すべてが広告モデルになったとき

10年後の音楽流通を勝手に妄想:Geekなぺーじ

結構興味深かった。(データでの)音楽は最終的に全部無料+広告モデルになるんじゃないかと。なんかtechcrunchでも同じようなの見たような気もします。個人的にはもうちょっとマイクロペイメントが流行るというかインフラがちゃんとしてくれると、見たくない広告を排除できてよい気もしますが、現状だと0円と1円の違いが大きすぎる(誰かのブログで読んだんだけどリンク失念)、というのは同意。

さらに氏の妄想を続けると、これはつまり最終的にデータの形に落とし込めるもの、かつそのデータ自体が価値を持つもの、はすべて同様なことが言えるような気もします。「サービス」のモデルは広告モデル、手元のPC/携帯のアプリも広告モデル。ゲームもオフィスソフトも、オンラインで見れる映像も。逆にこれにのらないのが、データに落とし込めないもの(通常のリアルワールドの世界のもの)ということかな。本とかは微妙(データでもいいっていえばいいし)だけど、たとえば衣食住はこのモデルではなさそう。

ちなみにvixy.netのアプリも広告モデルを試しに採用してみて、予想よりは結構成績が良い感じです。シェアウエア化も検討してましたが、なんかそれすら必要なさそうで。おそらく現時点でも、もうこういった、ちょっとしたアプリとかだと広告なのかなあ。

(追記)
さらに妄想すると、みんないろんなものに広告を付け出すと、広告枠だけは大量に増え、そこで人のアテンションが有限だとすると(みんな時間は有限だから)、結局広告単価は頭打ちで、広告枠が増えた分だけ広告単価が下がる?というのは不幸の道だなあ。あとはアテンションのある人、つまり参加者が増えることに期待(インドとか中国とか)なのかなあ。となると英語圏(インドは英語圏でいいよね)と中国語圏の増加で、そこに食らいつくには英語と中国語を勉強すべき、という結論(!?)

(追記2)
「サービス」はデータではないか。ネットと端末(PC、携帯、etc)だけで出来る「体験」全般というのが正確?(参考:http://wordpress.rauru-block.org/index.php/1564

(追記3)
あー、追記2には、追加条件が必要か。「体験」を生み出すものを作るときには人間が介在してもいいけど、「体験」を売るときに、ほとんど人間が介在しない、という条件。つまりそれってGoogleモデル。「体験」が超低コストで複製可能な場合、といってもいいかな。