Hatena::ブログ(Diary)

舞台の謎

2017-09-22

フォーサイス×トリシャ・ブラウン 2006年

共演した訳ではなく、両者のダンスカンパニーが同じ彩の国さいたま芸術劇場で、時を置かずに公演を行なったので。両公演評をアップする。

フォーサイスカンパニー


ウィリアム・フォーサイスが新カンパニー結成後、初の来日公演を行なった。50分スタンディングのAプロと、近作三作によるBプロのうち、亡き妻へのレクイエムであるAプロが圧倒的にすばらしかった。


昨年制作された 『You made me a monster』 は客席を使用せず、観客は舞台に上がる。客席との間にはスクリーンが張られ、不定形の映像と英語の文章が随時流れている。八個ほど置かれたテーブルの上には細い棒が乱立し、そこに得体の知れない紙細工が取り付けられている。ヘルパー説明で、観客も紙のパーツを切り取り、棒に付ける作業をする。それがライトに当たってできた影を見て、ダンサーが踊ることになるという。10分ほど作業した後、ダンサーが登場、影を見て踊り始めた。うなるように苦しむように声を出して踊る。踊りはフォーサイス風だがグロテスクで、舞踏のような内面的な重さがあった。


男性二人女性一人のダンサーが入れ替わり立ち代わり踊るなか、ふと机に置かれた紙の文章(日本語訳共)を読んでしまった。それには、妻が癌にかかり手術して亡くなったこと、映画『エイリアン』から現代文化における「外国人嫌い」を分析しようとした当時の新作のことが、フォーサイスの振付同様、剥き出しのストイックな言葉で書かれてあった。妻がなくなった後、数年たって、生前知人から妻にプレゼントされた紙細工の人体模型をばらばらに組み立て始めた「わたし」は、ついにそれが何かの形になるのを知る。「それは、深い悲しみという模型だった」。


突然、目の前に乱立する恐竜のような紙細工が、「わたしフォーサイスの悲しみであること、この作品は、観客を巻き込んだ喪の儀式であることに気付いた。ダンサーフォーサイスの悲しみを見て踊っている。それが怪物のようにグロテスクなのは、フォーサイスが妻の死によって怪物になったからだ。 『You made me a monster』 は、スクリーンに映し出された「It was a model of grief.」 という言葉で終わった。


これは作品ではあるが、結果としての作品である。クリエイターとしてのフォーサイスの誠実さが胸に迫った。(2月28日 彩の国さいたま芸術劇場大ホール)  *『音楽舞踊新聞』No.2691(H18.4.12号)初出


トリシャ・ブラウン・ダンスカンパニー


ポストモダン・ダンスの旗手トリシャ・ブラウンが自らのカンパニーを率いて来日、依然として先鋭的な思考家であることを印象付けた。プログラムは79年の『アキュムレーション・ウィズ・トーキング・プラス・ウォーターモーター』(映像)から、83年の『セット・アンド・リセット』、00年の『グルーヴ・アンド・カウンタームーヴ』、そして03年の『プレゼント・テンス』まで、ブラウンの仕事を大きく概観している。


最初の映像では、ミニマルな動きのみで、思考を含めた全人格を伝えうる不可思議な振付を、ブラウン自身の優れたダンスで見ることができた。だがもっとも衝撃的だったのは、過去の作品『セット・アンド・リセット』を、現在の所属ダンサーが、今現在動きを生み出しているように踊ったことである。たとえばピナ・バウシュによる旧作の上演は、忠実な過去の再現であって、新たな相貌を帯びることはないが、ブラウンの場合は、作品の完成度を損なうことなく、新たに動きが生み出されている(かに見える)。この現在性は近作の『プレゼント・テンス』でも強く感じられた。


ジョン・ケージプリペアド・ピアノが、ガムランのような酩酊感を醸し出すなか、ダンサーはブラウンらしい流動的な滑らかな動きのままで、複雑なコンタクトを見せる。このコンタクトに美的な要素が微塵もないことに驚かされた。肉体の接触ではなく、人と人が接触している。二人の男性がアラベスクした女性の頭と足を持って、コマのように回す場面。また大きいダンサーが仰向けになり、小さいダンサーの腹を両脚で支えてリフトする、反対に小さいダンサーが大きいダンサーの胸を両脚で支え、最後には腹を支点に同じようにリフトする場面。動きとしてはありきたりと言えるが、人の体に触れた時のずっしりと重い感触が直に伝わってきて、なぜか崇高なものに触れた気がした。


直前に来日したフォーサイスが、自らのロジックを強硬に遂行しダンサーがハードに応えるという、一種禁欲的な関係をダンサーとの間に築いているのに対し、ブラウンは自らの思想をダンサーに浸透させ、ダンサーの資質とブラウンの求める理想像をゆっくりと混ぜ合わせる。ダンサーはブラウンの振付を体の内側から実行しているように見える。特徴的なのは、こうした場合にありがちなセクト色がないこと。ダンサーは個で立っている。ブラウンが自らの思想を教条的にではなく、実践しているからだろう。


子供のように真剣で優雅、そして何よりも退廃のない作品に、観客の拍手は熱かった。一月にこの彩の国さいたま芸術劇場の芸術監督が交代している。ヨーロッパ美的路線からアメリカ=倫理的路線へと、公演傾向も変わったかに見える。ダンスが観客の思考を促すという点で、社会への還元率は高まったような気がする。(3月26日 彩の国さいたま芸術劇場大ホール)  *『音楽舞踊新聞』No.2695(H18.6.11号)初出

2017-09-21

第3回「ブルノンヴィル・フェスティバル」2005

標記公演評をアップする。

ブルノンヴィルの生誕200年を祝うフェスティバルが、6月3日から11日まで、コペンハーゲンの王立劇場で開かれた。復元物を含めた11演目が上演され、最終日のガラ公演では、その抜粋とオペラからのパ・ド・ドゥやソロ等が、デンマーク・ロイヤルバレエ団によって踊られた。


最終日の客席に降り注ぐ花吹雪を、小型のデンマーク国旗にしたのは、芸術監督フランク・アンダーソンの気概だったろう。ブルノンヴィル作品は、19世紀の遺産(テクニックや作品構造)というバレエ史的側面と、デンマーク人が作り上げてきた国民バレエの両面がある。19世紀からレパートリーを持続させてきた、その一点こそ、デンマークでしか起こりえない奇跡と言える。


つつましく、突出することを望まないデンマーク気質は、ダンサーのあり方を規定する。ブルノンヴィルのハードな足技に、困難を滲ませてはならない。終幕のレヴェランスは、あっさりと控え目。舞台を提供するのが当然の義務だと言わんばかりで、観客の拍手の多寡などには、目もくれない。自己表現を旨とする現代のアーティストには、耐えがたいような職人気質である。


フランス・ロマンティックバレエの影響を受けた『ラ・シルフィード』や、踊りを抜粋した『ナポリ第三幕』、『ジェンツァーノの花祭り』は、他国への移植が可能かもしれない。だが作品のほとんどは、演劇に近いマイム中心の作品形式である。バレエ学校(劇場内)の時代から頻繁に舞台に立つ環境、舞台人としての長年の蓄積がなければ、十全に作品を成立させることはできない。


重要なのは、子役、研修生、コールド・バレエソリストプリンシパル、キャラクターと、ダンサーが踊り継いでいく過程をつぶさに見て、プリンシパルの美技よりも、キャラクターの献身的な演技に、より多く拍手をおくる観客の存在である。『ラ・シルフィード』のマッジや『民話』のトロルの弟を演じたリス・イエッペセン、『ナポリ』の僧や『コンセルヴァトワール』のムッシュ・ドゥフゥールを演じたポール=エリック・ヘッセルキルの献身的な演技に対して、劇場は拍手と床を踏み鳴らす足音で湧き返った。唐突だが、藤山寛美時代の松竹新喜劇を思い出した。観客が芸の質を知り尽くしているのである。


古い木の床の劇場で、大きいデンマーク人の中に埋まり、改めて、舞台は観客によって作られるということを認識させられた。観客(国民)に見合ったバレエ団が作られるのである。このことを象徴する興味深い出来事があった。


デンマークを遠く離れて』(因みに458回目の上演)で、ディヴェルティスマンのインディアン首領を、ポーランド出身のマーチン・クピンスキーが踊った。豪快な開脚ジャンプに対し、デンマーク以外どの劇場でも聞くことができる賞賛の拍手が、一度起こった。そしてすぐに止んだ。誰も後に続かなかったのである。拍手をした人は恐らく外国人で、ブルノンヴィル愛好家ではなかっただろう。拍手くらいすればいいとも思うが、そうやってレパートリーは守られてきたのである。


この『デンマークを遠く離れて』や『コンセルヴァトワール』(全二幕)、『アマールの志願兵』といったボードヴィル・バレエを見ることができたのは大きな収穫だった。ブエノス・アイレスでのデンマーク海軍や、フランスバレエ学校、デンマークの田舎の風俗が、当時の様式性と規範をもって描かれる。伝統芸能としての感触が強く感じられる作品群だった。


ダンサーでは、ブルノンヴィルの下肢の重さと粘りを最も体現しているジャン・リュシアン・マソ、若手のモルテン・エガート、ニコライ・ハンセンのパワフルな踊りに、ブルノンヴィルの男性舞踊を堪能した。女性では、江戸っ子のような切れ味のティナ・ヒュールンと、ディアナ・クーニ、愛らしいスザンヌ・グリンデルが印象に残る。ヒュールンのテレシーナナポリ)とベアテ(民話)は絶品だった。グリンデルと日系のクリストファー・サクライが『ブルージュの大市』で見せたパートナーシップは、豊かな将来を感じさせる。


ブルノンヴィル作品のみを見る奇跡のような八日間は、瞬く間に終った。次回は2018年チボリ公園パントマイムを楽しむデンマーク人がいる限り、ブルノンヴィルは安泰に思われる。  *『音楽舞踊新聞』No.2672(H17.9.11号)初出【改訂】

2017-09-19

新国立劇場バレエ団2011年公演評

標記公演評をまとめてアップする。

●『ラ・バヤデール』


新国立劇場バレエ団新春公演は二年半ぶり4回目の牧阿佐美版『ラ・バヤデール』。聖なる森の梢が上下する、ダイナミックな場面転換が見せ場の一つである。牧版の特徴は結婚式と寺院崩壊の場(ランチベリー曲)を加え、物語に一貫性を持たせた点にある。演出はコンパクトでスピーディ。結婚式直前にソロルが苦悩する幻影場面は、簡潔で効果的だった。ただし結婚式列席者の省略には物足りなさが残る。終幕はニキヤとソロルの魂が結ばれず、ソロルは断罪される。他の牧作品同様、女性の無謬性、不可侵性が印象づけられた。


バレエ団にとっては一年ぶりの古典バレエ。芸術監督が変わったこともあり、アンサンブルは伸び伸びと個が際立って見える。このため影の王国では、以前の息詰まるような様式美の代りに、32名(元は48名)の人間が数珠繋ぎでアラベスクし、ユニゾンでパの組み立てを行う振付そのものの破格が、浮き彫りになった。一方、マイム場面については前回よりも迫力が減じた。老け役がまだ育っていないこと、マイム教育の不備が原因だが、名脇役イリインの不在も大きい。


ニキヤ、ガムザッティのそれぞれ4キャストは全員初役。その中で圧倒的な完成度を誇ったのが、長田佳世のガムザッティだった。本来はニキヤの柄だろうが、マイムの気品、音楽性、パトスのこもった雄弁なポール・ド・ブラ、抑制されたライン、磨き上げられた繊細な踊り、万全の技術と、全て揃っている。有名なヴァリエーションはイデアそのもの。舞台への献身性を併せ持つ、まさにプリマの器である。


他のガムザッティはベテランの厚木三杏、中堅の本島美和、堀口純と適役である。ただ残念ながら厚木と堀口は本調子とは言えず、本島はよく健闘したものの、マイムの音楽性とポール・ド・ブラに難があった。


主役のニキヤはベテランの域に入りつつある川村真樹に一日の長があった。美しく、詩情と気品にあふれるニキヤである。演技はあっさりめだが、踊りは美しいラインに強度が加わり、申し分ない。三幕ヴェールの踊り、ディアゴナルの切れ味、スピードが素晴らしかった。


ハロワの代役という重責を担った小林ひかる(英国ロイヤルバレエ)は、技術も安定、プロダンサーとして舞台を作ることの意味をよく理解している。詩情や情感を見せるには至らなかったが、立派に代役を務めた。反対に技術やスタミナの点で少し綻びはあったものの、日本人に馴染み深い情感を醸し出したのが寺田亜沙子。美しい容姿に大人っぽさが加わり、終始しっとりした情緒を舞台に漂わせた。


最年少の小野絢子は懸命な踊りが共感を呼んだが、ニキヤとしてはまだ少し幼く、二、三幕では踊りに強度を乗せるには至らなかった。終幕のグラン・ジュテでようやく本来の優れた音楽性を確認することができた。


ソロルはそれぞれ、芳賀望、マトヴィエンコ、山本隆之、福岡雄大。芳賀はサポートの向上が望まれるが、りりしい踊り、福岡は少し線が細いが端正な踊りが魅力、マトヴィエンコは力強い造形で初役の小林を支えた。


牧版ソロルの極めつけはやはりベテランの山本。役にはまり込んだ演技が寺田ニキヤとの間に濃密なドラマを立ち上げる。ガムザッティの長田を加えた大阪出身トリオが最終日に初めて、物語のあるべき姿を描き出した。


マグダヴェヤの吉本泰久、八幡顕光、黄金の神像の福田圭吾が献身的な踊りで場を盛り上げる。また湯川麻美子の円熟のつぼの踊り、パ・ダクションの西山裕子、寺田まゆみ、伊藤真央の明るく爽やかな踊りが、舞台を華やかに彩った。


重厚な東京交響楽団を率いる熱血アレクセイ・バクラン。長田の踊りで一気に火が点いたのが印象的だった。東響はカーテンコールにおいても、観客の拍手を背中ではなく、正面から受け止めて欲しい。(1月15、16、22、23日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No2836(H23.3.1号)初出


●『ビントレーのアラジン


東日本大震災による中劇場公演中止から一ヶ月と十日、新国立劇場バレエ団が『ビントレーのアラジン』を上演した。老若男女を心から楽しませるレパートリーで公演が再開されたことは、バレエ団、観客の双方にとって幸運だったと言える。


劇場では恒例の筋書きと共に、ビントレー芸術監督のメッセージも配布された。自身も大地震をリハーサル中に体験、最悪の事態を免れた東京においてさえ、喪失と悲しみの感覚に打ちのめされたこと、被災者への深い思い、復興期における芸術家の役割について語り、この公演で観客に元気を取り戻して欲しいと呼びかけている。英語ではThe National Ballet of Japan に改称されたバレエ団の監督にふさわしい、愛情と洞察に満ちた一文だった。


二年半振りの再演は、初演時に感じられた二、三幕の弱さが解消され、引き締まった仕上がりを見せている。公演に合わせて来日した作曲家カール・デイヴィスの音楽がやはり魅力的。『ロミオとジュリエット』や『ばらの騎士』といった劇場音楽の豊かな遺産を援用し、ライトモチーフを駆使して強力に物語と踊りの世界へ観客を導く。情熱的なルビー、華麗なダイアモンドワルツ、我々には馴染み深い5音音階の行進曲やドラゴンダンスなど耳について離れない。

ビントレー振付の緻密かつ自然な音楽解釈、多彩な語彙はもはや驚きではなかった。アンドレ・プロコフスキーと比肩されるドラマに即した詩的(音楽的)演出こそ、「生の肯定」とも言うべき根本的な明朗さと共に、振付家の個性を主張している。ワイヤー宙乗りや背景の引き抜き、人形の代役など、劇場らしいローテク演出もすばらしい。日本の『アラジン』受容を考慮して、アラジン親子を古代ペルシアの中国移民として描いたことも、異文化の融合という思わぬ副産物をもたらした。


主役のアラジンとプリンセスにはゲスト無しの3キャストが組まれた。その内ビントレー振付の核心を示したのが、3公演踊った八幡顕光=小野絢子組である(他組は2公演)。


小野は存在自体が周囲を祝福する、まさにプリンセスだった。気品と優しさ、そして明るいユーモア、何よりも全身が音楽と化した伸びやかなアダージョがすばらしい。その清らかな佇まいには、舞台と客席を爽やかに浄化する力があった。一方の八幡は、音のツボを押さえた小気味よい踊りとエネルギッシュな演技で、やんちゃなアラジンを造形。小柄ながら小野のラインを美しく見せる献身的サポートも披露した。


この組と対照的だったのが福岡雄大=さいとう美帆組。福岡の端正で美しい踊りと情熱的な演技、さいとうの清楚なお姫様ぶりが、しっとりと情緒あふれる恋物語を描き出した。プリンセスの投げ返したリンゴをアラジンがガブリと囓る場面では、みずみずしい初恋の詩情が、チェスと狩りの誘いの場面では、新婚の慎ましやかな愛情が溢れ出す。バランスの取れた組み合わせだった。


初日を飾った山本隆之=本島美和組はドラマティックな要素を期待された配役だろう。山本は少し上品なアラジン。舞台を支配する華やかな存在感、細やかな演技、優れたパートナリングに個性を発揮した。一方の本島は初演時よりもアダージョの踊りが滑らかになったが、やはり浴場とハーレムでのキャラクター色濃厚な踊りに精彩があり、山本との間にドラマを築くには至らなかった。


ソリストはほぼダブルキャスト。若手登用もあり、適材適所が楽しめた。ジーンには力強い吉本泰久と軽快な福田圭吾、マグリブ人は正統派トレウバエフと妖しい冨川祐樹、アラジンの母にはコミカル遠藤睦子とあっさり楠元郁子、サルタン役ガリムーリンは究極のはまり役だった。


宝石のディヴェルティスマンはまさに珠玉の舞踊集。ルビー長田佳世が完璧なクラシックスタイルで他を圧する。精妙な腕使いと鮮烈な足捌きに陶然となった。またダイアモンド西山裕子の音楽的肉体のきらめきエメラルド古川和則の気の漲った踊り、同じく寺田亜沙子の繊細な踊り、サファイア井倉真未の豪華な踊り、ライオンダンス福田=菅野英男の献身的祝祭性も印象的だった。


バレエ団の美脚を揃えた砂漠の風アンサンブルや、ソリストを多く含むジーンの手下アンサンブルがすばらしい。ポール・マーフィー指揮、東京フィルも思い切りのよい華麗な演奏で公演再開を祝した。ただしカーテンコールの原則が崩れ、ダンサーが拍手を貰いに行く姿を目にしたのは残念。(5月2、3、4、8日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2843(H23.6.11号)初出


●『ロメオとジュリエット』


新国立劇場バレエ団今季最終演目は、7年ぶり三度目のマクミラン版『ロメオとジュリエット』(65年、バレエ団初演01年)。芸術監督が変わり、舞台装置・衣裳だけでなく演出もバーミンガム・ロイヤル・バレエ担当となった(振付指導 デズモンド・ケリー)。


前回との最大の違いは、個々の動きのアクセントが明確になり、演技がすみずみまで浸透した点である。ビントレー作品と共通する全員参加の舞台作りと言える。主役をフォーカスするマクミラン色は後退したが、硬直と脱力を繰り返すジュリエットの生々しい肉体や、男性ダンサーシンメトリーな肉体など、振付の特徴が再確認された。


今回はゲストを含め4キャストが組まれた。最大の焦点は新旧プリマの競演である。初日を飾った小野絢子は優れた音楽性、確かな技術、バランスの取れた身体の持ち主。古典ではまだ力を発揮できていないが、ビントレー作品では特徴である明朗な精神と繊細な音楽性を見事に体現、振付家のミューズとなっている。ジュリエットにおいても徒に感情に走らず、振付のニュアンスをよく把握、地を生かした自然な役作りで臨んでいる。真っ直ぐな演技と踊りが気持ちよい。時にコミカルに見えるのは個性。まだ彫り込むべき部分が残されているが、魅力のあるみずみずしいジュリエットだった。


一方最終日を踊った酒井はなは、同版三度目のベテラン。これまではその途方もないパトスの力で型を逸脱する場合もあったが、今回は両者が拮抗した円熟の舞台である。その解釈の緻密さには、振付を分解し再構築した感触が残る。同時に解釈を実行推進するパトスの強さは、周囲と観客を引きつけ異世界へと連れ出す力を持つ。硬直と脱力の激しさ、最後は本当に「死んだ」。カーテンコールは無表情で蒼白の死の顔、何回が繰り返す内に徐々にほぐれ、いつもの笑顔に戻った。酒井の実存に深く根差した舞台である。定位置に戻ったプリマに、観客の熱い拍手が鳴りやまなかった。


バレエ団からもう一人の配役は来季プリンシパルに昇格する本島美和。本来の柄はキャピュレット夫人のため、一幕の無邪気な少女らしさ、清らかさには無理があったが、三幕の苦悩の演技では、本島の可能性の一端を見ることができた。他の昇格組(小野、川村真樹、湯川麻美子、トレウバエフ)と比べるとまだ実力発揮とは言い難い。観客のためにも更なる精進、研鑽を期待する。


ゲストは英国ロイヤル・バレエプリンシパルのリャーン・ベンジャミン。長年踊り込んだ役だけに、マクミラン版の良さを生かすお手本のような演技。初登場ながら周囲に溶け込み、落ち着いた舞台を作り上げた。


ロメオはそれぞれマトヴィエンコ、山本隆之、福岡雄大、セザール・モラレス(BRBプリンシパル)。マトヴィエンコマクミランのニュアンスに乏しいが、エネルギッシュなソロと献身的サポート、山本は圧倒的なドラマの立ち上げと、対話のような細やかなサポート、福岡はやんちゃな激しさと華やかな色気、モラレスは少しおとなしめながらノーブルなスタイルで作品に奉仕した。


脇役ではBRBから移籍した厚地康雄(パリス、ベンヴォーリオ)が存在感を示した。振付スタイルの把握、音楽性、サポートの充実、演技の安定感がすばらしい。また湯川のキャピュレット夫人は母としての大きさがあり、二幕では血が迸るような嘆きで場をさらった。


遠藤睦子の愛情深いコミカルな乳母、トレウバエフのニヒルなティボルト、八幡顕光の音楽的なマキューシオが印象的。森田健太郎の迫力ある大公と、川村の美しいロザライン、千歳美香子の洒脱なモンタギュー夫人が舞台に厚みを加えた。


熱気あふれる男女アンサンブルが、大井剛史指揮、東京フィルの重厚な音楽と共に、公演の成功に大きく貢献している。(6月25、26、29日、7月2、3日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2848(H23.8.1号)初出


●『パゴダの王子』


新国立劇場バレエ団が世界に誇れるレパートリーを作り上げた。現芸術監督デヴィッド・ビントレー振付による『パゴダの王子』全三幕である。


本作の意義は重層的だった。まずベンジャミン・ブリテン唯一の全幕バレエ曲(57年)を現代に蘇らせた点、日本の身体(能、杖術)や美術(版画、切り絵)を引用し、その国の文化に根差したバレエを作った点、さらに離散した家族が苦難を乗り越え、最後に再会を果たすプロットを用意して、震災で傷ついた国民を鼓舞した点である。才能豊かな円熟期にある振付家が、我々の劇場のために精魂込めて創った作品に接すること自体、一種の僥倖である。


眠れる森の美女』を下敷きにし、ガムランを内包するブリテンの曲は魅力があった。神秘的、植物的なメロディは、東洋の宮廷を舞台とする兄妹の物語に合っている。


ビントレー版のプロットは先行のクランコマクミラン版に倣い、『眠り』『美女と野獣』『リア王』の要素を含むが、独自に姉のエピーヌを継母に設定し直し、王子(継子)をサラマンダーに変える場面を登場させた。妹のさくら姫(ローズから変更)が試練を乗り越えて兄を救うプロセスは、アンデルセンの『野の白鳥』のエコーを含んで説得力がある。


繊細な音楽性と明確な演劇性を基盤とするビントレーの演出は、作り手の手が見えないほど詩的だった。特に子役の扱い(甕棺、昔語り)と、衰えた皇帝と道化の場面が素晴らしい。振付も役どころを的確に表現。宮廷アンサンブルがすり足で歩行し、体を鮮やかに切り替えた時、袴姿でトゥール・アン・レールやグラン・バットマンをした時には、言い知れぬ感動を覚えた。


レイ・スミスの繊細な美術は振付家の美意識と一致している。白い紙細工のような動物や棘(エピーヌ)の点在する黒地の額縁が、物語を見守る。切り絵富士山と青い月(最後は日の丸に)がバックに配され、同じく切り絵の波、炎、稲妻が観客を版画の世界へと誘う。宮廷の装束や盛り上がったチュチュも美しく、国芳に想を得たかわいい妖怪やパゴダ人の被り物は、いかにも英国風だった。


照明は日英コラボレーションの一環として沢田祐二が担当。沢田らしい絶妙な色調は二幕で生かされ、漆の黒も実現されている。ただ宮廷場面では少し主張が強く、特に一幕は暗めの照明のため、残念ながら演出の全てを見ることができなかった。またスポットライトでの踊りは、ダンサーの作る空間を確認できない難がある。


主要キャストは三組。さくら姫には、小野絢子、長田佳世、米沢唯、王子には福岡雄大、芳賀望、菅野英男、共に期待に違わぬ出来栄えである。


第一キャストの小野は美しいラインと優れた音楽性で振付の規範を提示。勇気とユーモアを兼ね備えた、絵に描いたような姫である。王子の福岡も凛々しい若武者姿が光り輝いている。覇気のある華やかな踊りが素晴らしく、パートナーとして磨きが掛かれば盤石の主役である。


第二キャストの長田はいわゆる姫タイプではないが、役にはまり込み、二幕ソロでは深い音楽解釈を示した。一挙手一投足に誠実さが滲み出る、心温まる舞台だった。王子の芳賀は以前のような踊りの切れには欠けるものの、無意識の押し出しと鋭い音感が魅力。


第三キャストの米沢は、すでにベテランのような舞台だった。踊りは自在、振付の全てに解釈が行き届き、さらにそれを上回るクリエイティヴィティを見せる。舞台で自由になれるのは二代目ゆえだろうか。王子の菅野は優れたパートナー。妹を見守る愛情深い兄だった。


美しい継母エピーヌには、湯川麻美子、川村真樹、本島美和という迫力あるキャスティング。湯川の明確な演技と舞台を背負う責任感、川村のダイナミックな踊りと能面のような怖ろしさ、本島の華やかな存在感が適役を物語った。


ダンサー冥利に尽きるのは皇帝の堀登(他日トレウバエフ)と道化の吉本泰久だろう。衰えた老皇帝を道化が抱っこする三幕デュオは、リア王原型の究極の愛の形である。堀の気品に満ちた枯れた演技、吉本の裏表のない献身性が素晴らしい。吉本は観客の優れた水先案内人でもあった。


さくら姫に求婚する四人の王には12人の精鋭が投入され、場を大いに盛り上げたが、中でも西の福岡、南の厚地康雄が抜きん出た踊りを見せた。新加入の奥村康祐、ソロデビューの小口邦明も実力発揮、厚地は他日、怖ろしく優雅な宮廷官吏を演じている。


宮廷、異界両アンサンブルの美しいスタイルと的確な演技、ポール・マーフィ指揮、東京フィルの熱演が、舞台の成功に大きく寄与している。


本公演を最後に、開場以来バレエ団に貢献してきた西山裕子が退団した。流れるような自然な音楽性、明晰なマイムと演技はバレエ団随一。春の精は世界一のアシュトン解釈だろう。ジゼル、シンデレラ、マーシャ、ガムザッティ、ドゥエンデ、チャルダッシュ、ノミ、そして盟友 遠藤睦子と組んだキトリの友人を、我々は二度と見ることはできない。(10月30日、11月1、3、5、6日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2860(H24.1.1-11号)初出


●『くるみ割り人形


新国立劇場バレエ団が恒例の12月公演として、牧阿佐美版『くるみ割り人形』(09年)を再演した。牧版の特徴は物語の外枠に現代の東京を設定した点。クリスマス気分の若者たちがビル街を行き交うなか、主人公のクララはブルーマンを従えた興行師風ドロッセルマイヤーによって、1910年代ドイツクリスマスパーティにワープさせられる。


振付・演出は英国系を枠組に同団先行版であるワイノーネン版の振付を適時残し、牧が新たに振り付けたものである。今回の再演は初演時の熱気を呼び戻すには至らなかったが、安定したレパートリーであることを証明した。オラフ・ツォンベックの子供時代の記憶を投影した豪華でエレガントな衣裳と装置、立田雄士の美術と呼応する魔術的照明が、舞台に大きく貢献している。


金平糖の精は4キャスト。先の『パゴダの王子』に続いて主役を勤めた米沢唯が、プリンシパル3人の再演組を向こうに、極めて完成度の高い踊りを見せた。役作り、空間を支配する気の漲り、高度で自在な技術に加え、様式(形式)への意識が高い。アダージョではチャイコフスキーの音楽が内包する悲劇性を、深部まで表現し得ている。


一方、初日の小野絢子は初演時と比べて格段の成長ぶり。美しいライン、音のツボを押さえた明晰な踊り、清潔で暖かみのある存在感は、他にない個性である。小野と米沢という対照的資質が、バレエ団の二枚看板としてどのように成長していくのか期待したい。


ベテランの川村真樹はゆったりとした造型。演技はやや控え目、正統派ラインが繰り出す踊りのダイナミズムが美点である。気品あふれる輝く金平糖の精だった。同じく本島美和は華やかな存在感に成熟した美しさが加わっている。今後は腕使いの洗練と、踊りの密度を上げることが期待される。


王子はそれぞれ厚地康雄、山本隆之、芳賀望、福岡雄大。主役デビューの厚地は美しいラインをもつ英国仕込みのダンスールノーブル。演技にも優れ、他日配役のねずみの王様でも、王子同様、立ち姿でドラマを喚起する。身長差のある米沢には献身的なサポートぶり、雪の女王寺田亜沙子とのパ・ド・ドゥでは、爽やかな情感を醸し出した。


これまで多くの舞台を担ってきたベテランの山本は、さすがに安定感のある舞台。小野を大らかに見守る年上紳士のような王子だった。一方川村を支えた芳賀は、王子の典型とは言えないが、不定形の生々しさで独特の個性を発揮。本島の王子福岡はノーブルを意識し過ぎたか、持ち味を生かすには至らず。今後は福岡らしい覇気ある王子像を期待する。


一幕を牽引するクララには再演組のさいとう美帆、井倉真未と、初役組の加藤朋子、五月女遥。その中で五月女が一、二幕を通して溌剌と元気なクララを演じ、舞台度胸の良さを示した。雪の女王には舞台を大きく包む湯川麻美子、大人っぽい美しさを誇る寺田亜沙子、華やかな堀口純の3人、またドロッセルマイヤーの冨川祐樹は一貫した役作り、森田健太郎は迫力ある存在感で適役を証明した。


被り物が多く一層の献身性が求められる作品だが、それを身をもって示したのがベテランの吉本泰久。トロルの踊りに初めてあるべき姿を与えている。またフリッツ八幡顕光の過不足のない演技、ハレーキン江本拓とコロンビーヌ高橋有里の貫禄の踊り、エジプト厚木三杏、貝川鐵夫のスリリングなリフトが印象深い。


雪、花のアンサンブルはかつての超人的統一感を失っているが、バレエ団の現在の方向性を考えればやむを得ない流れかもしれない。大井剛史指揮、東京フィルは交響的な音作り。舞曲にもう少し艶っぽさが望まれるものの、オペラ劇場にふさわしい重厚な迫力があった。(12月17、18、21、23日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2864(H24.3.1号)初出

新国立劇場バレエ団2010年公演評

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●『白鳥の湖


新国立劇場バレエ団新年の幕開けは『白鳥の湖』。セルゲーエフ版を基に芸術監督の牧阿佐美が改訂を施したもので、今回新たに四幕のアダージョが削除された。オデットと王子が互いの感情を確かめ合うダンサーにとっては為所の場面。スピーディな展開を狙ったものと思われるが、残念ながら今回はそうした効果よりもドラマの稀薄さを印象づける結果に終わっている。


予定のキャストは4組。ただし初日を含め3回踊るはずのザハロワが当日故障、急遽代役として、すでに配役されていた厚木三杏が初日と二回目を、配役外の川村真樹が三回目を踊ることになった。両者ともスター性十分のベテランと中堅だが、今回が2回目の『白鳥』主演である。無事に踊りきったとは言え、近年の配役の混迷ぶりを露呈する形になった。


当初の回を含め3回踊った厚木は初日、持ち前の責任感と思い切りのよさで劇場の急場を凌いだ。パートナーにはそのままウヴァーロフが残されたので、互いの呼吸を測りながらの苦しい舞台である。2回目には自らの豊かな音楽性と演劇性を生かし、伝統的解釈に則った役作りを見せることができた。本来配役の公演では、代役の疲れを感じさせつつも持てる力を出し切って、グラン・フェッテの鋭さ、終幕のパトスで、無垢な王子貝川鐵夫を激情の渦に巻き込んだ。二幕の詩情、三幕の肉体の華やかさという美点を生かした川村共々、バレエ団への貢献は大きい。


初役は中堅のさいとう美帆(未見、パートナーはトレウバエフ)と若手の小野絢子。小野は優れた音楽性と緻密な解釈力、確かな技術を持った次代を担う逸材だが、さすがに『白鳥』の壁は厚かったようだ。音楽性は音感に留まり、解釈も身体化されていない。年末『くるみ割り人形』での初日の金平糖の精、最終日のクララ役から日が浅いということもあるかも知れない。次回、小野らしい白鳥を期待する。


パートナーの山本隆之は完成された王子造形を見せた。小野の一直線の芝居を見守るしかなかったが、本来は劇的なパートナーシップを築けるダンサーである。


ロートバルトの芳賀望は意志と献身性、貝川はノーブルな佇まいで個性を発揮。また西川貴子が正統的なマイムで威厳と気品に満ちた王妃を演じている。パ・ド・トロワでは川村、寺島ひろみ、トレウバエフのゴージャス組が舞台に厚みを、堀口純、寺田亜沙子、福岡雄大の清新組が爽やかな風をもたらした。


バレエ団若手では、道化役八幡顕光の踊りの切れ、同じく福田圭吾の愛情深さ、ナポリ伊東真央の全身からこぼれる微笑み、ルースカヤ井倉真未の舞台を支配する大きさが、ベテランでは、ハンガリー西山裕子の優美、同じく長田佳世と古川和則の骨太な踊りが印象深い。白鳥群舞は前回公演よりも精度が上がっている。


熱血アレクセイ・バクランの指揮に東京交響楽団はよく応えたが、オーボエの音詰まりはこの演目の場合やや致命的に思われる。(1月17、19、20、21、22日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2806(H22.2.21号)初出


●『アンナ・カレーニナ


新国立劇場バレエ団恒例の中劇場公演はロシア人振付家ボリス・エイフマンによる『アンナ・カレーニナ』(05年)。アクロバティックなアダージョアスレティックな群舞、シンボリックな感情表現は、ソビエトバレエが行き着いた究極のスタイルである。古典以外は英仏米作品を踊ってきた新国立劇場バレエ団にとって、挑戦とも言える作品導入である。


エイフマン版『アンナ・カレーニナ』(音楽チャイコフスキー)はトルストイの原作からアンナの部分を抜き出し、登場人物をアンナ、夫のカレーニン、愛人のヴロンスキーに限定(キティは冒頭の舞踏会にのみ登場)。主役三人の心理を表す象徴的なソロ、デュエットと、社交界、軍人、社会の良識、鉄道員といった外界を表す群舞が交互に組み合わされる。このため観客は通常の物語バレエのようにドラマの流れを辿るのではなく、三人のその時々の強烈な感情(パトス)を味わう仕組みになっている。


配役はボリス・エイフマン・バレエ劇場からのゲスト組と新国立劇場組のダブルキャスト。エイフマン組は当然ながら、アスレティックな動きとパの大きさを重視するエイフマン・スタイルの体現者である。アンナのニーナ・ズミエヴェッツはアクロバティックなリフトを難なくこなし、鮮烈な脚のフォルムを観客の目に焼き付ける。言わば動く肉体の彫刻である。グラン・ジュテしてそのままヴロンスキー役のガビィシェフに片腕を取られ振り回される場面、ベッドの手すりに乗ってアラベスクし、そのまま後ろ向きに倒れる場面では、危険と隣り合わせの振付を淡々と遂行して、無意識の崇高さを漂わせた。


エイフマンの分身とも言うべきカレーニンは若手のセルゲイ・ヴォロブーエフ。まだ十全とは言えないが、エイフマン独特の重厚な男性ソロを骨太に踊ってみせた。またアンナのアンダーも兼ねた堀口純が、キティの娘らしい外見と感受性豊かな内面を、わずかの登場で描き出すことに成功している。


一方新国立組のアンナとカレーニンはベテランの厚木三杏と山本隆之、ヴロンスキーには貝川鐵夫が配された。厚木のアンナは緻密な解釈と思い切りのよさが組み合わさった集大成とも言うべき出来栄え。エイフマンの振付意図を手兵ダンサーよりも的確に伝える。そのクリエイティヴィティ、感情を喚起する優れた音楽性、ドレス姿の気品、リフト時のラインの繊細さと強度は、アーティストの域に達している。


対する山本も少し若々しい感情表現だったが、カレーニンの内面の奥底にまで入り込んだ渾身の演技を見せた。パートナーとしての信頼度はバレエ団随一。一幕「フィレンツェの思い出」を使った和解のパ・ド・ドゥからは、二人の痛切な会話が聞こえてきた。貝川のヴロンスキーは初日は少し緊張気味。二回目でようやく素直な感情と優れた音楽性という長所を発揮した。終盤夢の中で子供に戻ったアンナを抱っこするデュエットが瑞々しい。困難なリフトにも果敢に立ち向かった。


ソリストを多く含む群舞はよく健闘している。中でも躍動感あふれる軍人群舞、蒸気機関車と化した鉄道群舞が素晴らしい。江本拓、福岡雄大、福田圭吾の鮮やかな踊り、トレウバエフの献身的動き、さらに舞踏会での西山裕子の精緻な踊りが印象的だった。演奏はテープ使用。(3月21、22、26、27日昼 新国立劇場中劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2812(H22.5.1号)初出


●『カルミナ・ブラーナ


新国立劇場バレエ団が次期芸術監督デヴィット・ビントレーの『カルミナ・ブラーナ』を5年ぶりに上演、同時上演『ガラントゥリーズ』と併せ、来季バレエ団陣営を予告する公演を行なった。


バレエ団初演の『ガラントゥリーズ』(86年)は、振付家ビントレーの繊細で生き生きとした音楽性、明朗な精神、ユーモアといった才能が余すところなく発揮されている。音楽は初期モーツァルトを使用。題名通り、男性ダンサーは一人を除いてサポート役に徹し、その優雅で慎ましい献身性は、英国に移植された帝政ロシア・スタイルを偲ばせる。

パートナリングは現代的な複雑さを帯びているが、全て音楽から導き出されており、技巧の誇示は皆無。トロワでの左右タンブリング・リフトや、アダージョでの流れるような回り込みサポートが素晴らしい。エポールマンをよく意識した清潔なスタイルと明晰な技術をダンサーに要求する、古典バレエの粋を集めたシンフォニック・バレエである。


3キャストのうち、初日組の精緻なアンサンブルが素晴らしい。メヌエットでは、若手の小野絢子が芳賀望と福岡雄大に交互にサポートされ、優れた音楽性と確かな技術を発揮、ビントレー振付の申し子であることを証明した。またアダージョの川村真樹が、山本隆之の十全たるサポートを受けて、花開くデヴロッペ、垂直に屹立するアチチュードなど、クラシック正統派の輝きを放つ。湯川麻美子の風格、長田佳世の活きのよさ、八幡顕光の音楽性など、ソリストの個性がよく生かされた、優れた座組だった。


一方、ビントレー版『カルミナ・ブラーナ』(95年、音楽カール・オルフ)は60年代英国ポップ・カルチャーを背景にしたモダンバレエ。冒頭の有名な「おお、運命よ」では、目隠しをした黒いスリップドレスとハイヒール姿のフォルトゥナ(運命の女神)が鮮烈な天秤ソロを踊る。神学生三人が音楽の三部構成に従ってダンスホール、ナイトクラブ、売春宿と人生を謳歌するが、最後にはしっぺ返しがくるため、振付家自身によれば「道徳的な作品」である。


振付はクールでスタイリッシュなフォルトゥナ・ソロと、神学生の群舞が充実している。他は歌詞を反映したマイムが多く含まれ、動き自体は音楽的ながら、振付の強度がやや低い。また曲数の多い第一部は、演出が煩雑で少し説明的に感じられた。だが、堕落を描いて明るく、ダンサー達が禁じ手の動きを嬉々として演じる姿は、見ていて楽しい。歌手や合唱との共演も、この作品の大きな魅力である。


主役は全て3キャスト。来季より姉妹バレエ団的存在になるバーミンガム・ロイヤル・バレエから、ヴィクトリア・マールがフォルトゥナ役で、ロバート・パーカーが神学生3役で客演。マールは前回のヒメネス程の強さはないが、癖のない踊りで、パーカーは美しい体型と素直な踊りでアンサンブルに溶け込んだ。


ビントレーの信頼厚いベテラン湯川は、二回目とあって完全に役を掌握、爽やかな色気と繊細かつシャープな動きで迫力あるフォルトゥナを造形する。神学生3の芳賀とのパ・ド・ドゥでは、臼木あいの濃密なソプラノをバックに、互いの感情が渾然一体となる熱い愛の形を描き出した。相手の芳賀も未消化の部分を残しながら、パートナーに誠実に対する優れたデュエット感覚を示した。


小野は少し早すぎるフォルトゥナだったが、成熟した肉体美を誇る神学生3山本とのパ・ド・ドゥでは、才能の確実な開花を予感させるみずみずしさを見せる。山本、古川和則、福岡という重厚な三神学生を従えて踊る、フィナーレでの真っ直ぐなソロは、まさに来季の予告だった。


小野と組んだ山本は、圧倒的な存在感、密度の高い踊り、虚構を楽しむ余裕にこれまでの道程を感じさせる。福岡の詩情あふれるオルフェウス風神学生1、古川の正統的な骨太神学生2、同じく福田圭吾のその場を生き抜くドラマ性と八幡の音楽性、さらに川村の美しいローストスワン、さいとう美帆の気紛れブロンド娘が印象的だった。


演奏はポール・マーフィ指揮東京フィル。バレエ団と同じ立場にある新国立劇場合唱団が、ピットから強力に舞台を支えている。(5月1、2昼夜、5日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2816(H22.6.21号)初出


●『椿姫』


新国立劇場バレエ団シーズン終幕は、99年以降11年の長きにわたってバレエ団を率いてきた牧阿佐美芸術監督の最終公演でもあった。演目は07年初演の自作『椿姫』全二幕である。


牧監督の功績は、日本のバレエ団にふさわしいアンサンブルを作り上げたこと、バランシンアシュトンマクミラン、プティ等、世界レヴェルの現代バレエを導入したこと、また『くるみ割り人形』を始めとする古典の再演出と、石井潤の『カルメン』、自身の『椿姫』、ビントレーの『アラジン』という再演に耐える創作バレエをプロデュースしたこと、対外的には米ロ二回の海外公演を実現したことが挙げられる。


ただ、主役ダンサーの起用については、これまで劇場を本拠とするプロのバレエ団が日本に存在しなかったこともあり、試行錯誤が繰り返された。開場以来唯一のプリマ候補だった酒井はなを登録に移行させたことは、バレエ団のその後の混迷ぶりを考えると残念と言わざるをえない。一方で次代を担う逸材、小野絢子を早くから主役起用し、次期芸術監督に繋いだ点は評価できる。最終日、カーテンコールに続いて牧監督の辞任の挨拶が行なわれた。バレエ団全員を背に、晴れ晴れとした表情が印象的だった。


再演の『椿姫』は練り上げられた仕上がり。前回物足りなかったパ・ド・ドゥも充実、ディヴェルティスマンはさらに磨きがかかった(アラブは省略)。唯一作舞法の異なるマルグリットとアルマン父のパ・ド・ドゥは、まだ動きの収まりが悪く突出して見える。一方終幕の様式的なパ・ド・トロワはナルシシズムが排除され、自然なクライマックスを迎えた。エルマノ・フローリオ選曲のベルリオーズはやはり作品の根幹である。オペラ劇場にふさわしい奥行きと深さを備え、示導動機を取り入れた緻密な編曲がドラマを易々と推進させた。


四人のマルグリット・ゴーティエは全員二回目。それぞれのアプローチが作品に貢献している。初日のザハロワは初演時よりも合理的なパフォーマンスに終始し、終幕トロワでようやく凄みが出た。それまで鈍く見えたラインが一気に引き締まり、リフト時の繊細な動きは宗教性さえ帯びている。ロシア派らしい崇高な叙情性が支配したザハロワ色濃厚な終幕だった。


二日目の酒井は完全に役を掌握している。肉体の磨き抜かれた輝き、繊細なライン、心の底から湧き出る偽りのない演技がすばらしい。牧独特の振付ニュアンスを完璧にこなしたのも酒井ただ一人だった。蓄積を生かした円熟の舞台である。


一方、昨年九月ボリショイ劇場で主役を踊った堀口純は本拠地初お目見えとなった。少し控えめだが細やかで丁寧な役作り。ラインよりも感情表出が前面に出る日本バレエ伝統のアプローチである。牧監督によるボリショイ抜擢が理解された。音楽が最も聞こえたのもこの日。フローリオは自分の作品を心置きなく指揮することができた。


本島美和のマルグリットは堀口とは対照的に押し出しの良さが特徴。華やかさが観客の視線を惹きつけるが、なぜか踊りに香りがなく感情が喚起されない。役作りを十全に身体化させる術をまだ見つけていないようだ。


アルマン役はザハロワにマトヴィエンコ、酒井と堀口に山本隆之、本島にテューズリー。マトヴィエンコは狂気すれすれの激情を見せる。一本調子だが献身的なアルマンだった。一方ベテランの山本は完璧な役作り。酒井にはよきパートナーとして、堀口には若々しい情熱的な恋人として存在する。堀口と出会う場面、頬を愛撫される場面の初々しさは、ボリショイ公演に至る濃密なプロセスを想像させた。


テューズリーは端正なロイヤルスタイル。恋人にしてはややクールで、他日配役された伯爵の一分の隙もない演技に美点が生きた。マルグリットの扇を拾う場面も説得的。また全日アルマン父を演じた森田健太郎は強烈な存在感を発したが、老け役としては受けの演技が必要だろう。


全体を通してドゥミ・モンドの華やかさを最も表現し得たのは、プリュダンスの厚木三杏とガストンの逸見智彦。主役でも良い程だった。ソリストが勢揃いするディヴェルティスマンではメヌエットの川村真樹、チャルダッシュの西山裕子、長田佳世、タランテラの小野絢子、またペザント福岡雄大が主役級の踊りを見せている。東京フィルは非常に充実していた。(6月29、30日、7月2、4日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2820(H22.8.11-21号)初出


●『ペンギン・カフェ


新国立劇場バレエ団が、新芸術監督デヴィッド・ビントレーを迎えて初めてのシーズンを開幕した。プログラムバレエ・リュスの古典、フォーキンの『火の鳥』(10年、54年)、バランシンの代表作『シンフォニー・イン・C』(47年、48年)、自身の『ペンギン・カフェ』(88年)。どれも激しい舞踊シーンを含むタフなトリプル・ビルである。


幕開きの『火の鳥』は上演100周年記念(バレエ団初演)。オリジナルに近いとされるグリゴリエフ=チェルニチェワ版に基づく。ストラヴィンスキーの色彩豊かな音楽、ロシア民話の素朴な味わい、濃厚なキャラクターダンス、ニジンスカやバランシンに共有される面白い人体フォルムなど様々な魅力を含むが、現状では歴史的意味合いの方が強い。今後は演奏のレベルアップによる補強が必要だろう。


タイトルロールは小野絢子、エリーシャ・ウィリス(バーミンガム・ロイヤル・バレエ)、川村真樹。小野は溌剌とした若鳥。音楽をすぐさま羽ばたきに変え、魔王の手下たちをユーモラスに踊らせる。ウィリスは伸びやかでダイナミックな成鳥、川村はゴージャスに羽ばたき手下を圧する、輝きに満ちた妖鳥だった。円熟味の点で川村が最も適役と言えるだろう。


イワン王子はそれぞれ、スターの存在感あふれる山本隆之、純朴なイアン・マッケイ(BRB)、物語を生き抜いた福岡雄大。王女ツァレヴナはたおやかな寺田亜沙子と風格のある湯川麻美子、魔王カスチェイは鮮烈なマイム役者トレウバエフ、妖しげな冨川祐樹、重厚な古川和則が務めた。


続くビゼー交響曲一番に振り付けられた『シンフォニー・イン・C』はバレエ団3度目。振付指導が変わり、初演時の破格のエネルギーは見られなかったが、すっきりした仕上がりである。ダンスクラシックの語彙のみによる振付は、ダンサーに純粋なパと音楽に忠実な楽器であることを要求する。


今回は第1、第2楽章の女性プリンシパル、長田佳世(1)、小野(2)、米沢唯(1)、川村(2)がそれに合致した。とりわけ初日の長田が優れたバランシンスタイルを体現している。躍動感あふれる音楽性、完全に意識化されたクラシックの肉体、盤石の技術。立ち姿のみで膨大な情報量を発信する。また火の鳥と同じく初日配役された小野は、初々しい蕾の魅力を発散させた。プリマがやるべき事を十分に理解しており、後は肉体の成熟を待つばかりである。男性では長田と組んだ福岡が踊りの切れと美しさで他を圧倒した。西山裕子、大和雅美を始めとするコリフェは充実、コール・ド・バレエの熟成はこれからである。


最終演目『ペンギン・カフェ』は、民族音楽の要素を多く含むサイモン・ジェフスの曲を創作の端緒とする。振付も多彩だった。ボールルームダンスやモリスダンスなど、種々の踊りを動物たちが賑やかに踊る。終盤は一転してカフェの入口が「ノアの箱船」の入口となり、動物と人間が二人一組で入っていく。夕闇迫る中、ペンギンが遠ざかる箱船を背に一人佇んで幕となる。


動物は全て絶滅危惧種であり、このペンギン種が既に滅んでいる事実を知らなくとも、生と死についての深い洞察が作品に隠されていることは明白である。シマウマが射殺される時の崇高な痙攣、消え入るように立ち去るネズミの小さな魂。動物たちの楽しげに踊る姿は、束の間の生、種のはかなさと表裏である。原題にある Still Life の二重の意味、「人生は続く」と「静かな生(静物画)」が、振付家の詩的で繊細な演出を通して静かに伝わってくる。


ダブルキャスト全員が献身的な演技を見せるなか、シマウマ 古川の高密度のフォルム、ノミ 西山の的確で音楽的な動き、ネズミ 福田圭吾のペーソスと役への同化が素晴らしかった。またペンギン さいとう美帆の細やかなフットワーク、ヒツジ 湯川とパートナー トレウバエフの洒脱な踊り、モンキー 福岡の華やかさ、熱帯雨林家族の貝川鐵夫、本島美和の無意識の哀しみも印象深い。


入口は入り易く、出るときは思索家となる優れた作品。恐らく子供の目と頭は深い理解を示すだろう。ポール・マーフィ指揮、東京フィル。(10月27、28、30日、11月3日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2835(H23.2.21号)初出


●『シンデレラ


新国立劇場バレエ団が年末恒例のアシュトン版『シンデレラ』を上演した。デヴィッド・ビントレー芸術監督、大原永子監督補の新体制になって二度目の公演、初めての全幕物である。


新体制による変化はまず運営面において顕著だった。ポスト・トーク、リハーサル見学、プルミエ・レセプションの導入、筋書きの当日配布、カーテンコールの改善など、観客とのコミュニケーションをより深める方策が採られている。カーテンコールを一回ごとに幕を降ろすやり方に変えただけで、ダンサーと観客の間に親密な空間が生まれた。社会における劇場の意味や、消費される文化ではなく育まれる文化の重要性を、新体制が認識している証左である。


二年ぶりの『シンデレラ』は4キャストが組まれた。期待されたパントマイム部分のブラッシュアップはまだ個人の技量に任されているようだが、主役、アンサンブルの踊り方にははっきりと変化が見られた。主役にはパの明晰さとスピード感、アンサンブルには伸びやかで大きな踊りが要求されている。従来の舞踊スタイル重視から、クリアな技術への転換があり、プロのバレエ団として新たな一歩を踏み出した印象を得た。それを象徴したのが長田佳世と小野絢子の初役二人である。


長田は、一人加わったことでバレエ団の体系が変わる程の強い才能である。長田の正確で躍動感あふれる踊りは、アシュトンプティパオマージュプティパそのものに戻す作用があった。炉端での全身全霊を傾けた演技はモスクワ派のリアリズムを想起させる。二幕アダージョでの見せ方には更なる工夫が望まれるが、本格派ドラマティック・バレリーナの誕生を期待させるに充分な舞台だった。カーテンコールでの心のこもったレヴェランスも素晴らしい。


一方、若手の小野はアシュトンの音楽的アクセントを隈なく実現する。明朗な精神と闊達な踊り、子ども達に夢を与える舞台人としての自覚に基づいた、優れたパフォーマンスだった。それぞれの王子は共にノーブルな佇まいの福岡雄大と山本隆之。福岡は端正な踊り、山本は場を支配する華やかな存在感と手厚いサポートに魅力を発揮した。


初日を飾ったさいとう美帆は重圧のせいか少し緊張気味だったが、持ち役にさらに磨きをかけている。踊りが大きくなり、何よりも感情が出せるようになった。王子のトレウバエフは最終日配役の義理の姉に精彩がある。


中堅の寺島まゆみと貝川鐵夫はリリシズムあふれる舞台作り。寺島の初々しいシンデレラと貝川のゆったりと鷹揚な王子が、親しみやすいお伽の世界を作り上げた。


義理の姉たちでは、初役のトレウバエフが明確なマイムと舞台への献身的情熱で一幕を支配、ベテラン堀登の溌剌とした可愛い妹に愛される姉だった。また気の好い妹 高木裕次が進境を見せている。仙女3キャストでは、復活の湯川麻美子が完成された役作りと円熟のヴァリエーションで舞台を大きく包み込んだ。


難しい道化役3キャストはそれぞれが貢献。八幡顕光は踊りの切れ、福田圭吾はその場に寄り添う自然な演技、バリノフは気合いのこもったマイムで客席を沸かせた。ナポレオンウェリントンは八幡=小笠原一真組の妙なおかしみが印象的。四季の精では西山裕子の音楽的な春の精、新加入米沢唯の優雅で切れのある秋の精が目立った。


王子の友人たちは回を重ねて整ったが、アンサンブルは初日から仕上がりがよかった。突撃隊長 大和雅美率いる星の精たちの肉体のきらめき、大柄マズルカの伸びやかな踊りが素晴らしい。ガーフォース指揮、東京フィルの奏でる濃密なプロコフィエフも公演の大きな魅力だった。(11月27、28日、12月4、5日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2833(H23.2.1号)初出

2017-09-18

新国立劇場バレエ団2009年公演評

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●『ライモンダ』


新国立劇場バレエ団が牧阿佐美版『ライモンダ』(全三幕)を上演した。ワシントン公演を含めると四度目の公演となり、バレエ団は振付をよく咀嚼、レパートリーとしての安定感が増している。


牧版の特徴は20世紀における古典改訂の主流、古典のシンフォニック・バレエ化を最大限に推し進めた点にある。マイムは極力排除、踊りで全編を綴り、主役によっては一大ディヴェルティスマンの様相を呈する。登場人物も『眠れる森の美女』のリラの精に相当する白い貴婦人を省略、さらには夢の場面でのアブデラクマンをカットするなど、恐らく世界で最もシンプルな筋書きと言える。


この夢の場のアブデラクマンは、ライモンダに、他の姫役とは異なる神秘性を付与する重要な要素である。それを省略する点に、改訂者特有の演出傾向を見ることができる。すなわち、女性主役の完全性、無謬性の強調であり、このことは同じ作者の『ア ビアント』改訂版、『椿姫』でも顕著だった。


シンフォニック化された『ライモンダ』はマイム不可欠のプティパ版から遠く離れているが、今回はオームズビー・ウィルキンスの緩急自在な指揮の下、東京交響楽団がかつてない演奏を行なって、牧版の美点を強調した。特に初日の音楽的充実は主役のザハロワによる感謝のレヴェランスからも明らかである。


ライモンダは四キャスト。初日を含め三公演を踊ったザハロワは、初役時に比べると格段に成長した。特に一幕アダージョでは堂々たるボリショイ・プリマの風格を見せつけている。


バレエ団では最終日に踊ったファースト・ソリストの川村真樹が、碓氷悠太(松岡怜子バレエソリスト)という釣り合いの取れたパートナーを得て、持ち味を発揮した。アラベスクの正統的な美しさはバレエ団の中でも群を抜いている。一幕アダージョでは久しぶりにバレエの美そのものを味わうことができた。また、三幕ソロの澄み切った詩情も素晴らしい。ただしコーダは押しが弱く、今後はゴージャスな肢体にふさわしい精神性を身に付けることが望まれる。


同じくファースト・ソリストの寺島ひろみは、なぜかこれまでとは異なり、ダイナミックでスポーティな魅力を発揮する前に終幕を迎えた。唯一、アブデラクマン森田健太郎とのパ・ダクションに本来の姿をかいま見せている。ソリストの本島美和は、華やかな容姿と押し出しの良さを買われての主役起用。ただ純粋なクラシックダンサーとは言えず、古典主役は少し時期尚早だったかもしれない。


ジャン・ド・ブリエンヌは、ザハロワにマトヴィエンコ、川村に碓氷、寺島と本島に山本隆之(前者は貝川鐵夫がインフルエンザのため代役)。一幕アダージョには、うつ伏せになったライモンダを両手で高く持ち上げたまま後ずさりで入場するハードワークがあり、頭が下がる。マトヴィエンコは従僕のような献身性、山本はノーブルでソフトな味わい、碓氷は荒削りだがダイナミックな踊りで、それぞれのジャンを務めた。


アフデラクマンは森田と冨川祐樹。両者ともエキゾティシズムよりノーブルさが優る。リアルな衣裳と齟齬があり、改訂者にはもう少し明確なアブデラクマン像提示を望みたい。


脇役では西川貴子のドリ伯爵夫人がずば抜けていた。ライン一つで空気を変えることができる。アンドリュー二世王市川透との組み合わせも良かった。また、ワガノワの同窓 トレウバエフと西川によるチャルダッシュが素晴らしい。回転技を含む変形の男踊り、さらにはスパニッシュでも、トレウバエフのキャラクター魂が炸裂した。


クレメンス小野絢子の明晰な踊り、ヘンリエット堀口純の内的な踊り、スパニッシュ江本拓の鮮やかな踊りが印象深い。また移籍組、芳賀望の無心な踊り、古川和則の生き生きとした踊りが目を引いた。(2月10、11、13、15日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2782(H21.4.21号)初出


●『白鳥の湖


新国立劇場バレエ団が牧阿佐美改訂振付による『白鳥の湖』(06年)を再々演した。牧版は土台のセルゲーエフ版にプロローグを加え、三幕にはルースカヤを挿入、終幕はロートバルトが愛の力に打ち砕かれて湖に沈む演出を採る。今回はプロローグの王女と友人による踊りを削除し、終幕ロートバルトの演技にも手を加えて、物語の流れを分かり易くしている。また照明の明度が上がったのか、踊り、衣裳、美術がよく見えるようになった。


主役は4キャスト。初日を含めた3公演をザハロワとウヴァーロフのボリショイ劇場プリンシパル組、あとの3公演をバレエ団の寺島ひろみと山本隆之(「中学生のための公演」のため未見)、厚木三杏と逸見智彦、真忠久美子と冨川祐樹が担当している。


ハロワとウヴァーロフは以前よりも互いを尊重し合うパートナーになりつつある。ザハロワはマリインスキーの伝統的解釈からもボリショイの様式性からも外れたところにいるが、本人の持つひたむきな愛らしさと美しい容姿でスターの輝きを放っている。ウヴァーロフにとっては狭い舞台なのだろう。力を出し切ることはないが、丁寧な踊りとサポートでザハロワを支えた。


厚木は初役。二幕は緊張からか体よりも頭が先に立ち、良いところを出せなかったが、三幕黒鳥からほぐれ、四幕は本来の姿に立ち戻った。厚木の才能は優れた振付解釈にある。コンテンポラリーバランシン、創作バレエ、古典と、あらゆるジャンルにおいて振付家の意図を正確に理解し、それを最大限に膨らませることができる。振付の音楽的造形的な理想形が、恐らく瞬時に感得されるのだろう。終幕には厚木の個性ではなく、バレエ芸術とはかくあるべしという踊りを見ることができた。04年の『眠れる森の美女』でも共に優れた舞台を作り上げた逸見は、行き届いた踊りに愛情あふれるサポートで厚木を盛り立てている。


最終日の真忠は二回目の『白鳥』。一時よりもスタミナが付き、ヴァリエーションの不安定さも見られなかった。何よりも美しい白鳥である。おっとりした半ば無意識かと思われる踊りに、指揮者を始めその場の全員が魔法に掛かったように引き込まれる。永遠を含んだ独特の時間感覚は真忠にしかない個性。『カルミナ・ブラーナ』のローストスワンや『こうもり』のベラは究極のはまり役だった。あのローラン・プティにコール・ド・バレエから抜擢された逸話を成る程と思わせる、まさしくバレリーナ白鳥だった。パートナーの冨川は前回ドラマティックなロートバルトを演じたが、ノーブルな踊りと万全のサポートで真忠の美を生かしている。


ロートバルト芳賀望が気の漲った踊りで舞台に貢献した。道化の吉本泰久、バリノフ、八幡顕光も例によって献身的。パ・ド・トロワでは、ベテラン西山裕子と若手小野絢子の音楽的でクリアな踊りが印象的だった。同じく江本拓は両回転トゥール・アン・レールを鮮やかに決めたが、髪の色が芳賀(トロワ時)共どもヤンキー上がりに見えたのが残念。また今回もトレウバエフがスペインハンガリーで見事なキャラクターダンスを披露している。


同団の売り物であるコール・ド・バレエはこのところ若手を多く起用したこともあり、精度が落ちている。以前は若いエネルギーでそれを補っていたが、今回は明らかに志気が低下。残念ながらかつてのような輝きは見られなかった。


指揮は『ラ・バヤデール』で情熱的な音楽を紡ぎ出したアレクセイ・バクラン。今回も意欲的だったが東京フィルの状態が悪く、指揮者の足を引っ張る結果に終わった。(5月21、22、24日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2787(H21.6.21号)初出


●『ドン・キホーテ


新国立劇場バレエ団が13回目のシーズンを開幕した。牧阿佐美芸術監督の総決算の年である。開幕作『ドン・キホーテ』(改訂振付・アレクセイ・ファジェーチェフ)には、ゲストを含め5キャストが組まれた。


今季バレエ団は新たなフェイズに突入した模様だ。Kバレエカンパニーからのソリスト3名の移籍(長田佳世、芳賀望、輪島拓也)、チューリヒバレエで活躍していた福岡雄大の参入、バレエ研修所には実力ある男子生徒が複数入所した。既存バレエ団や系統の枠を越える、国立本来のリクルートが軌道に乗り始めたと言える。その結果、所属ダンサーにも実力本位の基準が共有され、観客のために踊る劇場人らしい姿勢がより徹底して見られるようになった。


5キャストのうち最大の収穫は、プリマとして立つべき川村真樹の成熟、福岡雄大という新しい男性スターの誕生、さらに芳賀望の活躍だろう。


川村は99年入団、『眠れる森の美女』、『白鳥の湖』、『ライモンダ』とゆっくり古典主役の道を歩み、輝かしい存在感を示してきた。さらに今年3月のサープ作品では、ダンス・クラシックへの批評的振付をゴージャスな踊りで難なくこなし、優れた振付解釈力を明らかにしている。今回のキトリ役では、懸念されたコミカルな演技を英国系の上品な細やかさで的確に行なって、オールラウンド型プリマとしての実力を発揮した。踊りはパのみで空間を異化できる究極の正統派。一幕アン・オーのアチチュードでは、バレエの歴史を一瞬にして凝縮してみせた。無意識のうちにバレエ規範と化した肉体の可能性は計り知れない。川村自身とバレエ団は、その才能を完全に開花させる義務がある。


一方、福岡バレエ団デビューは、久々の男性スター誕生を意味した。ルックス、技術、パートナリングが揃った即戦力で、爽やかな魅力にあふれる。若手の筆頭、小野絢子とメヌエットで絡む場面では、バレエ団の明るい未来図さえも描き出した。


福岡がノーブル系バジルなら、芳賀望はやんちゃなキャラクター系。『アラジン』の主役を登録時代すでに踊っているが、つむじ風のような回転と矢のような跳躍は健在。「楽しくやろうよ」精神で、パートナーの川村をぐんぐん引っ張っていく。腕を使わないピルエットは圧巻。生命の躍動としての踊りを、初めて新国立の舞台にもたらした功績は大きい。


研修所二期生寺田亜沙子の主役デビューも、トレウバエフという安定感抜群、愛情あふれるパートナーを得て成功裡に終わった。少し硬くなってはいたが、おっとりした情感のある独自のキトリである。ラインも美しく透明感があり、何より観客に好感を抱かせるのが最大の強みと言える。


日本人初日の寺島ひろみは躍動感あふれる踊りが魅力。ただ少し先走り過ぎるのか、周囲とのコミュニケーションが空回りする。もう少し落ち着いた役作りが加われば、より美点が生きるだろう。パートナーの山本隆之はボリショイ劇場での大役を終え、ホームグラウンドでベテランらしい安定した舞台を見せた。ソフトで美しいバジルである。はまり役エスパーダには残念ながら配役なし。


最終日に福岡と組んだ本島美和は、チュチュでの様式性をよく意識してはいたが、やはりキャラクター色の強い一幕で持ち味が生きた。また初日のザハロワは、九月に行われた新国立劇場バレエボリショイ劇場公演『椿姫』(振付・牧阿佐美)主演の感動そのままに、かつてない観客への奉仕と愛情に満ちた舞台で、オペラパレスとパートナーのウヴァーロフを興奮の渦に巻き込んだ。


バレエ団では市川透のロマンティックなドン・キホーテ、吉本泰久の献身的サンチョ・パンサが初役ながらドラマの核となる。ロレンツォの小笠原一真も進境を示した。トレウバエフの正統派エスパーダ、それに応える厚木三杏の粋な街の踊り子と湯川麻美子の情念の色濃いギターの踊りが濃密なドラマを立ち上げる。またキトリの友人西山裕子と遠藤睦子の息の合った踊りはまさにバレエ団の歴史だった。森の場面では、少し甘さ控えめながら音楽的な厚木と、ボリショイ主演の輝きに満ちた堀口純が女王として君臨した。


大和雅美率いるセギディーリャとジプシーアンサンブルの切れのよさ、西山、小野、丸尾孝子率いる妖精アンサンブルの透明感がすばらしい。バレエへの愛情に満ちた情熱派アレクセイ・バクランの指揮に、東京フィルもよく応えていた。(10月12、13、15、17、18日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2801(H21.12.11-12号)初出


●『くるみ割り人形』新制作


新国立劇場バレエ団が12年ぶりに『くるみ割り人形』を新制作した。演出・改訂振付は芸術監督の牧阿佐美。長年ワイノーネン版を上演しながら自らの案を温めてきたのだろうか、初演にして完成された版である。


演出の最大の違いはクララ金平糖の精を別配役にし、プティパ=イワノフ版に近づけた点。二幕パ・ド・ドゥは伝統的な振付が採用された。ワイノーネン版の演出雪の女王役を含む英国系の演出が違和感なく組み合わされているのは、牧の音楽性によるものだろう。現代の東京から始まる導入部、ブルーマンを従えた興行師風ドロッセルマイヤーは、東京所在国立劇場の新制作として納得できる趣向である。


牧版ディヴェルティスマンは魅力的だった。アラビア(エジプト?)男女の官能性、中国の華やかな男性パ・ド・シャ、トレパックの勇壮、葦の精の音楽的調和など創意に富んだ振付が続き、牧の優れた音楽性、動きへの新鮮な感覚が改めて認識された。


オラフ・フォンベックによる赤から青に転換する大広間や国々の風景、夜会や花のワルツの美しい衣裳、立田雄士による幻想的な雪の森や王子登場のマジカルな照明がすばらしい。バレエ団のモットー「クール&エレガンス」を象徴する空間作りだった。


配役はゲストなし、バレエ団が総力を挙げて取り組んでいる。上演順に、金平糖の精には小野絢子、川村真樹、寺島ひろみ、本島美和、さいとう美帆、王子は山本隆之、芳賀望、貝川鐵夫、トレウバエフ、クララには伊東真央、井倉真未、さいとう、小野、雪の女王は西山裕子、西川貴子、湯川麻美子、厚木三杏、堀口純。


ファースト・ソリスト二人を置いて初日を勤めた小野が、緻密で的確な解釈を示している。優れたパートナーであるベテランの山本を相手に、二幕冒頭の登場からパ・ド・ドゥのアダージョ、ソロ、コーダに至るまで、気品と愛情に満ちた踊り、立ち居振る舞いで一貫した。象徴的だったのが幕前のカーテンコールでクララを先に入らせたこと。主役はあくまでクララという物語の筋を貫いた。まだ少し理が優っており、肉体の余情や倍音を醸し出すには至っていないが、バレエ団の次代を担うに足る志の高さがある。


作品の頂点を成すチャイコフスキーの痛切なアダージョを最も観客に体感させ、さらにパートナーシップの妙味を示したのが寺島と貝川。音楽の中に入り込み、パートナーをエネルギーの渦に巻き込む寺島の才能は、貝川相手によく発揮されるようだ。


前公演『ドン・キホーテ』で優れた舞台を提供した川村は美しい踊りながら、この役にふさわしい暖かさや包容力の点で物足りなさを残した。一方パートナーの芳賀はピンポイントの音感と献身性に魅力があった。


雪の女王の振付は解釈を分けた。西山は優れた音楽性とアシュトン風の鋭角的な上体使いで雪片のきらめきを、湯川はゆったりとした大きな役作りで女王の風格を表した。共に自らの可能性の最終段階に辿り着いた円熟の境地である。クララでは伊東の自然な少女らしさ、小野の圧倒的な解釈が強い印象を残した。


ドロッセルマイヤーはまだ完成の途上にあるが、冨川祐樹は妖しさ、森田健太郎はドラマティックな音楽性で個性を発揮、逸見智彦と楠元郁子がエレガントで美しいシュタルバウム夫妻を演じている。フリッツ、トロル、くるみ割り人形、トレパックと八幡顕光が大活躍、スペイン古川和則の音楽的で味わい深い踊り、アラビア寺島のなまめかしい踊りが印象深い。またフランスの田舎娘風葦の精の寺島まゆみ、小村美沙、細田千晶トリオが息の合った回転技で観客を魅了、雪、花の両ワルツ・アンサンブルは格別の美しさだった。


演奏は大井剛史指揮の東京フィル。健闘した東京少年少女合唱隊にスポットライト無しは可哀相な気がする。(12月20、21、23昼夜、26日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2809(H22.4.1号)初出

2017-09-17

新国立劇場バレエ団2008年公演評

標記公演評をまとめてアップする。

●『カルメン


新国立劇場バレエ団が三年ぶりに石井潤振付『カルメン』を上演した。初演時にもすでにレパートリーとしての地力は予想されたが、今回の再演でこれが確認されたことになる。


石井版『カルメン』の特徴は、オペラにほぼ準じた構成にホセとカルメン心象風景を挿入している点、全体を闘牛のモチーフで貫いている点が挙げられるが、今回改めて、これらを駆使する石井の緻密な演出手腕に驚かされた。物語上の現在と象徴的場面が、演劇的必然性を伴って織り合わされている。ただ、ロビン・バーカーのきめ細やかな選曲とは足並みを揃えているものの、美術とはコンセプトの共有がなく、さらに照明の主張が強すぎて石井の実験性や諧謔味が前面に出ないなど、コラボレーションとしての不満が残った。


振付のスタイルは役に即した多彩なもの。主役、ソリスト、群舞、および男女舞踊のバランスのよさが、全幕物の醍醐味をもたらす。最大の見せ場はやはり「花の歌」のパ・ド・ドゥだろう。直接的表現にのみ目が行きがちだが、カルメンの孤独の激しさと深さが痛切に刻まれた、優れたパ・ド・ドゥである。また街の男による闘牛士を象った踊りは、発声に依然として問題を残すものの、フラメンコと東洋武術の掛け合わせが面白い。


カルメンは四キャスト。そのうち三人のベテランが、それぞれ役作りに充実を見せている。初日の酒井はなは、自らのカルメン像を振付に反映させ、その上で肉体の変容を目指す、一種巫女に似たアプローチを取る。今回は初演時のようなエネルギーの爆発はなかったが、舞踊の原点に遡る貴重な方向と言えるだろう。


二日目の湯川麻美子は、その場で役を生きる演技派の正統的アプローチ。四人のうちで最もホセへの愛を肉体化させている。「花の歌」のパ・ド・ドゥでは、湯川のこれまでの人生がすべて動きに注ぎ込まれ、真実とまで言える表現に到達した。


最終日の厚木三杏は舞台の上で自由になれるプロのダンサー。舞台で死んでもかまわないと思っている風に見える。クリエイティヴなアプローチはバレエ団随一と言えるだろう。石井の振付を細部まで読み込み、十全に身体化する。厚木の描く「孤独を抱えながら誰にも束縛されない自由カルメン」には普遍性があり、石井の作品世界もより明晰になった。


対するホセもベテラン三人が個性を発揮している。初日の山本隆之は踊りの質も向上し、磨き上げられたホセ像を見せる。ただ前回よりも酒井を受け止める度合いが狭まったため、一人芝居に見える部分があった。二日目のゲスト、ガリムーリンは、往年の切れは見られなかったものの、ホセのプロトタイプを示す円熟の舞台。湯川との呼吸も深く、唯一、愛の物語を現出させた。最終日の貝川鐵夫は厚木に匹敵する思い切りのよさが身上。平気で舞台に身を捨てることができる。踊りはあくまで正統派ノーブル系だが、そのギャップに魅力がある。


三日目に踊った若手二人は課題を残した。カルメンの本島美和は、解釈を身体化する方向をまだ見つけていないようだ。動きが動きのままで終わっている。様式性の獲得、ラインの彫琢という原点に立ち返るべきだろう。一方ホセを踊ったゲストの碓氷悠太は、恵まれた容姿と一定の技量を持つノーブル候補。途中からロミオのようになってしまったが、場数を踏めば有望と思われる。


ミカエラの真忠久美子、川村真樹、西山裕子、大湊由美(出演日順)もやはりベテランが個性を発揮した。中でも川村は華やかで大きさのあるプリマの踊りを見せる。大湊は時期尚早のデビューだったかもしれない。


スニーガの市川透は嫌らしさで独壇場、パスティアのイリインは登場するだけでドラマが立ち上がる。また街の男ソリストでは、吉本泰久の東洋的呼吸と切れ味鋭い所作が光った。男女アンサンブルは年末の『くるみ割り人形』に引き続き円熟味を感じさせる。大井剛史指揮の東京フィルも、初日こそ硬かったものの、舞台との呼吸もよく、ビゼーの魅力を堪能させた。(3月27、28、29、30日 新国立劇場中劇場)  *『音楽舞踊新聞』N0.2753(H20.5.1号)初出


●『白鳥の湖


新国立劇場バレエ団今季最終演目は、牧阿佐美版『白鳥の湖』。06年の初演以来一年半ぶりの再演である。牧版は、セルゲーエフ版本体にオデットが白鳥に変えられるプロローグを追加。終幕は同じハッピーエンドながら演出を変更し、さらに三幕にルースカヤ、四幕冒頭に王子の独白ソロが加わる。


プロローグと終幕の演出は依然として演劇的説得力を欠くが、全体の仕上がりが良く、特に一幕男女アンサンブル、二幕の白鳥群舞、三幕キャラクターダンスは、これまでになく生きいきしていた。「中学生のためのバレエ」を含め連続六日間、レヴェルを落とすことなくむしろ向上させて公演を終えた点に、十年を経過したバレエ団の成熟がある。


四キャストの初日は例によって海外ゲスト(ザハロワとウヴァーロフ、ボリショイ劇場バレエプリンシパル)だが、今回は日本人ダンサー三人の表現の違いに、考えさせられる点が多かった。日本人初日の川村真樹は初役。そのせいか白鳥では手足が縮こまり、長所の伸びやかなラインを見ることができない。だが一転して黒鳥では、コントロールされたラインが醸し出す輝かしい気品、踊りの正統的な美しさ、アチチュードで立つだけでふっと浮くような歴史的肉体が出現する。英国ロイヤル直系の姫役であり、同時に、酒井はなに並ぶ唯一のオールラウンド型プリマである。


二日目の寺島ひろみは スピーディ、スポーティにドラマティックが加わり、長足の進歩を遂げた。長い手足、ふくらはぎの筋肉、少し長めの胴が弓のようにしなり、音楽と一体化した力強い動きを繰り出していく。終幕では王子の貝川鐵夫、ロートバルトの冨川祐樹、指揮者のエルマノ・フローリオと四つ巴になり、破格のクライマックスを作り上げた。極めて意志の強い寺島の白鳥は、貝川の優しい王子とよく合っている。だがカーテンコールを含め、もう少し二人の共同作業も見せて欲しかった。


最終日、今季のトリを務めた酒井はこの十年間、第一線のプリマとして白鳥を踊り続けてきた。今回はその総決算とも言うべき、極めて完成度の高い白鳥を披露している。ただし、かつてのようなあの篠山紀信をかぶりつきに座らせた肉体の熱はなく、観客が体から自然に拍手をしてしまう霊的交感もなかった。劇場における酒井の位置付けの変遷を考えると、当然の結果と言えるだろう。


酒井の特徴は、バレエのパが完全に遂行されているのに、所謂「バレエ」に見えないこと、バレエという枠組みでは捉えきれない、ジャンルを超えた「踊り」そのものになっている点である。拍を刻まない独特の音取りや体幹の使い方と言った技術的なことよりも、舞台上での身体感覚や存在のあり方が、日本の伝統芸能に近い点に理由があると考えられる。


息を詰める座敷舞のような白鳥アダージョ花魁道中のようなマノン二幕の登場、道行きのようなオルフェオとのデュエットなど、身内がトロッとするような、日本の芸能が与える独特の感覚を、酒井の舞台から何度も味わってきた。さらに佐々木大と組んだ『ドン・キホーテ』では、巫女トランスに入ったのと同じような破壊的なエネルギーを劇場に充満させている。世界(社会)を相対化させる劇場本来の機能に、最も貢献したプリマと言えるだろう。もう二度と篠山をかぶりつきに座らせるダンサーは現れない、酒井の静かに閉じた舞台を見て、そう思った。


三人のパートナーは、それぞれ中村誠、貝川、山本隆之。中村はノーブルな立ち姿とは裏腹にソロルの方が適役。ただ、いずれにしても体力、筋力の向上は必須だろう。貝川はおっとりした無垢な王子。登場するだけで場がなごむ。一幕ソロはまとまらなかったが、三幕ソロでは喜びが爆発、四幕は情熱的だった。酒井のパートナー山本は、第一舞踊手としての求心力がある。白鳥群舞をざわめかせる色気もこの人ならでは。


冨川の様式的でドラマティックなロートバルト厚木三杏の鮮烈な大きい白鳥、中村の美しいスペイン、若手小野絢子のはじけるトロワが印象に残る。イリインの愛情深い家庭教師はやはり一幕の要。フローリオ指揮の東京フィルも、管のミスを帳消しにする重厚で体に残る音楽を作り上げた。


中学生とは別に二日間学生団体が入り、一般客に非常な忍耐を強いたが、中学生に対するのと同じ、適切な手当が必要だろう。(6月24、25、26、27、28、29日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2761(H20.9.1号)初出


●『アラジン


新国立劇場バレエ団に老若男女が楽しめる魅力的なレパートリーが出現した。『アラビアンナイト』の一話として伝えられてきた『アラジン』である。構成・振付・演出はバレエ団次期芸術監督で、現ロイヤル・バーミンガムバレエ団芸術監督のデヴィッド・ビントレー。映画音楽で有名なカール・デイヴィスによる入魂の音楽に、創意あふれる舞台装置(ディック・バード)、美しい衣裳(スー・ブレイン)、マジカルな照明(マーク・ジョナサン)がスクラムを組んだ、高レヴェルの総合芸術である。


一見してビントレーの指導者としての力量は明らかだった。ダンサーのほぼ全員が、技術的にも表現的にもレベルアップしている。バレエの伝統的役柄に則った適材適所の配役で、久々にバレエ団全体が使い切られている印象を受けた。

明確な構成、演劇的で緻密な演出、優れた音楽性は、いかにもド・ヴァロア、アシュトンの後継者である。振付は前回の『カルミナ・ブラーナ』とは異なりクラシックスタイル。音楽に沿った自然な振付は、ビントレーの円熟を示している。


アシュトンへのオマージュダイヤモンド)を含む宝石のディヴェルティスマンの完成度は高く、コンサートピースにできるほど。一方、結婚のパ・ド・ドゥと幸福のパ・ド・ドゥはストイックなまでにシンプルである。主役(特にプリンセス)に音楽性、様式性、演劇性を要求する試金石のような振付と言える。


主役のアラジンとプリンセスにはトリプル・キャストが組まれたが、今回は二人の新星が誕生した公演として記憶されるだろう。すなわちプリンセスの小野絢子と、アラジンの芳賀望である。


二日目を踊った研修所出身の小野は、新人ながら最も明確なプリンセス像を描き出した。清潔で伸びやかなライン、正確な技術、優れた音楽性、様式的かつ感情豊かなマイム、そして愛情あふれるユーモアのセンス。特に最後の属性は天から授かった最高の贈り物である。パ・ド・ドゥでは小柄ながら献身的八幡顕光のサポートを得て、シンプルな振付を主役の輝きで満たした。


一方、三日目を踊った芳賀はやんちゃなアラジンそのままだった。つむじ風のようなピルエット、はじける跳躍、そして「ダイヤモンド」の振りマネの美しさ。舞台やパートナーへの献身性もあり、役柄は限定されるが、即戦力の主役である。


芳賀のプリンセス湯川麻美子は『カルミナ・ブラーナ』でも主役を務め、ビントレーの信頼が厚い。所謂姫役ではないが、役の感情を一つ一つ大切にし、丁寧な踊りで円熟味を見せた。一方、初日の本島美和は華やかな存在感が持ち味。ただ依然として人気が先行しており、今後は技術の向上、肉体(特に腕)の意識化もさることながら、主役として観客のために踊ることが求められるだろう。


初日のアラジンプリンシパルとなった山本隆之。これまで王子役や『カルメン』のホセなど二枚目系統で優れた演技を見せてきたが、今回のやんちゃな役柄には自身今一つはまっていないようだ。珍しく役との隙間が見え隠れした。二日目の八幡は健気で真面目なアラジン。踊りの切れはあるが、もう少し役作りにゆとりが欲しい気がする。


魔術師マグリブ人のトレウバエフは様式美で、冨川祐樹は妖しさで、ランプの精ジーンの吉本泰久は高速の回転技で、中村誠は美しい肢体とエキゾティックな雰囲気で、物語の脇を固めた。特に中村は抜きん出た音楽性を示したエメラルド役と共に、究極のはまり役と言えるだろう。


サルタン役のガリムーリン、アラジンの母の難波美保は適役。ディヴェルティスマンでは、美しいシルバーの川村真樹、官能的なルビー厚木三杏、ゴージャスなダイヤモンドの西川貴子が印象深い。


定評のアンサンブルも踊りが大きく勢いがあった。特に「砂漠の風」はこのバレエ団にしては珍しくエロティックなニュアンスを出している。ポール・マーフィ指揮、大編成の東京フィルも充実していた。(11月15、19、20日 新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2773(H21.1.1-11号)初出


●『シンデレラ


新国立劇場バレエ団が二年ぶり六度目のアシュトン版『シンデレラ』をクリスマス上演した。前回公演はアシュトンプティパオマージュが明確に伝わる批評性の高いパフォーマンスだったが、今回そうした振付のエッセンスは影を潜めている。星の精やマズルカ群舞の鋭いエポールマンによる人体のきらめきは消えてしまった。また、前公演『アラジン』のような演劇的な演出の痕跡もない。その代わりダンサー達は伸び伸びと明るく踊っており、指導者は芸術的な完成度よりレパートリーとしての安定感を目指したと思われる。ただし、5キャスト8公演の長丁場は波乱含みだった。


当初予定されていたアリーナ・コジョカルの代役ラリーサ・レジニナが初日の舞台で故障。第二幕で王子のヨハン・コボーがソロを踊って幕が降り、短い休憩を挿んで他日主演のさいとう美帆とマイレン・トレウバエフがパ・ド・ドゥから引き継ぐ一幕があった。


故障は避けられないが、最終日のアクシデント、馬車の横転は緊張感の欠如と言われても仕方がない。一つ間違えばけが人が続出する可能性もあり、何より物語上あってはならない事故である。


初日の短時間での代役交替は評価されるべきだろう。ただし観客への告知は表方の責任者が行なうべきだろうし、最終日、十数秒にわたって横転した馬車と呆然と立ち尽くす御者を観客の目に焼き付けたのは得策ではなかった。


シンデレラの4キャストはそれぞれの個性を発揮。ベテラン酒井はなは息の合ったパートナー山本隆之と共に、隅々まで心を込めた細やかな演技と踊りで、夢のような暖かい舞台を作り出した。


レジニナの残り二公演も代役したさいとう美帆(22日夜、23日昼夜のハードスケジュール)は、コボーとも自然なコミュニケーションを取り、きらきらと輝くシンデレラを造形、初役の寺島まゆみは、古典作品のような客席目線が気になったが、可憐で力みのない踊りが貝川鐵夫の優しい王子とよく合っていた。


最終日の西山裕子は最もアシュトン振付の可能性を明らかにしたと言えるだろう。室内楽のような繊細な音楽性、的確で自然な演技、妖精のような詩情が融合し、ダンサーとして円熟の境地に達している。とくに一幕が素晴らしく、マイム役者西山を見る喜びがあった。王子は同種の音楽性を有する中村誠。二幕で一瞬二人の音楽性が共有される瞬間はあったが、本調子でなかったのが残念。


義理の姉たちでは、姉役の保坂アントン慶のアンサンブルを見守る視野の広さが際立った。妹の初役高木裕次、ベテランの堀登とも呼吸を合わせ、物語の土台作りに貢献している。名父親役のイリインは残念ながら配役されなかった。


仙女のダブル・キャストは共に一長一短がある。初日の川村真樹はバレエの美そのもののヴァリエーションを見せたが、役作りに物足りなさが、一方の本島美和は役にふさわしい大きさはあるものの、踊りの精度に問題があった。


春の精小野絢子の清潔なポール・ド・ブラと優れた音楽性、冬の精厚木三杏の圧倒的な存在感と研ぎ澄まされたラインが印象的。吉本泰久、バリノフ、八幡顕光の道化三人組は献身的伊藤隆仁のナポレオンは今回も期待を裏切らなかった。デヴィッド・ガルフォース指揮、東京フィル。(12月20、22、24、26、27日、新国立劇場オペラパレス)  *『音楽舞踊新聞』No.2778(H21.3.1号)初出

新国立劇場バレエ団2007年公演評

標記公演評をまとめてアップする。

●『眠れる森の美女


新国立劇場開場記念公演から十年、五回目のセルゲーエフ版『眠れる森の美女』は、川村真樹の主役デビュー公演として記憶されることになった。川村は99年に入団、04年にソリストに昇格し、リラの精、ミルタ、『シンデレラ』の仙女など、重要な役どころを踊ってきた。美しい容姿に伸びやかなライン、正確な技術を持ちながら、今一つ押し出しの弱さが弱点となっていたが、初主役の今回、これまでの印象を完全に覆すパフォーマンスを見せた。


とても初役とは思えない完成度の高さ。川村の七年間が凝縮されている。踊りは繊細で、真情がこもっている。役解釈はすみずみまで施されているが、演技上の工夫で見せるよりも、常に周囲を祝福する存在として輝きを放つ、理想的なオーロラ像だった。バレエ団は酒井はなを登録ダンサーに移行させた後、酒井の跡を継ぐプリマを育てようと努めてきたが、現状では必ずしも成果が上がっているとは言えない。その中で今回川村が成功を収めたことは、バレエ団にとって重要な意味を持つと言えるだろう。さらに川村は酒井同様、舞台を一変させ、劇場を親密な空間に変える力を持っている。プリマ誕生への期待を十二分に抱かせるデビュー公演だった。


王子は初役の貝川鐵夫。ヴァリエーションの完成はこれからだが、踊りに勢いがあり、何よりも舞台を明るくするポジティヴな精神性が魅力である。前髪はわざとカジュアルにしたのだろうか、少し気になった。


トリプル・キャストのうち最終日を踊った真忠久美子は、二度目のオーロラ役。パートナー山本隆之の手厚いサポートを得て、二幕では夢のようなアダージョを展開した。真忠のおっとりした眠り姫らしい存在感は、バレエ団随一と言えるだろう。しかし一方で、一幕の不安定さはオーロラ役から大きく乖離している。古典全幕の主役としては、もう少し自立した踊りが要求されるだろう。山本は、回転技に少し乱れがあったものの、王子役としては完成されている。パートナーへの目配りと舞台をまとめる責任感は、山本の美点である。


初日と三日目を踊ったゲストは、キエフバレエソリストアナスタシアチェルネンコと、ボリショイ劇場ゲストソリストのデニス・マトヴィエンコチェルネンコは初役なのか、役作り、踊りともに精彩を欠いていた。初日のゲストとしては力不足だろう。パートナーのマトヴィエンコはここ一年で踊りが格段に進歩した。しかし依然としてノーブルな演技は不得手のようで、王子らしさを出すつもりが陰気としか映らない。ドゥミ・キャラクテールが本来なのかもしれない。


リラの精とカラボスはダブル・キャスト。西川貴子は役(リラ)の性根が入った踊りを見せる。三幕のヴァリエーションはもう少し柔らかさが欲しいが、ロシア派の規範に則った踊りと善の精としてのリラが二重写しになり、作品の堅固な要となっている。一方湯川麻美子のリラは、妖精らしい甘い雰囲気。踊りも精度を増しているが、残念ながら役の踊りとまでは行かなかった。


カラボス初日のイリインは、音楽のドラマ性を汲み取った優れたマイムで舞台にアンサンブルを作り上げる。今やバレエ団の宝的存在。一方のアクリはかわいらしく華やかなカラボスだった。妖精では、鷹揚の西山裕子、呑気の高橋有里、勇気の厚木三杏、元気の寺田亜沙子が、妖精らしい雰囲気を伝える。また寺島まゆみの白い猫がかわいらしい。パも明晰だった。


エルマノ・フローリオ指揮、東京交響楽団の初日は、まるでゲネプロだった。セルゲーエフ版の目玉である間奏曲も安定しない。最終日までにはフローリオがまとめ上げたが、もったいないプロセスだった。(2月1、2、4日 新国立劇場オペラ劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2718(H19.3.11号)初出


●『オルフェオとエウリディーチェ


新国立劇場バレエ団が、アメリカ人振付家ドミニク・ウォルシュの新作『オルフェオとエウリディーチェ』(グルック曲)を上演した。05年の石井潤振付『カルメン』に続くエメラルド・プロジェクト(内外の振付家に物語のある新作バレエを委嘱する)の一環である。


ウォルシュ版『オルフェオとエウリディーチェ』は、グルックオペラ全三幕を二幕に縮め、オルフェオバリトンに変更した上で、オペラアリアレチタティーヴォ、合唱を最大限に生かしている。序曲とバレエ曲を使ってプロローグとエピローグを設け、物語に現代的な枠組みを加えているが、概ねオペラの構成に忠実である。


ただし、グルック独特のオルフェオとエウリディーチェによる迷路の掛け合いから解釈したのか、エウリディーチェ像が女性の原型的な二面性(聖母と娼婦)を併せ持つ人物にまで膨らんでいる。さらに、プロローグの出かけようとするオルフェオをエウリディーチェが引き留める愛の戯れは、ウォルシュ自身が今回の主役の一人、酒井はなと踊った『マノン』を想起させて、この版の出自の一つを明らかにした。


振付はバレエを基礎に、モダンコンテンポラリーの語彙を加えている。ポアントはFuries(復讐の女神たち)のみが使用、その化け物性は、エリュシオンの精霊たちによる平面的でアルカイックな動きと対照を成す。全体的にマクミラン張りのリフトの浮遊感が多用されるが、物語に立脚した使用と言える。演出は緻密。特にウォルシュがその音楽によって作品を選ぶきっかけとなった復讐の女神たちと死霊のシーンは、照明バトンの上下動と、奥舞台の距離感を有効に生かした劇的な演出だった。ルイザ・スピナテッリの洗練された衣裳も効果的。


音楽のドラマ性を写し取るウォルシュの力は、『ア ビアント』(牧阿佐美バレヱ団)におけるクラシックの振付同様、明白である。ただしこの作品が、歌手の参加する舞踊作品ではなく、舞踊シーンの多いオペラ作品に見えるのは、ソリストの踊りが歌と拮抗するだけの強度に欠けること、独立したパ・ド・ドゥがないこと、ソリストが三名のみで、群舞は音楽の背景と化してしまうこと、また、照明がダンサーの判別を許さないオペラ寄りであることが理由として挙げられるだろう。この作品の可能性は、オルフェオバリトン(吉川健一)の歌唱と、オルフェオダンサー中村誠)の音楽性が響き合った二日目の組で発揮された。


ダンサーは初日と三日目が山本隆之と酒井はな、二日目は中村と湯川麻美子、四日目は江本拓と寺島ひろみという組み合わせである。山本と酒井の踊りは、動きの隅々まで解釈が行き届き、振付の希薄さを感じさせない。特に二幕の迷路は感情のやりとりが濃厚で、近松の道行きを思わせた。酒井は女性の聖性と魔性を、細かい役作りと磨き込まれた身体で浮かび上がらせる。繊細でエロティックな感触は酒井独特のもの。ファム・ファタルの輝きがあった。


中村と湯川組も、相性の良さを窺わせる熱演。特に湯川は、今までで初めて形式と内容が一致した踊りを見せている。体も透明で美しい。一方の中村も、美しいラインと優れた音楽性を発揮する。体が音楽で分節化されているようだった。振付の音楽性を振付家の意図以上に身体化させたという点では、エリュシオンの女性リーダー西山裕子と双璧である。江本=寺島組は、実力を出し切れなかったせいか、先行二組がそれぞれ達成した虚構度の高さを示すには至らなかった。


バリトンオルフェオ)の吉川、ソプラノ(エウリディーチェ)の國光ともこ、八名からなる新国立劇場合唱団がすばらしい。編曲を担当したガーフォース指揮の東京フィルも緊密な音を響かせた。(3月21、23、24、25日 新国立劇場中劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2721(H19.4.21号)初出


●『椿姫


新国立劇場バレエ団が、同劇場開場10周年記念公演の一環として、『椿姫』(全二幕四場)を上演した。振付・演出は99年より芸術監督を務める牧阿佐美、音楽はエルマノ・フローリオ編曲のベルリオーズを使用、舞台装置・衣裳はルイザ・スピナテッリ、照明は沢田祐二の組み合わせによる全幕創作バレエである。


牧版『椿姫』の根幹はフローリオの優れた音楽構成にあった。ヴェルディオペラ椿姫』の台本を踏襲し、ベルリオーズの『幻想交響曲』『イタリアのハロルド』『ファウストの劫罰』等から的確な選曲を行なっている。自ら率いる東京フィルの好演もあり、継ぎ目を感じさせない独立した音楽世界を築き上げた。演出・振付はアシュトンマクミラン、ノイマイヤー等の影響を感じさせはするが、牧自身の呼吸と思考が全編を貫いている。牧が現在持てる力を出し切った力作と言えるだろう。


独自性を感じさせたのは、二幕ディヴェルティスマン。ポアント使用のジプシー、チャルダッシュ、タランテラや、官能的なアラブは、音楽の見事な舞踊化だった。特に回転技やステップの切れに、振付家の自然な音楽性を見ることができる。一方、本筋のドラマ場面では、マルグリットとアルマンの父による引導を渡すデュエット、終幕のマルグリットとアルマン、アルマンの父による脱力のパ・ド・トロワに力があり、逆にマルグリットとアルマンのパ・ド・ドゥに物足りなさが残った。


出会いのパ・ド・ドゥは短く、田舎での幸福のパ・ド・ドゥは困難なリフトが二人の愛を妨げるかに見える。終幕のマルグリットはすでに死の淵にあって脱力しており、さらにアルマンの父の介入もある。二人の愛の悲劇よりも、マルグリットの崇高な自己犠牲に焦点が当てられた演出は、残念ながらドラマのダイナミズムを失わせる結果となった。


マルグリット四キャストのうち、これまでの印象を塗り替える進境を示したのが、初日のザハロワ。アルマン役マトヴィエンコの形式的な演技や演出傾向のせいもあり、ドラマティックな愛を描くことはなかったが、高級娼婦の華やかな存在感、女主人の毅然とした立居振舞、アルマン父との苦しみの葛藤、終幕の崇高なソロと、牧の振付を十全に咀嚼し、そこに自らの解釈を加えている。ドラマティック・バレリーナとしての思いがけない一面を見た。


国内組では、トップを切った酒井はなの磨き抜かれたラインが圧倒的だった。アルマン父森田健太郎との激烈なパ・ド・ドゥは、二人によるマクミラン版『ロメオとジュリエット』を想起させる。またバレエ団の若手、本島美和は終始駆け抜ける若々しいマルグリットを、ゲストの田中祐子(牧阿佐美バレヱ団)は落ち着いた母性的なマルグリットを造形した。


対する男性陣は、山本隆之がソフトな語り口で恋するアルマンを、ゲストの菊地研(牧阿佐美バレヱ団)が無謀さを秘めた激しいアルマンを、そしてゲストのテューズリーがデ・グリュー張りの美しいアラベスクで正統派アルマンを作り上げた。ただし国内ゲストの演技は、所属団員の出演機会を奪うに足るレヴェルとは言い難い。


アルマンの父森田の力強い存在感と美しいラインが印象深い。公爵のテューズリー、冨川祐樹は適役、プリュダンスの厚木三杏は主役を凌ぐ華やかさだった。また小間使いナニーヌの神部ゆみ子が、優れた演技でザハロワを支えている。


ディヴェルティスマンでは、ジプシー川村真樹の正統的な踊り、アラブ真忠久美子の魔術的な上体の美しさと金の奴隷を思わせる中村誠の官能的な踊り、チャルダッシュ西山裕子の驚異的な音感の鋭さと精妙な腕使いが楽しみだった。また女装のメヌエットダンサー、トレウバエフと相手役吉本泰久の演技力も注目に値する。


二幕でマルグリットの落とした扇を傍らの男性ではなく自らが拾う演出にしたのは、何か特別な意図があったのか。不明だった。指揮はフローリオ、演奏は東京フィル。(11月4、7、10、11日 新国立劇場オペラ劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2742(H20.1.1-11号)初出

新国立劇場バレエ団2006年公演評

標記公演評をまとめてアップする。

●「ナチョ・ドゥアトの世界」


新国立劇場バレエ団恒例の中劇場公演は、「ナチョ・ドゥアトの世界」。ドゥアトはベジャール、アルヴィン・エイリーの下で学び、クルベリ・バレエ、NDTに在籍、現在はスペイン国立ダンスカンパニー芸術監督を務める。プログラムは、すでにレパートリーに入っている『ドゥエンデ』(91年)と『ジャルディ・タンカート』(83年)に、新レパートリーの『ポル・ヴォス・ムエロ』(96年)を加えたトリプル・ビルである。


三作中ドゥアトのオリジナリティを最も感じさせたのが、ドビュッシー室内楽、とくにフルートハープを主とした曲に振り付けられた『ドゥエンデ』である。振付はニジンスキーの『牧神の午後』を思わせるアルカイックなフォルムに、昆虫や動物の奇怪な動きが加わっている。パンやニンフが戯れる神話的世界の現代版とも言え、スペイン色を排除することで、かえってドゥアト最大の特徴である音楽性が浮き彫りになった。ダンサーには、音楽のみを身体化する高度な音楽性が求められる。


『ドゥエンデ』四曲のうち、吉本泰久、グリゴリー・バリノフ、中村誠によるパ・ド・トロワが充実していた。吉本、バリノフの音感鋭いソリッドな動きを背景に、中村の身体が纏っている一種の狂気が音楽と一体となって、みずみずしい牧神のエロティシズムを醸し出す。音楽の身体化と音楽への没入を同時に感じさせる、稀有な踊りだった。また、パ・ド・シスの西山裕子はいかにもニンフ。西山独特の自然で流れるような音楽性が、柔らかでしかもピンポイントの動きを生み出す。陶然とするばかりだった。


男女三組が棒杭に囲まれた土色の舞台で踊る『ジャルディ・タンカート』は、カタルーニャ語の労働歌に振り付けられた土俗色の強い作品。エイリーやキリアンの語彙による影響もうかがえるが、処女作らしい自然な感情の発露がある。厚木三杏が音楽的かつ創造的な動きで突出している。現代的な動きのアクセントやニュアンスを、最も魅力的に作り出せる踊り手である。


宮廷舞踊風ネオ・クラシックコンテンポラリーを行き来する『ポル・ヴォス・ムエロ』は、十五、六世紀スペイン古楽と同時代の詩人ガルシラソ・デ・ラ・ベガの詩に振り付けられている。作品構成の点でキリアンの影響を思わせるが、スペイン人アイデンティティを前面に打ち出した、いかにも国立のダンスカンパニーらしい作品。ネオ・クラシックの部分では、高橋有里と西川貴子がクラシックの密度を感じさせる踊りで作品に重みを与え、コンテンポラリーでは、吉本と末松大輔によるデュオが新鮮な空気を作品にもたらしている。


初日と三日目では舞台の印象が大きく異なった。とくに三演目出演の山本隆之が、初日とは見違えるほどの精彩を三日目に見せている。山本のドゥアトへの情熱が舞台を牽引し、トリプル・ビル全体を覆わんばかりだった。同じく三作品出演の湯川麻美子は演技力で舞台に貢献。中心としてはもう少し踊り自体の密度が求められるだろう。


今回のトリプル・ビルは派手な演目がなく、玄人好みのプログラムと言えるだろう。しかし現代物の来日公演ラッシュのさなかにあって、「ドゥアト・プロ」がややインパクトに欠ける印象に終わったことも否定できない。新レパートリーが、動きの追求よりも演出に傾きがちな作品であったことも原因の一つだろう。かつてのJバレエやミックス・プロで見られたような、バレエ団が一体となったプログラムを、今一度期待したい。(3月23日、25日 新国立劇場中劇場) *『音楽舞踊新聞』No.2692(H18.5.1号)初出


●『こうもり』


新国立劇場バレエ団三回目の『こうもり』。02年の初演時に、振付家のローラン・プティによってコール・ド・バレエから一気に主役のベラに抜擢された真忠久美子が、ようやく大輪の花を咲かせ、プティの慧眼を証明した。真忠の美点は他のプティ・バレリーナとは異なり、上体の美しさと魔術的な腕の動きにある。細くしなやかな両腕が流れるような軌跡を描くとき、豊かな感情が音楽となり詩となって立ち現れる。腕のほんの一振りで見る者を陶酔させるその技は、愛のパ・ド・ドゥでヨハンをくるくると踊らせる際にもっとも威力を発揮した。真忠ほど、この振付の魔術性を浮かび上がらせるバレリーナは他にいない。


しかし真忠を真忠たらしめている最大の特徴は、無意識の大きさだろう。昨秋の『カルミナ・ブラーナ』で、男たちに喰われるローストスワンに全く違和感を抱かせなかったのは、役作りもさることながら、その存在のあり方による。今回のベラも、ただそこにいるだけで周囲の目を惹きつける、内在的な輝きを帯びていた。ショーアップされた演出においても、繭にくるまれたような浮世離れした雰囲気を漂わせるのは、無意識に吸収したものを、無意識のままに出せる才能のなせる業だろう。喧騒の夜が明けて、朝日の中に浮かび上がる真忠のシルエットは、驚くほど美しかった。美を表現しようとしているのではなく、美そのものとして存在していたのだ。


夫ヨハンを演じた森田健太郎も、その豊かな才能を十全に発揮している。プティ独特の(意味を持たない)アクセントを、これほど粋に見せられる日本人ダンサーがいるだろうか。そのセンスのよさに加え、気品ある正統的なラインと、物語をその場で生きる無意識の力は、森田を理想的な男性主役に位置づけている。森田の堅固で大きなサポートに、真忠のかよわい女らしさがしっとり絡み合ったパ・ド・ドゥは、プティの思惑をはるかに超えて、香り高く情感に満ちたデュエットとなった。終幕、膝に寄り添う妻の背に、夫がそっと手を置く光景は神々しく、二人が無意識のうちに交わした感情の大きさを物語っていた。


日本人初日を飾ったゲストの草刈民代は、ベラの役をよく理解し、華やかな存在感で行き届いた芝居を見せる。ソロではやや硬さがあったが、一期一会を感じさせる真摯な舞台だった。草刈のヨハンは山本隆之。振付の意味をもっともよく伝える。愛情と呼ぶしかない献身的なサポートと、舞台全体を巻き込む強いエネルギーが、シュトラウスの音楽、プティの振付と相まって、観客に生へのポジティヴな力を与えている。


ウルリックはヴェテランの小嶋直也と新人の八幡顕光。小嶋は完璧な足技とシャープなライン、役をよく心得た演技で、目の覚めるようなウルリック像を作り出した。一方八幡は、ペーソスなどの感情的な厚みには欠けるが、初役にしてすでに、役の明確な輪郭を描きえている。さっぱりとすがすがしい、少し和風のウルリックだった。


楠元郁子のメイド、トレウバエフのチャルダッシュとギャルソン、厚木三杏のカンカン、イリインの警察署長に、洒落た男女アンサンブルが元気に脇を固める。急遽代役のギャルソン奥田慎也がようやく舞台に戻り、十人分の明るさを振りまいた。男性陣の黒髪は粋。舞台の仕上がりの良さに比べ、今回の東京フィルは、プティの繊細な振付に対応していなかった。(5月26日、27日 新国立劇場オペラ劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2697(H18.7.1号)初出


●『ジゼル』


新国立劇場バレエ団今季最終演目は、四年ぶり三回目の『ジゼル』。パリ・オペラ座エトワールのクレールマリ・オスタとバンジャマン・ペッシュをゲストに四組がキャストされたが、オペラ座の都合でオスタは来日せず、代って初演時に主役を踊った西山裕子が、円熟のジゼルを披露した。


西山は現在バレエ団でもっともロマンティック・バレエが似合うバレリーナと言えるだろう。演技やマイムの明晰さ、踊りの軽やかさ、自然な音楽性、繊細な感情といった西山の特徴が、内気で感受性豊かなジゼル像を作り出している。

西山における音楽性と演劇性の結合は、すでにガムザッティ役での驚くべき音楽的マイムで確認されているが、今回も全編にわたってその見事な融合を見ることができた。二幕のアダージョでは、ラインの端々からアルベルトへの愛情が流れ出し、音楽とともに舞台を覆いつくす。感情と音楽が一体化した、まさにポエジーの化身だった。


この日のミルタは、やはり初演組の西川貴子。踊り、マイム、立ち姿の全てに、ミルタの性根が入っている。凛として統率力のある堂々たるミルタだった。今回『ジゼル』らしい霊的世界を現出させたのは、唯一この組だけだった。他は全員初役という状況の中、西山、西川による初演ヴェテラン組の功績は大きい。


初日、二日目には、バレエ研修所第一期生の若手二人が抜擢されている。初日(最終日代役も)の本島美和は、まだ固有のラインを獲得しておらず、役作りが全て表現として定着しているわけでもない。しかし、役を自分で咀嚼しようとする強い意志に、将来への展望を感じさせた。とくに狂乱の場は、自らの存在の底にまで降りていったことをうかがわせる、強い静けさに満ちていた。


一方のさいとう美帆は、長い手足を生かしたラインが美しく、相手を翻弄する小悪魔的な魅力を備えている。一、二幕ともに踊り方をよく心得て粗がない。しかし、狂乱の場が象徴するように、いわゆる良いとされる表現に留まっていて、心底からの感情が表現として表に出るには至っていない。今後主役として、本島には外からの眼差しが、さいとうには内面との対話が求められるだろう。


眠れる森の美女』『ドン・キホーテ』で、音楽性と様式性、スター性を併せ持つ大型主役であることを証明した厚木三杏は、今回残念ながら真価を発揮するには至らなかった。柄としてはミルタだろうが、様式性で押していく厚木ならではのジゼル・アプローチもあったかと思われる。華やかなスター性を持つ貴重な踊り手として、今後に期待したい。


アルベルトはゲストのペッシュ、シーズンゲストのマトヴィエンコバレエ団の山本隆之。ペッシュはハムレット的陰鬱さを帯びたキャラクター性の強いタイプで、まだ役作りの途上にあるが、西山の透明感とはよく合っていた。マトヴィエンコは端正。持ち味の爆発力よりも、ラインのコントロールを重視している。厚木、本島を丁寧にケアしていた。


山本は作品を構築する深い物語性を発揮した。足技の明晰さにはまだ向上の余地があるが、一幕役作りの説得性はもちろんのこと、二幕の登場では唯一空虚なナルシシズムを免れている。終幕の片膝をついて花を拾う姿には、ジゼルとの逢瀬からその死、そして死後の愛の交感が、全て刻み込まれていた。


バレエ団では、村人のパ・ド・ドゥを踊った大和雅美と中村誠の香り高い踊りが印象深い。また冨川祐樹が節度あるマイムで誠実なハンスを演じ、クールランド公爵のイリインが、品格あるマイムでロシアバレエの香りを伝えている。

今回コール・ド・バレエは、珍しく揃っていなかった。ウィリの本質を出す以前に、動きの方向性が指し示されていないように思われた。エルマノ・フローリオ指揮、東京フィル。(6月24、25、30日、7月1日 新国立劇場オペラ劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2700(H18.8.1号)初出


●『白鳥の湖』新制作


新国立劇場バレエ団が八年ぶりに『白鳥の湖』を新制作した。改訂振付・演出は芸術監督の牧阿佐美、舞台装置・衣裳は『ラ・シルフィード』と『リラの園』を担当したピーター・カザレット、照明は沢田祐二による。全四幕で休憩が一回という上演形式である。旧版のセルゲーエフ版は、マイムを減らし、演劇性よりも音楽性を前面に出したスピーディでコンパクトな演出。ラストはソビエトバレエらしく戦って悪を滅ぼすハッピーエンドである。新制作ではこうした時代性を払拭し、原典重視の世界的潮流が反映されるのではと期待したが、残念ながらほとんどがセルゲーエフ版の踏襲だった。


演出上の改変部分は、プロローグとしてオデットの変身場面(室内)を加えた点と、終幕のロットバルトの死を入水自殺(?)に変えた点である。ただ両者ともに演出の練り上げがまだ弱く、説得性を獲得するに至っていない。なぜ友人二人がオデットの部屋からいなくなるのか疑問だった。一方、三幕で各国の花嫁候補とキャラクターダンスを結びつけた演出は、効果的だった。イギリスの踊りも加えるとより整合性が増すと思われる。


舞踊面では三幕に「ロシアの踊り」が加わった点と、四幕冒頭に王子が紗幕前で少し踊りを見せる点が新しい。また、一幕王子のソロを中盤から幕の最後に移し、「乾杯の踊り」の後半を村人の踊りに変更している。ただ後者については、音楽の急なテンポダウンを要する振付と音取りの変化にやや違和感を覚えた。


旧版のオークネフの美術は明快すぎるほど主張がはっきりしていたが、カザレットは中庸を重んじたのか、あまり特徴がない。湖畔も森の神秘性や廃墟趣味といったロマン主義的風景には至らず、小さな洞窟(通り抜けられる)と湖に落ちる滝が、どこがうらぶれた雰囲気を醸し出す。照明は横ライトを駆使し個性的だが、ダンサーのライン、とくにロットバルトの踊りが見えなかったのは残念だった。


オデット=オディールには、旧版での一月公演と同じくスヴェトラーナ・ザハロワ、酒井はな、寺島ひろみという配役。二回目となる寺島が成長の跡を見せて、三者三様の白鳥を競い合った。ザハロワは、所属のボリショイ劇場バレエでも組んでいるデニス・マトヴィエンコを相手に、いつもより伸び伸びとした踊りを見せた。ソロの解釈にはまだ物足りなさを残すが、ラインの美しさには一段と磨きがかかっている。きらめくようなグラン・アダージョだった。


ヴェテランの域に入った酒井は、以前のようなパトス全開の踊りは影をひそめ、高度にコントロールされたラインとすみずみまで施された深い解釈で、完璧とも言える白鳥を踊っている。当日は中高生の団体が半分近く入った半ば教育プログラムのような公演だったが、酒井は社会的啓蒙の役目を見事に果たしたと言えるだろう。一方客席は私語をする中高生と隣り合わせの劣悪な環境にあった。劇場側はオペラ同様、学生鑑賞日を別に設けるべきではなかったか。


『ライモンダ』に続いて主役を踊った寺島ひろみは、ようやく個性を発揮し始めたようだ。スポーティかつダイナミックな白鳥で、主役としての大きさが備わっている。ただ四肢の扱いが雑に見えることがある。かつて『眠れる森の美女』の銀の精で見せた、艶のある豪華な踊りをもう一度見てみたい。


ジークフリードも三者三様。マトヴィエンコは華やかさに欠けるが端正な踊りで、酒井と組んだ山本隆之は、登場しただけで舞台の輪郭を作るドラマ性で、逸見智彦は寺島にはおとなしすぎるが、類稀な音楽性で、個性を顕かにした。


パ・ド・トロワでは江本拓の覇気、中村誠の優美、さいとう美帆の清新さが、白鳥たちでは厚木三杏と西山裕子の音楽的な姿形の美しさが、キャラクターではスペインの楠元郁子、ハンガリーの奥田慎也のはつらつとしたニュアンスが印象深い。楠元は王妃でも温かく気品のあるマイムを見せた。イリインの家庭教師は十八番、一幕の要である。


渡邊一正指揮の東京フィルは、いつもより音が分厚すぎて渡邊の機動力が生かせなかった。オーケストラの状態もよくないように思われる。(11月12、15、18、19日 新国立劇場オペラ劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2712(H19.1.1-11号)初出


●『シンデレラ


新国立劇場バレエ団が三年ぶり五回目のアシュトン版『シンデレラ』(48年)を上演した。プロコフィエフの叙情性と諧謔性がすべて振付に写し取られた、アシュトン中期の傑作である。


振付は一見すると古典バレエパロディに見えかねない。しかし、シンデレラと王子のパ・ド・ドゥが古典の様式に準拠していることから、振付自体がアシュトンによる古典バレエの解釈、メタ振付であることが分かる。バランシンのネオ・クラシックと並ぶ、プティパへの特異なオマージュと言える。のみならず、アンサンブルのスライドを多用した幾何学的フォーメイション、振付における上体の極端な捻りが、依然として作品に前衛の輝きを与えている。三幕の「誘惑」と「東洋」の省略には異論もあるだろう。だがこの版のもう二人の主役、義理の姉たちによるパントマイム演技の重量感からすると、三幕の短さは妥当と思われる。


七公演のうち、初日から三公演を英国ロイヤルバレエのアリーナ・コジョカルが、残りの四公演をベテランの酒井はなと宮内真理子、若手のさいとう美帆と本島美和が担当、王子にはそれぞれフェデリコ・ボネッリ(ロイヤル)、山本隆之(二日)、トレウバエフ、中村誠が配されている。


シンデレラ像の完成度の高さは、ゲストを含めても酒井がずば抜けていた。アシュトン振付の細やかな襞に分け入り、そのすべてに真の感情を満たしている。これほど繊細な造型は世界でも珍しいのではないか。カーテン・コールでは、謹厳な指揮者エマニュエル・プラッソンが酒井の頬に祝福のキスを与えている。ただし、今回の酒井にはいつものようなエネルギーの放射は見られなかった。その理由は不明だが、いずれにしても、バレエ団のほとんどのレパートリーを初演し、その蓄積を社会に還元すべき円熟期に入りつつある酒井を有効に生かすことは、観客に対する劇場側の義務と言えるだろう。


全幕久々復帰の宮内と、この作品で主役デビューを飾ったさいとうは共にはまり役。無理なく作品世界を作り上げる。特にさいとうは演技が自然になり、初演時よりもみずみずしさが増した。同期で初役の本島はいわゆる姫役のタイプではなく、今回は挑戦の意味合いが強い。古典もしくは古典に準じる作品を踊るには、もう少し様式への意識が必要だろう。またゲストのコジョカルは本調子ではなかった。本人特有の生きいきとした生命感が感じられない分、アシュトン・アクセントの緩さが目立った。


王子四人は持ち味を十全に発揮している。ボネッリのゆったりとした鷹揚さ、山本の気品に満ちた細やかな演技、トレウバエフのりりしさ、中村の優美ななまめかしさ。とくにトレウバエフは王子役の進境著しい。


この版の基盤である義理の姉たちは、乱暴だが妹想いの姉にマシモ・アクリと保坂アントン慶、恥ずかしがり屋の妹に篠原聖一、奥田慎也、堀登(出演日順)が配され、それぞれ献身的な演技を見せている。アクリのパワフルな姉は独壇場だが、アンサンブルで優れていたのは、父親役イリインを中心とした保坂=堀組。三人の娘を見守り、末娘の不幸を思って苦悩するイリインの父、妹への優しさがにじみ出る保坂の姉、そして堀の妹が絶品だった。手への接吻をダンス教師と王子の二人に拒否されるおかしさが初めて分かった。


観客への演技を含む難役の道化は、バリノフと八幡顕光が健闘。四季の精では、西山裕子の春の精がアシュトンの音楽性を余さず表現している。舞台を包み込む豪華な厚木三杏の冬の精、けだるい夏になりきった真忠久美子も印象深い。ナポレオン伊藤隆仁もますます面白くなっている。


久しぶりに艶と張りのある東京フィルを聴く喜びもあった。指揮者エマニュエル・プラッソンの功績だろう。(12月15、16、19、22、23、24日 新国立劇場オペラ劇場)  *『音楽舞踊新聞』No.2715(H19.2.11号)初出