〖 啄木の息 〗

石川啄木の魅力を追い 息づかいに触れてみたい

2016年暮れ「石川啄木終焉の地歌碑・顕彰室」 <3>

啄木文学散歩・もくじ


 3 「石川啄木終焉の地歌碑」


都会の一隅 静かな佇まい「石川啄木終焉の地歌碑」

啄木最後の日記「千九百十二年日記」

   1912年(明治45年)
二月二十日(火)
日記をつけなかつた事十二日に及んだ。その間私は毎日毎日熱のために苦しめられてゐた。三十九度まで上つた事さへあつた。さうして薬をのむと汗が出るために、からだはひどく疲れてしまつて、立つて歩くと膝がフラフラする。
さうしてる間にも金はドンドンなくなつた。母の薬代や私の薬代が一日約四十銭弱の割合でかゝつた。質屋から出して仕立直さした袷と下着とは、たつた一晩家においただけでまた質屋へやられた。その金も尽きて妻の帯も同じ運命に逢つた。医者は薬価の月末払を承諾してくれなかつた。
母の容態は昨今少し可いやうに見える。然し食慾は減じた。

  • 啄木日記はこの日で終わる。この2月20日は奇しくも啄木26歳の誕生日。
  • 明治45年(1912)4月13日、26歳2カ月、石川啄木この地で死去。





碑材にはふるさと渋民の啄木第一号歌碑と同じ「姫神小桜」を使用

  • 高さ 約 130cm


石川啄木終焉の地 歌碑・顕彰室 「建碑報告書」

歌碑の石材「姫神小桜」 大室精一
「石をもて追はるるごとく」ふるさとを離れた啄木は、晩年に多くの望郷歌を詠んでいる。そこには帰りたくても帰ることのできなかったふるさとへの想いが籠められていると思われる。
その啄木の望郷の念を叶えるために、終焉の地の歌碑の石材は啄木の故郷の石「姫神小桜」を用いている。





日本近代文学館所蔵の啄木直筆原稿を刻む

  • 歌碑に刻まれているのは、没後に出版された『悲しき玩具』冒頭の2首。


<歌碑に刻まれた歌>
   呼吸すれば、
   胸の中にて鳴る音あり。
    凩よりもさびしきその音!


   眼閉づれど
    心にうかぶ何もなし。
     さびしくもまた眼をあけるかな


   (「呼吸」は「いき」、「胸の中」は「むねのなか」と読む)


石川啄木終焉の地 歌碑・顕彰室 「建碑報告書」

解説「白鳥の歌二首」 近藤典彦
この歌の作歌事情と作歌時期

  • 明治43年11月末から、ノート歌集には四首単位でつぎつぎと歌が書きこまれて行きました。
  • 明治44年2月結核性腹膜炎になって入院、その後退院。不治の病中でも精力的に歌を作り、大逆事件を調査し記録。8月7日小石川の終焉の地に引っ越します。21日、ノート歌集の最後に記入された十七首を作ります。
  • 9月、親友宮崎郁雨から妻節子にラブレターが来て二人の関係が発覚(明治42年6月ころから疑惑を抱いていた)。啄木はこのショックで以後歌を作らなくなります。泉のように歌の湧き出る人でしたが。
  • 病気は悪くなる一方です。明治45年(1912)2月土岐哀果から歌集を贈られ、啄木は創作意欲をかすかにかき立てられます。歌集ノートではなく二百字詰原稿紙にメモしたのが歌碑になった二首です。
  • この二首を「白鳥の歌」と名づけたのはわたくしですが、簡単に解説します。手許のドイツ語辞書の Schwanengesang にこうあります。「白鳥の歌(白鳥が死の前に歌うと言われる美しい歌。転じて作曲家や詩人の最後の作品を指す)」と。シューベルトの遺作歌曲集は「白鳥の歌」と題されました。
  • わたくしは歌碑になった二首が啄木の「白鳥の歌」だと思います。いかがでしょうか。




歌碑陶板横の揮毫は楢崎華祥氏







石川啄木終焉の地歌碑」

この地に石川啄木の住まいがありました。その家で啄木が最後に創作した歌がこの2首です。右に東京都指定旧跡「石川啄木終焉の地」の説明板、左の顕彰室に歌碑の解説等がありますのでご覧ください。
岩手郡渋民村(現在は盛岡市内)を故郷とし、この地でその生涯を閉じた石川啄木。ゆかりの深い文京区と盛岡市では平成19年より啄木の顕彰等を通じて交流を深めてきました。
啄木の没後100年を迎えた平成24年、啄木を愛する方々による「啄木終焉の地に歌碑を」との声を受け、文京区は隣接する国有地の取得を発表。建碑に向けて検討を開始しました。
平成25年、隣接地への高齢者施設の開設にあわせて啄木歌碑と顕彰室の設置を決定。文京区石川啄木基金を設けて、広く寄附を呼びかけました。
平成27年3月、多くの方々のご協力をいただき、この歌碑が誕生しました。
      碑材:姫神小桜(啄木のふるさとの山・姫神山産)
      揮毫(啄木直筆原稿の左):楢崎華祥 氏




背中にまわると、いたずらっ子のような雰囲気


(つづく)