啄木の息 <ブログ版>

─ いまもなお瑞々しく語りかけてくる啄木の魅力を追い その息づかいに触れてみたい ─

     「本家 啄木の息」のリンクは、このページの最下段にあります。

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2017-04-28

[] 北方謙三「思わず啄木を思い出しましたねえ」

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[ネグンドカエデ]


〇「語る 人生の贈りもの」北方謙三:5 [朝日新聞] 

 作家・北方謙三

  • 私はね、ホント女房に頭が上がらないんですよ。
  • 《大学卒業後は就職せず、10年にわたり純文学を書き続けた。いわばフリーター生活。それなのに26歳のとき、大学の同窓生と結婚する》
  • 卒業後、彼女は高校教師になった。こっちは何年間も原稿が載らなくて、自分は天才じゃないかもしれない、と思い始めたころ。きちんとした職を持った人と一緒になれば楽かもしれないという気持ちが少しはありました。ところが結婚するときには、すっぱり辞めてしまったんです。衝撃でしたねえ。とはいえ文句を言うわけにいかない。腹をくくって働きました。手配師のところに行ってね。
  • 女房は子供まで産んじゃった。愕然(がくぜん)としましたねえ。生まれた長女の顔をみて、さすがにプレッシャーを感じました。で、とにかく35歳まではがんばってみようと思った。
  • そのころ、中学高校の同窓会に顔を出したんです。「お前、何やってんだ」と聞かれ、「まだ小説書いてる」と答えると、「おまえ偉いな」と、かわいそうな人を見るような目で見られた。ひりひりした気分のまま家に帰ってきて、じっと座っていると、女房が庭で育てたバラを1本、パチンと切って傍らに置いた。思わず啄木を思い出しましたねえ。

 〈友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買ひ来て妻としたしむ〉

 (聞き手・野波健祐

(2017-04-28 朝日新聞)


記事



[] 石川啄木が短歌の題材にした「とうきびワゴン」始まる

「名物ワゴンお目見え…札幌・大通公園」[読売新聞]

  • 札幌市中央区の大通公園で26日、名物「とうきびワゴン」の営業が始まった。屋台からは甘い匂いが漂い、観光客などがさっそく買い求めていた。
  • とうきびワゴンは、明治時代に平岸村の農家がとうきびを焼いて売り歩いたのが起源といわれ、石川啄木が短歌の題材にするなど、市民に広く親しまれている。
  • 台湾から家族や友人と観光に訪れていた林游南さんは「北海道のとうきびは台湾でも有名。とてもおいしい」と笑顔を見せていた。

(2017-04-27 読売新聞)


記事



[][] 講座「もっと知ろう人間啄木」釧路 6/12

第2回啄木講座「もっと知ろう人間啄木」

  • 2017年6月12日(月)午後1時〜2時
  • 会場 港文館 北海道釧路市大町2-1-12
  • 講師 北畠立朴氏(釧路啄木会会長)
  • 受講料 400円(資料・飲み物代)定員 20名程度
  • 申し込み・問い合わせ  港文館(電 0154-42-5584)

記事



2017-04-27

[] 関西の啄木人気の背景分析 -国際啄木学会開催-

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[シンポジウム 左端司会席より 瀧本和成氏、河野有時氏、田中礼氏、木股知史氏(撮影:山田武秋氏)]


関西の啄木人気に迫る -京都で国際学会セミナー-

  • 国際啄木学会(会長・池田功明治大教授)の京都セミナーは22日、京都市中京区の立命館大で開かれた。石川啄木が生前訪れたことがない関西の地でも人々の心を捉え、深い関心が示され続ける背景を探った。京都開催は2010年の京都大会以来、7年ぶり。開会式で池田会長は「関西では1930年代から啄木を研究する人や愛好してやまない人が実に多い。どうしてなのか究明したい」とあいさつした。
  • 「〈関西〉における啄木研究/啄木研究における〈関西〉」と題した討論では、京都大名誉教授の田中礼(ひろし)さんと甲南大教授の木股知史(さとし)さんが基調報告。田中さんは首都圏に次ぐ関西の都会性を挙げ、啄木の望郷歌はそれぞれの古里への思いに仲立ちしたとした。「関西は在野の学問が盛んで清新はつらつ、活気のある自由な教育が生まれた。こういう気風から『啄木研究』が生まれてきたのではないか」とした。木股さんは1922(大正11)年に歌誌「ポトナム」を創刊し、立命館大教授にもなった小泉苳三(とうぞう)に焦点を当てた。「本質は刹那の感動を盛るもの」とする小泉の「短歌論」や、江戸時代の歌人の郷愁表現が啄木と通じる部分があることを語った。
  • 愛好者が集う「関西啄木懇話会」は80年ごろ始まり、本を出版するほど活気があったという。天理大名誉教授の太田登さんは「アカデミックではなく、平場で啄木の良さを語り合った」と補足した。
  • セミナーはそのほか、太田さんが「〈漂泊の愁ひ〉考―歌集『一握の砂』の主題再説」として発表。立命館大学教授の田口道昭さん、京都府立北稜高講師の倉部一星さんの発表もあった。(学芸部・佐藤俊男)

(2017-04-27 岩手日報



2017-04-26

[][] 現代に読み継がれる啄木の魅力 講演会 5/21

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[ハナズオウ]


〇取手市民大学特別講演会

 石川啄木の日記と手紙」ーその魅力を読み解く− 池田功氏

石川啄木は、明治45年(1912年)にわずか26歳と2ヶ月でなくなりました。しかし没後100年を経た現在でも、多くの人が啄木の短歌を口ずさんでいます。代表的な詩集「一握の砂」やその冒頭の歌「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」は、よく知られている作品の一つです。
講演会では、現代に読み継がれている啄木の日記や手紙の魅力について読み解きます。

  • 日時 平成29年5月21日(日曜日)午後2時から午後4時まで(開場午後1時)
  • 会場 取手ウェルネスプラザ 多目的ホール
  • 講師 池田功氏(明治大学大学院教授、国際啄木学会会長)
  • 対象 市内在住・在勤・在学のかた
  • 定員 400人
  • 受講料 無料

申込方法等 詳細

広報とりで



2017-04-25

[] 啄木「不来方のお城のあとの草に寝て」誰にも言えない悩みを…

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[シダレザクラ]


「天地人」[北日本新聞ウェブ]

  • 不来方(こずかた)のお城のあとの草に寝て空に吸はれし十五の心」。明治43(1910) 年の石川啄木の一首。啄木は故郷、岩手の盛岡中学の生徒で、お城は学校の近くに あった盛岡城だ。
  • 大の字に寝転んで青空を見上げていると体だけでなく心まで吸われていく。青春 真っ盛りの日を大人になった啄木が回想したものだ。貧困と孤独の人生を送った人で あったからか、甘酸っぱくも少し切ない。今も昔も それが青春というものなのかもしれない。 それでも現代の若者は情報があふれる中、 家族や友人関係、勉強にと誰にも言えない悩みにあえいでいる。
  • 昨春10代向けの相談サイト「Mex(ミークス) 東京版」を始めた東京都新宿区の「3Keys(スリーキーズ)」が6月に「全国版」をスタートさせるという。膨大な情報の中から 信頼できる団体にたどり着け、さらに適切な支援が受けられるようにするのが狙いだ。 相談相手がおらず、青空が見えないでいる若者は少なくない。

(2017-04-23 北日本新聞>Web東奥)


記事



2017-04-24

[][] 「啄木の歌曲を歌う」コンサート 5/18

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[マンサク]


ふれあい塾あびこレクチャーコンサート

 「啄木の歌曲を歌う」

市内在住のソプラノ歌手が、得意の啄木歌曲のほか、楚人冠、山下清ゆかりの歌も歌う。

 〇 ソプラノ歌手 田中美沙季さん

 〇 ピアノ 南澤佳代子さん

  • 2017年5月18日(木) 13:00-14:30
  • 会場 我孫子市生涯学習センター(アビスタ)ホール

   (千葉県我孫子市若松26番地の4)

  • 参加費 700円(当日)
  • 定員 150名(申し込み順、当日申込みは受付順)

私(田中美沙季)は我孫子市在住のソプラノ歌手です。同郷の国民的歌人石川啄木の短歌や宮沢賢治による歌曲にも打ち込んでいます。

今回は、啄木の短歌による代表的な歌曲「初恋」「ふるさとの山に向ひて」「東海の」等を、自ら撮影した写真をバックに歌う他、我孫子ゆかりの、啄木の上司でもあった杉村楚人冠山下清に関する歌も心を込めて演奏いたします。ぜひ、お誘い合わせの上ご来場ください。


記事



[][] 実生活から啄木の人物像に迫る 講座 6/2〜16

文学史講座「石川啄木

  • 2017年6月2日(金)・6月9日(金)10:00〜12:00
  • 2017年6月16日(金)9:00〜16:00
  • 会場 岩手県盛岡市松園・松園地区公民館(6/2、6/9)

    盛岡市内歌碑等巡検(6/16)

  • 募集人数 市民15人
  • 講師 慈雲山浄泉寺住職 山崎教真さん
  • 内容 石川啄木の短歌を生んだ風土について学び、出生から青年期にかけての実生活から啄木の人物像に迫る。

申込等詳細



2017-04-21

[][]  「石川啄木来函110年に寄せて」函館市文学館 4/9~10/3

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[ツクシシャクナゲ]


函館市文学館 平成29年度企画展

石川啄木来函110年に寄せて〜啄木の函館132日」

  • 会期 平成29年4月9日(日)〜平成29年10月3日(火)

110年前ここ函館に暮らし、多くの仲間と青春を謳歌し、苦しい生活に直面し、天才をもって任じながらも時には弱音を吐く、豊かな人間性を持ち、常に文学への夢を膨らませた啄木の思いや感情を感じとっていただければ幸いです。


平成29年度 「文学の夕べ」

第1回「歌に美しく昇華した函館の百三十二日」

 日時 平成29年5月23日(火)18:30〜

 講師 森 武 氏

第2回「啄木の診断書〜日記から解き明かす啄木のからだとこころ」

 日時 平成29年6月6日(火)18:30〜

 講師 水関 清 氏 


企画展

函館市文学館HP


[] やはらかに柳あをめる/北上の… ヤナギを思い浮かべる人がどこかに

「北斗星」[秋田魁新報]

  • 通勤途中に見上げると、秋田市役所前のヤナギが芽吹いていた。柄にもなく、石川啄木の〈やはらかに柳あをめる/北上の岸辺目に見ゆ/泣けとごとくに〉が口をついて出た。古里の岩手から遠く離れて暮らす啄木は、北上川べりのヤナギが青く色づく情景を思い浮かべながら、泣きたくなるほど望郷の思いを募らせたのだろう。この歌は啄木の第1歌集「一握(いちあく)の砂」(1910年)に収められている。
  • 秋田市の山王大通り沿いに植わっているヤナギやプラタナスの一部は、かつて朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に帰還する人たちが記念に植樹したという。啄木のように、このヤナギを思い浮かべる人がどこかにいるかもしれない。
  • 戦前から戦中にかけて多くの朝鮮人が労働力として日本各地に駆り出された。戦後も日本にとどまった人がいる一方で、1948年に北朝鮮が建国されると希望を胸に一家で移り住む人々がいて、県内でも各地で壮行会が開かれた。日朝赤十字による帰還事業で朝鮮人の夫と北朝鮮に渡った日本人妻は約1800人、本県からは10人以上が渡航したとみられる。だが日朝間に国交がないため多くは里帰りさえできず、既に亡くなった人もいる。

(2017-04-21 秋田魁新報

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2017-04-20

[][] 啄木祭「『逆説』で読む啄木の歌」講演 井沢元彦氏 6/3

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[「2017啄木祭」チラシ表]


2017啄木祭

  • 開催日 平成29年6月3日(土)
  • 開催時間 午後1時30分〜午後4時(入場は午後1時)
  • 開催場所 姫神ホール(盛岡市渋民文化会館)
  • 内容 郷土の歌人石川啄木を偲び,「2017啄木祭」が開催されます。盛岡文士劇にも出演されている歴史小説家・推理作家の井沢元彦氏を講師にお迎えして「『逆説』で読む啄木の歌」と題して講演していただきます。また,渋民小学校鼓笛隊や渋民中学校群読劇,女性コーラスグループのコールすずらんなど,啄木にちなんだ歌や劇が披露されます。
  • 費用 前売券は1000円,当日券は1300円となります。

裏千家「秋明会」によるお茶席

  • 午前10時から午後1時まで,石川啄木記念館中庭の旧斎藤家住宅にて,お茶席を開催します。参加費は200円です。

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[「2017啄木祭」チラシ裏]

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2017-04-18

[][] 啄木ファンを魅了する『一握の砂』の紹介 石川啄木記念館企画展 4/25~9/3

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[企画展「啄木と『一握の砂』」チラシ表]


石川啄木記念館 第7回企画展

 「啄木と『一握の砂』」

  • 開催期間 平成29年4月25日(火)〜平成29年9月3日(日)まで
  • 開催場所 石川啄木記念館
  • 内容 啄木の代表作『一握の砂』について紹介する企画展を開催します。歌集が発行されるまでの出来事や,作品の魅力を知ることができます。いまなお多くの啄木ファンを魅了する歌集『一握の砂』。作品を読んだことがない方も,この機会にぜひお越しください。

記事


第7回企画展「啄木と『一握の砂』」ギャラリートーク

  • 開催日 平成29年4月25日(火)、5月28日(日)、6月25日(日)、7月30日(日)、8月27日(日)
  • 時間 各日とも14:00〜14:30
  • 場所 石川啄木記念館 展示室
  • お申込み・受付方法 当日、直接会場にお越しください

第7回企画展「啄木と『一握の砂』」について、当館館長または学芸員がわかりやすく解説!

この機会に、ぜひお越しください。

記事


第7回企画展関連館長講演会「『一握の砂』ができるまで〜歌集の特徴とともに〜」

  • 開催日 平成29年5月27日(土)
  • 時間 13:30〜15:30
  • 場所 渋民公民館 2階大会議室
  • 講師 石川啄木記念館館長 森義真
  • お申込み・受付方法 当日直接会場にお越しください

いまなお多くの啄木ファンを魅了する歌集『一握の砂』。

作品の成立過程や特徴について、当館館長・森義真(もりよしまさ)がわかりやすく紹介します。作品を読んだことがあるという方も、まだ読んだことがないという方も、この機会にぜひお越しください。

記事


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[企画展「啄木と『一握の砂』」チラシ裏]


  • 石川啄木記念館
    • 〒028-4132 岩手県盛岡市渋民字渋民9
    • TEL:019-683-2315 FAX:019-683-3119


2017-04-16

[] 厳寒の旭川に「列車の窓に花のごと…」啄木

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[旭川駅構内の石川啄木像・歌碑 2012年建立]


真生(SHINSEI)2017年 no.303

 石川啄木と花」 近藤典彦

  第八回 窓ガラスに咲く花


  水蒸気

  列車の窓に花のごと凍てしを染むる

  あかつきの色

  • 作歌は1910年(明治43)10月上旬。『一握の砂』(1910年12月刊)所収。
  • 石川啄木は1908年(明治41)1月20日旭川駅で下車しました。釧路新聞に就職のため小樽に老母妻子を置いての単身赴任でした。旭川で釧路新聞社長の白石義郎と合流します。一泊して翌早朝の汽車で釧路に向かいました。旭川滞在は15時間余でした。よほど印象が強かったと見えて、2年半後に旭川の歌を四首も作ります。

  名のみ知りて縁もゆかりもなき土地の/宿屋安けし/我が家のごと

  伴なりしかの代議士の/口あける青き寐顔を/かなしと思ひき

  今夜こそ思う存分泣いてみむと/泊まりし宿屋の/茶のぬるさかな

  水蒸気/列車の窓に花のごと凍てしを染むる/あかつきの色

  • 今から7、8年前までは「今夜こそ」までの三首が旭川の歌、四首目は汽車が旭川をずっと離れてからの歌とされていました。「宿屋の茶」がぬるかった、サービスの至らぬ宿だった、ということになります。
  • (しかし)啄木は釧路の寒さをこう書いています。「下宿の二階の八畳間に置き火鉢一つ(では)…いかに硯を温めて置いても、筆の穂忽ちに氷りて、何ものをも書く事が出来ず候」。
  • 三首目の「茶のぬるさ」は1908年(明治41)1月21日朝の厳寒の表現だったのです。この日より6年前の1902年(明治35)1月25日は日本観測史上第一位の、氷点下41度を記録した旭川です。啄木が泊まった朝も氷点下27.1度。猛烈な寒気が天地を覆い、宮越屋旅館にも容赦なく侵入する。熱湯は急須に注ぐとぬるくなる。湯飲みに入れるとなお冷める。厨から運ばれたときには夏の川の水のよう。
  • 四首目は、旭川駅で6時半発釧路行きの始発列車に乗ると、車内の窓窓には千変万化の模様が満遍なく凍り付いています。列車が走り始めてまもなくと思われます。大雪山連峰南部の化雲岳あたりから射して来る光が列車の窓の模様をうす紅く染めかえます。

 〈四首目訳〉水蒸気が、列車の窓窓に花のように凍り付いたのを、うす紅く染めるあかつきの色よ

  • 厳寒の旭川に花は絶無なのに、零下27度の外気とあかつきの色が、列車の窓ガラスに花を咲かせた。啄木はあたかもそう歌ったかのようです。

<真生流機関誌「真生(SHINSEI)」2017年 no.303 季刊>(華道の流派)


2017-04-15

[] 「啄木忌前夜祭」国際啄木学会 盛岡支部主催

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[コブシ]


「啄木忌前夜祭」[岩手日報>風土計]

  • 没後105年となる石川啄木の命日にちなむ催しが盛岡市内で今週行われ、その中の一つをのぞいた。女性たちによるパネルディスカッション、短歌をメロディーに乗せた合唱と、楽しいひとときだった。
  • 国際啄木学会監事平出洸(ひらいでひろし)さんの講演も興味深かった。洸さんの祖父は啄木と親しかった平出修(しゅう)。1910(明治43)年に起きた大逆事件の弁護人の一人で、事件に衝撃を受けた啄木と情報交換した。
  • 明治天皇暗殺計画の容疑で多数の社会主義者・無政府主義者が検挙された事件では12人に死刑が執行された。真実を究明する活動に関わる洸さんは講演で「戦前は一切事件に触れられなかったが、戦後オープンになった」として事実や背景を説明した。「当局によってつくり上げられた事件ということになっている」。首謀者とされ処刑された思想家幸徳秋水(こうとくしゅうすい)は、計画を知ってはいたが加担していなかった。やってはいなくても「思想を罰したのが大逆事件の問題点」と指摘した。
  • 啄木に時代閉塞の現状を考えさせた事件の15年後には治安維持法が制定。思想や言論弾圧が強化された暗い時代に進んでいく。ふと、今と重ね合わせてしまう。いわゆる「共謀罪」導入が進められていることだ。
  • 政府はテロ対策を掲げるが、一般市民が監視や捜査の対象になる懸念がつきまとう。閉塞の憂いが深まる。

(2017-04-15 岩手日報

記事


2017-04-14

[] 「啄木しのび106回忌法要 盛岡・渋民」

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[啄木と妻・節子の写真が掲げられた宝徳寺祭壇(撮影:山田武秋氏)]


「歌人 石川啄木の遺徳偲ぶ/岩手・盛岡市」[IBC岩手放送]

  • 4月13日は歌人石川啄木の命日です。啄木の故郷、盛岡市の寺では法要が営まれ、参列した人たちが郷土の先人の遺徳を偲びました。
  • 法要が営まれたのは、啄木が18歳までを過ごした宝徳寺です。歌集「一握の砂」や「悲しき玩具」で知られる啄木は、現在の盛岡市渋民で生まれ、北海道での新聞記者生活や東京での作家活動を経て1912年、明治45年の4月13日に、26歳という若さでこの世を去りました。13日の106回忌の法要では、県の内外から訪れたおよそ100人が参列して焼香を行い、地元のコーラスグループが、啄木の歌を音楽に乗せて捧げました。
  • 今年も6月には渋民文化会館姫神ホールで「啄木祭」が開かれ、歴史小説家の井沢元彦さんの講演などを通じて、啄木の偉業をより深く学ぶことができます。

(2017-04-13 IBC岩手放送

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石川啄木没後105年しのぶ法要」[NHKニュース]

  • 法要では、寺の住職たちがお経をあげる中、参列者一人一人が焼香して啄木をしのびました。また、地元のコーラスグループが啄木の歌集の代表作「一握の砂」に収められている、啄木がふるさとに思いをはせた短歌にメロディーをつけ合唱しました。このほか、地元の詩吟愛好会が渋民小学校の校歌にもなっている「春まだ浅く」という詩を吟じ、啄木をしのんでいました。
  • 啄木のいとこの孫で、一戸町に住む上田初子さんは、「没後105年でこれだけ多くの人が集まるのは幸せなことです。魅力のある歌を残した結果と感じました」と話していました。

(2017-04-13 NHKニュース>岩手)

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「啄木しのび106回忌法要 盛岡・渋民の宝徳寺」[岩手日報]

  • 啄木祭実行委委員会の竹田孝男委員長があいさつ。参列者一人一人が読経に合わせて焼香し、地元のコールすずらんと玉山吟詠会がそれぞれ啄木作詞の歌や詩吟をささげた。同寺のふすま絵「松桜(まつさくら)図」も公開し、訪れた人は、1〜18歳に同寺で過ごした啄木の生涯をなぞっていた。コールすずらんの佐藤佑子代表は「郷土の歌を地元の自分たちが歌うことで、啄木の思いを表現していきたい」と活動への意欲を高めた。
  • 前夜祭は12日、プラザおでってで行われ、絵本作家でエッセイストの沢口たまみさん、岩手日報社学芸部の阿部友衣子記者ら女性5人が、啄木の魅力や妻節子らについて語り合った。「大逆事件」をテーマにした国際啄木学会監事・平出洸(ひらいでひろし)さんの講演も行われた。
  • 宝徳寺近くの石川啄木記念館は25日〜9月3日、啄木と「一握の砂」の魅力を紹介する企画展や、6月3日に啄木祭を行う。

(2017-04-14 岩手日報

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「「啄木忌」渋民で法要」[朝日新聞]

  • 読経、焼香の後、地元のコーラスグループが、啄木の望郷の歌「やはらかに柳あをめる/北上の岸辺目に見ゆ/泣けとごとくに」「かにかくに渋民村は恋しかり/おもひでの山/おもひでの川」をメロディーにのせて捧げた。
  • 啄木忌に先立ち、12日夜に盛岡市内で前夜祭があった。啄木研究などに携わる女性たちが、女性の視点から見た魅力を語り合った。国際啄木学会盛岡支部の主催。
  • 岩手日報記者の阿部友衣子さんは、生誕130年の昨年に連載した取材から、「『借金王』や『いいかげん』というイメージがあるが、とても一生懸命に生きていたという印象を受けた。心の苦悩を書いた日記は現代人に共通する感覚が多い」と評した。
  • 昨年度まで石川啄木記念館の学芸員を務めた中村晶子さんは「負の部分も多い人生から魅力ある歌が生まれた。マイナス面も含めありのままを知り、伝えることが啄木理解につながる」と述べた。
  • 同学会評議員の吉田直美さんは、宮沢賢治と対比され、「立派な賢治」対「ろくでなしの啄木」と図式化される傾向があると指摘。「地元の岩手でも深く読まれていないのが寂しい。誰にでも寄り添う作品を多くの人に読んでほしい」と要望した。(斎藤徹)

(2017-04-14 朝日新聞)

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「啄木忌 120人しのぶ 少年時代過ごした寺で」[読売新聞]

  • 啄木祭実行委員会の竹田孝男委員長が「日本人の心を詠んだ啄木の作品から、何かを学ぶ思いを新たにしてくれたら」などとあいさつ。参列者は啄木と妻・節子の写真が掲げられた祭壇に焼香した。啄木と親しかった歌人で弁護士の平出修との交流を紹介する講演も行われた。
  • 渋民では啄木忌のほか、6月3日午後1時半からは盛岡市渋民文化会館で恒例の「啄木祭」も開かれる。作家の井沢元彦さんが「『逆説』で読む啄木の歌」と題して講演する。問い合わせは、石川啄木記念館(019・683・2315)へ。

(2017-04-14 読売新聞)

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「ファン120人しのぶ 盛岡・宝徳寺 /岩手」[毎日新聞]

  • 僧侶が読経する中、参列者が焼香した後、地元のコーラスグループ「コールすずらん」が啄木の短歌に曲を付けた歌を披露。地元の「玉山吟詠会」は啄木の短歌を吟じた。法要の後には、啄木と親交があった歌人で弁護士の平出修の孫、平出洸さんによる講話もあった。
  • 啄木への思いを込めて歌を披露したコールすずらん代表の佐藤佑子さんは「啄木は100年も前に生まれたにもかかわらず、今の社会を生きる私たちに通じる感性を持っている。郷土の歌人の歌を、郷土の私たちが歌うことに意義があると思う。これからも歌い継いでいきたい」と話していた。【鹿糠亜裕美】

(2017-04-14 毎日新聞)

記事


「斜面」[信濃毎日新聞]

  • 金に苦しんだ石川啄木は「借金メモ」を残した。そこに釧路市の4カ所の料亭と、7円、12円、22円、4円の記載がある。啄木は1908(明治41)年1月〜4月、釧路で新聞記者として活躍しながら、料亭通いや芸者遊びにおぼれた。小樽に残した妻子に仕送りもせず、給料をつぎ込んだうえ「つけ」で遊んでいたらしい。
  • 啄木の時代と同じだった契約のルールがやっと見直される。民法改正案で「つけ」による飲食店の未払い請求期限が5年に統一される。
  • 啄木の借金は、釧路啄木会会長の北畠立朴さんに教わった。釧路では下宿代などを合わせれば170円に上るが、取り立ての動きは起きなかった。「出世払い」が許されていた時代だ。放蕩(ほうとう)生活は文学の肥やしになった。現代はギャンブルなど誘惑も多い。欲の落とし穴はずっと深く怖い。

(2017-04-14 信濃毎日新聞

記事


「歌人啄木 古里の誇り 106回忌に120人」[河北新報]

  • 参列した約120人が遺影に手を合わせ、地元の合唱団が啄木の詩を題材にした歌をささげた。実行委員長の竹田孝男さんは「啄木の生涯や作品の中から何を学ぶべきか、思いをはせる機会にしたい」と述べた。
  • 盛岡市の主婦木村昭子さんは「啄木の詩は日常の感情が素直に表されていて心に染みる。古里の偉人として誇りに思う」と話した。
  • 今年の啄木祭は、盛岡市姫神ホールで6月3日午後1時半から。歴史小説家井沢元彦氏の講演などで在りし日の啄木をしのぶ。

(2017-04-14 河北新報

記事


「106回石川啄木忌で法要と講演」[函館新聞]

  • 函館ゆかりの歌人・石川啄木の命日となった13日、函館啄木会(岡田弘子代表理事)は市内住吉町の東海山地蔵堂で、106回忌の法要を開き、参列した関係者や市民43人が墓前などに手を合わせ、函館を愛した才能ある歌人をしのんだ。
  • 参列者は堂内で焼香を済ませた後、強風の中、石川啄木一族の墓へ移り、墓前に手を合わせた。法要後の追悼講演には、市文学館の元説明員ボランティア竹原三哉さんが「お墓にまつわる話」と題して講演し、関係者が納骨された時期などの謎に迫った。
  • 現在知られている墓碑は1926(大正15)年7月末、啄木の義弟で歌人の宮崎郁雨や当時の函館図書館長岡田健蔵によって建てられ、啄木や妻をはじめ、3人の愛児や両親などが眠っているとされている。竹原さんは、墓碑建設の経緯を語り複数の作家らが残した記述の違いに着目。「一族関係者の遺骨が埋葬、納骨、移葬した時期などに違いがある。今となっては証言者がおらず、分からないことも多い」と語った。
  • 今年は啄木が函館を訪れて110年の節目にあたる。市内の歌人で鈴蘭の会を主宰する芹澤伸子さんは「法要に来るたび、春の訪れとともに、ひとつの節目を感じている」と話していた。

(2017-04-14 函館新聞)

記事


[] 『海の蠍』-今の時代だからこそ手にしたい一書-

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◯にいがたの一冊

「元患者の言葉 今こそ直視を」[新潟日報]

 増補新版『海の蠍』山下多恵子著

  • 文芸評論は意外とおもしろく、ほんの少しスリリングである−。読み終えてそんなことを思った。
  • 著者は気鋭の石川啄木研究者であるが、それと並んで二人の元ハンセン病患者の文芸創作にも強い関心を抱いてきた。短歌に生命を刻みつけた明石海人と「奇妙な国」を代表とする小説で元患者たちの深い思いを社会に訴えた島比呂志である。
  • 昨年の7月、相模原の障害者施設で元職員が数十人の入所者を殺傷した事件はまだ記憶に新しい。 強制隔離の根底にあった「優生思想」がいまだに死滅していないことを考えるとき、本書はより重みを増してくる。
  • ハンセン病国賠訴訟」に勝利したのち、社会復帰を果たし普通の生活を取り戻した島と著者との数年間にわたる温かい交流が描かれている。
  • 中でも遠く福岡から十日町の著者宅を訪れた島と、新潟の大学生たちの交流の逸話は興味深い。過去の負の歴史と教訓を受け止めた若者たちが確かに存在することは大きな希望でもあるし、両者の出会いの場を提供することで、著者の研究はひとつの着地点を見いだしたといえる。
  • 言葉の軽さ、そして生命の軽さが目につく今の時代だからこそ手にしたい一書である。

吉田和比古(新潟大名誉教授)

(2017-04-09 新潟日報

新刊『増補新版 海の蠍(さそり) 明石海人と島比呂志 ハンセン病文学の系譜』

 山下多恵子 著 未知谷

 2017年1月発行 2700円


2017-04-13

[] 「便所より青空見えて啄木忌] 寺山修司

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[サクラ]


「ふるさとは籾おろすころ啄木忌」[毎日新聞>季語刻々]

  ふるさとは籾(もみ)おろすころ啄木忌 朝妻力(りき)

  • 今日は啄木忌。短歌や評論で時代を敏感にとらえた石川啄木は、1912年の今日、26歳で死去した。「やはらかに柳あをめる/北上の岸辺目に見ゆ/泣けとごとくに」は岩手県生まれの啄木の望郷歌。「籾おろす」は苗代に籾をまくこと。<坪内稔典

(2017-04-13 毎日新聞)

記事


「ローマ字日記」[愛媛新聞>地軸]

  • 「東京へ来てもう1年だ!…が、予はまだ予の家族を呼び寄せて養う準備ができぬ」。105年前の今日、26歳で早世した歌人、石川啄木の日記にこうある。妻子を北海道に残し上京した日々をつづった。
  • 原本は「妻に読まれたくない」とローマ字で記している。当時は借金を繰り返し、自堕落な生活を送っていた。ならば書かなくてもと思うが、天才歌人は真実の記録にこだわった。でも、知られたくない。そのジレンマの解決策がローマ字だったのだろう。
  • 「文学的興味を感じさせないページは一つもない」。日本文学研究者のドナルド・キーンさんは「石川啄木」(新潮社)で高く評価する。感情的な生活を赤裸々に描いた「自伝」だと。日記は焼却されるはずだった。「死んだら全部焼いてくれ」と啄木が友人に遺言していたからだ。だが北海道の図書館職員が「職務上の責任感と、啄木が明治文壇に重要な存在だから」と反対し、現代に伝わる。
  • 啄木作品は先の大戦直後に人気が高まり、日記のおかげで人物像の研究も進んだ。本人は泉下で嫌がっているかもしれないが、貴重な「記録」として後世に伝えようとした先人の気概に倣いたい。資料の価値は歴史が評価するのだから。

(2017-04-13 愛媛新聞

記事


「真央ちゃん引退」[宮崎日日新聞>くろしお]

  • 花見が好きでよく出かけた。桜が散るのを見届けるように歌人石川啄木が肺結核のため26歳で死去した。最期をみとったのが妻、父、歌人若山牧水だ。
  • 「若山君は誰にも愛される目をしている」。啄木は日記に記しているように、牧水に好感を持っていた。交際期間は短かったが、最期まで丁寧に啄木の面倒を見た牧水の人の良さは、出身地である本県としては誇らしい。牧水が記した臨終の様子は貴重な記録だ。
  • 「世の中の明るさのみを吸うごとき黒き瞳の今も目にあり」。啄木忌の今日、歌集「一握の砂」の歌が浮かぶ。フィギュアスケート界から引退し、大きな話題となっている浅田真央さんがこれまで銀盤上で見せた演技を思い出すからだ。
  • 世の中の明るさを吸ったように輝いていた。明るくて、はつらつと見せる競技の性格もあろう。昨日の引退会見では花を散らす涙は見せず、ベストを尽くした満足感を笑みに浮かべた。お疲れさま真央ちゃん。アイスショーでまた大きな花を咲かせてください。

(2017-04-13 宮崎日日新聞)

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「よみがえった少年期」[高知新聞>声ひろば]

  • 強いチームが都道府県代表として全国舞台に臨む夏とは違い、センバツ21世紀枠には何かしら関心を寄せてきた。選ばれた学校の地域性や背景に興味を持つからだ。今年の枠には胸躍る校名があった。岩手の不来方(こずかた)高校である。返り点で読む校名に少年期が浮かんだ。
  • 昭和30年代、時代背景もあってか啄木の「一握の砂」に取り込まれた。物憂げな作風の中で「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心」という歌に出合った。
  • この歌を想起させた不来方高。ナインのプレーは勝敗を超えた美しさがあり、無念より達成感の思いの尊さを教えてもらった。
  • 久々に JR 高知駅脇の「啄木碑」を訪ねてみた。ひっそりした佇(たたず)まいの中に十五の心がよみがえった。【笹岡良昭 高知市

(2017-04-13 高知新聞)

記事


「啄木忌」[陸奥新報]

◯ 便所より青空見えて啄木忌(寺山修司

  • 寺山の高校生時代、昭和20年代末頃の作。季語としての忌日に季節感は乏しいと思っているが、「啄木忌」は比較的馴染(なじ)みがあるのでは。掲句の〈便所〉には、独特のアンモニア臭の記憶が漂う。青春の懐かしさ、甘酸っぱさが蘇(よみがえ)る。早熟の天才、詰襟の寺山修司が凛々(りり)しくて眩(まぶ)しい。『寺山修司俳句全集』所収。

(2017-04-13 陸奥新報

記事

◯ 啄木の三倍生きて啄木忌(野沢しの武)

  • 石川啄木(いしかわたくぼく)が貧困と闘病のうちに27歳の生涯を閉じたのは1912(明治45)年の4月13日。歌人として社会思想に目覚め、和歌の革新を志し口語体で生活感情を三行書きで歌集「一握の砂」などに盛り込んだ。作者は〈啄木の三倍生きて〉戦争の昭和を越え、医師の眼で“見える俳句”に打ち込んでいる。句集「老樹」から。(2016-04-13 陸奥新報

◯ 羊羹の切口かわく啄木忌(敦賀恵子)

  • 羊羹(ようかん)の切り口が乾くと砂糖が浮き出してくる。好みの違いはあるが、この切り口のざらめきに歯ごたえを感じる人も多いようだ。きょう13日は歌人石川啄木の祥月命日。啄木が甘党だったかはさておき、薄幸の歌人の歌集を作者は、きのうとは違う羊羹の食感を味わいながら短歌の世界に浸るのだろう。句集「雪のワルツ」から。(2014-04-13 陸奥新報

◯ 溜め息も言葉のひとつ啄木忌(太田直樹)

  • 文学を志し、新聞記者や代用教員をしながら小説の創作に没頭するが果たせず、26歳で没した。歌集「一握の砂」「悲しき玩具」は代表作。「溜(た)め息も言葉のひとつ」は、なし得なかった啄木に対する思いやりの真心であろう。肺結核で若い人が命を落とす過酷な時代背景が胸を打つ作。(2013-04-13 陸奥新報

◯ 啄木忌小さき旅の途中下車(泉涼女)

  • 新聞記者や代行教員をしながら小説の創作に没頭。1912年、肺結核で没。歌集「一握の砂」「悲しき玩具」は代表作。作者は連綿と愛(あい)誦(しょう)された啄木の歌をこよなく愛していたに違いない。きょうはきっといいことがあると信じ切って下車した作者もまた詩人。此岸合同句集の一句。(2012-04-13 陸奥新報


2017-04-10

[] 「Even now the vital words…」啄木の歌はクリアカット

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[クスノキ]


北の大地の「鹿ノ子百合」─啄木と智恵子のケース─

  北嶋藤鄕 ( Bulletin of Keiwa College No.26(Offprint) 2017年2月 )

  • 本稿の眼目としては、『一握の砂』の「忘れがたき人人(二)」に焦点を絞って、啄木が純情清冽な交わりをむすんでいた、函館の公立弥生尋常高等小学校訓導であった女教師橘智恵子に寄せる相聞歌を、諸家の英訳も交えて鑑賞して見たいと考えた。
  • 啄木は歌の機能を上手に利用したが、「しきしまの」とか「たらちねの」のような歌詞(うたことば)とは縁がなかった。そのためであろうか、啄木の歌は翻訳に向いているのである。啄木の歌はクリアカットで、その意味は明晰である。完璧に磨かれたダイヤモンドのように透明であるが、魅力はそれだけではなく、多義的で暗示的でもある。この矛盾しているかのような、<具体的>で<黙示的>な2つの特徴を同時に表現できなければ、翻訳は成功とはいえないであろう。英語訳に関しては、筆者の知る限りでは、啄木は数名の名高い翻訳者を得た。

  かの時に言ひそびれたる

  大切の言葉は今も

  胸にのこれど


  Even now the vital words

  I failed to say at the time

  Linger in my breast.

     (Donald Keene 訳)

「大切の言葉」(the vital words)とは、いうまでもなく愛の告白である。

啄木が智恵子と最後に会ったのは、明治 40 年 9 月 13 日のことである。二人の間で会話を交わしたのはたった 2 回であった。彼女は啄木( 22 歳)の同僚で 18 歳の乙女であった。そのような清らかな追想に浮かぶ清楚な乙女を、 3 年後に発刊された『一握の砂』の「忘れがたき人人(二)」に回想歌として歌っているが、これらは絶唱の評価が高い。


  世の中の明るさのみを吸ふごとき

  黒き瞳の

  今も目にあり


  they seem to drain all the light from this world

  even now I see

  your dark-lit eyes

     (Carl Sesar 訳)


この歌は、清楚な人柄と明るくいきいきした性質がうかがわれる代表作である。ドナルド・キーンも「自分の翻訳よりいい」とシーザー訳を絶賛する。




  DARK PUPILS

  Your dark pupils

   That seem to absorb

  Only the brightness of this world,

   Are still before my eyes.

     (坂西志保 訳)


わけても坂西志保の “DARK PUPILS” は、特筆に値する。



  HER EYES

  I can still see those black eyes

  As if they had absorbed

  All the brightness under the sun.

     (Roger Pulvers 訳)


  Her black pupils

  Absorbing only the light of this world

  Remain in my eyes

     (Sanford Goldstein and Seishi Shinoda 訳)


2017-04-08

[][] 132日間の函館生活と石川啄木一族の墓 <7 (おわり)>

啄木文学散歩・もくじ


7 「僕の心は凾館の空に彷徨ふ」


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「市電「谷地頭駅」終点」

 

「なみだは重きものにしあるかな─啄木と郁雨─」遊座昭吾 編


宮崎郁雨「歌集『一握の砂』を讀む」

                明治四十四年一月十七日(火曜日)

  (二四)

  • 僕が啄木と初めて會つたのは四十年の五月五日であつた。
  • 其時の啄木は才気の塊であつた。今でも世の中から一歩でも後れる事を不快がつてゐる否一歩でも世の中から進んで居るでなければ氣の濟まぬ男である。そして實際また進んだ頭脳を持つてゐる。
  • 僕は多大の興味を持つて著者の北海回顧の歌即ち『忘れがたき人人』の章を讀むだのである。

  『潮かをる北の濱邊の

   砂山のかの濱薔薇よ

   今年も咲けるや』

  『凾館の床屋の弟子を

   おもひ出でぬ

   耳剃らせるがこころよかりし』

  • 啄木には函館が何とも云はれぬ懐かしい心のひかれる土地であると云ふ事は此等の歌でよく窺ふ事が出来る。啄木がつひ此頃寄した手紙に斯う云ふ事が書いてある。『凾館は如何なる意味に於ても我が第二の故郷である。僕は北海道を殆んど一周した。然し凾館程なつかしい思出のある土地はない。凾館の人ほど僕に懐かしく思はれる人がない。僕は東京に住むでゐる。然し僕の心は時々凾館の空に彷徨ふのである。僕は凾館で死にたいと思ふ』と云ふ事だ。北海回顧の歌は決して其當時の心を歌つたものではなく著者現在の心を現はしたものである事はこの手紙でも解るのである。著者は『我を愛する歌』で沈痛な深刻な心の叫びを我々に示したが其心を其儘なつかしき北海の地、忘れ難き人々の上に移したのである。『今年も咲けるや』の一句。譬へ様なき著者の温かき心を遺憾なく現はしてゐる。僕はこの様な優れた熱心な歌が北海回顧の歌の首(はじめ)に置かれた事を著者に深く謝するものである。

『なみだは重きものにしあるかな─啄木と郁雨─』遊座昭吾 編 桜出版 2010年

  宮崎郁雨「歌集『一握の砂』を讀む」

  石川啄木「郁雨に與ふ」







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「啄木像 考える人 半跏思惟像」



「郁雨に與ふ」在大學病院 石川啄木

             明治四十四年三月七日(火曜日)

(終)

郁雨君足下。

俄に來た熱が予の體内の元氣を燃した。醫者は一切の自由を取りあげた。「寝て居て動くな」「新聞を讀んぢあいけない」と言ふ。もう彼是一周間になるが、まだ熱が下らない。かくて予のこの手紙は不意にしまひにならねばならなかつた。

彼は馬鹿である。彼は平生多くの人と多くの事物とを輕蔑して居た。同時に自分自身をも少しも尊重しなかつた。顧てその病氣をもあまり大事にしなかつた。さうして俄に熱が出たあとで、彼は初めて病氣を尊重する心を起した。馬鹿ではないか。

丸谷君が來てくれて、筆をとつてやるから言へ、と言ふのでちよつとこれ丈け熱臭い口からしやべつた。         (三月二日朝)。


『なみだは重きものにしあるかな─啄木と郁雨─』遊座昭吾 編 桜出版 2010年

  宮崎郁雨「歌集『一握の砂』を讀む」

  石川啄木「郁雨に與ふ」






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「函館空港 制限エリア通路の石川啄木



(おわり)



2017-04-07

[][] 132日間の函館生活と石川啄木一族の墓 <6>

啄木文学散歩・もくじ


6 「石川啄木一族の墓」


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「“石川啄木一族の墓”を示す木柱」


車は冬期通行止めになっているが、徒歩は大丈夫。

この先に駐車場があるが一台も車はなかった。

施設整備や除雪用の車だけが通っていた。






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石川啄木一族の墓の説明」

石川啄木一族の墓

明治の歌壇を飾った石川啄木と函館の縁は深い。啄木が函館に住んだのは明治40(1907)年5月から9月までの短い期間であったが、この間の生活は昔蓿社(ぼくしゅくしゃ 文芸結社)同人らの温かい友情に支えられながら、離散していた家族を呼び寄せ、明るく楽しいものであった。「死ぬときは函館で……」と言わせたほど函館の人と風物をこよなく愛した啄木であったが、明治45年4月病魔におかされ27歳の生涯を東京で閉じた。大正2(1913)年3月啄木の遺骨は節子未亡人の希望で函館に移されたが、彼女もまた同年5月彼の後を追うかのようにこの世を去った。
大正15年8月、義弟にあたる歌人宮崎郁雨や、後の函館図書館長岡田健蔵の手で現在地に墓碑が建てられ、啄木と妻をはじめ3人の愛児や両親などが、津軽海峡の潮騒を聞きながら永遠の眠りについている。

                             函館市








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「海が見える」

「汗に濡れつつ」石川啄木

海と云ふと、矢張第一に思出されるのは大森浜である。然し予の心に描き出されるのは、遠く霞める津軽の山でもなく、近く蟠まる立待岬でもなく、水天の際に消え入らむとする潮首の岬でもない。唯ムクムクと高まつて寄せて来る浪である。寄せて来て惜気もなく、砕けて見せる真白の潮吹である。砕けて退いた後の、濡れたる砂から吹出て、荒々しい北国の空気に漂ふ強い海の香ひである。

石川啄木 原稿断片「汗に濡れつつ」『石川啄木全集』第4巻 筑摩書房 1985年)







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「階段を上る」


先にお参りした方の足跡をたどり階段を上る。

上がって右が啄木一族のお墓になる。








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「碑文」


啄木一族墓

       啄木

   東海の

    小島の磯の

      白砂に

   われ泣きぬれて

     蟹とたはむる



『啄木の函館』竹原三哉

  • 「啄木一族墓」、この命名と墨書は郁雨に依る。
  • 墓はなにかと変化している。郁雨によれば、石柵の鉄棒は戦時中に盗まれ、花立ての一つが凍結破損し、もう一つはいつの間にか消えていた。
  • この墓には現在、九名のお骨が納められている。啄木、節子、京子、真一、房江、カツ、一禎、正雄(分骨)、玲児(分骨)である。玲児とは京子・正雄夫妻の息子で、平成10年に没している。啄木・節子夫妻からは孫となる。

(『啄木の函館』竹原三哉著 2012年発行)



石川啄木「東海の小島」歌について  神谷忠孝

  「蟹」の意味

  • 宮崎郁雨は、大正2年、函館に啄木一族の墓を建立したとき墓碑銘に東海歌を選んだ理由を後年になって『函館の砂』(東峰書院、1960)の中で次のように書いている。
    • 「蟹」は、尻沢辺の磯の岩蟹でもなければ、大森浜の渚辺の穴に住むへら蟹でもなく、それは彼が泣きながら真剣に取組んでゐる彼の個性であり、自我であり、文学であり、思想であり、哲学であった。その「蟹」は然し本物の蟹と等しく、彼の人生行路ではひねもす横這いし続けて居た。その蟹は時としては鋏を振立てて彼自身に敵対もするのだが、彼はそれを愛惜したり、憐憫したり、憎悪したり虐待したりして、遣り場のない鬱情を霽らして居た。この歌はさうしたみじめな生涯を自憫する啄木の悲鳴であった。その様な啄木の悲しい姿を憶い描きながら、彼の墓のために此歌を撰んだ。
  • なかなか含蓄のある解釈である。明治40年の「蟹に」と一年後の東海歌の「蟹」には自己を投影しているという共通性があり、啄木が「蟹」に托した象徴性が注目される。

(「石川啄木「東海の小島」歌について」神谷忠孝 函館市文学館「生誕120年記念 石川啄木」 2006年発行)







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<碑陰>

啄木書簡之一節

   これは嘘いつはり

   もなく正直尓言ふのだ、

   『大丈夫だ、よしよし、

   おれは死ぬ時は函館へ行

   つて死ぬ』 その時斯

   う思つたよ、何處で死

   ぬかは元より解つた事

   でないが、僕は矢張死ぬ

   時は函館で死にたいやう

   に思ふ

   君、僕はどうしても僕の

   思想が時代より一歩進ん

   でゐるといふ自惚を此頃

   捨てる事が出来ない

    明治四十三年十二月二十一日

    東京市本郷弓町二の十八

        石川啄木

  郁雨兄







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「きっぱりと晴れる」

住吉漁港も大森浜も青柳町も見える。






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「函館山」


函館山から伸びるロープウェイの線が白雲をバックに細く続く。






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「啄木一族はなんと素晴らしいところに眠っているのだろう」


石川啄木一族の墓(中央)のすぐ右には、宮崎家一族之奥城と宮崎郁雨歌碑が写っている。



『啄木の函館』竹原三哉

お墓の石段を上って墓碑の正面に立ち、振り返れば、向かう先には谷地頭の町を頭越しに、函館公園と旧図書館、そして懐かしい青柳町の一角が目に入る。

この墓所からの眺めは絶景と呼んでいい。岡田が着眼し、郁雨も賛同して此地を選定した思いが偲ばれる。啄木が好んで散歩した大森浜もすぐそこに見下ろせ、尚かつ、未亡人となった節子夫人が幼い娘たちと共に過ごした、僅か四カ月足らずの侘びしかったであろう借家住まいの跡辺りも望見出来る。郁雨ならずとも、岡田健蔵の墓所選定の着眼には敬服せざるを得ない。

(『啄木の函館』竹原三哉著 2012年発行)



(つづく)



2017-04-05

[][] 132日間の函館生活と石川啄木一族の墓 <5>

啄木文学散歩・もくじ


5 立待岬の歌碑「与謝野鉄幹・晶子」と「宮崎郁雨」


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立待岬の端にある与謝野寛・晶子の歌碑(中央の白い四角が歌碑説明板)」



石川啄木有島武郎 〜遙かなる夢の残像〜」北村巌

  • 明治35年10月1日、啄木の短歌一首が『明星』に石川白蘋の筆名で掲載される。有頂天となった啄木は盛岡中学校をあっさりと中退。文学を志し、10月30日にはもう故郷を立ち東京へと向かう。11月9日、啄木はさしたるつてのないまま新詩社の会合に出席。この時初めて与謝野鉄幹と接し、翌日にはもう与謝野宅を訪問している。その行動力には驚くばかりである。
  • 与謝野鉄幹の知遇を得たことは、以後の啄木に大きく道を開いたからである。この縁で明治36年1月には新詩社同人となり、12月1日発行の『明星』に初めて「啄木」の筆名で長詩「愁調」五篇が掲載される。啄木の実質的デビューであり、これによりその名が世に知られることとなる。
  • 啄木は与謝野夫婦との出会いにより、文学の人脈を広げていったと言えよう。

(「石川啄木有島武郎 〜遙かなる夢の残像〜」北村巌  函館市文学館「生誕120年記念 石川啄木」 2006年発行)









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「歌碑説明板」

 与謝野寛・晶子の歌碑

昭和31(1956)年、市立函館図書館の創設者であり館長でもあった岡田健蔵の十三回忌が行われ、その際に彼の雅号にちなんだ図書裡会が結成された。翌32年、同会は棒二森屋百貨店の援助を得て、岡田健蔵を顕彰する意味も込め、昭和6年に来函した与謝野寛・晶子の歌碑を建立した。

晶子の短歌中に岡田先生とあるのが、健蔵のことである。

また寛の作品として、健蔵の親友である宮崎郁雨の名前が読み込まれた短歌が選ばれた。

                         函館市






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   濱菊を郁雨が引きて根に添ふる立

   待岬の岩かげの土       寛


   啄木の草稿岡田先生の顔も忘れじ

   はこだてのこと         晶子



撰文

   此の碑に刻んだ歌は、与謝野寛、晶子

   夫妻が昭和六年六月六日函館に来遊し

   た時の詠草の中から選んだもので、歌

   の中の人間は、郁雨宮崎大四郎、啄木

   石川一、図書裡岡田健蔵である。

       昭和三十二年八月十五日建立

             計画 図書裡会

             賛助 棒二森屋





「啄木と鉄幹」新間進一

鉄幹の啄木を偲ぶ短歌は『与謝野寛短歌全集』の中に折折にあるが、昭和六年五月、北海道を周遊した時の作から若干を示したい。往路函館図書館を訪ね、帰路には立待岬の啄木の墓に詣でている。宮崎郁雨氏や、岡田健蔵館長が案内をした。

   啄木よ汝も生きてありし日は人思ひけり石くれのごと

   啄木は貧しきなかに書きしかどゆたかなるかな思ひつること

   啄木のおくつきの石ありし日に彼れの肩をば撫でしごと撫づ

   啄木の墓に涙す彼れ知らば老いて愚かになりぬと思はん

啄木よりも十三歳も年上の鉄幹は、この年五十九歳に達しており、漸く老いを感ずる年になっていたのである。

「啄木と鉄幹」新間進一 『啄木研究 第三号』洋洋社 昭和53年4月発行(1978年))




「啄木の書簡・日記からみた鉄幹・晶子」逸見久美

明治45年4月13日の彼の死は各新聞に報道された。晶子は啄木を悼む歌を掲載した。

 ・東京朝日新聞 明治45年4月17日

   人来り啄木死ぬと語りけり遠方びとはまだ知らざらむ

この歌にあるように、与謝野寛は前年十一月渡欧しており、晶子もまた啄木の死後一月ほどで渡欧しなければならなかった。だから四月十六日の『読売新聞』の「故啄木氏葬儀」の知らせには会葬者九名の中に晶子の名は記されていない。恐らく渡欧の準備に公私ともに忙殺されていたからであろう。

 ・東京日日新聞 明治45年4月18日

   しら玉は黒き袋にかくれたり吾が啄木はあらずこの世に

晶子にとっては「吾が啄木」であった。弟のように面倒を見、共に文学を語った文学の語り相手であった。

(「啄木の書簡・日記からみた鉄幹・晶子」逸見久美 『啄木研究 第三号』洋洋社 昭和53年4月発行(1978年))








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「宮崎家一族之奥城と宮崎郁雨歌碑」

このすぐ左側に石川啄木一族の墓がある。


説明板

宮崎郁雨の歌碑

宮崎郁雨(本名、大四郎)は明治18年(1885)年に新潟県で生まれた。その後一家は来函し、父親は味噌製造業を営んだ。明治39年に文芸結社苜蓿社ができると、その同人となった。翌40年に啄木が来函してから、郁雨は物心両面にわたって暖かい援助を続け、42年、郁雨は啄木の妻節子の妹ふき子と結婚した。
郁雨は家業を継ぐかたわら、短歌づくりを続け、昭和37年に亡くなった。この歌は没後刊行された「郁雨歌集」の中の「自問自答」に収録されているもので、歌碑は昭和43(1968)年に函館図書裡会が建立した。

                         函館市







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「宮崎郁雨の歌碑」

さびたの花はいつ咲く

  ──啄木雑記帳より──

           宮崎郁雨

「啄木が苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)を頼って函館に来たのは、明治40年の春、山麓の其処此処にさびたの花が咲き初めた5月の5日であった。夙に世に天才の名を謳われた未見の詩人に見参しようと、その夜青柳町露探小路の苜蓿社にはかなり多数の同人達が集まった。折柄机の上の一輪ざしに挿した花を見て居た啄木が『その白い花は紫陽花に似てるけれども違う様ですね。何の花ですか』と聞いた。『それはさびたのパイプの花です』と蕗堂が答えると途端にどっと皆が笑った。」

(翌年、ふっとある事に思い当って、私の心は俄に騒ぎ始めたのであった。5月5日という函館の早春に、さびたが果して開花して居たかどうかという問題が、私の良心をゆさぶるのであった。)

本稿が読者の目に触れる頃は、恰もさびたの花期を確めるに好個の季節と思われるので、或は曽ての啄木達の散策の跡を尋ね、碧血碑畔に漢詩の小碑を訪らい、序を以てさびたの花を其処此処に探って、私の心の混迷を解いてくれる有志者があるかも知れないと、楽しい嘱望を胸に秘めながら、私は遙に遠い函館の空を恋い偲んで居る。

(昭和34.3.30、東京下北沢の寓居にて 「海峡」昭和34年5月)(「國文學」昭和50年10月号(1975年))








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「宮崎郁雨の歌碑」

上の写真と同じ歌碑だが、15分くらいの時間が経っている。

雪の降る歌碑を見てから立待岬の尖端の方へ行った。その帰りにはもう雪は止んでいた。



            郁雨

   蹣跚と

    夜道をたどる

       淋しさよ

    酒はひとりし

      飲むものならず


(まんさん【蹣跚】よろめき歩くさま)


「啄木日記」  明治40年9月12日

この函館に来て百二十有余日、知る人一人もなかりし我は、新らしき友を多く得ぬ。我友は予と殆んど骨肉の如く、又或友は予を恋ひせんとす。而して今予はこの紀念多き函館の地を去らむとするなり。別離といふ云ひ難き哀感は予が胸の底に泉の如く湧き、今迄さほど心とめざりし事物は俄かに新らしき色彩を帯びて予を留めむとす。然れども予は将に去らむとする也、これ自然の力のみ、予は予自身を客観して一種の楽しみを覚ゆ。

この日、昨日の日附にて依願解職の辞令を得たり、

午后高橋女史をとひ、一人大森浜に最後の散策を試みたり

 (「啄木日記」『石川啄木全集』第5巻 筑摩書房 1986年発行)

 









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「与謝野鉄幹・晶子の歌碑の近くから岬の先端方向をのぞむ」



『函館の啄木と節子』金野正孝 著

啄木を偲ぶ宮崎郁雨の歌

           宮崎郁雨

   秀才みな早く世を捐て凡庸のわれ生きのこるその苜蓿社

       <秀才(すさい)>

       <捐(す)て>

       <苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)>

   函館に郁雨なほ生き住めること伝説めけば恋ひし啄木

   この凡愚すらに劣りし世すぎして死にたるあはれ秀才啄木

   潮かをる立待岬の崖の際玫瑰咲けり啄木の墓

       <玫瑰(はまなす)>

   生きてあらば角などとれてよきほどの老爺となりて居む啄木も

   唯一のわれの遺業となるならむ啄木の墓を撫でてさびしむ

(『函館の啄木と節子』金野正孝 著 啄木と節子をたたえる会 発行 1987年発行)(小樽啄木会HP参照)






「思いのままに生きた啄木」宮崎顧平

  • 私は石川啄木の義弟宮崎大四郎(郁雨)の実弟であるが、私の啄木に対する印象は、実に吹けば飛ぶような淡い印象でしかない。それは啄木が二十二歳で函館に来た当時、私が僅か十三歳の時の印象であるからである。

(啄木たちは宮崎の家に集まり和歌の朗詠や批評をしていた。時々室から出て庭にあるトイレに行った)

  • 啄木が私の実家のトイレに通う往復に、私の立っている前を通過する時、「これが郁雨の弟だなー」と笑顔で私を見ながら立ち止まっていったのを見て、私はとても嬉しく思ったものである。
  • 私の啄木に対する印象を、現在八十三歳の私が卒直簡潔に示すならば、啄木ほど自分の思想、希望、行動を何の蟠りなく、すらすらと自由に言葉として云い、文章に書き尽し、能動的に行動し、自分の損得や他人に対する影響等一切超越して、自分の思いのまま進めていった人は、世には余りないのではないか、(略)何の矛盾も、不安もなく全く虚心坦懐なのである。そこに啄木の偉大さがある。

(「思いのままに生きた啄木」宮崎顧平(宮崎郁雨氏実弟) 『啄木研究 第三号』洋洋社 昭和53年4月発行(1978年))




(つづく)



2017-04-03

[] 啄木歌碑のある「北村牧場が幕を下ろす」北海道岩見沢

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[北村牧場の啄木歌碑]

       石川啄木

   石狩の空知郡の

   牧場のお嫁さんより送り来し

   バタかな 

          ー 悲しき玩具より ー


「北村牧場111年の歴史に幕 岩見沢」[北海道新聞]

  • 道内酪農の黎明(れいめい)期に開設された「北村牧場」(岩見沢市北村豊里)が、111年の歴史に幕を下ろす。旧北村の地名になった北村家一族が経営してきたが、国の遊水地整備事業で移転を余儀なくされ、廃業を決めた。現役では道内最古とされる大正期のサイロも解体される。
  • 北村牧場は1906年(明治39年)開設。開拓の祖・北村雄治氏の弟、謹(きん)氏が開き、飲用乳のほかバター製造を手掛けた。現在は謹氏の孫、中曽根宏さんが4代目として経営している。中曽根さんは「牛飼いの労働は年間約4千時間。子供も海水浴に連れていけないほど忙しかったが、やりがいがあった。もう少し若ければ別の場所で続けたんだけど」と話す。
  • 北村牧場は歌人・石川啄木とも縁がある。(岩見沢総局 川口浩平)

記事

(2017-04-03 北海道新聞



「啄木の息 北村牧場の啄木歌碑」も、どうぞご覧ください。

  • 啄木は函館時代に同僚・橘智恵子に憧れた。智恵子は20歳で岩見沢の牧場主・北村謹氏と結婚した。
  • 啄木が智恵子を詠んだ歌、22首。

「北村牧場の啄木歌碑」



[] 国際啄木学会会員プラット・アブラハム・ジョージ氏 外務大臣表彰

「インドにおける日本研究の推進」の功績により受賞

  • 国際啄木学会会員のプラット・アブラハム・ジョージ氏(インド・ネルー大学教授)が「インドにおける日本研究の推進」の功績により、平成28年度外務大臣表彰を受けました。
  • 外務大臣表彰は、国際関係の様々な分野で活躍し、日本と諸外国との友好親善関係の増進に特に顕著な功績のあった個人および団体について、その功績を称えるものです。

記事


[][] 紙芝居「猿と人」石川啄木記念館 4/13

啄木忌関連イベント 無料開放&紙芝居「猿と人」

  • 開催日 平成29年4月13日(木)
  • 時間 13:30〜14:00
  • 場所 石川啄木記念館 ラウンジ
  • 料金 無料
  • お申込み・受付方法 当日、直接会場にお越しください。

啄木の命日の4月13日、宝徳寺(啄木記念館となり)で啄木忌の法要が営まれることに合わせて、啄木記念館ではこの日を無料開放し、紙芝居を上演します。

紙芝居では、啄木のエッセイ「一握の砂」の中の「林中の譚」をもとにした「猿と人」のお話を紹介します。

この機会にぜひお越しください。

記事


2017-04-01

[] 誌上交流戦「短歌甲子園の歌人たち」「歌壇」4月号

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[ウグイスカグラ]


「学芸余聞」[岩手日報]

  • 総合短歌雑誌「歌壇」4月号(本阿弥書店)は、盛岡市と宮崎県日向市の短歌甲子園に出場した若い歌人たちの誌上交流戦を特集している。
  • 石川啄木の古里盛岡はこれまでに11回、若山牧水の出身地日向は6回の大会を開催。誌上では両大会から出場経験者各8人が競詠し、大会を思わせる熱戦を繰り広げた。
  • 盛岡チーム、武田穂佳さん「手のひらを重ねて恋人繋ぎして二人で守るちいさな真珠」、戸舘大朗さん「電話帳/『家族』の欄に一字ずつ/あなたを入れた日を忘れない」。
  • 盛岡の審査員を務める歌人田中拓也さんは「参加型」大会による交流拡大や、若い歌人の増加という成果を指摘。「短歌という詩形が次の時代につながるきっかけとなっている」と評価した。

(2017-03-30 岩手日報


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・石川啄木 年譜 ………… 26年と53日の生
・ローマ字日記………… 漢字と仮名では書けないことをローマ字で
・啄木文学散歩………… 息づかいの聞こえる ゆかりある場所を訪ねて
・啄木行事レポート …… イベントに参加しての私的レポート
・啄木の 女性たち ……… 啄木の人生を彩った「忘れな草」たち
・啄木と花 ……………… 歌に登場する花や木の資料

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