啄木の息 <ブログ版>

─ いまもなお瑞々しく語りかけてくる啄木の魅力を追い その息づかいに触れてみたい ─

     「本家 啄木の息」のリンクは、このページの最下段にあります。

 

2017-09-25

[][] 「啄木悲しき砂を一握り」ゴロ文学シェーッ!

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[アザミ]


増補改訂版 ハイパー日本文学史 ゴロ文学シェーッ! 

   2001年 アルス工房

   作家 板野博行/宮下善紀



《ゴロ合わせで覚える日本文学史》

啄木悲しき砂を一握り

   啄木(石川啄木)悲しき(悲しき玩具)砂を一握り(一握の砂)


わずか26歳で生涯を閉じた石川啄木は貧乏と肺の病いに苦しみつつ、「三行書き」という独自のスタイルの短歌を作った。「明星」の与謝野鉄幹の知遇を得て詩集『あこがれ』を発表するが、『雲は天才である』などの小説は認められなかった。歌集『一握の砂』『悲しき玩具』以外に評論『食ふべき詩』『時代閉塞の現状』がある。


Q1 評論『食ふべき詩』や、歌集『一握の砂』・『悲しき玩具』などを書いた歌人はだれか。


Q2 啄木と関係の深いものを次の中から一つ選び、記号で答えよ。(早稲田大学)

イ 和歌革新運動  ロ 「白樺」  ハ 口語自由詩運動  ニ 『春と修羅』

ホ 『赤光』  ヘ 「明星」 ト 『春』


Q3「ふるさとの訛なつかし/停車場の人ごみの中に/そを聴きにゆく」の歌が収められている歌集を次から選び、記号で答えよ。

ア 海の声  イ 桐の花  ウ 一握の砂  エ 赤光


Q4 石川啄木の作品を次の中から二つ選び、記号で答えよ。(山脇学園短期大学)

ア 若菜集  イ 邪宗門  ウ 一握の砂  エ 路傍の石  オ 月に吠える  カ 悲しき玩具


Q5 次のア〜オの中から石川啄木の第二歌集を選びなさい。(青山学院大学

ア 一握の砂  イ あこがれ  ウ 悲しき玩具  エ 呼子と口笛  オ 島影


Q6 啄木の三行書きに影響を与えたと言われる歌人を一人選びなさい。(立正大学

1 若山牧水  2 土岐哀果  3 長塚節  4 釈迢空  5 正岡子規


   ↓

   ↓

   ↓

   ↓

   ↓




A1 石川啄木

A2 ヘ

A3 ウ

A4 ウ・カ

A5 ウ

A6 2



 

2017-09-22

[][] 「生きがい」よりも「死にがい」が強制された青春 岩城之徳 <2>

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[啄木墓碑裏面 拓本『大丈夫だ、よしよし、おれは死ぬ時は函館へ行つて死ぬ』]


『国文学 解釈と鑑賞』特集─石川啄木の世界─

   1974年(昭和49)5月号 第494号 至文堂

(2017-09-07の つづき)

◎私の卒業論文  岩城之徳

 「石川啄木の伝記的研究」

  • 昭和23年の春、私は日本大学法文学部文学科を卒業した。卒業論文は「近松浄瑠璃における道行の研究」400枚。卒論に近松の世話物を選んだのは、封建社会の矛盾を全身に受けて苦しむ町人階級の人びとや、罪なくして死に追いつめられてゆく心中物の若い男女に、かつての自己を発見し深い共感を覚えたからである。
  • 私は卒業後北海道へ渡り、昭和25年の春北海道大学の大学院に入学した。その頃の北大は、図書もなく暖房炭も少ない古びた文学部の教室であつたが、古典研究の歴史を語り、源氏物語の成立を論じる風巻景次郎教授の講義は若々しい情熱にあふれる魅力的なもので、学生たちは寒さを忘れて夢中で聞きいつた。風巻先生は大学院で石川啄木の研究をやりたいという私に、「事実の証明」に力を入れるよう指導され、戦後の歴史学や近代文学の成果を採り入れて幅の広い視野から啄木の伝記を実証的にまとめてはどうかと奨められた。
  • 私が啄木を研究対象に選んだのは、当時世界評論社より刊行された『石川啄木日記』全三巻を読んで、不幸な運命とたたかいながらも多くの名作を残した啄木の文学者としてのすぐれた素質と、社会の不条理に挑戦した鮮烈な詩精神に心が打たれたからである。
  • 私は北大時代の5年間を文字通り啄木の研究に没頭し、「石川啄木の伝記的研究」1500枚を大学院修了論文として提出した。昭和30年1月のことである。この研究は『石川啄木伝』として刊行され、これが契機となつて母校の日本大学の専任講師に迎えられた。私は大学に赴任してからもたえず啄木とその周辺を調査し、十数冊の啄木に関する著書を世に送つた。
  • 啄木のその比類なき業績を明らかにすることで、自己の青春の夢を果たそうとしているのかもしれない。その意味で「私の卒業論文」は学部の「近松」より大学院の「石川啄木」のほうが私にとつてふさわしいような気がする。

(おわり)


岩城之徳(いわき ゆきのり、1923年―1995年)は、日本近代文学研究者、日本大学名誉教授。石川啄木の実証的研究の基礎を築いた。1986年、「啄木歌集全歌評釈」「石川啄木伝」で第1回岩手日報文学賞啄木賞受賞。国際啄木学会発起の中心人物となり、会長も務めた。(wikipediaより)


2017-09-07

[][] 「生きがい」よりも「死にがい」が強制された青春 岩城之徳 <1>

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[北海道函館市立待岬 啄木一族墓 「碑文」拓本]


『国文学 解釈と鑑賞』特集─石川啄木の世界─

   1974年(昭和49)5月号 第494号 至文堂


◎私の卒業論文  岩城之徳

 「石川啄木の伝記的研究」


  • 最近青春の生きがいという言葉が流行しているが、私ども戦中派の人間にとつては青春は暗く灰色の毎日であつた。「生きがい」よりも「死にがい」が強制され、学徒出陣の美名のもとに軍隊に戦場に非人間的な生活をよぎなくされた。
  • 学徒出陣とは昭和18年9月22日の法文系大学教育の停止および学生徴兵猶予の廃止がときの首相である東条英機によつて発表され、全国で約30万の学生が学なかばにして軍隊にはいり戦場に赴いた事件をさすのである。
  • 戦後28年たつた現在、当時の苦しい生活は国民にとつて今や忘却の彼方に押しやられつつある。しかし昭和18年12月1日強制的に軍隊に収容された学徒兵の言語に絶する苦しみと凄惨なたたかいは、日本の大学の歴史にとつて忘れることのできない不幸なできごとであつた。
  • 私たちは薄暗い兵営の一隅で鬼のような古年次兵の怒鳴り声を気にしながら、「あたら青春をわれわれはなぜこのようなみじめな思いをして暮らさなければならないか。」についてひそかに語りあつた。
  • 昭和20年8月15日の南支那での敗戦、そして武装解除、私が軍隊から解放されて東京に帰つてきたのはその半年後のことである。私はいち早く神田にかけつけて焼け残つた懐かしの母校に復学の手続きをとつた。
  • 敗戦ですべてを失つた私にとつて日本大学は残された唯一の希望であつた。死への恐怖を逃れて再び学問をする機会を得た私は、にがい青春を通じて体験した世の中の不条理、青年を追いつめる一切の不条理を人間社会から除去しなければならぬと考えた。私が国文学を専攻し、文学を通して人間の本当の生き方を求めたのもそのためである。

(つづく)



2017-09-06

[][] 啄木研究 “卒業論文のテーマ” 岩城之徳

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[岩手県盛岡市盛岡城跡公園 石川啄木歌碑 拓本]


『国文学 解釈と鑑賞』特集─石川啄木のすべて・人と作品─

   昭和37年(1962年)8月号 第三百二十三号 至文堂


◎卒業論文を書く人々のために  岩城之徳

 「啄木研究にはどんなテーマがあるか」


  • 卒業論文の対象として石川啄木を選ぶには、まずなによりもこれまで発表せられた主な文献を読まねばならぬが、その没後五十年間に発表された研究はおびただしい量にのぼるので、まず主要文献の解説と、研究の動向を扱った研究史を丹念に読んで必要な文献を探さなければならない。
  • 啄木研究のテーマとしてはいろいろの問題があり、限られた紙数で詳述することは困難であるが、卒業論文の性格として独創的な研究を目ざす一方、啄木の生きた時代についての広い視野を養う必要があるので、啄木と関係の深かつた同時代の文学者との交渉を調べ、当時の文壇に即して両者の相互影響なり、文学史上の諸問題を究明する仕事が学生には一番適当なテーマであるように思う。
    • たとえば森鴎外の観潮楼歌会や「スバル」を中心とする作家群像と啄木の関係をまとめる仕事。
    • さらにアララギ派と啄木との関係。茂吉と啄木の関係。
    • 啄木の編集した「スバル」第二号で問題となつた、平野万里との「短歌論争」を扱うのもテーマとしては面白い。
    • 大逆事件を契機とする平出修や、土岐哀果との関係を探る仕事。
    • 「明星」を中心とする与謝野鉄幹との交渉、与謝野晶子の啄木に与えた影響とその関係。啄木と北原白秋。若山牧水と啄木。西山陽吉、魚住折芦。
  • 啄木研究のテーマとして奨めたい問題はそのほか、明治四十三年から四十四年にかけて東京朝日新聞や、東京毎日新聞に発表された啄木短歌を克明に調査して、その抒情の進化を探る仕事がある。啄木の短歌を論じる場合、これらの新聞を舞台として広く民衆に結びついていつた彼の作品の性格を検討することは、今後に残された重要な問題であろう。                                    


2017-08-04

[][] 啄木を歌う “弱さをいつわらず歌うには強さが要る…” 谷川俊太郎

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[ナンテンハギ]


◯『手紙』谷川俊太郎 集英社発行


石川啄木


  涙をこぼれるがままにしておくには

  勇気が要る

  弱さをいつわらず歌うには

  強さが要る

  でたらめと嘘

  裏切りと虚栄

  その矛盾と混沌のさなかに

  ひとつの声が起ち上る

  さながら悲鳴のように時代を貫き

  どんな救いもないからこそ

  言葉は

  言葉であることで自らを救う


  黄ばんだ写真の奥から

  私たちをみつめる哀しげな顔

  青年は時代の傷口

  いつまでも癒えない傷口

  そこから流れ出る歌は

  私たちの血の

  途絶えることのない

  調べ



  • 『手紙』谷川俊太郎 集英社 1990年


2016-12-05

[][] 金田一京助は3mを超す手紙に 啄木が来た喜びを書いた

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[ヒマラヤスギ]


《作品に登場する啄木》

 『金田一家、日本語百年のひみつ』

  金田一秀穂 著 朝日新書 2014年 760円+税


  • 晩年、いろいろな場所に呼ばれて講演をするのが、京助も楽しかったのだろう。石川啄木の臨終の報に呼ばれて駆け付けた話とか、アイヌの人々との心の交流の話とか、ドラマチックなネタはたくさんあり、それを情熱を込めて語るのだ。何度同じ話をしても、同じところで絶句し、同じところで涙することもあったらしい。聴衆にとっても、感動的であったらしい。
  • 金田一の菩提寺は、龍谷寺という。石川啄木の母が、この寺の住職の妹である。後に親友となる啄木と京助は、自然に結ばれるようになっていたことが分かる。
  • 盛岡市内にてがみ館という施設があって、盛岡に縁のある著名人の手紙を集めて展示している。その施設が所有する最も長文の手紙が、京助の書いたものであるというので見に行った。3メートルを超す毛筆巻紙のものである。石川啄木が上京して京助の下宿に転がり込んできて、そのことの喜びを盛岡にいた共通の知人に書き送ったものだった。文体が饒舌であり、しかしその分、京助の肉声が聞こえてくるようなものだった。
  • 市の先人館という施設には、新渡戸稲造、米内光政とならんで、京助の展示室が用意されている。昔京助が使っていた書斎がそっくりそのまま移設復元されていて、ふすまの模様が懐かしかった。こうして保存して、故郷を守っている人たちに、いくら感謝しても足りない。


【初代】金田一京助(きんだいち・きょうすけ)
1882(明治15)年、盛岡市生まれ。石川啄木の親友として知られる。1971(昭和46)年没、89歳。

【二代目】金田一春彦(きんだいち・はるひこ)
1913(大正2)年、京助の長男として東京都に生まれる。2004(平成16)年、91歳で没。

【三代目】金田一秀穂(きんだいち・ひでほ)
1953(昭和28)年、春彦の次男として東京都に生まれる。


2016-01-17

[][] 啄木ゆかりの「『渋民』の名を残していれば、もっと…」

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[ボーイング737機内 照明]


《作品に登場する啄木》

  『全国アホ・バカ分布考―はるかなる言葉の旅路』

    松本修  新潮文庫 平成20年


素晴らしき方言

  • 次の日、日沢君のご両親に車で盛岡まで送ってもらった。岩手県は四国全体の八割にも達する広さで、しかも山あいを縫う道が続き、盛岡までは思ったよりはるかに遠かった。途中、石川啄木ゆかりの旧「渋民村」でおいしい蕎麦の昼食をとった。日沢君は、ここが村々の合併によって玉山村となり、「渋民」の名が消えてしまったのを残念がる。
  • 「『渋民』を残していれば、ここを訪れる人ももっと増えただろうに」

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2015-09-28

[][] 藤沢周平 - 4 <「ふるさとの かの路傍のすて石よ…」啄木の歌を思い出させる村道一本> (おわり)

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[イヌタデ]


《作品に登場する啄木》

  『ふるさとへ廻る六部は』

    藤沢周平  新潮文庫 平成20年


◉変貌する村


 自動車道


  • 村の胃ぶくろは大きくて丈夫で、たいていの変化は時間をかけさえすればゆっくりと消化して自分のものにしてしてしまう。十年ほど前から取沙汰されてきた高速自動車道計画の場合も、そんな経過をたどったようにみえた。
  • しかしこの高速自動車道に付属して出てきたバイパス道路の計画は、あまり物に動じない村の人びとをおどろかしたようである。バイパス道路は高速自動車道と交差する形で東西に走る自動車道だが、地上との段差が一米(メートル)しかないので、ここを通って村から鶴岡市に出る道が一本閉鎖されることになったのである。
  • その道のそばには本村と少しはなれて数軒の家があり、村の田畑があり、母が畑仕事をしている間に小さな私が遊んでいた庚申塔などもあるはずである。そして道ばたの夏草や小流れ、そのあたりを飛ぶバッタ。

  ふるさとの

  かの路傍(みちばた)のすて石よ

  今年も草に埋(うづ)もれしらん

  • 啄木のこの歌を思い出させる村はずれの道は、やがて廃道になる運命をむかえるわけだが、道は鶴岡への通勤道路でもあるので、村では無視できずに寄合いをひらいているという。しかし相談の中身は反対ではなく地下道化などの妥協案さがしになる模様である。
  • こういう時代には、村道一本が消滅するぐらいはなにほどのことでもないのかも知れないのである。

(「狩」平成4年5月号〜8月号)


(おわり)

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2015-09-27

[][] 藤沢周平 - 3 <啄木の短歌がなぜ人びとに好まれるのか、その理由に突きあたった>

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[敷石]


《作品に登場する啄木》

  『ふるさとへ廻る六部は』

    藤沢周平  新潮文庫 平成20年

 

◉啄木展


  • 記憶がうすれてしまったが、東京・武蔵野市吉祥寺のT百貨店で、石川啄木展がひらかれるということを、私は多分取っている東京新聞で知ったのだと思う。啄木展の主催者が東京新聞だったからである。
  • 啄木展の展示品は、啄木の戸籍簿からはじまり、学籍簿、答案、就職のときの履歴書やお金の借用証書、そして啄木の周辺にいた女性たちの写真、手紙、原稿、詩集、歌集の初版本などだった。
  • それらを見ているうちに、私は次第にある湿った感慨が胸を占めて来るのをふせげなかったような気がする。ひと口に言えば、啄木の人生は失敗の人生だったということだった。
  • 私は啄木展を見た満足感と、それとはべつの湿った感慨とを抱えたまま、駅の地下にある喫茶店に入った。
  • 私はコーヒーを飲みながら、会場で求めた二、三冊の啄木関係の本をめくって見た。中で新潮日本文学アルバムの『石川啄木』にある渡辺淳一さんの「あえて、わが啄木好み」という一文がとてもいい文章に思われた。そうしているうちに、私は突然に、啄木がなぜこんなに人気があり、ことに啄木自身はさほど重きをおかなかった彼の短歌がなぜ人びとに好まれるのか、その理由の一端にはたと突きあたったような気がした。
  • 人はみな失敗者だ、と私は思っていた。私は人生の成功者だと思う人も、むろん世の中には沢山いるにちがいない。しかし、何の曇りもなくそう言い切れる人は意外に少ないのではなかろうかという気がした。かえりみれば私もまた人生の失敗者だった。失敗の痛みを心に抱くことなく生き得る人は少ない。人はその痛みに気づかないふりをして生きるのである。
  • そういう人間が、たとえば『一握の砂』の中の「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻としたしむ」といった歌を理解出来るのではないかと思った。

(「庄内文学」昭和62年8月号)



(つづく)

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2015-09-26

[][] 藤沢周平 - 2 <啄木は、大人過ぎるほどの大人だった>

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[ツリバナマユミ]


《作品に登場する啄木》

  『ふるさとへ廻る六部は』

    藤沢周平  新潮文庫 平成20年

 

◉岩手夢幻紀行(つづき)


 ×月×日

  • 車はやがて花巻 I・C を降り、東北新幹線寄りの小高い丘、胡四王山に建つ宮澤賢治記念館に着いた。
  • それはすばらしい記念館だった。まず館の前庭にあるのは「よだかの星」の彫刻である。黒色の金属のように輝くその板石は、アフリカ産の黒御影石だという。よだかはその表面に銀白色の洋銀で鋳つけられている。館の入り口の前には、ツワイライトで青味を増すという白色の梟の彫像がある。すでに賢治の世界だった。
  • 賢治記念館では、人びとはひとりうなずいたり、ささやき合ったり、目を見かわしたりはするが、大きな声は出さなかった。
  • 私はむしろ啄木記念館の俗っぽさを懐かしんでいた。
  • 啄木は愛され、賢治は尊敬されているということだろうか。しかしこの考えには、わずかに違和感があった。
  • 比較すれば十六歳で堀合節子と恋愛し、あのどろどろしたローマ字日記を書き、評論「時代閉塞の現状」を書いた啄木は、二十七歳で死んだにもかかわらず、大人過ぎるほどの大人だったといえよう。賢治記念館での感想とは逆に、「啄木は尊敬され、賢治は愛される」でもいっこうかまわないでのはなかろうかと思いつくころに、私たちは空港わきの道を通って花巻農業高校に着いた。

(「オール讀物」昭和63年2月号)


(つづく)

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・石川啄木 年譜 ………… 26年と53日の生
・ローマ字日記………… 漢字と仮名では書けないことをローマ字で
・啄木文学散歩………… 息づかいの聞こえる ゆかりある場所を訪ねて
・啄木行事レポート …… イベントに参加しての私的レポート
・啄木の 女性たち ……… 啄木の人生を彩った「忘れな草」たち
・啄木と花 ……………… 歌に登場する花や木の資料

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