啄木の息 <ブログ版>

─ いまもなお瑞々しく語りかけてくる啄木の魅力を追い その息づかいに触れてみたい ─

     「本家 啄木の息」のリンクは、このページの最下段にあります。

 

2017-10-23

[][]  東京都 浅草 「了源寺」長男の葬儀場、「等光寺」啄木・母・長女・二女の葬儀場

啄木文学散歩・もくじ


(「啄木の息HP 2009年冬」からの再掲)


啄木家族の葬儀場「了源寺」と「等光寺」


  浅草の夜のにぎはひに

  まぎれ入り

  まぎれ出で来しさびしき心

                 啄木


  • 啄木長男・真一の葬儀場「了源寺」と、啄木の母カツ・啄木本人・長女京子・二女房江の葬儀が行われた「等光寺」を訪ねた。どちらも浅草にあり直線にして約600mの距離。浅草寺とも近い。

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浅草寺の山門」


  • 浅草寺山門の風雷神門。この提灯は高さ約4mあり、仲見世側から見ると「風雷神門」と書いてあり、表側は「雷門」の文字になる。

 

〇 了源寺

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「啄木長男・真一の葬儀場了源寺」


  • 浄土宗「了源寺」は、都営大江戸線新御徒町駅に近く、住所は台東区元浅草3丁目。静かな佇まいで、高い建物に囲まれている。 



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「門柱右側に【了源寺】の表札」

 

 ♦【うまれて やがて死にし児】真一

1910年(明治43)

  • 10月4日、啄木24歳 東雲堂と歌集出版契約し原稿料20円のうち10円を受け取る。長男真一、誕生する。
  • 10月9日 東雲堂に歌集名を『一握の砂』とすることを通知。原稿料の残額10円を朝日新聞社にて受け取る。
  • 10月27日 長男真一死去。
  • 10月29日 真一葬儀を浅草の了源寺にて行う。法名は「法夢孩児位」。
  • 12月1日 『一握の砂』(東雲堂)刊行。歌集『一握の砂』は、末尾に長男真一の死への挽歌八首を加え五五一首となった。この歌集の最初の見本組が啄木の手元に届いたのは10月29日、真一の葬儀の夜だった。


啄木日記

明治四十四年 当用日記補遺 ○前年(四十三)中重要記事


十月-----四日午前二時節子大学病院にて男子分娩、真一と名づく。予の長男なり。生れて虚弱、生くること僅かに二十四日にして同月二十七日夜十二時過ぐる数分にして死す。恰も予夜勤に当り、帰り来れば今まさに絶息したるのみの所なりき。医師の注射も効なく、体温暁に残れり。二十九日浅草区永住町了源寺に葬儀を営み、同夜市外町屋火葬場に送りて荼毘に付す。翌三十日同寺新井家の墓域を借りて仮りに納骨す。法名 法夢孩児位。会葬者、並木武雄、丸谷喜市二君及び与謝野寛氏。産後節子の健康可良ならず、服薬年末に及ぶ。またこの月真一の生れたる朝を以て予の歌集『一握の砂』を書肆東雲堂に売り、二十金を得たり。稿料は病児のために費やされたり。而してその見本組を予の閲したるは実に真一の火葬の夜なりき。





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「了源寺境内と墓地の境にある門」   


♦ 真一挽歌八首

  • 生後わずか24日しか生きられずに逝ってしまった我が子を切々と詠う。

  『一握の砂』石川啄木

 

   夜おそく

   つとめ先よりかへり来て

   今死にしてふ児を抱けるかな


   二三こゑ

   いまはのきはに微かにも泣きしといふに

   なみだ誘はる


   真白なる大根の根の肥ゆる頃

   うまれて

   やがて死にし児のあり

 

   おそ秋の空気を

   三尺四方ばかり

   吸ひてわが児の死にゆきしかな


   死にし児の

   胸に注射の針を刺す

   医者の手もとにあつまる心


   底知れぬ謎に対ひてあるごとし

   死児のひたひに

   またも手をやる


   かなしみの強くいたらぬ

   さびしさよ

   わが児のからだ冷えてゆけども

 

   かなしくも

   夜明くるまでは残りゐぬ

   息きれし児の肌のぬくもり

 

    ー (をはり) ー




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「新井家之墓」

  • 真一が荼毘に付された後
仮に納骨された新井家の墓。
  • 新井家は、啄木が1909年(明治42年)6月〜1911年 8月まで家族とともに住んだ、本郷区弓町の床屋さん「喜之床」である。現在も「理容アライ」という名前で営業している。


〇 等光寺

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「小路の角にある等光寺」

  • 右隅カーブミラー脇の塀裏側に啄木歌碑がある


♦ 土岐善麿と等光寺

  • 土岐善麿(号・哀果)は西浅草一丁目(旧松清町)、真言宗大谷派の等光寺が生家である。父善静、母観世の二男として生まれる。兄土岐月章は啄木葬儀時の導師を努める。
  • 等光寺では、啄木の母カツ(1912年没)、啄木本人(1912年没)、長女京子(1930年没)、二女房江(1930年没)の葬儀が土岐の好意により行われている。
  • また、土岐善麿の告別式も(1980年没)行われている。



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「等光寺の正面」

  • 門柱右には「等光寺」と書かれ
左は「土岐」という表札がある。

♦ 土岐善麿と啄木

  • 土岐善麿は1885年(明治18)浅草に生まれる。1886年生まれの啄木とは1歳違い。早稲田大学英文科卒業。読売新聞に勤務しているときに啄木と知り合う。
  • 土岐は1910年(明治43) 4月にローマ字3行書きの歌集 『NAKIWARAI』 を出版した。啄木は東京朝日新聞「歌のいろいろ」で土岐の歌を取りあげた。

土岐哀果君が十一月の「創作」に發表した三十何首の歌は、この人がこれまで人の褒貶を度外に置いて一人で開拓して來た新しい畑に、漸く樂しい秋の近づいて來てゐることを思はせるものであつた。その中に、

燒あとの煉瓦の上に
syoben をすればしみじみ
秋の氣がする

といふ一首があつた。好い歌だと私は思つた。

(東京朝日新聞」「歌のいろいろ」1910年12月)   


1911年(明治44)

  • 1月12日、東京朝日新聞の記者名倉聞一の紹介で土岐哀果との会見を電話にて約束。
  • 1月13日 読売新聞社から自宅に伴った土岐哀果と雑誌『樹木と果実』の創刊を協議し、許される条件の中での、青年に対する啓蒙を決意する。誌名『樹木と果実』は、「啄木」「哀果」から取ったものである。
  • 2月23日 土岐哀果から、クロポトキン自伝『一革命家の思い出』第二巻を借用し、熱心に読んだ。

1912年(明治45)

  • 2月18日 土岐哀果の歌集『黄昏に』(東雲堂)刊行。「この小著をとって、友、石川啄木の卓上におく」と記された
  • 3月7日 母カツ肺結核で死去。享年65歳1カ月。
  • 3月9日 浅草等光寺にて母カツの葬儀(法名は恵光妙雲大姉)。葬儀は土岐哀果の厚意によるものである。
  • 4月9日 土岐哀果の尽力で、東雲堂書店と第二歌集の出版契約し、原稿料20円を受け取る。





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「歌とレリーフと案内板」

  • 境内では啄木生誕70周年の1955年(昭和30)10月27日、金田一京助氏らが集まって歌碑除幕式が行われた。
  • 門を入ってすぐ右手に縦1メートル、横1.5メートル余りの黒みかげ石の碑があり、歌集『一握の砂』にある「浅草の夜のにぎはひに まぎれ入り まぎれ出で来しさびしき心」の一首と、左上に胸像が刻まれている。碑の右に台東区教育委員会による案内板がある。




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「案内板」

石川啄木歌碑

台東区西浅草一丁目六番一号 等光寺

 石川啄木は明治十九年(一八八六)岩手県に生まれる。はじめ明星派の詩人として活躍した。しかし曹洞宗の僧侶であった父が失職したため一家扶養の責任を負い、郷里の代用教員や北海道の新聞記者を勤め、各地を転々とした。

 明治四十一年(一九〇八)、文学者として身を立てるため上京して創作生活に入り、明治四十二年からは東京朝日新聞の校正係となった。小説や短歌の創作に励み、明治四十三年十二月には処女歌集「一握の砂」を出版する。生活の現実に根ざし口語をまじえた短歌は歌壇に新風を吹き込んだ。

 しかし苦しい生活の中で肺結核を患い明治四十五年(一九一二年)四月十三日に小石川区久堅町の借家で死去した(二十七才)。親友の土岐善麿(歌人・国学者)の生家であった縁で、葬儀は等光寺でおこなわれ、啄木一周忌追悼会も当寺でおこなわれた。墓は函館市立待岬にある。

 この歌碑は、啄木生誕七十年にあたる昭和三十年に建てられた。「一握の砂」から次の句が記される。

   浅草の夜のにぎはひにまぎれ入りまぎれ出で来しさびしき心

  平成十五年三月

             台東区教育委員会



 

 




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浅草の夜のにぎはひに
まぎれ入り
まぎれ出で来しさびしき心





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「ブロンズの啄木像」

♦ 啄木の葬儀と土岐の辞世

1912年(明治45)

  • 4月13日 啄木早朝より危篤。午前9時30分、死去。(死因は、肺結核であると言われて来たが、結核ではあるにしろ、肺結核であったかについては疑問も提出されている。)最後をみとった者は、妻節子(妊娠8カ月)の他、父一禎と友人の若山牧水とであった。享年26歳1カ月余。
  • 4月15日 佐藤北江、金田一京助若山牧水、土岐哀果らの奔走で葬儀の準備を進め、午前10時より哀果の縁りの寺である等光寺で葬儀。会葬者約50名。導師は哀果の兄の土岐月章であった。法名は、啄木居士。
  • 6月20日 第二歌集『悲しき玩具』(東雲堂)刊行。なお、書名は、「歌は私の悲しき玩具である。」〔「歌のいろいろ」、『東京朝日新聞』1910年(明治43年12月10日-20日)末文〕に基づいた土岐哀果による命名であった。

 

土岐は啄木を「きざなやつだ」と思っていた。後に親友となり啄木のことをこう詠った。

   石川はえらかったな、と/おちつけば、/しみじみと思ふなり、今も。

 

土岐葬儀のとき「会葬御礼」の色紙に記された歌

   わがために一基の碑をも建つるなかれ

   歌は集中にあり 人は地上にあり



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「一念」とのみ刻まれた石柱

土岐は1980年(昭和55)4月15日に下目黒の自宅で心不全により死去。満94歳。土岐の墓は、啄木歌碑を過ぎ本堂わきの小路を辿り裏墓地に入ったところにある。「一念」とのみ刻まれた石柱がそれである。

啄木の一つ年上だった土岐は長寿を全うした。「もし」は許されないが、啄木も長寿であったなら1980年代くらいまで生きることができたかも………。

 土岐という友人のおかげで啄木はたくさんの幸せを得たと思う。

  

-

主要参考文献


石川啄木事典」国際啄木学会編/おうふう/2001


石川啄木全集」筑摩書房/1983


「啄木文学碑紀行」浅沼秀政 株式会社白ゆり 1996



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仲見世の《にぎはひ》」



2017-06-12

[][] 石川啄木歌碑と厄除け大師と佐野の味

啄木文学散歩・もくじ


(「啄木の息HP 2010年初春」からの再掲)

佐野駅周辺

年末年始によく耳にする「初詣・関東三大師」として有名な佐野厄よけ大師は、春日岡山惣宗寺(そうしゅうじ)といい、JR 両毛線佐野駅」・東武佐野線佐野市駅」より徒歩10分足らずで着く。

「佐野プレミアム・アウトレット」と「佐野厄よけ大師」と「佐野ラーメン」を3点セットにしたバスツアーも人気のようだ。

  



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佐野駅前の『佐野市全域案内』図」

厄よけ大師(佐野厄よけ大師 = 春日岡山惣宗寺)は現在地(赤字・JR佐野駅)からみて南西方向、佐野短大は南東、短大の東側に三毳(みかも)山。駅の北西には田中正造旧宅なども案内されている。「佐野プレミアム・アウトレット」は、佐野短大の南方向にあり地図から外れたすぐの所。

2007年に佐野新都市バスターミナルができて、新宿駅や東京駅と佐野を結ぶ高速バスの利用者も多いという。





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「関東の三大師」

参道には名物まんじゅうの屋台

 




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田中正造墓所の石塔」  

右は初詣の行列。 

   



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田中正造翁の墓の案内」

 




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「正造の墓と啄木歌碑」

正造の墓石は高くそびえ「嗚呼慈侠 田中翁之墓」と刻まれている。左側が石川啄木の歌碑である。

 




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夕川に葦は枯れたり

    血にまどふ民の叫びの

     など悲しきや

           石川啄木 

 

 



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「碑陰」

 

啄木歌碑を建立したのは同寺(佐野厄よけ大師 = 春日岡山惣宗寺)住職の旭岡聖順氏。旭岡氏は昭和27年から48年まで、県立佐野高等学校で教鞭を執っていた。そこで、同校の生徒たちが啄木の歌を通していっそう田中正造の研究を深め、かつ社会奉仕の精神を継承していってほしいとの願いを込めて、この碑を建立したという。(「啄木文学碑紀行」浅沼秀政 株式会社白ゆり出版)

 

  

 


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「カラフルな おみくじ」

おみくじの引き方「目をとじて住所・名前・生年月日・願い事を唱えながら」引く。

 




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「佐野の味」

佐野大師の御利益最中。

 



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「青竹を使った製麺方法」

青竹に足をかけ足の重みで麺を伸ばしては折りたたむ。

 




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「佐野・下野の国ら〜めんの郷」     

青竹手打ち麺と澄んだスープ。




2017-06-09

[][] 佐野厄除け大師と啄木の歌 <3(おわり)>

啄木文学散歩・もくじ


3 「とちぎの百様 大図鑑」田中正造


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石川啄木歌碑の裏

  為竣徳院殿義巌徹玄大居士

  七十四回忌菩提也

    春日岡山惣宗寺住職旭岡聖順建之


    奇しくも石川啄木生誕百年を記念して

          昭和六十一年九月四日









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佐野ラーメン・透き通った醤油スープ







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絵馬・おみくじ







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田中正造の肖像写真と豆知識


◦ 百のなるほど 百のじまん

「とちぎの百様 大図鑑」(ひゃくさま)

   栃木県民が大切にしたい自慢できる100の魅力


◯ なるほど豆知識

  • 直訴状は、明治時代のジャーナリスト・思想家の幸徳秋水が執筆し、正造が加筆修正して実印を押したものと伝えられる。
  • 直訴の報を聞いた盛岡中学(現・県立盛岡第一高校)の学生、石川啄木(明治時代に活躍した歌人)は、「夕川に葦は枯れたり血にまどふ民の叫びのなど悲しきや」と詠んだと伝えられる。

(「とちぎの百様 大図鑑」 平成28年発行 発行者 栃木県)




(おわり)



2017-06-07

[][] 佐野厄除け大師と啄木の歌 <2>

啄木文学散歩・もくじ


2 「田中正造翁之墓」と「啄木歌碑」


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「嗚呼慈侠 田中翁之墓」と「啄木歌碑」


  夕川に葦は枯れたり

    血にまとう民の叫びの

      など悲しきや

             石川啄木 

 碑文

  近代日本の先駆者田中正造翁は 明

  治三十四年十二月十日第十五議会開

  院式から帰る途中の明治天皇に足尾

  銅山鉱毒被害による渡良瀬沿岸農民

  の窮状を直訴する  当時盛岡中学

  四年在学中の啄木はこの感動を三十

  一文字に托した 奇しくもこの年 

  創立された県立佐野中学校(第四中学)

  の生徒達にも鉱毒の惨状は強い衝撃

  を与え作文その他に残されている






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  「夕川に葦は枯れたり血にまどふ民の叫びのなど悲しきや」 (鉱毒)

                

                      (白羊会詠草)

  • (注:歌碑には「血に『まとう』」とあり、「佐野厄除け大師 平成29年」のしおりにも同じく書かれている。「石川啄木全集 第一巻」(筑摩書房/1978)には、「血に『まどふ』」となっている)

『啄木の歌 その生と死』碓田のぼる

  • この歌は、現代の公害の元祖ともいえる、足尾銅山の鉱毒について歌ったものである。
  • 栃木県選出の代議士田中正造は、明治34年12月10日、61歳の老躯をなげ出して天皇への直訴をおこなった。幸徳秋水の筆になる直訴状を右手に、天皇の行列にたち向っていったのである。
  • 啄木伝記によれば、明治35年1月29日、中学四年生であった啄木は、友人たちと、青森歩兵第五連隊第二大隊の兵士290名が、八甲田山の雪中行軍でついに遭難した事件(1月25日)を報じた『岩手日報』の号外を売って、その利益を足尾鉱山の鉱毒に泣く災害民に義捐金として贈っている。
  • 啄木が足尾の救援カンパ運動──いまようにいうならば──にとりくんだのは、田中正造の直訴事件が大きな衝撃としてあったからであろう。啄木の鉱毒の歌の作歌日時はまったく不明であるが、私がひそかにもっている仮説は、直訴事件以降翌年1月はじめにかけての頃であったろうということである。
  • ところで、この歌の「血にまどふ」という第三句は、前後の脈絡をはなれて唐突である。それが一首の感動の収斂をさまたげている。しかし内容としては、明治33年2月の、権力による流血の弾圧事件をおさえているであろうことは想像に難くない。
  • 「葦は枯れたり」とは、まさに鉱毒によってひきおこされた事態の形象であるが、直訴状の中の「黄茅白葦」という、茅も葦も、異常に変色した姿と対応していよう。片山潜の編集していた『労働世界』も「熱誠なる田中正造翁は遂に直訴を為したり、吾人は翁の心事に無限の同情を表する者なり」(明治34年12月21日。第百号)と記して、鉱毒事件への深い関心を示している。
  • 以上のことを一応おさえて、啄木の「夕川に」の一首をよむと、あらためて啄木の悲憤の息づかいを感ずる。

  『啄木の歌 その生と死』碓田のぼる 洋々社 昭和55年


(つづく)



2017-06-02

[][] 佐野厄除け大師と啄木の歌 <1>

啄木文学散歩・もくじ


1 佐野厄除け大師



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本堂と庭


佐野厄除け大師は、惣宗寺(そうしゅうじ) という天台宗の寺。

厄除け祈願と、身体安全・家内安全・心願成就・交通安全・合格祈願・良縁成就・子授成就などの祈願も受け付けている。


この季節、庭のツツジが鮮やか。


佐野ブランドキャラクター「さのまる」くんが、ラーメンどんぶりの笠をかぶり腰には名物のいもフライ剣をさして迎えてくれる。







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田中正造翁墓所の石柱など


右側の道が本堂へ続いている。


田中正造翁の墓」案内板、「千年の鋳物の歴史 我が佐野市」の看板などが立っている。



田中正造翁の墓」

田中正造翁(1841〜1913)は佐野市小中町に生まれ、
この惣宗寺を本拠地として政治の道に進み、栃木県会議長を経て帝国議会代議士となり憲政史上に不朽の名を留め、全生涯を正義の旗手として人権の尊重と自然保護のために捧げました。翁の没後、当寺院で本葬が執行され、遺骨はゆかりの地五か所に分骨埋葬されました。




  • 佐野厄除け大師  春日岡山 惣宗寺(そうしゅうじ)


(つづく)



2017-05-28

[][] 石川啄木と足尾鉱毒事件の田中正造

啄木文学散歩・もくじ


(「啄木の息HP 2009年初春」からの再掲)

栃木県佐野市 石川啄木と足尾鉱毒事件の田中正造


足尾銅山の鉱毒問題に生涯をかけた田中正造の足跡を訪ね、正造の墓と石川啄木の歌碑のある「佐野厄除け大師」に初詣した。


1 佐野市郷土博物館 田中正造ゆかりの博物館

  

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佐野市郷土博物館の門前」

写真左手の白い柱の間が正門。柱と柱の間に小さく田中正造の銅像が見える。

館内は佐野市を中心とする地域の原始時代から現代への考古・歴史・民俗等に関する資料が展示されている。

 



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田中正造の銅像」

等身大と思われる。製作者は本郷寛氏。

田中正造展示室は足尾鉱毒事件の解決に一生を捧げた、田中正造の資料を展示。

◯ 直訴状

1901年(明治34)12月10日、正造61歳(満年齢では60歳)。正造の考えを元に幸徳秋水が起草し、さらに正造が加筆訂正した謹奏文(直訴状)が展示されている。

直訴状を現代語にすると「足尾銅山の鉱毒被害を解決するためには、渡良瀬川の水源を清め、流路を自然に戻し、被害地の毒土を除去し、沿岸の天産と衰弱した町村を回復させ、銅山の操業停止が急務」と訴えている。(下野新聞 田中正造物語-24)


◯ 直訴当日のこと

その日は朝から晴れていたという。第十六回議会開院式を終えて皇居に帰る天皇の馬車は、前後に百人を超える警護隊を従えて貴族院(現経済産業省別館)を出た。道路両側は群衆で埋まっている。馬車はスピードを緩めながら交差点を左折した。その時、衆議院議長官舎(現中央合同庁舎第五号館別館)前から人込みをかき分けて駆け出す男がいた。正造だった。

「お願いでござります、お願いでござります」

外とう、帽子、襟巻きを脱ぎ捨て、右手は「謹奏」と書いた直訴状を掲げている。だが馬車の手前で足がもつれひざをついた。道路沿いで警護していた警官二人がとっさに手を掛け、正造はあおむけに倒された。近衛騎兵がやりで突き刺そうと近づいたが、馬が暴れて振り落とされた。この間に正造は取り押さえられていた。天皇の乗った馬車は何事もなかったかのように走り去っていた。(下野新聞 田中正造物語-22)

 



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「正造の遺品 信玄袋と小石3個」(佐野市郷土博物館パンフレット)

他の展示品は、正造日記、手紙、蓑、笠、紋付き、信玄袋と小石三個など。正造は石の収集が趣味だったという。三つのうちの一つは化石のように見えた。





2 田中正造 生家と墓所

 

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田中正造 邸宅」

道路に面し、西に表門を配して立つ二階屋は、正造の両親の隠居所だった。  


◯ 若き正造

正造は安蘇郡小中村(現栃木県佐野市小中町)の名主富蔵の家に生まれた。17歳(満年齢では15〜16歳)で父の後を継ぎ名主となる。

23歳(満年齢では21〜22歳)の時、石塚村の大沢カツ(満年齢では13〜14歳)と結婚した。この結婚については、「裁縫の習い事から帰るカツを待ち伏せた正造が、彼女を草刈りかごに入れ背負って家まで連れてきてしまった」というほほえましいエピソードが残っている。(下野新聞 田中正造物語-4)

 

 



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「横道から見る隠居所」 

◯ 正造邸 その後

政治活動に没頭して不在がちだった正造は、この家に医師を迎え入れて村の診療所として役立てた。隠居所には正造の父と妻カツが住み、母屋には医師が住んでいた。

正造は亡くなる前、故郷のために、宅地と田畑の全財産を村に寄附した。この邸は佐野市の公民館第一号として、有効に使われた。

  



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田中正造翁の墓の説明板」

生家の直ぐ前に道路があり、それを挟んで墓所がある。

  



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正造の六分骨の1つが、ここに葬られている。

 



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「墓石」

屋根の下の石碑には「義人 田中正造君碑」とある。写真にはよく写っていないが、下方に正造の立て膝をした姿が彫ってある。

 



3 渡良瀬遊水地と旧谷中村

 

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「谷中湖の案内板」

渡良瀬遊水地は、栃木・群馬・埼玉・茨城にかけて広がる大遊水地。「谷中湖」は遊水池内の貯水池の一つの通称。地図で見るとハート型をしている。

 



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「枯れたヨシを映す水」

◯ 谷中村と正造のたたかい

この遊水地の場所に「谷中村」と呼ばれる村があった。

谷中村は、明治中頃、2,700人が住む農村だった。全く肥料を必要としない程の豊かな田をもっていた。

足尾銅山鉱毒問題が起きてから、鉱毒水を沈殿させるための遊水池設置計画が進み、その場所に谷中村が選ばれた。村民は反対したが、政府は買収を進めた。

田中正造は衆議院議員として1891年(明治24)、帝国議会で初めて鉱毒を取り上げ「足尾銅山鉱毒加害の儀に付質問書」を出した。以後亡くなるまでの22年間にわたって政府や銅山の責任を追及した。

1901年(明治34)12月、正造は、衆議院議員の職を辞して、明治天皇に足尾鉱毒事件の解決を求める直訴を試みた。

 



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「遺跡 谷中村の説明板」

現在、「谷中村遺跡を守る会」が、遺跡の保存と村民と正造の闘いの精神を残す活動をしている。

取り壊されてしまった屋敷跡、雷電神社跡、延命院墓地跡、役場跡などが丈高いヨシの間に点々とあり凄まじい光景である。

 



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「大野孫衛門屋敷跡」

人気のないヨシの道を歩いていくと次々に遺跡が現れる。

 



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「渡良瀬遊水池の今」

渡良瀬遊水池では毎年3月末ころに「ヨシ焼き」を行い、害虫駆除や樹木の種等を焼いて樹林化を防ぎ、良いヨシを作っているそうだ。藤岡町建設課のおしらせによれば、今年、2009年は、3月21日(土)08:30から実施する予定。

丈高いヨシのほかにスゲもある。かつての谷中村ではスゲの笠が収入源だったとのこと。佐野市郷土博物館にも正造が使ったスゲ笠があった。

 




4 佐野厄除け大師 = 春日岡山惣宗寺

 

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「佐野厄除け大師山門」

厄除け大師は春日岡山惣宗寺(そうしゅうじ)といい関東三大師として有名である。

 



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「山門をくぐって」

門を入り左に進むと、正造の墓が見えてくる。写真では左の大きな二本の木の間の高い石が正造の墓である。その前の四角の石碑に啄木の歌が彫られている。

 




5 石川啄木田中正造

 

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「こんな近くに啄木と正造」

正造の墓石には渡良瀬川流域産の石を使い、「嗚呼慈侠 田中翁之墓」と彫られている。毎年9月4日命日に法要が行われる。

 




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石川啄木歌碑」

(注:歌碑には「血にま『と』う」とあり、春日岡山縁起にも同じく書かれている。「石川啄木全集 第一巻」(筑摩書房/1978)には、「血にま『ど』ふ」となっている)


直訴は、正造がつまづき警官に取り押さえられたことで終わってしまった。しかし、鉱毒被害への支援は、直訴以降さらに活発となった。その一つが、啄木たちの活動であった。


◯ 年譜より

1902年(明治35)1月29日、岩手県立盛岡中学校4年、15歳の啄木は、友人の伊東圭一郎や小野弘吉、阿部修一郎らユニオン会有志と「岩手日報」号外(青森歩兵第五連隊第二大隊八甲田山雪中行軍遭難事件)を売って義援金を募り、足尾鉱毒地の被災者に送っている。(「石川啄木事典」国際啄木学会編/おうふう/2001、「石川啄木伝」岩城之徳/筑摩書房/1985)


◯ 「人間啄木」より

 号外売って足尾へ義金

われわれユニオン会員が号外を売って、足尾鉱毒被災地へ義援金を送ったことも、中学時代の思い出のひとつである。

新聞で鉱毒問題を知り、小野、阿部、啄木、伊東その他二、三人集まって、「われわれも、なにかひとつやろうじゃないか」といっていたところへ、誰だったか駆け込んできて「岩手日報社で、今号外を出すところだ」と知らしてくれた。それが八甲田山遭難事件の号外だった。

小野さんが日報社の新聞配達をしていたので直ぐ話がつき、号外を抱えて町へ飛び出した。「号外、号外、号外は一銭」とやってみた。凍死者はほとんど岩手県出身者で、その氏名が次々に続いて発表されるので、二晩か三晩、号外を売ったような気がする。二十円たらずの金を、内丸のキリスト教会へ寄託したように記憶している。

啄木はその当時すでに、社会運動に関心を持っていたように書いている本もあるけども、そのころの啄木は、両親に可愛がられ、まだ貧乏の味も知らない恵まれた文学青年で、軍人熱はさめていたが、まだ、鉱毒問題に熱を上げるほどではなかった。この時の主唱者は小野と伊東であったように思う。

(「人間啄木」伊東圭一郎/岩手日報社/1996)

  




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「啄木歌碑の裏」

碑陰には、「奇しくも石川啄木生誕百年を記念して  昭和六十一年九月四日」とあった。

 



 

6 正造の家族・正造の最後・遺骨

◯ 正造の家族

カツ夫人は「結婚して五十年になりますが、一緒にいた日数はやっと三年くらいのものでしょう」(柴田三郎著「義人田中正造翁」=1914年)と語る。(下野新聞 田中正造物語-35)

父はこんな狂歌を息子に贈った。「死んでから仏になるはいらぬこと、生きているうちよき人となれ」。(下野新聞 田中正造物語-8)

正造とカツの間に子はなかった。


◯ 正造の最後と葬儀

正造は同志らに金を借り続けた。正造の口車に乗せられて金を貸したが返してもらえない。家族は食うものもない。親せきなどから借りてまで貸したのに返済がない、と周囲の人たちの声が残っている。(下野新聞 田中正造物語-29)

請願行動をはじめ、仮小屋建設など金のかかる運動を続ける正造に、返すあてはなかったろう。

1907年(明治40)、政府は土地収用法の適用認定を公告し抵抗していた16戸を破壊した。それでも谷中に仮小屋を立てた村民と正造は、抵抗を続けた。一方、谷中村民の集団移住も始まった。

正造は1913年(大正2)病に倒れ、9月4日死去した。死因は胃ガン。享年71歳10ヵ月。

同年10月12日に正造の葬儀が佐野厄除け大師( 春日岡山惣宗寺)で行われた。渡良瀬川両岸被害地はもちろん全国各地より人々が参集した。町中心部を長い葬列が進み、沿道は別れを惜しむ数万の群衆で埋まったという。

 



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「田中霊祠の説明板」

佐野市中心から渡良瀬遊水池に向かう途中に「田中霊祠」がある。この霊祠には、正造の分骨と妻カツ子を祀ってある。





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「田中霊祠御堂」

 

正造の遺骨は六カ所に

正造の遺骨は葬儀後の協議を経て、生前ゆかりのあった次の5カ所に分骨され墓が建てられた。佐野市小中町の阿弥陀堂境内、同市金井上町の惣宗寺境内、藤岡町の田中霊祠、群馬県館林市の雲竜寺境内、埼玉県北川辺町の西小学校敷地内。その後1989年に足利市野田町の寿徳寺に埋葬されていることが判明し、分骨地は計6カ所となった。(下野新聞 田中正造物語-34)




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夕川に葦は枯れたり血にまどう民の叫びのなど悲しきや

石川啄木     


(2009年初春)

  

* 「啄木と足尾鉱毒と水俣病」

    田中正造の直訴状を歌に詠む  近藤典彦

 

   夕川に葦は枯れたり血にまどふ民の叫びのなど悲しきや

 

石川啄木は1886年生まれだから、今年は生誕百二十周年である。

本紙4月30日付三面に「水俣病 公式確認五十年」の記事が載った。見出しに「国、一度も全容調べず」「多くの被害者を放置」「全員救済は政治の責務」とある。見出しはすぐに足尾鉱毒事件を連想させ、筆者の胸に啄木短歌一首を浮かびあがらせた。

啄木は盛岡中学四年生の1月に足尾鉱山鉱毒事件を歌に詠んだ。それも彼一人で詠んだのではなく、かれが主宰していた盛岡中学校内の短歌グループ・白羊会で彼自身が「鉱毒」という題を出し、みんなで詠んだのである。メンバーは十人前後であるらしいから、少なくとも十首以上が詠まれたであろう。鉱毒事件をもっとも早い時期に何人もでたくさんの短歌にしたということになる。

  • 盛岡中学の回覧雑誌に

今は所在不明だが「白羊会詠草」という回覧雑誌があった。1902年(明治35)1月に啄木らが出したものである。歌の題はいろいろである。摘菜、行春、古城、藤花、虹、月といった題である。それら風雅な題の中にあって「鉱毒」という題は異様である。つぎの啄木の歌のみが残っていて知られている。

  夕川に葦は枯れたり血にまどふ民の叫びのなど悲しきや

 わたくしは長い間この歌を評価していなかった。

  • 私の評価が180度の転換 

湘南啄木文庫の佐藤勝氏に教わりたいことがあって電話した。そのとき「この歌はつまらないですね」と言ったところ、氏は「民の叫びが届かない、と言いたいのではありませんか」と言われた。一瞬で目から鱗が落ちた。この歌について調べた。その結果わたくしの中でこの歌の評価は180度転換した。

1901年(明治34)12月10日、田中正造は明治天皇の馬車に近づき、足尾鉱毒問題を直訴しようとして捕まった。当時啄木が読んでいた新聞は岩手日報一紙だったと思われるが、翌日事件を報道した。14日には直訴状の全文を載せた。この作品は直訴状の内容を歌にしたものだったのである。


◯ 正造直訴の3つの核心

 直訴状の内容は三つの核心からなる。

1 足尾銅山における採鉱製銅による鉱毒が渡良瀬川流域とそこの人民を襲い「二十年前の肥田沃土は今や化して黄茅白葦満目惨憺の荒野」となってしまった。

2 流域人民の途方もない苦しみがますますひどくなるのは、政府も地方官庁も被害者を放置しているばかりか抗議するのを弾圧までしているからだ。

3 天皇の力でこれを救済してほしい。

碓田のぼる氏はかつて、啄木歌の「夕川に葦は枯れたり」は直訴状の「黄茅白葦」をイメージした句ではないか、と言われた(『新日本歌人』99年4月号)。卓見である。「枯れて黄ばんだ茅と白っぽくなった葦が見渡すかぎり広がる」渡良瀬川流域を啄木は上の二句でうたおうとしたのだ。「血にまどふ」は「血まよふ」の意味ではなかった。啄木は「血に」の二文字で悲惨さを表現しようとしたのである。


  • 田中・幸徳・啄木を繋ぐ

知られるとおりこの直訴状は田中正造が骨子を示し、幸徳秋水が書いたものであった。田中・幸徳・啄木がここでつながったのである。直訴状の三大内容は、冒頭にあげた「水俣病」記事の三つの見出しに通じている。啄木短歌・足尾鉱毒事件・水俣病もまたつながっていたのである。

(2006-05-26 しんぶん赤旗)

 


2017-04-08

[][] 132日間の函館生活と石川啄木一族の墓 <7 (おわり)>

啄木文学散歩・もくじ


7 「僕の心は凾館の空に彷徨ふ」


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「市電「谷地頭駅」終点」

 

「なみだは重きものにしあるかな─啄木と郁雨─」遊座昭吾 編


宮崎郁雨「歌集『一握の砂』を讀む」

                明治四十四年一月十七日(火曜日)

  (二四)

  • 僕が啄木と初めて會つたのは四十年の五月五日であつた。
  • 其時の啄木は才気の塊であつた。今でも世の中から一歩でも後れる事を不快がつてゐる否一歩でも世の中から進んで居るでなければ氣の濟まぬ男である。そして實際また進んだ頭脳を持つてゐる。
  • 僕は多大の興味を持つて著者の北海回顧の歌即ち『忘れがたき人人』の章を讀むだのである。

  『潮かをる北の濱邊の

   砂山のかの濱薔薇よ

   今年も咲けるや』

  『凾館の床屋の弟子を

   おもひ出でぬ

   耳剃らせるがこころよかりし』

  • 啄木には函館が何とも云はれぬ懐かしい心のひかれる土地であると云ふ事は此等の歌でよく窺ふ事が出来る。啄木がつひ此頃寄した手紙に斯う云ふ事が書いてある。『凾館は如何なる意味に於ても我が第二の故郷である。僕は北海道を殆んど一周した。然し凾館程なつかしい思出のある土地はない。凾館の人ほど僕に懐かしく思はれる人がない。僕は東京に住むでゐる。然し僕の心は時々凾館の空に彷徨ふのである。僕は凾館で死にたいと思ふ』と云ふ事だ。北海回顧の歌は決して其當時の心を歌つたものではなく著者現在の心を現はしたものである事はこの手紙でも解るのである。著者は『我を愛する歌』で沈痛な深刻な心の叫びを我々に示したが其心を其儘なつかしき北海の地、忘れ難き人々の上に移したのである。『今年も咲けるや』の一句。譬へ様なき著者の温かき心を遺憾なく現はしてゐる。僕はこの様な優れた熱心な歌が北海回顧の歌の首(はじめ)に置かれた事を著者に深く謝するものである。

『なみだは重きものにしあるかな─啄木と郁雨─』遊座昭吾 編 桜出版 2010年

  宮崎郁雨「歌集『一握の砂』を讀む」

  石川啄木「郁雨に與ふ」







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「啄木像 考える人 半跏思惟像」



「郁雨に與ふ」在大學病院 石川啄木

             明治四十四年三月七日(火曜日)

(終)

郁雨君足下。

俄に來た熱が予の體内の元氣を燃した。醫者は一切の自由を取りあげた。「寝て居て動くな」「新聞を讀んぢあいけない」と言ふ。もう彼是一周間になるが、まだ熱が下らない。かくて予のこの手紙は不意にしまひにならねばならなかつた。

彼は馬鹿である。彼は平生多くの人と多くの事物とを輕蔑して居た。同時に自分自身をも少しも尊重しなかつた。顧てその病氣をもあまり大事にしなかつた。さうして俄に熱が出たあとで、彼は初めて病氣を尊重する心を起した。馬鹿ではないか。

丸谷君が來てくれて、筆をとつてやるから言へ、と言ふのでちよつとこれ丈け熱臭い口からしやべつた。         (三月二日朝)。


『なみだは重きものにしあるかな─啄木と郁雨─』遊座昭吾 編 桜出版 2010年

  宮崎郁雨「歌集『一握の砂』を讀む」

  石川啄木「郁雨に與ふ」






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「函館空港 制限エリア通路の石川啄木



(おわり)



2017-04-07

[][] 132日間の函館生活と石川啄木一族の墓 <6>

啄木文学散歩・もくじ


6 「石川啄木一族の墓」


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「“石川啄木一族の墓”を示す木柱」


車は冬期通行止めになっているが、徒歩は大丈夫。

この先に駐車場があるが一台も車はなかった。

施設整備や除雪用の車だけが通っていた。






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石川啄木一族の墓の説明」

石川啄木一族の墓

明治の歌壇を飾った石川啄木と函館の縁は深い。啄木が函館に住んだのは明治40(1907)年5月から9月までの短い期間であったが、この間の生活は昔蓿社(ぼくしゅくしゃ 文芸結社)同人らの温かい友情に支えられながら、離散していた家族を呼び寄せ、明るく楽しいものであった。「死ぬときは函館で……」と言わせたほど函館の人と風物をこよなく愛した啄木であったが、明治45年4月病魔におかされ27歳の生涯を東京で閉じた。大正2(1913)年3月啄木の遺骨は節子未亡人の希望で函館に移されたが、彼女もまた同年5月彼の後を追うかのようにこの世を去った。
大正15年8月、義弟にあたる歌人宮崎郁雨や、後の函館図書館長岡田健蔵の手で現在地に墓碑が建てられ、啄木と妻をはじめ3人の愛児や両親などが、津軽海峡の潮騒を聞きながら永遠の眠りについている。

                             函館市








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「海が見える」

「汗に濡れつつ」石川啄木

海と云ふと、矢張第一に思出されるのは大森浜である。然し予の心に描き出されるのは、遠く霞める津軽の山でもなく、近く蟠まる立待岬でもなく、水天の際に消え入らむとする潮首の岬でもない。唯ムクムクと高まつて寄せて来る浪である。寄せて来て惜気もなく、砕けて見せる真白の潮吹である。砕けて退いた後の、濡れたる砂から吹出て、荒々しい北国の空気に漂ふ強い海の香ひである。

石川啄木 原稿断片「汗に濡れつつ」『石川啄木全集』第4巻 筑摩書房 1985年)







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「階段を上る」


先にお参りした方の足跡をたどり階段を上る。

上がって右が啄木一族のお墓になる。








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「碑文」


啄木一族墓

       啄木

   東海の

    小島の磯の

      白砂に

   われ泣きぬれて

     蟹とたはむる



『啄木の函館』竹原三哉

  • 「啄木一族墓」、この命名と墨書は郁雨に依る。
  • 墓はなにかと変化している。郁雨によれば、石柵の鉄棒は戦時中に盗まれ、花立ての一つが凍結破損し、もう一つはいつの間にか消えていた。
  • この墓には現在、九名のお骨が納められている。啄木、節子、京子、真一、房江、カツ、一禎、正雄(分骨)、玲児(分骨)である。玲児とは京子・正雄夫妻の息子で、平成10年に没している。啄木・節子夫妻からは孫となる。

(『啄木の函館』竹原三哉著 2012年発行)



石川啄木「東海の小島」歌について  神谷忠孝

  「蟹」の意味

  • 宮崎郁雨は、大正2年、函館に啄木一族の墓を建立したとき墓碑銘に東海歌を選んだ理由を後年になって『函館の砂』(東峰書院、1960)の中で次のように書いている。
    • 「蟹」は、尻沢辺の磯の岩蟹でもなければ、大森浜の渚辺の穴に住むへら蟹でもなく、それは彼が泣きながら真剣に取組んでゐる彼の個性であり、自我であり、文学であり、思想であり、哲学であった。その「蟹」は然し本物の蟹と等しく、彼の人生行路ではひねもす横這いし続けて居た。その蟹は時としては鋏を振立てて彼自身に敵対もするのだが、彼はそれを愛惜したり、憐憫したり、憎悪したり虐待したりして、遣り場のない鬱情を霽らして居た。この歌はさうしたみじめな生涯を自憫する啄木の悲鳴であった。その様な啄木の悲しい姿を憶い描きながら、彼の墓のために此歌を撰んだ。
  • なかなか含蓄のある解釈である。明治40年の「蟹に」と一年後の東海歌の「蟹」には自己を投影しているという共通性があり、啄木が「蟹」に托した象徴性が注目される。

(「石川啄木「東海の小島」歌について」神谷忠孝 函館市文学館「生誕120年記念 石川啄木」 2006年発行)







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<碑陰>

啄木書簡之一節

   これは嘘いつはり

   もなく正直尓言ふのだ、

   『大丈夫だ、よしよし、

   おれは死ぬ時は函館へ行

   つて死ぬ』 その時斯

   う思つたよ、何處で死

   ぬかは元より解つた事

   でないが、僕は矢張死ぬ

   時は函館で死にたいやう

   に思ふ

   君、僕はどうしても僕の

   思想が時代より一歩進ん

   でゐるといふ自惚を此頃

   捨てる事が出来ない

    明治四十三年十二月二十一日

    東京市本郷弓町二の十八

        石川啄木

  郁雨兄







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「きっぱりと晴れる」

住吉漁港も大森浜も青柳町も見える。






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「函館山」


函館山から伸びるロープウェイの線が白雲をバックに細く続く。






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「啄木一族はなんと素晴らしいところに眠っているのだろう」


石川啄木一族の墓(中央)のすぐ右には、宮崎家一族之奥城と宮崎郁雨歌碑が写っている。



『啄木の函館』竹原三哉

お墓の石段を上って墓碑の正面に立ち、振り返れば、向かう先には谷地頭の町を頭越しに、函館公園と旧図書館、そして懐かしい青柳町の一角が目に入る。

この墓所からの眺めは絶景と呼んでいい。岡田が着眼し、郁雨も賛同して此地を選定した思いが偲ばれる。啄木が好んで散歩した大森浜もすぐそこに見下ろせ、尚かつ、未亡人となった節子夫人が幼い娘たちと共に過ごした、僅か四カ月足らずの侘びしかったであろう借家住まいの跡辺りも望見出来る。郁雨ならずとも、岡田健蔵の墓所選定の着眼には敬服せざるを得ない。

(『啄木の函館』竹原三哉著 2012年発行)



(つづく)



2017-04-05

[][] 132日間の函館生活と石川啄木一族の墓 <5>

啄木文学散歩・もくじ


5 立待岬の歌碑「与謝野鉄幹・晶子」と「宮崎郁雨」


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立待岬の端にある与謝野寛・晶子の歌碑(中央の白い四角が歌碑説明板)」



石川啄木と有島武郎 〜遙かなる夢の残像〜」北村巌

  • 明治35年10月1日、啄木の短歌一首が『明星』に石川白蘋の筆名で掲載される。有頂天となった啄木は盛岡中学校をあっさりと中退。文学を志し、10月30日にはもう故郷を立ち東京へと向かう。11月9日、啄木はさしたるつてのないまま新詩社の会合に出席。この時初めて与謝野鉄幹と接し、翌日にはもう与謝野宅を訪問している。その行動力には驚くばかりである。
  • 与謝野鉄幹の知遇を得たことは、以後の啄木に大きく道を開いたからである。この縁で明治36年1月には新詩社同人となり、12月1日発行の『明星』に初めて「啄木」の筆名で長詩「愁調」五篇が掲載される。啄木の実質的デビューであり、これによりその名が世に知られることとなる。
  • 啄木は与謝野夫婦との出会いにより、文学の人脈を広げていったと言えよう。

(「石川啄木と有島武郎 〜遙かなる夢の残像〜」北村巌  函館市文学館「生誕120年記念 石川啄木」 2006年発行)









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「歌碑説明板」

 与謝野寛・晶子の歌碑

昭和31(1956)年、市立函館図書館の創設者であり館長でもあった岡田健蔵の十三回忌が行われ、その際に彼の雅号にちなんだ図書裡会が結成された。翌32年、同会は棒二森屋百貨店の援助を得て、岡田健蔵を顕彰する意味も込め、昭和6年に来函した与謝野寛・晶子の歌碑を建立した。

晶子の短歌中に岡田先生とあるのが、健蔵のことである。

また寛の作品として、健蔵の親友である宮崎郁雨の名前が読み込まれた短歌が選ばれた。

                         函館市






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   濱菊を郁雨が引きて根に添ふる立

   待岬の岩かげの土       寛


   啄木の草稿岡田先生の顔も忘れじ

   はこだてのこと         晶子



撰文

   此の碑に刻んだ歌は、与謝野寛、晶子

   夫妻が昭和六年六月六日函館に来遊し

   た時の詠草の中から選んだもので、歌

   の中の人間は、郁雨宮崎大四郎、啄木

   石川一、図書裡岡田健蔵である。

       昭和三十二年八月十五日建立

             計画 図書裡会

             賛助 棒二森屋





「啄木と鉄幹」新間進一

鉄幹の啄木を偲ぶ短歌は『与謝野寛短歌全集』の中に折折にあるが、昭和六年五月、北海道を周遊した時の作から若干を示したい。往路函館図書館を訪ね、帰路には立待岬の啄木の墓に詣でている。宮崎郁雨氏や、岡田健蔵館長が案内をした。

   啄木よ汝も生きてありし日は人思ひけり石くれのごと

   啄木は貧しきなかに書きしかどゆたかなるかな思ひつること

   啄木のおくつきの石ありし日に彼れの肩をば撫でしごと撫づ

   啄木の墓に涙す彼れ知らば老いて愚かになりぬと思はん

啄木よりも十三歳も年上の鉄幹は、この年五十九歳に達しており、漸く老いを感ずる年になっていたのである。

「啄木と鉄幹」新間進一 『啄木研究 第三号』洋洋社 昭和53年4月発行(1978年))




「啄木の書簡・日記からみた鉄幹・晶子」逸見久美

明治45年4月13日の彼の死は各新聞に報道された。晶子は啄木を悼む歌を掲載した。

 ・東京朝日新聞 明治45年4月17日

   人来り啄木死ぬと語りけり遠方びとはまだ知らざらむ

この歌にあるように、与謝野寛は前年十一月渡欧しており、晶子もまた啄木の死後一月ほどで渡欧しなければならなかった。だから四月十六日の『読売新聞』の「故啄木氏葬儀」の知らせには会葬者九名の中に晶子の名は記されていない。恐らく渡欧の準備に公私ともに忙殺されていたからであろう。

 ・東京日日新聞 明治45年4月18日

   しら玉は黒き袋にかくれたり吾が啄木はあらずこの世に

晶子にとっては「吾が啄木」であった。弟のように面倒を見、共に文学を語った文学の語り相手であった。

(「啄木の書簡・日記からみた鉄幹・晶子」逸見久美 『啄木研究 第三号』洋洋社 昭和53年4月発行(1978年))








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「宮崎家一族之奥城と宮崎郁雨歌碑」

このすぐ左側に石川啄木一族の墓がある。


説明板

宮崎郁雨の歌碑

宮崎郁雨(本名、大四郎)は明治18年(1885)年に新潟県で生まれた。その後一家は来函し、父親は味噌製造業を営んだ。明治39年に文芸結社苜蓿社ができると、その同人となった。翌40年に啄木が来函してから、郁雨は物心両面にわたって暖かい援助を続け、42年、郁雨は啄木の妻節子の妹ふき子と結婚した。
郁雨は家業を継ぐかたわら、短歌づくりを続け、昭和37年に亡くなった。この歌は没後刊行された「郁雨歌集」の中の「自問自答」に収録されているもので、歌碑は昭和43(1968)年に函館図書裡会が建立した。

                         函館市







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「宮崎郁雨の歌碑」

さびたの花はいつ咲く

  ──啄木雑記帳より──

           宮崎郁雨

「啄木が苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)を頼って函館に来たのは、明治40年の春、山麓の其処此処にさびたの花が咲き初めた5月の5日であった。夙に世に天才の名を謳われた未見の詩人に見参しようと、その夜青柳町露探小路の苜蓿社にはかなり多数の同人達が集まった。折柄机の上の一輪ざしに挿した花を見て居た啄木が『その白い花は紫陽花に似てるけれども違う様ですね。何の花ですか』と聞いた。『それはさびたのパイプの花です』と蕗堂が答えると途端にどっと皆が笑った。」

(翌年、ふっとある事に思い当って、私の心は俄に騒ぎ始めたのであった。5月5日という函館の早春に、さびたが果して開花して居たかどうかという問題が、私の良心をゆさぶるのであった。)

本稿が読者の目に触れる頃は、恰もさびたの花期を確めるに好個の季節と思われるので、或は曽ての啄木達の散策の跡を尋ね、碧血碑畔に漢詩の小碑を訪らい、序を以てさびたの花を其処此処に探って、私の心の混迷を解いてくれる有志者があるかも知れないと、楽しい嘱望を胸に秘めながら、私は遙に遠い函館の空を恋い偲んで居る。

(昭和34.3.30、東京下北沢の寓居にて 「海峡」昭和34年5月)(「國文學」昭和50年10月号(1975年))








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「宮崎郁雨の歌碑」

上の写真と同じ歌碑だが、15分くらいの時間が経っている。

雪の降る歌碑を見てから立待岬の尖端の方へ行った。その帰りにはもう雪は止んでいた。



            郁雨

   蹣跚と

    夜道をたどる

       淋しさよ

    酒はひとりし

      飲むものならず


(まんさん【蹣跚】よろめき歩くさま)


「啄木日記」  明治40年9月12日

この函館に来て百二十有余日、知る人一人もなかりし我は、新らしき友を多く得ぬ。我友は予と殆んど骨肉の如く、又或友は予を恋ひせんとす。而して今予はこの紀念多き函館の地を去らむとするなり。別離といふ云ひ難き哀感は予が胸の底に泉の如く湧き、今迄さほど心とめざりし事物は俄かに新らしき色彩を帯びて予を留めむとす。然れども予は将に去らむとする也、これ自然の力のみ、予は予自身を客観して一種の楽しみを覚ゆ。

この日、昨日の日附にて依願解職の辞令を得たり、

午后高橋女史をとひ、一人大森浜に最後の散策を試みたり

 (「啄木日記」『石川啄木全集』第5巻 筑摩書房 1986年発行)

 









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「与謝野鉄幹・晶子の歌碑の近くから岬の先端方向をのぞむ」



『函館の啄木と節子』金野正孝 著

啄木を偲ぶ宮崎郁雨の歌

           宮崎郁雨

   秀才みな早く世を捐て凡庸のわれ生きのこるその苜蓿社

       <秀才(すさい)>

       <捐(す)て>

       <苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)>

   函館に郁雨なほ生き住めること伝説めけば恋ひし啄木

   この凡愚すらに劣りし世すぎして死にたるあはれ秀才啄木

   潮かをる立待岬の崖の際玫瑰咲けり啄木の墓

       <玫瑰(はまなす)>

   生きてあらば角などとれてよきほどの老爺となりて居む啄木も

   唯一のわれの遺業となるならむ啄木の墓を撫でてさびしむ

(『函館の啄木と節子』金野正孝 著 啄木と節子をたたえる会 発行 1987年発行)(小樽啄木会HP参照)






「思いのままに生きた啄木」宮崎顧平

  • 私は石川啄木の義弟宮崎大四郎(郁雨)の実弟であるが、私の啄木に対する印象は、実に吹けば飛ぶような淡い印象でしかない。それは啄木が二十二歳で函館に来た当時、私が僅か十三歳の時の印象であるからである。

(啄木たちは宮崎の家に集まり和歌の朗詠や批評をしていた。時々室から出て庭にあるトイレに行った)

  • 啄木が私の実家のトイレに通う往復に、私の立っている前を通過する時、「これが郁雨の弟だなー」と笑顔で私を見ながら立ち止まっていったのを見て、私はとても嬉しく思ったものである。
  • 私の啄木に対する印象を、現在八十三歳の私が卒直簡潔に示すならば、啄木ほど自分の思想、希望、行動を何の蟠りなく、すらすらと自由に言葉として云い、文章に書き尽し、能動的に行動し、自分の損得や他人に対する影響等一切超越して、自分の思いのまま進めていった人は、世には余りないのではないか、(略)何の矛盾も、不安もなく全く虚心坦懐なのである。そこに啄木の偉大さがある。

(「思いのままに生きた啄木」宮崎顧平(宮崎郁雨氏実弟) 『啄木研究 第三号』洋洋社 昭和53年4月発行(1978年))




(つづく)



2017-03-31

[][] 132日間の函館生活と石川啄木一族の墓 <4>

啄木文学散歩・もくじ


4 函館市文学館


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函館市文学館 煉瓦及鉄筋コンクリ−ト造3階建て」


この建物は、大正10年(1921年)に第一銀行函館支店として建設されたもので煉瓦及鉄筋コンクリ−ト造3階建てです。

昭和39年(1964年)に同銀行が移転し、株式会社ジャックスが使用してきましたが、平成元年(1989年)、文化振興に役立ててもらいたいということで同社より函館市に寄贈されました。

(函館文学館パンフ)







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「ハイカラでモダン」


国際貿易港として発展した函館は、ハイカラでモダンな歴史的背景の中で多くの文人が往来し、舞台となった作品が数多く発表されている。


歴史と風土が育んだ「函館ゆかりの作家たち」

函館市ゆかりの文学者たちの著書や多くの直筆原稿、愛用の身の回り品などを展示。



今 東光 こん・とうこう 明治31年(1898年)〜昭和52年(1977年)

「お吟さま」「闘鶏」「春泥尼抄」「悪名」

亀井 勝一郎 かめい・かついちろう 明治40年(1907年)〜昭和41年(1966年)

 「大和古寺風物誌」「我が精神の遍歴」「愛の無常について」

宇江佐 真理 うえざ・まり 昭和24年(1949年)〜平成27年(2015年)

「幻の声」「深川恋物語」「髪結い伊三次」シリーズ、「雷桜」

辻 仁成 つじ・ひとなり 昭和34年(1959年)

 「クラウディ」「母なる凪と父なる時化」「海峡の光」







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「こちらが、啄木座像の石膏原型」


2階は、詩人「石川啄木」について紹介するフロア。内部の写真はこの像のところだけ許可されている。

啄木座像は大森浜啄木小公園の座像の石膏原型になる。

  • 啄木の自筆に見られる語彙の豊富さ、知識には感動すら覚える。それ故か、啄木自身による明らかな誤字、誤用を見つけると、「かの啄木にしても……」という感を抱かされる。新字体編集の全集では到底、味わえない手書き原稿のおもしろさであろう。
  • 函館市文学館では、展示資料は限られるとは言え、啄木の自筆原稿が、直筆であれ、複製であれ、全文か或いは部分的にも精読できるので、筑摩『石川啄木全集』との対比照合ができる。ガラス越しではあるが、それらの資料を全部、数カ月かけて照合してみたが、現行の筑摩『石川啄木全集』には誤記、誤植と思われる箇所がかなり有ることに気付いた。全面的な改訂がなされることを期待したい。

(竹原三哉「詩稿『ハコダテノ歌』と筑摩書房の『石川啄木全集』──草稿と全集との照合から見えたもの── 函館市文学館「生誕120年記念 石川啄木」 2006年発行)






石川啄木の函館にちなんだ歌


   函館の青柳町こそかなしけれ

   友の恋歌

   矢ぐるまの花


函館の青柳町時代がとりわけて懐かしい。友の恋歌を聴いて楽しんだあのころの生活よ。家の周囲に咲いていた矢車の花よ。


   こころざし得ぬ人人の

   あつまりて酒のむ場所が

   我が家なりしかな


すぐれた才能をもちながらも、家庭の事情のため地方に埋もれて志を得ない人々が集まってきて、酒飲む場所が私の家であったことよ。

函館市文学館パンフ)







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◎明治45年5月21日 房州より 妹光子宛

「節子が記す啄木最後の様子」

 〜「終り迄気がたしかでしたよ」〜


  • 三月になつてからどうしても今死ぬのは残念だと云ふて三浦と云ふお医者にかゝりましたが、医者はもうだめだと見きりをつけて居たさうです。
  • 三時少し前に節子節子起きてくれと申しますから急いで起きて見ましたらビッショリ汗になつて、ひどく息ぎれがする之がなほらなければ死ぬと申ましてね、水を呑みましたが、年よりが云ふ二階おちでした、それから少しおちついてから何か云ふ事がと聞きましたら、お前には気の毒だつた、早くお産して丈夫になり京子を育てゝくれと申し、お父様にはすまないけれどもかせいで下さいと申ましてね。
  • 終り迄気がたしかでしたよ。あんまり気がたしかすぎたものですからおはりの朝も医者を入口に送り出し其処で色ゝ話しますとあとで医者は何と云ふたときくのですもの、どれ位つらかつたでせう。私の心中お察し下さいませ。死ぬ事はもうかくごして居ましても何とかして生きたいと云ふ念は充分ありました。いちごのヂヤムを食べましてねー、あまりあまいから田舎に住んで自分で作てもつとよくこしらへようね等云ひますのでこう云ふ事を云はれますとたゞたゞ私なきなき致しましたよ

(平成24年度企画展図録 啄木没後百年特別企画「石川啄木の終焉と妻節子」函館市文学館 2012年発行)




函館市文学館 石川啄木直筆資料展

「明治四十一年四月の書簡」

函館市文学館では、今年度、明治41年4月の小樽、そして、東京などから宮崎大四郎(郁雨)と岩崎正等に宛てた手紙4通とはがき4通を展示します。

「書簡文学」として文学的にきわめて高く評価されています。実際、短歌や詩、小説、評論、日記などと切り離して読んでも、質の高い文学の輝きをもって読者に迫ってきます。

  • 期間 〜平成29年4月5日(水)





(つづく)



 
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・石川啄木 年譜 ………… 26年と53日の生
・ローマ字日記………… 漢字と仮名では書けないことをローマ字で
・啄木文学散歩………… 息づかいの聞こえる ゆかりある場所を訪ねて
・啄木行事レポート …… イベントに参加しての私的レポート
・啄木の 女性たち ……… 啄木の人生を彩った「忘れな草」たち
・啄木と花 ……………… 歌に登場する花や木の資料

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