啄木の息 <ブログ版>

─ いまもなお瑞々しく語りかけてくる啄木の魅力を追い その息づかいに触れてみたい ─

     「本家 啄木の息」のリンクは、このページの最下段にあります。

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2017-10-30

[][] “あん時のセップンかど たんまげたぁ” 『東北おんば訳 石川啄木のうた』

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『東北おんば訳 石川啄木のうた』

  • 編著 新井高子 未来社
  • 2017年9月発行 1,800円+税
  • おんばの朗読が聴ける、QRコード付き

「帯」より

  訳というのは、

  単なる言葉の

  置き換えではない、

  心の共有なのだと

  感じました。

  啄木の心を、

  おんばの声で

  聞くとき、

  東北の強さ、深さ、

  自在さが

  伝わってきます。

  俵万智




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編著者 新井高子

「はじめに」より

  • 東北生まれの歌人、石川啄木の短歌をその土地言葉に訳して、本を作る──。
  • きっかけは東日本大震災でした。日本現代詩歌文学館の協力を得て、大船渡市の仮設住宅や総合福祉センターを会場に、地元の皆さんと石川啄木の短歌100首を土地言葉に訳しました。
  • おんば(おばあさん、おばさんの意。親しみや敬愛を含んだ呼びかけの言葉)たちは、ときに腕組みし、ときにでき上がった訳に大笑い。三陸海岸の、おおどかな媼が紡いだ啄木のうた。ちょっと幻想的に「海のおんばのうた」と呼びたい気もしています。

 


2017-10-29

[] エフエム岩手 石川啄木記念館館長インタビュー 11/12、11/26

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[ユリノキ]


高橋佳代子のハートフル岩手 (第1・3日曜日)

  • 番組名 高橋佳代子のハートフルいわて エフエム岩手
  • 放送日時 (前編) 2017年11月12日(日)8:00〜8:30am

      (後編) 2017年11月26日(日)8:00〜8:30am

  • 出演 森 義真さん(石川啄木記念館館長)
  • 内容
    • 現在石川啄木記念館で開催中の企画展「啄木と与謝野寛・晶子」関連の話
    • 「思い出の一曲」


[] 『日本国憲法の理念を語り継ぐ詩歌集』啄木作品も収録

今週の本棚・新刊

 『日本国憲法の理念を語り継ぐ詩歌集』=鈴木比佐雄、佐相憲一・編

(コールサック社・1944円)

  • 日本国憲法は1946年11月3日に公布され、翌年5月3日に施行された。公布から71年を迎え、改めて現憲法の存在意義を考える必要性が高まる中、この本は詩や歌、俳句の想像力と表現力で平和の意味や憲法の理念を考えようという実にユニークな憲法読本である。
  • 登場するのは223人。金子兜太さんや山口修さんら現役の作家が多いが、石川啄木や与謝野晶子ら過去の作家の作品も多数収録した。
  • 馬場あき子さん「されど日本はアメリカの基地日本にアメリカ基地があるのではなく」。金子兜太さん「集団自衛へ餓鬼のごとしよ濡(ぬ)れそぼつ」。
  • 編者の佐相憲一さんは憲法記念日の翌日に生まれた。その名には平和憲法が一番との思いが込められた。(小)

(2017-10-29 毎日新聞>東京朝刊)


記事


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<収録作品の中より>

石川啄木

  生きてかへらず

    意地悪の大工の子などもかなしかり

    戦に出でしが

    生きてかへらず


    人がみな

    同じ方角に向いて行く。

    それを横より見てゐる心。

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[] 石川啄木の短歌を奥深く知る 山梨県

児童や生徒を対象に短歌のワークショップ

  • 児童や生徒に短歌の奥深さを知ってもらおうと甲府市内でワークショップが開かれ、県内の小学生から高校生までの31人が参加した。
  • 県歌人協会の三枝浩樹会長らが講師を務め、石川啄木が詠んだ短歌を解説。「言葉の裏側に込められた思いを想像することでより一層楽しめる」などと説明した。
  • また、参加者が持ち寄った「空」をテーマにした短歌を全員で評価し合う歌会も開かれ生徒らは活発に意見を交した。

(2017-10-28 山梨放送)


記事



2017-10-28

[] 石川啄木が住んでいた!明治開業の理容店 10/31

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[ツルウメモドキ]


朝の!さんぽ道【本郷】旅人:秋本奈緒美

  • テレビ東京(Ch.7)
  • 10月31日 (火) 7:35 〜 8:00 

  • 今週は文化の香り漂う街、神保町・本郷・銀座・椎名町・江古田。隠れ家的なスポットで意外な体験!文豪が愛した街の路地裏を巡り、歌舞伎役者が愛するグルメに舌鼓!
  • 多くの文豪たちが暮らした街「本郷」。跡碑を辿りながら、風情溢れる路地裏を散歩。石川啄木が2階に住んでいた!明治開業の理容店。今も残る文豪の旧居跡や日々利用した場所を巡る!


記事



[] 「中原中也と石川啄木」100分de名著 11/18 

NHKカルチャー 青山教室
〜100分de名著

 特別講座〜 
愛と喪失のしらべ 中原中也詩集を読み解く

  「中原中也と石川啄木」

  • 講師 作家 太田治子
  • 11月18日(土)16時〜17時30分 

  • NHK Eテレの人気番組「100分de名著」の名物講師による特別講座。

詩と生活が一体であると思えるほどに、全身で詩について考え詩を作り続けた中原中也。彼の詩集を読み解き、言葉の力を見つめ直します。ここでしか聞けない番組制作裏話も満載!


記事



2017-10-27

[] 石川啄木と濃密な交友を重ねた小国露堂の孫が「仁王文庫」開設

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[ツリバナマユミ の ドローン]


新「仁王文庫」

 小国露堂の孫・菊地さん「水沢にお礼を」 啄木の友の貸本屋再現 奥州市

  • 北海道時代の歌人、石川啄木と濃密な交友を重ねた宮古市出身の新聞記者、小国露堂(おぐにろどう)(本名・善平、1877〜1952年)の孫、菊地礼子さんが、奥州市水沢区姉体町の自宅敷地に近隣住民がくつろげる癒やしの空間「宙(そら)」を開設し、併設の図書コーナーに「仁王文庫」と名付けた。露堂が晩年、盛岡市内で営んだ貸本屋と同じ名称の文庫を設けることで、露堂の生誕140年をささやかに祝った。
  • 今月中旬の週末、新しく完成したばかりの約60平方メートルの建物に近くの住民ら約30人が集まった。吹き抜けのガラス窓には青々とした空が広がり、木の香りも心地いい。出席者は唱歌を歌い、読み聞かせの絵本に見入り、耳を傾けた。
  • 露堂は、啄木に社会主義を説いたことで啄木研究家の間には知られている。啄木が釧路新聞を辞して上京後、後継者に招かれたのが露堂だった。2度北海道に渡った後の昭和初期、宮古に帰って宮古新聞を再刊。岩手日報に統合される1941年12月まで日刊で夕刊紙を発行した。
  • 新・仁王文庫は毎週木曜日午後1時〜3時半に開き、利用は予約が必要。問い合わせは菊地さん(090・9638・0431)。(鬼山親芳)

(2017-10-27 毎日新聞)


記事



2017-10-26

[] 石川啄木が故郷の知人に送った書簡も発見!

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[ツリバナマユミ]


太宰の「斜陽」原稿発見 直しなく力強い文字 漱石自画像絵はがきも

  • 新潮社は二十五日、所在不明となっていた作家太宰治の小説「斜陽」の直筆原稿四枚や、文豪夏目漱石の自画像入りの絵はがきなど資料約三十点が、同社の佐藤俊夫元会長の遺品から見つかったと発表した。
  • 調査に当たった早稲田大の中島国彦名誉教授は「直しがあまりなく、スッとほとばしり出るように書かれた力強い文字から、太宰の『斜陽』への強い思いが伝わる」としている。
  • 漱石の自画像は、「吾輩(わがはい)は猫である」を発表した〇五年に、旧制五高時代の教え子に出した絵はがきに描かれていた。
  • その他、完成稿とは書き出しが全く異なる二葉亭四迷の小説「其面影(そのおもかげ)」の草稿、石川啄木が故郷の知人に送った書簡も発見。

(2017-10-26 東京新聞)


記事



2017-10-25

[] 啄木と樹人は二人で夕焼けを見た・・・のではないか

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[イノコヅチ]


「ざっくばらんに」 [北鹿新聞]

 啄木と鹿角、深い縁 樹人と交遊の証言も

   「啄木と樹人」コンサート実行委事務局 村木哲文さん

鹿角に縁のある石川啄木と「おもちゃのマーチ」などの作曲で知られる鹿角市出身の小田島樹人にスポットを当てたコンサートが9日、鹿角市毛馬内の寺院「常照寺」で開かれる(新聞は10月6日付)。実行委員会事務局長の村木哲文さんに、目的や開催までの経緯を聞いた。


  • コンサートを開くことになった経緯
    • 啄木の母方の曾祖母熊谷ヱイは、毛馬内の常照寺の生まれです。啄木が母のように慕った姉サダは小坂鉱山の長屋で31歳で亡くなっています。樹人が啄木と交遊のあったことは分かっています。地域の歴史を掘り起こし、啄木と鹿角の深い縁を市民の皆さんに知ってほしい、というのが目的です。
  • 啄木と樹人の交遊に注目したのはなぜ
    • 啄木が鹿角に来たかどうかについては、大論争があります。最近の学説では、鹿角、十和田湖を訪れた可能性が高くなっています。当時、一人で十和田湖に来ることは無理で、誰かが案内をしたはずです。その案内を樹人がしたのではないか、と考えたのです。あくまで私の推論ですが。
  • 推論の根拠は
    • 樹人の作曲に「山は夕焼」があります八幡平曙地区の夕暮れをイメージしたといわれてます。作詞は「背くらべ」で知られ、28歳で亡くなった薄幸の詩人海野厚。二人は俳句仲間で、結核で亡くなる海野に対する嘆き悲しみから作曲したと思われます。
    • 啄木の詩の中で、八幡平・大日堂の描写に日暮れ時が出てきます。仮に、樹人が案内したのであれば、二人で夕焼けを見たのではないでしょうか。
  • コンサート会場を常照寺にしたのは
    • コンサートでナレーション担当の伊藤八重子さんから、歌で熊谷ヱイさんと啄木を供養したいという話がありました。常照寺は啄木と鹿角の関係の原点。この原点で供養しながらコンサートをやろうと実行委員会を組織し毛馬内の方々が動いてくれました。前売り券は一カ月前に完売、地元の人たちにとっては、地域を知るきっかけになったと思います。私はあくまでその橋渡し役です。

(2017-10-06 北鹿新聞)



2017-10-23

[][]  東京都 浅草 「了源寺」長男の葬儀場、「等光寺」啄木・母・長女・二女の葬儀場

啄木文学散歩・もくじ


(「啄木の息HP 2009年冬」からの再掲)


啄木家族の葬儀場「了源寺」と「等光寺」


  浅草の夜のにぎはひに

  まぎれ入り

  まぎれ出で来しさびしき心

                 啄木


  • 啄木長男・真一の葬儀場「了源寺」と、啄木の母カツ・啄木本人・長女京子・二女房江の葬儀が行われた「等光寺」を訪ねた。どちらも浅草にあり直線にして約600mの距離。浅草寺とも近い。

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「浅草寺の山門」


  • 浅草寺山門の風雷神門。この提灯は高さ約4mあり、仲見世側から見ると「風雷神門」と書いてあり、表側は「雷門」の文字になる。

 

〇 了源寺

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「啄木長男・真一の葬儀場了源寺」


  • 浄土宗「了源寺」は、都営大江戸線新御徒町駅に近く、住所は台東区元浅草3丁目。静かな佇まいで、高い建物に囲まれている。 



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「門柱右側に【了源寺】の表札」

 

 ♦【うまれて やがて死にし児】真一

1910年(明治43)

  • 10月4日、啄木24歳 東雲堂と歌集出版契約し原稿料20円のうち10円を受け取る。長男真一、誕生する。
  • 10月9日 東雲堂に歌集名を『一握の砂』とすることを通知。原稿料の残額10円を朝日新聞社にて受け取る。
  • 10月27日 長男真一死去。
  • 10月29日 真一葬儀を浅草の了源寺にて行う。法名は「法夢孩児位」。
  • 12月1日 『一握の砂』(東雲堂)刊行。歌集『一握の砂』は、末尾に長男真一の死への挽歌八首を加え五五一首となった。この歌集の最初の見本組が啄木の手元に届いたのは10月29日、真一の葬儀の夜だった。


啄木日記

明治四十四年 当用日記補遺 ○前年(四十三)中重要記事


十月-----四日午前二時節子大学病院にて男子分娩、真一と名づく。予の長男なり。生れて虚弱、生くること僅かに二十四日にして同月二十七日夜十二時過ぐる数分にして死す。恰も予夜勤に当り、帰り来れば今まさに絶息したるのみの所なりき。医師の注射も効なく、体温暁に残れり。二十九日浅草区永住町了源寺に葬儀を営み、同夜市外町屋火葬場に送りて荼毘に付す。翌三十日同寺新井家の墓域を借りて仮りに納骨す。法名 法夢孩児位。会葬者、並木武雄、丸谷喜市二君及び与謝野寛氏。産後節子の健康可良ならず、服薬年末に及ぶ。またこの月真一の生れたる朝を以て予の歌集『一握の砂』を書肆東雲堂に売り、二十金を得たり。稿料は病児のために費やされたり。而してその見本組を予の閲したるは実に真一の火葬の夜なりき。





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「了源寺境内と墓地の境にある門」   


♦ 真一挽歌八首

  • 生後わずか24日しか生きられずに逝ってしまった我が子を切々と詠う。

  『一握の砂』石川啄木

 

   夜おそく

   つとめ先よりかへり来て

   今死にしてふ児を抱けるかな


   二三こゑ

   いまはのきはに微かにも泣きしといふに

   なみだ誘はる


   真白なる大根の根の肥ゆる頃

   うまれて

   やがて死にし児のあり

 

   おそ秋の空気を

   三尺四方ばかり

   吸ひてわが児の死にゆきしかな


   死にし児の

   胸に注射の針を刺す

   医者の手もとにあつまる心


   底知れぬ謎に対ひてあるごとし

   死児のひたひに

   またも手をやる


   かなしみの強くいたらぬ

   さびしさよ

   わが児のからだ冷えてゆけども

 

   かなしくも

   夜明くるまでは残りゐぬ

   息きれし児の肌のぬくもり

 

    ー (をはり) ー




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「新井家之墓」

  • 真一が荼毘に付された後
仮に納骨された新井家の墓。
  • 新井家は、啄木が1909年(明治42年)6月〜1911年 8月まで家族とともに住んだ、本郷区弓町の床屋さん「喜之床」である。現在も「理容アライ」という名前で営業している。


〇 等光寺

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「小路の角にある等光寺」

  • 右隅カーブミラー脇の塀裏側に啄木歌碑がある


♦ 土岐善麿と等光寺

  • 土岐善麿(号・哀果)は西浅草一丁目(旧松清町)、真言宗大谷派の等光寺が生家である。父善静、母観世の二男として生まれる。兄土岐月章は啄木葬儀時の導師を努める。
  • 等光寺では、啄木の母カツ(1912年没)、啄木本人(1912年没)、長女京子(1930年没)、二女房江(1930年没)の葬儀が土岐の好意により行われている。
  • また、土岐善麿の告別式も(1980年没)行われている。



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「等光寺の正面」

  • 門柱右には「等光寺」と書かれ
左は「土岐」という表札がある。

♦ 土岐善麿と啄木

  • 土岐善麿は1885年(明治18)浅草に生まれる。1886年生まれの啄木とは1歳違い。早稲田大学英文科卒業。読売新聞に勤務しているときに啄木と知り合う。
  • 土岐は1910年(明治43) 4月にローマ字3行書きの歌集 『NAKIWARAI』 を出版した。啄木は東京朝日新聞「歌のいろいろ」で土岐の歌を取りあげた。

土岐哀果君が十一月の「創作」に發表した三十何首の歌は、この人がこれまで人の褒貶を度外に置いて一人で開拓して來た新しい畑に、漸く樂しい秋の近づいて來てゐることを思はせるものであつた。その中に、

燒あとの煉瓦の上に
syoben をすればしみじみ
秋の氣がする

といふ一首があつた。好い歌だと私は思つた。

(東京朝日新聞」「歌のいろいろ」1910年12月)   


1911年(明治44)

  • 1月12日、東京朝日新聞の記者名倉聞一の紹介で土岐哀果との会見を電話にて約束。
  • 1月13日 読売新聞社から自宅に伴った土岐哀果と雑誌『樹木と果実』の創刊を協議し、許される条件の中での、青年に対する啓蒙を決意する。誌名『樹木と果実』は、「啄木」「哀果」から取ったものである。
  • 2月23日 土岐哀果から、クロポトキン自伝『一革命家の思い出』第二巻を借用し、熱心に読んだ。

1912年(明治45)

  • 2月18日 土岐哀果の歌集『黄昏に』(東雲堂)刊行。「この小著をとって、友、石川啄木の卓上におく」と記された
  • 3月7日 母カツ肺結核で死去。享年65歳1カ月。
  • 3月9日 浅草等光寺にて母カツの葬儀(法名は恵光妙雲大姉)。葬儀は土岐哀果の厚意によるものである。
  • 4月9日 土岐哀果の尽力で、東雲堂書店と第二歌集の出版契約し、原稿料20円を受け取る。





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「歌とレリーフと案内板」

  • 境内では啄木生誕70周年の1955年(昭和30)10月27日、金田一京助氏らが集まって歌碑除幕式が行われた。
  • 門を入ってすぐ右手に縦1メートル、横1.5メートル余りの黒みかげ石の碑があり、歌集『一握の砂』にある「浅草の夜のにぎはひに まぎれ入り まぎれ出で来しさびしき心」の一首と、左上に胸像が刻まれている。碑の右に台東区教育委員会による案内板がある。




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「案内板」

石川啄木歌碑

台東区西浅草一丁目六番一号 等光寺

 石川啄木は明治十九年(一八八六)岩手県に生まれる。はじめ明星派の詩人として活躍した。しかし曹洞宗の僧侶であった父が失職したため一家扶養の責任を負い、郷里の代用教員や北海道の新聞記者を勤め、各地を転々とした。

 明治四十一年(一九〇八)、文学者として身を立てるため上京して創作生活に入り、明治四十二年からは東京朝日新聞の校正係となった。小説や短歌の創作に励み、明治四十三年十二月には処女歌集「一握の砂」を出版する。生活の現実に根ざし口語をまじえた短歌は歌壇に新風を吹き込んだ。

 しかし苦しい生活の中で肺結核を患い明治四十五年(一九一二年)四月十三日に小石川区久堅町の借家で死去した(二十七才)。親友の土岐善麿(歌人・国学者)の生家であった縁で、葬儀は等光寺でおこなわれ、啄木一周忌追悼会も当寺でおこなわれた。墓は函館市の立待岬にある。

 この歌碑は、啄木生誕七十年にあたる昭和三十年に建てられた。「一握の砂」から次の句が記される。

   浅草の夜のにぎはひにまぎれ入りまぎれ出で来しさびしき心

  平成十五年三月

             台東区教育委員会



 

 




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浅草の夜のにぎはひに
まぎれ入り
まぎれ出で来しさびしき心





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「ブロンズの啄木像」

♦ 啄木の葬儀と土岐の辞世

1912年(明治45)

  • 4月13日 啄木早朝より危篤。午前9時30分、死去。(死因は、肺結核であると言われて来たが、結核ではあるにしろ、肺結核であったかについては疑問も提出されている。)最後をみとった者は、妻節子(妊娠8カ月)の他、父一禎と友人の若山牧水とであった。享年26歳1カ月余。
  • 4月15日 佐藤北江、金田一京助、若山牧水、土岐哀果らの奔走で葬儀の準備を進め、午前10時より哀果の縁りの寺である等光寺で葬儀。会葬者約50名。導師は哀果の兄の土岐月章であった。法名は、啄木居士。
  • 6月20日 第二歌集『悲しき玩具』(東雲堂)刊行。なお、書名は、「歌は私の悲しき玩具である。」〔「歌のいろいろ」、『東京朝日新聞』1910年(明治43年12月10日-20日)末文〕に基づいた土岐哀果による命名であった。

 

土岐は啄木を「きざなやつだ」と思っていた。後に親友となり啄木のことをこう詠った。

   石川はえらかったな、と/おちつけば、/しみじみと思ふなり、今も。

 

土岐葬儀のとき「会葬御礼」の色紙に記された歌

   わがために一基の碑をも建つるなかれ

   歌は集中にあり 人は地上にあり



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「一念」とのみ刻まれた石柱

土岐は1980年(昭和55)4月15日に下目黒の自宅で心不全により死去。満94歳。土岐の墓は、啄木歌碑を過ぎ本堂わきの小路を辿り裏墓地に入ったところにある。「一念」とのみ刻まれた石柱がそれである。

啄木の一つ年上だった土岐は長寿を全うした。「もし」は許されないが、啄木も長寿であったなら1980年代くらいまで生きることができたかも………。

 土岐という友人のおかげで啄木はたくさんの幸せを得たと思う。

  

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主要参考文献


「石川啄木事典」国際啄木学会編/おうふう/2001


「石川啄木全集」筑摩書房/1983


「啄木文学碑紀行」浅沼秀政 株式会社白ゆり 1996



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「仲見世の《にぎはひ》」



2017-10-20

[] 『みだれ髪』を超えて 明星研究会シンポジウム

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[コムラサキ]


第9回 明星研究会 <シンポジウム>

  口語自由詩の衝撃と「明星」〜晶子・杢太郎・白秋・朔太郎・光太郎

100年余り前の明治末期、詩歌の尖鋭たちを擁する「明星」は、文語定型詩から口語自由詩へ移行する詩界の激流に直面しました。日露戦争後の経済格差と閉塞感漂う時代の空気は、隆盛しつつあった自然主義文学の現実暴露に表現の真実を見出し、美的で自己肯定的な浪漫主義や言語美に詩情を託す象徴主義を過去のものへと追いやろうとしたのです。

口語自由詩は、時代に適った表現なのか。素材やテーマはどう追求されるべきなのか。「明星」の詩歌人たちはその変革にどう立ち向かい、自らの表現を獲得しようとしたのでしょう。言葉と韻律をめぐるこの詩歌のドラマを、現代短歌まで視野に入れて考察します。多くの皆さまのご参加を期待致します。


○日時 2016年11月26(日)13時40分〜16時40分 (13時 15分開場)

○場所 日比谷コンベンションホール(千代田区日比谷公園1番4号)

○会費 2,000円(資料代含む) 学生1,000円(学生証提示)

○内容

  • 13:40 開会挨拶
  • 13:45 〜14:45 第1部 講演 「『みだれ髪』を超えて〜晶子と口語自由詩 女性・子供・社会」

   松平盟子(歌人)

  • 15:00 〜16:40 第2部 シンポジウム 「口語自由詩に直撃! 彼らは詩歌の激流にどう漕ぎ出したか」

   坂井修一(歌人):木下杢太郎

   細川光洋(静岡県立大学教授):北原白秋

   前田宏(歌人):萩原朔太郎

   司会:松平盟子(歌人)

  • 16:40 閉会挨拶 平出 洸(明星研究会世話人)

   総合司会:横山裕子


○申し込み「明星研究会」事務局あて。

<主催> 明星研究会 http://www.myojo-k.net/

<協力> 与謝野晶子倶楽部 伊東市立木下杢太郎記念館

<後援> 落合直文顕彰会 軽井沢美術文化学院 国際啄木学会 日本現代詩歌文学館


申込等詳細



2017-10-19

[] 漱石朝日入社の2年後 啄木が入社 在社中歌集「一握の砂」出版

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[ビル前の石川啄木歌碑]


時を超え、装い新たに 東京銀座朝日ビル、完成

  • 高級ブランドや老舗の店が軒を連ねる東京・銀座の並木通りに「東京銀座朝日ビルディング」が完成し、19日に竣工(しゅんこう)式が開かれる。11月から来年1月にかけてホテルやショップが順次開業する。情報・文化の発信地として歴史を刻んできた街が、時を超え、装いも新たに生まれ変わる。
  • 3〜12階に入るホテルは、来年1月に開業する「ハイアット セントリック 銀座 東京」。平均で1泊4万円台を想定している。12階にある最上級の「ナミキ スイート」は、汐留まで望めるテラスやキッチンダイニングもあり、パーティーなどにも使える。
  • ビルの1、2階はメゾネット式で、並木通りで流行を牽引(けんいん)してきたショップが入る。「ロレックス ブティック レキシア 銀座並木通り本店」「ルイ・ヴィトン銀座並木通り店」「サンモトヤマ銀座本店」など。

朝日新聞「東京創業の地」 漱石・啄木も勤務

  • 東京銀座朝日ビルの敷地は、朝日新聞が東京で創刊した年に社屋を構えた「東京創業の地」でもある。当時、二葉亭四迷や夏目漱石、石川啄木といった文豪や歌人たちが次々と朝日新聞に入社。ここで働いていた。
  • 夏目漱石は1907年、東京帝大と一高の講師を辞めて入社。漱石入社の2年後、石川啄木が校正係として入社。在社中に歌集「一握の砂」を出版した。社内の様子を詠んだ「京橋の滝山町の新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな」の歌碑は今もビル前の歩道に立っている。(この特集は野口陽が担当しました)

(2017-10-19 朝日新聞)

記事



2017-10-17

[] 釧路の啄木像 マントを羽織り 腕を組み 凝視

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[トリカブト]


(各駅停話:1039)JR花咲線:20 [朝日新聞]

 「釧路 啄木、終着駅に何思う」

  • インドネシアのバリ、フィリピンのマニラと並んで北海道釧路市は「世界三大夕日のまち」だという。
  • 川沿いに歌人・石川啄木の像(制作・本郷新〈しん〉)がある。マントを羽織り、腕を組んで凝視している。釧路新聞の記者として再出発するため、1908(明治41)年1月21日夜、釧路駅に降り立ったときもこんな表情だったのだろうか。
  • 「さいはての駅に下り立ち/雪あかり/さびしき町にあゆみ入りにき」と詠んだ。当時の釧路は終着駅。その先は原野が広がり、根室への鉄路はまだ敷かれていなかった。
  • 上司への不満と、東京での創作活動の憧れから啄木は同年4月5日、酒田川丸に乗り釧路を離れる。だが実質的な編集長として縦横に紙面を作り、コラムでは政治評論にも筆を振るうなど、釧路は啄木が記者として最も奔放に活躍した場所といわれている。(編集委員・小泉信一)

(2017-10-11 朝日新聞)


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[][] 啄木記念館でスタンプラリー 11/3

石川啄木記念館文化の日関連イベント「啄木スタンプラリー」

  • 開催日時 平成29年11月3日(金)午前9時 から 午後4時30分 まで
  • 開催場所 石川啄木記念館
  • 内容 記念館敷地内をめぐりながら啄木にちなんだスタンプラリーを行ないます。先着30名様には啄木グッズをプレゼントします。玉山のマスコットキャラクタ―・たま姫ちゃんも来ますよ。この日は,記念館を無料開放します。
  • 申し込み 不要

詳細



2017-10-16

[] 啄木は「歌鉄」だろうか … 鉄道を何より愛した

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[新幹線 東京〜新函館北斗]


10月14日は「鉄道の日」 [岩手日報(広告)]

 人の思いを乗せて レールの上をひた走る

  • 歌人、そして詩人として多くの作品を世に生み出してきた石川啄木。啄木も鉄道の魅力にのめりこんだ一人であり、事あるごとに鉄道を利用しては県内外のさまざまな場所を訪れ作品をしたためた。
  • 啄木の代表作でもある「一握の砂」、そして「悲しき玩具」。この 2 作品の中だけでも、「電車」「汽車」「駅」などといった鉄道に関連する語を含む短歌は実に38首に及ぶ。

   何となく汽車に乗りたく思ひしのみ

   汽車を下りしに

   ゆくところなし

  • これは「一握の砂」に収められた一首であり、汽車に乗りたくてなんとなく乗ったが、降りた後でさてどこへ行こうか、と思い惑う様子を描いた作品である。この短歌からは啄木が汽車を楽しみ、同時に非常に強い憧れを抱く対象でもあったことをうかがい知ることができる。

   こみ合へる電車の隅に

   ちぢこまる

   ゆふべゆふべの我のいとしさ

  • 同じく「一握の砂」の作品だが、これはおそらく東京における帰宅ラッシュ時の電車に乗り込んだときのことを回想して作ったと推察されるものだ。仕事に疲れて帰る際に満員電車に揺られながら端の方でしみじみと自分の愛しさを感じている歌だが、現代のサラリーマンの中でも啄木と同じような気持ちで揺られている人は少なくないだろう。
  • 鉄道の存在は彼の作品に大きな影響を与え、数々の優れた歌を世に残した。現代風に言えば啄木は鉄道マニアの一人だったのかもしれない。「乗り鉄」「撮り鉄」などいろいろな嗜好が存在するが、啄木を形容するならば「歌鉄」だろうか。それほど啄木は鉄道と非常に密接に関わり、利用し、そして何より愛していた。

(2017-10-06 岩手日報(広告))



2017-10-15

[][] 「鉄幹は親切なやさ男」「晶子さまは気品の高い女」啄木書簡に 〜1/8

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[ホトトギス]


啄木と与謝野夫妻の絆、交流を紹介 盛岡・記念館で企画展 [岩手日報]

  • 石川啄木記念館(森義真館長)の企画展「啄木と与謝野寛・晶子」は、盛岡市渋民の同館で開かれている。盛岡中学時代の石川啄木(1886〜1912年)に影響を与え、上京後は物心両面から支えた文芸雑誌「明星」の主幹与謝野寛と、その代表歌人だった妻晶子の活躍や啄木との交流を紹介。夫妻自筆の短歌の掛け軸など貴重な資料約80点を展示する。来年1月8日まで。
  • 明星は1900(明治33)年創刊。啄木は刺激を受け、仲間と出した回覧雑誌には、好きな本に晶子の歌集「みだれ髪」を指す「乱髪」を挙げていた。
  • 盛岡中学を中退して上京した啄木は1902年、夫妻と初めて対面。その感動を友人への書簡で「鉄幹は親切なやさ男」「晶子さまは気品の高い女」と記している。北海道から上京した1908年には、夫妻の住まいに居候。この年に100号で終刊を迎える明星の発送作業を手伝った。

(2017-10-14 岩手日報)


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[][] 講演「石川啄木が語りかけるもの」in 松山 11/11〜12

「四国近県集会in松山」 新日本歌人

日時 2017年11月11日(土)12:50 〜 11月12日(日)正午

会場 えひめ共済会館 愛媛県松山市3-5-13-1

  • 記念講演-1 「いい歌をつくるために」碓田のぼる氏
  • 見学-1 子規記念博物館
  • 見学-2 松山城本丸
  • 記念講演-2 「石川啄木が語りかけるもの」碓田のぼる氏

申込等 詳細



2017-10-13

[] 啄木の歌には己を頼む思いが滲む 虫武の歌の自己評価はゼロかマイナス

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[アキノキリンソウ]


気鋭歌人の群像(2) 劣化する労働環境での生活投影 [日本経済新聞]

  心は人間性を希求  梅内美華子

  • 今の40代以下の世代はバブル崩壊後に社会に出て、不景気が恒常化した時代を生きることを余儀なくされてきた。フリーターや非正規労働、ブラック企業などは社会問題となってきたが、そうした状況下で働き、生きることの困難はこの世代の歌人の重要な主題となった。注目すべき歌人に虫武一俊がいる。

 〈三十歳職歴なしと告げたとき面接官のはるかな吐息〉(『羽虫群』)

  • 面接官と断絶感  「職歴」を自身の証明、価値とするとき、そこから完全に外れてしまう「私」。「はるかな吐息」に言葉のセンスが光る。自分の経歴と面接官が求めるものとの大きな差、埋めようのない断絶を想起させる。
  • かつて石川啄木は〈はたらけど/はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり/ぢつと手を見る〉(『一握の砂』)と貧しさをうたった。啄木の歌には不遇にあっても己を頼む思いが滲(にじ)むが、虫武の歌からうかがえる自己評価はゼロかマイナスだ。両者が詠む貧しさには質的に大きな差異がある。(歌人)

(2017-10-11 日本経済新聞 夕刊)


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[][] 啄木の娘の看病をした友人に感謝 啄木直筆資料展 10/7〜4/4

啄木つづった悩みや感謝 手紙など7点 函館で直筆資料展

  • 函館ゆかりの歌人石川啄木の直筆の手紙やはがきなどの展示会「石川啄木直筆資料展」が、函館市文学館(函館市末広町)で開かれている。筆が進まず悩んでいる様子などをつづった手紙など7点を並べた。
  • 啄木が1908年(明治41年)に上京してすぐ函館の友人宛てに「小説に転ずるという考えが知人たちの賛同を得た」「小説を執筆し始めたが、なかなか筆が進まず困惑している」などを記した手紙4点とはがき3点を展示した。函館に残してきた病気の娘の看病をしてくれた友人に感謝の気持ちを記したものもある。

(2017-10-12 北海道新聞)


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平成29年度 石川啄木直筆資料展

 「明治四十一年五月の書簡」

  • 会期 平成29年10月7日(土)〜平成30年4月4日(水)
  • 会場 函館市文学館2階展示室

函館市文学館では、明治41年5月の東京 市千駄ケ谷、そして、東京市本郷から宮崎大四郎(郁雨)と吉野章三(白村) に宛てた手紙4通とはがき3通を展示します。

展示資料

1.明治41年5月 2日 宮崎 大四郎 宛書簡

2.明治41年5月 4日 宮崎 大四郎 宛はがき

3.明治41年5月 7日 吉野 章三 宛書簡

4.明治41年5月11日 宮崎 大四郎 宛書簡

5.明治41年5月25日 宮崎 大四郎 宛はがき

6.明治41年5月27日 宮崎 大四郎 宛はがき

7.明治41年5月28日 宮崎 大四郎 宛書簡



  • 函館市文学館
    • 函館市末広町22-5  電話 0138-22-9014  Fax 0138-22-9065

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2017-10-12

[] 啄木と北海道の人々との関わり 国際啄木学会開かれる

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[キンミズヒキ]


国際学会 八雲大会 啄木と北海道に焦点 [岩手日報]

  • 国際啄木学会北海道八雲大会は 7、8の両日、八雲町で開かれ約100人が参加した。
  • 啄木が函館に赴いたのは、1907(明治40)年5月。翌年4月まで札幌、小樽、釧路を転々とし、それぞれ新聞社で働くなどして暮らした。
  • 7日は天理大学名誉教授の太田登さんが「啄木文学における北海道体験の意味」と題して記念講演。啄木の歌集「一握の砂」が杜甫や松尾芭蕉に代表される「漂泊文学」の傑作だと評価した。
  • パネル討論は「啄木を育てた北海道−新聞・人・短歌」がテーマ。若林敦さん(長岡技術科学大学教授)は、北海道で初めて新聞記者を経験した啄木が、実社会により直接的に関わる記者の仕事を肯定的に捉えたと述べた。山下多恵子さん(日本ペンクラブ会員)は、「北海道の人々との関わりが、啄木に『石川啄木』とは何者なのか、どこへ向かえばいいのかを教えた」と強調。松平盟子さん(歌人)は、当時の文芸雑誌「明星」誌上での同人たちの活躍や啄木との落差を示す記述を紹介し、啄木の心情を推察した。
  • 8日は、4人が研究発表。山田武秋さん(国際啄木学会盛岡支部)は、折口信夫による「思想などのない啄木」という批評について、否定的なものではなく、短歌の本質を捉えたものだと指摘。「啄木の作品が100年を超えて愛され続けるのは、作品への情緒があったからこそ」と強調した。プラット・アブラハム・ ジョージさん(インド・ネルー大学教授)は「一握の砂」を吟味して分かるのは、人間の全ての感情が詠まれていること。完璧な作品の一つと言っても過言ではない」と日本語で発表。

地元ファン盛り上げ 初開催の八雲町

  • 大会は石川啄木が作品を残した地域ではない北海道八雲町で初めて開催。
  • 地元の八雲啄木会は、2003年設立。毎月の例会は啄木の名歌鑑賞、研究発表などを行い、啄木ゆかりの地を巡る研修も続けている。長江隆一会長は「啄木は庶民の心を詠み、北海道の作品を多く残したことから共感されている」と生き生きした表情で語った。

(2017-10-11 岩手日報)



2017-10-10

[] 啄木の曾祖母が生まれた寺でコンサート /秋田県鹿角市 

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[マルバフジバカマ]


鹿角きりたんぽ FMニュース

「啄木と樹人の縁でコンサート」 鹿角市

  • 歌人、石川啄木と作曲家、小田島樹人のつながりにスポットを当てたコンサートが鹿角市で開かれ、2人と鹿角の縁や、作品のすばらしさがアピールされました。
  • 歌集「一握の砂」などで知られる歌人、石川啄木は、作品「鹿角の国を憶ふ歌」で、祖先の血が流れる鹿角へのあこがれと、小坂町に嫁いだ姉に迫った死への嘆きを込めたと言われています。また、童謡「おもちゃのマーチ」などを作曲した小田島樹人は花輪の出身で、旧制盛岡中学で1学年上の啄木と交友があったことが分かっています。そのつながりにスポットを当てたコンサートが、鹿角市の有志たちに企画され、会場には啄木の曾祖母が生まれた毛馬内の寺院「常照寺」が選ばれました。
  • 9日に、本堂を埋め尽くすおよそ170人が来場して開かれ、啄木の初恋にちなんだ短歌にメロディーをつけた曲や、樹人が作曲した「山は夕焼け」などが取り上げられ、盛岡市のテノール歌手や、地元のコーラスグループの女性たちが歌いました。また啄木や樹人についての解説もあり、啄木を研究していて、今回のコンサートを企画した尾去沢尾去の村木哲文さんは、これまで明らかになっていない啄木が鹿角を訪れた可能性と、それを樹人が案内したとの見かたを示しました。

(2017-10-09 鹿角きりたんぽ FMニュース)


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2017-10-08

[][] 北海道八雲町で啄木学会始まる 〜10/8

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[コムラサキ]


NHKニュース 北海道

 国際啄木学会が八雲町で大会

  • 歌人、石川啄木の研究などを続けている国際啄木学会の大会が、道南の八雲町で始まりました。国際啄木学会は、石川啄木の功績をたたえ短歌の魅力を後世に残そうと、28年前に設立されました。
  • 初日の7日は、啄木が一時、暮らしていた北海道での経験がその後の創作活動にどう影響を与えたかをテーマにパネルディスカッションが行われました。パネリストからは「北海道の風土と歴史、その地に生きる人たちが、啄木の文学への思いをたきつける薪のような役割を果たした」といった意見が出されていました。

  • 大会の実行委員長を務める長江隆一さんは「北海道と啄木の関係を改めて認識しました。これからもずっと研究を続けていきたいです」と話していました。国際啄木学会の八雲大会は8日まで開かれます。

(2017-10-08 NHKニュース)


記事



[][] 啄木学会開幕 フォトニュース

函館新聞 フォトサービス

 啄木の研究家、活動成果披露 八雲で国際学会開幕

石川啄木にちなんだ歌を披露する八雲啄木会

(2017-10-08 函館新聞)


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2017-10-06

[][] NHKニュース 企画展「啄木と与謝野寛・晶子」石川啄木記念館 〜1/8

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[ミズヒキ]


NHK NEWS WEB 岩手

 与謝野夫妻と石川啄木の資料展

  • 近代文学に大きな影響を与えた与謝野寛と晶子夫妻の作品や、石川啄木との関わりを知ることができる資料を集めた展示会が盛岡市で開かれています。会場の盛岡市の石川啄木記念館には、2人の短歌や日記、それに石川啄木との関係を示す資料およそ80点が展示されています。
  • 晶子が啄木との思い出をつづった原稿は、ふるさとに帰る運賃もないのに妻の節子に買ったバイオリンの弦を見せられた思い出が書かれ、晶子の驚きと啄木の人柄をうかがわせます。また、寛が刊行した文芸雑誌「冬柏」で紹介された啄木への手紙では、北海道で記者として働いていた啄木を再び東京で歌人として活躍するよう後押ししていて、寛が啄木に大きな期待を寄せていたことがわかります。
  • 学芸員の鳥取邦美さんは、「与謝野夫妻の目を通してふだんの啄木の姿を知ることができます。また、啄木から見た夫妻にも触れて、双方の人柄を感じ取ってほしい」と話していました。
この企画展は、来年の1月8日まで開かれています。

(2017-10-04 NHK NEWS WEB 岩手)


石川啄木記念館 企画展



[] 「『愛すべきクズ人間』〜男子高校生の啄木受容の一断面〜」成城中・高

成城中・高 スクールライフ

 石川啄木の学会で本校の授業について発表しました

  • 10月1日(日)、明治大学和泉校舎で開催された、国際啄木学会東京支部会で、国語科の及川教諭が「『愛すべきクズ人間』〜男子高校生の啄木受容の一断面〜」と題して発表を行いました。これは、昨年度高校2年生を対象に実施した、石川啄木の授業に関するものです。
  • 授業は、いわゆるアクティブ・ラーニング形式で行われました。3人1組でポスターを用いてのプレゼンテーションののち、特に出色のできだった班の代表6名を集め、総括の座談会を実施しました。
  • 及川教諭の発表に対し、来場者より多くの発言、質問が出されました。国語教育の議論を主とした場ではありませんが、文学研究を専門とされる方にも、本校の生徒の啄木短歌への取り組みや関心は、興味を持っていただけたようです。石川啄木について、新たな角度から議論のきっかけをご提供できたことは幸いでした。

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[][] 「おらぁ 泣ぎざぐって がにど戯れっこしたぁ」啄木短歌が ケセン語に

ケセン語で『啄木のうた』、短歌を土地言葉に “翻訳”

 大船渡の女性らが協力し一冊に

  • 大船渡市の女性たちが “方言指導者” として協力した『東北おんば訳 石川啄木のうた』(未來社刊/税抜き1800円)が、このほど発売された。啄木が残した短歌100首が、ケセン語によって生き生きとよみがえるとともに、これまでにない歌の解釈や味わい方まで引き出されている。
  • 全国の読者にも分かりやすいよう、書名には便宜上「東北」と記されているが、実質的には完全なる「ケセン語」訳。年長の女性たちに対する親しみと尊敬を込め、「おんば」という語もタイトルに加えられた。
  • 「おんば訳」によると、本紙の紙名の由来にもなった有名な歌「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて蟹とたはむる」は、

「東海(ひんがす)の小島(こずま)の磯(えそ)の砂(すか)っぱで おらぁ 泣ぎざぐって 蟹(がに)ど戯れっこしたぁ」となる。

  • 啄木の歌は、青春の胸の痛みや孤独な内面といった内容から愛唱されることも多く、本人についても、ナイーブさや “気取り屋” な面が強調されがちだが、おんば訳には、生活に根差した目線と、どこか骨太なたくましさとが漂う。
  • 問い合わせは各書店まで。

(2017-10-06 東海新報)


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2017-10-04

[] 啄木は自由な彗星に己を重ねていたのだろうか

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[エケベリア]


石川啄木「雲は天才である」 盛岡市渋民

  • がたごと、がたごと盛岡から北へ。およそ20分、列車の窓が岩手山の絵になった。ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな。渋民駅で降りると、啄木の言葉が迎えてくれた。歌碑ならぬ歌の木札が壁を飾っていたのだ。
  • 墨書したのは、くしくも啄木の本名と同じ名の人。渋民小学校の教員を勤めあげた阿部一(かつ)さんで、いわば啄木のはるか後輩。啄木顕彰にいそしみ、啄木記念館でボランティアの草刈りを欠かさない。「天文が大好きな歌人だったんです」。晴れの日は天文観測、雨の日は飛行船の設計という暮らしにあこがれる人だったという。阿部さんに歌をひとつあげてもらった。

    はうきぼし王座につかずかの虚(こ)空(くう)翔(かけ)る自在を喜びて去る

  • 26年で命つきた啄木は、秩序から自由な彗星(すいせい)の一生に己を重ねていたのだろうか。
  • 20歳で書いたこの小説の舞台となるS村はむろん、渋民のこと。生活困窮のため故郷の高等小学校で1年間、代用教員を勤めたとき、一気に書いた。校長、訓導、女教師との4人ばかりが控えた小さな職員室は、記念館に残る木造校舎にいまもある。(編集委員 内田洋一)

(2017-09-30 日経新聞 夕刊)


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[] 啄木とあいさつし、啄木と付き合っていくということ

【開催しました】第4回郷土の歴史講座『啄木 函館の「忘れがたき人人」』

  • 9月30日(土)、第4回郷土の歴史講座『啄木 函館の「忘れがたき人人」−五人の親友と一人の女性−』が開催されました。今回の講座は、元国際啄木学会会長の近藤典彦さんに講演していただきました。
  • 明治40年5月5日に函館に来た啄木。この地で得た友人たちや素敵な女性との出会いについて、歌集『一握の砂』の歌々を手がかりに読み解いていきました。
  • 近藤さんが、「啄木についてお話しするのは、皆さんが啄木とあいさつをするようなもの。そして、啄木の作品を読み解いていくのは、皆さんが啄木と付き合っていくということ」とお話しされたのが印象的でした。参加された方は、皆さんとても熱心に聞かれていました。

(2017-10-02 函館市中央図書館)


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[][] 啄木が訪れた三陸地方を巡る 10/5

啄木の足跡たどるイベント 大船渡

  • 大船渡市の「椿の里・大船渡ガイドの会」は5日、同市立根町の県立福祉の里センターなどで、青年期に三陸地方を訪れたとされる歌人石川啄木の足跡をたどるイベントを初めて開く。
  • 午前10時半から同センターで講演と座学。啄木ソムリエとして活動する山本玲子さんが講師を務め、午後は市内各地に立つ啄木の石碑を巡る。参加無料。
  • 申込み、問い合わせ 碁石海岸インフォメーションセンター(0192-29-2359)

(2017-10-03 岩手日報)



[] 混迷する政治を打ち破るカギ 「地図の上 朝鮮国にくろぐろと」

長野)「理想主義」この機会に立ち止まって考えたい

  • 松代大本営など「戦争と平和」をテーマに多くの作品を発表している児童文学作家、和田登さん=長野市在住=は今回の衆院解散に暗澹(あんたん)たる思いを抱く。そして、混迷する政治や世界を打ち破るカギを、「理想主義」と考える。

  「地図の上 朝鮮国にくろぐろと 墨を塗りつつ秋風を聴く」

  • 安倍晋三首相が臨時国会の冒頭で衆院を解散した9月28日、和田さんの頭をよぎったのは、石川啄木が1910年の韓国併合の直後に作った歌だった。和田さんは「日本の権力者に対する啄木の怒り」を表していると解す。そして、「朝鮮国」を「日本国」に置き換えたい衝動にかられたという。
  • 悲観ばかりはしていられない。世界中で「自国第一主義」が強まっている現代こそ、「理想主義」に思いを巡らすときではないか、と説く。憲法が争点となる今回の選挙は、その好機とみる。
  • 「『人間としてどうなんだ』と問われると、人は少し立ち止まって考えるものです。そうすると、思考も発展する。この選挙を、そんな機会としたい」(北沢祐生)

(2017-10-02 朝日新聞)


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[] 「登山の日」〈ふるさとの山に向かひて言うことなし

「天鐘」 [デーリー東北]

  • 〈ふるさとの山に向かひて言うことなし ふるさとの山はありがたきかな〉。啄木が子供の頃、渋民村(現盛岡市)から仰ぎ見た岩手山を詠んだ歌だ。故郷の山は子をいたわる母の如し。ただ「ありがたい」の一言に尽きる。
  • 太宰治も岩木山を「したたるほど真蒼で富士山よりもっと女らしく、十二単衣の裾をぱらりとひらいて―」(小説『津軽』)と妖艶な美女に喩えた。故郷の山はその大小にかかわらず何物にも代え難い存在である。
  • 今日は「登山の日」。登山家のバイブル『日本百名山』の著者、深田久弥の愛読書はスタンダール著『パルムの僧院』だった。アルプスの山麓グルノーブルからパリに出て来た著者は「高い山がない」と嘆いて花の都を嫌悪したという
  • 東北の山々は間もなく紅葉本番。八甲田は山頂が見頃で中腹が5割。今週にはピークを迎えるらしい。久しぶりに登ってみるか―。

(2017-10-03 デーリー東北)


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2017-10-02

[] 「矢車草 <5> おわり」-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

「矢車草 <5>」

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-石川啄木の歌に登場する花や木についての資料-


矢車草

     函館の青柳町こそかなしけれ

     友の恋歌

     矢ぐるまの花



函館の青柳町──そこにはまさしく友がいて、友情の花が咲いていた。まだまだ自分も未来を信じていいのだと、ひそかに心に呟いたことであろう。のちに「死ぬときは函館で死にたい」と啄木に言わしめたのは、友情に支えられた日々の記憶であったことは疑い得ない。

そしてこの時期の啄木にとってもう一つの大きな収穫は、たびたび催された歌会が、彼に再び歌をもたらしたことだろう。与謝野鉄幹の勧めで短歌から詩に移っていた啄木が「二年も休んで居たので、仲々出ぬ」と唸りながらも、しだいに五七五七七のリズムを取り戻していく。苜蓿社でのこの体験がなければ歌集『一握の砂』はなかったと言っても過言ではない。

(『啄木と郁雨』 山下多恵子 未知谷 2010年)


啄木は座談の優れて面白い人で、親しみのあるお国なまりで、あの明哲な理智を閃かしながら、明快な調子で、話し続け、いつも話題の中心になっておりました。そして、それらの人達の話題が結局、恋愛問題に落ち着いていくのが毎度のようになっておりました。

この歌は、啄木が当時を懐かしんだ歌であります。こうした夢のような生活を毎日送っておりました一方に、啄木は本当はひどい生活苦に追いつめられていたのであります。

自分の着て寝る夜具まで売って旅費を作って函館へ来た啄木は、その日からでも働かなければならない境遇にあったのであります。幸い苜蓿社関係の人の世話で、商業会議所へ入ることになりましたけれども、これは日給60銭の臨時雇でありましたので、わずか三週間ほどで、御用終いになってしまいました。それでも12円あまりの手当をもらいましたから、大いに助かったと思います。

(「啄木研究」 昭和55年 第5号 宮崎郁雨 洋々社)


ふるさとの渋民を去り、北海道への旅に立ったその時から、詩人石川啄木の心に、「漂泊」という二つの文字が刻みこまれます。きびしい試練が訪れたのです。その時、まだ二十一歳の若さでした。

その啄木を函館に呼び、迎えたのは、青柳町に住む苜蓿社という文学グループの、若い人びとでした。中央に名の知れた詩人石川啄木を、この北海の地に迎え入れることは、彼らにとって誇りであり、喜びでもあったでしょう。

苜蓿社の文学青年たちは、いつも啄木を中心に、熱っぽく北の文学を語り、情熱と恋とをたたえます。そして、ときには、悲しい恋の化身と語りつがれている「矢ぐるまの花」に、その恋の思いを託します。啄木は自分を慕うこの若い人びとに、過去の自分の姿をダブらせて、彼らをあたたかく見守りました。そうした忘れがたき人びとを、今、東京にあって思い出す時、青柳町は啄木の心に、悲しくも、懐かしくよみがえってくるのです。

(『啄木秀歌』 遊座昭吾 八重岳書房 1991年)


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(「矢車草」おわり)


2017-10-01

[] 「矢車草 <4>」-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

「矢車草 <4>」

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-石川啄木の歌に登場する花や木についての資料-


矢車草

     函館の青柳町こそかなしけれ

     友の恋歌

     矢ぐるまの花



二度と戻らぬ函館の日々を振り返る啄木は、「函館の青柳町こそかなしけれ」と感傷的な眼差しを向ける。しかしこの歌においては感傷性が表現を損なってはいない。今井泰子が指摘するように、「アオヤギ」の柔和な語感が「矢ぐるまの花」のイメージと調和し(『石川啄木論』)、ア音を基調にした流れるような調べが感傷性を生きた感情として甦らせるからである。矢車菊はヨーロッパ原産であり、慎ましくもハイカラなイメージがある。

「おれは死ぬ時は函館へ行って死ぬ」(郁雨宛書簡)という啄木の懐旧と我々が抱くエキゾチックな北の港町函館というイメージが、この歌において渾然と融け合い、感興をかき立てられるのである。

(「國文学 よみがえる石川啄木」 1998年11月号 小池光 學燈社)


最初に暮らした函館を詠んだものでは、(この歌が)なんともいえぬ叙情性をたたえて哀しい。浜薔薇の歌と比べると、鮮明さにおいては対称的な曖昧さがある歌ではあるが、それが又、なんとも言葉に表現しきれない函館時代の郷愁への思いを象徴しているのであろう。この歌は言葉で説明しきれない歌である。口に乗せ、吟じてそこにかもし出される香を味わえばよいのである。

(「解釈と鑑賞 特集=啄木の魅力」 2004年2月号 渡部芳紀 至文堂 )


友の恋歌と矢ぐるまの花を配すことによって、青柳町のかなしい印象を強化しているわけである。恋歌には、甘い恋歌もあろうが、概してかなしい調べを打ち出したものが多い。しかし、作者の友人が詠った恋歌はかなしい内容を秘めていたのであろう。さらに、陽光に色彩を変え、めまぐるしくめぐるように咲いている矢ぐるま草の花もまた、捕えどころのない漂泊の詩人啄木の心情を表し、かつ外地人の薄情さを象徴しているように思われる。もっとわかりやすく叙述すれば、「友の恋歌と矢ぐるまの花のごとく」とでも表現すべきところを、省略したものとみることができよう。

(「啄木研究」創刊号 1976年1号 金子昌煕 洋々社)


このロマンチックな歌は、函館と啄木を語る上で欠くことのできぬ代表歌であり、青柳町45番地、苜蓿社が啄木来函後の仮宿となったところである。啄木の住んだ所からほど近くに、市民の憩いの場として豊かな緑に包まれた函館公園がある。公園内には啄木文献資料の宝庫市立函館図書館と、全国に点在する数多い啄木歌碑の中でも、すばらしいできばえであると本山桂川氏がその著『写真文学碑』の中で絶賛した「函館の青柳町こそかなしけれ──」の歌碑が建てられている。

裏面には郁雨によって、「石川啄木が首蓿社に迎えられて青柳町に住んだのは、明治40年5月〜9月に至る短い期間であったが、この間の彼の生活は多数の盟友の温情に浸り、且久しく離散して居た家族を取り纏める事を得て、明るく楽しいものであった。今回当時を思慕する彼の歌碑が由縁深き此の地に建立さるるに際し、今更ながら在りし日の故友の俤が偲ばれる。   昭和28年4月13日 郁雨宮崎大四郎」と書かれている。函館での啄木の生活は、宮崎郁雨のこの一文によって端的にそして的確に言い尽くされているように思われる。

(「啄木研究」 1976年2号 桜井健治 洋々社)



(「矢車草」つづく)


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