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舞台の謎

2019-01-11

12月に見た公演 2018

2018年12月に見た公演について短くメモする。


勅使川原三郎月に憑かれたピエロ』(12月1日 東京芸術劇場 プレイハウス)

月に憑かれたピエロ』は「ラ・フォル・ジュルネ」(11年)で見ている。今回は勅使川原らしい水際立った美術と照明が加わり、ダンサー勅使川原の新たな境地も窺える完成作だった。クシャクシャのアルミ箔が敷き詰められた床に、出入り可能なアルミ箔カーテン。そこにシェーンベルクとアルベール・ジローの詩に呼応した、千変万化する照明が当てられる。夜景のような、青い海のような、野火のような、赤富士のような。勅使川原の美術家としての才能が遺憾なく発揮されている。

驚いたのは、勅使川原の踊りが世界を穿ち、関わり、飛び出している点。痙攣、硬直、クエクエ踊り、中腰の全てが生きている。自らの身体メソッドをそのまま使う場合は、手の内に収まり、外界と関わることが少ないが、今回は詩の内容を反映したマイムに近い振付のため、メソッドに流れず、勅使川原の肉体が露わになっている。共演の佐藤利穂子とも直に抱き合い、普通にサポートもする。詩の中のピエロとコロンビーヌに見えた。いつもは自動的に繰り返されるカーテンコールも自発的。勅使川原の体には喜びがあった。歌のマリアンヌスプール、指揮のハイメ・ウォルフソン、演奏者を含め、音楽的にも充実している。同時上演はベルクの音楽で『ロスト・イン・ダンス―抒情組曲―』。


バレエピッコロ『Letter from the sky―愛しのメアリー―』(12月2日 練馬文化センター 大ホール)

題名は異なるが、レパートリーの『Mary Poppins』と同じ作品。松崎すみ子ワールドが炸裂する。同名ミュージカルの映画音楽ジュリー・アンドリュースの声!)も貢献大ながら、何よりも、松崎の物語喚起力、音楽的振付、世界を肯定する力、子どもたちへの愛が、作品を形成する。大人へは難度の高い踊り、子どもたちへは音楽に乗って踊る喜びが与えられる。街の子、煙突掃除の子、妖精、ペンギンなど。「不思議なひと」のキャラクター色豊かな踊りは、松崎振付の魅力の一つである。

メアリーが空に帰っていく終幕では涙が出た。メアリーになり切った下村由理恵の力だろう。バートの橋本直樹は、エネルギッシュな踊りと子どもたちへの優しさ、不思議なひとの小出顕太郎は熱い献身性、またバンクス夫妻の小原孝司・菊沢和子、銀行頭取の堀登を始め、常連助演者による的確で真摯な演技が、善きことが行われる世界を子どもたちの眼前に出現させている。

同時上演は松崎えり振付『エス』。黒一点の小出と女性6人に振り付けられている。時間構成、空間構成とも骨太。振付は自身の体から生まれ出て自然。小出の、振付をよく汲み取ったニュアンスあふれる踊りが素晴しい。右腕を上げるだけで、感情・思考が伝わってくる。女性6人も振付と真っ直ぐに向き合っているが、まだおとなしい。バレエ団から松崎(え)とバトルするダンサーが育つことを期待する。


●Kバレエカンパニーくるみ割り人形』(12月7日 Bunkamuraオーチャードホール

2018年11月、カンパニーBunkamuraオーチャードホールとフランチャイズ契約を結んだ。熊川哲也はすでにオーチャードホールの芸術監督でもある。ホームになった劇場での13年振りの『くるみ』は、ソナベントの美術を復刻、10年ぶりの生演奏上演(井田勝大指揮、シアターオーケストラトーキョー)となった。熊川版はホフマン原作を取り入れ、複雑な粗筋を持つ。当初は分かりにくい個所も見受けられたが、再演を重ねた今回は、音楽・ドラマ・振付が完全に一致し、感情の流れが途切れることがない。熊川自身が生き抜くように演出しているからだろう。伝統の音楽的で清潔なスタイルは、子どもたち(Kバレエスクール)にも及ぶ。個々のダンサーの技量に加え、自然な演技の浸透が作品の完成度を高めていた。ソナベントの壮大で魔術的な美術は、オペラ劇場にふさわしい。

ドロッセルマイヤー 宮尾俊太郎の暖かくノーブルな大きさ、マリー姫 小林美奈の健康的で明るいオーラ、くるみ割り人形/王子 山本雅也の切れの良い踊りと大らかでノーブルな佇まい、クララ 河合有里子の感情豊かな演技と清潔な踊りが、互角に組み合わさった充実の舞台。ドロッセルマイヤーがこれほど物語に溶け込む演出も珍しい。魔法が本当にリアルに見える。初演者のキャシディはシュタールバウム氏で出演していたが、家長としての包容力、ホストとしての気配りが素晴しかった。一幕を牽引している。


●スターダンサーズ・バレエ団『くるみ割り人形』(12月8日夕 テアトロジーリオショウワ)

鈴木稔版の特徴は、ドイツ一般家庭に起こる物語である点と、一、二幕を通して人形の世界が舞台になる点にある(ただし自動人形の踊りはない)。一幕クリスマス市にやってきた人形劇の小屋にクララが入り込み、舞台裏でのネズミと人形の戦争に参戦、王子や人形たちを助ける。二幕は彼らと共にドールハウス仕立ての人形の国に赴き、王子と結婚かと思われたが、家族を思い出して元の広場に戻り、家族と合流する(ほんの一瞬の出来事だったのだろうか)。鈴木印のコンテンポラリーを踊る雪ん子が、バレエ団の音楽性を象徴する。一幕の芝居をもう少しゆったりして欲しいことと、コンテの振付が徐々に増えることを期待。

主役のクララは初役の塩谷綾菜。思春期の少女にふさわしい可愛らしさ、癖のない清潔な踊り、確かな技術が揃った、堂々たる本公演主役デビューだった。今後バレエ団のレパートリーをどのように踊っていくのか、見守りたい。王子には皺偉法9甜舛波しい踊りが、師の小嶋直也を想起させる。王子の典型とは必ずしも言えないが、塩谷をよくサポートし、舞台を盛り上げた。田中良和指揮、テアトロ・ジーリオ・ショウワ・オーケストラ+ゆりがおか児童合唱団

2019-01-01

2018年公演総括

2018年の洋舞公演を振り返り、印象に残った振付家ダンサーを列挙する(含2017年12月)。


[バレエ]

最もインパクトが強かったのは、Kバレエカンパニー芸術監督で振付家熊川哲也。前年の『クレオパトラ』でも予感はあったが、2月の新作短編『死霊の恋』での、音楽と物語が融合し結晶と化した振付に驚かされた。続く『白鳥の湖』『コッペリア』『クレオパトラ』『ロミオとジュリエット』『ドン・キホーテ』『くるみ割り人形』の再演でも、演出の成熟度が際立つ。熊川がほとんどの主役を担っていた時期は、スピーディでエネルギッシュな演出だったが、現在では物語の流れを丹念に辿り、登場人物の造形をじっくり見せる手法に変わっている(音楽的な振付は一貫して変わらず)。アシュトンマクミラン作品から得た舞台感覚や規範が、演出家 熊川の核になっているのだろう。英国系の懐の深い演技を率先垂範する盟友スチュアート・キャシディの存在、矢内千夏、小林美奈、山本雅也、堀内將平という、技量の高い若手主役が育っていることも、変化を促す要因の一つと思われる。

国内ベテラン振付家では、関直人の『くるみ割り人形』(井上バレエ団)と『ゆきひめ』(大和ティバレエ)、松崎すみ子の『不思議の国アリス』(バレエピッコロ)、今村博明・川口ゆり子の『ルナ』(バレエシャンブルエスト)、鈴木稔の『ドラゴンクエスト』(スターダンサーズ・バレエ団)、振付家ではないが、ガーフォース指揮の『ライモンダ』(牧阿佐美バレヱ団)。中堅では上記の熊川に加え、伊藤範子の『HOKUSAI』『道化師』(谷桃子バレエ団)、山本康介の『タイス瞑想曲』(Kバレエカンパニー)と『ホルベアの時代から』(日本バレエ協会)、宝満直也の『11匹わんちゃん』(NBAバレエ団)と『三匹の子ぶた』(大和)。

海外振付家作品も多彩だった。中でも英国系が多く、ド・ヴァロワ(小林紀子バレエシアター)、アシュトン新国立劇場バレエ団、東京バレエ団BRB小林紀子)、ライト(BRB)、クランコシュツットガルトバレエ)、ダレル(新国立)、ウエストモーランド(牧阿佐美)、イーグリング(新国立)、ウィールドン(新国立)。米国系ではバランシン東京)、カニンガム&フォーサイスバレエ・ロレーヌ)。ロシア系ではブルメイステル(東京)、アリエフ(日本バレエ協会)、プティパ生誕200周年記念「プティパ・ガラ」(東京)。欧州大陸系ではノイマイヤー(ハンブルクバレエ)、ブルジョワ京都バレエ)、ショルツ(東京ティバレエ団)。


[モダンコンテンポラリーダンス]

モダンダンスでは、能藤玲子が『白い道』(現代舞踊協会)、正田千鶴が『空間の詩学』抜粋(現代舞踊協会)、折田克子が『踊る妖精』(シアターX)、柳下規夫が『ざわめく森』(東京新聞)で、圧倒的な個性を誇る。若手は、津田ゆず香の『March』(現代舞踊協会)、木原浩太の『nico』(現代舞踊協会)。

コンテンポラリーでは、NY在住ながらほぼ毎年、ダンサーによるダンサーのためのフェスティバルを主催する山崎広太、現在国内唯一の劇場専属ダンスカンパニー Noism の芸術監督 金森穣、フリーで縦横無尽に活躍する近藤良平彩の国さいたま芸術劇場東京芸術劇場)、バレエダンサーの可能性を拓く中村恩恵みなとみらいホール)、内外で活躍する伊藤郁女(神奈川芸術劇場)、島地保武(神奈川芸術劇場)、柳本雅寛(日本バレエ協会)、バレエ団に所属し着実に個性を開花させた貝川鐵夫(新国立劇場バレエ研修所)。ポスト・モダンパンク系では神村恵(日本女子体育大学)、下島礼紗(横浜ダンスコレクション)。


[女性ダンサー]

上演順に、小野絢子のアントニア、米沢唯のアントニア、本島美和のジュリエッタ、池田理沙子のオリンピア米沢のライモンダ、中川郁のバッカンテ、矢内千夏のオデット=オディール、小野のオーロラ、沖香菜子のオデット=オディール志賀育恵(ショルツ)、相澤優美(リヴァ)、菅井円加(宝満)、伝田陽美のエスメラルダ(pds)、沖のエッラ(タリスマンpdd)、井関佐和子(金森穣)、青山季可のオデット=オディール米沢アリス、酒井はなのネッダ、矢内のキトリ、長田佳世(山本康介)。


[男性ダンサー]

小出顕太郎の白うさぎ、中家正博のリンドルフ、井澤駿のホフマン、堀内將平のロミュオー、福岡雄大バジルpdd)、山崎広太(山崎)、秋元康臣のオペロン、山本雅也のフランツ、スチュアート・キャシディのカエサル福岡のデジレ、井澤のデジレ、池本祥真の道化、西岡幸輝のブロンズアイドル、福田圭吾(貝川)、服部有吉(Jdp)、垣尾優(垣尾)、金森穣(金森)、橋本直樹の時の帝、松本大樹(松崎えり)、堀内のロミオ、渡邊峻郁のジャック、島地保武(島地)。

2018-12-27

マリインスキー・バレエ2018

マリインスキー・バレエが3年ぶりに来日公演を行なった(11月28日〜12月9日 東京文化会館大ホール)。前回同様、ファテーエフ芸術監督の美意識が行き渡っている。繊細で美しい女性ダンサー、役への細やかなアプローチ、創作時のスタイルに沿った踊り方など。これまでは何を踊っても同じスタイルに見えたのが、作品ごとにアプローチを変えている。いわゆる西欧化とも言えるが、古典に関してはプティパの館にふさわしい変化に思われる。故ヴィハレフは振付のみを復元したのではなく、踊りのスタイルも先祖返りさせようとした。オブラスツォーワを好んで使ったのも、同じ理由からである(現在はボリショイ風になっているが)。こうしたファテーエフの改革は、ツィスカリーゼによるワガノワ・バレエアカデミーの改革とも連動しているように見える。

ドン・キホーテ』は日本では22年ぶりとのこと。オリガ・マカーロワによる作品解説(プログラム)が現行版までの道筋を詳しく語っている。ゴルスキー版なので他団と大きな違いはないが、ベリーダンス衣裳の「東洋の踊り」(振付:アニシーモワ)が珍しい。また街の踊り子が床のナイフを縫って踊る場面の、装飾的な体の切り返しにも驚かされた。演出は演劇性重視、街のアンサンブルはもちろん、森のアンサンブルにも温かい血が通っている。セギーリア、ジプシー、ファンダンゴ、それぞれのキャラクターダンスを楽しむことができた。

キトリのシャキロワ(11/29)は、回転、跳躍とも素晴らしく、溌剌としている。クリサノワを明るくした感じのダンサーバジルのアスケロフは超絶技巧ではないが、大きくおっとりとシャキロワを見守る。街の踊り子のコンダウーロワは至芸。立っているだけで婀娜っぽかった。花売り娘の石井久美子は踊りで見せるタイプ。アクセントが明確で、粋にきっちり踊る。街の踊り子でもよかったほど。レプニコフ指揮のマリインスキー歌劇場管弦楽団も素晴しい。カスタネットの鋭さ、活きのよさは破格だった。

『マリインスキーのすべて』は二日目(12/3)。第1部が『ショピニアーナ』(振付:フォーキン 改訂振付:ワガノワ)、第2部は「マリインスキーの現在」と題し、『眠れる森の美女』よりローズ・アダージョ(原振付:プティパ 改訂振付:K・セルゲーエフ)、『ソロ』(振付:ファン・マーネン)、『海賊』第2幕のパ・ド・ドゥ(原振付:プティパ)、『バレエ』101(振付:エリック・ゴーティエ)、『別れ』(振付:ユーリー・スメカロフ)、『チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ』(振付:バランシン)。第3部は『パキータ』よりグラン・パ(原振付:プティパ 復元振付・演出:ユーリー・ブルラーカ)。

作品で最も印象的だったのは『ショピニアーナ』である。柔らかい上体に優美な腕使い。全員が音楽をよく聴き、一体となって踊っている。フォーキン、バランシンにも見られる民族舞踊的な腕繋ぎが、真円を描いて明確だった。主役のオスモールキナは風格のあるキーロフダンサー。対してファテーエワは古風な舞姫、時代を遡る踊りだった。

一方ブルラーカが復元した『パキータ』は、アダージョの左右両回転、床に絵を描くような足捌きなど、十九世紀の香りが漂う。ヴァリエーションも主役級ソリストが技を競う華やかさ。主役のコンダウーロワは貫禄の踊り、イリューシュキナ、ホーレワは繊細で可愛らしく、バトーエワは格調高い踊りだった。

プログラム全体を通して最も鮮烈な印象を与えたのは、『海賊』の永久メイとキミン・キムの日韓ペアである。永久の繊細で気品ある佇まい、絶えず微笑んでいるような慎ましやかさは、生まれながらの姫に見える。手首をピンと張る決めも、なぜか新鮮だった。キムは久しぶりに見た空中で止まるダンサー。マネージュの迫力も素晴しかった。

マリインスキーの代名詞とも言える『白鳥の湖』(改訂振付:K・セルゲーエフ)も、演劇性重視に変わっている。以前の白鳥たちは崇高なまでに美しく揃っていたが、今回は自然体で生き生きとしている。主役のテリョーシキナ(12/6)は堂々たるオデット=オディール。踊りのニュアンスもきめ細かく、懐の深さを感じさせる。対するシクリャローフは若々しい王子。やや軽めの造形ながら、勢いのある踊りを見せた。トロワのホーレワ、グセイノワ、スチョーピンは技術、スタイルともに申し分ない。ハイネ指揮の管弦楽団は、ツアー終盤の疲れもあったか、やや乗り切れない印象だった。

2018-12-26

新国立劇場バレエ団 『くるみ割り人形』 2018

標記公演を見た(12月16日昼夜, 21日, 22日昼夜, 24日 新国立劇場オペラパレス)。昨年初演のイーグリング版『くるみ割り人形』は、少女クララの成長譚という点でワイノーネン版を踏襲している。そこに英国系の細やかな演劇性を加え、兄妹愛、家族の絆を強調した。プロローグの雪の窓辺に座るフリッツとクララ、二人が雪明りのなかで振り向く終幕(子守唄のメロディに変更)が印象深い。グロスファーターでは祖父母の杖と補聴器が、踊るうちに父母に渡り、さらにフリッツも加わることで、世代継承、家族の絆が視覚化される。客人たちと一緒に塊になって踊るユニゾンには、胸が熱くなった。

振付は高難度。主役、ソリスト、アンサンブルに至るまで複雑なパートナリングが要求される。今回は初演時よりも、振付が体に入ったパフォーマンスだった。切れの良いカノンがあらゆる場面で顔を覗かせるのも特徴。花のワルツの一団がフィナーレで見せる道連れフォーメイション、縦一列の男性が走り込む女性を次々に押しやり、すぐさま直立不動になる奇天烈なカノンが楽しい。

主役は4組(出演順)。小野絢子と福岡雄大は長年のパートナシップで安定感ある舞台。小野は音楽的で繊細な踊り、福岡は覇気あふれる鋭い踊りでベテランの責任を果たしている。米沢唯は再び井澤駿と。一幕パ・ド・ドゥでは暖かい光の粒子が拡がり、二幕パ・ド・ドゥは和風のしっとりとした踊りだった。米沢の、周囲を肯定し、じんわりと客席を温める地に付いた祝福、井澤の別世界に跳び込むようなマネージュとグランド・ピルエットに、迷いのない晴れやかさを感じた。

木村優里は渡邊峻郁と組み、意志のある踊りを見せる。ダイナミックなラインには爽快感があった。渡邊は優しい二枚目ぶりに、繊細で勢いある踊り。パ・ド・ドゥは渡邊がカヴァリエとして尽くすスタイルだが、もう少し二人で踊ってもよい気がする。池田理沙子と奥村康祐は清々しい舞台。二人の呼吸が同じ世界を築いている。池田は踊りが伸びやかになり、王子役を心得た奥村が全身でそれを受け止めていた。

ドロッセルマイヤーピアノを弾き、ディヴェルティスマンを指揮する。ホフマン音楽家としての側面を投影した造形。貝川鐵夫は愛情深く少しコミカルなおじさん、ピアノを弾く姿が楽しそうだった。中家正博はホフマンのダークな味わいを、美しいスタイルで見せる。手の動きが魔術的だった。

ねずみの王様は、渡邊、奥村、井澤、木下嘉人が配され、いずれも弾けた踊りだった(木下はやや端正)。振付の面白さもさることながら、被り物そのものが楽しいのかもしれない。井澤はやはり団十郎系の歌舞伎振りだった。

クララの姉ルイーズは、二幕で超絶技巧の蝶々を踊るため、テクニシャンが選ばれている。細田千晶の涼やかさ、池田の可愛らしさ、奥田花純の元気(中国も)、柴山紗帆の端正。シュタルバウム夫妻は、中家と関晶帆のスタイリッシュ組、貝川と本島美和の長年連れ添った愛情組だった。本島が姿を見せるだけで関係性が生まれる。深い役作りをしてきた蓄積ゆえだろう。また盒彊豕韻祖父役で人生の深みを、老人役では、老人がねずみの王様を劇中舞踊として踊るという二重の虚構を身体化している(本島とはマッジ組)。

ソリストでは、新加入の青年役 速水渉悟が、明確なエポールマン、力強いバットリー、美しい回転で鮮やかな踊りを披露。本島の美しいアラビア、渡辺与布の妖艶なアラビア、福田圭吾の側宙入り華やかロシア、原健太の機嫌のよい詩人、浜崎恵二朗のノーブルな花のワルツ、小野寺雄のやんちゃなスケーターが印象に残る。またスペインの廣田奈々が抜擢によく応えた。8人のアラビア男性奴隷(宇賀大将、小柴富久修、清水裕三郎、趙載範、中島駿野、福田紘也、樋口響、渡邊拓朗)は体をよく鍛え、縁の下の力持ちを粛々とこなしている。

雪、花ともにアンサンブルは生き生きとしている。ワイノーネンをバージョンアップした雪の振付(アラベスクから反転を繰り返す退場シーン)、躍動感あふれる花の振付の魅力が伝わってきた。

アレクセイ・バクラン指揮、東京フィル、東京少年少女合唱隊(バルコニーに移動、退場の際ライトアップが欲しい)は穏やかで温かい演奏。家族愛を描いた舞台と呼応している。

2018-12-13

11月に見た公演 2018

11月に見た公演について短くメモする。


●伊藤郁女・森山未来 『Is it worth to save us?』 (11月1日 KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ)

伊藤が実父と踊る作品『私は言葉を信じないので踊る』を見ることができなかったので、同じ彩の国さいたま芸術劇場で制作された伊藤と山崎広太のデュオと比較することに(その時は女性ダンサーがもう一人加わった)。パートナー選択の時点で作品は決まる。山崎とは破天荒なエネルギーの応酬、踊り狂いの炸裂だった。今回はより演劇的で、伊藤が攻撃、森山が受ける形。子供の頃、マイケル・ジャクソンにホテルのトイレで会ったと話す森山に、伊藤が「うそでしょ、うそでしょ」と言いながらまとわりつく。森山は「ほんと、ほんとなんだけど」と受けるが、徐々に受け身から攻撃に転じ、伊藤を千切っては投げ、千切っては投げ、最後には首を絞めるに至る。作品のハイライトだった。終盤、スタンダード・ナンバーを歌う森山の巧さ、ショーダンスの巧さ。伊藤はリズムに乗れない。不思議だ。フランス公演を控えているせいか、狂言の動き、舞踏系の動き(白目剝きも)を入れている。どうかと思ったが、後から考えるとジョークだったのかもしれない。


シュツットガルトバレエ団 『白鳥の湖』 (11月9日 東京文化会館 大ホール)

1963年初演。ジョン・クランコ演出・振付は、ロマンティック・バレエ仕様だった。特に一幕。

‖漆傭は『ジゼル』風で、同じフォーメイションを踊る。

王子は『ラ・シルフィード』のマッジ風に登場、手相見のマイムをする。

2子は家庭教師の曲でブルノンヴィル風ソロを踊る。

げ子の女友達5人は『コッペリア』の友人風。

いずれも『白鳥の湖』のロマンティックな側面を強調するための引用と言える。古風な趣がある一方で、伝統的マイムは使用せず、踊りと演技は自然に繋がっている。一幕選曲(?)が激しい。ワルツはなく、一寸法師の曲で男友達5人が踊り、パ・ド・シスとパ・ド・トロワ曲の組み合わせで王子と女友達5人が踊る。自然な演劇性の重視、パ・ド・シスの使用は、1953年初演のブルメイステル版を思わせる。結末は異なるが(クランコは悲劇)、両者ともいわゆる「プティパ以前」を探究したということだろうか。


さわひらき×島地保武 『silts - シルツ -』 (11月25日 KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ)

「KAAT EXHIBITION 2018 - 潜像 -」は、映像作家さわひらきの個展(同劇場 中スタジオ)。その映像作品『silts』他と共に、島地保武、酒井はなが踊る企画である。映像は完成・固定されているが、あたかも二人の踊りに応えているように見える。さわの映像がダンスと共通するミニマルな運動性を帯びていること、演出・振付の島地が周囲に開かれた肉体と思考を持っていることが、インタラクティブな共同作業を可能にした。

舞台には大きな衝立(映像はここに映写)、折り返しに丸い大きな穴が開いている。シモテにはターンテーブルが乗った丸テーブル、カミテには角笛のような複数のライトに裸電球が吊るされている。レコードの針を暗示する人差し指突っ込み運動、裸電球のフリフリ動き、柱時計振り子の高速運動、棒の回転など、温かみのあるミニマル映像に目が吸い込まれる。星空、川底、燈台、海岸、砂漠、ドールハウス、そこにヤギ、鳥が通り過ぎ、脚の生えたやかん、ポット、コーヒーカップ、鋏がトコトコと歩いていく。終演後にさわの個展も見たが、重なる作品も多く、パフォーマンスの続きのような懐かしさを覚えた。

音楽は主に映像に付されていたものを使用。ピアノチェロ、アコーデオン、歯車の音、メトロノーム、ピチピチ音など、とぼけた脱力系ミニマル。前後には、レコードから流れるという設定で『コッペリア』のワルツが掛かる。島地が silts =沈泥 から連想した『砂男』(ホフマン作、『コッペリア』の原作)に因んだ選曲。酒井との絡みもあるのだろう。小道具の段ボール砲(スモークを充満させ両脇を叩くと、丸い穴から煙が発射される)がいかにも島地らしかった。

島地が円盤とレコードを持って顔を隠しながら登場。軽妙な腰つきで歩き、バレエの3番で向こう向きになる。終幕は反対に、酒井が同じシークエンスを演じて終わる。島地のストリート、モダンコンテンポラリーバレエを通過した肉体は、その片鱗を見せながらも、ただ「いる」ことのできる零度の体。バレエのポジションを含んだ伸びやかな踊り、ヒョコヒョコ、クキクキ踊り、コマネチなど、環境(映像・音楽)を感じ、それに体で応えている。一方の酒井は、バレエコンテンポラリー、能の入った体。『バヤデール』風のソロではポアントの威力を見せつける(島地の口からベールが、愛の形としての)。島地とのデュオもあり、可愛らしい存在感を発揮した。だが、本来の酒井は「いる」ことのできる野性味のあるダンサーである。振付を体に入れて存在の底まで落とし込んでいく実存派である。酒井の呼吸、気が感じられなかったのは、何か遠慮があったのだろうか。あるいは身体的に移行する時期なのだろうか。ギエム瞑想にまで至っているようだが、酒井も見せることから解き放たれてもよいのかもしれない。