啄木の息 <ブログ版>

─ いまもなお瑞々しく語りかけてくる啄木の魅力を追い その息づかいに触れてみたい ─

     「本家 啄木の息」のリンクは、このページの最下段にあります。

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2018-04-04

[] 啄木終焉の地で 一緒に啄木を語りませんか! 4/13

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[石川啄木終焉の地 歌碑]


「啄木忌の集い」

  • 2018年4月13日(金)午後1時から4時まで
  • 場所 東京都文京区播磨坂清掃局事務所 会議室 2F(文京区小石川5丁目40-21)
    • 交通アクセス:地下鉄丸ノ内線「茗荷谷駅」下車・徒歩6分

〇 「啄木を語る会」

東京・文京区小石川の啄木終焉の地に歌碑が建立されて3周年になります。

これを記念して地元有志の皆さんと、全国の啄木愛好者、研究者が一緒になって「啄木を語る会」を開催します!

興味のある方はぜひ、お出かけください。

入場無料です。

 

 ○ 司会・佐藤 勝〔湘南啄木文庫主宰、国際啄木学会理事〕

  (出席者予定者 国際啄木学会東京支部会員有志数名)


湘南啄木文庫



2018-04-03

[] 「啄木の短歌〜その変遷を辿る〜」函館市文学館

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[さくら]


函館市文学館

 企画展「啄木の短歌〜その変遷を辿る〜」


○ 函館市文学館 〒040-0053 函館市末広町22-5

        TEL 0138-22-9014

        FAX 0138-22-9065




2018-04-02

[] 啄木「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/」

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[サクラ 上野]


「季語刻々」 [毎日新聞]

机辺四月こころなぐさむ花一壺(いっこ) 石原舟月

4月は悲喜交錯する月、何かでうまくいかなかった失意の人が今日の句の主人公だろうか。私はこの句から「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買ひ来て/妻としたしむ」という石川啄木の歌を連想した。<坪内稔典

(2018-04-02 毎日新聞)


記事



[] 岩手公園のサクラ「不来方のお城の草に寝転びて…」

岩手のお花見スポット

4月に入ると岩手でもお花見シーズンがスタート。岩手日報紙面掲載の写真を中心に桜の名所を紹介します。

  • 石割桜 盛岡地方裁判所の敷地内にあります。樹齢360年を超えるといわれるエドヒガンザクラが、巨大な花崗岩の割れ目から力強く幹と枝を伸ばし、毎年見事な花を咲かせます。
  • 岩手公園 石川啄木の短歌「不来方のお城の草に寝転びて…」でも有名な盛岡城跡は、1906(明治39)年に岩手公園として開園。2006年(平成18年)には開園100周年を記念し「盛岡城跡公園」と愛称をつけました。桜の時季は、石垣に600本余りのソメイヨシノなどが映え、たくさんの市民でにぎわいます。
  • 北上展勝地 約150種の桜1万本が広大な園内を彩ります。
  • 一関・厳美渓 伊達政宗公が命じて植えたとされる「貞山桜」をはじめ、2キロに及ぶ桜並木と渓流の組み合わせは、春ならではの美しさです。
  • 大船渡・立根川 川沿いのソメイヨシノが白い線を描くように約500メートルにわたって並びます。

岩手日報


記事



2018-04-01

[] 『啄木賢治の肖像』岩手が生んだ文学者2人の魅力

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[サクラ]


『啄木賢治の肖像』

  • 阿部友衣子、志田澄子著 岩手日報社
  • 972円(税込)新書判312ページ
  • 2018年4月発行

石川啄木の生誕130年、宮沢賢治の生誕120年を記念して、岩手日報紙面で2016年1月から計30回にわたり連載した特集を書籍化。

18の共通テーマと識者への取材を基に、岩手が生んだ文学者2人の魅力をあらためて探る。持ち運びやすい新書サイズ。盛岡市花巻市の散策マップやカラー資料、比較年表も特別収録した。

 ◎ 4月13日岩手県内先行発売 予約受付中 


目次

啄木・賢治散策MAP

啄木・賢治資料館

第1章 誕生〜幼少期

第2章 少年・青春時代

第3章 少年・青春時代

第4章 識者に聞く

第5章 友

第6章 友

第7章 恩師

第8章 両親

第9章 きょうだい

第10章 女性

第11章 女性

第12章 識者に聞く

第13章 山

第14章 川

第15章 識者に聞く

第16章 仕事

第17章 仕事

第18章 音楽

第19章 お金

第20章 東京

第21章 東京

第22章 識者に聞く

第23章 手紙と日記

第24章 手紙と日記

第25章 時代

第26章 時代

第27章 宗教

第28章 病と死

第29章 没後の評価

第30章 識者に聞く

啄木・賢治年表

あとがき


記事



[]『孤高の歌人 土岐善麿』啄木等と一つの時代をつくった

『明治・大正・昭和を生き抜いた孤高の歌人 土岐善麿』


ともかく土岐善麿という人物の存在はほとんどと言っていいほど知られていない。とは言っても石川啄木をはじめとして斎藤茂吉とか若山牧水北原白秋と言った名は誰もが聞いたことはあろう。土岐善麿という人物はそれらの人々の時代に生き、そして彼等と一つの時代をつくり上げた人間の一人なのである。

著者渾身の書き下ろし!!


目次

序論 忘れられた歌人

I 章「啄木と善麿」再懐

II 章 新聞記者時代

III 章 時局の狭間で

IV 章 敗戦から戦後へ

V 章「清忙」の日々

終章 旅路の果て

暗愚小伝――「あとがき」に代えて

関連年表・参考文献


記事



2018-03-30

[] 〈何となく汽車に乗りたく思ひしのみ 汽車を下りしに ゆくところなし〉石川啄木

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[サクラとカモ]


四季「旅好きにはいい季節となった」

  • 旅好きにはいい季節となった。春風に誘われ“鈍行”に揺られるのもいい。窓外に流れる桜の花に心も弾む。目的など要らない。ただ、時の流れに身を任せる。どこへ行っても外国人が多いのにはびっくりするが、日常を離れての気分転換にはもってこいである。〈何となく汽車に乗りたく思ひしのみ 汽車を下りしに ゆくところなし〉(石川啄木)。
  • 国内を旅する人だけで年間延べ6億4000万人にもなるというから、実に旅好きな国民である。参勤交代の時代から受け継いだ“遺伝子”のせいかもしれない。

(2018-03-26 日本農業新聞


記事



[] 啄木:樹人「ゆかりの地ガイドマップ」秋田県鹿角市

秋田)啄木と樹人のマップ完成 鹿角

  • 鹿角市に縁がある国民的歌人の石川啄木(1886〜1912)と、同市出身で「おもちゃのマーチ」を作曲した小田島樹人(1885〜1959)の「ゆかりの地ガイドマップ」ができた。市内や小坂町に点在する14カ所を写真、解説付きで紹介している。
  • 昨年10月、2人をテーマにしたコンサートが、市内にある啄木の母方の曽祖母の生家の寺で開かれた。コンサートの実行委員会の村木哲文さんがマップを制作した。
  • 敬慕した長姉のサダが小坂鉱山に住んでいたこともあり、啄木は10代のときに「鹿角の国を憶(おも)ふ歌」を作った。村木さんによると、実際に啄木が鹿角を訪れたという記録はないが、旧制盛岡中学で1学年下だった樹人と交流があったことが最近わかった。(加賀谷直人)

(2018-03-30 朝日新聞)


記事



2018-03-29

[][] 小樽 啄木歌碑除幕式、小樽文学館 啄木と多喜二、旧居 <8 (おわり)>

啄木文学散歩・もくじ

小樽市にリンクを張りました。


(「啄木の息HP 2005年秋」からの再掲 + 2018年早春 + 1999年夏)

  * 写真について 撮影年が記されていないものは2005年撮影



8 資料 (1)啄木歌碑趣意書 小樽駅近くに『啄木』第三の歌碑を!

  資料 (2)小林多喜二、退職ではなくクビだった 拓銀資料から判明



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雪中 三角市場の啄木歌碑(2018年)


資料(1) [啄木歌碑趣意書]

小樽駅近くに『啄木』第三の歌碑を!

        小樽啄木会 会長 水口  忠

        建立期成会 会長 安達 英明

    

 駅長官舎と石川啄木

明治四十年九月啄木が「小樽日報」創刊時に、記者として赴任してきました。、当時啄木の姉トラの夫である山本千三郎は中央小樽駅(現在の小樽駅)の駅長でした。啄木とその家族は函館の大火にあい小樽に来て、花園町の借家が決まるまで駅長官舎に滞在しました。

啄木は「小樽日報」の三面記者として大いに活躍しますが、十二月にご承知のような事情で事務長小林寅吉と争い、先の見通しもなく憤然として辞表を出し退社します。さいわい社長の世話で釧路新聞に就職のため、翌年一月妻節子などに見送られ中央小樽駅から出発しました。

後にこの時の心境を歌ったのが次の歌です。

   子を負ひて

   雪の吹き入る停車場に

   われ見送りし妻の眉かな

 

 歌碑建立のお願い

啄木にとって駅長官舎、そして小樽駅頭は忘れられないものだったと思われます。

以前この場所に小樽市で建てた木柱に「石川啄木ゆかりの地」「小樽駅長官舎跡」「小樽市」と書かれたものがありましたが、十年前小樽市が旧国鉄から土地を買収し、駐車場を設置した時に撤去されました。

これは書籍、雑誌、観光案内書に紹介され、全国の啄木研究家や啄木愛好家にとっては大事な場所でした。また多くの観光客もここを訪ねて来ました。撤去後あれはどうなったのかという問合せも多くあります。

今年十月、第二十一回国際啄木学会が札幌で開催され、小樽市内の啄木ゆかりの場所を視察することになりました。これを契機に長年の願いである歌碑の建立を計画した次第です。是非皆様のご協力をお願いします。

 

 建立 啄木歌碑のあらまし

  場所  駅前広場から三角市場に上る石段の左側の空地

     (市有地であるが建立についての内諾を得ています。)

  規模  黒に近い中国産御影石

      碑面  150×90

      全高  250

     (碑石 中国産の台石と白御影3段積み)

  碑面  啄木短歌  前記の『子を負ひて・・・・』を刻む

     (揮毫については交渉中)

  碑陰  ・歌碑建立の趣意について  小樽啄木会と建立期成会

      ・協賛された 個人・法人・団体のご芳名を刻字します。

 

 協賛金のお願い

協賛金は一口一万円とし、口数は自由です。ご協力いただけるならば、刻字の都合もありますので、ご連絡をお願いたします。

 締切 2005年9月20日厳守



資料(2) 小林多喜二、退職ではなくクビだった

    朝日新聞 2005年10月30日

  小林多喜二、退職ではなくクビだった 拓銀資料から判明

北海道小樽市に住み、特高警察の拷問を受けて昭和初期に死亡した作家、小林多喜二(1903〜1933)は、勤務先の旧北海道拓殖銀行から、「蟹工船」などプロレタリア文学の執筆を理由に解雇されていた。これまでは「依願退職した」という説も有力だったが、破綻(はたん)後の残務整理をしている拓銀から内部資料の複写の寄贈を受けた市立小樽文学館が、「解職」と明記された文章を発見した。

複写は「行員の賞罰に関する書類」の一部。多喜二は当時、拓銀小樽支社で書記をしていたが、1929(昭和4)年11月16日の発令で「依願解職」(諭旨)となっていた。

解職の理由として「左傾思想を抱き『蟹工船』『一九二八年三月一五日』『不在地主』等の文芸書刊行書中当行名明示等言語道断の所為ありしによる」ことを挙げ、欄外には「書籍発行銀行攻撃」と書かれていた。退職手当金も「1124円14銭なるも半額の560円給与」と記されている。

文学館の玉川薫副館長は「多喜二が辞めた本当の理由がわかる大変貴重な資料だ」と話している。

複写は今夏、辞令書割り印簿や職員表などとともに寄贈された。文学館は11月3日から資料を公開する。





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冬の花園公園通り  「風のごとくに 小樽の啄木」 小樽啄木会・編 2012年発行


この日の天気は他の記録によると〈微雪・寒し〉とある。写真のように冬の公園通りの朝は人通りも少ない。駅まではいつも通勤の道だった。啄木は中折れ帽子にコート、雪下駄のまま荷物とともに橇に乗った。

京子を背負い角巻姿の妻節子は、橇の後ろに従った。

この写真は遮るものがなく正面の丘の上に水天宮の社殿、左の中腹には堺尋常小学校の長い校舎が見える。

(「風のごとくに 小樽の啄木」 小樽啄木会・編 2012年発行)


…小樽に於ける最後の一夜は、今更に家庭の楽しみを覚えさせる。持つていくべき手廻りの物や本など行李に収めて、四時起床。明日は母と妻と愛児を此地に残して、自分一人雪に埋れたる北海道を横断するのだ !!!

明治41年1月18日 啄木日記 明治41年日誌)



115日間の小樽。

啄木は風のごとく「雪下駄のまま荷物とともに橇に乗り」駆け抜けて釧路へ。


このときの単身赴任は、以後の妻節子との行き違いの遠因ともなっていった。




(おわり)




[] 啄木祭 3/31 あいち 4/14 三郷 5/13 東京 6/24 関西

〇 あいち啄木祭

  • 2018年3月31日
  • 第一部 啄木をいける、歌う、詠む、描く
  • 第二部 講演とパネルディスカッション

〇 三郷啄木祭

  • 2018年4月14日
  • 講演
  • 講談

〇 東京啄木祭

  • 2018年5月13日
  • 講演
  • 文化行事

〇 関西啄木祭

  • 2018年6月24日
  • 講演
  • 報告

詳細



2018-03-28

[][] 小樽 啄木歌碑除幕式、小樽文学館 啄木と多喜二、旧居 <7>

啄木文学散歩・もくじ

小樽市にリンクを張りました。


(「啄木の息HP 2005年秋」からの再掲 + 2018年早春 + 1999年夏)

  * 写真について 撮影年が記されていないものは2005年撮影



7 小樽公園の啄木歌碑


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小樽公園の啄木歌碑 (1999年)

 

花園通りから公園通りへと上がっていくと、小樽公園にぶつかる。

公園は小高い丘にあり、市街地と港がよく見える。 道路から続く石段を登ると小さな広場があり、その前の木立の中に啄木の歌碑がある。


堂々たるこの歌碑の原石は、高田紅果が市内の豊倉で見つけたものである。書体は啄木の筆跡を模した、書家・宇野静山の作。

(「風のごとくに 小樽の啄木」小樽啄木会・編 2012年)





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啄木歌碑除幕式パンフレット 昭和26(1951)年11月3日 小樽文学館展示(2018年)


 

         啄木

   こころよく

   我にはたらく仕事あれ

   それを仕遂げて死なむと思ふ



『小樽啄木会沿革史』より

昭和25年啄木会は市文化団体協議会に呼びかけ有識者に諮り建碑期成会をつくり、市議会に請願しその翌年助成金を獲得することに成功し、いよいよ建設する目途がついた。そして歌碑に刻む歌は市民投票最高点の「かなしきは小樽の町よ」が決定された。

市議会側から再審議が要請され、結局歌人小田観蛍、歌人で小樽商大教授の峰村文人、そして会長高田紅果の三人で選んだ「こころよく我にはたらく仕事あれ」の歌が刻まれた。

建設場所は小樽公園入口の高台海向き(花園町元啄木住居の方向)とした。

昭和26年11月3日文化の日に除幕式が挙行された。函館からわざわざ宮崎郁雨氏が参列され、安達市長ほか市会議員、さらに市民多数の参加もあり、NHKではその実況を録音放送した。歌人宮崎郁雨さんは

  碑の面を雨しめやかに来てぬらす

    そのかの日をば思へと如くに

と当日の感想を詠まれた。また高田紅果の喜びはひとしおで、「これで自分の墓が出来たような気がする」と語った。

しかし4年後の昭和30年8月12日、高田紅果は心臓病で数え年65歳で急逝した。宮崎さんも昭和37年3月29日、76才で他界された。啄木を通じて因縁深い二人であった。函館啄木会と小樽啄木会との交流もこの二人の功績である。





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古今雛 小樽文学館展示(2018年)


「古今雛」の展示説明  小樽文学館

この雛人形小樽市内の旧家からお借りしたもの。女雛の宝冠の形や着ている十二単(ひとえ)などは、江戸時代中期に流行した古今雛の特徴を備えている。

古今雛は、明和年間(1764〜1771)に作られたものが多く、写実的な容貌と美しい装束が特徴。


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雪の市立小樽文学館(2018年)




(つづく)



[] 石川啄木:岩手の「明治」を形作った偉人のひとり 

明治150年 岩手の明治に触れてみよう

  ― 近代化の礎を築いた本県の偉人・建物 ―

  • 2018年は、明治元年から数えて150年に当たる年。激動の時代の中、本県の偉人たちは、政治、経済、医療、文化、学問など幅広い分野で活躍した。

150年目の節目に、岩手の「明治」を形作った偉人の功績と歴史的建造物を紹介する。


石川啄木 1886〜1912

明治期に活躍した歌人。南岩手郡日戸村(現・盛岡市)の常光寺で生まれる。本名一(はじめ)。盛岡中学中退後、与謝野鉄幹の知遇を得て、明星派の詩人としてデビュー。満19歳で処女詩集『あこがれ』を出版、名を知られるようになった。渋民尋常高等小学校代用教員を経て、職を求め新聞記者として北海道の各地を流浪。東京で満24歳の時、処女歌集『一握の砂』を出版し、歌壇内外から注目された。1912(明治45)年、結核症のため満26歳で波乱に富む生涯を閉じる。啄木没後には、歌集『悲しき玩具』が友人の土岐哀果によって出版された。

  石川啄木記念館(盛岡市)019・683・2315

(紹介されている他の偉人 鳥羽源藏・後藤新平田中館愛橘

(2018-03-26 岩手日報 政府広報)



[] 「灯ともる頃のいそがしさかな」啄木

コラム 「新生面」 熊本日日新聞

  • 新聞社を「灯ともる頃のいそがしさかな」と歌ったのは、明治の東京朝日新聞で校正記者だった石川啄木である。本紙でも日がとっぷり暮れた頃からニュース面のゲラ刷りが配られ始め、作業は未明に及ぶ。
  • 「ゲラ」は活版印刷で、組み上げた活字を納めた箱を指し、コンピューター製版の今も試し刷りのことをゲラ刷りという。毎日新聞大阪本社の校閲記者で、歌人の澤村斉美[まさみ]さんの第二歌集の表題が『galley』。ゲラの英語表記である。
  • 澤村さんが東日本大震災当時に詠んだ歌。〈電卓に積む死者の数は今夜二度増えたり明日の朝刊に載る〉〈声のなき涙ながれてゐる頬をあやしみてぐつとゲラへうつむく〉。ゲラ越しに世の中をのぞく歌人の万感の思いだ。

(2018-03-27 熊本日日新聞


記事


   京橋の瀧山町の

   新聞社

   灯ともる頃のいそがしさかな

              啄木


2018-03-27

[][] 小樽 啄木歌碑除幕式、小樽文学館 啄木と多喜二、旧居 <6>

啄木文学散歩・もくじ

小樽市にリンクを張りました。


(「啄木の息HP 2005年秋」からの再掲 + 2018年早春 + 1999年夏)

  * 写真について 撮影年が記されていないものは2005年撮影


6  啄木 第一、第二の住居


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花園公園通り 明治後期

(「小樽なつかし写真帖」第52号 2008年11月)

小樽公園入口の坂上から見た花園公園通り。

啄木一家が下宿した家は、この写真の画面右側・中ほどに位置する。

(「風のごとくに 小樽の啄木」 小樽啄木会・編 2012年発行)


(小樽シリーズの最後の写真は、この写真と同じ場所から撮った「冬の花園公園通り」になる予定)




   

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啄木最初の住居・た志"満


水天宮から花園橋を渡り花園公園通り(「啄木通り」ともいう〈平成17年から〉)を上がっていき、花園十字街の角に「啄木最初の住居・た志"満」がある。

義兄・山本千三郎宅から明治40年10月2日に移転。南部煎餅屋の二階に約一カ月住む。



トある南部煎餅売る店に移り住みたる男女四人有之候、四人の一人は小生にてあとは母とせつ子と可愛き京ちやんに候、室は二階二間、六畳と四畳半にて何れも床の間あり、思いしより心地よく候。

(岩崎正宛書簡 明治40年10月2日)


 


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た志"満の店の角には大きな啄木の額


占い師の姓命判断

襖一重隔てた隣室には占い師が住んでいて、啄木は姓命判断を頼む。二週間後に渡された姓命鑑定書には「五十五歳で死ぬ」と書かれていた。啄木は「情けなし」と日記に記す。


もしも「55歳が寿命だった」とすれば、残した命が30年近くもあった!


 

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た志"満の二階座敷


二階には「啄木の間」がある。

店の人に話を聞くと、「(写真では)右側に見えるタテの柱と右上隅にちょっと写っている横柱が、啄木が住んでいたころのもの」だそうだ。

 




  

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第二の住居 弥助鮨(1999年撮影)


明治40年11月6日、た志満の裏手にあたる花園町畑14番地の借家(家主・秋野音次郎)に移る。小樽で二回目の住居である。

その場所には、後に「弥助鮨」という店が営業をしていた。1999年の写真が上。間口のあまり広くない店だった。現在は廃業したとのこと。

 

・・・狭い路地を入つた二軒つづきの平屋で、通路に面した所に九尺の格子窓があつてソコに小さい机を据ゑ、瀬戸火鉢を置いて茶の間を書斎替はりに使つてゐた。(中略)奥の六畳間には畳も襖も入れる余裕がなく、空家同然にして床板の上を下駄ばきで便所通ひをしてる有様であつた。

(「小樽日報記者 石川啄木地図」<沢田信太郎「啄木散華」>)

  



(つづく)



[] 石川啄木など郷土の文学者の研究を文化政策に

盛岡市と盛岡大などが包括協定/岩手

  • 特色ある研究をまちづくりにつなげようと、盛岡市盛岡大学それに盛岡大学短期大学部が包括協定を結びました。26日、締結式が開かれ、谷藤裕明市長と徳田元学長が協定書に署名しました。
  • 具体的な取り組みは検討中ですが、盛岡市は短期大学部が進める幼児教育の研究を子育て支援に。県内唯一の文学部との連携では石川啄木など郷土の文学者についての研究を文化政策につなげたい考えです。

(2018-03-26 IBC岩手放送


 記事



[啄木 イベント] 企画展「文人たちから見た啄木」〜6/11

啄木支えた文人の視点

  盛岡てがみ館で企画展

  • 石川啄木(1886〜1912年)と交流があった歌人らの啄木への思いを資料で紹介する企画展「文人たちから見た啄木」が、盛岡市中ノ橋通の盛岡てがみ館で開かれている。
  • 会場には、「銭形平次」で知られる紫波町出身の作家・野村胡堂与謝野晶子などが、啄木との思い出をつづった手紙や生原稿などを展示。啄木の短歌が掲載された文芸雑誌「明星」の創刊者の歌人・与謝野鉄幹が「率直で、快活で、上品で、全体に颯爽とした風采の少年」と啄木を評したエッセーもある。
  • 6月11日まで、問い合わせは、盛岡てがみ館(019・604・3302)へ。

(2018-03-26 読売新聞)


 記事



2018-03-26

[][] 小樽 啄木歌碑除幕式、小樽文学館 啄木と多喜二、旧居 <5>

啄木文学散歩・もくじ


(「啄木の息HP 2005年秋」からの再掲 + 2018年早春 + 1999年夏)

  * 写真について 撮影年が記されていないものは2005年撮影


5 水天宮にある啄木歌碑も新装披露



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(トイレ脇にあったとき 1999年)


境内に昇格-2005年10月に除幕式

水天宮は海まで400〜500mの距離。小樽の街がよく見える。この地に啄木の歌碑を建立除幕したのは、1980年(昭和55)10月12日だった。

以前、歌碑を訪ねて行ったときは見つけるのが大変だった。境内の外のトイレの脇にあり薄暗く、すぐ前に車も止まっていたので見るのに苦労した。


碑の近くに公衆トイレがある。どちらが先にできたか分からないが、研究者や愛好家の方たちを案内するたびに、「かなしきは小樽の町よ」と揶揄され、恥ずかしい思いをしてきた。

今回、国際啄木学会文学散歩を機会に、水天宮の許しもいただき、啄木夫妻も上ったであろう石垣内の境内に移設された。ここは港を見下ろす景勝地であり、碑前には鏡のように磨かれた御影石が敷かれ、碑の風格は一新し生き返ったようだ。

(「今も息づく啄木」小樽啄木会会長 水口 忠-小樽啄木会HP 2005-11-10)





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歌碑が水天宮境内に昇格


今回はこの歌碑が新装披露されていた。小樽みなとライオンズクラブ主催の除幕式が、2005年10月15日に行われたばかりだった。場所も境内の中に昇格し、碑面は新たな門出の顔をしていた。


内地の大都会の人は、落し物でも探す様に眼をキヨロつかせて、せせこましく歩く。焼け失せた函館の人も此卑い根性を真似て居た。札幌の人は四辺の大陸的な風物の静けさに圧せられて、矢張静かに緩慢と歩く。小樽の人は然うでない。路上の落し物を拾ふよりは、モツト大きい物を拾はうとする。四辺の風物に圧せらるゝには、余りに反撥心の強い活動力を有つて居る。されば小樽の人の歩くのは歩くのでない、突貫するのである。日本の歩兵は突貫で勝つ、然し軍隊の突貫は最後の一機にだけやる。朝から晩まで突貫する小樽人ほど恐るべきものはない。

(「初めて見たる小樽」石川啄木 小樽日報 明治40年10月15日・第1号 『石川啄木全集』 第八巻 筑摩書房)

   

そして続けて「予は飽くまでも風の如き漂泊者である」から、「小樽人と共に朝から晩まで突貫し、小樽人と共に根限りの活動をする事は、足が弱い予には到底出来ぬ事である」が、「予にとつて何といふ理由なしに唯気持が可いのである」と言う。


  かなしきは小樽の町よ

  歌ふことなき人人の

  声の荒さよ

         啄木


やはり、啄木は突貫する小樽の人を見、「耳に爽快なる活動の行進曲を聞」き、小樽を愛していたのだと思う。



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「小樽なつかし写真帖」第52号 2008年11月

啄木の歌のなかで、小樽の名が詠まれたものはこの一首のみである。好況に沸き立つ街の活気をうたっているが、小樽を誹謗するものとの見方もつきまとい、後年にはさまざまな論議を呼ぶこととなる。

しかし啄木は「小樽に来て新開地・植民地的精神の溢れる男らしい活動を見た。男らしい活動が風を起こす。……」と小樽の活力を評す一文も残しており、小樽を誹謗する意図などなかったことは明らかだ。

(「風のごとくに 小樽の啄木」 小樽啄木会・編 2012年発行)




(つづく)



2018-03-25

[] 「こころよく 我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なむと思ふ」名言巡礼

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[サクラとカモ]


[名言巡礼]石川啄木「一握の砂」 [読売新聞]

こころよく 我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なむと思ふ

  心の叫び最後を支えた歌

  • 26年2か月。啄木の短い生涯は、仕事との格闘の連続だった。20歳で故郷・岩手県の渋民村(現・盛岡市)に戻り、母校の小学校で「日本一の代用教員」を目指すが、熱しやすく冷めやすい啄木は1年後に北海道に渡り、函館、札幌、小樽、釧路を漂泊。新聞記者としてペンを振るうが、残ったのは借金と失意だった。
  • そこで22歳の春、妻子を残し、小説家たらんとの大望を胸に単身上京する。が、待っていたのは再びの挫折。小説は没の連続で、ほとんど金にならず、生活も荒れ果てた。
  • 10代から親しんだ歌が噴出したのは、そんなどん底にあった1908年6月23日である。初日は<頬につたふなみだのごはず一握の砂を示しし人を忘れず>など55首。24日は<東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる>など50首。25日には<たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず>など141首。歌は「小生の遊戯なり」という言葉を残した啄木にとって、歌は仕事というより心の叫びだった。
  • 晩年の作は痛切だ。<呼吸すれば、 胸の中にて鳴る音あり。 凩よりもさびしきその音!>
  • 石川啄木記念館の森義真館長は、「人生の最後、他の仕事が出来なくなってからようやく啄木は、歌をわが思いを託するに足る文学と思ったのではないか」と語る。没後に出た歌集の表題「悲しき玩具」は、生前の随想「歌のいろいろ」にある文章をもとに友人が命名した。

 <歌は私の悲しい玩具である>

(文・鵜飼哲夫)


(2018-03-25 読売新聞)


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