啄木の息 <ブログ版>

─ いまもなお瑞々しく語りかけてくる啄木の魅力を追い その息づかいに触れてみたい ─

     「本家 啄木の息」のリンクは、このページの最下段にあります。

2017-10-02

[] 「矢車草 <5> おわり」-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

「矢車草 <5>」

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-石川啄木の歌に登場する花や木についての資料-


矢車草

     函館の青柳町こそかなしけれ

     友の恋歌

     矢ぐるまの花



函館の青柳町──そこにはまさしく友がいて、友情の花が咲いていた。まだまだ自分も未来を信じていいのだと、ひそかに心に呟いたことであろう。のちに「死ぬときは函館で死にたい」と啄木に言わしめたのは、友情に支えられた日々の記憶であったことは疑い得ない。

そしてこの時期の啄木にとってもう一つの大きな収穫は、たびたび催された歌会が、彼に再び歌をもたらしたことだろう。与謝野鉄幹の勧めで短歌から詩に移っていた啄木が「二年も休んで居たので、仲々出ぬ」と唸りながらも、しだいに五七五七七のリズムを取り戻していく。苜蓿社でのこの体験がなければ歌集『一握の砂』はなかったと言っても過言ではない。

(『啄木と郁雨』 山下多恵子 未知谷 2010年)


啄木は座談の優れて面白い人で、親しみのあるお国なまりで、あの明哲な理智を閃かしながら、明快な調子で、話し続け、いつも話題の中心になっておりました。そして、それらの人達の話題が結局、恋愛問題に落ち着いていくのが毎度のようになっておりました。

この歌は、啄木が当時を懐かしんだ歌であります。こうした夢のような生活を毎日送っておりました一方に、啄木は本当はひどい生活苦に追いつめられていたのであります。

自分の着て寝る夜具まで売って旅費を作って函館へ来た啄木は、その日からでも働かなければならない境遇にあったのであります。幸い苜蓿社関係の人の世話で、商業会議所へ入ることになりましたけれども、これは日給60銭の臨時雇でありましたので、わずか三週間ほどで、御用終いになってしまいました。それでも12円あまりの手当をもらいましたから、大いに助かったと思います。

(「啄木研究」 昭和55年 第5号 宮崎郁雨 洋々社)


ふるさとの渋民を去り、北海道への旅に立ったその時から、詩人石川啄木の心に、「漂泊」という二つの文字が刻みこまれます。きびしい試練が訪れたのです。その時、まだ二十一歳の若さでした。

その啄木を函館に呼び、迎えたのは、青柳町に住む苜蓿社という文学グループの、若い人びとでした。中央に名の知れた詩人石川啄木を、この北海の地に迎え入れることは、彼らにとって誇りであり、喜びでもあったでしょう。

苜蓿社の文学青年たちは、いつも啄木を中心に、熱っぽく北の文学を語り、情熱と恋とをたたえます。そして、ときには、悲しい恋の化身と語りつがれている「矢ぐるまの花」に、その恋の思いを託します。啄木は自分を慕うこの若い人びとに、過去の自分の姿をダブらせて、彼らをあたたかく見守りました。そうした忘れがたき人びとを、今、東京にあって思い出す時、青柳町は啄木の心に、悲しくも、懐かしくよみがえってくるのです。

(『啄木秀歌』 遊座昭吾 八重岳書房 1991年)


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(「矢車草」おわり)


2017-10-01

[] 「矢車草 <4>」-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

「矢車草 <4>」

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-石川啄木の歌に登場する花や木についての資料-


矢車草

     函館の青柳町こそかなしけれ

     友の恋歌

     矢ぐるまの花



二度と戻らぬ函館の日々を振り返る啄木は、「函館の青柳町こそかなしけれ」と感傷的な眼差しを向ける。しかしこの歌においては感傷性が表現を損なってはいない。今井泰子が指摘するように、「アオヤギ」の柔和な語感が「矢ぐるまの花」のイメージと調和し(『石川啄木論』)、ア音を基調にした流れるような調べが感傷性を生きた感情として甦らせるからである。矢車菊はヨーロッパ原産であり、慎ましくもハイカラなイメージがある。

「おれは死ぬ時は函館へ行って死ぬ」(郁雨宛書簡)という啄木の懐旧と我々が抱くエキゾチックな北の港町函館というイメージが、この歌において渾然と融け合い、感興をかき立てられるのである。

(「國文学 よみがえる石川啄木」 1998年11月号 小池光 學燈社


最初に暮らした函館を詠んだものでは、(この歌が)なんともいえぬ叙情性をたたえて哀しい。浜薔薇の歌と比べると、鮮明さにおいては対称的な曖昧さがある歌ではあるが、それが又、なんとも言葉に表現しきれない函館時代の郷愁への思いを象徴しているのであろう。この歌は言葉で説明しきれない歌である。口に乗せ、吟じてそこにかもし出される香を味わえばよいのである。

(「解釈と鑑賞 特集=啄木の魅力」 2004年2月号 渡部芳紀 至文堂 )


友の恋歌と矢ぐるまの花を配すことによって、青柳町のかなしい印象を強化しているわけである。恋歌には、甘い恋歌もあろうが、概してかなしい調べを打ち出したものが多い。しかし、作者の友人が詠った恋歌はかなしい内容を秘めていたのであろう。さらに、陽光に色彩を変え、めまぐるしくめぐるように咲いている矢ぐるま草の花もまた、捕えどころのない漂泊の詩人啄木の心情を表し、かつ外地人の薄情さを象徴しているように思われる。もっとわかりやすく叙述すれば、「友の恋歌と矢ぐるまの花のごとく」とでも表現すべきところを、省略したものとみることができよう。

(「啄木研究」創刊号 1976年1号 金子昌煕 洋々社)


このロマンチックな歌は、函館と啄木を語る上で欠くことのできぬ代表歌であり、青柳町45番地、苜蓿社が啄木来函後の仮宿となったところである。啄木の住んだ所からほど近くに、市民の憩いの場として豊かな緑に包まれた函館公園がある。公園内には啄木文献資料の宝庫市立函館図書館と、全国に点在する数多い啄木歌碑の中でも、すばらしいできばえであると本山桂川氏がその著『写真文学碑』の中で絶賛した「函館の青柳町こそかなしけれ──」の歌碑が建てられている。

裏面には郁雨によって、「石川啄木が首蓿社に迎えられて青柳町に住んだのは、明治40年5月〜9月に至る短い期間であったが、この間の彼の生活は多数の盟友の温情に浸り、且久しく離散して居た家族を取り纏める事を得て、明るく楽しいものであった。今回当時を思慕する彼の歌碑が由縁深き此の地に建立さるるに際し、今更ながら在りし日の故友の俤が偲ばれる。   昭和28年4月13日 郁雨宮崎大四郎」と書かれている。函館での啄木の生活は、宮崎郁雨のこの一文によって端的にそして的確に言い尽くされているように思われる。

(「啄木研究」 1976年2号 桜井健治 洋々社)



(「矢車草」つづく)


2017-09-30

[] 「矢車草 <3>」-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

「矢車草 <3>」

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-石川啄木の歌に登場する花や木についての資料-


矢車草

     函館の青柳町こそかなしけれ

     友の恋歌

     矢ぐるまの花



函館公園、それは明治40年の青柳町を扇の形に配置した、文字どおりの要であった。それはまた、啄木が青柳町に住み、この世に没して、あの世に生きるために絶対に欠くことのできない要でもあったのである。

土岐哀果は後年、青柳町を歩くのである。そして、詠うのである。「散歩」と題して。

   そのかみの露探小路をのぞけどもわが啄木は住みてはあらず

   この家に住みきと聞けど古簾かなしき友よ君の妻も亡し

            ---大正7年「緑の地平」から---

(『啄木の函館』 竹原三哉 紅書房 2012年)


これなぞも、「青柳町」における作者の「かなし」い体験を表現するために、「友の恋歌」とか、「矢ぐるまの花」とかの具体性がうたわれているわけだ。しかし、その具体性それじたいが空想的、情緒的な色どりをおびているから、「青柳町」の「かなし」い体験が、よけいに空想的、情緒的に詠むものの心に沁みいるのである。感傷的なのである。

(『石川啄木』近代日本詩人選7 松本健一 筑摩書房 1984年)


このような歌を読んで、読者ははっきりと情景は掴めないながら、その情緒ははっきり掴んで、感動するのだ。こういう歌は作者がごく一部の読者に向って発信した暗号のようなものである。その暗号を解いて初めて面白い歌なら、これらの歌はつまらない。だがこういう歌は、暗号の解けない一般読者にある感じが伝わってきて、愛誦歌となるのだ。

「友の恋歌」とは、これも啄木の仕掛けた暗号であり、誰か知らないがその恋愛歌の作り主には確実に伝わるものである。「矢車の花」も、その家に咲いていたのかと思うが、やって来た同人たちにはすぐ通じるイメージがあろう。

(『漱石 啄木 露伴』 山本健吉 文藝春秋 1972年)


ここに現れる矢車の花は、若い節子夫人の心入れで、そうした部屋にささやかな花瓶に活けこまれていたものか、或いはひょっとすると、この青柳町の家の前あたりの小さな庭に咲きほこっていたのを取入れたものか、その辺のところははっきりしない。矢車の花はドイツの国花であり、花言葉の総称は幸福、国によっては「私はあなたから離れぬ」とか「あなたの要求を入れます」という暗語があるときいたが、いずれにしろ「友の恋歌」と配列されるにふさわしい花であることに間違いはない。

(『歌人啄木』 吉田孤羊 洋々社 昭和48年)


函館を懐かしむ思いを詠んだこの一首は「青柳町」という地名がよく効いている。けれども、どんな地名であっても良いわけではない。「函館(AOAE)」と「青柳(AOAI)」の母音の響きが微妙に重なり合うところが大切なのだ。さらに言えば、初句「函館の」、二句「青柳町こそ」、三句「かなしけれ」はA音から始まって、四句「友」「恋歌」でO音に転調し、結句「矢ぐるま」「花」で再びA音に戻るという流れも見逃せない。下句は名詞句をただ二つ並べただけのように見えるが、ここがもし

  矢ぐるまの花

  友の恋歌

という順序であったならば、一首の調べは途端に悪くなってしまう。つまりこうした語順にも魅力的な韻律を生み出す配慮が働いているのである。

(「現代短歌」松村正直 現代短歌社 2016年3月号)



(「矢車草」つづく)


2017-09-29

[] 「矢車草 <2>」-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

「矢車草 <2>」

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-石川啄木の歌に登場する花や木についての資料-


矢車草

     函館の青柳町こそかなしけれ

     友の恋歌

     矢ぐるまの花




この歌は特定の人を歌ったものでなく、苜蓿社の人びとを懐かしがってのちに歌ったもので、矢車の花は函館では六月から七月に咲き、各家庭や公園などの広場に植えられ、めずらしい花でもないがかれんさが人びとに好まれている。郁雨は「そのころの日本娘を思わせるような楚々たる風情の花である、と同時に、廉価で庶民的である。私は極く薄い紅色の矢車の花を見る時、何時も節子さんを思い出すが、苜蓿社の仲間は『合歓の花』に例えて節子さんを称えて居た」という。

(『啄木の妻 節子』 堀合了輔 洋々社 昭和56年)


この歌が、広く人々に愛唱されている理由の一つには、主題は漠然とした光景でも、その環境のなかにある心情を詠んでいるということであろうが、それぞれの引き出す余情が深いこと、加えて、一つの歌曲めいたようにまとまっている韻律のよさにある。

(『啄木の歌と現代短歌』 林和三郎 洋々社 昭和54年)


苜蓿社は啄木を函館に招き、青柳町に住む場所を提供した函館の詩人たちのグループだった。啄木は青柳町の名前を歌に詠み込むことで、「青柳町」を不滅のものとした。

How I miss Green Willow Street in Hakodate !

The love-letters of my friends,

The blue of cornflowers.

新しい友人たちに囲まれて、啄木はこれまでにない感慨を覚えたに違いない。その友人たちは、啄木と詩歌の趣味を共有するばかりでなく、啄木に親しみを覚えるあまり自分の「恋歌」まで読ませたのだった。

(『石川啄木』 ドナルド・キーン著、角地幸男訳 新潮社 2016年)


昭和45年、啄木一家は「石をもて追はるるごとく」故郷の渋民村を出た。一家離散の出奔であった。知友を頼って函館に着いたのはその翌日である。啄木は函館に三ケ月暮らしたが、この地に多くの友を得て、共に酒を飲み、詩を語り、恋を語り、夢を語った。その後の啄木の人生において、この時期ほどに幸福な日の巡り来ることはない。それ故に啄木は、後に流浪した北海道を回想する歌133首を歌集『一握の砂』の中に「忘れがたき人々」として収めたが、函館を詠んだ一連の歌は啄木青春短歌を代表するものとなっている。

(『資料 石川啄木』 佐藤勝 武蔵野書房 1992年)



(「矢車草」つづく)


2017-09-28

[] 「矢車草 <1>」-啄木の歌に登場する花や木についての資料-


「矢車草 <1>」

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-石川啄木の歌に登場する花や木についての資料-


矢車草

     函館の青柳町こそかなしけれ

     友の恋歌

     矢ぐるまの花



初出「スバル」明治43年11月号

家の周囲に矢車の花が咲き、友と文学を語り恋愛を談じ作歌に親しんだあの青柳町時代がとりわけて懐かしい。

( 「石川啄木必携」 岩城之徳・編 學燈社 1981年)


ヤグルマソウ

高さ1メートル位。花は初夏、花弁はない。和名矢車草は葉の形が端午の節句のとき、鯉のぼりといっしょに立てる矢車に似ているところからついた。

ヤグルマギク

ヨーロッパ東部から南部の原産、高さ30〜90cm、白綿毛をかぶる。花は初夏から秋、花屋で温室ものは春に出まわり、青紫、桃、鮮紅、空、白色など品種が多い。和名矢車菊は周辺花の状態を矢車に見たてた名。園芸上はヤグルマソウと呼ばれる。

花言葉  優雅・幸福・繊細な心・独身生活・デリカシー


< こそ…けれ > の係り結びによって強調された「かなし」を具体的に示したのが「友の恋歌」と「矢ぐるまの花」です。友人たちとの熱い文学談義と恋の香り、そしてその日々を彩った矢車の花。「かなし」に漢字を当てれば、「悲し」ではなく、「愛し」でしょう。歌の伸びやかなリズムもそのことを教えています。青柳町という地名の若々しい印象が加わって、そこからは慈しむような函館時代への懐旧の情が浮かび上がります。

啄木歌集の北海道時代を詠った作品はすべて回想の歌ですが、その中でもっとも明るさと懐かしさが生きているのがこの歌です。

(「啄木再発見」 三枝昻之 NHK出版 2013年)


「矢ぐるまの花」これは矢車草の花ではなく、セントウレアつまりヤグルマギクの花です。花形が矢車に似ているのでこの名があります。啄木がうたっているのはおそらく青紫色のヤグルマギクでしょう。イメージされているのは五月下旬か六月初旬ころのことでしょうか。

せつないほどになつかしい青柳町を、意気投合した文学仲間の集いと青紫色のヤグルマギク──梅雨のない函館ではからりと晴れた光の中のその花が似つかわしい──とに象徴させた手腕がみごとです。

(『啄木短歌に時代を読む』 近藤典彦 吉川弘文館 2000年)


[青柳町の家は文字通りの長屋で、間数は六畳が二間きりだった。同人たちはこの家に集まって恋愛論に花を咲かせたが、いつもその発頭人は啄木だった。彼は盛岡の磧町のころは、見え坊で気取り屋だったが、函館ではもう見栄も気取りもしなかった。たばこなども以前は高級の「敷島」をふかしていたが、ここでは五匁銭の「はぎ」(きざみたばこ)を長いラウのキセルでのんでは火ばちの縁でたたきながら気えんをあげていたそうだ。

(『人間啄木』 伊東圭一郎 岩手日報社 1996年)


この歌の核は「矢ぐるまの花」の優しく地味な風情であろう。それとの関連で読む読者は、おそらく「青柳町」に富裕な邸宅地や活気ある商店街などは連想しない。げんに当時の青柳町は貧小な下層住宅地であるが、しかし多分、かかる知識も必要ない。大事なのは「アオヤギ」の柔和な、矢車草と同様に地味な語感である。「恋歌」は青春の象徴。日陰の花とも言える矢車草のイメージに託して、函館の友人たちと共有した青春の侘びしさ、優しさ、それ相応の夢などを追慕する歌。

(『石川啄木論』 今井泰子 塙書房 1983年)



(「矢車草」つづく)


2016-11-13

[] 「浜薔薇 (ハマナス)」-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

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-石川啄木の歌に登場する花や木についての資料-


浜薔薇 (ハマナス)

     潮かをる北の浜辺の

     砂山のかの浜薔薇よ

     今年も咲けるや



初出「一握の砂」

潮のかおる北の浜辺の砂山のあの浜なすの花よ。今年も美しく咲いていることであろうか。

大森浜の海岸の砂山の蔭に咲く浜なすの花に寄せて函館追慕の情を歌ったもので、函館市日の出町の啄木小公園の啄木銅像(昭和33年10月建立)の台石に刻まれている。

また青森県上北郡野辺地町の愛宕公園の啄木歌碑(昭和37年5月建立)にも刻まれているが、これは啄木の伯父の葛原対月がこの地の曹洞宗常光寺の住職として15年間在職し、啄木の父が明治39年から41年にかけてこの師僧のもとに身を寄せていた由緒による。

石川啄木必携」 岩城之徳・編


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ハマナス(浜薔薇)

ハマナシともいう。太平洋岸の千葉県以北、および日本海岸の鳥取県以北の海浜の砂地に生えるバラ科の落葉低木。高さ1〜1.5m。地下に伸びるほふく枝によって繁殖し、大群落を作る。枝にはとげを密生し、花枝には短い毛を密布する。

夏,枝先に径6〜8cm,紅色(まれに白色)の5弁花を開く。広い倒心臓形、強い芳香を放つ。雄しべは黄色で多数花が終わってから、平たい球形の大きな偽果を作る。8〜9月頃きれいに赤く熟し、とげがなく、肉質部は食べられる。甘酸味あり。根の皮は染料となる。

棘があるため、アイヌの人々は魔よけに戸口に立て、果実は食用、種子をイヨマンテの祭りに用いた。

〔日本名〕「はまなし(浜梨)」の意味で「浜茄子」ではない。浜梨は食べられる丸い果実をナシになぞらえたもので、しかも海浜生であるからである。ハマナスは東北地方の人がシをスと発音するために生じた誤称である。


北海道 道花


花言葉  香り豊か 悲しくそして美しく てりはえる容色 見映えの良さ


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「潮かをる北の浜辺の・・・」の歌は、広い意味での大森浜にあった砂山でのことを詠んだものといえる。啄木はまた大森浜で海水浴をしている。1913年(大正2)4月2日付の『函館新聞』に磐幸正(岩崎正=白鯨)が「啄木は泳げなかつたけれども好く海へ入つた。(中略)啄木が初めて潜る事を覚えた時、潜った々々と言って、砂で握つた拳を高く差上げて嬉んだ様が、今でも眼に残つて居る。」と書いている。

(「石川啄木事典」一般項目『大森浜』<株>おうふう)


書簡 1904(明治37)年

九月二十九日青森より 前田儀作宛

(略)

途次野辺地駅に下りて、秋涛白鴎を浮ぶるの浜辺に、咲き残る浜茄子の紅の花を摘みつゝ、逍遥する事四時間。正午少しすぐる頃再び車中の人となりて二時青森に入りぬ。(略)

              青森市にて 啄木

 前田林外様


十月十一日小樽より 小林恒一宛

(略)

三四時間野辺地が浜に下車して、咲き残る浜茄子の花を摘み、赤きその実を漁童と味はひなどして再び車便一駆青森に着、その夜そこに冷たき夢を結び申候。

(略)

              北海小樽にて 啄木

 翠淵大兄 侍史

(書簡『石川啄木全集 第七巻』 筑摩書房)



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北の海の香り、浜辺に咲く可憐な浜薔薇(はまなす)の花の姿が、遠く離れた都会の真中で突然に思い浮かぶのである。感興の中心は二行目の三、四句「砂山のかの浜薔薇よ」にあって、花の放つロマン的な芳香と姿、色彩が内面のスクリーンいっぱいに映し出されて、海辺の光景の中に、恋や人生を熱っぽく語り合った北国に住む若い友人たちの姿が通り過ぎてゆくのである。「北の」「浜辺の」「砂山の」と折り重ねるように接続してゆく調べの快さに、回想する「現在」がまっすぐに「過去」の時空に吸い込まれてゆく内面の有様が暗示される。 

(上田博「石川啄木歌集全歌鑑賞」)



啄木が函館の大森浜の砂山に咲く浜薔薇(はまなす)に思いを寄せて詠んだものです。
 明治四十年五月から九月上旬まで、函館に住んでいた啄木は、夏の大森浜を好んで散策し、海水浴もしました。そのときの水泳は生まれて初めてであったことを日記に記しています。また、浜薔薇の鮮やかなピンクの色も目に焼きついたことでしょう。一年後、東京にいて汗まみれになって暮らす啄木は、何度も大森浜が思い出されるのでした。


(啄木記念館「啄木歌ごよみ」)

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明治40年のひと夏を函館で過ごしたあなたは、よく大森浜を散策したものでした。そのとき、あなたは浪にばかり気をとられていると思ったのですが、そうではなかったのですね。しっかりとハマナスの花も見ていたのですね。

そしていつのまにか海と共に思い出す花になっていたのでしょう。

(山本玲子「拝啓啄木さま」)


「砂山」これは函館の大森浜にあった砂山です。海に沿って約1500メートルにわたって起伏し、幅は最大約375メートル、高さは最高21〜2メートルの砂丘をイメージしてください。(略)

しかし今大森浜に行ってもあの巨大な砂山の姿はかき消されています。(略)砂山はどこへ行ったのでしょう。
 都市の高層建築や舗装道路やダムに化けたのでしょうか。啄木の「砂山」の歌々は近代化の波がやがてかき消すであろう砂山のモニュメントとなっています。

(近藤典彦「啄木短歌に時代を読む」)


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海岸の砂地に自生する浜薔薇は、夏には紅色の五弁の、しかも香りの良い花を咲かせます。山国に生まれた啄木にとっては、この海辺に咲く浜薔薇に、異常なまでに心ひかれていってものと想像されます。

かつて北海道の函館の大森浜の海辺に見たあの紅色の海の花は、今年も香りを漂わせて咲いているだろうか-----と、漂泊の北海道時代を、今東京の地にあって回想しているのです。

 鼻を突く磯の香り、浜薔薇の花の香り、そして北の海の色、砂山の浜薔薇の花の紅色、すべて嗅覚や視覚を存分に働かせて、啄木は北海道の漂泊時代を、そこにめぐり会った人びとを、大事なものとして、悲しくも美しくうたうのです。

(遊座昭吾「啄木秀歌」)


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石川啄木が明治37年9月29日初めて野辺地町をたずね「・・・野辺地が浜に下車して、咲き残る浜茄子の花を摘み 赤きその実を漁童と味わいなどして・・・・」と友人へ報じている。

天才詩人の琴線にふれたつぶらな浜薔薇の実は今も十符が浦の潮風にさゆれている。

(浅沼秀政「啄木文学碑紀行」)


2016-08-02

[] 「ヒバ」-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

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-石川啄木の歌に登場する花や木についての資料-

ヒバ

     ふるさとの寺の畔の

      ひばの木の

     いただきに来て啼きし閑古鳥!


            畔=ほとり


初出「新日本」明治44年7月号

ああ、故郷の寺のそばのひばの木のいただきに来て鳴いた閑古鳥の懐かしいことよ。

本林勝夫氏は、「閑古鳥」の歌4首を「啄木最終期の歌の中でも傑作として注目される」としている。

(「石川啄木必携」 岩城之徳・編)


ヒバ

翌檜(アスナロ)ともいう。ヒノキ科の常緑高木。本州〜九州の山地にはえる。葉はやや質厚く,大きな鱗状をなし,小枝や細枝に交互対生し,表面は緑色,裏面は周囲だけを残して他は雪白色をなす。

雌雄同株。4〜5月開花する。球果はほぼ球形で,種鱗の先端に角が出る。天然林では木曽地方、造林では能登半島は輪島塗の木地が有名。材は建築,器具,土木,橋梁に,樹は庭木とする。樹皮は火縄または縄となる。

ヒノキに似ているが,材質が多少劣るので「明日はヒノキになろう」という願いから,この名があるといわれる。

球果が球形で角のほとんどない変種をヒノキアスナロ(ヒバとも。石川県能登の方言ではアテ)といい,北海道南部〜本州中部に分布する。日本三大美林として知られる青森のヒバ林は本種。しろび、あて、あすひ、あすはひのき、ともいう。


  • 花言葉  変わらぬ友情・不死・不滅

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故郷の寺・玉山村の宝徳寺は、啄木の父・一禎が十五世住職を勤めたところです。その寺で、啄木は約十八年間過ごしました。啄木が書斎に使った部屋は現在も残っています。

中学を退学した啄木は、書斎にいて文学への道を模索していました。そんな時、啄木鳥の音に心慰められ、ペンネーム「啄木」となったと言われています。また、寺のヒバの木にやってくる閑古鳥つまりカッコウの声を聞き、その声は啄木の耳から永遠に消えることはなかったのです。

(啄木記念館「啄木歌ごよみ」)


寺の入り口の両側に、十本ばかりの小さな杉の木が行儀よく並んでいる。二三間入ると、左右に二本、おとな二人で手を廻しても届かないほどの檜の木があった。「ふるさとの寺の畔の・・・」と歌われた檜の木がこれだなと思った。今、季節が季節なだけに、耳を聾するばかり啼いているのは、閑古鳥ならなくに油蝉である。

(吉田孤羊「啄木発見」)

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万年山を背にした禅寺宝徳寺−−啄木石川一の幼少年期の「ゆりかご」であった。山鳩、鴬、啄木鳥、そうして閑古鳥(郭公)が飛来し、四季の草花の咲き乱れる野山。

境内のひばの木(現在この木は樹齢三百年をこす27メートル余の老木)に啼く閑古鳥は、詩人啄木の至福の時のシンボルとして、故郷を追われたその後の流転の人生の折々に、夢幻の内に飛来し、傷心を癒したのである。

(上田博監修「啄木歌集カラーアルバム」)


「寺の畔のひばの木」に来て啼く「閑古鳥」を、梢高くに仰ぎ見た幼き時の思いが蘇ってくるのである。

「わが生、わが詩、不滅のしるしぞと、/静かに我は、友なる鳥の如、/無限の生の進みに歌ひつづけむ。」(詩「閑古鳥」)高熱と全身の痛み一色に塗抹される、意識の深い洞の中へ、閑古鳥は慰めの声を響かせたのである。

(上田博「石川啄木歌集全歌鑑賞」)

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(宝徳寺の)境内に左右対称にひばの木が二本、高くそびえており、遠くからでも宝徳寺の所在がわかるほどでした。・・その高いひばの木のてっぺんに、夏を告げる閑古鳥がやってきて、烈しく、声かぎりに鳴きます。するとその閑古鳥の声が、静かな万年山の裏山にこだまし、ほんとうになんともいえぬ音の交響曲を作ります。

・・かつて十代の啄木は、その閑古鳥を「詩人の思ひとこしへ生くる如、不滅のいのち持つらし、この声も。」と讃えています。閑古鳥の声に、永遠のいのちの響きを感じとった年少の詩人啄木は、今、故郷から離れた異郷の東京にあって、そのときのことを大事に回想するのです。

(遊座昭吾「啄木秀歌」)


啄木一族鎮魂の願いをこめて宝徳寺境内にこの歌碑(「ふるさとの寺の畔の・・ 」)を建立した・・・。啄木が遊んだ境内の池のほとりで除幕式が執り行われた。なお「ひば」は「さわら」の別名であり、「閑古鳥」はカッコウのことである。

(浅沼秀政「啄木文学碑紀行」)


(宝徳寺の)池のそばに大きなサワラの木がある。村の保存樹で梢が点を突くように高く鋭く、遠くからでもよく目立つ。

・・・境内に樹木は多いが、歌に詠まれているそれらしいヒバの木は見当たらない。(寺の奥さんに)聞くと「ヒバというのは裏庭のイチイの木(キャラともいう)とのことです。ヒバに似ているので、そう呼んでいたのでしょう」とのことであった。

(及川和哉「啄木と古里」)

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今もなお耳朶にのこる郭公の声を思いながら、そこに育った幼少年期を追想しているのである。

「ふるさとの」「寺の」「畔の」「ひばの木の」と調子をとりながら第三行で一気に「いただきに来て啼きし閑古鳥!」と詠みすえた手法に注意したい。その調べがそのままに高朗な郭公の声を伝えているおもむきである。

(本林勝夫「『悲しき玩具』鑑賞」)


2016-06-17

[] 「梅」-啄木の歌に登場する花や木についての資料-

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-石川啄木の歌に登場する花や木についての資料-

     ひと晩に咲かせてみむと、

     梅の鉢を火に焙りしが、

     咲かざりしかな。


初出「創作」明治44年2月号

一晩のうちに梅の花をなんとか咲かせてみようと思って、梅の鉢を火にあぶったが、咲かなかったことだ。

(「石川啄木必携」 岩城之徳・編)


バラ科サクラ属の一種。中国中部原産の落葉高木で10m程度。九州北部などが原産との説もある。一般に野梅系、紅梅系、豊後系の三つに分類される。

開花は早春、通常白の5弁であるが、園芸品種は300を越える。6月くらいに実が黄色くなる。 鑑賞用の品種を「花梅」、果実を食用とするための品種を「実梅」という。

梅のもつ多くの有機酸が抗菌作用、整腸作用を促すことから、梅干し・梅酢・梅酒・梅肉エキス等、食用や薬に広い範囲で利用されている。砂糖漬け、のし梅、梅餅などの菓子類もある。

和名は薬用にする「烏梅」、または梅の漢音mei から転訛したものといわれる。古くは「むめ」と呼ばれた。


  • 和歌山県・福岡県 県花
  • 花ことば  高潔 澄んだ心 忠実、忍耐 上品 独立 (白梅)気品  (紅梅)優美

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一読、何のへんてつもない一首。花を咲かせようと、一所懸命に梅の鉢を火にあぶったが駄目だった、と言うだけのことである。しかし、こういうたわいもない行為をその儘歌にしているところに、一種の空しさに似た感味が漂うし、同時にこれしきのことに興味を働かせている作者の心情にある種のはかなさが感じられるであろう。川並秀雄の『啄木の作品と女性』(昭和29.10)に寄せた丸谷喜市の序によると、四十三年末に訪ねたとき、啄木は床の間の鉢を指して一首と同じ内容の事実を語ったという。「僕の今の歌は殆ど全く日記を書く心持で作るのだ」(瀬川深宛、明治44.1.9)と記す啄木の作歌観からすれば、これは当然のことかも知れない。また、四十三年の暮と言えば、長男真一が死亡(10.27)したあとであり、刊行した『一握の砂』の稿料も薬代や葬儀費用にあてられる始末だった。一首から、また歌を通しての作者の姿に、どこか落莫とした感じが漂うのも、そうした生活背景とも無関係ではないだろう。

しかし、この歌をそれだけのものととらず、評論「性急な思想」(明治43.2)あたりと結びつけ、結局「明日を待つ人」とならざるを得なかった啄木、「思想的な混迷の中からそれを冷静に客観しようと意欲する、悲しい省察が詠み込まれて居る様に」とる説がある(宮崎郁雨『函館の砂-啄木と私と-』昭和35.11)。(中略)

今井素子氏は前記『石川啄木集』で宮崎の意見に賛意を表し、梅の花を咲かせようとする行為に「時代を先んじて走ろうとする者のあせり」を、時が来なければ咲かぬ梅に「日本の悲しい現状を暗示」しているとするが、寓意を先立てる解には問題があるように思う。「福寿草の蒼いとほしむ幼な子や夜は囲炉裏の火にあててをり」---これは島木赤彦の作である。

(本林勝夫「『悲しき玩具』鑑賞」)


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『一握の砂』に「目の前の菓子皿」を見て、突然カリカリと噛み砕いてしまいたい衝動を歌にしたが、実際には衝動の段階で踏みとどまっている。(そんなことなどできるわけなどないのだから「衝動」自体がイメージ化された。)しかし、「梅の鉢」を火に焙って、咲かせようとしたことは充分に想像される。実際そのようなことをしなかったにせよ、火鉢の上に尻から火にかざされている「梅の鉢」は目に浮かんでくる。火に焙れば、ひょっとすると花が咲くかもしれないと想像する心の動きも手に取るように見えるし、火に焙る手つきなども見えてくる。「たあひもない行為」(本林勝夫)を楽しんでいる気分がある。こうした気分は本当である。

(上田博『石川啄木歌集全歌鑑賞』)


日常生活の形式等は、出来る丈単純にしているので、今私の心に在るものは、改良したいというより、寧ろ進展したい心持でございます。けれども故石川啄木の歌に

   ひと晩に咲かせてみむと梅の鉢を 火に焙りしが咲かざりしかな

とある心持を深く、切実に感ぜられます。

(宮本百合子「今年改良したき事」〔一九二一年一月〕『宮本百合子全集 第十七巻』)

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この歌から、急くあなたの心が伝わってきます。

「君、僕はどうしても僕の思想が時代より一歩進んでいるという自惚を捨てることができない」と言ったあなたの言葉を、繰り返し聞きながら新年を迎えた私でした。

(山本玲子『拝啓啄木さま』)


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・ローマ字日記………… 漢字と仮名では書けないことをローマ字で
・啄木文学散歩………… 息づかいの聞こえる ゆかりある場所を訪ねて
・啄木行事レポート …… イベントに参加しての私的レポート
・啄木の 女性たち ……… 啄木の人生を彩った「忘れな草」たち
・啄木と花 ……………… 歌に登場する花や木の資料

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