啄木の息 <ブログ版>

─ いまもなお瑞々しく語りかけてくる啄木の魅力を追い その息づかいに触れてみたい ─

     「本家 啄木の息」のリンクは、このページの最下段にあります。

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2018-03-30

[] 〈何となく汽車に乗りたく思ひしのみ 汽車を下りしに ゆくところなし〉石川啄木

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[サクラとカモ]


四季「旅好きにはいい季節となった」

  • 旅好きにはいい季節となった。春風に誘われ“鈍行”に揺られるのもいい。窓外に流れる桜の花に心も弾む。目的など要らない。ただ、時の流れに身を任せる。どこへ行っても外国人が多いのにはびっくりするが、日常を離れての気分転換にはもってこいである。〈何となく汽車に乗りたく思ひしのみ 汽車を下りしに ゆくところなし〉(石川啄木)。
  • 国内を旅する人だけで年間延べ6億4000万人にもなるというから、実に旅好きな国民である。参勤交代の時代から受け継いだ“遺伝子”のせいかもしれない。

(2018-03-26 日本農業新聞)


記事



[] 啄木:樹人「ゆかりの地ガイドマップ」秋田県鹿角市

秋田)啄木と樹人のマップ完成 鹿角

  • 鹿角市に縁がある国民的歌人の石川啄木(1886〜1912)と、同市出身で「おもちゃのマーチ」を作曲した小田島樹人(1885〜1959)の「ゆかりの地ガイドマップ」ができた。市内や小坂町に点在する14カ所を写真、解説付きで紹介している。
  • 昨年10月、2人をテーマにしたコンサートが、市内にある啄木の母方の曽祖母の生家の寺で開かれた。コンサートの実行委員会の村木哲文さんがマップを制作した。
  • 敬慕した長姉のサダが小坂鉱山に住んでいたこともあり、啄木は10代のときに「鹿角の国を憶(おも)ふ歌」を作った。村木さんによると、実際に啄木が鹿角を訪れたという記録はないが、旧制盛岡中学で1学年下だった樹人と交流があったことが最近わかった。(加賀谷直人)

(2018-03-30 朝日新聞)


記事



2018-03-29

[][] 小樽 啄木歌碑除幕式、小樽文学館 啄木と多喜二、旧居 <8 (おわり)>

啄木文学散歩・もくじ

小樽市にリンクを張りました。


(「啄木の息HP 2005年秋」からの再掲 + 2018年早春 + 1999年夏)

  * 写真について 撮影年が記されていないものは2005年撮影



8 資料 (1)啄木歌碑趣意書 小樽駅近くに『啄木』第三の歌碑を!

  資料 (2)小林多喜二、退職ではなくクビだった 拓銀資料から判明



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雪中 三角市場の啄木歌碑(2018年)


資料(1) [啄木歌碑趣意書]

小樽駅近くに『啄木』第三の歌碑を!

        小樽啄木会 会長 水口  忠

        建立期成会 会長 安達 英明

    

 駅長官舎と石川啄木

明治四十年九月啄木が「小樽日報」創刊時に、記者として赴任してきました。、当時啄木の姉トラの夫である山本千三郎は中央小樽駅(現在の小樽駅)の駅長でした。啄木とその家族は函館の大火にあい小樽に来て、花園町の借家が決まるまで駅長官舎に滞在しました。

啄木は「小樽日報」の三面記者として大いに活躍しますが、十二月にご承知のような事情で事務長小林寅吉と争い、先の見通しもなく憤然として辞表を出し退社します。さいわい社長の世話で釧路新聞に就職のため、翌年一月妻節子などに見送られ中央小樽駅から出発しました。

後にこの時の心境を歌ったのが次の歌です。

   子を負ひて

   雪の吹き入る停車場に

   われ見送りし妻の眉かな

 

 歌碑建立のお願い

啄木にとって駅長官舎、そして小樽駅頭は忘れられないものだったと思われます。

以前この場所に小樽市で建てた木柱に「石川啄木ゆかりの地」「小樽駅長官舎跡」「小樽市」と書かれたものがありましたが、十年前小樽市が旧国鉄から土地を買収し、駐車場を設置した時に撤去されました。

これは書籍、雑誌、観光案内書に紹介され、全国の啄木研究家や啄木愛好家にとっては大事な場所でした。また多くの観光客もここを訪ねて来ました。撤去後あれはどうなったのかという問合せも多くあります。

今年十月、第二十一回国際啄木学会が札幌で開催され、小樽市内の啄木ゆかりの場所を視察することになりました。これを契機に長年の願いである歌碑の建立を計画した次第です。是非皆様のご協力をお願いします。

 

 建立 啄木歌碑のあらまし

  場所  駅前広場から三角市場に上る石段の左側の空地

     (市有地であるが建立についての内諾を得ています。)

  規模  黒に近い中国産御影石

      碑面  150×90

      全高  250

     (碑石 中国産の台石と白御影3段積み)

  碑面  啄木短歌  前記の『子を負ひて・・・・』を刻む

     (揮毫については交渉中)

  碑陰  ・歌碑建立の趣意について  小樽啄木会と建立期成会

      ・協賛された 個人・法人・団体のご芳名を刻字します。

 

 協賛金のお願い

協賛金は一口一万円とし、口数は自由です。ご協力いただけるならば、刻字の都合もありますので、ご連絡をお願いたします。

 締切 2005年9月20日厳守



資料(2) 小林多喜二、退職ではなくクビだった

    朝日新聞 2005年10月30日

  小林多喜二、退職ではなくクビだった 拓銀資料から判明

北海道小樽市に住み、特高警察の拷問を受けて昭和初期に死亡した作家、小林多喜二(1903〜1933)は、勤務先の旧北海道拓殖銀行から、「蟹工船」などプロレタリア文学の執筆を理由に解雇されていた。これまでは「依願退職した」という説も有力だったが、破綻(はたん)後の残務整理をしている拓銀から内部資料の複写の寄贈を受けた市立小樽文学館が、「解職」と明記された文章を発見した。

複写は「行員の賞罰に関する書類」の一部。多喜二は当時、拓銀小樽支社で書記をしていたが、1929(昭和4)年11月16日の発令で「依願解職」(諭旨)となっていた。

解職の理由として「左傾思想を抱き『蟹工船』『一九二八年三月一五日』『不在地主』等の文芸書刊行書中当行名明示等言語道断の所為ありしによる」ことを挙げ、欄外には「書籍発行銀行攻撃」と書かれていた。退職手当金も「1124円14銭なるも半額の560円給与」と記されている。

文学館の玉川薫副館長は「多喜二が辞めた本当の理由がわかる大変貴重な資料だ」と話している。

複写は今夏、辞令書割り印簿や職員表などとともに寄贈された。文学館は11月3日から資料を公開する。





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冬の花園公園通り  「風のごとくに 小樽の啄木」 小樽啄木会・編 2012年発行


この日の天気は他の記録によると〈微雪・寒し〉とある。写真のように冬の公園通りの朝は人通りも少ない。駅まではいつも通勤の道だった。啄木は中折れ帽子にコート、雪下駄のまま荷物とともに橇に乗った。

京子を背負い角巻姿の妻節子は、橇の後ろに従った。

この写真は遮るものがなく正面の丘の上に水天宮の社殿、左の中腹には堺尋常小学校の長い校舎が見える。

(「風のごとくに 小樽の啄木」 小樽啄木会・編 2012年発行)


…小樽に於ける最後の一夜は、今更に家庭の楽しみを覚えさせる。持つていくべき手廻りの物や本など行李に収めて、四時起床。明日は母と妻と愛児を此地に残して、自分一人雪に埋れたる北海道を横断するのだ !!!

(明治41年1月18日 啄木日記 明治41年日誌)



115日間の小樽。

啄木は風のごとく「雪下駄のまま荷物とともに橇に乗り」駆け抜けて釧路へ。


このときの単身赴任は、以後の妻節子との行き違いの遠因ともなっていった。




(おわり)




[] 啄木祭 3/31 あいち 4/14 三郷 5/13 東京 6/24 関西

〇 あいち啄木祭

  • 2018年3月31日
  • 第一部 啄木をいける、歌う、詠む、描く
  • 第二部 講演とパネルディスカッション

〇 三郷啄木祭

  • 2018年4月14日
  • 講演
  • 講談

〇 東京啄木祭

  • 2018年5月13日
  • 講演
  • 文化行事

〇 関西啄木祭

  • 2018年6月24日
  • 講演
  • 報告

詳細



2018-03-28

[][] 小樽 啄木歌碑除幕式、小樽文学館 啄木と多喜二、旧居 <7>

啄木文学散歩・もくじ

小樽市にリンクを張りました。


(「啄木の息HP 2005年秋」からの再掲 + 2018年早春 + 1999年夏)

  * 写真について 撮影年が記されていないものは2005年撮影



7 小樽公園の啄木歌碑


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小樽公園の啄木歌碑 (1999年)

 

花園通りから公園通りへと上がっていくと、小樽公園にぶつかる。

公園は小高い丘にあり、市街地と港がよく見える。 道路から続く石段を登ると小さな広場があり、その前の木立の中に啄木の歌碑がある。


堂々たるこの歌碑の原石は、高田紅果が市内の豊倉で見つけたものである。書体は啄木の筆跡を模した、書家・宇野静山の作。

(「風のごとくに 小樽の啄木」小樽啄木会・編 2012年)





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啄木歌碑除幕式パンフレット 昭和26(1951)年11月3日 小樽文学館展示(2018年)


 

         啄木

   こころよく

   我にはたらく仕事あれ

   それを仕遂げて死なむと思ふ



『小樽啄木会沿革史』より

昭和25年啄木会は市文化団体協議会に呼びかけ有識者に諮り建碑期成会をつくり、市議会に請願しその翌年助成金を獲得することに成功し、いよいよ建設する目途がついた。そして歌碑に刻む歌は市民投票最高点の「かなしきは小樽の町よ」が決定された。

市議会側から再審議が要請され、結局歌人小田観蛍、歌人で小樽商大教授の峰村文人、そして会長高田紅果の三人で選んだ「こころよく我にはたらく仕事あれ」の歌が刻まれた。

建設場所は小樽公園入口の高台海向き(花園町元啄木住居の方向)とした。

昭和26年11月3日文化の日に除幕式が挙行された。函館からわざわざ宮崎郁雨氏が参列され、安達市長ほか市会議員、さらに市民多数の参加もあり、NHKではその実況を録音放送した。歌人宮崎郁雨さんは

  碑の面を雨しめやかに来てぬらす

    そのかの日をば思へと如くに

と当日の感想を詠まれた。また高田紅果の喜びはひとしおで、「これで自分の墓が出来たような気がする」と語った。

しかし4年後の昭和30年8月12日、高田紅果は心臓病で数え年65歳で急逝した。宮崎さんも昭和37年3月29日、76才で他界された。啄木を通じて因縁深い二人であった。函館啄木会と小樽啄木会との交流もこの二人の功績である。





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古今雛 小樽文学館展示(2018年)


「古今雛」の展示説明  小樽文学館

この雛人形は小樽市内の旧家からお借りしたもの。女雛の宝冠の形や着ている十二単(ひとえ)などは、江戸時代中期に流行した古今雛の特徴を備えている。

古今雛は、明和年間(1764〜1771)に作られたものが多く、写実的な容貌と美しい装束が特徴。


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雪の市立小樽文学館前(2018年)




(つづく)



[] 石川啄木:岩手の「明治」を形作った偉人のひとり 

明治150年 岩手の明治に触れてみよう

  ― 近代化の礎を築いた本県の偉人・建物 ―

  • 2018年は、明治元年から数えて150年に当たる年。激動の時代の中、本県の偉人たちは、政治、経済、医療、文化、学問など幅広い分野で活躍した。

150年目の節目に、岩手の「明治」を形作った偉人の功績と歴史的建造物を紹介する。


石川啄木 1886〜1912

明治期に活躍した歌人。南岩手郡日戸村(現・盛岡市)の常光寺で生まれる。本名一(はじめ)。盛岡中学中退後、与謝野鉄幹の知遇を得て、明星派の詩人としてデビュー。満19歳で処女詩集『あこがれ』を出版、名を知られるようになった。渋民尋常高等小学校代用教員を経て、職を求め新聞記者として北海道の各地を流浪。東京で満24歳の時、処女歌集『一握の砂』を出版し、歌壇内外から注目された。1912(明治45)年、結核症のため満26歳で波乱に富む生涯を閉じる。啄木没後には、歌集『悲しき玩具』が友人の土岐哀果によって出版された。

  石川啄木記念館(盛岡市)019・683・2315

(紹介されている他の偉人 鳥羽源藏・後藤新平・田中館愛橘)

(2018-03-26 岩手日報 政府広報)



[] 「灯ともる頃のいそがしさかな」啄木

コラム 「新生面」 熊本日日新聞

  • 新聞社を「灯ともる頃のいそがしさかな」と歌ったのは、明治の東京朝日新聞で校正記者だった石川啄木である。本紙でも日がとっぷり暮れた頃からニュース面のゲラ刷りが配られ始め、作業は未明に及ぶ。
  • 「ゲラ」は活版印刷で、組み上げた活字を納めた箱を指し、コンピューター製版の今も試し刷りのことをゲラ刷りという。毎日新聞大阪本社の校閲記者で、歌人の澤村斉美[まさみ]さんの第二歌集の表題が『galley』。ゲラの英語表記である。
  • 澤村さんが東日本大震災当時に詠んだ歌。〈電卓に積む死者の数は今夜二度増えたり明日の朝刊に載る〉〈声のなき涙ながれてゐる頬をあやしみてぐつとゲラへうつむく〉。ゲラ越しに世の中をのぞく歌人の万感の思いだ。

(2018-03-27 熊本日日新聞)


記事


   京橋の瀧山町の

   新聞社

   灯ともる頃のいそがしさかな

              啄木


2018-03-27

[][] 小樽 啄木歌碑除幕式、小樽文学館 啄木と多喜二、旧居 <6>

啄木文学散歩・もくじ

小樽市にリンクを張りました。


(「啄木の息HP 2005年秋」からの再掲 + 2018年早春 + 1999年夏)

  * 写真について 撮影年が記されていないものは2005年撮影


6  啄木 第一、第二の住居


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花園公園通り 明治後期

(「小樽なつかし写真帖」第52号 2008年11月)

小樽公園入口の坂上から見た花園公園通り。

啄木一家が下宿した家は、この写真の画面右側・中ほどに位置する。

(「風のごとくに 小樽の啄木」 小樽啄木会・編 2012年発行)


(小樽シリーズの最後の写真は、この写真と同じ場所から撮った「冬の花園公園通り」になる予定)




   

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啄木最初の住居・た志"満


水天宮から花園橋を渡り花園公園通り(「啄木通り」ともいう〈平成17年から〉)を上がっていき、花園十字街の角に「啄木最初の住居・た志"満」がある。

義兄・山本千三郎宅から明治40年10月2日に移転。南部煎餅屋の二階に約一カ月住む。



トある南部煎餅売る店に移り住みたる男女四人有之候、四人の一人は小生にてあとは母とせつ子と可愛き京ちやんに候、室は二階二間、六畳と四畳半にて何れも床の間あり、思いしより心地よく候。

(岩崎正宛書簡 明治40年10月2日)


 


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た志"満の店の角には大きな啄木の額


占い師の姓命判断

襖一重隔てた隣室には占い師が住んでいて、啄木は姓命判断を頼む。二週間後に渡された姓命鑑定書には「五十五歳で死ぬ」と書かれていた。啄木は「情けなし」と日記に記す。


もしも「55歳が寿命だった」とすれば、残した命が30年近くもあった!


 

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た志"満の二階座敷


二階には「啄木の間」がある。

店の人に話を聞くと、「(写真では)右側に見えるタテの柱と右上隅にちょっと写っている横柱が、啄木が住んでいたころのもの」だそうだ。

 




  

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第二の住居 弥助鮨(1999年撮影)


明治40年11月6日、た志満の裏手にあたる花園町畑14番地の借家(家主・秋野音次郎)に移る。小樽で二回目の住居である。

その場所には、後に「弥助鮨」という店が営業をしていた。1999年の写真が上。間口のあまり広くない店だった。現在は廃業したとのこと。

 

・・・狭い路地を入つた二軒つづきの平屋で、通路に面した所に九尺の格子窓があつてソコに小さい机を据ゑ、瀬戸火鉢を置いて茶の間を書斎替はりに使つてゐた。(中略)奥の六畳間には畳も襖も入れる余裕がなく、空家同然にして床板の上を下駄ばきで便所通ひをしてる有様であつた。

(「小樽日報記者 石川啄木地図」<沢田信太郎「啄木散華」>)

  



(つづく)



[] 石川啄木など郷土の文学者の研究を文化政策に

盛岡市と盛岡大などが包括協定/岩手

  • 特色ある研究をまちづくりにつなげようと、盛岡市と盛岡大学それに盛岡大学短期大学部が包括協定を結びました。26日、締結式が開かれ、谷藤裕明市長と徳田元学長が協定書に署名しました。
  • 具体的な取り組みは検討中ですが、盛岡市は短期大学部が進める幼児教育の研究を子育て支援に。県内唯一の文学部との連携では石川啄木など郷土の文学者についての研究を文化政策につなげたい考えです。

(2018-03-26 IBC岩手放送)


 記事



[啄木 イベント] 企画展「文人たちから見た啄木」〜6/11

啄木支えた文人の視点

  盛岡てがみ館で企画展

  • 石川啄木(1886〜1912年)と交流があった歌人らの啄木への思いを資料で紹介する企画展「文人たちから見た啄木」が、盛岡市中ノ橋通の盛岡てがみ館で開かれている。
  • 会場には、「銭形平次」で知られる紫波町出身の作家・野村胡堂、与謝野晶子などが、啄木との思い出をつづった手紙や生原稿などを展示。啄木の短歌が掲載された文芸雑誌「明星」の創刊者の歌人・与謝野鉄幹が「率直で、快活で、上品で、全体に颯爽とした風采の少年」と啄木を評したエッセーもある。
  • 6月11日まで、問い合わせは、盛岡てがみ館(019・604・3302)へ。

(2018-03-26 読売新聞)


 記事



2018-03-26

[][] 小樽 啄木歌碑除幕式、小樽文学館 啄木と多喜二、旧居 <5>

啄木文学散歩・もくじ


(「啄木の息HP 2005年秋」からの再掲 + 2018年早春 + 1999年夏)

  * 写真について 撮影年が記されていないものは2005年撮影


5 水天宮にある啄木歌碑も新装披露



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(トイレ脇にあったとき 1999年)


境内に昇格-2005年10月に除幕式

水天宮は海まで400〜500mの距離。小樽の街がよく見える。この地に啄木の歌碑を建立除幕したのは、1980年(昭和55)10月12日だった。

以前、歌碑を訪ねて行ったときは見つけるのが大変だった。境内の外のトイレの脇にあり薄暗く、すぐ前に車も止まっていたので見るのに苦労した。


碑の近くに公衆トイレがある。どちらが先にできたか分からないが、研究者や愛好家の方たちを案内するたびに、「かなしきは小樽の町よ」と揶揄され、恥ずかしい思いをしてきた。

今回、国際啄木学会文学散歩を機会に、水天宮の許しもいただき、啄木夫妻も上ったであろう石垣内の境内に移設された。ここは港を見下ろす景勝地であり、碑前には鏡のように磨かれた御影石が敷かれ、碑の風格は一新し生き返ったようだ。

(「今も息づく啄木」小樽啄木会会長 水口 忠-小樽啄木会HP 2005-11-10)





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歌碑が水天宮境内に昇格


今回はこの歌碑が新装披露されていた。小樽みなとライオンズクラブ主催の除幕式が、2005年10月15日に行われたばかりだった。場所も境内の中に昇格し、碑面は新たな門出の顔をしていた。


内地の大都会の人は、落し物でも探す様に眼をキヨロつかせて、せせこましく歩く。焼け失せた函館の人も此卑い根性を真似て居た。札幌の人は四辺の大陸的な風物の静けさに圧せられて、矢張静かに緩慢と歩く。小樽の人は然うでない。路上の落し物を拾ふよりは、モツト大きい物を拾はうとする。四辺の風物に圧せらるゝには、余りに反撥心の強い活動力を有つて居る。されば小樽の人の歩くのは歩くのでない、突貫するのである。日本の歩兵は突貫で勝つ、然し軍隊の突貫は最後の一機にだけやる。朝から晩まで突貫する小樽人ほど恐るべきものはない。

(「初めて見たる小樽」石川啄木 小樽日報 明治40年10月15日・第1号 『石川啄木全集』 第八巻 筑摩書房)

   

そして続けて「予は飽くまでも風の如き漂泊者である」から、「小樽人と共に朝から晩まで突貫し、小樽人と共に根限りの活動をする事は、足が弱い予には到底出来ぬ事である」が、「予にとつて何といふ理由なしに唯気持が可いのである」と言う。


  かなしきは小樽の町よ

  歌ふことなき人人の

  声の荒さよ

         啄木


やはり、啄木は突貫する小樽の人を見、「耳に爽快なる活動の行進曲を聞」き、小樽を愛していたのだと思う。



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「小樽なつかし写真帖」第52号 2008年11月

啄木の歌のなかで、小樽の名が詠まれたものはこの一首のみである。好況に沸き立つ街の活気をうたっているが、小樽を誹謗するものとの見方もつきまとい、後年にはさまざまな論議を呼ぶこととなる。

しかし啄木は「小樽に来て新開地・植民地的精神の溢れる男らしい活動を見た。男らしい活動が風を起こす。……」と小樽の活力を評す一文も残しており、小樽を誹謗する意図などなかったことは明らかだ。

(「風のごとくに 小樽の啄木」 小樽啄木会・編 2012年発行)




(つづく)



2018-03-25

[] 「こころよく 我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なむと思ふ」名言巡礼

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[サクラとカモ]


[名言巡礼]石川啄木「一握の砂」 [読売新聞]

こころよく 我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なむと思ふ

  心の叫び最後を支えた歌

  • 26年2か月。啄木の短い生涯は、仕事との格闘の連続だった。20歳で故郷・岩手県の渋民村(現・盛岡市)に戻り、母校の小学校で「日本一の代用教員」を目指すが、熱しやすく冷めやすい啄木は1年後に北海道に渡り、函館、札幌、小樽、釧路を漂泊。新聞記者としてペンを振るうが、残ったのは借金と失意だった。
  • そこで22歳の春、妻子を残し、小説家たらんとの大望を胸に単身上京する。が、待っていたのは再びの挫折。小説は没の連続で、ほとんど金にならず、生活も荒れ果てた。
  • 10代から親しんだ歌が噴出したのは、そんなどん底にあった1908年6月23日である。初日は<頬につたふなみだのごはず一握の砂を示しし人を忘れず>など55首。24日は<東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる>など50首。25日には<たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず>など141首。歌は「小生の遊戯なり」という言葉を残した啄木にとって、歌は仕事というより心の叫びだった。
  • 晩年の作は痛切だ。<呼吸すれば、 胸の中にて鳴る音あり。 凩よりもさびしきその音!>
  • 石川啄木記念館の森義真館長は、「人生の最後、他の仕事が出来なくなってからようやく啄木は、歌をわが思いを託するに足る文学と思ったのではないか」と語る。没後に出た歌集の表題「悲しき玩具」は、生前の随想「歌のいろいろ」にある文章をもとに友人が命名した。

 <歌は私の悲しい玩具である>

(文・鵜飼哲夫)


(2018-03-25 読売新聞)


記事



2018-03-24

[] 啄木の命日「4/13」 石川啄木記念館無料開放

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[アセビ]


啄木忌無料開放 石川啄木記念館 4/13

  • 開催日 平成30年4月13日(金曜日)
  • 開催時間 午前9時 から 午後5時 まで

     紙芝居:午後2時から午後2時30分まで

  • 対象 どなたでも
  • 開催場所 石川啄木記念館
  • 内容 この日は,啄木の命日で宝徳寺(記念館隣)にて午前10時から法要が行われ,どなたでもご参加いただけます。併せて,石川啄木記念館を無料開放します。午後2時からは記念館内で,啄木が書いた作品「林中の譚(りんちゅうのたん)」をもとにした猿の物語を紙芝居で上演します。
  • 申し込み 不要
  • 費用 不要

石川啄木記念館

  • 〒028-4132 盛岡市渋民字渋民9
  • 電話番号:019-683-2315 ファクス番号:019-683-3119

記事



[] 啄木の歌100首のかるた大会 優勝したのは…

啄木かるた大会で優勝 函館の「わんぱくクラブ」

  • 函館市柳町の学童保育所「わんぱくクラブ」に通う山田沙和さん(小6)、大和谷彩弥さん(小6)、三浦夢華さん(小3)のチーム「わんぱく銀河」が、2月17日に盛岡市で開かれた「啄木生誕祭 第16回啄木かるた大会」の小学4〜6年の部で優勝した。
  • 昨年、決勝でじゃんけんで負けた悔しさから1年、練習を重ね、念願の優勝カップを手にした。同大会は函館にもゆかりのある歌人、石川啄木の短歌100首のかるたを用いた大会。
  • 「わんぱく銀河」の3人は、冬休みも何度も札を読んでもらって練習を繰り返した。

(2018-03-22 北海道新聞)


記事



2018-03-23

[] 古里を詠み続けた啄木「かにかくに渋民村は…」

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[ヒスイカズラ]


卓上四季「ふるさと」 [北海道新聞]

  • 1907年(明治40)、代用教員の石川啄木は校長と対立して失職、古里の岩手県北岩手郡渋民村(現盛岡市)を捨て北海道に渡った。そのため、妻は幼い長女と盛岡の実家に戻り、母は村内の知人宅に居候することに。一家離散である。
  • その時の歌が「石をもて追はるるごとく ふるさとを出でしかなしみ 消ゆる時なし」だ。啄木はその後、一度も帰郷していない。それでも「かにかくに渋民村は恋しかり おもひでの山 おもひでの川」などと、古里を詠み続けた。どれほどつらい思い出ばかりでも、恋しいのが古里なのか。
  • 原発が事故を起こせば、その大切な古里が被害を受けかねない。だが、当の住民に原発建設の是非を選択する権利はない。電源開発大間原発(青森県大間町)の建設差し止め訴訟は、そんな不満から原告に加わった函館市民も多い。
  • 函館地裁はきのう、原子力規制委員会の安全審査が済んでおらず運転開始のめども立っていないのだから、危険性を認めることは難しい、と請求を棄却した。

(2018-03-20 北海道新聞)


記事



[] 明治40年大火では啄木も影響を受けた 函館大火

「函館大火の犠牲者悼む 85回忌慰霊法要に遺族ら40人参列」 [函館新聞]

  • 1934(昭和9)年3月21日に発生し、2166人の尊い命が犠牲となった函館大火の発生から丸84年を迎えた21日、殉難者85回忌慰霊法要(函館市佛教会主催)が市慰霊堂(大森町33)で静粛に執り行われた。遺族などの一般参列者や消防関係者ら約40人が参列して犠牲者に哀悼の意をささげるとともに、大惨事を後世に伝え続けていく思いを新たにした。
  • 函館大火は、最大瞬間風速30メートル以上の強風にあおられて火はたちまち市中を駆け巡り、延々約11時間に渡って燃え続けた。罹災人口は10万2001人、2万2667世帯が被災した。
  • 函館は地形の関係から風が強く、幾度も大火に見舞われた歴史がある。1907(明治40)年の大火では石川啄木も影響を受け、職を求めて再び旅に出ている。

(2018-03-22 函館新聞)


記事



2018-03-20

[][] 小樽 啄木歌碑除幕式、小樽文学館 啄木と多喜二、旧居 <4>

啄木文学散歩・もくじ


(「啄木の息HP 2005年秋」からの再掲 + 2018年早春 + 1999年夏)

  * 写真について 撮影年が記されていないものは2005年撮影


4  啄木と多喜二 ─同じ時 同じ小樽の空気を吸った二大文学者─  


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市立小樽文学館・美術館



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小樽文学館の入口(2018年)



「小樽文学館のご案内」より

  • 小樽は、北海道では函館についで古くから開かれた港町であり、かつて北海道経済の窓口としてたいへんにぎわいました。文学・美術などの文化面においても小林多喜二、伊藤整をはじめ大勢の優れた作家が生まれたのです。
  • これらの作家の著作や資料類は、現代の私たちに遺された貴重な文学的財産といえます。その散逸を惜しみ、また損傷を防ぐための施設をつくりたいという市民の声が実を結び、昭和53年11月3日市立小樽文学館が開館しました。
  • プロレタリア文学の小林多喜二、北海道漂泊の途上足をとどめた小樽で社会主義思想に初めて触れた石川啄木、・・・これらの人々の文学は、明治開化以来の日本の近代化と軌を一つにした〈北海道開拓〉とは果して何であったかという問いを静かにあるいは鋭く投げかけ、昨日と明日をつなぐ海港小樽の浮標、すなわち今日私たちの指標ともいえるでしょう。



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啄木のコーナー




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啄木のコーナー(2018年)


同じ小樽の空気を吸った二大文学者 

  • 多喜二にとって、啄木は、きわめて身近なところにいたにちがいない。・・・小林多喜二の一家が、秋田から小樽に移住してきたのは、1907年(明治40)12月下旬、多喜二が4歳の時であった。その約20日後の、翌年1月中旬、22歳の石川啄木は、吹雪の小樽から、北海道漂泊の最後の旅を釧路にむけて出発していった。
  • 22歳の啄木と、4歳の多喜二とが、ほんの二十日ほどであったにせよ、同じ小樽の空気を吸って生活をしていたことは、二人の文学の本質を探究するうえで、きわめて興味深いことである。」

(小林多喜二全集 月報6「啄木と多喜二」碓田のぼる)(白樺文学館「石川啄木と小林多喜二」)


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「小樽のかたみ」(2018年)

スクラップ帳「小樽のかたみ」

複写。原本は市立函館図書館啄木文庫所蔵。

啄木が明治40年10月1日小樽日報社に入社して以来、80日間にわたって「小樽日報」紙上に執筆した記事を集めたもの。冒頭に「小樽日報と予」と題するペン書きの序文が付されている。「小樽のかたみ」にはこの序文を含めて95編、同一表題の連載を整理すると75編の記事が収録されている。



「千田三四郎への誘い」

……

千田三四郎は啄木のネガティヴな面を「発く」ために、ことさら誇張して書いたわけではありません。

彼は床屋の主人の口を借りて、つまり床屋に話しかけさせる形で、啄木の隣室に住む「天口堂の海老名さん」や、啄木の妻を生きいきと描いている。また、啄木の同僚だった野口雨情がのちに童謡「赤い靴」を書く経緯を、虚実とりまぜて哀切に語っている。それらを読みますと、千田三四郎が『小樽のかたみ』だけでなく、啄木の日記や手紙を細かいところまで丁寧に読み込み、細部のリアリティを高めていることが分かります。

よほどの啄木好きでなければ、これだけのことは出来ないでしょう。

    市立小樽文学館館長 亀井秀雄 「千田三四郎への誘い」

     (「市立小樽文学館報」第30号 平成19年3月31日)







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多喜二のコーナー

  

啄木の短歌と多喜二

  • 多喜二の短歌作品は12首ほど、残されている。多喜二が16.7歳のころのものである。

  多喜二の歌

   焼印の押したる下駄を穿きたりし昔のわれのいとほしきかな

   寝ぬる間のみ貧苦を忘ると就床にける老いにし父を涙ぐみて見る

  • これらの作品は決してすぐれているとはいえない。・・・しかし、一首一首が生活の具体的事実とむすびつけられていることは、十分注目してよいことであると考える。」
  • 『多喜二のお母さんの話によれば、多喜二は少年時代から啄木の短歌を好み、彼の家で啄木の会を催して啄木を語り、よそで開かれた啄木会にも出席し、お母さんに啄木のことを何くれとなく語ったので、啄木について何も知らなかったお母さんも、いつの間にか啄木のことを知るようになった』(川並秀雄『啄木覚書』)というほどであるから、大変な熱の入れようであったことが知られる。
  • 短歌にたいする多喜二の理解の深さをもっともよくあらわしているものは、田口タキへの手紙の中で、啄木の歌を読むことをすすめ、歌集の中から「これならばと思われるのを選んで」やったという、その作品の選択眼である。
  • 〇印をつけた啄木歌集『一握の砂』を(田口タキへ)贈った。この歌集には制作年代は付されていないが、啄木自身が ‘これぞ我が歌’ とした明治43年作の歌から85%に〇印がつけられていた」

(小林多喜二全集 月報6「啄木と多喜二」碓田のぼる) (白樺文学館「石川啄木と小林多喜二」) 



もう一つの「多喜二のコーナー」には、無念のデスマスクや、息子に手紙を書くために一生懸命文字を習った母セキの筆跡もある。 


全集の中にある「多喜二の12首」より

  悲しきは面会謝絶と貼りし紙薄暗き廊下白く浮べるに                                  多喜二



  

多喜二「退職」ではなく「解職」だった

このページをまとめている今(2005年)、「小林多喜二、退職ではなくクビだった 拓銀資料から判明」の記事が新聞に載った。(2005年10月30日 朝日新聞) (つづきに記事掲載予定)

それによると、多喜二は依願「退職」ではなく依願「解職」だった。文芸書の中に、勤務先の北海道拓殖銀行の名前を「明示」し、「攻撃」したことは「言語道断」だということで、退職手当金も半額にされていた。

「破綻後の残務整理をしている拓殖銀行から内部資料の複写の寄贈を受けた市立小樽文学館が、「解職」と明記された文章を発見した」とのこと。

どんなに隠されていた事柄でも、いつか「明らかになっていく瞬間」があるのだと確信したときだった。

 



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文豪Tシャツ 石川啄木(2018年)



Tシャツデザイン

 石川啄木『時代閉塞の現状』より

 「我々はいっせいに起ってまずこの時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。」



文豪Tシャツ

  • 3000円。
  • 小樽文學舎とJeans Shop LOKKI とのコラボ。
  • サイズは4種類。色違いあり。通信販売もしている。



(つづく)



2018-03-19

[][] 小樽 啄木歌碑除幕式、小樽文学館 啄木と多喜二、旧居 <3>

啄木文学散歩・もくじ


(「啄木の息HP 2005年秋」からの再掲 + 2018年早春 + 1999年夏)

  * 写真について 撮影年が記されていないものは2005年撮影


3 小樽日報社跡

小樽日報は、創刊1907年(明治40年)10月15日。社長は、初代釧路町長の白石義郎(東泉)だった。できたばかりの小さな新聞社に啄木は約80日間勤務した。


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小樽日報社跡(本間内科)の案内板

 「石川啄木と小樽日報社跡」

 かなしきは小樽の町よ 歌うことなき人々の 聲の荒さよ

小樽日報は、道会議員の白石義郎氏が明治40年10月創立し、石川啄木、野口雨情らが発刊に加わった。

小国露堂の紹介で、札幌の北門新聞から明治40年9月27日小樽日報社に入社するため来樽した啄木は雨情とともに三面記事を担当した。当時小樽に姉が嫁いでいたこともあって函館から家族を呼び寄せ、新しい土地での仕事に情熱を燃やしたが、主筆の岩泉江東とことごとく意見が対立し、わずか十数日で小樽を去った雨情のあとを追うように、同年12月12日退社し明治41年1月19日小樽を去った。

               小樽市



啄木の仕事ぶり

「啄木と私とは編輯室の一番奥まった処に、壁を背にして卓子を並べ、殆ど競争の姿で筆を執ってゐたが、仕事にかゝった後の彼の態度は実に真剣で、煙草も吸わず、口も利かずにセッセと原稿紙に向かって毛筆を走らせる丈であつた。何か快心の記事を書くときも愉快そうにニコニコして、自分で原稿を工場に下げに行つた。工場では啄木の原稿は大歓迎で非常な人気があつた。それは第一に字のキレイなこと、次は文章の巧みなこと、それに消字が少なくて読みよいことゝ云ふので、文撰長などスッカリ此点で啄木崇拝家になってゐた」(「石川啄木地図」<沢田信太郎「啄木散華」>)

 

明治四十一年日誌

  明治41年4月18日  啄木日記

「小樽日報今日より休刊、実は廃刊。不思議なるかな、自分は日報の生れる時小樽に来て、今はしなくも其死ぬのをも見た」




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横浜の山下公園にある「赤い靴の女の子の像」(2004年)


野口雨情と小国露堂

啄木は函館大火から逃れ、雑誌「明星」の同人同士という僅かな縁で野口雨情を訪ねた。雨情は記者仲間の小国露堂に啄木を紹介した。啄木は、露堂の斡旋で北門新報社に入社した。それから間もなく、小樽日報が旗あげし、鈴木志郎(童謡「赤い靴」の女の子の義理の父)、野口雨情、石川啄木の三人は一緒に入社した。

主筆岩泉江東の排斥運動で雨情は追われ、啄木は懐柔策もあり三面主任となる。

そのような関係の啄木と雨情だが、同時に同じ職場にいたという意味は深いと思われる。

それから10数年して、有名な歌「赤い靴」が発表された。生後7日で娘を失った雨情自身の悲しみと、娘を手放した岩崎かよ(鈴木志郎の妻)の事情がこめられている。

「赤い靴と啄木」啄木の息-啄木文学散歩)



現在、小樽日報は啄木が「小樽のかたみ」としてスクラップしたものはあるが、それ以外は明治40年10月24日発行『小樽日報』第3号しか残っていない。



(つづく)



[] 「石川啄木と三陸沿岸」ふるさと観光講座 3/31

陸前高田市観光物産協会

 平成29年度 第3回ふるさと観光講座

  • 演題 「石川啄木と三陸沿岸〜陸前高田を中心に〜」
  • 講師 石川啄木記念館館長 森義真氏

今回は当市にもゆかりのある石川啄木について、石川啄木記念館館長 森義真氏を講師にお招きし、講演していただきます。


  • 日時 平成30年3月31日(土)13:00〜15:00
  • 会場 陸前高田市コミュニティホール中会議室
  • 受講希望 3月27日までに電話にてお申し込みください。
  • 受講料無料 定員30名程度
  • お申込み・お問い合わせ 陸前高田市観光物産協会

       TEL/FAX 0192-54-5011まで


記事



2018-03-18

[][] 小樽 啄木歌碑除幕式、小樽文学館 啄木と多喜二、旧居 <2>

啄木文学散歩・もくじ


(「啄木の息HP 2005年秋」からの再掲 + 2018年早春 + 1999年夏)

  * 写真について 撮影年が記されていないものは2005年撮影


1  小樽駅と啄木 つづき)


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「駅正面にある案内板」


駅を出たところには「石川啄木と小樽駅」という案内板がある。




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2018年の案内板

左下に小さく「左手の階段を上がると石川啄木の歌碑があります。」と加えてある。

その階段が下の写真。


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三角市場への階段(2018年)


階段を上がったところの左上に、啄木歌碑の裏面が見える。




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小樽日報社社屋 明治40年撮影(小樽文学館内の展示 2018年)


〇の中が「小樽日報社社屋」、右上から中央下へかけての長い建物が「中央小樽駅」続いて線路をたどり、左下の建物群が鉄道官舎。



啄木の姉の夫であり、この駅の駅長を務めていた山本千三郎の住まいもここにあったはずだ。明治40年9月、小樽に着いた啄木はまず、この山本宅に数日間滞在する。


小樽日報社屋

「社は新築の大家屋にて、万事整頓致居、編輯局の立派なる事本道一番なる由に候……」(明治40年10月2日、函館・岩崎正宛ての手紙)

 (「風のごとくに 小樽の啄木」 小樽啄木会・編 2012年発行)


駅長官舎と石川啄木

「明治四十年九月啄木が「小樽日報」創刊時に、記者として赴任してきました。当時啄木の姉トラの夫である山本千三郎は中央小樽駅(現在の小樽駅)の駅長でした。啄木とその家族は函館の大火にあい小樽に来て、花園町の借家が決まるまで駅長官舎に滞在しました。

啄木は「小樽日報」の三面記者として大いに活躍します・・・」

([啄木歌碑趣意書])



2 啄木歌碑の除幕式 小樽駅前  2005年10月23日

 

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SLの 汽笛が祝す 除幕式

ニセコ号出発の煙が碑の右に上っている。

  

市内3番目の啄木歌碑誕生となった。建立場所は、駅前広場から三角市場に上る石段の左側。駅長官舎がこの三角市場あたりにあったため、縁の深い場所として選ばれた。

白布に覆われている写真の、歌碑の後ろに広がっている建物が小樽駅で、停車中のタクシーなどもよく見える。

写真の手前側には(写ってはいないが)三角市場のトンネルのような入り口があり、両側が店になっている。海鮮、野菜などが並び威勢のいい売り声がする。





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二段階の除幕式 一回目はモールの登場

 

小樽啄木会会長・水口忠さんの話

「中国の石を船で運んできたが、台風のため遅れに遅れて19日にやっと着いた。だから昨日一昨日と急いで組み立てた。間に合うかどうか心配したが、こうして今日を迎えた」

「啄木碑を見た時に、駅も見えるように建てた。色々な位置を考えたが、この位置と角度が一番良いと思う」

   


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威風堂々と


規模

  中国産の黒御影石

  碑面  150×90

  全高  250

  碑石 中国産の台石と白御影3段積み

  表面の歌碑銘 インド産の赤御影石     



除幕式の時の写真ではずいぶん台が高いと思ったが、下の写真のように雪が積もるとこの高さが必要だったのだとよくわかる。



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歌碑の表 (2018年)

   子を負ひて

   雪の吹き入る停車場に

   われ見送りし妻の眉かな

               啄木



小樽日報の事務長小林寅吉から暴力をふるわれたことを契機として啄木は退社する。給料未払いのまま1907年(明治41)の年末を迎え、一家は生活に困窮する。

年明けて「釧路新聞社」に勤務決定した。釧路に向かう啄木を、節子は送りに来た。しかし、同行する釧路新聞の白石社長が遅刻した。

 

啄木の日記

「妻は京子を負ふて送りに来たが、白石氏が遅れて来たので午前九時の列車に乗りおくれた。妻は空しく帰つて行つた。予は何となく小樽を去りたくない様な心地になった。小樽を去りたくないのではない、家庭を離れたくないのだ。」

(明治四十一年日誌)

 

 

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碑陰には協賛された105名(団体)方の名


歌碑建立は、インターネットなどで全国から協賛者を募り、105名の参加者があった。協力記念に碑の裏面には、名前が刻まれた。

記念の手拭いには「子を負ひて 雪の吹き入る停車場に われ見送りし妻の眉かな」の歌が書かれ、濃紺の地に大小の雪の降る美しい意匠だった。




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碑陰(2018年)


この写真を撮っていると、20代前半くらいの女性二人組が、「こんなところに啄木が・・ ? ! 」と言いながら、写真を撮りにきた。

暴力をふるわれ傷ついて出ていった若き日の啄木に、『100年以上たっても、あなたは日本中に知られていて、若い人たちにも馴染みのある歌人になってますよ ! ! 』と伝えてあげたい。



(つづく)



2018-03-17

[][] 小樽 啄木歌碑除幕式、小樽文学館 啄木と多喜二、旧居 <1>

啄木文学散歩・もくじ


(「啄木の息HP 2005年秋」からの再掲 + 2018年早春 + 1999年夏)

 * 写真について 撮影年が記されていないものは2005年撮影


◯ 小樽の啄木


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「風に吹かれる啄木」水谷のぼる ブロンズ(小樽文学館)2018年撮影


函館本線に乗り札幌から小樽に向かうと、途中から石狩湾が右車窓に見えてくる。窓から波が入ってくるかと思うくらい海の近くを通る。

啄木はこの小樽に18歳の1904年(明治37)9月〜10月にかけて、次姉トラ宅(夫・山本千三郎は、当時小樽中央駅駅長)を訪問した。そして、1907年(明治40)21歳の9月から翌1908年1月半ばまでは、小樽日報記者として暮らす。1908年(明治41)4月半ばには、上京する前の6日間ほどを過ごす。

この地に、啄木はどのような足跡を残したのだろう。



1907年・明治40年 啄木日記

明治四十丁未歳日誌 

十二月二十九日

今日は京子が誕生日なり。新鮭を焼きまた煮て一家四人晩餐を共にす。

人の子にして、人の夫にして、また人の親たる予は、噫、未だ有せざるなり、天が下にこの五尺の身を容るべき家を、劫遠心を安んずべき心の巣を。寒さに凍ゆる雀だに温かき巣をば持ちたるに。

一切より、遂に、放たるる能はず。然らば遂に奈何。       




1  小樽駅と啄木

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「SLニセコ号 小樽駅ホーム」

運よく蒸気機関車ニセコ号が、小樽駅4番ホームにいた。札幌発着で、秋は紅葉狩り・果物狩り・温泉と楽しみの多い人気のあるイベント列車だ。ただし、運転日も運転区間も定まっていない。

 





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雪の小樽駅舎(2018年)



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2005年「車窓から生まれたものがたり」展


10月14日の「鉄道の日」を記念して、啄木と鉄道 「車窓から生まれたものがたり」展が小樽ステーションギャラリーで行われていた。


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「啄木を紹介するコーナー」中央の小さい写真は、義兄・山本千三郎氏


小樽にゆかりのある、石川啄木、小林多喜二などの文学者たちと鉄道との意外な関わり、歴史や写真などが展示されていた。昔の列車の椅子が飾られ、窓からは、ビデオで列車からの風景が見られるようになっていた。

壁には、石川啄木の義理の兄が中央小樽駅長を務めていたことなどが紹介されていた。



(つづく)



[] 啄木像浮き彫り てがみ館 〜6/11

文人11人と啄木の交流を紹介 盛岡てがみ館

  • 盛岡市中ノ橋通の盛岡てがみ館(平政光館長)は6月11日まで、企画展「文人たちから見た啄木」を開いている。石川啄木と交流した文人たちが残した書簡や原稿を展示し、啄木に対する思いや交流の様子を紹介している。
  • 作家や歌人など11人が啄木について書いた手紙など16点を展示。金田一京助が啄木の遺品にまつわるエピソードをつづった「錐と瓶」の原稿や、啄木を弟のようにかわいがったという与謝野晶子の回想文など貴重な資料が並ぶ。
  • 盛岡中学の先輩だった野村胡堂が啄木研究の本に寄せた感想文からは、胡堂の謙虚さや啄木への尊敬の深さなどがうかがえる。
  • 23日午後2時から、学芸員が展示品を解説するギャラリートークを開く。

(2018-03-15 岩手日報)


記事



2018-03-16

[] 「牧水と啄木―短歌と人をめぐって」啄木学会 宮崎大会 5/12〜13

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[マンサク]


2018年牧水研究会・国際啄木学会 宮崎大会

【大会テーマ】牧水と啄木―短歌と人をめぐって

  • 日時 2018年5月12日(土)10:30〜20:00(懇親会含む)
  • 会場 宮崎産業経営大学(宮崎市古城町)5号館5202番教室

〇 5月12日(土)

13:00〜13:15 開会あいさつ 伊藤一彦(歌人、牧水研究会代表) 池田 功(国際啄木学会会長)

13:15〜13:55 記念講演 伊藤一彦 「歌人における故郷と異郷−牧水と啄木を中心に」


研究発表(20分発表、10分質疑応答)

 14:00〜14:30 森義真(石川啄木記念館館長)「牧水にとっての4月13日 −友・啄木と恋人喜志子をめぐる葛藤」

 14:30〜15:00 劉怡臻(明治大学大学院)「日本統治期の台湾歌壇における牧水 −啄木と対照しながら」

 15:00〜15:30 中村佳文(宮崎大学教授)「啄木と牧水の韻律をめぐる明治末期の短歌と時代」


15:40〜17:20 鼎談「近代短歌史における牧水と啄木」

  伊藤一彦

  三枝昻之(歌人、日本歌人クラブ会長)

  太田登(天理大学名誉教授・司会)

17:20〜17:30 閉会あいさつ 大室精一(国際啄木学会副会長)

18:00〜20:00 懇親会


〇 5月13日(日)

8:15〜16:25頃 文学散歩 若山牧水記念文学館/牧水生家ほか


詳細 国際啄木学会



2018-03-15

[] 味わいを楽しむ啄木歌集「一握の砂」「悲しき玩具」

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啄木の「一握の砂」「悲しき玩具」

 近藤さん(国際啄木学会元会長)が編集、刊行

  • 国際啄木学会元会長の近藤典彦さんの編集による石川啄木の歌集「一握の砂」と「悲しき玩具」が、桜出版(紫波町)から刊行された。長年の研究成果を結集させ、啄木の意図した通りの作品の復元を目指した。
  • 「一握の砂」の解題で筆者は、啄木の短歌と頭脳の「明晰性」に触れ、分かりやすさゆえに誤解を生んでしまったとする一方、「啄木のように頭脳明晰な人は希有」とも評価した。
  • 啄木没後、友人の土岐哀果によって出版された「悲しき玩具」は歌の構成やルビ、句読点などの問題点を指摘。歌集全体の雰囲気を整え、味わいを楽しむことができるよう配慮した。

 ◎近藤さんは1938年北海道旭川市生まれ。群馬大教授などを歴任した。相模原市在住。

(2018-03-14 岩手日報)


  • 『一握の砂』 石川啄木 著・近藤典彦 編 1000円+税 
  • 『悲しき玩具』一握の砂以後 (四十三年十一月末より) 石川啄木 著・近藤典彦 編 1000円+税

 ◎ 桜出版 電話. 019-613-2349 FAX. 019-613-2369

        E-mail <sakuraco@leaf.ocn.ne.jp>



[] 啄木が終生恋い慕った故郷の家 その家の間取りを図面化する

郷土の本棚

 『三人の詩人たちと家』  牧水・白秋・啄木─その暮らしの風景

  • 本著は3人の詩人─若山牧水、北原白秋、石川啄木の家の間取りを現地調査または資料から復元することで、彼らの創作の背景にある暮らしに迫ろうという少し変わった研究書だ。
  • 啄木の項では、16歳での上京、さかのぼって故郷・渋民村での幼少期、26歳で早世するまでの放浪生活を、各時期に過ごした借家の間取りとともに紹介している。
  • 啄木が終生恋い慕った故郷。父が住職をしていた宝徳寺の間取りでは、よく遊んだという庭の池と、周囲の杉やヒバの林が印象的だ。
  • 何よりも、啄木が「わが家」へのあこがれを込めた「家」と題する詩。本著では、その夢の家の間取りを原文から類推し、図面化している。場所は「心おきなき故郷の村のはずれに」。庭には宝徳寺にもあった杉だろうかヒバだろうか、「ひともとの大樹を植ゑて」。渋民村の代用教員時代のように、子どもを集めて話を聞かせるというくだりもある。
  • 牧水、白秋の項には彼らと啄木との親交も盛り込まれている。

 ◎『三人の詩人たちと家』  牧水・白秋・啄木─その暮らしの風景

  大岡敏昭(著) 里文出版 2,800円+税 2018年1月発売


(2018-03-11 岩手日報)



[][] 歌を詠む啄木の頭上に流れる豊かな韻律

おんば訳で読む啄木 (天声人語)

  • 〈稼(か)せぇでも稼せぇでもなんぼ稼せぇでも楽(らぐ)になんねァじィっと手っこ見っぺ〉。はたらけどはたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざりぢつと手を見る。石川啄木の名歌100首を、岩手県の気仙地方に暮らす津波被災者らが地元ケセン語に訳して刊行した。
  • 『東北おんば訳 石川啄木のうた』。新井高子埼玉大准教授が2年間、大船渡市内の仮設住宅な どを巡り、おんば(おばあさん)と一語一語、翻訳した。
  • 大海(たい かい)にむかひて一人七八日(ななやうか)泣きなむとすと家(いへ)を出でにき。〈大海(おみ)さ向がってたった一人(しとり)で七(しぢ)、八日(はぢ んち)泣ぐべど思って家(えぇ)ば出てきたぁ〉。参加者には津波で家族や友人、自宅をなくした人も少なくない。
  • 同書を開き、スマホでQRコードを読みとって生の声を聴く。きっと歌を詠むときの啄木の頭上にも、負けず劣らず豊かな韻律が流れていたことだろう。

(2018-03-14 朝日新聞)


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2018-03-14

[] クルーズ船 釧路寄港 循環バスで石川啄木ゆかりの地なども

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[ロウバイ]


食や文化紹介 釧路港へのクルーズ船寄港 乗客満足度アップへ

 啄木解説も

  • 釧路駅西商店街振興組合は、今年のクルーズ船が釧路港耐震・旅客船ターミナルに寄港するのに合わせ、同ターミナル発着で、歴史のある市内米町地域と釧路和商市場を巡る循環バスの運行を4月から計画している。乗船客に地域の食だけでなく、文化にも触れてもらうことで満足度を高め、誘客につなげる狙いだ。
  • 組合がバス1台を借り上げ、午前9時から1時間に1度、同ターミナルと米町公園、和商市場に停車する。観光ガイド兼通訳も同乗し、通過する石川啄木ゆかりの地や幣舞橋などの解説も加える。釧路港では今年、4月28日から10月14日まで計20回のクルーズ船寄港が予定されており、このうち、同ターミナルに着岸する15回で実施する予定だ。(安房翼)

(2018-03-14 北海道新聞)


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2018-03-13

[] 国際啄木学会 東京支部会 明治大学和泉校舎 3/31

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[河津桜]


国際啄木学会 東京支部会

  • 2018年3月31日(土)14:00 〜
  • 場所 明治大学和泉校舎 研究棟1F 会議室(和泉キャンパスのいちばん奥)

   京王線/井の頭線 明大前駅 下車徒歩5分

  • 発表 近藤典彦 『一握の砂』物語(私の場合)
    • 近藤先生は桜出版より『一握の砂』(10月)、『悲しき玩具』(11月)を刊行されました。今回も貴重なお話を存分に語ってくださいます。奮ってご参加ください。

 ☆ 初めての方のご参加も歓迎 ☆


  • 『一握の砂』 石川啄木 著・近藤典彦 編 1000円+税 
  • 『悲しき玩具』一握の砂以後 (四十三年十一月末より) 石川啄木 著・近藤典彦 編 1000円+税

 ◎ 桜出版 電話. 019-613-2349 FAX. 019-613-2369

        E-mail <sakuraco@leaf.ocn.ne.jp>




2018-03-12

[] 「若者は啄木をどう読むか」 啄木忌前夜祭 4/12

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2018-03-09

[] 啄木や賢治が青春を過ごした町 盛岡

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[河津桜]


〇旅空子の味な旅

 歴史と詩情豊かな自然と城をたたえる町・盛岡

  • 岩手山を仰ぎ、北上川、中津川、雫石川が市街を流れる盛岡は江戸時代、南部氏20万石の城下町。以来、岩手の中心都市として人口29万7000余を数える県都である。石川啄木や宮沢賢治が青春を過ごした町としても知られている。
  • 「ふるさとの山はありがたきかな」と刻んだ啄木歌碑のある駅前から、早速、都心循環バス“でんでんむし号”に乗車。最初に開運橋を渡る左回りコースで、盛岡城跡公園はすぐだった。盛岡城の二の丸跡には「不来方のお城の草に寝転びて空に吸われし十五の心」の啄木歌碑と「願はくばわれ太平洋の橋とならん」の新渡戸稲造記念碑があった。
  • “でんでんむし号”のルートからは石川啄木が新婚の3カ月ほど暮らした、盛岡で唯一残る武家屋敷の「啄木新婚の家」や宮沢賢治のモニュメントのある「いーはとーぶアベニュー材木町」が近く、バスと歩きで3時間の市内散策が楽しめた。(文・写真 中尾隆之)

(2018-03-06 朝日新聞デジタル)


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[] 「良い歌」の特徴 牧水や啄木の歌

牧水、啄木らに学ぶ「良い歌」の詠み方〜三枝浩樹

  • 歌人で山梨県歌人協会長の三枝浩樹さんの講演会が同市内で開かれた。宮崎県出身の歌人・若山牧水にちなみ、毎年、同県などが優れた歌集の作者に贈る第22回「若山牧水賞」の受賞記念。
  • 三枝さんは牧水や石川啄木などの歌を紹介しながら、「良い歌」の特徴や短歌を詠む際のポイントなどについて語った。(高野芳宏)

(2018-03-09 山梨日日新聞)


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2018-03-05

[] 啄木と「おもちゃのマーチ」の作曲者 小田島樹人テーマのガイドマップ完成 秋田県鹿角市

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[秋田県鹿角市役所前庭にある「石川啄木詩碑」]


啄木を樹人が案内? 鹿角の歌碑や親族ゆかりの地 ガイドマップで紹介

  • 日本を代表する歌人の一人で鹿角に縁のある石川啄木と、「おもちゃのマーチ」の作曲で知られる鹿角市花輪出身の小田島樹人をテーマにしたガイドマップが完成、鹿角地域の公共施設などで入手が可能となっている。
  • 盛岡中(現盛岡一高)出身の二人は交遊があったことがすでに確認されており、地元の郷土史研究家は、「啄木が鹿角を訪れるのを案内したのは、樹人と考えられる」と考察、二人が訪れたと考えられる場所や親族ゆかりの地をマップにした。
  • 啄木の曽祖母熊谷ヱイは鹿角市十和田毛馬内の常照寺で生まれ、啄木が敬慕した姉サダは小坂鉱山の長屋で亡くなった。長詩「鹿角の国を憶ふ歌」は死期が迫った姉に対する悲しみや祖先の血が流れる鹿角への思いが詠(うた)われ、「涙し流る」が5回も繰り返される。鹿角市役所前に詩碑がある。
  • 盛岡中で啄木と1学年下の樹人との間に交遊があったことが4年ほど前に確認され、さらには啄木が鹿角・十和田湖を訪れた可能性が高いとの考察もある。啄木と鹿角、樹人との関係を市民に知ってもらうため、二人をテーマにコンサートを開催した。終了後の実行委員会の会議で、二人の関係をさらに知ってもらい歴史を掘り起こそう、と啄木、親族のゆかりの地、二人が訪れたであろうと考えられる場所などをマップにする計画が浮上した。
  • ヱイが生まれた常照寺、「鹿角の国を憶ふ歌」で詠われた錦木塚、市役所前に建立された詩碑など14カ所が紹介されている。「おもちゃのマーチ」とともに樹人の作曲で知られる「山は夕焼」の舞台とみられている三の岳(八幡平)がカラー写真入りで掲載されている。
  • 1500部を作製し、コモッセ、あんとらあ、市内の各市民センターなど17カ所に備え置き、手軽に入手が可能となっている。実行委員会の事務局長で二人の関係などを調査、研究している村木哲文さんは「市民には二人の関係をさらに知ってもらい、観光客には鹿角に、このような文学的な魅力があることを感じてほしい」と話している。

(2018-03-04 北麓新聞)


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秋田県鹿角と石川啄木をつなぐ縁 啄木の息



[] 南部藩領・鹿角と啄木の接点

ふるさと小紀行:[鹿角市・石川啄木の詩碑]曽祖母の地と姉思う

  • 秋田県鹿角市役所前に立つ石碑に「青垣山を繞(めぐ)らせる 天(あま)さかる鹿角の国をしのぶれば、涙し流る」で始まる1編の詩が刻まれている。岩手県出身の石川啄木(1886〜1912年)が、19歳の時に詠んだ「鹿角の国を憶(おも)ふ歌」だ。
  • 南部藩領だった鹿角と啄木には、いくつかの接点がある。母方の曽祖母・熊谷ヱイが毛馬内地区の出身。姉サダは夫が働いていた小坂鉱山で病死した。花輪地区生まれで「おもちゃのマーチ」を作曲した小田島樹人(じゅじん、1885〜1959年)は旧制盛岡中学の1年後輩で、親交があったとされる。

(2018-03-04 秋田魁新報)


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2018-03-03

[] 啄木『一握の砂』の凌雲閣を詠んだ歌

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[河津桜]


〇週刊新潮 2018年3月1日号

 遺構発見の「浅草十二階」 漱石と啄木の“足跡”

  • 夏目漱石『坊っちゃん』の一節にも〈野だのようなのは、馬車に乗ろうが、船に乗ろうが、凌雲閣へのろうが、到底寄り付けたものじゃない〉と、登場する浅草・凌雲閣。1890年に竣工した日本初の12階建て、エレベータ付の塔は、一躍東京のシンボルとなったものの、1923年の関東大震災で倒壊、歴史を閉じた。
  • その遺構が先日、震災から95年の時を経て、ビル工事現場から発見された。
  • 地元関係者の話。「実は『十二階』はどこにあったのか正確な資料もなく、だいたいの所までしか分かっていなかった。でもこれでハッキリしました」。
  • 『坊っちゃん』以外にも、凌雲閣の姿は文学作品の中に数多く描かれている。
  • 「すぐに思い浮かぶのは、石川啄木ですね」とは、作家の壬生篤氏。「『一握の砂』には、凌雲閣を詠んだ歌が収められていますし、その周辺、俗に言う“十二階下”に広がっていた銘酒屋(私娼を抱えて営業していた居酒屋)街に、入り浸っていました」。
  • 遺構は再び埋もれるが、文士達の足跡は残り続ける。

(2018-03-01 週刊新潮)


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   浅草の凌雲閣のいただきに

   腕組みし日の

   長き日記かな


     石川啄木「一握の砂」より



2018-03-02

[] 三郷啄木祭 《歌の形を持っているのは日本人の持つ幸福の一つだよ。》啄木 4/14

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[河津桜]


「2018年 第二回 三郷啄木祭」

講演 現代短歌の幕開け─

「子規と啄木と現代」─そのリアリズムについて─

「歌という詩形を持っているということは、我々日本人の少ししか持たない幸福のうちの一つだよ。」

  啄木

  • 日時 2018年4月14日(土)13:30〜16:30
  • 場所 三郷市文化会館(埼玉県三郷市早稲田5-4-1)
  • 講演 現代短歌の幕開け「子規と啄木と現代」─そのリアリズムについて─
    • 講師 水野昌雄(歌人 早稲田大学大学院日本文学科修士修了 現代歌人協会・日本文芸家協会会員) 

  • 講談 「足尾鉱毒事件と啄木」「西行の歌日記─鼓が滝」
    • 甲斐織淳(かいおりじゅん)(アマチュア講談師 国際啄木学会会員)

○主催  新日本歌人協会


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・石川啄木 年譜 ………… 26年と53日の生
・ローマ字日記………… 漢字と仮名では書けないことをローマ字で
・啄木文学散歩………… 息づかいの聞こえる ゆかりある場所を訪ねて
・啄木行事レポート …… イベントに参加しての私的レポート
・啄木の 女性たち ……… 啄木の人生を彩った「忘れな草」たち
・啄木と花 ……………… 歌に登場する花や木の資料

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