啄木の息 <ブログ版>

─ いまもなお瑞々しく語りかけてくる啄木の魅力を追い その息づかいに触れてみたい ─

     「本家 啄木の息」のリンクは、このページの最下段にあります。

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2016-12-30

[][] 2016年暮れ「石川啄木終焉の地歌碑・顕彰室」 <4>-おわり-

啄木文学散歩・もくじ


 4 「石川啄木 終焉の地」2016年暮れの様子


D

<動画 90秒>

歌碑と顕彰室のある「石川啄木 終焉の地」

  (近隣の工事の音が入っています)

 *グループホーム「いつつ星」1階の一部が「石川啄木顕彰室」

 *その隣りにある「石川啄木終焉の地歌碑」

 *そのまた隣りの「終焉の地」にある白いビルと東京都の説明板








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啄木終焉の地に建つビル入口と「石川啄木終焉の地」の説明板



  • 石川啄木に家を貸していた宇津木家の方々は、その場所に住んでおり「啄木を近い人だと感じることがある」と話している。
  • 第2次世界大戦で啄木が住んでいた家は、空襲で焼失した。旧居跡は1952年に都旧跡に指定され、1969年には記念の石碑が建てられた。

(2010-04-13 岩手日報







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2008年(平成20)12月に設置された説明板



  東京都指定旧跡

   石川啄木終焉の地

    所在地 文京区小石川5丁目11番7号

    指定  昭和27年11月3日


石川啄木は明治19年(1886)2月20日(または18年10月27日)、岩手県南岩手郡日戸村(現 盛岡市玉山区日戸)の常光寺で生まれた。本名を一(はじめ)という。

盛岡中学校入学後、『明星』を愛読し、文学を志した。生活のため、故郷で小学校代用教員となり、のち北海道に渡り地方新聞社の記者となったが、作家を志望して上京、朝日新聞社に勤務しながら創作活動を行った。歌集『一握の砂』・『悲しき玩具』、詩集『あこがれ』・『呼子と口笛』、評論『時代閉塞の現状』などを著した。

啄木は、明治44年(1911)8月7日、本郷弓町の喜之床(きのとこ)(現 文京区本郷2丁目38)の二階からこの地の借家(当時の小石川区久堅町74番46号)に移り、翌年病没するまで居住した。

この地に移った啄木は、既に病魔に侵されていた。明治45年4月13日午前9時30分、父一禎(いってい)、妻節子、友人の若山牧水に看取られながら、結核により26歳の若さで亡くなった。法名は啄木居士。

   平成20年12月  設置

            東京都教育委員会







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マップ「文京区に残る啄木の足跡」


文の京 お散歩ブック「石川啄木〜愛に支えられた生涯〜」 地図ページ

 

  • 喜之床跡 本郷区弓町の理髪店2階。啄木と妻子と母と約2年間暮らす。
  • 石川啄木終焉の地 発熱と生活の不安に苛まれ、体調悪化。この地で死去。

ほかに、蓋平館別荘跡・赤心館跡・初上京下宿跡 など






石川啄木終焉の地 歌碑・顕彰室

  • 顕彰室開室時間 午前9時 〜午後5時(年末年始、特別閉室時を除く)
  • 無料
  • 所在地 東京都文京区小石川5-11-8 珠泉会館1階
  • アクセス 東京メトロ丸ノ内線「茗荷谷」駅より徒歩7分。

※文京区コミュニティバス「Bーぐる(目白台・小日向ルート)」をご利用の場合、「27番:第一中学校」「28番:播磨坂」徒歩3分。


(おわり)



2016-12-29

[][] 2016年暮れ「石川啄木終焉の地歌碑・顕彰室」 <3>

啄木文学散歩・もくじ


 3 「石川啄木終焉の地歌碑」


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都会の一隅 静かな佇まい「石川啄木終焉の地歌碑」


啄木最後の日記「千九百十二年日記」

   1912年(明治45年)

二月二十日(火)

日記をつけなかつた事十二日に及んだ。その間私は毎日毎日熱のために苦しめられてゐた。三十九度まで上つた事さへあつた。さうして薬をのむと汗が出るために、からだはひどく疲れてしまつて、立つて歩くと膝がフラフラする。

さうしてる間にも金はドンドンなくなつた。母の薬代や私の薬代が一日約四十銭弱の割合でかゝつた。質屋から出して仕立直さした袷と下着とは、たつた一晩家においただけでまた質屋へやられた。その金も尽きて妻の帯も同じ運命に逢つた。医者は薬価の月末払を承諾してくれなかつた。

母の容態は昨今少し可いやうに見える。然し食慾は減じた。


  • 啄木日記はこの日で終わる。この2月20日は奇しくも啄木26歳の誕生日。
  • 明治45年(1912)4月13日、26歳2カ月、石川啄木この地で死去。






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碑材にはふるさと渋民の啄木第一号歌碑と同じ「姫神小桜」を使用

  • 高さ 約 130cm

石川啄木終焉の地 歌碑・顕彰室 「建碑報告書」

歌碑の石材「姫神小桜」 大室精一

「石をもて追はるるごとく」ふるさとを離れた啄木は、晩年に多くの望郷歌を詠んでいる。そこには帰りたくても帰ることのできなかったふるさとへの想いが籠められていると思われる。

その啄木の望郷の念を叶えるために、終焉の地の歌碑の石材は啄木の故郷の石「姫神小桜」を用いている。







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日本近代文学館所蔵の啄木直筆原稿を刻む


  • 歌碑に刻まれているのは、没後に出版された『悲しき玩具』冒頭の2首。

<歌碑に刻まれた歌>

   呼吸すれば、

   胸の中にて鳴る音あり。

    凩よりもさびしきその音!


   眼閉づれど

    心にうかぶ何もなし。

     さびしくもまた眼をあけるかな


   (「呼吸」は「いき」、「胸の中」は「むねのなか」と読む)


石川啄木終焉の地 歌碑・顕彰室 「建碑報告書」

解説「白鳥の歌二首」 近藤典彦

この歌の作歌事情と作歌時期

  • 明治43年11月末から、ノート歌集には四首単位でつぎつぎと歌が書きこまれて行きました。
  • 明治44年2月結核性腹膜炎になって入院、その後退院。不治の病中でも精力的に歌を作り、大逆事件を調査し記録。8月7日小石川の終焉の地に引っ越します。21日、ノート歌集の最後に記入された十七首を作ります。
  • 9月、親友宮崎郁雨から妻節子にラブレターが来て二人の関係が発覚(明治42年6月ころから疑惑を抱いていた)。啄木はこのショックで以後歌を作らなくなります。泉のように歌の湧き出る人でしたが。
  • 病気は悪くなる一方です。明治45年(1912)2月土岐哀果から歌集を贈られ、啄木は創作意欲をかすかにかき立てられます。歌集ノートではなく二百字詰原稿紙にメモしたのが歌碑になった二首です。
  • この二首を「白鳥の歌」と名づけたのはわたくしですが、簡単に解説します。手許のドイツ語辞書の Schwanengesang にこうあります。「白鳥の歌(白鳥が死の前に歌うと言われる美しい歌。転じて作曲家や詩人の最後の作品を指す)」と。シューベルトの遺作歌曲集は「白鳥の歌」と題されました。
  • わたくしは歌碑になった二首が啄木の「白鳥の歌」だと思います。いかがでしょうか。





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歌碑陶板横の揮毫は楢崎華祥氏






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石川啄木終焉の地歌碑」

この地に石川啄木の住まいがありました。その家で啄木が最後に創作した歌がこの2首です。右に東京都指定旧跡「石川啄木終焉の地」の説明板、左の顕彰室に歌碑の解説等がありますのでご覧ください。

北岩手郡渋民村(現在は盛岡市内)を故郷とし、この地でその生涯を閉じた石川啄木。ゆかりの深い文京区と盛岡市では平成19年より啄木の顕彰等を通じて交流を深めてきました。

啄木の没後100年を迎えた平成24年、啄木を愛する方々による「啄木終焉の地に歌碑を」との声を受け、文京区は隣接する国有地の取得を発表。建碑に向けて検討を開始しました。

平成25年、隣接地への高齢者施設の開設にあわせて啄木歌碑と顕彰室の設置を決定。文京区石川啄木基金を設けて、広く寄附を呼びかけました。

平成27年3月、多くの方々のご協力をいただき、この歌碑が誕生しました。

      碑材:姫神小桜(啄木のふるさとの山・姫神山産)

      揮毫(啄木直筆原稿の左):楢崎華祥 氏






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背中にまわると、いたずらっ子のような雰囲気


(つづく)



2016-12-28

[][] 2016年暮れ「石川啄木終焉の地歌碑・顕彰室」 <2>

啄木文学散歩・もくじ


 2 「石川啄木顕彰室」


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石川啄木顕彰室と歌碑


  • 小石川区久堅町74番地46号(現・東京都文京区小石川5-11-7)
  • 1911年(明治44年)8月7日、啄木は喜之床の二階からこの地の借家に移り、翌1912年4月13日午前9時30分に病没するまで居住した。

引越当日の啄木日記 明治44年(1911)8月7日


八月七日

 本日本郷弓町二ノ十八新井方より小石川久堅町七十四ノ四六号へ引越す。予は午前中荷物だらけの室の隅の畳に寝てゐ、十一時俥にて新居に入りすぐまた横になりたり。いねにすけらる。

門構へ、玄関の三畳、八畳、六畳、外に勝手。庭あり、附近に木多し。夜は立木の上にまともに月出でたり





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「顕彰室のドア」


  • 面積 約10平方メートル( 5 × 2 m)

  • 顕彰室は、グループホーム「いつつ星」(医療法人社団 珠泉会)の建物の一部にある。
  • 「いつつ星」のパンフレット(PDF)に「石川啄木顕彰室」の紹介文が載っている。
  • 内部には、石川啄木の人生、文京区と盛岡市の縁、文京区内の啄木ゆかりの地、啄木直筆の書簡(複製)、啄木最後の歌の紹介などがある。
  • 現在は、「山本千三郎・とみ子宛書簡(複製)明治45年(1912)1月24日付」を展示。(展示品は不定期に入れ替える)







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ドアを開けるとこのマット


  • 入って右側に、文京区観光案内などのパンフレットが置いてあり、自由に持ち帰れる。

  〇「文京ミューズネットマップ 2016-2017」

    No.1 に「石川啄木終焉の地歌碑・顕彰室」が紹介されている。

  〇「文の京 観光ガイドまっぷ おさんぽくん 文京map」

    小石川「やすらぎ浪漫コース」でも、No.1 に紹介。





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内部の壁に直接ディスプレイされた歌

  • ドア越しに撮ったためガラスの映りがある。

   何となく、

   今年はよい事あるごとし。

   元日の朝晴れて風無し。


    新しき明日の来るを信ずといふ

    自分の言葉に

    嘘はなけれど──


   二晩おきに

   夜の一時頃に切通の坂を上りしも──

   勤めなればかな。






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石川啄木終焉の地 歌碑・顕彰室 「建碑報告書」

 啄木終焉の地歌碑建設実行委員会

発刊にあたって


  • この報告書は、私たち啄木終焉の地歌碑建設実行委員会の呼びかけにご協力下さいました皆様に、完成のご報告とお礼の気持ちを込めて作成いたしました。
  • 毎年4月13日の啄木忌には、地元町会により啄木終焉の地に献花台が設置され、その前後には近隣の小石川図書館において啄木の講演会が実施される予定です。
  • これからも、多くの皆様のご来場をお待ちしております。





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石川啄木終焉の地 歌碑・顕彰室 「建碑報告書」

 啄木終焉の地歌碑建設実行委員会

ごあいさつ


  • 2015年の啄木の命日(4月13日)は、特別の思いで迎えることができました。啄木終焉の地に待望の歌碑が建ったからです。もともとこの場所には「都旧跡 石川啄木終焉の地」という石柱が立っていました。これが7年前の現場再開発時に撤去され、そのままになっていました。
  • 2011年、国際啄木学会東京支部有志の方々から、この地に啄木の歌碑をという強い要望があり、地元住民とともに啄木終焉の地歌碑建設実行委員会を立ちあげました。
  • 運動は地域の住民や国際啄木学会のみなさんはじめ全国の啄木ファン、さらに町会・文京区議・文京区関係職員の方々、そして最後には文京区長の協力を得て、今回の歌碑建設・顕彰室設置へと、進展しました。
  • 運動の最大の力はご寄付をはじめとするみなさまの絶大のお力添えでした。ここにあらためてみなさまに篤く御礼申しあげ、運動の経過と成果とをご報告致します。
  • われわれは今後も啄木の文学と思想を後世に伝えるべく努めるとともに、歌碑を守る地元の後継者づくりにも微力を注ぐ決意であります。

  2015年12月17日

   啄木終焉の地歌碑建設実行委員会会長 地元小石川久堅西町会 井上義一





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文の京 お散歩ブック「石川啄木〜愛に支えられた生涯〜」

  • 表紙写真は16歳の啄木。盛岡中学を中退し、文学を志して上京する日に撮影。

文の京 お散歩ブック「石川啄木〜愛に支えられた生涯〜」池田功

  石川啄木終焉の地歌碑建立記念事業(発行 文京区観光協会

「愛され続ける啄木作品」

  • 国語教科書に採用され続ける啄木短歌
    • 多くの人にとって啄木短歌との出会いは、国語教科書ではないでしょうか。
    • 戦前の教科書に採用された啄木短歌の調査によりますと啄木の短歌は2位の若山牧水を抜いて圧倒的な差でトップになっています。そのほとんどは「ふるさとの訛なつかし/停車場の人ごみの中に/そを聴きにゆく」や「汽車の窓/はるかに北にふるさとの山見え来れば/襟を正すも」などの望郷短歌です。
    • 戦後になると、トップであるのは変わりありませんが、歌は異なっています。「いのちなき砂のかなしさよ/さらさらと/握れば指のあひだより落つ」「不来方のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心」などの、命を愛おしむ歌や若者の夢を託すような歌に変化しています。教科書の啄木のイメージも変化しているのです。


(つづく)



2016-12-27

[][] 2016年暮れ「石川啄木終焉の地歌碑・顕彰室」 <1>

啄木文学散歩・もくじ


 1 「石川啄木終焉の地」今昔


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歌碑・顕彰室のある通り


手前のビル1階の一部が「石川啄木顕彰室」

通りに面して「石川啄木終焉の地歌碑」

隣りの白いビルが「石川啄木終焉の地」








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上の写真の反対方向から撮る


  • 手前の白いビルの壁に黒いプレートが設置されている。これは、東京都指定旧跡「石川啄木終焉の地」の説明板。
  • 啄木一家が本郷弓町の理髪店「喜之床」の2階からこの地に移り、啄木が亡くなるまでの約8か月を暮した場所。
  • 二つある自販機の白い方の場所には、かつて「石川啄木終焉の地」石碑が建っていた。






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「終焉の地の通り」2009年撮影


  • 石川啄木終焉の地」石碑が撤去されていた時代。 
  • 右側にある宇津木マンション(白い建物)の角が「石川啄木終焉の地」。
  • 赤い屋根の手前、緑のフェンスに囲まれたところに「石川啄木顕彰室」が建設された。

   





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「石碑撤去中」2009年撮影


  • 青い自販機と道に挟まれたちょうど真ん中に、石碑が立っていた。
  • その頃の文京区観光案内ページには、「工事のため平成20年1月現在、記念碑を一時撤去しています」という説明があった。






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在りし日の「石川啄木終焉の地」石碑 2000年5月撮影


  • 石碑は1967年(昭和42)3月10日建立。







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緑のフェンスの中は、更地 2013年3月撮影


  • ここに顕彰室ができた。





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上の写真中央、白い塀の裏側にあった案内表示 2013年3月撮影





(つづく)


2016-12-26

[] 新刊!『海の蠍(さそり) 明石海人と島比呂志』

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新刊『増補新版 海の蠍(さそり) 明石海人と島比呂志 ハンセン病文学の系譜』

 山下多恵子 著 未知谷

 2017年1月発行 2500円+税

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はじめに

  • 明石海人と島比呂志──本書において私は、彼らの生きた姿と残された言葉をたどりながら、生きることと書くこと(歌うこと)の関係を考えたい。
  • 極限にあってなお、書く(歌う)ことをやめなかった、それどころか書くことに全生命を注ぎこみ、そのことによって生き抜いたという事実は、私がずっと問い続けてきたことへの大きなヒントになるように思われる。すなわち、ひとはなぜうたうのか。私が知りたいのは、それである。
  • 彼らが全身全霊で伝えた言葉を、私たちもまた全身全霊で受け取らなければならない。それは言葉に託した彼らの思いであり、残った者に対する信頼のかたちであるからだ。

目次

 海の蠍 明石海人への旅

  I 「癩」であること

  II 歌集『白描』の世界

 人間への道 島比呂志の地平

  I 「人間」として

  II 囚われの文学──島比呂志を読む

 島比呂志からの手紙「らい予防法」を越えて

増補新版へのあとがき

  • 『海の蠍』は、2003年に刊行されました。私の初めての本でした。13年かかって、「増補新版」というかたちで再び世に出せることになり、感慨深いものがあります。
  • 久しぶりに自分の書いたものを読み返し、明石海人・島比呂志という、ふたつの実存と再会したような気がしました。軽い、あまりにも軽い言葉たちが闊歩するこの時代に、ふたりの命がけの言葉が投げかけるものは大きいのではないでしょうか。

   2016年12月 山下多恵子



[] お正月 BS 朝日にて放映 啄木記念館などをめぐる旅

◎ BS 朝日「鉄道・絶景の旅」

2017年1月10日(火)19:00〜20:54

  • あったか料理と雪景色を求めて・北東北ローカル線乗り継ぎの旅

「IGR(いわて銀河鉄道)渋民駅」〜石川啄木記念館

記念館の展示室・旧渋民尋常高等小学校(啄木の代用教員時代)・旧齊藤家(啄木一家が暮らした)などが紹介される予定。



2016-12-23

[][] 『石川啄木物語〜君に与ふウタ〜』和太鼓朗読劇 函館 3/20

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[バラ]


七飯男爵太鼓創作会 企画舞台2017

 和太鼓朗読劇 『石川啄木物語〜君に与ふウタ〜』


渋民、盛岡、そして函館、札幌、小樽、釧路、東京…「漂泊の歌人・石川啄木」。

いつしか誰かがそう呼んだ。二十六歳で散った命の、その旅の続きを悼みながら。

しかし、さすらってなんかいないと、その歌たちは言い放つ。

  ―やまひある獣のごとき わがこころ ふるさとのこと聞けばおとなし―

溢れた二千数首もの涙。心は、この山と、あの砂浜に、鎮座したまま動けなかった。


2017年3月20日(月・祝) 

①昼の部 10:30〜12:00(受付10:00〜)

②夕の部 14:30〜16:00(受付14:00〜)

  • 会場:土方・啄木浪漫館(函館市日乃出町25-4)
  • 入場:大人1000円/小中高生500円(当日1500/600)

[文] 石川啄木金田一京助 

[楽曲・舞台監修] 佐藤三昭(3D-FACTORY) 

[構成・演出] 高橋リサ

[CAST]

  • 金谷藍子(芝居組「虎」)/朗読と芝居
  • 竹内ひとみ(函館市民オーケストラ所属)/フルート・ピッコロ
  • ことの音ユニットNeri-ネリ-(七飯男爵太鼓創作会)/和太鼓・篠笛 高橋理沙・大西ダイアン・石川由佳・竹之内実生 


詳細 予約


2016-12-22

[][] 与謝野鉄幹の記す「啄木作品の魅力」 盛岡てがみ館 〜2/13

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[ナンテンとカエデ]


IBC岩手放送ニュース

 企画展「文豪たちの原稿展」

  • 岩手にゆかりのある作家や歌人など、文豪たちが残した原稿の展示会が、盛岡で開かれています。会場の盛岡市中ノ橋通の「盛岡てがみ館」には、岩手にゆかりのある作家や、歌人が書いた原稿のレプリカが展示されています。
  • このうち石川啄木に影響を与えた歌人、与謝野鉄幹の「啄木君の思出」は、石川啄木全集の付録として出版された評論で、原稿用紙23枚に渡って、啄木の作品の魅力が記されています。また群馬県出身の詩人、萩原朔太郎が書いた啄木評の原稿は、何度も修正の書き込みが加えられた跡が見られ、執筆当時の書き手の苦悩を垣間見ることができます。
  • 来年2月13日まで開催。

(2016-12-22 IBC岩手放送ニュース)


ニュース動画



○盛岡てがみ館

 第51回企画展「文豪たちの原稿展」

  • 開催期間 2016年10月25日(火)〜2017年2月13日(月)
  • 場所 盛岡てがみ館 展示室

〈展示内容〉

  ○与謝野寛(鉄幹)原稿「啄木君の思出」

  ○与謝野晶子原稿「啄木の思ひ出」

  ○高村光太郎原稿「國民まさに餓ゑんとす」 ほか

  • 盛岡てがみ館 岩手県盛岡市中ノ橋通1-1-10 プラザおでって6階

記事


2016-12-20

[] < ふるさとの訛なつかし/石川啄木 < ふるさとの訛りなくせし/寺山修司

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[ムクロジ]


◎余録 < 毎日新聞

古里の方言が懐かしくなるころかもしれない…

  • 古里の方言が懐かしくなるころかもしれない。年末年始に久しぶりに帰省する人も多い。岩手県から上京した石川啄木(いしかわたくぼく)が古里なまりを聞きたいと駅に行く。その気持ちは地方出身者にはよく分かる。JR上野駅のホームには、かの有名な歌の碑がある。<ふるさとの訛(なまり)なつかし停車場の……>。
  • NHKドラマ「あまちゃん」の影響もあるのか、若者の間で方言がよく使われているらしい。東日本大震災で被災者は「がんばっぺし」の言葉に励まされた。方言は懐かしいだけでなく、心を動かす力がある。
  • 方言で話すのが恥ずかしく、ためらうことがある。けれど忘れてしまうのは寂しい。<ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲(コーヒー)はかくまでにがし>。啄木と同じ東北生まれの劇作家・歌人の寺山修司(てらやましゅうじ)の作品だ。彼は生涯、なまりが抜けなかった。

(2016-12-19 毎日新聞 東京朝刊)

記事


2016-12-19

[][] 国際啄木学会 東京支部会 明大 駿河台校舎 1/22

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[クリスマス]


国際啄木学会 東京支部会

  • 2017年1月22日(日)12:00 〜
  • 場所 明治大学駿河台校舎 研究棟4F 第2会議室
  • 発表
    • 河野有時 「啄木から『サラダ記念日』へ」
    • 松平盟子 「時代に機能する短歌-『サラダ記念日』の出現」

○ 14時から理事会(支部会は14時までに終了)


 ☆ 初めての方のご参加も歓迎 ☆



[][] 啄木の詩に登場するような「理想の家」を作ろう! 12/23、24

石川啄木記念館 ワークショップ

「牛乳パックのおうち」

石川啄木の詩「家」に登場するような、住んでみたい自分だけの「理想の家」を牛乳パックで作りましょう。冬休みの宿題にもオススメです!

≪12月23日はまだ定員に余裕があります≫

  • 平成28年12月23日(金)、24日(土) ※ご希望の日をお選びください。
  • 時間:10:00〜12:30
  • 場所:石川啄木記念館 ラウンジ
  • 講師:当館学芸員
  • 料金:200円(牛乳パック以外の材料費・保険料込)
  • 定員:各10人

 ※当日は一人一個の牛乳パックをお持ち下さい。


詳細(石川啄木記念館)



2016-12-17

[] 啄木の人生を彩った女性たち

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[『忘れな草 啄木の女性たち』表紙]


忘れな草 啄木の女性たち』山下 多恵子 著

   未知谷 版 2006年発行

Vergiß mein nicht(フェルギス・マイン・ニヒト)とは「我を忘るな」の意のドイツ語である。明治四十三年の創作ノートに、啄木は上手な筆記体でこの文字を書き、その下に、彼が出会った女性たちの名前を土地別に書き連ねている。この語はまた「忘れな草」も意味する。啄木の人生を彩った女性たちを、啄木の「忘れな草」たちを、書いていきたい。(著者のことば)



 *便宜上、五十音順にして番号を入れました。


あ行 1.阿部梅子・松子 2.石川カツ 3.石川京子 4.石川節子 5.石川綱子

   6.石川房江 7.板垣玉代 8.市子 9.植木貞子 10.梅川操

   11.上野さめ子 12.奥山絹子 13.小沢糸子

か行 14.片山カノ 15.金矢信子 16.金矢りう子・タツ 17.管野すが

   18.金田一静江 19.金田一りう子 20.小静 21.小菅まさえ

   22.小蝶 23.小奴 24.コルバン夫人

さ行 25.桜庭ちか子 26.佐藤ふぢの 27.菅原芳子 28.「鈴木の娘」

   29.瀬川愛子・もと子 30.関しげ  

た行 31.高橋すゑ 32.「田島の娘」 33.立花さだ子 34.橘智恵子

   35.田中久子・英子 36.田村イネ 37.田村サダ

   38.土井八枝 39.塔下苑の女たち

な行 40.夏目鏡子 41.「並木」 42.沼田サタ・ヤエ

は行 43.平山良子 44.福井しん 45.堀田秀子 46.堀合孝子 47.堀合ふき子

ま行 48.増田雅子 49.三浦光子  

や行 50.安並みなゑ 51.山川登美子 52.山本トラ 53.与謝野晶子

わ行 54.「和賀の妻」


    

1 阿部梅子・松子(あべ うめこ・まつこ)

阿部松子さんより端書来る。返事直ちに。


二人は、啄木の友人阿部修一郎の姉および妹にあたる。修一郎は盛岡中学時代、英語の自主学習を目的に結成されたユニオン会の仲間である。梅子は二男三女のきょうだいのかしらで、両親を早くに亡くした弟妹たちには、母親代わりの存在であった。

1904年(明治37)正月、啄木のもとに修一郎から「大晦日に姉梅子が急逝した」との報せが届く。啄木は葬式に参列した。姉の死に、りんとして取り乱すことのない松子の様子に、啄木は「涙なき涙」を見、「平温を装ひたる絶痛」であると察している。


2 石川カツ(いしかわ かつ)

死にたいと思ふ考が、執念く起る。

(略)母の顔が目に浮ぶと、ただもう涙が流れる

実際涙が流れるよ。(友人宛書簡)


カツの写真は一枚もない。少女期に結核を病んだせいか、若いころは抜けるように白い肌の小柄な美人であったという。晩年息子からは「母の生存は、私と私の家族とのために何よりの不幸だ!」と日記に書かれ、嫁の節子には「きかぬ気のえぢの悪ひばあさん」と手紙に書かれたカツは、生涯啄木を盲愛・溺愛した。弱い啄木が丈夫に育つようにと、生涯卵と鶏肉を断ち、晩年は好きな茶を断って息子の平復を祈った。

啄木に度重なる挫折があり、それと同じだけの立ち上がりと飛躍があった。啄木のこの打たれ強さは母の絶対的な愛情に因するのではないかと想像するのである。

カツは、南部藩士の末娘として生まれた。仏門に入った次兄の寺で家事手伝いをしているときに、そこで修行中の三歳年下の一禎と結ばれた。当時では珍しい恋愛結婚であった。啄木の嫁節子との不和の部分に、啄木という人物に対する認識の違いがあったように思われる。カツは「石川一」を愛し、節子は「石川啄木」を愛したのである。息子の死に先立つこと一ヶ月、カツは家族を起こすこともなく、ひとりの床でひっそりと冷たくなっていた。


3 石川京子(いしかわ きょうこ) 

その親にも、

 親の親にも似るなかれ──

かく汝が父は思へるぞ、子よ。


京子は啄木節子の第一子として生まれた。彼女は「毎日隣近所へ遊びに行つては喧嘩をし…」家に帰ってきて啄木に「今日も泣いたナ」と言われると「泣かないと強情をは」るような子供だった。そして、同時にすこやかに開かれた未来を感じさせる子でもあった。

6歳で父と、7歳で母と死別し、函館に移住していた母方の実家堀合家で育てられた。志なかばに倒れようとしている啄木が、ロシアの女性革命家「ソニア」と呼びかけた京子は、女学生になってペン・ネームとして「ソニア」を使用していた。彼女を育てた祖父(節子の父)は、京子が「学業には極めて熱心」だが「女子の最も大切なる裁縫、洗濯、炊事清掃」を嫌い「閑さへあれば寝転んで新聞雑誌を」読んでいると嘆いている。

京子は女学校在学中に、北海タイムス記者須見正雄を知り、一途に恋い慕い、卒業を目前に退学、翌年結婚した。夫妻は「石川啄木研究雑誌 呼子と口笛」を刊行した。京子は明らかにソニアになろうとしていた。しかし、急性肺炎のため二十四年の生涯を閉じるのである。父よりも母よりも若い死であった。


4 石川節子(いしかわ せつこ) 

恋人は云ふ、

理想の国は詩の国にして理想の民は

詩人なり


子を負ひて

雪の吹き入る停車場に

われ見送りし妻の眉かな


眼閉づれど、

心にうかぶ何もなし。

 さびしくも、また、眼をあけるかな。


1886年(明治19)10月、啄木より8カ月おくれて節子は盛岡に生まれた。父堀合忠操は、岩手郡役所に勤務しのちに玉山村村長になった人物。厳しくも子煩悩な父と、やさしく控え目な母トキの子として、慈しまれ成長した。14歳で啄木を知ったことが、節子の生きる道を決定した。節子が恋人啄木に求めたものは、金でもなければ地位でもなかった。詩人こそが彼女の理想だったのである。

1905年(明治38)花婿のいない結婚式で、誰よりも毅然としていたのは花嫁の節子だった。「貧といふ悪魔の翼の下におしつけられて居る」ような日々、京子を生むために盛岡の実家に帰った節子は手紙に「私は君を夫とせし故に幸福なりと信じ、且つよろこび居候」としたためた。

1907年(明治41)厳寒の小樽の冬、障子も襖も売り払い吹きさらしになった部屋で暮らす節子はそれでも「詩人の妻」であることを誇り得たろうか。節子はいつも待つ女であった。盛岡で小樽で函館で…彼女はひたすら待ち続けた。

1909年(明治42)節子は小さな京子の手を引いて盛岡行きの汽車に乗り込む。節子の家出は、啄木に家庭や社会について考えさせる重大な転機となり、彼の文学観も大きく変換する。

1913年(大正2)函館の病院で、母・妹孝子・郁雨らに見守られながら、そのひたむきな生涯を閉じた。啄木より遅れることわずか1年。全集二巻分を占める膨大な量の日記は、節子によって残された。「啄木が焼けと申しましたんですけれど、私の愛着がさせませんでした」と節子は郁雨に語っている。夢も挫折も共にしたただひとりの男を、今こそ心に抱きしめていたのではあるまいか。


5 石川綱子

宝徳寺に住んでいたころ、啄木がしばしば催したカルタ会の常連であり、さびれかかった駄菓子屋の娘であった。笑うと「春の泉の様な笑くぼ」ができた。何よりも啄木の気を引いたのは、綱子の面差しがどことなく節子に似ている点であった。


6 石川房江(いしかわ ふさえ)

何といふ名か知らないが、(略)

黄色い草花よ、

路傍の草花よ。

── 何だか見覚えがある。


石川啄木は、三人の子を生した。第二子真一は、生後わずか24日で世を去り、その哀悼歌を加えて『一握の砂』は成立した。第三子房江は1912年(明治45)啄木の死去二カ月後に生まれている。父に歌われることのなかった子である。

節子は啄木が亡くなった翌月、光子を通して知ったキリスト教の伝道師夫妻を頼って、房州へ行きそこで生まれたので房江と名づけられた。翌年母をなくしてからは姉とともに母の実家で育てられる。虚弱な体がさらに弱り、やがて結核を患って、19年の生涯を閉じた。義兄の正雄は、遠くの町の花屋まで菊・水仙・スイートピーなどを買い集め、花に埋まって眠る房江の顔は「天使のやう」だったという。


7 板垣玉代(いたがき たまよ) 

茨島(ばらじま)の松の並木の街道を

われと行きし少女

才をたのみき


啄木が盛岡尋常中学校時代、近くの岩手山神社(新山堂)の境内で遊んでいた中学生や女学生の集団があり、「新山グループ」と呼ばれた。啄木もその一員で、男女が親しく交流することの珍しい時代、自然の中で無心に友と語らい、戯れた。

学問好きで英語が得意、弓道もたしなんだ少女が玉代である。自分をしっかり持ち、流されないタイプの女性であった。「あまりある才を抱」いた少年と「才をたの」む少女は、どんな語らいをしたのであろうか。


8 市子(いちこ(大和いつ)) 

三味線の弦(いと)のきれしを

火事のごと騒ぐ子ありき

大雪の夜に


市子は、釧路の芸妓小奴と並ぶ花柳界の人気者で、1908年(明治41)当時17歳。市子の無邪気な言葉やふるまいは、時に啄木の微笑を誘ったであろう。市子とふれあうひとときは、心なごむものであったに違いない。

啄木の市子への眼差しは、歌中「騒ぐ子」の「子」の語に表れているように思われる。釧路で親交のあった女性たちが、みな「女」と歌われるのに対し、市子のみが「子」となっているのは、偶然ではあるまい。


9 植木貞子(うえき ていこ)

恋をするなら、仄かな恋に限る。


京橋の踊りの師匠の娘。1908年(明治41)新詩社主催の演劇会で知り合っている。言葉も装いも垢抜けた生粋の江戸の女であった。

程なく二人はのっぴきならない関係となるが、啄木は次第に貞子をうとましく思うようになる。啄木の変心を恨んだ貞子は、彼の部屋から日記と小説『天鵞絨』の原稿と歌稿一冊とを持ち去っている。12日後にそれらが返されてきたとき、日記の一部は切り裂かれてなくなっていた。


10 梅川操(うめかわ みさお

泣いて居る。涙がとめどもなく流れる。

何といふても泣いて居る。

此女も泣くのかと思った。


操は釧路笠井病院の薬局助手をしていた。啄木は彼女の印象を「何方かと云へば珍しいお転婆の、男を男と思はぬ程のハシャイダ女」と書き留める。

頻繁に啄木を訪い、夜遅くまでいて、時には帰宅を催促されるほどであった。啄木は彼女を「長尻の女」と呼んで、その無神経さにいら立つが、彼女にしてみれば、好意を持つ人の近くに一刻でも長く居たかっただけだろう。しかし、啄木は彼女に対しては終始つれなかった。


11 上野さめ子(うわの さめこ) 

あはれかの男のごときたましひよ

今は何処に

何を思ふや


盛岡中学を退学し大いなる野心とともに上京した啄木は、生活にゆきづまり帰郷した。1904年(明治37)、さめ子は岩手師範を卒業して渋民小学校に赴任した。啄木は小学校にさめ子を訪ねては、節子のことや将来の夢を語った。

啄木がさめ子に残した写真の裏には「我心二つ姿とならび居て君がみもとにとはに笑まま志」とある。自分たちの恋愛の理解者であるさめ子への信頼と友情にあふれた書き付けである。


12 奥山絹子(おくやま きぬこ) 

柴内陸七郎と二年の奥山絹子との恋は(略)

さながら一葉女史の『たけくらべ』を読む心地。


「私に教へらるる児童は幸福なることと信じ申候」。1906年(明治39)渋民尋常小学校代用教員となった啄木は、「自分の一言一句」に素直に反応する少年少女たちが「喰ひつきたき程可愛」かった。

絹子は、高等科二年で、北海道旭川からの転校生であった。名があらわすような美しい少女でその上成績優秀、物おじしない性格で転校早々女生徒たちのリーダーとなった。陸七郎は三年の級長で「全校中、其成績其素行、肩を並ぶるものなし」だった。16歳と14歳---の淡い関係に啄木は『たけくらべ』を連想した。


13 小沢糸子(おざわ いとこ) 

本日限り、小生一家と貴下並びにいと子氏との間の交りは断絶いたし候者也。


1906年(明治39)1月3日、啄木はユニオン会の仲間であった小沢恒一に「最後の一書を認め候。」で始まる長い手紙を書いた。左は、その最後の部分である。負けず嫌いで誇り高い啄木にとって、ユニオン会を除名されたことは堪えがたい屈辱であったろう。

小沢が啄木について書いた本に、小沢の妻糸子の「節子さんの思ひ出」が載っている。糸子のやさしく慎み深い人柄を彷彿させる筆致であり、とりわけ恋する女学生の節子がいきいきと描かれている。


14 片山カノ(かたやま かの)

房州での下宿先の女主人。出産を一ヶ月後に控えた節子を支えた。「すべて引き受けて世話をするから決して心配しないで」との励ましの言葉は、実家にも帰れず、ひとり異郷の地に父のない子を産まなければならぬ節子にとって、どんなにか心強かったことだろう。


15 金矢信子(かなや のぶこ)

七難隠す色白に、長い睫毛と格好のよい鼻、よく整った顔容(かほだて)で(略)


啄木生前唯一の新聞小説『鳥影』で、資産家の娘小川静子を描写した部分である。静子のモデルといわれる信子は、啄木とは小学校入学以来の知り合いであり、妻の節子とも盛岡高等小学校および盛岡女学校の同級生であった。

盛岡にあった金矢家別邸で、啄木と節子は幼い恋を育んだ。信子は啄木・節子の恋の目撃者でもある。どうしようもなく啄木に傾いていき、学校をさぼって彼の下宿を訪ねる節子の姿も、信子は間近で見ている。


16 金矢りう子・タツ(かなや りうこ・たつ) 

橋はわがふる里渋民の村、

北上の流に架したる吊橋なり。


金矢家には鶴飼橋を渡って行った。啄木は中学で同級だった金矢七郎と気が合い、部屋にこもって文学の話やアメリカへ行く相談をしたりした。りう子は七郎の妹で、信子から見れば叔母にあたるが、年齢は一歳下。金矢家は啄木にとっては、おいしいご馳走があり、文学を語る友と美しい女友達のいる楽しいたまり場であった。

それに苦言を呈したのが、信子の母タツである。啄木と七郎が若い血を滾らせて渡米の話をしていたりすると、「真面目に生活しようという気を持ちなさい」と水をさした。


17 管野すが(かんの すが) 

われは知る、テロリストの/かなしき心を──


すがは天皇暗殺計画の首謀者とみなされた幸徳秋水の、内縁の妻・同志。秋水に一日遅れて処刑された。死刑執行のニュースが流れた1911年(明治44)1月24日、啄木はこの事件の経過を深夜までかかって克明に書き記した。啄木は「制度」の破壊を標榜した「テロリスト」管野すがに、新しい時代の女性像を見ていたのである。

処刑時すがは31歳。「微笑を湛へ自若として」絞首台に向い、「われ主義のため死す、万歳」と叫んで死んでいった。


18 金田一静江(きんだいち しずえ)

東介は(略)妻や妹の前で佐川の事を思出すさへも、(略)苦痛に感じてゐた。


啄木が友人の金田一京助をモデルに書いた『底』という小説の一節である。「東介」は金田一を指し、「佐川」とは啄木であると思われる。金田一の結婚は、啄木が取り持ったものであった。

しかし、新婚家庭を訪ねては金を借りて帰って行く夫の友人が、静江にはずうずうしく思えてならなかったのである。啄木を嫌ったことも、当時の金田一家の生活事情を考えれば、自分たちの家庭を守ろうとして、彼女なりに必死であった結果とも思われる。


19 金田一りう子(きんだいち りうこ) 

小生のいのちのある限りは

小天地の寿命はつきざる筈に候


1905年(明治38)雑誌『小天地』発行。雑誌後ろの「社告」には、金田一りう子の『夢』其の他が紙面の都合で止むを得ず次号に譲ると書かれている。りう子は金田一京助の二歳下の従妹であり、女学校時代から、雑誌『女學世界』等に投稿して名を知られた才媛である。

「いのちある限り」「つきざる筈」だった『小天地』は資金が続かず「次号」は永遠に発行されなかった。啄木が高等小学校の時に寄寓していた家は、京助の家と隣同士だった。啄木とりう子は、互いを誰と知らぬままに無邪気に遊んでいたかもしれない。


20 小静(こしず(尾張ミエ))

あはれかの国のはてにて

酒のみき

かなしみの滓(をり)を啜るごとくに


啄木は、1908年(明治41)冬、釧路新聞記者となった。彼に華やかな夜の世界に遊ぶ楽しさを最初に教えたのは小静である。芸達者で人あしらいがうまく「よく笑ひ、よく弾き、よく歌」い、座を盛り上げた。

帰りぎわにそっと「煙草を袂に入れてくれ」るような行為に啄木は、大人の女の心遣いというものを知っただろう。年上のどこか謎めいた小静が「若い時は二度ない」と歌うとき、酒と白粉のにおいに巻かれて、23歳の啄木は何を思ったであろうか。


21 小菅まさえ

釧路の「本行寺という真宗の寺の娘」で「背の極めて低い」「東京に行って居たといふのが自慢」なところから「三尺ハイカラと綽名され」ていた女性。芝居で同じ桟敷に隣り合わせた啄木を気に入って、何度も訪ねてきたり、啄木への思いを公言してはばからない彼女を、啄木は「獣の如き餓ゑたる目をした女」と言う。


22 小蝶(こちょう(甲斐谷シモ))

芸事も顔も

かれより優れたる

女あしざまに我を言へりとか


ある日小奴は啄木に告げる。先輩の小蝶姐さんに「奥さんも子供もある」啄木との関係を注意された、と。芸においても容ぼうも小奴をしのぐ売れっ子であった。啄木が小蝶に抱いた「風情ある女」という印象はしかし、小奴から話を聞いた後には「毒がある」と変わっている。

 小蝶はこの時期、東京に学ぶ同郷の男性に仕送りを続けている。やがて彼は町長として故郷に帰り、彼女も町長夫人となる。初恋を貫いて一途であった姿が、まぶしいほどである。


23 小奴(こやっこ(坪ジン))

死にたくはないかと言へば

これ見よと

咽喉(のんど)の痍(きず)を見せし女かな


1908年(明治41)、釧路の町で新聞記者として筆をふるっていた啄木が、取材を兼ねて遊びに行く料亭の芸妓。踊りがうまく利発で、気だてのいい19歳。小奴は、妹のような愛らしさと、酸いも甘いも噛み分けた年増女の優しさを併せ持つ女性であった。

彼女の前では、気取らず自然体でいることができただろう。等身大のままに愛されたという点において、小奴は、妻節子とも並ぶ存在感をもって迫ってくる。


24 コルバン夫人

啄木亡き後、妻節子はキリスト教伝道の傍ら結核療養者の世話をしていたコルバン夫人を頼って房州に向かった。啄木の妹光子のキリスト者としての縁だった。コルバン夫人はイギリス人で、医学博士であり外科医であった夫の医療伝導に付き従って来日した。夫人とはわずか1カ月の付き合いに終わった。


25 桜庭ちか子(さくらば ちかこ)

媒人(ばいにん)は急がしいものである。


小樽にいた啄木は、ある恋を成就させようと奔走した一週間があった。彼が友人沢田信太郎と知人ちか子を結婚させようと動きだすのは、1908年(明治41)1月10日のことである。ちか子は当時25歳。「才色兼備の、美しい、品格のある」「知る限りに於て最も善良なる婦人の一人」と啄木は評している。

啄木は彼らの関係をプロデュースし、ロマンを作り出す意欲に駆られたのではあるまいか。だが現実は「桜庭ちか子から…断りの事を云って来た」という結果になり、啄木は「途方に暮れ」る。


26 佐藤ふぢの(さとう ふじの)

漂泊の人はかぞへぬ風青き越の峠にあひし少女も


啄木は、1908年(明治41)4月、函館港から横浜へ向かった。翌日、船は石巻市荻浜港に入り5時間碇泊した。啄木は上陸し大森屋という旅館で朝食をとったが、そのとき給仕してくれた少女に「戯れに名を聞」いて、日記には「佐藤藤野」と書き付けている。

貧しく複雑な境遇にあったようだが、すれたところがなく、愛らしい印象を与えた。控えめで、クスッと笑う癖があった。歌の中に読み込まれた「風越峠」を越えて、彼女はいつも旅館に通っていた。


27 菅原芳子(すがわら よしこ)

私の半生には、泣くべき事のみ多く候。誠に多く候。


「明星」に短歌を投稿していた大分県の女性。啄木の選でいくつかの歌が採られたことから文通が始まった。「文字も優しく、歌もやさしい」芳子への関心は日ごとに高まる。自分の来し方や現在の不遇を「包まず」述べた中に左の一節がある。

啄木は彼女の写真を懇願した。それが送られてきた日の日記「筑紫から手紙と写真。目のつり上がった、口の大きめな、美しくはない人だ。」顔が見えたとき、彼の幻想は幻滅となった。夢が覚めたのである。


28 「鈴木の娘」

家族を函館に残し上京して数ヶ月、「死」という文字が日記に目立つようになったころのこと。明け方、啄木が半醒半睡の間に、美しい少女が突然面影に立ち現れた。鉄道工事のために村に来ていた「鈴木とか云ふ人の娘」であったというほかには、名も知らぬ子であった。


29 瀬川愛子・もと子(せがわ あいこ・もとこ) 

ほたる狩

川にゆかむといふ我を

山路にさそふ人にてありき


愛子は1902年(明治35)、渋民に初めて迎えられた医師瀬川彦太郎の妻。インテリの医師と美人で謙虚な妻に、啄木は将来の自分と節子を重ねていたのかもしれない。

もと子は啄木の妹光子と同級。美しく成長した幼なじみとのホタル狩りの体験は、「蛍の女」という美しいイメージで啄木の中に定着した。もと子は後に彦太郎の弟の妻となる。


30 関しげ(せき しげ)

予は予の妻が予を計略を以て欺かんとした事を許すことが出来なかつた。


1911年(明治44)6月、妻節子の実家堀合家が函館に移住することになり、節子が盛岡まで見送りに行きたいと申し出たのを啄木は突っぱねる。節子は妹孝子からの手紙に金が封じられて来たからと頼む。

やがて妹からの手紙は「ウソで、金はおしげさんから借りた」ということが分かる。しげは盛岡女学校で節子の六年先輩。この頃、しげ夫婦は啄木の家から徒歩数分のところに住んでいた。妻の幼稚ともいえる必死の嘘を「計略」と憤るほどに、彼は追い詰められていた。


31 高橋すゑ(たかはし すえ)

高橋すゑ君は春愁の女にして、

橘智恵君は真直に立てる鹿ノ子百合なるべし。


橘智恵子と同じく函館区立弥生尋常小学校の同僚。啄木が函館を去る前日、智恵子を訪ねた後、最後の最後に高橋すゑを訪ねている。物憂げな中にも、どこかなまめかしさを感じさせる美人で、当時の教師には珍しくお化粧もしていたすゑに、優しい言葉や仕草で気に懸けてもらったことが想像される。その日から日記に「恋」の語が頻出するのも興味深い。

冬の小樽で啄木は、すゑをモデルに短編小説を書こうとする。しかし、作品は書き上げられなかった。


32 「田島の娘」

節子を知ったほぼ同時期に、啄木がかなりの関心を寄せていたと思われる少女がいる。中学で国語を習っていた田島道蔵という教師の娘である。もしかして彼女に会えるかもしれないと、大いに期待して先生宅の玄関を開ける少年啄木の、やや紅潮した顔が眼に浮かぶようである。


33 立花さだ子(たちばな さだこ)

午後より夜へかけて、村の乙女ら来り、

さだ子さんなどと共に歌留多会催す。

愛らしきエンゼルよ。


1903年(明治36)東京での生活に行き詰まり、帰郷した啄木は、故郷渋民で疲れ果てた心と身体を養った。傷心の帰郷ではあったが、極めて濃厚な日々を過ごしたといえる。

旺盛な執筆活動の合間に、彼は村の若者たちを集めてたびたびカルタ会を催している。「うら若き男女入交りて」「和気藹々」たる雰囲気が彼は好きであった。さだ子は郵便局の娘、啄木より六歳年少。エンゼルという呼び方の中に、あどけない笑顔や仕草の少女が浮かぶ。


34 橘智恵子(たちばな ちえこ)

山の子の

山を思ふがごとくにも

かなしき時は君を思へり


1907年(明治40)5月、啄木は函館区立弥生尋常小学校の代用教員となる。智恵子はこの小学校の同僚。「真直に立てる鹿ノ子百合」という啄木の言葉そのままの、若々しく清楚な女性であった。二度の語らいと数通の書簡のやりとり---それが彼らの関係のすべてであった。

智恵子を歌った珠玉の二十二首は、苦しい東京の生活の中で生まれた。だが、漂白の人生途上に智恵子を得たことは、啄木の数少ない幸いであったと言わねばならない。


35 田中久子・英子(たなか ひさこ・ひでこ) 

わが宿の姉と妹のいさかひに

初夜過ぎゆきし

札幌の雨


1907年(明治40)8月末の大火で函館を去った啄木は札幌に向かい、友人の下宿先である田中サト方に同宿する。娘のうち、妹の英子はミッション系の女学校に通う13歳。臆せずものを言う性格で、無邪気に啄木に接近した。

19歳の姉久子は、年相応の恥じらいをもって彼に接した。久子と啄木の間に、ある種の感情の交差はあったようである。しかし、滞在わずか2週間で啄木はこの地を去る。


36 田村イネ(たむら いね)

本日本郷弓町二ノ十八新井方より小石川久堅町

七十四ノ四六号へ引越す。(略)いねにすけらる。


1911年(明治44)8月、啄木一家は小石川の借家へ移った。そしてここが啄木の最後の住居となる。暑い盛り、母も妻も自分も、肺を病み、咳と熱に苦しんでいた。引っ越しの「すけ」にきたのが長姉サダの娘イネである。啄木より六歳年少のイネは、新山グループ時代、啄木にいわれて、節子の家まで手紙を届けては、節子やその母からお駄賃をもらうかわいい「郵便屋さん」であった。

「不愉快な事件」の発端となった手紙を、郵便受けから取り出し、啄木に手渡したのは、このイネであった。


37 田村サダ(たむら さだ)

かぎりなき智識の欲に燃ゆる眼を

姉は傷みき

人恋ふるかと


長姉サダの家から盛岡中学に通っていた頃の啄木は、二つの熱に浮かされたいた。恋の熱と知識の熱と。サダは優しい姉であった。そして不幸な姉でもあった。16歳で結婚し、貧しい生活の中で5人の子を生し、31歳で帰らぬ人となった。

いつのときも、姉は弟の味方であった。難航していた節子との結婚問題も、彼女の奔走によって婚約にこぎつけることができた。なかなか会えない恋人たちのために、家を留守にしてふたりきりの時間をつくってやったりもした。


38 土井八枝(つちい やえ) 

二十歳の時、私の境遇には非常な変動が起つた。(略)

その変動にたいして何の方針も定める事が出来なかつた。


1905年(明治38)5月、啄木は自らの結婚式に出席するために帰郷の途中、仙台で下車し詩人土井晩翠を訪ね歓談した。一週間後、啄木は「田舎の母が重態だが旅費がないため帰れない」という創作の手紙を晩翠宅に持たせる。妻の八枝は27歳、真面目で勤勉な女性で手元にあった15円を持ち、人力車を走らせた。旅館に着いた彼女が見たものは、友人と酒を飲み真っ赤な顔をして談笑している啄木であった。

厚顔無恥ともいえるふるまいは、父の住職罷免により一家の生活の責任を負ったが、その現実と向き合えずにあがいている啄木の姿だった。


39 塔下苑の女たち マサ・ハナ・・・ 

八時半頃に遂々出かけた。(略)

妙に肌寒い心地で十二時に帰った。モウ行かぬ。


啄木が浅草の凌雲閣を初めて訪れたのは、1908年(明治41)8月下旬のことである。凌雲閣の北側に広がる私娼窟--啄木が塔下苑と名付けた場所である。マサは「貧乏な年増女」のように「荒れてガサガサし」た肌を持つ、18歳の娼婦である。ローマ字日記には彼女と過ごした、陰惨とも言える時間が描かれる。ハナは17歳。小奴に似ていた。ハナと過ごした夜は「うっとりとし」て「縹渺たる気持」になるのだった。

啄木が塔下苑の娼婦たちに引かれながら、同時に彼女たちを嫌悪したのは、最もみじめな男が、最もみじめな女を金で買い、苛む。愛しながらも嫌悪していた、自己への思いに通じるように思われる。


40 夏目鏡子(なつめ きょうこ)

私は全く恐縮した、まだ夏目さんの奥さんには

お目にかかつた事もないのである。


1912年(明治45)1月22日の日記である。薬を買うのにも窮した啄木は夏目漱石に金策を頼んだ。夫人鏡子は十円を届けてくれた。この親切は夫漱石の意向に添ったものでもあろうが、彼女自身の人柄の表れであったようにも思われる。儀礼的な見舞いではなく、深い同情を伴った行為ではなかったか、と推察する。

世間に「悪妻」と評される鏡子であるが、人情味豊かな女性だったのではあるまいか。


41 「並木」 

詩集刊行のために上京中のある夜、啄木は中学時代の友人小沢恒一宅の歌留多会で知り合った並木という女性を訪ね、「一晩だけ泊めてください」と頼み込んでいる。彼女は下宿の主人に頼んで空き部屋を貸してもらう。薄暗いランプの下で、古い机に向かい、啄木は一晩中何かを書いているふうだったという。 


42 沼田サタ・ヤエ 

宝徳寺本堂再建に献身的に尽力した大工沼田末次の娘たちである。妹ヤエ子のほおはビロードのようだ、と啄木は友人に語ったという。姉サタは薄幸の少女で、母にとっては義理の関係になり、いつも汚れた身なりをしていた。11歳のときジフテリアで急死。


43 平山良子(ひらやま よしこ=良太郎) 

君は若き女にして、我は若き男に候ひけり。


良子は菅原芳子の友人として、手紙と詠草を啄木の元に届けてきた。二度目の手紙に同封されていた写真を見た日、啄木は日記に「驚いた。仲々の美人だ!」と書く。早速したためられた返信は「君。わが机の上にほゝゑみ給ふ美しき君」と甘く呼びかける。

良子は実は、良太郎という味噌の製造販売を営む老舗の息子であった。だまされていたと知ったときの啄木の気持ちは想像に難くない。しかし、幻の「良子さん」を求める気持ちが軽薄であるよりも、痛ましく思われてならない。


44 福井しん(ふくい しん)

いつとなく、記憶に残りぬ----

 Fといふ看護婦の手の

 つめたさなども。


1911年(明治44)2月4日、啄木は「慢性腹膜炎」で東京帝大付属病院に入院する。三人部屋の十八号室担当看護婦は、福井しんだった。啄木は彼女の「手」を思い出す。その手は脈をとり、注射をし、塗薬をし、布団を直す。きびきびとした、働く女性の手だ。触れられると、ひやっと冷たい手だ。

福井しんの記憶は、生活に「疲れ」運命を「憎んでいた」啄木の心に、ぽっとともった、小さなほのかな灯りのようにも思われる。


45 堀田秀子(ほった ひでこ)

かの家のかの窓にこそ

春の夜を

秀子とともに蛙(かはづ)聴きけれ


啄木が1906年(明治39)4月から1年間、故郷渋民で代用教員をしていたときの同僚である。秋に赴任した彼女とは半年ほどの付き合いであったが、よく気が合い、啄木が彼女の下宿を訪ねて話し込むこともあった。

学歴はなく貧しくとも毅然としてへつらわない代用教員の啄木に、秀子は好意と信頼を寄せた。啄木---妻も子もある22歳の春であった。啄木は「渋民を思出して此人を思出さなかった事はない」と、故郷渋民と秀子の結びつきに気づいている。


46 堀合孝子(ほりあい たかこ)

血に染めし歌をわが世のなごりにて

さすらひここに野にさけぶ秋


「きみはをさなき妹の/姉に似たれば、無花果の/新樹のかげのほのめきに/ほゝゑみ見せて、おとづれし」啄木が孝子を歌った詩の一節である。姉の節子(啄木の妻)に面ざしも雰囲気もよく似ていた。優しくかれんな孝子に、啄木は理想の妹像を描いていたようである。

しかし結婚後、大好きな姉が次第に不幸になっていくようであったのは、孝子にとって心の痛むことであった。孝子は1918年(大正7)、28歳で結核で亡くなった。


47 堀合ふき子(ほりあい ふきこ)

あの不愉快な事件も昨夜になつて

どうやらキマリがついた、家に置く


啄木が妹光子にあてた1911年(明治44)9月16日付書簡の一節である。親友宮崎郁雨は函館の人、啄木一家を物心両面で支えた。彼が軍隊の演習地美瑛から出した節子宛の手紙が「事件」の発端だった。恋情溢れる言葉に激怒した啄木は節子に離縁を申し渡す。

ふき子は、節子の妹で「事件」の二年前に郁雨と結婚していた。口数の少ない女性であった。ふき子にいつもあったのは、「節子の妹」としてではない、ただひとりのわたしを見てほしいという、夫への切ない思いだったのではないだろうか。


48 増田雅子 

『明星』の三才媛の一人、「白梅の君」と称された。大阪の薬種問屋に生まれ、名家の因襲に足をとられながらも、上京し女子大に入った。新詩社の新年会後、恒例となっていた「徹宵吟会」に雅子も啄木も加わり、ともに詩や歌を作る。東大生の茅野蕭々とのちに結婚する。


49 三浦光子(みうら みつこ)

船に酔ひてやさしくなれる

いもうとの眼見ゆ

津軽の海を思へば


1907年(明治40)5月、啄木の家族は一家離散した。このとき、啄木とともに津軽海峡を渡ったのは、妹光子であった。「いもうとの眼」が「やさしい」ではなく「やさしくな」った、とうたわれているところに、啄木から見た妹の、日ごろの性格がはかられる。利発で負けん気の「兄のおさがりの木綿の着物を着た男の子そっくりの少女」だった。のちに光子は洗礼を受けキリスト者としての真摯な道を行くことになる。

啄木が妹にあてた手紙は、一貫してくだけた口語体である。飾らない物言いが、ふたりの心の距離の近さを感じさせる。啄木没後、光子は節子の晩節問題をも語ることになる。各方面から反撃を受けたが、彼女が事実を意図的に曲げて喧伝するような人間であったとは、思われない。彼女を突き動かしたのは、無念を抱いて逝った兄を思う、妹の情愛であったように思われる。


50 安並みなゑ

啄木が函館で代用教員をした弥生尋常小学校の女教師。1907年(明治40)7月、友人宅からの帰り道、「鶴の如く首延したる」彼女に会ったことをその友人宛書簡にしたため、8月には、啄木が野辺地に母を迎えに行く途中「学校をやめて八戸にかへる」彼女と偶然に会い、「さびしくもやめる人なりき」と日記に記している。


51 山川登美子

『明星』の三才媛の一人、「白百合の君」と称された。福井県小浜の名士の娘。鉄幹をめぐる晶子との相克ののち、いちどは彼らの元を去った。意に染まぬ結婚、夫との死別。やがて上京し歌作も再開した。節子と同じく白百合と呼ばれていた登美子を、若い啄木はしみじみと見たであろう。


52 山本トラ(やまもと とら)

岩見沢の姉は馬鹿者だ。


次姉トラは岩見沢に住んでいた。啄木より7歳年長、小柄で色白な美人であったという。トラが山本千三郎と結婚して以来、啄木は幾度も姉夫婦を訪ね、金銭的援助も受けている。妹光子も母も父もこの夫婦を頼って行っている。

妻の家族を全面的に受け入れた千三郎の人柄がしのばれる。同時にトラが夫に愛され、堅実な家庭を築いていた、賢明な女性であったこともうかがわせる。「馬鹿者」であるどころか、啄木を支え続けた姉であったといえるだろう。


53 与謝野晶子(よさの あきこ)

晶子さん(略)予はあの人を姉のように思うことがある。


中学時代、啄木は愛読書の一つとして与謝野晶子の『みだれ髪』を挙げている。1902年(明治35)初めて与謝野家を訪ねた。1908年(明治41)には与謝野家に滞在し、その後も頻繁に訪ねて行った。鉄幹が留守中、晶子と二人だけで語る機会もたびたびあった。彼女は子沢山の苦しい生活の中で、夏物を持たない啄木に、単衣を縫って贈ったりしている。

晶子は、啄木が共にいて「性」を意識することのなかった数少ない女性の一人であった。


54 「和賀の妻」

1907年(明治40)、啄木は北海道にわたり、函館の苜蓿社の同人たちの間借り先に転がり込んだ。彼らに部屋を貸す和賀という小学校教師の妻は、誰彼なく接近し思わせぶりの態度をとるので、若い同人たちは圧倒され辟易もし、奔放な妻を持て余す夫に同情もしたようである。彼女のことを啄木は「人妻はいと面憎しくれなゐの木の実の皿をわが前に置く」と歌っている。



2016-12-16

[][] 春「啄木かるた大会」石川啄木記念館 2/18

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[ホワイトサロ−ワトル]


啄木生誕祭 第15回啄木かるた大会

  • 開催日 平成29年2月18日(土)
  • 場所 渋民文化会館(姫神ホール)
  • 料金 無料
  • 対象 小学生以上 3人1組でお申込みください。

今年も、石川啄木の短歌100首をかるたにした啄木かるたの大会を開催します。ぜひご参加ください。

審判員をしてくださるボランティアも募集しています。詳しくは記念館にお問い合わせください。


  • お申込み・受付方法 1月4日(水)〜1月20日(金)の期間中に、申込用紙に記入の上、郵送またはfaxで石川啄木記念館(〒028‐4132盛岡市渋民字渋民9 fax019‐683‐3119)へお申込みください。

石川啄木記念館

チラシ

啄木かるた百首



2016-12-14

[] 「大の男が本当に蟹と戯れて泣いたか?」…俵万智さん

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[紅葉]


リレー連載 「先生と私」(第10回)

 「先生への憧れがパワーを生む」俵万智さん

  • 高校は親の転職で福井県に引っ越し、そこで出会った国語の田辺洋一先生が憧れの先生でした。田辺先生は、ちょっと斜に構えた文学の話をよくされていました。
  • 例えば、石川啄木の「われ泣きぬれて蟹とたはむる」という一節について「いい年をした大の男が本当に蟹と戯れて泣いたと思うか?」と問いかけてきて、文学少女だった私はカッコいいなと思いました。
  • 大学卒業後は国語教諭になり、2年目に『サラダ記念日』を出版しました。
  • 今の先生方は本当に大変だと感じています。生身の人間を相手にしていることの重大さと素晴らしさを、先生方が日々感じられる環境であってほしいと願っています。

(2016年9月号 教職員のための共済フォーラム)


2016-12-13

[] 「海風」101号  国際啄木学会高知セミナー特集

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[「海風」表紙]


短歌雑誌「海風」101号 2016年10月


◎国際啄木学会高知セミナー開催  中山恭子

  • 国際啄木学会高知セミナーが、6月18日高知県立文学館ホールで開催された。4月の初め岡林一彦さんから国際啄木学会セミナーが高知で行われることになったので、協力をとの呼びかけがあった。
  • セミナー当日は、各地から学会員50人が会場を訪れ、県内の参加者も68人を数え、ホールは満席となり熱気にあふれた。翌日の文学散歩には51人が参加した。
  • 7月29日、実行委員会で記念として高知駅前観光案内所などに置く父子歌碑のリーフレット5000部を増版することになった。
  • 国際啄木学会高知セミナーが盛会に終わったことを心から喜びたい。

◎「海風」100号に思う  梶田順子

 (飛鳥かわら版2016年清夏号より)

  • 「海風」は1991年に国見純生が創刊した短歌雑誌です。
  • 石川啄木の父一禎が高知市で亡くなったことを記念して2009年に一禎終焉の地の近くのJR高知駅前南広場に啄木父子歌碑が建立されました。これは1992年に国見純生が一禎の終焉の場所を特定し、そこに高知県歌人協会が木の標柱を設置していたことに端を発しています。
  • 「海風」誌には歌碑建立の初めからの記録を残すことに務め、「啄木・一禎関連」ページを連載している所以です。

◎啄木・一禎関連 その二十九  梶田順子

  • 国際啄木学会高知セミナー報告

◎国際啄木学会高知セミナー

  • リーフレット
  • 写真集

◎啄木短歌一首抄39  藤田兆大

  そんならば生命が欲しくないのかと、

  医者に言はれて、

  だまりし心!

  • この医師の最後通告めいた言葉から始まっており、患者である啄木は、自分の病状がどれ位深刻なものであるか、まだ充分理解していなかった。
  • この一首は「だまりし我は」でなく「だまりし心」と言ったところに、その時の彼の複雑な心情が表れている。

◎啄木は世界に  中山恭子

  啄木に寄する思ひを一堂に国際啄木学会高知セミナー



2016-12-11

[] 子ども世代に 啄木を伝える取り組みの定着

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[紅葉]


啄木ゆかりの場所巡り幸せ < オピニオン < 岩手日報

  岡林一彦(高知市 元啄木高知セミナー実行委員長)

  • 国際啄木学会が盛岡で開催され、4年ぶりに啄木のふるさとを訪ねた。会場の姫神ホールでは、6月の啄木高知セミナーに参加してくれたみなさんと懐かしく再会。
  • 今回は若い子ども世代に、啄木をしっかりと伝えられていく取り組みが進められ定着していることが強く感じられた。それは、啄木が作詞した校歌を合唱する渋民小学校の児童たち、啄木の短歌と今を重ね合わせながらの群読劇「風の吹くところ」をみずみずしい感性で見事なまでに熱演してくれた渋民中学校全生徒のみなさんのパワー。
  • ゆかりの場所を巡っては、その風景の中に立ち、自然と短歌をそらんじている自分がうれしく、記憶のなかに焼き付けてしまった。
  • 高知は啄木の父一禎の終焉の地で、啄木のふるさと盛岡との交流をもっと深めていこうと岩手山に別れを告げ、たくさんの思いを心に刻み帰ることができた。

(2016-11-15 岩手日報


2016-12-09

[][] ト音記号や休止符で啄木・賢治を表す 盛岡 12/7~12

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[紅葉]


啄木・賢治 切り口多彩 岩手デザイナー協会展 12/7~12

  • 岩手デザイナー協会展2016「啄木のかたち・賢治のいろ」は7日、盛岡市プラザおでってで始まった。地元デザイナーたちが先人に思いをはせ、多彩な切り口でイメージを表現している。テーマは石川啄木生誕130年と、宮沢賢治生誕120年にちなんだ。会員17人がポスター計41点を出品した。
  • 作者は20〜80代と幅広く、コンピューターグラフィックスや手描き、写真の組み合わせなど表現方法はさまざま。詩や物語の一場面を切り取ったり、ト音記号や休止符を使って2人のイメージを表すなど、感性を生かした作風が目を引く。12日まで。入場無料。

(2016-12-08 岩手日報

ギャラリーおでって(岩手県盛岡市中ノ橋通1-1-10プラザおでって2F)


[][] ふるさと渋民を歌った啄木 一関市渋民の芦東山 記念館企画展 1/28~4/16

石川啄木記念館企画展

 ミニ展示「北の渋民、南の渋民」

  • 開催期間 平成29年1月28日(土)〜4月16日(日)
  • 場所 石川啄木記念館

ふるさと渋民を歌った石川啄木(1886〜1912)。一関市の渋民に生まれた仙台藩の儒学者・芦東山(1696〜1776)。同じ渋民という故郷を持つ偉人を紹介します。芦東山が刑法について執筆した「無刑録」(複製)も展示します。

石川啄木記念館


2016-12-07

[][] 「啄木のかたち・賢治のいろ」ポスター展 盛岡 12/7~12

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[クリスマス]


盛岡市】アート・クラフト・文化

 『岩手デザイナー協会展2016「啄木のかたち・賢治のいろ」』



岩手デザイナー協会では、石川啄木生誕130年・宮沢賢治生誕120年の記念すべき節目にあたる今年、岩手を代表する文学者にリスペクトを寄せ、ひととなり・想いの数々・不朽の名作群を巡り、不来方に息づく精神風土や文化的土壌を今日的な視点で捉えるポスター展を開催します。(プラザおでって市民企画)


  • 開催日 12月7日(水)10:00〜19:00
  • 終了日 12月12日(月)10:00〜18:00
  • 場所 ギャラリーおでって(岩手県盛岡市中ノ橋通1-1-10プラザおでって2F)
  • 問い合わせ先 岩手デザイナー協会事務局(グラフィコ内)

(チイキーズ(岩手の情報サイト))


[] 平出修は「明星」の同人で石川啄木とも親しかった

(新ポリティカにっぽん)源氏物語から政治を考える

 早野透=元朝日新聞コラムニスト・桜美林大学名誉教授

  • 11月の最後の日曜日、東京・日比谷のホールで、「明星研究会」の「与謝野晶子の古典愛」と題する催しがあって、出掛けてみた。この日のテーマは、晶子と晶子が現代語訳した「源氏物語」の関係について、歌人たちが論じあうものだった。
  • 1911年1月、天皇を害そうと企てたという大逆事件というできごとがあって、幸徳秋水や大石誠之助、管野スガら12人の社会主義者が死刑になった。しかしこれは、明治国家が仕組んだ冤罪(えんざい)だった。ちょうどそのころ、出産に臨んでいた与謝野晶子は、こんな歌を詠んだ。

 産屋なる わが枕辺に 白くたつ 大逆囚の 十二の棺

  • この事件の被告人たちの弁護人となったのは、平出修という人物である。新潟県出身、弁護士であり歌人でもある。「明星」の同人であって、石川啄木とも親しかった。その孫にあたるのが平出洸さんで、わたしが朝日新聞で連載していた「ニッポン人脈記――大逆事件残照」という記事を書いたとき、取材を通じて知り合い、こんどの催しを教えていただいた次第である。
  • 源氏物語」はいうまでもなく、時は平安時代、紫式部が書いた、光源氏という美男子が数々の女性と繰り広げた恋愛物語である。ところが、わたしが驚いたのは、島内景二さん(電気通信大学教授・歌人)によると、「源氏物語」は、じつはむしろ「政道書」として読まれてきたという側面があるというのである。それはどういうことか、政治の教科書ということなのかどうか、「源氏物語」ってそんな読み方もできるのか。

(2016-12-06 朝日新聞)


2016-12-06

[][] 企画展「啄木と賢治―ふたりが遺したもの―」奥州市 12/27

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[ナンテン]


奥州市立前沢図書館

 企画展「啄木と賢治―ふたりが遺したもの―」


  • 12月27日(火)まで企画展「啄木と賢治―ふたりが遺したもの―」開催中

石川啄木生誕130年、宮沢賢治生誕120年を迎え、二人の作家が歩んだ道、作品の魅力を豊富な資料と共に紹介。


  • 奥州市立前沢図書館
    • 岩手県奥州市前沢区字七日町裏71
    • 電話 0197-56-6781


2016-12-05

[][] 金田一京助は3mを超す手紙に 啄木が来た喜びを書いた

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[ヒマラヤスギ]


《作品に登場する啄木》

 『金田一家、日本語百年のひみつ』

  金田一秀穂 朝日新書 2014年 760円+税


  • 晩年、いろいろな場所に呼ばれて講演をするのが、京助も楽しかったのだろう。石川啄木の臨終の報に呼ばれて駆け付けた話とか、アイヌの人々との心の交流の話とか、ドラマチックなネタはたくさんあり、それを情熱を込めて語るのだ。何度同じ話をしても、同じところで絶句し、同じところで涙することもあったらしい。聴衆にとっても、感動的であったらしい。
  • 金田一の菩提寺は、龍谷寺という。石川啄木の母が、この寺の住職の妹である。後に親友となる啄木と京助は、自然に結ばれるようになっていたことが分かる。
  • 盛岡市内にてがみ館という施設があって、盛岡に縁のある著名人の手紙を集めて展示している。その施設が所有する最も長文の手紙が、京助の書いたものであるというので見に行った。3メートルを超す毛筆巻紙のものである。石川啄木が上京して京助の下宿に転がり込んできて、そのことの喜びを盛岡にいた共通の知人に書き送ったものだった。文体が饒舌であり、しかしその分、京助の肉声が聞こえてくるようなものだった。
  • 市の先人館という施設には、新渡戸稲造、米内光政とならんで、京助の展示室が用意されている。昔京助が使っていた書斎がそっくりそのまま移設復元されていて、ふすまの模様が懐かしかった。こうして保存して、故郷を守っている人たちに、いくら感謝しても足りない。


【初代】金田一京助(きんだいち・きょうすけ)
1882(明治15)年、盛岡市生まれ。石川啄木の親友として知られる。1971(昭和46)年没、89歳。

【二代目】金田一春彦(きんだいち・はるひこ)
1913(大正2)年、京助の長男として東京都に生まれる。2004(平成16)年、91歳で没。

【三代目】金田一秀穂(きんだいち・ひでほ)
1953(昭和28)年、春彦の次男として東京都に生まれる。


2016-12-04

[] 90歳になる来年「高村光太郎石川啄木について本を書くつもり」中村稔氏

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[黄葉]


◎遠みち 近みち < 日本経済新聞 夕刊

 中村稔89歳 燃える執筆意欲 編集委員 宮川匡司

  • 「四十五十は洟(はな)垂れ小僧」という言い回しに、20代のころは反発を覚えていたものだ。しかし、いざその年代も過ぎようとしている昨今、「なるほどうまいこと言うものだ」と苦笑いを交えて、肯(うべな)うことが多くなった。
  • 来年1月に90歳を迎える詩人で弁護士の中村稔氏の驚くべき仕事ぶりに接した時には、怠惰な自分を省みて悄然(しょうぜん)とならざるをえない。ほぼ2、3カ月おきに単行本を出し、しかも西鶴文学という新たなジャンル、書き下ろし詩集という新たな形態への挑戦が続くという、とても卒寿とは思えない精力的な執筆活動を続けている。
  • 90歳になる来年は、「高村光太郎石川啄木についてそれぞれ本を書くつもりです」。言葉の本質を見つめる仕事は、なおも途上といっていい。

(2016-12-03 日本経済新聞 夕刊)


2016-12-03

[] 石川啄木の歌を見て「なんだこの弱気な男は!」ってイライラした

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[ハイビスカスローゼル]


週刊朝日  2016年12月9日号

 知花くららも納得!「つまらない短歌もよむ」ことの大切さ

  • モデルの知花(ちばな)くららさんが、「朝日歌壇」の選者である永田和宏先生に短歌を詠む秘訣を聞く本誌連載『知花くららの「教えて!永田先生」』。今回は近代短歌の歌人について尋ね、つまらない歌もよむ(読む/詠む)ことの大切さを教わった。

*  *  *

知花:今日は先生が考える、知っておいたほうがいい近代短歌の歌人を教えてください。

永田:僕ね、近代以降に作られた歌の中から、歌を作らない人でも知っておいてほしい100首を選んだ『近代秀歌』という本を出しているんです。ぜひ好きな歌人を見つけて深く知ってほしいと思いますね。歌は代表歌に惚れるんじゃなくて、それを作った人に惚れることが大事だから。

知花:そういえば私が小さいころ、母がなぜか「石川啄木を朗読しましょう」と言い出したことがあって。当時は意味もわからないまま「エライ人の歌」「文学」という感じでサッと読んだだけでしたけど、のちに啄木の人生を調べる機会があって、その後で彼の歌を見ると「なんだこの弱気な男は!」ってイライラしたんです(笑)。でも逆に言えば、彼の歌をすごく身近に感じて。私たちと変わらないんだなぁって。

永田:あ、まさにそれが大事なの。歌人だからって、立派な人ばかりじゃないんですよ。駄作も含めて鑑賞すると、いい歌がより際立つから。いい歌ばっかり作ろうとすると、いい歌はできてこない。100首作って、1首いい歌ができたら上出来ですよ。だからこそ、ダメな歌も必要で、たくさん作ることも重要なんです。

週刊朝日  2016年12月9日号より抜粋

(2016-12-03 excite.ニュース)


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「本家 啄木の息」は、下記のリンクでご覧になれます。

・石川啄木 年譜 ………… 26年と53日の生
・ローマ字日記………… 漢字と仮名では書けないことをローマ字で
・啄木文学散歩………… 息づかいの聞こえる ゆかりある場所を訪ねて
・啄木行事レポート …… イベントに参加しての私的レポート
・啄木の 女性たち ……… 啄木の人生を彩った「忘れな草」たち
・啄木と花 ……………… 歌に登場する花や木の資料

◉ 「本家 啄木の息」のトップページ ……………… アーカイブです。


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