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舞台の謎

2018-06-05

東京バレエ団『真夏の夜の夢』他 2018

標記公演を見た(4月28,29日 東京文化会館大ホール)。上野の森バレエホリディの中核公演で、アシュトン版『真夏の夜の夢』とバランシンの『セレナーデ』のダブル・ビル。さらに前座公演の形で、『真夏』のみがファミリー公演(半額以下、オケ付)として上演されている。アシュトン(1904-1988)とバランシン(1904-1983)は同い年。優れた音楽性、新たな振付語彙の追求など共通点はあるが、アシュトンの方が演劇性に傾いている。バレエ団の今回のパフォーマンスも、音楽性を体現するアンサンブルにではなく、個々のソリスト演技に見るべきものがあった(『セレナーデ』は残念ながら、国内先行団体に対抗できる仕上がりとは言えない)。

真夏の夜の夢』は本公演、ファミリー公演を含めて3キャスト。座組みの良さが出たのが、ファミリー公演二日目の金子仁美(タイターニア)、秋元康臣(オベロン)、池本祥真(パック)、海田一成(ボトム)。いずれも規範に則った美しい踊りに、心得た役作りだった。金子には「気位が高くセクシーでちょっとクレイジー」なニュアンスがあった。これはオベロン初演のアンソニー・ダウエルが、アントワネット・シブリーのタイターニアについて語った言葉である(東京バレエ団ブログ)。秋元は堂々たる風格。アシュトンのハードに跳躍する振付を、正確に美しく踊りこなす。かつて橋浦勇版『眠れる森の美女』(日本バレエ協会)で踊った青い鳥を思い出した。鮮やかなバットリーはもちろん、跳躍の滞空時間と美しさに、客席はどよめき、拍手が終わらなかった。池本は秋元にふさわしいパック。飛形の美しさは、まさにアシュトンの意図した形。正統派の踊り手である。海田の冷静で的確なボトム造形には、客席の子どもたちが手拍子で応えた。

本公演のオベロン フリーデマン・フォーゲル(シュツットガルトバレエ団)は、ダウエルの持つねっとりとした冷たさが乗り移っていた。あるいは元々そういう資質なのだろう。何をするか分からない倒錯的な色気がある。ダウエル初演ゆえのリスキーなバランスには少し苦労したが、アラベスクの美しさは素晴らしかった。対する沖香菜子のタイターニアは、愛らしさを前面に出した造形。沖の特徴は身体そのものが描く破天荒な世界にある。アシュトンよりもプティパで個性を発揮すると思われる。東京ティ・フィル率いるベンジャミン・ポープは、メンデルスゾーンの深い森を生き生きと描き出した。

2018-06-01

Kバレエカンパニー『白鳥の湖』&『コッペリア』 2018

標記公演を見た(3月24日昼、5月24日 オーチャードホール)。演出・再振付は共に芸術監督の熊川哲也。『白鳥の湖』は03年、『コッペリア』は04年の団初演で、後者は8年ぶりの上演となる。初演当初は熊川自身が主役を踊り、若々しいエネルギーとスピーディなリズムが特徴だった。今回は2作とも、従来の音楽性豊かな踊りに加え、マイム・演技の充実が際立っている。熊川の持ち味である音楽的振付と、物語の展開をじっくり見せる演出が噛み合った、円熟の古典改訂だった。

白鳥の湖』当日主役は、オデット=オディールに矢内千夏、ジークフリードに栗山廉、ロットバルトに杉野慧という若手3人組。矢内は、優れた音楽性、高い技術、強いパトスが揃った本格派のオデット=オディールだった。グラン・フェッテのエネルギーはもちろん、一つ一つの動きに感情が行き渡り、特にマイムには心揺さぶられるものがあった。初演時よりも艶やかさが加わり、2年間の経験を窺わせる。舞台に立って雑念がなく、一瞬たりとも素に戻らないのが矢内の美点。終幕の晴れやかなオーラは、劇場を浄化する力があった。

ジークフリードの栗山ははまり役。ノーブルな踊り、控えめで鷹揚な佇まいは、ロイヤル・バレエの流れを受け継いでいるのだろう。対するロートバルトの杉野は、ダイナミックな踊り、鋭く濃厚な演技で、妖しい悪の世界を浮かび上がらせた。山田蘭の風格ある王妃、若手 佐野朋太郎の愛くるしいベンノ、伊坂文月の重厚かつ面白い家庭教師が、説得力のある演技で脇を固めている。

ソリスト陣、男女アンサンブル、白鳥アンサンブルとも、音楽性、スタイルの点で統一され、なおかつ演技も心得ている。その中でパ・ド・トロワの新人 佐伯美帆のクラシカルな踊りが一際目を惹いた。

コッペリア』も『白鳥の湖』同様、演劇面の充実が素晴らしい。通常、型にはまりがちな1、2幕だが、生き生きとしたコミカルな演技を楽しむことができた。英国バレエの伝統が息づいている。当日主役は、スワニルダが小林美奈、フランツが山本雅也の初役コンビ。コッペリウス博士は、キャラクター・ダンサーとして円熟味の増したスチュアート・キャシディが演じた。キャシディは初演当初、まだダンスール・ノーブルの面影が濃厚だったが、今回は老いの佇まいとコミカルな味わいを見事に融合、昇華させている。歩く姿を見るだけで喜びがあった。

スワニルダの小林は、タフな役を元気に踊り切った。確かな技術に加え、自分を舞台に投げ出すエネルギーの強さがある。強靭な脚が繰り出す細かな足技は、まるで歌っているように見えた。対するフランツの山本は適役。師匠譲りの美しい踊りに、泰然自若とした浮気芝居が加わる。小林を見守る大きさも見ることができた。若い領主には栗山廉、宿屋の主人は練達の笹本学、コッペリアは美しい由井里奈。「祈り」を踊った矢内千夏は、コントロールされた端正な踊り、パトスを内に秘めたしとやかな佇まいで場を魅了した。

コッペリア』には原典版を反映したラコット版、プティパ版復元のヴィハレフ版がある。熊川版はロイヤル版を土台とするが、最大の特徴は3幕の音楽構成だろう。2、3幕を続けるため、行進曲で場面転換し、冒頭は「仕事の踊り」、続いて『シルヴィアギャロップでコッペリウスにまつわるマイム・シーン、「時の踊り」、「平和の踊り」(スワニルダとフランツアダージョ)が続く。さらに神父と「祈り」が登場し、神父が二人を祝福、『シルヴィア』のワルツ・レントで「祈り」が踊る。『シルヴィア』のワルツフランツのソロ、『逸楽の王』パスピエで「ブライドメード」の踊り、「祭りの踊り」(スワニルダのソロ)、ギャロップで終曲となる。「戦争の踊り」は一幕フランツと友人たちの踊りに使用される。原曲を含め、『シルヴィア』、『逸楽の王』からも選曲したドリーブ・コレクションで、特に後者の民謡風メロディは熊川らしい選択と言える。

指揮は『白鳥の湖』とも井田勝大、管弦楽はシアターオーケストラトーキョー。熊川の音楽性具現に大きく貢献している。

2018-05-23

神村恵@「ぴちぴちちゃぷちゃぷらんらんらん」 2018

標記公演は、日本女子体育大学ダンス・プロデュース研究部主催のコンテンポラリーダンス公演(5月11日 あうるすぽっと)。コンテンポラリーダンスの現役振付家を招聘し、同大舞踊学専攻生がダンサー、裏方全般を担う。11回目に当たる今回は、白神ももこ、神村恵、福留麻里が振付を行なった(上演順)。白神の動きそのものの追求、福留の動きの始まりの追求は、ボキャブラリー開拓の意味で大きな教育的意義があった。一方、神村の場合は、学生をただ目の前にいるダンサーとして捉え、作品を共に作り上げている。

神村作品『直進するためのいくつかの方法』(30分)は、ポストモダンダンスの系譜にある。日常的身振り、ミニマルに切り詰められた振付、さらにそこから滲み出る原初的紐帯がその証である。ダンサーは当然女性のみだが、初期ローザスのような少女性やナルシシズムはなく、存在の底にまで降りていく偽りのなさ、他者への誠実さが身体化されている。四つん這いになったダンサーたちが、水銀のように徐々に集まる場面が素晴らしい。一種動物と化して、互いの気配のみを感じながら、中央に集まり、前進する。また縦一列に密着して立ち、少しずつ前進する場面。民族舞踊に見られるような無意識の同期がそこにあった。

うつ伏せになるだけで、空間が築かれるのは、また後ろ走りするだけで、ダンサーの体に強度があるのは、どのような指示が出されてのことだろうか。日常的身振りから原初的身振りへの変容(無意識化)はどのように行われているのだろう。音源は、コツコツという打音、弦音、警報のような音、ピアノ音等が録音されたラジカセ。それをダンサーたちが持ち歩いたり、置き換えたりするため、空間の移動が目に見える。唯一の生音、ダンサーが横一列に並んで口を鳴らす音は、何かの合図か、水滴が落ちる音にも聞こえる。素朴な味わいがあった。

踊り終えたあと、ダンサーたちは別の世界に行ってきたような洗われた表情をしていた。自分と向き合う経験でもあったのだろう。神村は東日本大震災チャリティー公演で、被災者に伴走するソロを踊っている。日常的身振りの中に、ラディカルなまでに愛とパトスを込められるダンサー・振付家である(参照:http://d.hatena.ne.jp/takuma25/20111231/1325335115)。

2018-05-18

バレエシャンブルウエスト「トリプル・ビル」 2018

標記公演を見た(5月13日 オリンパスホール八王子)。第82回定期公演に当たり、ジョン・ヘンリー・リード振付『Through their eyes』、今村博明・川口ゆり子振付『バレルのアマデウス』、同じく今村・川口振付『新・おやゆび姫』というプログラム(上演順)。地元の人々に高いレヴェルのバレエ作品を提供すると共に、新進振付家に創作の場を与える貴重な公演である。

幕開けのリード作品(40分)は、幼稚園に通う子どもたちの様々な姿を描く。安藤基彦のカラフルな衣裳・装置がポップな楽しさを演出、先生というよりも保母さん風の橋本尚美が、やんちゃな子どもたちを統率する。幼稚園で皆が賑やかに遊んだ(踊った)後、お迎えのこない女の子のソロ、自宅で寝ている兄妹がクッキーを求めて宙を飛ぶ場面、雨の中、裸足で踊りまくる女の子、母とブティックに来た姉妹が、マネキンとお話しする場面、父に寝かしつけられた小さな女の子が、夢の中で大人になり、4組の男女を従えて父とパ・ド・ドゥを踊る場面が続く。最後は幼稚園のさよならの時間、「夕焼け小焼け」が流れるなか、バイバイと手を振りながら子どもたちは帰っていく。音楽は「展覧会の絵」、「虹の彼方に」、バロック音楽のアレンジを含むライト・ミュージック、振付はバレエヒップホップの語彙、床を使った動きを用いた演劇性の強いもので、子どもたちの心情を描くことに主眼があった。

バレエ団及びゲストダンサーたちは、子どもに戻って純真無垢な踊りを踊る。中でも吉本真由美の無邪気な踊りが際立った。松村里沙のクラシカルな踊り、大田恵、山田美友の情感、また吉本泰久、橋本直樹、染谷野委、土方一生、リード、宮本祐宜、石原稔己の男性陣も年齢を忘れて童心に返る。リード自身の幼き日の眼差し、愛娘の目を通した日常、さらにリードと大田、土方と吉本(真)のデュエット、リードと愛娘の空飛ぶリフトなども加わり、リードが来日して同団で過ごした日々の集大成となった。作品というよりもオマージュの印象が強い。

続くモーツァルトの自動オルガン曲(音源提供:萌木の村博物館「ホール・オブ・ホールズ」)を用いた『バレルのアマデウス』(10分)上演の前に、マリンバ奏者の大森たつしが曲の解説を行なった。「〈自動オルガンのためのアダージョとアレグロへ短調KV594〉はモーツァルトが亡くなる1年前に作曲されました。通常オルガン楽譜は3段ですが、これは4段からなり、人間が弾くことはできません。パイプオルガンなら479本のパイプを必要とします。現在では複数の楽器に分けて弾くようにアレンジされています。オリジナルで奏でることができるのは、萌木の村博物館所有のバレル式自動オルガンのみなのです。」

本作は、川口と逸見智彦を中心に、4人の若手女性ソリスト、9人の男性ソリスト、女性アンサンブルが、オルガンの重厚な持続音をバックに、シンメトリーや直角のフォーメイションを厳かに繰り広げる。磨き抜かれたポジション、優雅な歩行、古典的リフトの組み合わせが、バレエについてのバレエ作品であることを示している。川口クロワゼの美しさ、絶対的な腕のラインが素晴しい。伸びやかな女性陣、ノーブルな男性陣を従えて、バレエ規範を見せる作品の要となった。

最後は『新・おやゆび姫』(50分)。06年に清里フィールドバレエで初演され、翌年劇場用に改訂、再演を重ねた『おやゆび姫』を再改訂したものである。これまではモーツァルトピアノ協奏曲のみを使用していたが、今回は協奏曲をわずかに残し、キャラクターに合った様々な楽曲が選択されている(共に江藤勝己選曲)。モーツァルトの音楽を楽しめる旧版から、子どもたちにも物語がよく伝わる新版へと変わった印象。出典は明らかにされていないが、花の国の女王と王によるパ・ド・ドゥ曲は、トランペットアコーディオン(?)を用いた親しみやすい音楽で、なぜか和風の趣があった。オークネフの正統派衣裳、桜井久美によるメルヘン調の美術(上下する森や花のバックドロップ、開閉するチューリップ、くるみの殻、ハスの葉、ドングリ)、江頭路子によるイラストレーションが、観客を童心に戻らせる視覚的世界を創り上げている。今村・川口の振付は、動物たちの個性あふれるキャラクターダンス、古典の豪華な踊りの両方を、十二分に楽しませるものだった。

主役のおやゆび姫には、若手で抜擢の続く川口まり。前回の吉本(真)は情熱的な演技を表現の核としていたが、川口(ま)は古典的な踊りを核とする。姫の苦悩のソロはまだ情感を醸し出すには至っていないが、雪の王とのアダージョで凍っていく繊細な腕使い、つばめを介抱する優しさ、花の国の王子との清潔なパ・ド・ドゥに個性が出た。つばめ役 江本拓の美しいバットリー、キューピッド 深沢祥子の透明感あふれる踊り、息子カエル 吉本(泰)のガマーシュ風求愛、雪の王 リードの重厚な存在感、野ネズミのおばさん 橋本(尚)の細やかな気遣い、モグラの紳士 正木亮の熱く一直線の求愛など、ベテラン勢が全力投球。王子 土方の戯れるような音楽性は変わらず。全体を総べる花の女王と王の川口(ゆ)と逸見は、あっさりと控えめなパ・ド・ドゥで品格を示した。

2018-05-15

新国立劇場バレエ団『白鳥の湖』 2018

標記公演を見た(4月30日、5月3日昼夜、4,5,6日 新国立劇場オペラパレス)。06年初演より8回目、3年ぶりの牧阿佐美版『白鳥の湖』である。今回は一幕の優雅な男女アンサンブル、二・四幕の音楽的で磨き抜かれた白鳥アンサンブルが実現し、一瞬、牧時代が戻ったような錯覚を覚えた。土台となったK・セルゲーエフ版は、マイムを舞踊に変える音楽性重視の版で、牧自身の志向と一致する。一方、牧版最大の特徴は、高い技術と覇気を要求する三幕ルースカヤの超絶ソロ。主役・準主役級が配され、技を競ってきた。問題のプロローグは様々な変遷を辿り落ち着いたが、終幕ロートバルトの死に至る道のりは、依然として難所。四幕別れのパ・ド・ドゥの省略も、終盤を難しくさせる要因の一つである。P・カザレットの澄み切った美しい美術、沢田祐二の横ライトを駆使した照明が、モダンでクールな味わいを作品に付加している。

主役のオデット=オディールは、ベテランの域に入った米沢唯と小野絢子、初役の木村優里と柴山紗帆(出演順)。いずれも高い技術と個性の持ち主で、自らの本領を発揮した。王子はそれぞれ井澤駿、福岡雄大、渡邊峻郁、奥村康祐。こちらも考え抜かれた役作りとレベルの高い踊りで観客を魅了した。

初日の米沢は、その場を生きるタイプのため、これまで様々な白鳥・黒鳥を見せてきた。周囲を巻き込む磁場のようなオデット、ロートバルトの魔法に苦しむオデットなど。今回は全く異なる正攻法のアプローチだった。パの一つ一つを明確に、クラシックの立体的なきらめきを見せる楷書の手法である。長い手足を駆使する肉体がこれほど美しく見えたことはない。二幕の詩情、三幕のドラマティックなフェッテも新たな表現。これらを武器に、米沢本来のアプローチを実践するとどうなるのか、期待が膨らむ。対する井澤は、優れた身体美を生かす初役王子。スタイル習得の途上ながら、踊り、佇まいに、気品と華やかさがあった。

貸切公演(木村=渡邊)を挟み、二日目ソワレ千秋楽の小野は、円熟の舞台。振付の意味を考え抜くアプローチを完成させ、余裕すら感じさせる。二幕と三幕の踊り分けは身体の変化にまで及び、別人のごとく。優雅なフェッテも磨き抜かれた体ゆえの結果である。二幕の出会いには真実が、同じくソロの語りには胸に迫るものがあった。対する福岡もベテランの王子。全体を統率する大きさ、踊りの優雅さが素晴らしい。二幕アダージョでは二人の心が通じ合い、終幕ではドラマが立ち上がった。長年にわたるパートナシップの成果を見る思いだった。

三日目の木村、四日目の柴山は初役ながら、自分の持ち味を発揮している。木村は物語を細かく踊りに反映させ、柴山は正確なポジションから繰り出される美しい踊りに終始した。油彩画水彩画の対照的な個性。木村は今後、踊りのフレーズを大切にして音楽に寄り添うことが、柴山はさらなる役の彫り込みが期待される。木村の王子 渡邊は優男の地で勝負、まだ王子のスタイルを身に付けるに至っていないが、一幕ソロは深い憂愁を帯びていた。柴山の王子 奥村ははまり役。王子らしい鷹揚な佇まい、丁寧な踊り(他役でも期待)、白鳥の中にいて自然。柴山をよく見守っている。

ロートバルトの貝川鐵夫は大きく華やか、小柴富久修は役を生きて、終幕の溺死を納得させた。道化は、場を暖かく包む福田圭吾、細かく気を使い、目の覚めるような美しいグランド・ピルエットを見せた井澤諒、悪戯っ子の小野寺雄。王妃の楠元郁子は情味のある円熟の芝居で、風格とユーモアを兼ね備えた家庭教師の内藤博と共に、一幕に厚みを加えている。パ・ド・トロワは3キャスト組まれたが、池田理沙子、柴山、木下嘉人が対話のような踊りを見せた。柴山の正確無比な踊り、池田のパッションが、木下の冷静な俯瞰力によってまとめられている。

トロワから、白鳥たち、キャラクターダンスに至るソリストたちを、ベテランの細田千晶、寺田亜沙子が牽引した。技術の高さ、姿形の美しさは言うまでもなく、バレエ団のスタイルを後輩に伝える役割を十二分に果たしている。ただ公演後半から終盤にかけてややスタミナの問題が浮上。もう少し次代を担う若手の抜擢があってもよかったのではないか。スペインでは川口藍、益田裕子、木下、清水裕三郎、ナポリでは池田、広瀬碧、原健太が組み合わせの妙を誇る。浜崎恵二朗のスタイリッシュなマズルカ、飯野萌子のふくよかなハンガリー、玉井るいの意志のある白鳥、寺井七海の大らかな白鳥が印象深い。

指揮のアレクセイ・バクランは今回、腰の重い東京交響楽団を相手に、これまでとは異なる音楽を聴かせた。グラン・アダージョがゆっくりめで、踊りが見辛かったのは初めて。何か思うところがあるのだろうか。東響の管の響きは素晴らしく、重厚な音楽に彩られた6日間だった。