い絆で結ばれ、婚約にこぎ着けるが、1905(明治38)年5月、盛岡で行われた結婚式に、新郎啄木は現れなかった。
  • 結婚式欠席は、前年に啄木の父一禎が宝徳寺の住職を罷免されていたことが関係する、と国際啄木学会理事の山下多恵子さんは指摘する。「啄木は、結婚式がこれからの厳しい人生の象徴のように思われ、向き合うことが怖かったのだろう。一方、啄木が天才だということを信じて節子は、たじろがなかったのではないか」と想像する。
  • 啄木は北海道を漂泊した後、文学で身を立てようと函館に家族を残して単身東京へと行った。翌1909年、節子らは上京する。この頃、節子が妹へと送った手紙には「東京はまつたくいやだ(中略)お前は幸福な女だ!私は不幸な女だ!」と書かれており、苦悩がにじむ。そして啄木の母カツとの不仲や病苦などから、ついに節子は長女京子を連れて家出する。
  • 啄木が「我ならぬ我」、つまり「もう一人の自分」と呼んだ節子の家出は、啄木の文学観も大きく変える。節子が戻った後には、地に足を付けてしっかりと生活をした上で文学に取り組む姿勢を打ち出した。苦労を掛け続けた節子に対し、啄木は死ぬ間際「お前には気の毒だった」と言ったという。
  • 山下さんは「啄木の人生と文学にとって、節子はなくてはならない人だった」と強調する。

(筆者 啄木編・阿部友衣子=学芸部)
(2016-03-09 岩手日報

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