啄木の息 <ブログ版>

─ いまもなお瑞々しく語りかけてくる啄木の魅力を追い その息づかいに触れてみたい ─

     「本家 啄木の息」のリンクは、このページの最下段にあります。

 

2018-03-29

[][] 小樽 啄木歌碑除幕式、小樽文学館 啄木と多喜二、旧居 <8 (おわり)>

啄木文学散歩・もくじ

小樽市にリンクを張りました。


(「啄木の息HP 2005年秋」からの再掲 + 2018年早春 + 1999年夏)

  * 写真について 撮影年が記されていないものは2005年撮影



8 資料 (1)啄木歌碑趣意書 小樽駅近くに『啄木』第三の歌碑を!

  資料 (2)小林多喜二、退職ではなくクビだった 拓銀資料から判明



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雪中 三角市場の啄木歌碑(2018年)


資料(1) [啄木歌碑趣意書]

小樽駅近くに『啄木』第三の歌碑を!

        小樽啄木会 会長 水口  忠

        建立期成会 会長 安達 英明

    

 駅長官舎と石川啄木

明治四十年九月啄木が「小樽日報」創刊時に、記者として赴任してきました。、当時啄木の姉トラの夫である山本千三郎は中央小樽駅(現在の小樽駅)の駅長でした。啄木とその家族は函館の大火にあい小樽に来て、花園町の借家が決まるまで駅長官舎に滞在しました。

啄木は「小樽日報」の三面記者として大いに活躍しますが、十二月にご承知のような事情で事務長小林寅吉と争い、先の見通しもなく憤然として辞表を出し退社します。さいわい社長の世話で釧路新聞に就職のため、翌年一月妻節子などに見送られ中央小樽駅から出発しました。

後にこの時の心境を歌ったのが次の歌です。

   子を負ひて

   雪の吹き入る停車場に

   われ見送りし妻の眉かな

 

 歌碑建立のお願い

啄木にとって駅長官舎、そして小樽駅頭は忘れられないものだったと思われます。

以前この場所に小樽市で建てた木柱に「石川啄木ゆかりの地」「小樽駅長官舎跡」「小樽市」と書かれたものがありましたが、十年前小樽市が旧国鉄から土地を買収し、駐車場を設置した時に撤去されました。

これは書籍、雑誌、観光案内書に紹介され、全国の啄木研究家や啄木愛好家にとっては大事な場所でした。また多くの観光客もここを訪ねて来ました。撤去後あれはどうなったのかという問合せも多くあります。

今年十月、第二十一回国際啄木学会が札幌で開催され、小樽市内の啄木ゆかりの場所を視察することになりました。これを契機に長年の願いである歌碑の建立を計画した次第です。是非皆様のご協力をお願いします。

 

 建立 啄木歌碑のあらまし

  場所  駅前広場から三角市場に上る石段の左側の空地

     (市有地であるが建立についての内諾を得ています。)

  規模  黒に近い中国産御影石

      碑面  150×90

      全高  250

     (碑石 中国産の台石と白御影3段積み)

  碑面  啄木短歌  前記の『子を負ひて・・・・』を刻む

     (揮毫については交渉中)

  碑陰  ・歌碑建立の趣意について  小樽啄木会と建立期成会

      ・協賛された 個人・法人・団体のご芳名を刻字します。

 

 協賛金のお願い

協賛金は一口一万円とし、口数は自由です。ご協力いただけるならば、刻字の都合もありますので、ご連絡をお願いたします。

 締切 2005年9月20日厳守



資料(2) 小林多喜二、退職ではなくクビだった

    朝日新聞 2005年10月30日

  小林多喜二、退職ではなくクビだった 拓銀資料から判明

北海道小樽市に住み、特高警察の拷問を受けて昭和初期に死亡した作家、小林多喜二(1903〜1933)は、勤務先の旧北海道拓殖銀行から、「蟹工船」などプロレタリア文学の執筆を理由に解雇されていた。これまでは「依願退職した」という説も有力だったが、破綻(はたん)後の残務整理をしている拓銀から内部資料の複写の寄贈を受けた市立小樽文学館が、「解職」と明記された文章を発見した。

複写は「行員の賞罰に関する書類」の一部。多喜二は当時、拓銀小樽支社で書記をしていたが、1929(昭和4)年11月16日の発令で「依願解職」(諭旨)となっていた。

解職の理由として「左傾思想を抱き『蟹工船』『一九二八年三月一五日』『不在地主』等の文芸書刊行書中当行名明示等言語道断の所為ありしによる」ことを挙げ、欄外には「書籍発行銀行攻撃」と書かれていた。退職手当金も「1124円14銭なるも半額の560円給与」と記されている。

文学館の玉川薫副館長は「多喜二が辞めた本当の理由がわかる大変貴重な資料だ」と話している。

複写は今夏、辞令書割り印簿や職員表などとともに寄贈された。文学館は11月3日から資料を公開する。





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冬の花園公園通り  「風のごとくに 小樽の啄木」 小樽啄木会・編 2012年発行


この日の天気は他の記録によると〈微雪・寒し〉とある。写真のように冬の公園通りの朝は人通りも少ない。駅まではいつも通勤の道だった。啄木は中折れ帽子にコート、雪下駄のまま荷物とともに橇に乗った。

京子を背負い角巻姿の妻節子は、橇の後ろに従った。

この写真は遮るものがなく正面の丘の上に水天宮の社殿、左の中腹には堺尋常小学校の長い校舎が見える。

(「風のごとくに 小樽の啄木」 小樽啄木会・編 2012年発行)


…小樽に於ける最後の一夜は、今更に家庭の楽しみを覚えさせる。持つていくべき手廻りの物や本など行李に収めて、四時起床。明日は母と妻と愛児を此地に残して、自分一人雪に埋れたる北海道を横断するのだ !!!

(明治41年1月18日 啄木日記 明治41年日誌)



115日間の小樽。

啄木は風のごとく「雪下駄のまま荷物とともに橇に乗り」駆け抜けて釧路へ。


このときの単身赴任は、以後の妻節子との行き違いの遠因ともなっていった。




(おわり)




2018-03-28

[][] 小樽 啄木歌碑除幕式、小樽文学館 啄木と多喜二、旧居 <7>

啄木文学散歩・もくじ

小樽市にリンクを張りました。


(「啄木の息HP 2005年秋」からの再掲 + 2018年早春 + 1999年夏)

  * 写真について 撮影年が記されていないものは2005年撮影



7 小樽公園の啄木歌碑


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小樽公園の啄木歌碑 (1999年)

 

花園通りから公園通りへと上がっていくと、小樽公園にぶつかる。

公園は小高い丘にあり、市街地と港がよく見える。 道路から続く石段を登ると小さな広場があり、その前の木立の中に啄木の歌碑がある。


堂々たるこの歌碑の原石は、高田紅果が市内の豊倉で見つけたものである。書体は啄木の筆跡を模した、書家・宇野静山の作。

(「風のごとくに 小樽の啄木」小樽啄木会・編 2012年)





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啄木歌碑除幕式パンフレット 昭和26(1951)年11月3日 小樽文学館展示(2018年)


 

         啄木

   こころよく

   我にはたらく仕事あれ

   それを仕遂げて死なむと思ふ



『小樽啄木会沿革史』より

昭和25年啄木会は市文化団体協議会に呼びかけ有識者に諮り建碑期成会をつくり、市議会に請願しその翌年助成金を獲得することに成功し、いよいよ建設する目途がついた。そして歌碑に刻む歌は市民投票最高点の「かなしきは小樽の町よ」が決定された。

市議会側から再審議が要請され、結局歌人小田観蛍、歌人で小樽商大教授の峰村文人、そして会長高田紅果の三人で選んだ「こころよく我にはたらく仕事あれ」の歌が刻まれた。

建設場所は小樽公園入口の高台海向き(花園町元啄木住居の方向)とした。

昭和26年11月3日文化の日に除幕式が挙行された。函館からわざわざ宮崎郁雨氏が参列され、安達市長ほか市会議員、さらに市民多数の参加もあり、NHKではその実況を録音放送した。歌人宮崎郁雨さんは

  碑の面を雨しめやかに来てぬらす

    そのかの日をば思へと如くに

と当日の感想を詠まれた。また高田紅果の喜びはひとしおで、「これで自分の墓が出来たような気がする」と語った。

しかし4年後の昭和30年8月12日、高田紅果は心臓病で数え年65歳で急逝した。宮崎さんも昭和37年3月29日、76才で他界された。啄木を通じて因縁深い二人であった。函館啄木会と小樽啄木会との交流もこの二人の功績である。





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古今雛 小樽文学館展示(2018年)


「古今雛」の展示説明  小樽文学館

この雛人形は小樽市内の旧家からお借りしたもの。女雛の宝冠の形や着ている十二単(ひとえ)などは、江戸時代中期に流行した古今雛の特徴を備えている。

古今雛は、明和年間(1764〜1771)に作られたものが多く、写実的な容貌と美しい装束が特徴。


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雪の市立小樽文学館前(2018年)




(つづく)



2018-03-27

[][] 小樽 啄木歌碑除幕式、小樽文学館 啄木と多喜二、旧居 <6>

啄木文学散歩・もくじ

小樽市にリンクを張りました。


(「啄木の息HP 2005年秋」からの再掲 + 2018年早春 + 1999年夏)

  * 写真について 撮影年が記されていないものは2005年撮影


6  啄木 第一、第二の住居


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花園公園通り 明治後期

(「小樽なつかし写真帖」第52号 2008年11月)

小樽公園入口の坂上から見た花園公園通り。

啄木一家が下宿した家は、この写真の画面右側・中ほどに位置する。

(「風のごとくに 小樽の啄木」 小樽啄木会・編 2012年発行)


(小樽シリーズの最後の写真は、この写真と同じ場所から撮った「冬の花園公園通り」になる予定)




   

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啄木最初の住居・た志"満


水天宮から花園橋を渡り花園公園通り(「啄木通り」ともいう〈平成17年から〉)を上がっていき、花園十字街の角に「啄木最初の住居・た志"満」がある。

義兄・山本千三郎宅から明治40年10月2日に移転。南部煎餅屋の二階に約一カ月住む。



トある南部煎餅売る店に移り住みたる男女四人有之候、四人の一人は小生にてあとは母とせつ子と可愛き京ちやんに候、室は二階二間、六畳と四畳半にて何れも床の間あり、思いしより心地よく候。

(岩崎正宛書簡 明治40年10月2日)


 


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た志"満の店の角には大きな啄木の額


占い師の姓命判断

襖一重隔てた隣室には占い師が住んでいて、啄木は姓命判断を頼む。二週間後に渡された姓命鑑定書には「五十五歳で死ぬ」と書かれていた。啄木は「情けなし」と日記に記す。


もしも「55歳が寿命だった」とすれば、残した命が30年近くもあった!


 

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た志"満の二階座敷


二階には「啄木の間」がある。

店の人に話を聞くと、「(写真では)右側に見えるタテの柱と右上隅にちょっと写っている横柱が、啄木が住んでいたころのもの」だそうだ。

 




  

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第二の住居 弥助鮨(1999年撮影)


明治40年11月6日、た志満の裏手にあたる花園町畑14番地の借家(家主・秋野音次郎)に移る。小樽で二回目の住居である。

その場所には、後に「弥助鮨」という店が営業をしていた。1999年の写真が上。間口のあまり広くない店だった。現在は廃業したとのこと。

 

・・・狭い路地を入つた二軒つづきの平屋で、通路に面した所に九尺の格子窓があつてソコに小さい机を据ゑ、瀬戸火鉢を置いて茶の間を書斎替はりに使つてゐた。(中略)奥の六畳間には畳も襖も入れる余裕がなく、空家同然にして床板の上を下駄ばきで便所通ひをしてる有様であつた。

(「小樽日報記者 石川啄木地図」<沢田信太郎「啄木散華」>)

  



(つづく)



2018-03-26

[][] 小樽 啄木歌碑除幕式、小樽文学館 啄木と多喜二、旧居 <5>

啄木文学散歩・もくじ


(「啄木の息HP 2005年秋」からの再掲 + 2018年早春 + 1999年夏)

  * 写真について 撮影年が記されていないものは2005年撮影


5 水天宮にある啄木歌碑も新装披露



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(トイレ脇にあったとき 1999年)


境内に昇格-2005年10月に除幕式

水天宮は海まで400〜500mの距離。小樽の街がよく見える。この地に啄木の歌碑を建立除幕したのは、1980年(昭和55)10月12日だった。

以前、歌碑を訪ねて行ったときは見つけるのが大変だった。境内の外のトイレの脇にあり薄暗く、すぐ前に車も止まっていたので見るのに苦労した。


碑の近くに公衆トイレがある。どちらが先にできたか分からないが、研究者や愛好家の方たちを案内するたびに、「かなしきは小樽の町よ」と揶揄され、恥ずかしい思いをしてきた。

今回、国際啄木学会文学散歩を機会に、水天宮の許しもいただき、啄木夫妻も上ったであろう石垣内の境内に移設された。ここは港を見下ろす景勝地であり、碑前には鏡のように磨かれた御影石が敷かれ、碑の風格は一新し生き返ったようだ。

(「今も息づく啄木」小樽啄木会会長 水口 忠-小樽啄木会HP 2005-11-10)





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歌碑が水天宮境内に昇格


今回はこの歌碑が新装披露されていた。小樽みなとライオンズクラブ主催の除幕式が、2005年10月15日に行われたばかりだった。場所も境内の中に昇格し、碑面は新たな門出の顔をしていた。


内地の大都会の人は、落し物でも探す様に眼をキヨロつかせて、せせこましく歩く。焼け失せた函館の人も此卑い根性を真似て居た。札幌の人は四辺の大陸的な風物の静けさに圧せられて、矢張静かに緩慢と歩く。小樽の人は然うでない。路上の落し物を拾ふよりは、モツト大きい物を拾はうとする。四辺の風物に圧せらるゝには、余りに反撥心の強い活動力を有つて居る。されば小樽の人の歩くのは歩くのでない、突貫するのである。日本の歩兵は突貫で勝つ、然し軍隊の突貫は最後の一機にだけやる。朝から晩まで突貫する小樽人ほど恐るべきものはない。

(「初めて見たる小樽」石川啄木 小樽日報 明治40年10月15日・第1号 『石川啄木全集』 第八巻 筑摩書房)

   

そして続けて「予は飽くまでも風の如き漂泊者である」から、「小樽人と共に朝から晩まで突貫し、小樽人と共に根限りの活動をする事は、足が弱い予には到底出来ぬ事である」が、「予にとつて何といふ理由なしに唯気持が可いのである」と言う。


  かなしきは小樽の町よ

  歌ふことなき人人の

  声の荒さよ

         啄木


やはり、啄木は突貫する小樽の人を見、「耳に爽快なる活動の行進曲を聞」き、小樽を愛していたのだと思う。



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「小樽なつかし写真帖」第52号 2008年11月

啄木の歌のなかで、小樽の名が詠まれたものはこの一首のみである。好況に沸き立つ街の活気をうたっているが、小樽を誹謗するものとの見方もつきまとい、後年にはさまざまな論議を呼ぶこととなる。

しかし啄木は「小樽に来て新開地・植民地的精神の溢れる男らしい活動を見た。男らしい活動が風を起こす。……」と小樽の活力を評す一文も残しており、小樽を誹謗する意図などなかったことは明らかだ。

(「風のごとくに 小樽の啄木」 小樽啄木会・編 2012年発行)




(つづく)



2018-03-20

[][] 小樽 啄木歌碑除幕式、小樽文学館 啄木と多喜二、旧居 <4>

啄木文学散歩・もくじ


(「啄木の息HP 2005年秋」からの再掲 + 2018年早春 + 1999年夏)

  * 写真について 撮影年が記されていないものは2005年撮影


4  啄木と多喜二 ─同じ時 同じ小樽の空気を吸った二大文学者─  


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市立小樽文学館・美術館



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小樽文学館の入口(2018年)



「小樽文学館のご案内」より

  • 小樽は、北海道では函館についで古くから開かれた港町であり、かつて北海道経済の窓口としてたいへんにぎわいました。文学・美術などの文化面においても小林多喜二、伊藤整をはじめ大勢の優れた作家が生まれたのです。
  • これらの作家の著作や資料類は、現代の私たちに遺された貴重な文学的財産といえます。その散逸を惜しみ、また損傷を防ぐための施設をつくりたいという市民の声が実を結び、昭和53年11月3日市立小樽文学館が開館しました。
  • プロレタリア文学の小林多喜二、北海道漂泊の途上足をとどめた小樽で社会主義思想に初めて触れた石川啄木、・・・これらの人々の文学は、明治開化以来の日本の近代化と軌を一つにした〈北海道開拓〉とは果して何であったかという問いを静かにあるいは鋭く投げかけ、昨日と明日をつなぐ海港小樽の浮標、すなわち今日私たちの指標ともいえるでしょう。



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啄木のコーナー




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啄木のコーナー(2018年)


同じ小樽の空気を吸った二大文学者 

  • 多喜二にとって、啄木は、きわめて身近なところにいたにちがいない。・・・小林多喜二の一家が、秋田から小樽に移住してきたのは、1907年(明治40)12月下旬、多喜二が4歳の時であった。その約20日後の、翌年1月中旬、22歳の石川啄木は、吹雪の小樽から、北海道漂泊の最後の旅を釧路にむけて出発していった。
  • 22歳の啄木と、4歳の多喜二とが、ほんの二十日ほどであったにせよ、同じ小樽の空気を吸って生活をしていたことは、二人の文学の本質を探究するうえで、きわめて興味深いことである。」

(小林多喜二全集 月報6「啄木と多喜二」碓田のぼる)(白樺文学館「石川啄木と小林多喜二」)


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「小樽のかたみ」(2018年)

スクラップ帳「小樽のかたみ」

複写。原本は市立函館図書館啄木文庫所蔵。

啄木が明治40年10月1日小樽日報社に入社して以来、80日間にわたって「小樽日報」紙上に執筆した記事を集めたもの。冒頭に「小樽日報と予」と題するペン書きの序文が付されている。「小樽のかたみ」にはこの序文を含めて95編、同一表題の連載を整理すると75編の記事が収録されている。



「千田三四郎への誘い」

……

千田三四郎は啄木のネガティヴな面を「発く」ために、ことさら誇張して書いたわけではありません。

彼は床屋の主人の口を借りて、つまり床屋に話しかけさせる形で、啄木の隣室に住む「天口堂の海老名さん」や、啄木の妻を生きいきと描いている。また、啄木の同僚だった野口雨情がのちに童謡「赤い靴」を書く経緯を、虚実とりまぜて哀切に語っている。それらを読みますと、千田三四郎が『小樽のかたみ』だけでなく、啄木の日記や手紙を細かいところまで丁寧に読み込み、細部のリアリティを高めていることが分かります。

よほどの啄木好きでなければ、これだけのことは出来ないでしょう。

    市立小樽文学館館長 亀井秀雄 「千田三四郎への誘い」

     (「市立小樽文学館報」第30号 平成19年3月31日)







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多喜二のコーナー

  

啄木の短歌と多喜二

  • 多喜二の短歌作品は12首ほど、残されている。多喜二が16.7歳のころのものである。

  多喜二の歌

   焼印の押したる下駄を穿きたりし昔のわれのいとほしきかな

   寝ぬる間のみ貧苦を忘ると就床にける老いにし父を涙ぐみて見る

  • これらの作品は決してすぐれているとはいえない。・・・しかし、一首一首が生活の具体的事実とむすびつけられていることは、十分注目してよいことであると考える。」
  • 『多喜二のお母さんの話によれば、多喜二は少年時代から啄木の短歌を好み、彼の家で啄木の会を催して啄木を語り、よそで開かれた啄木会にも出席し、お母さんに啄木のことを何くれとなく語ったので、啄木について何も知らなかったお母さんも、いつの間にか啄木のことを知るようになった』(川並秀雄『啄木覚書』)というほどであるから、大変な熱の入れようであったことが知られる。
  • 短歌にたいする多喜二の理解の深さをもっともよくあらわしているものは、田口タキへの手紙の中で、啄木の歌を読むことをすすめ、歌集の中から「これならばと思われるのを選んで」やったという、その作品の選択眼である。
  • 〇印をつけた啄木歌集『一握の砂』を(田口タキへ)贈った。この歌集には制作年代は付されていないが、啄木自身が ‘これぞ我が歌’ とした明治43年作の歌から85%に〇印がつけられていた」

(小林多喜二全集 月報6「啄木と多喜二」碓田のぼる) (白樺文学館「石川啄木と小林多喜二」) 



もう一つの「多喜二のコーナー」には、無念のデスマスクや、息子に手紙を書くために一生懸命文字を習った母セキの筆跡もある。 


全集の中にある「多喜二の12首」より

  悲しきは面会謝絶と貼りし紙薄暗き廊下白く浮べるに                                  多喜二



  

多喜二「退職」ではなく「解職」だった

このページをまとめている今(2005年)、「小林多喜二、退職ではなくクビだった 拓銀資料から判明」の記事が新聞に載った。(2005年10月30日 朝日新聞) (つづきに記事掲載予定)

それによると、多喜二は依願「退職」ではなく依願「解職」だった。文芸書の中に、勤務先の北海道拓殖銀行の名前を「明示」し、「攻撃」したことは「言語道断」だということで、退職手当金も半額にされていた。

「破綻後の残務整理をしている拓殖銀行から内部資料の複写の寄贈を受けた市立小樽文学館が、「解職」と明記された文章を発見した」とのこと。

どんなに隠されていた事柄でも、いつか「明らかになっていく瞬間」があるのだと確信したときだった。

 



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文豪Tシャツ 石川啄木(2018年)



Tシャツデザイン

 石川啄木『時代閉塞の現状』より

 「我々はいっせいに起ってまずこの時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。」



文豪Tシャツ

  • 3000円。
  • 小樽文學舎とJeans Shop LOKKI とのコラボ。
  • サイズは4種類。色違いあり。通信販売もしている。



(つづく)



2018-03-19

[][] 小樽 啄木歌碑除幕式、小樽文学館 啄木と多喜二、旧居 <3>

啄木文学散歩・もくじ


(「啄木の息HP 2005年秋」からの再掲 + 2018年早春 + 1999年夏)

  * 写真について 撮影年が記されていないものは2005年撮影


3 小樽日報社跡

小樽日報は、創刊1907年(明治40年)10月15日。社長は、初代釧路町長の白石義郎(東泉)だった。できたばかりの小さな新聞社に啄木は約80日間勤務した。


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小樽日報社跡(本間内科)の案内板

 「石川啄木と小樽日報社跡」

 かなしきは小樽の町よ 歌うことなき人々の 聲の荒さよ

小樽日報は、道会議員の白石義郎氏が明治40年10月創立し、石川啄木、野口雨情らが発刊に加わった。

小国露堂の紹介で、札幌の北門新聞から明治40年9月27日小樽日報社に入社するため来樽した啄木は雨情とともに三面記事を担当した。当時小樽に姉が嫁いでいたこともあって函館から家族を呼び寄せ、新しい土地での仕事に情熱を燃やしたが、主筆の岩泉江東とことごとく意見が対立し、わずか十数日で小樽を去った雨情のあとを追うように、同年12月12日退社し明治41年1月19日小樽を去った。

               小樽市



啄木の仕事ぶり

「啄木と私とは編輯室の一番奥まった処に、壁を背にして卓子を並べ、殆ど競争の姿で筆を執ってゐたが、仕事にかゝった後の彼の態度は実に真剣で、煙草も吸わず、口も利かずにセッセと原稿紙に向かって毛筆を走らせる丈であつた。何か快心の記事を書くときも愉快そうにニコニコして、自分で原稿を工場に下げに行つた。工場では啄木の原稿は大歓迎で非常な人気があつた。それは第一に字のキレイなこと、次は文章の巧みなこと、それに消字が少なくて読みよいことゝ云ふので、文撰長などスッカリ此点で啄木崇拝家になってゐた」(「石川啄木地図」<沢田信太郎「啄木散華」>)

 

明治四十一年日誌

  明治41年4月18日  啄木日記

「小樽日報今日より休刊、実は廃刊。不思議なるかな、自分は日報の生れる時小樽に来て、今はしなくも其死ぬのをも見た」




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横浜の山下公園にある「赤い靴の女の子の像」(2004年)


野口雨情と小国露堂

啄木は函館大火から逃れ、雑誌「明星」の同人同士という僅かな縁で野口雨情を訪ねた。雨情は記者仲間の小国露堂に啄木を紹介した。啄木は、露堂の斡旋で北門新報社に入社した。それから間もなく、小樽日報が旗あげし、鈴木志郎(童謡「赤い靴」の女の子の義理の父)、野口雨情、石川啄木の三人は一緒に入社した。

主筆岩泉江東の排斥運動で雨情は追われ、啄木は懐柔策もあり三面主任となる。

そのような関係の啄木と雨情だが、同時に同じ職場にいたという意味は深いと思われる。

それから10数年して、有名な歌「赤い靴」が発表された。生後7日で娘を失った雨情自身の悲しみと、娘を手放した岩崎かよ(鈴木志郎の妻)の事情がこめられている。

「赤い靴と啄木」啄木の息-啄木文学散歩)



現在、小樽日報は啄木が「小樽のかたみ」としてスクラップしたものはあるが、それ以外は明治40年10月24日発行『小樽日報』第3号しか残っていない。



(つづく)



2018-03-18

[][] 小樽 啄木歌碑除幕式、小樽文学館 啄木と多喜二、旧居 <2>

啄木文学散歩・もくじ


(「啄木の息HP 2005年秋」からの再掲 + 2018年早春 + 1999年夏)

  * 写真について 撮影年が記されていないものは2005年撮影


1  小樽駅と啄木 つづき)


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「駅正面にある案内板」


駅を出たところには「石川啄木と小樽駅」という案内板がある。




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2018年の案内板

左下に小さく「左手の階段を上がると石川啄木の歌碑があります。」と加えてある。

その階段が下の写真。


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三角市場への階段(2018年)


階段を上がったところの左上に、啄木歌碑の裏面が見える。




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小樽日報社社屋 明治40年撮影(小樽文学館内の展示 2018年)


〇の中が「小樽日報社社屋」、右上から中央下へかけての長い建物が「中央小樽駅」続いて線路をたどり、左下の建物群が鉄道官舎。



啄木の姉の夫であり、この駅の駅長を務めていた山本千三郎の住まいもここにあったはずだ。明治40年9月、小樽に着いた啄木はまず、この山本宅に数日間滞在する。


小樽日報社屋

「社は新築の大家屋にて、万事整頓致居、編輯局の立派なる事本道一番なる由に候……」(明治40年10月2日、函館・岩崎正宛ての手紙)

 (「風のごとくに 小樽の啄木」 小樽啄木会・編 2012年発行)


駅長官舎と石川啄木

「明治四十年九月啄木が「小樽日報」創刊時に、記者として赴任してきました。当時啄木の姉トラの夫である山本千三郎は中央小樽駅(現在の小樽駅)の駅長でした。啄木とその家族は函館の大火にあい小樽に来て、花園町の借家が決まるまで駅長官舎に滞在しました。

啄木は「小樽日報」の三面記者として大いに活躍します・・・」

([啄木歌碑趣意書])



2 啄木歌碑の除幕式 小樽駅前  2005年10月23日

 

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SLの 汽笛が祝す 除幕式

ニセコ号出発の煙が碑の右に上っている。

  

市内3番目の啄木歌碑誕生となった。建立場所は、駅前広場から三角市場に上る石段の左側。駅長官舎がこの三角市場あたりにあったため、縁の深い場所として選ばれた。

白布に覆われている写真の、歌碑の後ろに広がっている建物が小樽駅で、停車中のタクシーなどもよく見える。

写真の手前側には(写ってはいないが)三角市場のトンネルのような入り口があり、両側が店になっている。海鮮、野菜などが並び威勢のいい売り声がする。





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二段階の除幕式 一回目はモールの登場

 

小樽啄木会会長・水口忠さんの話

「中国の石を船で運んできたが、台風のため遅れに遅れて19日にやっと着いた。だから昨日一昨日と急いで組み立てた。間に合うかどうか心配したが、こうして今日を迎えた」

「啄木碑を見た時に、駅も見えるように建てた。色々な位置を考えたが、この位置と角度が一番良いと思う」

   


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威風堂々と


規模

  中国産の黒御影石

  碑面  150×90

  全高  250

  碑石 中国産の台石と白御影3段積み

  表面の歌碑銘 インド産の赤御影石     



除幕式の時の写真ではずいぶん台が高いと思ったが、下の写真のように雪が積もるとこの高さが必要だったのだとよくわかる。



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歌碑の表 (2018年)

   子を負ひて

   雪の吹き入る停車場に

   われ見送りし妻の眉かな

               啄木



小樽日報の事務長小林寅吉から暴力をふるわれたことを契機として啄木は退社する。給料未払いのまま1907年(明治41)の年末を迎え、一家は生活に困窮する。

年明けて「釧路新聞社」に勤務決定した。釧路に向かう啄木を、節子は送りに来た。しかし、同行する釧路新聞の白石社長が遅刻した。

 

啄木の日記

「妻は京子を負ふて送りに来たが、白石氏が遅れて来たので午前九時の列車に乗りおくれた。妻は空しく帰つて行つた。予は何となく小樽を去りたくない様な心地になった。小樽を去りたくないのではない、家庭を離れたくないのだ。」

(明治四十一年日誌)

 

 

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碑陰には協賛された105名(団体)方の名


歌碑建立は、インターネットなどで全国から協賛者を募り、105名の参加者があった。協力記念に碑の裏面には、名前が刻まれた。

記念の手拭いには「子を負ひて 雪の吹き入る停車場に われ見送りし妻の眉かな」の歌が書かれ、濃紺の地に大小の雪の降る美しい意匠だった。




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碑陰(2018年)


この写真を撮っていると、20代前半くらいの女性二人組が、「こんなところに啄木が・・ ? ! 」と言いながら、写真を撮りにきた。

暴力をふるわれ傷ついて出ていった若き日の啄木に、『100年以上たっても、あなたは日本中に知られていて、若い人たちにも馴染みのある歌人になってますよ ! ! 』と伝えてあげたい。



(つづく)



2018-03-17

[][] 小樽 啄木歌碑除幕式、小樽文学館 啄木と多喜二、旧居 <1>

啄木文学散歩・もくじ


(「啄木の息HP 2005年秋」からの再掲 + 2018年早春 + 1999年夏)

 * 写真について 撮影年が記されていないものは2005年撮影


◯ 小樽の啄木


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「風に吹かれる啄木」水谷のぼる ブロンズ(小樽文学館)2018年撮影


函館本線に乗り札幌から小樽に向かうと、途中から石狩湾が右車窓に見えてくる。窓から波が入ってくるかと思うくらい海の近くを通る。

啄木はこの小樽に18歳の1904年(明治37)9月〜10月にかけて、次姉トラ宅(夫・山本千三郎は、当時小樽中央駅駅長)を訪問した。そして、1907年(明治40)21歳の9月から翌1908年1月半ばまでは、小樽日報記者として暮らす。1908年(明治41)4月半ばには、上京する前の6日間ほどを過ごす。

この地に、啄木はどのような足跡を残したのだろう。



1907年・明治40年 啄木日記

明治四十丁未歳日誌 

十二月二十九日

今日は京子が誕生日なり。新鮭を焼きまた煮て一家四人晩餐を共にす。

人の子にして、人の夫にして、また人の親たる予は、噫、未だ有せざるなり、天が下にこの五尺の身を容るべき家を、劫遠心を安んずべき心の巣を。寒さに凍ゆる雀だに温かき巣をば持ちたるに。

一切より、遂に、放たるる能はず。然らば遂に奈何。       




1  小樽駅と啄木

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「SLニセコ号 小樽駅ホーム」

運よく蒸気機関車ニセコ号が、小樽駅4番ホームにいた。札幌発着で、秋は紅葉狩り・果物狩り・温泉と楽しみの多い人気のあるイベント列車だ。ただし、運転日も運転区間も定まっていない。

 





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雪の小樽駅舎(2018年)



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2005年「車窓から生まれたものがたり」展


10月14日の「鉄道の日」を記念して、啄木と鉄道 「車窓から生まれたものがたり」展が小樽ステーションギャラリーで行われていた。


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「啄木を紹介するコーナー」中央の小さい写真は、義兄・山本千三郎氏


小樽にゆかりのある、石川啄木、小林多喜二などの文学者たちと鉄道との意外な関わり、歴史や写真などが展示されていた。昔の列車の椅子が飾られ、窓からは、ビデオで列車からの風景が見られるようになっていた。

壁には、石川啄木の義理の兄が中央小樽駅長を務めていたことなどが紹介されていた。



(つづく)



2017-10-23

[][]  東京都 浅草 「了源寺」長男の葬儀場、「等光寺」啄木・母・長女・二女の葬儀場

啄木文学散歩・もくじ


(「啄木の息HP 2009年冬」からの再掲)


啄木家族の葬儀場「了源寺」と「等光寺」


  浅草の夜のにぎはひに

  まぎれ入り

  まぎれ出で来しさびしき心

                 啄木


  • 啄木長男・真一の葬儀場「了源寺」と、啄木の母カツ・啄木本人・長女京子・二女房江の葬儀が行われた「等光寺」を訪ねた。どちらも浅草にあり直線にして約600mの距離。浅草寺とも近い。

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「浅草寺の山門」


  • 浅草寺山門の風雷神門。この提灯は高さ約4mあり、仲見世側から見ると「風雷神門」と書いてあり、表側は「雷門」の文字になる。

 

〇 了源寺

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「啄木長男・真一の葬儀場了源寺」


  • 浄土宗「了源寺」は、都営大江戸線新御徒町駅に近く、住所は台東区元浅草3丁目。静かな佇まいで、高い建物に囲まれている。 



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「門柱右側に【了源寺】の表札」

 

 ♦【うまれて やがて死にし児】真一

1910年(明治43)

  • 10月4日、啄木24歳 東雲堂と歌集出版契約し原稿料20円のうち10円を受け取る。長男真一、誕生する。
  • 10月9日 東雲堂に歌集名を『一握の砂』とすることを通知。原稿料の残額10円を朝日新聞社にて受け取る。
  • 10月27日 長男真一死去。
  • 10月29日 真一葬儀を浅草の了源寺にて行う。法名は「法夢孩児位」。
  • 12月1日 『一握の砂』(東雲堂)刊行。歌集『一握の砂』は、末尾に長男真一の死への挽歌八首を加え五五一首となった。この歌集の最初の見本組が啄木の手元に届いたのは10月29日、真一の葬儀の夜だった。


啄木日記

明治四十四年 当用日記補遺 ○前年(四十三)中重要記事


十月-----四日午前二時節子大学病院にて男子分娩、真一と名づく。予の長男なり。生れて虚弱、生くること僅かに二十四日にして同月二十七日夜十二時過ぐる数分にして死す。恰も予夜勤に当り、帰り来れば今まさに絶息したるのみの所なりき。医師の注射も効なく、体温暁に残れり。二十九日浅草区永住町了源寺に葬儀を営み、同夜市外町屋火葬場に送りて荼毘に付す。翌三十日同寺新井家の墓域を借りて仮りに納骨す。法名 法夢孩児位。会葬者、並木武雄、丸谷喜市二君及び与謝野寛氏。産後節子の健康可良ならず、服薬年末に及ぶ。またこの月真一の生れたる朝を以て予の歌集『一握の砂』を書肆東雲堂に売り、二十金を得たり。稿料は病児のために費やされたり。而してその見本組を予の閲したるは実に真一の火葬の夜なりき。





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「了源寺境内と墓地の境にある門」   


♦ 真一挽歌八首

  • 生後わずか24日しか生きられずに逝ってしまった我が子を切々と詠う。

  『一握の砂』石川啄木

 

   夜おそく

   つとめ先よりかへり来て

   今死にしてふ児を抱けるかな


   二三こゑ

   いまはのきはに微かにも泣きしといふに

   なみだ誘はる


   真白なる大根の根の肥ゆる頃

   うまれて

   やがて死にし児のあり

 

   おそ秋の空気を

   三尺四方ばかり

   吸ひてわが児の死にゆきしかな


   死にし児の

   胸に注射の針を刺す

   医者の手もとにあつまる心


   底知れぬ謎に対ひてあるごとし

   死児のひたひに

   またも手をやる


   かなしみの強くいたらぬ

   さびしさよ

   わが児のからだ冷えてゆけども

 

   かなしくも

   夜明くるまでは残りゐぬ

   息きれし児の肌のぬくもり

 

    ー (をはり) ー




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「新井家之墓」

  • 真一が荼毘に付された後
仮に納骨された新井家の墓。
  • 新井家は、啄木が1909年(明治42年)6月〜1911年 8月まで家族とともに住んだ、本郷区弓町の床屋さん「喜之床」である。現在も「理容アライ」という名前で営業している。


〇 等光寺

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「小路の角にある等光寺」

  • 右隅カーブミラー脇の塀裏側に啄木歌碑がある


♦ 土岐善麿と等光寺

  • 土岐善麿(号・哀果)は西浅草一丁目(旧松清町)、真言宗大谷派の等光寺が生家である。父善静、母観世の二男として生まれる。兄土岐月章は啄木葬儀時の導師を努める。
  • 等光寺では、啄木の母カツ(1912年没)、啄木本人(1912年没)、長女京子(1930年没)、二女房江(1930年没)の葬儀が土岐の好意により行われている。
  • また、土岐善麿の告別式も(1980年没)行われている。



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「等光寺の正面」

  • 門柱右には「等光寺」と書かれ
左は「土岐」という表札がある。

♦ 土岐善麿と啄木

  • 土岐善麿は1885年(明治18)浅草に生まれる。1886年生まれの啄木とは1歳違い。早稲田大学英文科卒業。読売新聞に勤務しているときに啄木と知り合う。
  • 土岐は1910年(明治43) 4月にローマ字3行書きの歌集 『NAKIWARAI』 を出版した。啄木は東京朝日新聞「歌のいろいろ」で土岐の歌を取りあげた。

土岐哀果君が十一月の「創作」に發表した三十何首の歌は、この人がこれまで人の褒貶を度外に置いて一人で開拓して來た新しい畑に、漸く樂しい秋の近づいて來てゐることを思はせるものであつた。その中に、

燒あとの煉瓦の上に
syoben をすればしみじみ
秋の氣がする

といふ一首があつた。好い歌だと私は思つた。

(東京朝日新聞」「歌のいろいろ」1910年12月)   


1911年(明治44)

  • 1月12日、東京朝日新聞の記者名倉聞一の紹介で土岐哀果との会見を電話にて約束。
  • 1月13日 読売新聞社から自宅に伴った土岐哀果と雑誌『樹木と果実』の創刊を協議し、許される条件の中での、青年に対する啓蒙を決意する。誌名『樹木と果実』は、「啄木」「哀果」から取ったものである。
  • 2月23日 土岐哀果から、クロポトキン自伝『一革命家の思い出』第二巻を借用し、熱心に読んだ。

1912年(明治45)

  • 2月18日 土岐哀果の歌集『黄昏に』(東雲堂)刊行。「この小著をとって、友、石川啄木の卓上におく」と記された
  • 3月7日 母カツ肺結核で死去。享年65歳1カ月。
  • 3月9日 浅草等光寺にて母カツの葬儀(法名は恵光妙雲大姉)。葬儀は土岐哀果の厚意によるものである。
  • 4月9日 土岐哀果の尽力で、東雲堂書店と第二歌集の出版契約し、原稿料20円を受け取る。





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「歌とレリーフと案内板」

  • 境内では啄木生誕70周年の1955年(昭和30)10月27日、金田一京助氏らが集まって歌碑除幕式が行われた。
  • 門を入ってすぐ右手に縦1メートル、横1.5メートル余りの黒みかげ石の碑があり、歌集『一握の砂』にある「浅草の夜のにぎはひに まぎれ入り まぎれ出で来しさびしき心」の一首と、左上に胸像が刻まれている。碑の右に台東区教育委員会による案内板がある。




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「案内板」

石川啄木歌碑

台東区西浅草一丁目六番一号 等光寺

 石川啄木は明治十九年(一八八六)岩手県に生まれる。はじめ明星派の詩人として活躍した。しかし曹洞宗の僧侶であった父が失職したため一家扶養の責任を負い、郷里の代用教員や北海道の新聞記者を勤め、各地を転々とした。

 明治四十一年(一九〇八)、文学者として身を立てるため上京して創作生活に入り、明治四十二年からは東京朝日新聞の校正係となった。小説や短歌の創作に励み、明治四十三年十二月には処女歌集「一握の砂」を出版する。生活の現実に根ざし口語をまじえた短歌は歌壇に新風を吹き込んだ。

 しかし苦しい生活の中で肺結核を患い明治四十五年(一九一二年)四月十三日に小石川区久堅町の借家で死去した(二十七才)。親友の土岐善麿(歌人・国学者)の生家であった縁で、葬儀は等光寺でおこなわれ、啄木一周忌追悼会も当寺でおこなわれた。墓は函館市の立待岬にある。

 この歌碑は、啄木生誕七十年にあたる昭和三十年に建てられた。「一握の砂」から次の句が記される。

   浅草の夜のにぎはひにまぎれ入りまぎれ出で来しさびしき心

  平成十五年三月

             台東区教育委員会



 

 




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浅草の夜のにぎはひに
まぎれ入り
まぎれ出で来しさびしき心





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「ブロンズの啄木像」

♦ 啄木の葬儀と土岐の辞世

1912年(明治45)

  • 4月13日 啄木早朝より危篤。午前9時30分、死去。(死因は、肺結核であると言われて来たが、結核ではあるにしろ、肺結核であったかについては疑問も提出されている。)最後をみとった者は、妻節子(妊娠8カ月)の他、父一禎と友人の若山牧水とであった。享年26歳1カ月余。
  • 4月15日 佐藤北江、金田一京助、若山牧水、土岐哀果らの奔走で葬儀の準備を進め、午前10時より哀果の縁りの寺である等光寺で葬儀。会葬者約50名。導師は哀果の兄の土岐月章であった。法名は、啄木居士。
  • 6月20日 第二歌集『悲しき玩具』(東雲堂)刊行。なお、書名は、「歌は私の悲しき玩具である。」〔「歌のいろいろ」、『東京朝日新聞』1910年(明治43年12月10日-20日)末文〕に基づいた土岐哀果による命名であった。

 

土岐は啄木を「きざなやつだ」と思っていた。後に親友となり啄木のことをこう詠った。

   石川はえらかったな、と/おちつけば、/しみじみと思ふなり、今も。

 

土岐葬儀のとき「会葬御礼」の色紙に記された歌

   わがために一基の碑をも建つるなかれ

   歌は集中にあり 人は地上にあり



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「一念」とのみ刻まれた石柱

土岐は1980年(昭和55)4月15日に下目黒の自宅で心不全により死去。満94歳。土岐の墓は、啄木歌碑を過ぎ本堂わきの小路を辿り裏墓地に入ったところにある。「一念」とのみ刻まれた石柱がそれである。

啄木の一つ年上だった土岐は長寿を全うした。「もし」は許されないが、啄木も長寿であったなら1980年代くらいまで生きることができたかも………。

 土岐という友人のおかげで啄木はたくさんの幸せを得たと思う。

  

-

主要参考文献


「石川啄木事典」国際啄木学会編/おうふう/2001


「石川啄木全集」筑摩書房/1983


「啄木文学碑紀行」浅沼秀政 株式会社白ゆり 1996



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「仲見世の《にぎはひ》」



2017-06-12

[][] 石川啄木歌碑と厄除け大師と佐野の味

啄木文学散歩・もくじ


(「啄木の息HP 2010年初春」からの再掲)

佐野駅周辺

年末年始によく耳にする「初詣・関東三大師」として有名な佐野厄よけ大師は、春日岡山惣宗寺(そうしゅうじ)といい、JR 両毛線「佐野駅」・東武佐野線「佐野市駅」より徒歩10分足らずで着く。

「佐野プレミアム・アウトレット」と「佐野厄よけ大師」と「佐野ラーメン」を3点セットにしたバスツアーも人気のようだ。

  



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「佐野駅前の『佐野市全域案内』図」

厄よけ大師(佐野厄よけ大師 = 春日岡山惣宗寺)は現在地(赤字・JR佐野駅)からみて南西方向、佐野短大は南東、短大の東側に三毳(みかも)山。駅の北西には田中正造旧宅なども案内されている。「佐野プレミアム・アウトレット」は、佐野短大の南方向にあり地図から外れたすぐの所。

2007年に佐野新都市バスターミナルができて、新宿駅や東京駅と佐野を結ぶ高速バスの利用者も多いという。





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「関東の三大師」

参道には名物まんじゅうの屋台

 




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「田中正造墓所の石塔」  

右は初詣の行列。 

   



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「田中正造翁の墓の案内」

 




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「正造の墓と啄木歌碑」

正造の墓石は高くそびえ「嗚呼慈侠 田中翁之墓」と刻まれている。左側が石川啄木の歌碑である。

 




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夕川に葦は枯れたり

    血にまどふ民の叫びの

     など悲しきや

           石川啄木 

 

 



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「碑陰」

 

啄木歌碑を建立したのは同寺(佐野厄よけ大師 = 春日岡山惣宗寺)住職の旭岡聖順氏。旭岡氏は昭和27年から48年まで、県立佐野高等学校で教鞭を執っていた。そこで、同校の生徒たちが啄木の歌を通していっそう田中正造の研究を深め、かつ社会奉仕の精神を継承していってほしいとの願いを込めて、この碑を建立したという。(「啄木文学碑紀行」浅沼秀政 株式会社白ゆり出版)

 

  

 


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「カラフルな おみくじ」

おみくじの引き方「目をとじて住所・名前・生年月日・願い事を唱えながら」引く。

 




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「佐野の味」

佐野大師の御利益最中。

 



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「青竹を使った製麺方法」

青竹に足をかけ足の重みで麺を伸ばしては折りたたむ。

 




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「佐野・下野の国ら〜めんの郷」     

青竹手打ち麺と澄んだスープ。




 
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・石川啄木 年譜 ………… 26年と53日の生
・ローマ字日記………… 漢字と仮名では書けないことをローマ字で
・啄木文学散歩………… 息づかいの聞こえる ゆかりある場所を訪ねて
・啄木行事レポート …… イベントに参加しての私的レポート
・啄木の 女性たち ……… 啄木の人生を彩った「忘れな草」たち
・啄木と花 ……………… 歌に登場する花や木の資料

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