[アケビ]
「啄木 賢治の肖像」
⑱ 音楽
ワーグナーに「共感」
- 啄木の日記や評論には、グノー、ハイドン、ロッシーニ、ヴェルディといった西洋の作曲家が登場する。中でも最も興味を示していたのがワーグナー。天才と呼ばれながらも長く世に受け入れられなかった彼の人生に、自身の境遇を投影していたのだろうか。17歳でワーグナーについて書かれた英書や、ワーグナーを日本に紹介した姉崎嘲風の書簡批評を参考に、評論「ワグネルの思想」を岩手日報に連載した。
- また、初めて蓄音機でワーグナーの音楽を聴いたのは2年後の1905(明治38)年、仙台の土井晩翠を訪ねた時のことだった。「生命なき一ケの機械にすぎざれど、さすがにかの欧米の天に雷の如く響きわたりたる此等楽聖が深潭の胸をしぼりし天籟の遺韻をつたへて、耳まづしき我らにはこの一小機械子の声さへ、猶あたゝかき天苑の余光の如くにおぼえぬ」。随筆「閑天地」で、その時の感動を記している。
- 啄木は、自身も楽器を演奏したり作詞した。1907(明治40)年の渋民尋常高等小学校代用教員時代、卒業生送別会の日の日記には自身がバイオリン、同僚の堀田秀子がオルガンを弾き、作詞した「別れ」の歌を高等科の女子生徒5人に合唱させたことが書かれている。
- 啄木に引かれる音楽家も多い。東京フィルハーモニー交響楽団名誉指揮者で東京芸術大学名誉教授の大町陽一郎さんは、啄木の詩歌に子どものころから親しんだ。「私が一番好きな作曲家のシューベルトも啄木も自然をめで、それを歌っている。ロマンチックで孤独。二人の感性は共通している」と指摘する。
☆戦後歌謡曲にも影響 作品に見る啄木
春まだ浅く月若き
生命(いのち)の森の夜の香に
あくがれ出でて我が魂(たま)の
夢むともなく夢むれば……
- 啄木が1906(明治39)年、渋民尋常小学校の代用教員時代に書いた小説「雲は天才である」の中で作詞した歌。この歌は「春まだ浅く」という題で渋民小の校歌として歌い継がれている。
- また、戦後の現代歌謡曲には啄木との類似性が指摘されている作品も多い。国際啄木学会会長の池田功さんは、著書「石川啄木入門」で、石原裕次郎「錆びたナイフ」、橋幸夫「孤独のブルース」、谷村新司の「昴」といった曲が、啄木の影響を受けていると指摘している。
(筆者 啄木編・阿部友衣子=学芸部)
(2016-05-04 岩手日報)
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