論考:アクションエコノミー時代に見えないボタンを押せ

3年振りにながめの論考をかきました。我ながら とてもよくかけてると思います。転職して5年、血のにじむような体験をして(笑)蓄積からうまれた思考がほとばしっています。ある懸賞論文に応募してましたが あえなく落選したのでブログで公開してしまいます。まあダメだったものは仕方がない。
ここで考えたことをベースに査読やら学会やらしようとも思ったけど、アカデミズムにむいたテキストになってないので やっぱり使い道がない。2015年はマーケティング4.0 研究会にどっぷり浸かっていたこともあり、コトラーを読みなおして コトラー回帰という素朴な結論にもなっており、新鮮味はまるでない。でも骨太なテキストはかけたと信じてます。テクノロジーを身につけなきゃ、とあせってる人にこそ読んでほしい。ぼくはこれでマーケティングそのものを深めていくことはしばらくお休みして、ちがう世界の研究をしてみます。

アクションエコノミー時代に見えないボタンを押せ
 いま広告と広告会社は、本当に人を動かしているのか。人を動かしている大きな力は広告の外にあるのではないか。若年層は広告を無視するが、スマートフォンをずっと見ている。その支持を元手にあらゆるスマートフォンアプリが既存ビジネスを塗り変えている。たとえばAirBnbは宿泊ビジネスを、Uberはタクシービジネスを刷新した。
 スマートフォンを使ったビジネスは、ユーザーの指ひとつで経済を動かしている。その動向を本論では「アクションエコノミー」と名付け、消費者の感性、広告主の動向、マーケティングの概念に大きな変革を強いることを指摘する。そしてアクションエコノミー時代で広告会社は、生き残る術としてニーズ起点の発想に立ち返るべきと提案したい。


1.ボタンですべてを決める時代
1−1:アクションエコノミー
 スマートフォンを介した行動や売買が肥大化した経済圏が成立しつつある。その仮説を論証するにあたり、アテンションエコノミー(関心の経済)という概念を踏まえておきたい。アテンションエコノミーとはインターネットにより情報量が過剰に増えすぎた反動として、人々の注目を集めることがすなわち財となった経済圏である。企業は情報を所有することが差別化になるのではなく、顧客の関心=アテンションを集約するほうが重要だと考えるようになった。広告業界でも基本型とされる消費者行動モデルは、AIDMAに代表されるようにどれもアテンションから始めるコミュニケーションだといえる。
 そしてスマートフォンの台頭により、若年層を中心にサーチやシェアに着目したAISASが生まれソーシャルエコノミー(共同体の経済)も誕生した。スマートフォンの影響はさらにラディカルに進行し、いまやコミュニケーションは必ずアテンションから始まるとは限らない事態になっている。たとえば商品の認知がなくても、家の中で、学校や職場で、いつでもどこでもスマートフォンを起動すれば、見たいものはすぐ見れるし、欲しいものはすぐに手に入れる社会となった。
 認知を必要としない消費。その空間では広告は邪魔もの扱いされてしまう。象徴的なエピソードとして、アップルの最新iPhoneで搭載されるiOS9では、ウェブブラウザで表示される広告を非表示にするブロック機能が実装された。
 アテンションなしで一足飛びにアクションで完結。家の外で認知させる前に、家や会社の中で行動させてしまう世界。本論ではこのようなアクションを中心としたマネタイズが生まれていく経済圏を「アクションエコノミー(行動の経済)」と名付けたいと思う。その考え方を証左する現象として、流通業界からオムニチャネル、コンテンツ業界からスマートテレビ、行政や自動車業界からコネクテッドビジネスという動向を示しておきたい。


1−2:オムニチャネル
 オムニチャネルとは、消費者がいつでもどこでもあらゆる(オムニ)接点(チャネル)で商品をスムーズに購入と受取ができる環境作りである。物流システムが整えば、消費者はスマホの画面上で指ひとつで好きな時に買ったり受け取ることができるようになる。
 日本国内では、セブン&アイホールディングスはグループ各社の商品であれば、店舗でもネットでも好きなようにモノを買っても、近くのセブン-イレブンで受け取れる最適な物流構築を標榜している。イオンであれば店舗で大量の商品を買っても消費者はそれを持ち帰らず、代わりに即日に指定の時間で配達してくれるサービス「即日便」を始めた。
 アメリカでは、Amazonが2012年より「Amazon Fresh」という生鮮食品の宅配を展開している。一部地域では「Amazon Dash」という宅配用の注文デバイスを無料で配っている。ユーザーはAmazon Dashを手に持って、家のなかにある商品のバーコードをスキャンしたり、自分の欲しいモノを声に出せば音声認識されることで注文が完了する。さらに「Amazon Dash Button」というボタン型デバイスは、ボタンを押すだけで注文できる。


1−3:スマートテレビ
 テレビもタイムシフト視聴が一般化し、スマートテレビの普及が進むことで視聴環境が大きく変わりはじめている。日本でも2015年9月に「Netflix」が上陸した。2015年以降に発売される大手家電メーカーのテレビリモコンは、常設でNetflixボタンがついているため、視聴者はボタンひとつでNetflixのホーム画面に訪れることができる。
 日本のテレビ業界はARIB(電波産業会)の規約によって、テレビ電源をオンにした時は地上波テレビ放送の画面だけを表示させるのが望ましいという取り決めがある。*1 そのためテレビ各局は視聴者のアテンションを圧倒的優位な立場で確保していた。その環境のなかでNetflixボタンがリモコンに常設される意味は大きい。もしNetflixがテレビ各局のコンテンツより支持された場合、日本の広告ビジネスは変革を余儀なくされるだろう。


1−4:コネクテッドビジネス
 中国生まれのメッセンジャーアプリ「WeChat」は、リアル世界で行うあらゆる手続きと決済をアプリのボタンひとつで済ませようと試みている。2015年4月から上海エリアにて、WeChatを通じたインフラ料金の支払いや行政サービスができるようになった。

WeChatの画面に表示されたボタンから、電気・水道・ガスの支払い、納税や出国の手続き、車検予約、図書館の図書検索が指ひとつで操作できるようになった。その他にもWeChatは、ユーザーが位置情報を送ることでその場所にタクシーを呼びだせる配車サービスも提供しており(中国版Uberといってよい)すでに中国全土で広まっている。
 事例は枚挙に暇がない。LGは「Honechat」というスマート家電シリーズを展開してLINEと業務提携。Appleは自動車用のOS「Car Play」を発表し、スマートフォンのように車が操作できるシステムを開発中だ。家の中にいても、外で車に乗って出かけても、ボタンひとつでモノを見たり動かしたり買ったりできる世界は現実化しつつある。


2.見えるボタンと見えないボタン
2−1:アクションエコノミー企業とクライアントで完結
 日本の広告会社の多くはアテンション、すなわちマスメディアビジネスが主戦場である。もし本論の仮説通りに、消費者行動の多くがアクション起点になったとすれば、アクションエコノミーに強いプラットフォーム企業(以後アクションエコノミー企業と記す)が、オムニチャネル・スマートテレビ・コネクテッドビジネスなど新しいビジネス領域で覇権を握ることになる。プラットフォームをいち早く転用してビジネスを行うシステムインテグレーターコンサルティング企業も優位であるし、それを利用する事業会社(広告会社にとってのクライアント)も顧客データを保有している。
 つまりアクションエコノミー企業とクライアントは直接手をつなぎ、そのシステムから直接、顧客に対してサービスを供給することができる。置いてけぼりになるのはシステムもハードウェアも有しない広告会社となる。アクションエコノミー時代が到来することで広告はいらなくなり、広告会社も壊滅する可能性は日に日に高まっているのではないか。


2−2:ニーズとウォンツとデマンド
 認知なしでワンボタン消費できるアクションエコノミー。それはデマンド(需要)起点のマーケティングが席巻した世界だといえる。広告の新しい可能性を模索するために、改めてマーケティングとはなにか原点を見つめなおしてみよう。
 フィリップ・コトラーは消費行動の源泉をニーズ(必要)、ウォンツ(欲求)、デマンド(需要)に分けた。*2 水の消費でたとえるとニーズとは「のどが渇いた」、ウォンツとは「水がほしい」、デマンドとは「A社のミネラルウォーターを買いたい」と整理できる。この整理に従うとアクションエコノミーで台頭するサービスは、すべてデマンド起点のマーケティングだとわかる。消費者がボタンを通じてA社のミネラルウォーターを指名買いしてくれるからこそ経済が成立している。だからこそアクションエコノミー企業は陣地を広げるべく広範囲にボタンをばらまこうとする。あらゆる時間と場所においてA社のミネラルウォーターを買いたい消費者が可視化され、世界中のボタンを通じてビッグデータを収集し、統合分析すれば「水がほしい」というウォンツまで解析するのも容易だ。
 しかしデマンド起点のマーケティングでは「のどが渇いた」かどうかニーズを言い当てることは難しい。デマンド起点のマーケティングの発想では、A社のミネラルウォーターを月に一度買っており、いろんなサイトで水の情報を調べ、SNSで水が飲みたいとつぶやいている人だから「この人は水が好きなのだ」と早々と解析を終えてしまう。だがこれは相関関係をみて類推しているに過ぎず、因果関係はわからない。
 ニーズ起点のマーケティングでは、行動や購買データは参考のひとつでしかない。A社のミネラルウォーターを買い続けている人は、必ずしも水だけを欲しているとは限らない。「のどが渇いた」というニーズに対する答えはひとつではない。スポーツをしてのどが渇いたのであればスポーツドリンクをおすすめしたほうがよい。そもそも「のどが渇いた」のは乾燥した部屋で毎日生活しているせいかもしれない。であれば加湿器を買ったほうがいいかもしれないし、もしかすると「のどが渇いた」というニーズの奥底にもっと深いニーズとして「体調が悪い」と感じているのかもしれない。であればのどの渇きはカゼに由来してことになる。だとすればウォンツとデマンドはすべてひっくり返るだろう。


2−3:広告会社は見えないボタンを押せ
 ニーズ発想からソリューションを生みだす。ありきたりで平凡な提案に聞こえるかもしれない。だが想像してみてほしい。アクションエコノミー時代では、世界中にアクションへつながる「見えるボタン」が偏在し、ボタンを押すだけで大量の消費者が購買を促される。多額の予算をかけたプロモーションが効かなくなる一方で、消費者が持つスマホ、テレビや冷蔵庫、自家用車などに搭載されたボタンを押すと、一気に経済が動いてしまう。
 もしそんな過酷な現実がおとずれたとしたら、私たちはアクションエコノミーの手法に思わず飛びつきたくなるだろう。IoT(Internet of things)の流行が顕著なように、表層だけみればボタンひとつで消費者が動いてるようにみえるからだ。しかしそれはマーケターの現実逃避でしかない。彼らが開発した見えるボタンの裏には、重厚データベースと複雑ロジスティクスとロビイング活動がある。一朝一夕にできる代物ではない。
 アクションエコノミーに勝つためには、デマンドという見えるボタンにまどわされず、私たちはニーズという「見えないボタン」を発掘しなければならない。ニーズの発掘は、アクションエコノミー企業には不得意な仕事である。デマンドに慣れすぎた消費者にニーズ起点の提案をすると反発が大きいからだ。アクションエコノミー企業は確実なデマンドを刈りとった瞬間に売上を伸びるという麻薬をやめられないはずだ。
 他方でクライアントから広告会社に寄せられる案件は、売上が低迷し、ビジネスが飽和し、限界を迎えたがゆえの悩みばかりである。クライアントが広告会社に期待しているのは、一攫千金の見えるボタンをつくることではない。見えるボタンの存在を知っていれば自分でつくるだろう。クライアントは広告会社に、見えない消費者を動かす、見えないボタンを発掘し、さらに見えないボタンを押してくれる実行力にまで期待している。


3.アクションエコノミーで生き残るブランド
 見えるボタンによって消費者は自分が欲しいモノだけを買い続ける。アクションエコノミーが全盛となった時代に、事業会社はどうやって対抗するのだろうか。メディア、メーカー、リテーラーの立場からニーズに応えるブランドのあり方を考えてみたい。
3−1:媒体の使い方:3Mポストイット
 ネットユーザーのニーズを深く汲みとった事例を紹介する。3Mのポストイットは認知利用を訴求するためにリターゲティングバナー広告を用いた。リターゲティングとはユーザーの訪問サイト履歴を参照し、ユーザーを追いかけるように何度も画面上に表示させる手法だ。3Mはこのリターゲティングバナーの画面上にポストイットを貼りつけた。ユーザーはポストイットに好きなようにメモを書いておくと、またネットサーフィンした時に書いたメモが再掲示され、リマインドの役割を果たしてくれる。*3
 リターゲティングはデマンド発想の広告である。「Aという特性を持ったサイトを何度もみたことがある」という明確な行動データがあるから、一見すると確実に購買につながる消費者が存在しているかのように見えてしまう。しかし広告主の敷地に呼びよせる訪問ツールとして有益でも、ユーザーにとっては何度も見たことがあるメッセージを繰り返し浴びせられて不愉快に感じてしまう。リターゲティングは開始当初はクリック数を稼ぐことはできるが、同じパターンを長く続けると数字は落ち続け、最後にはユーザーはその企業を嫌悪し、焼け野原と化すケースが多い。
 ポストイットのリターゲティングバナーが優れているのは、ユーザーのニーズをすくい取って形にしたことだ。デマンド起点で発想すると「あなたが興味のありそうな広告を何度も表示しましょう」という解決しか導きだせない。「ネットサーフィンする時にバナー広告はなるだけ見たくない」というニーズから発想したからこそ「あなたが最も興味あるのはあなたが自分で考えて書いたメモだ。それを忘れないようバナーを使ってメモしてください」という解決を導きだすことができたのだ。


3−2:商品の作り方:P&Gボールド
 生活用品メーカーの事例で考えてみよう。先ほど「Amazon Dash Button」というボタン型デバイスを紹介したが、Amazonはその主な使い道として、洗濯機にボタンを取り付けることを推奨している。自分の好きな洗剤ブランドのデザインをあしらったボタンを洗濯機に付ければ、ワンボタンでいつもの洗剤が自宅にお届けされるという具合だ。
 Amazonが主導するアクションエコノミー競争下において、洗剤メーカーはどうすれば選ばれる商品になるだろうか。いまや洗剤はどのブランドも洗浄力はもちろん、液体タイプもあれば柔軟剤入りタイプもあり、差別化が難しい市場である。洗浄力で勝負できた頃から一変し、現代の主婦は「忙しいから家事を楽に済ませたい」というニーズが強い。
 そこでP&Gは2014年に液体洗剤と柔軟剤をセットにし、透明パックで包んだジェルボールという新形態を発表した。ジェルボールを洗濯機に入れてボタンを押すだけで洗濯は完了するため、計量スプーンで量を計ったり柔軟剤を追加する手間を省略できる。
 ジェルボールは徹底して主婦が洗濯機の前で、どんな動作をし、どんなことを考え、どんな不満を感じてるか傾聴しているからこそ生まれた商品だ。主婦のニーズを捉えただけでなく、ワンボタンで洗剤を買って、ワンタッチで洗濯が終わるという買い物から商品使用に至るまでの動線は、まさにアクションエコノミー的な感性を先取りしている。


3−3:小売の売り方:ヴィレッジヴァンガード
 書店業界は特にデマンド起点のマーケティングが強い業態であるため、アクションエコノミーの影響を受けやすい。「おもしろい小説を読みたい」というウォンツや「刺激的な情報を知りたい」というニーズは嗜好性が多様なため解析しにくいが、「村上春樹の新刊が欲しい」というデマンドを持つ消費者は明らかである。だからネット通販拡大の煽りを受けて書店数は激減した。それでもやはりニーズ発想の企業は力強く生き残っている。
 その代表格である書店チェーン:ヴィレッジヴァンガード(以下ヴィレヴァン)は、「遊べる本屋」という考え方でファンの見えないボタンを押すべく自覚的に試みている。営業企画部の関戸リーダーはそのマーチャンダイジング戦略を「買い物を通した時間消費を売りにしたビジネスモデル」であり「商品を売っているというより、商品を通して買うという行為を楽しんでいただく」と表している。*4

 ヴィレヴァンはモノそのものでなく、モノを買うという行為に着目しているため、POPの書き方も独特である。商品の横にオリジナルのPOPを所狭しと大量に掲示するのがヴィレヴァンの特徴だが、そのPOPをみると「マズい(本当)」「買わずの後悔より買ってめっちゃめちゃ後悔したほうがええよ!!」といったデマンドやウォンツを無視したキャッチコピーが並ぶ。一見すると荒唐無稽にみえるが、関戸はファンの「買い物を楽しみたい」というニーズに真摯に向きあっているからこそこのコピーが成立している。
 関戸はヴィレヴァンを訪れた「お客さまのお買いもののスイッチを狂わせたい」という。まさに見えるボタンに慣れすぎた読者の奥底に潜んだ、見えないボタンを押しにいくことで心を揺さぶり、消費者の感性を根底からひっくり返そうと企んでいるのだ。


4.アクションエコノミーで生き残る広告会社
 アクションエコノミーを攻略するヒントとして先見性ある事業会社の試みを考察してきたが、その上で広告会社はどんな価値をクライアントに提供できるか最後に考えたい。

4−1:合理化された非合理
 アクションエコノミーとは徹底して合理化された世界である。消費者が自分で欲しい商品を発注し、すぐさま届ける。この繰り返しを洗練させて常に効率のよいロジスティクスを追求する。立ち入る隙がなくなるまで合理化させていく。もしこの合理性に対抗する術があるなら、機械では予測できない非合理にこそヒントがあるのではないか。ヴィレヴァンの例でみてきたように、非合理にみえるアイデアが事業を推し進めることはビジネス現場では珍しくない。問題はその非合理をどうやって恒常的かつ組織的に生産していくかだ。
 経済学者の楠木建は、事業成長における競争優位であり中興の祖となる、合理化された非合理アイデアを創りだす方法を「クリティカル・コア」と呼んでいる。*5
 たとえばスターバックスにおけるクリティカル・コアは本部による「直営方式」となる。スターバックスはビジネスマンの憩いの場となる「サードプレイス」というコンセプトを徹底すべく、商品・店舗・土地・教育などすべてにこだわりぬくために、店舗をすべて直営とした。だがアナリストからみると直営方式はスケールメリットが出しにくく非効率なため、ROAを低下させる要素だと考えられ酷評されていた。なので後発のコーヒーチェーンは直営方式は採用せず、他の部分ばかりを模倣していった。しかし結果として後発のコーヒーチェーンはちぐはぐなサービスとなり消費者には魅力がない空間となった。他方でアナリストの予測を裏切り、スターバックスは大きく躍進した。
 当時、スターバックスの方針は業界内では非合理な考え方にみえたという。だが業界外の私たちにとって、スターバックスがコンセプトを完遂するために、細部までこだわる直営方式にすることは当然の決断のようにみえる。しかし業界内にいるとその感覚が抜け落ちてしまう。自社だけで密室で考えてしまったあげく単なる合理的な判断に落ちついてしまい、ありきたりの戦略によって競争差別化できず失敗するというわけだ。
 合理化された非合理アイデアを選ぶにはセンスが必要だ。楠はセンスを磨くために「自らのストーリーに論理的な確信を持てるまで“なぜ”を突き詰めるべき」と主張する。周りから非合理的といわれても、自分のなかで論理的であればそれは合理的である。
 合理化された非合理を生みだすのに最も適した職能は「なぜ」を突き詰める思考に長けている広告クリエイターではないだろうか。広告会社に勤める者なら、営業・プランニング・メディアなどのスタッフでブレーンストーミングをして結論が出た後、ブリーフィングをクリエイターに渡すと、彼らから「理屈はわかるけどそもそも〜」という戻しを食らった経験があるだろう。クリエイターがいう「そもそも」とは、消費者の奥底にあるニーズを「そもそも」ちゃんと考えているのか?という問いかけである。ニーズの深掘りができていないブリーフィングは、何度も「なぜ」を浴びせられる宿命にある。


4−2:Why→How→What
 近年注目されているデザイン思考でも同じだ。イノベーションを研究するサイモン・シネックは物事を他人に説明する時は「なぜから始めよ」と提唱している。*6 Why(なぜ)の次にHow(どうやって)、最後にWhat(なに)を話すというメソッドだ。たとえばiPhoneジョブズ時代のテレビCMでは「私たちは他とは違うことを考えることに価値を見出している」とWhyを伝え、そのために「美しいデザインにこだわっている」とHowを伝え、最後に「それはiPhoneです」とWhatを伝えている。
 Whyから始める思考法は、広告会社のプランニングフローとは真逆である。What to sayというメソッドがよく知られているように、消費者になにを伝えて(What)、どう伝えるか(How)の順で考えるクセがついており、しかもなぜ伝えるか(Why)は介在しない。
 広告会社はアクションエコノミー時代ですべての常識を逆転させねばならない。クライアントの事業や商品についてオリエンテーションを受けた時、私たちは「なぜそんな事業や商品をつくろうと考えたのか?」「そもそもその事業や商品は社会にとってどんなメリットがあるのか?」を繰り返し問わなければならない。その発想がデマンドでもウォンツでもなく、真なるニーズであるかどうかを精査できる力を持たねば存在価値がない。


4−3:ゼロ列目営業
 広告会社はクライアントと共に事業を育てることがビジネスの根幹である。そしてニーズを発見するためにもクライアントと同じ目線で議論することは必須である。だから時に私たちはクライアントの中に入って、一緒に考えるポジションを求められることがある。
個人的な体験だが筆者も、ある企業に出向した時期がある。オリエン資料を作ったり、商品開発や販売政策会議に出たり、店頭オペレーションの実務も担当した。クライアントの中に入ると、外の営業ではつかみきれない深い情報まで知ることができると体感した。
 筆者はいわゆる内勤だが、内勤者はもっと前線に出て、クライアントと一緒に考えるポジションにいるべきだと感じた。よく広告会社は営業セクションを1列目、内勤セクションを2列目、その中間でブリッジする役割を1.5列目と呼ぶことがある。1.5列目の背景には、1列目が最も偉いから、内勤はできるだけ1列目に近い立場にいるべきという思想がある。
 ならば1列目を飛びこえてゼロ列目にいることができれば、より未知なるニーズの種に近づけるのではないか。広告営業はプロフィットセンターであるため純粋な会話ができない、と感じるクライアントがいたなら、利害関係がない(ようにみえる)コストセンターが出張って「なぜ?」「そもそも〜」と積極的に質問を投げかけるチャンスである。
 ゼロ列目を実践している広告会社として、電通はアウトドア用品ブランドのスノーピークのなかに「未来創造室」という部署を成立した。そこでは新しいキャンプグッズのアイデア電通がアイデアを出し、クライアントと横並びに議論できる環境がある。スノーピークの山井社長は広告会社に対して「クライアントが他の企業の追従をしようとしたら、そういうことはカッコ悪いのでやめてくださいと止めてほしい」「クライアントを正しいビジネスに導くパートナーの役割を期待」しているという。*7 広告会社と同じ立場で、一緒にニーズを掘り起こしたいと願ってくれるクライアントは少なからずいる。


5.見える資産と見えない資産
 あらゆる場所に見えるボタンが偏在されたデマンド起点のマーケティング世界では、逆に見えないボタンを押すニーズ起点のマーケティングが求められる。見えるボタンによって広告がスキップされても、見えないボタンを押すことができる人材を多く抱える広告会社は、アクションエコノミーに巻き込まれず十分に戦っていける根拠をいくつか示してきた。合理化された非合理アイデアを生みだし「なぜ」を志向する広告クリエイターの存在、その採掘場に赴かんとするゼロ列目営業の動きは私たちを勇気づけた。しかし広告会社はなぜ、アクションエコノミー企業には見ることができない、見えないボタンを発見できるのだろうか。それは私たちは見えるボタンをつくるための基礎を持っていないからこそ、見えないものを見ようとする職能が発達したように思える。
 AmazonGoogleは巨大なサーバを持っている。メーカーは商品や製造工場を持っている。リテーラーは倉庫に店舗や物流システムを持っている。どれも形として見える有形資産である。さて、広告会社は有形資産をほとんど持っていない。あるとすれば人間とその人間の頭のなかにあるノウハウという名の無形資産である。
 見える資産を持つ企業と、見えない資産を持つ企業は文化や価値観が大きく異なる。見える資産を持つ企業は、それを武器として捉えてこだわりが強くなり、消費者のニーズを真摯にみつめた発想ができなくなる。だから見える資産という既得権益を壊していく外圧や黒船が次々に生まれ続ける。そして現在進行系であらゆる見える資産は、とてつもないスピードで陳腐化している。
 広告会社ならではのニーズに根ざした発想をビジネスにまで昇華してくれるのが見えない資産である。見えない資産とは、クライアントから寄せられた課題を真摯に受け止め、私たちが世の中で必要なことだけをみる思考力とあらゆる手段で尽くす実行力である。
 広告会社は見えないボタンを押さなければならないが、ボタンの押し方は広告である必要はない。広告技術という見える資産にこだわらず、私たちの奥底にある見えない資産を改めて見つめなおす時代を迎えている。

*1:地上放送事業者連絡会,「放送番組及びコンテンツ一意性の確保に関するガイドライン」,(http://www.dpa.or.jp/business/mfr/pdf/ichiisei070828.pdf),2007.8.28.

*2:フィリップ・コトラー,ゲイリー・アームストロング,『マーケティング原理 第9版』(ダイヤモンド社,2003)

*3:AdFourm,” Post-it - The Banner That Makes You Like Banners”,(http://www.adforum.com/award-organization/6650183/showcase/2015/ad/34512986),2015.9.1.

*4:Advertimes,「ヴィレヴァンのPOPであやつるMD戦略〜お客さまのお買いものスイッチを狂わせる」,(http://www.advertimes.com/20150402/article188356/),2015.4.2.

*5:楠木建,『ストーリーとしての競争戦略 ― 優れた戦略の条件』(東洋経済新報社,2010)

*6:サイモン・シネック(栗木さつき訳),『WHYから始めよ!―インスパイア型リーダーはここが違う』(日本経済新聞出版社,2012)

*7:電通報,「法人の生き方(後編)」,(http://dentsu-ho.com/articles/2604),2015.7.4.

2015年の仕事たち

ずっとひきこもりでしたが、最近ようやく世にではじめたので メモがてら2015年の仕事をまとめておきます。ようやく美術の仕事がすこしずつできるようになってきたのがとてもうれしいことでした。


2015年3月
【東京都現代美術館】ガブリエル・オロスコ展 公式ガイドアプリ


2015年7月
【電通報】電通が怒られたオムニチャネルの言葉
【カヤック】史上初のiBeaconを使った美術鑑賞ガイドアプリ制作秘話【INTERVIEW】


2015年8月
【電通報】流通アナリストに聞く オムニチャネル実現のための5ヵ条(前編)
【電通報】流通アナリストに聞く オムニチャネル実現のための5ヵ条(後編)


2015年10月
【日本広告学会 全国大会】オムニチャネル時代における広告の存在意義


2015年11月
【次世代マーケティングプラットフォーム研究会】第6回総会:オムニチャネル パネルディスカッション登壇
 

2014年の抱負

2014年になった。32歳になった。電通に転職しておよそ3年たった。社会人になって10年たった。

これまでのぼくは実務と理論の融合、実学から発生したプラグマティックな研究、といったことを標榜し、自身のポジショニングを長らく考えてきた。しかし30代となったいま、もはやそんなこともどうでもよくなってきた。優れているものは優れていて、ダメなものはダメ。どんな領域にいようと関係ないと思ったからだ。


アカデミシャンだからといって理論的に優れているとはいえない。実務家だからといって仕事がバリバリできるわけではない。優秀なひとはどこにいても優秀で、なにをやらせてもおもしろい。そしてぼくがいま属している実務界は、たいへん優れたひとがたくさんいる。彼らに勝たないかぎり、領域を飛びこえるもクソもない。勝つしかない。負けたら去る。それだけだ。そんな当たり前の話を10年かかってようやく気づけたのかもしれない。

なのでぼくはまだまだしばらく実務をやり続けようとおもう。どうせ理論と実務は融解するから、本当にすぐれた実務をやれば理論化するはずだ。そうでなければそれはダメな実務ということだろう。


さて、そんな2014年の抱負として「やりたいことを決める」にしようと思っている。32歳になってなにをいまさら、という感じだし、おまえのやりたいことってすでに絞られてるじゃないか、とツッコミ受けそうなものだが、ぼくのなかではいまだに具体化していないのだ。

ぼくは昔から広告表現の理論化を目標にしている。それではどんな表現方法で、どんなやり方で、どんな形式で理論化をするのかはいまだにはっきりしていない。いくつか腹案はあるが、これだと思える骨子がいまだにつくれていない。


広告表現といっておきながら、ぼくがながらくフォーカスしてきたのはむしろ構造主義的なやり方だった。構造的(批評的あるいは政治的とまで揶揄してもいい)な視点によって表層が規定されることのおもしろさにハマっていたが、よくまわりを見渡すとそれはだれでもできるアプローチである。構造的な視点は器がでかくみせれるし共感も呼びやすいからもっともベターなのだけど、その方法で東浩紀を超えることはできないし、ぼくならではの視点ではなかった。


ここで話をすこし脱線させる。コンテンツとメディアという二層構造は、どちらも不可分に影響しあってきた。ぼくはもともとコンテンツ側に属して考えを深めてきたが、この数年はむしろメディアについて考えざるをえない状況が続いた。メディア優勢の時代はいまなお続いている。そこでぼくはどちら側を選ぶか、という発想でスタンスを考えてきたが、いまの時代、このふたつは切っても切り離せない。セットで考えることは基本形となることがわかった。

ではそのうえでぼくはなにを研究していくべきだろうか。もちろんいまの活動の流れで研究を深めていけるものはたくさんあるし、日本のなかでぼくが第一人者だといえなくもない領域もつかめている。だがぼく自身が、その活動そのものに疑いをもっているとそれ以上、深めようという気にならない。研究するなら一生信じられることを研究したい。まだそれがどうも見つかっていない。永遠のモラトリアム迷宮に陥っているかもしれない。


もうひとつの抱負をかかげようと思ってるのは「やりたくないことはやらない」ということだ。これはサラリーマンの否定かもしれないが、ぼくにとってこれは大きな行動指針になる。もしかするとこの抱負を守っていくことで、ぼくがやりたいことがより鮮明に浮かびあがるのかもしれない。

ぼくはこれまでどんなことにもチャレンジしてきて、そのおかげでいまのぼくが形作られている。だがこの数年、その態度のせいで中途半端になって失敗した経験をぼくはいくつもした。いろいろ決断しないといけない時期にきたとおもう。


やりたいことを決める。やりたくないことはやらない。10年かけて当たり前の自分探しに立ち戻った。徹底して自らの基礎をみつめなおす1年にしたい。

そういえば10年前のぼくは自分がメディアアーティストになっていると想像していた。これから10年後のぼくはどうなりたいと想像することにしようか。そして実際どんな姿になっているだろうか。
 

パリとアートインダストリー

ある機会にめぐまれてフランスーパリに1週間ほど滞在してきた。ぼくは子供のころからアートについて考えてきた人間なので、一度はパリにいかないとダメだと思いながらずっと行けてなかった。

30歳をこえてついに実際にルーブル美術館やポンピドゥーセンターに訪れてみると、教科書でながめてきたマスターピースの数々をみることができて素直に感動した。なんでここまで美術の供給力がちがうのだろう。基盤となる文化力(フランス風にいえばハビトゥスで アメリカ風にいえばソフトパワーでもどちらでもよいが)があまりにもちがいすぎる。アメリカーニューヨークにいったときも痛感したけど、欧州ー欧米とくらべて日本のアートはあまりに貧弱だ。

そしてぼくはずっと西欧のアートに憧れを抱いてきた。だったらさっさと日本から出ていって仕事したほうがいいはず。なぜぼくはそれでも日本にいるのだろう。


そんなことを考えながら、12時間ものせまいエコノミー席のフライトのなか、辛美沙『アート・インダストリー ―究極のコモディティーを求めて』をよんでいた。この本も日本のアートマーケットが不在であること、80年代のアートバブルを経験しながらもシステムとルールを整備しなかったツケがまわっていることを嘆いている。この本はたいへん示唆に富んでおり必読なのだが内容については別の機会で述べるとして、さて、そこまで辛は見通しがたっており、ニューヨークの大学で美術修士もとり、ニューヨークでギャラリーもオープンさせ生計をたててきたのに、なぜ日本に戻ってきたのだろうか。

アート・インダストリー―究極のコモディティーを求めて (Arts and Culture Library)

アート・インダストリー―究極のコモディティーを求めて (Arts and Culture Library)


ぼくは昔から「おまえみたいな考え方をするやつは、海外いくか外資系企業にいかないと日本企業ではやっていけない」といわれてきた。たしかにぼくは仕事もプライベート関わらず、あらゆる事柄を合理的に考えることをこのむタイプだ。慣習や文化よりも合理性をおもんじる。効果のたかい方法をえらぶ。だからアートをやりたいなら、さっさと海外にいけばよいはずだった。


それでもなぜぼくは、あるいは辛は、日本にいて、それでも日本という場からなにかを発信しようとするのだろう。まあ単純に、600万体の頭蓋骨がならぶカタコンブを観光化するヨーロッパ人の死生観や、ノドがやけるほど異常に塩辛く味付けされた料理たちには辟易としたので、この街には住めないなとおもったけど。辛も東京のライフスタイルが全世界のなかでも圧倒的にすごしやすく最高だといってるので、どこにいてもグローバルな活動ができると思ったから戻ってきたのかもしれないけど。でもなんだかんだ辛も、日本のアートマーケットの文脈で活動している。


ぼくもまた日本にいて、日本のなかでアート的な仕事をしたいと願っている。自分の力で切りひらかないとできないと思っている。たぶんぼくは、日本にはアートマーケットがないけど、ニューヨークがでっちあげたように、パリがその作法を追従したように、中東やアジアが資本の力でむりやり成立させようと懸命なように、日本でもその勃興は可能だと心のなかで信じている。

日本のアートは残念かもしれないけど、クラフトワークはどの国よりも優れている。足りていないコンセプトや言語、コミュニケーション作法の力は埋めることができる。そのスキルをきちんと磨いておけばいずれ機会があるはずだ。

そしてそれは感覚的なものだけでなく、合理的にかんがえてもぼく自身の努力からはじめることができるはずだと算段がついているから。その合理は直感に基づいたりしてるのだけど。
 

論考:アブダクティブ・イシュー 〜 Why to Sayを問う構想力 〜

これからの広告における想像力のあり方について論考をまとめました。つねづねぼくはクリエイティビティとは、すなわちアブダクティビティであると考えてきました。クリエイティブという概念はもっと抜本的に変わるべきです。もうひとつの動機として、マーケティング研究者の栗木契さんが2003年にかかれた『リフレクティブ・フロー』を読み、その発展を意識してかいてます。栗木さんの議論はたいへん混みあってるので本文ではやむなく省いてしまいましたが、その考えをふまえていることを整理して改めてテキストにする必要を感じています。

アブダクティブ・イシュー 〜 Why to Sayを問う構想力 〜

本論の目的は、広告会社におけるクリエイティビティの可能性を引き出すことで、不完全な時代を補完するのではなく、不完全なままにどう生きるか主体的に考える想像力を誕生させることにある。いま日本人はみな、先行きの見えない暗闇をともに歩むかのような感覚に覆われている。かつての常識や成功体験は通用しない現在、私たちがすべきことは過去の分析でも現状の俯瞰でもなく、未来を見通すパースペクティブであり、散らばっていった問題群をあらたに再設定していく構想力にある。このような能力を職能的に備えている広告人のポテンシャルを本論で明らかにしたいと思う。


1:不完全な時代
生活者主導プラットフォームの台頭
いま広告業界は大きな転換期にある。消費者への関心をベースにした意識データだけでは課題を発見することが難しくなり、生活者自身も気付かない無意識をベースにした行動データによるインサイトが求められるようになった。しかし行動データは大規模顧客接点を持つ事業者(ポータルサイトなど)もしくは自社で接点を持つクライアント企業そのものが有しており、広告会社が誇っていた情報の優位性は著しく低下してきた。
一方で生活者は、企業やマスコミによるメッセージを受容するだけでなく、友人同士でつながりあうコミュニケーション行為にこそ多くの時間を割くようになってきた。この現象を社会学者の北田暁大は「繋がりの社会性」と名付けた。*1 さらに俯瞰すると梅田望夫がいう「総表現社会」、博報堂による「生活者主導社会」もこの変化と意を同じくしている。
そして2011年3月11日、東日本大震災が日本を襲った。犠牲者の数は戦後最大級の災害として深く大きな傷跡を残した。この事態にコミュニケーション産業のなかで最も早急に手を打ったのはグーグルだった。グーグルは震災によって行方不明になった人たちの安否を登録する「パーソンファインダー」という連絡サイトを、震災が発生してわずか2時間後に立ちあげた。同じコミュニケーションを生業にする者としてその対応のスピードには舌を巻き、いかにグーグルが生活者により近い接点を持っているか実感するケースだった。他にも楽天やグリーなど多くのポータルサイトが、早急にウェブ決済システムを使って震災義援金を募る動きをみせた。
現在、行動データを最も広範囲かつ効率的に取得し、生活者が情報に費やす時間を奪い、コミュニケーションで社会に貢献しているのはテクノロジー開発で成功している新興企業ばかりだ。どれもこれも広告会社にノウハウがあると自負してきた領域ばかりだった。


大震災がもたらした時代精神
311の大震災は私たちの思考と行動に大きな変化をもたらした。コンピューター科学者の坂村健は、人々が得る情報はいつも正しいわけではないという不安に向きあいながら、そのなかでもっともらしい判断をしながらも、判断した結果についてすでにあきらめてしまっている現代人の心理を「不完全な時代」と形容した。*2 これまでの社会が対価さえ払えば完璧な保障をしてくれるギャランティ(性能保障)型システムで動いたとすれば、これからはユーザーも含めて関係者みんなで問題がないように最大限の努力をして支えあうベストエフォート(最大努力)型システムで社会は機能せざるをえなくなるのだ。
絶対安全神話が崩壊したいま、企業が提供する商品や価値はだんだんベストエフォート型システムに切り替わっていくだろう。その代表格はソーシャルメディアだ。ソーシャルメディアはサービスを開始してから当初はシステム不備があったとしても、事業者は試用品であるβ版として公開し、むしろユーザーから改善策を募ることでパワーアップしていく。いうまでもなくこういった環境を整備しているのもまたIT系の新興企業たちだ。
情報の優位性の凋落。奇妙な緊張感につつまれた消費の混乱。生活者ニーズにひたすら応え続けることを唯一の善としてきたマーケティング進歩史観も早晩に立ちゆかなくなるだろう。広告会社が次の一手をどう指すか迷っている間、コミュニケーションプラットフォーム事業者は八面六臂に活躍している。世の中の空気をつくる仕事と呼ばれた広告会社がいますべきことはいったいどこにあるのだろうか。


クリエイティビティの構造転換
社会設計におけるギャランティ型からベストエフォート型への移行は、広告にまつわるクリエイティビティの変化とも鏡のように照応している。どういうことか。
20世紀で最も偉大な広告人と評されるウィリアム・バーンバックは、1950年代に“クリエイティブレボリューション”と呼ばれる潮流をつくった。広告制作のコンセプト開発において、コピーライターとアートディレクターの二人が協業して生みだす手法を一般化させた。以来、広告クリエイティブは少人数でつくりあげる送り手の創造力となった。
しかしながら一方で近年の世界的な言説のトレンドをみると、創造性は作者よりも環境に帰属するようになったと指摘する論者が増えている。たとえば法学者のジョナサン・ジットレインは、クリエイティビティが個人の内面や精神から生まれるものだとすれば、匿名の多人数によって創造的な活動が勃発している現象をジェネレイティビティ(生成力)と名付けて説明している。*3 種々雑多な人々が偶有的にコラボレーションすることでだれも予想できないようなアウトプットが生まれるのがジェネレイティビティだとすれば、それはすなわちソーシャルメディアが実現したことに他ならないだろう。
送り手=広告会社がつくる創造力を受容する消費者像から、受け手がつくる生成力を促進する生活者像へ。世界中で拡大の一途を歩んでいるこの変化にいち早く対応したのはやはりIT新興企業だった。広告会社が乗り遅れていることはまず認めざるをえない。
グーグルやフェイスブックは企業と生活者のあいだのコミュニケーションを活発にした。ならば企業と生活者のあいだに立ち、クリエイティビティという価値を提供してきた広告会社もまた、彼らとはまったく別のやり方でその進化系を示す時期がきたのではないか。


2:アブダクティブ・イシュー
哲学的議題のコンテンツ化
これまで例にあげたIT新興企業のビジネスは、どれも人と人をつなげることに趣をおいたコミュニケーション志向型である。とすれば広告会社のビジネスは、人々を楽しませるコンテンツ志向型にこそ真骨頂があるのではないか。そこで本論ではクリエイティビティの可能性を探る方向として、まずコンテンツ界隈に焦点をおいて議論を進めてみたい。
そのうえで参考にしたいのは、哲学者のマイケル・サンデルハーバード大学で行っている対話式の授業とそのコンテンツ群だ。この授業をもとに書かれた『これから「正義」の話をしよう』は哲学書としては異例の60万部(2010年度時点)を売り上げるベストセラーとなり、さらに授業の模様はNHKで「ハーバード白熱教室」と題して全国放送された。
日本の大学で行われる一般的な授業は、講師が一方的に生徒にむかって熱弁をふるい、生徒たちは演説を聴きながら黒板に書かれたことを丸写しでメモにするものだ。比べてサンデルの授業はなにかの考え方を提供するというより、サンデルがある問題を設定し、その問題をきっかけにして聴講者たちが議論を交わしあうというコミュニケーションに主眼がある。それは教師と生徒という関係より、司会と参加者という関係に近いだろう。
司会であるサンデルはディスカッションでなにか結論を導くわけではない。参加者たちも答えを探し当てることを目的にしていない。たとえば「1人を殺せば5人が助かるとした時、あなたはその1人を殺すべきか?」といった軽々に答えようのない難問ばかりだ。*4
サンデルは身近なテーマを題材に、人々に“なぜ”を問いかけ続ける。さらに呼応する参加者がまた新しい“なぜ”を生みだし、問いの繰り返しは次第に大きなうねりと化していく。そしてサンデルたちの議論をしたためた本やテレビを見ることによって、数百万人規模の人々が難問を考えることそのものを楽しんでいるのだ。
震災以降、生活者はわかりやすい話を軽々に受け入れるのでは飽き足らず、ますますむずかしい問題をひとりひとりで考えはじめている。ならば広告会社は、意識的な生活者に対して、サンデルのような哲学的アジェンダセットの手法をヒントにした新しい価値を提供できるのではと本論は着目している。


アブダクティブ・イシューとは
基本的な広告コミュニケーションは、企業が伝えたい意図を表現し、メッセージを生活者へ届けるというフローによって成立している。だが昨今の生活者はインターネットやソーシャルメディアの活用によって能動性が高まり、さらに震災によってエシカルな購買行動(たとえば復興消費)もあらわれてきた。
生活者の意識的な行動力に着目しながら、企業と生活者を同じテーブルにのせて一体化させていく表現のあり方を、本論ではサンデルが行ったアジェンダセットの方法を参照した「アブダクティブ・イシュー」(表1)というアイデアを提案したい。
アブダクティブ・イシューとは、企業や商品が伝えたい機能的価値を、意識的生活者に伝わるように仮説推論的(アブダクティブ)に視点・論点(イシュー)へと変換していくコミュニケーションの方法論だ。通常の情報伝達型フローではメッセージを豊かに表現することで、意図を明確に伝えようとするが、意図はそのままに伝わるとは限らない。比べてアブダクティブ・イシューは意図にこだわらず、人々にメッセージを受け入れて楽しんでもらうことにまず主眼をおくため、商品性とはまったく別の視点を導入している。
アブダクティブ・イシューは通常のマーティングの常識とはかけ離れた概念である。マーケティングは商品特性と生活者ニーズを掛けあわせて、商品の課題を発見し、課題に応えることで販売を伸ばしていく運動だ。対してアブダクティブ・イシューでは、商品特性そのものを分析するのではなく、むしろ商品を踏み台にした社会的視点を生みだすことで、商品に内在していなかった新しい価値を与えていく運動だといえる。

表1:情報伝達型フロー(左図)と アブダクティブ・イシュー(右図)の違い


事例:AMERICAN ROMキャンペーン
具体的な事例として、ルーマニアのROMチョコレートが仕掛けたAMERICAN ROMキャンペーンで考えてみよう。ROMチョコレートはルーマニアの国旗をあしらったパッケージで長らく親しまれてきた商品だが、肝心の若年層の購買が落ちていた。そこでこのキャンペーンは商品のシンボルであるルーマニアの国旗を、いきなりアメリカの星条旗へ変更した。ルーマニアの国威を傷つける行為だと反対運動が巻きおこり、世論は大きく賑わった。
アブダクティブ・イシューの文脈でこのキャンペーンを分析するとこうだ。まずプランナーは、商品特性から社会的な関心を引き起こしやすいイシューへと変換するために、国民の関心を最も集めやすい国旗を模したパッケージに着目した。このパッケージから「ROMのパッケージには国民の精神性そのものが現れている」という仮説を働かせた結果、アメリカ国旗に変えることで「ナショナリズムの危機」というイシューを産み出した。機能的価値としてはよくあるチョコレートバーでしかないROMだったが、パッケージを変えるだけで一気に社会的価値を持つようになったのである。
イシューを設定した後は、その争点のうえで人々の意見が交わされるように整備しなければならない。このキャンペーンではクライアント及び広告会社を連ねた“作戦司令室”と名付けたチームを結成し、国民から投げかけてくる意見や主張に耳を傾ける体制をつくった。作戦司令室ではテーマから逸脱しすぎないように、意見の交換をたえずチェックし続けた。
そして国民がアメリカの国旗になってしまったROMを“買う”“買わない”という選択肢を与えることで、人々が押せる明確な意思表明をするスイッチを設けたことも重要だ。論争をおこすだけで終わってしまっては、せっかく集まった消費者のエネルギーは空中分解してしまう。最終的に商品の価値へとフィードバックさせる仕組みを考えておかねばならない。そしてアメリカ国旗のパッケージに変わったROMに対して国民は大激怒したものの、「あれは冗談でした」と種明かしをし、1週間で元のルーマニア国旗へ戻したことでブランドエンゲージメントは大幅に高まったという。
イシューへの変換。論争力を高める刺激の投入。その受け皿の用意。アクションスイッチによる意思表明と商品へのフィードバック。このすべてがそろうことでアブダクティブ・イシューは完成される。


事例:AKB48選抜総選挙
アブダクティブ・イシューは国民的なアイテムであるROMチョコレートのように、社会的価値がある商品だけでなく、いかなる企業や商品でも適用できるメソッドだ。プランナーが意識的な生活者の心の琴線に触れるイシューさえ捉えていれば、どんな企業や商品でも着想することができる。
アイドルグループのAKB48が、次に発売するシングルCDのメインメンバーを選ぶためにファン投票を行う「選抜総選挙」も事例のひとつだ。選抜総選挙で行われていることは単純にいえばファンにアンケートをとって、人気上位のメンバーを選出しているだけである。だがここで巧妙なのは、ただの人気投票を“総選挙”という一世一大の行事であるかのようなイシューへ格上げした点にある。そして投票権を得るためにはCDを買って“投票する”という意識的アクションに結びつけることで、アブダクティブ・イシュー化することができたのだ。
ウェブやケータイなどプラットフォームを用意し、ファン同士で勝手に交流させればよいわけではない。アイドルとファンのあいだに強力なイシューを設定したからこそキャンペーンを成功に導くことができたのである。


マスメディアの構築機能
ここまでの議論を通してみると「アブダクティブ・イシューはだれにでも考えられるし、マネされやすい方法ではないか」と批判が思い浮かぶかもしれない。だがアブダクティブ・イシューは広告会社だからこそできるメソッドである。なぜか。
そこで広告会社のもうひとつのコアコンピタンスであるマスメディアのバイイング能力について思いを巡らせてみよう。マスメディアを活用しなければアブダクティブ・イシューの力を十分に発揮することはできない。理由はふたつ。ひとつはマスメディアの到達力によってイシューに集う参加者を数多く集めることできるから。ふたつはマスメディアはそもそもアジェンダセットを促進する力があるからだ。
立法・行政・司法という三つの権力に加えて、マスメディアは第四の権力になりうるといわれている。それはメディアには事件や情報をできるだけ早く伝えるという伝達機能、三権を批判的に監視して公開する監視機能だけではなく、社会問題に潜むあらゆる論点をオープンにし、なにが問題か枠組みを提示していく構築機能が備わっているからだ。
アブダクティブ・イシューはそれだけをありのまま提示するだけでは有効に働かない。設定した視点を常識化していくためにマスメディアというエンジンが必要となる。伝達機能や監視機能はコミュニケーションプラットフォームが担うことはできても、構築機能まで持ちえることはむずかしい。もし広告会社がメッセージを伝えるための箱としてしかマスメディアを捉えてなかったとすれば、見方を改めなければならない。これからの広告会社の価値は、視点や論点を設定するアブダクティブ・イシューと、世論を形成するマスメディアの両輪を駆動するユニークさにあるのだ。


3:クリエイターの可能性
対クライアントの戦略
アブダクティブ・イシューの可能性は生活者サイドだけに留まらない。クライアントに対してもアブダクティビティ(仮説推論思考)は、ますます求められるようになる。
広告会社はクライアントからオリエンテーションを与えられ、課題に対してコミュニケーションという解決策を提示することを生業としてきた。だが近年のオリエンはより高次元化し、実質上、広告提案だけでなくその源流となる商品開発や事業計画にまで及んでいるせいで、戦略コンサルと競合するケースも増えてきた。そのため広告会社のスタッフには、クライアントと密に接する営業に戦略思考を持たせることや、マーケティング系の人員がより前面に立って相対することの必要に迫られている。
ドリームインキュベーターを創立した堀紘一によると、業務改善型コンサルティングと経営戦略型コンサルティングの本質的な違いは、業務内容よりも志向性にあるという。業務改善型は企業が抱える生産ラインやワークフローのなかで発生している無駄を省き、コスト効率アップという課題を解決する。対して経営戦略型は、経営者が進むべき正解のない道を共に歩み、一緒になって問題を発見しようと挑戦する。*5
こう比較してみると、広告会社への期待も業務改善型から経営戦略型へシフトしていることがわかるだろう。しかも戦略コンサルより広告会社は、表現力やアウトプットを通して仮説形成する作業に慣れている。戦略コンサルとは異なった、むしろさらに高次な思考体系を生みだすことも可能なはずだ。


なぜなぜ思考とアブダクティビティ
クライアントという呼び名はそもそも“患者”に語源がある。そのため広告会社のビジネスは、医者が患者の病気を治療することによく例えられてきた。しかし現在のクライアントは、表面だけではわからない、もっともっと深い病原体を発見してほしいと要望している。だからこそいま本当に取り組まなければならないことは、その悩みを対症療法的に個別解決するのではなく、悩みの奥底に潜む病原体を炙りだすことだ。そもそも病原体を発見できなければ、特効薬は開発できない。
病原体を見つけるために求められる感性とは、営業のように目の前の出来事から対処しようとする帰納思考でもなく、マーケターのように理論やフレームワークを掛け算しながら考える演繹思考でもない。激変するリアリティに向きあいながら未来を予測し、ゼロから土台から築きあげようとする仮説推論思考=アブダクティビティにこそ次世代の想像力がある。
アブダクティビティをわかりやすく換言すれば、トヨタモトローラが生産現場で問題がおこった時に原因を究明するために社員に考えさせる「なぜなぜ思考」に近いといえる。そして広告会社のなかで最もなぜなぜ思考に長けた人材は、フラットに生活者の目線を持ちながら、先にアウトプットを頭に描きながら帰着点をイメージすることができるクリエイティブ系のスタッフだ。今後はクリエイターたちをセールスのフロントラインとして積極採用していくべきである。


事例:ポストイット
たとえばポストイットは、化学メーカーのスリーエムが新しいノリを開発している最中に、偶然にもはがれやすいノリができてしまったことから発想された商品だ。はがれにくいノリを開発するという大前提のうえでは、はがれやすいノリは失敗作でしかない。だがクリエイターはそもそもの条件からはみだし、枠の外から仮説する感性を持っている。“なぜ〜なのか”や“もし〜だったら”という発想に長けているということは、失敗したノリをみて「はがれやすいノリは、もしかするとはがしやすいノリとして使えるのではないか」とひらめくことができるかもしれない。その偶察を活かすためにも、クライアントの戦略的根幹に最も近い立場にポストを置かねばならない。
新しい発見をつかまえるため、見えない枠にとらわれずアイデアをつくる能力をクリエイターは日々のトレーニングで培っている。クライアントや営業からオリエンを受けた時、「そもそもこのままでは商品は売れない」「自分だったらこんな商品がほしい」といった言い分を戯れ言として受け流すのではなく、業務プロセスの出発点として正式に取り入れるべき時代がようやく訪れている。


4:Why to Say
寛容になれない広告会社
さて、ここでひとつの疑問がある。これまで広告人がクリエイティビティの可能性を大きく広げていくことを論証してきたが、そもそも広告会社は組織として創造的だといえるだろうか。
都市社会学者のリチャード・フロリダは、創造的な組織や社会には、共通して“3つのT”があると述べている。ひとつは人材の才能。ふたつは技術開発力。みっつは寛容性である。*6 この議論を広告業界に置き換えて考えてみるとどうか。広告会社は人材が最大の資産といわれるように才能には資源を惜しみなく投入してきた。広告配信の新技術、ビックデータの解析、アプリケーション開発やスマートグリッドなど新規事業にも積極的に取り組んできた。
しかし寛容性については十分とはいえないだろう。寛容性とはすなわち多様に対立する意見を受け入れるということだ。その観点でみると、広告業界はじつは異業種の中途社員が驚くほど少ない。効率や計画を重んじて、予期せぬ意見や行動を取り入れる余裕を失いつつある。マーケティングの常識と慣習にとらわれていたままではむずかしい。生活者の声を商品開発へフィードバックすることや、歯に衣着せぬクリエイターの発言を業務プロセス化することも寛容性のひとつとして挑戦していかねばならない。


“なにを伝えるか”から“なぜ伝えるか”へ
寛容な広告会社のあり方にむけて、最後に指針を示したい。これまでの広告会社におけるクリエイティビティとは、企業や商品が主張すべき“What to Say”はなにか明らかにすることだった。この企業にどんな価値があるか。この商品がマーケットに向かってなにをいうべきか分析し、それをどのように伝えるか“How to Say”を考えるフレームワークがあった。クリエイティビティとは企業や商品に内在する価値=コンセプトを抽出し、生活者に伝えることに本流があると考えられてきた。
だが震災によってこの価値観は大きく揺るがされた。福島原発の事故は私たちに休まらない緊張と不安をもたらした。これまで企業が行ってきた事業そのものへの疑念が生まれてきた。数多の企業はどんな商品をつくるべきか。そもそも自分たちがなにをすべきか深く大きな問いにぶつかるようになった。自分たちがやっていることの是非がわからなくなった。「私たちはどう生きるべきか」「いま私たちはなにをすべきか」という大きな問いが瞬く間に共有されていった。
不完全な時代のなかで広告会社は、自分たちのアイデンティティを問い直す“Why to Say(なぜ伝えるのか)”の姿勢を持つべきではないか。商品メッセージを大衆に伝えさえすれば御役御免という時代は終わった。商品の本質的価値を再考し、その意義から再設定する構想力こそ、次世代の広告会社のエネルギー源となる。
ニュースキャスターの池上彰は、池上が伝えていく事実に対してパネリストが本質的な質問をした時に「いい質問ですねぇ」とにんまり笑って、さらに驚きの真実を教えてくれる。良い問いは良い答えにつながっている。私たちは小さな答えをぶつけようと焦るのではなく、こつこつと大きな問いを掘りおこせばよいのではないか。

表2:本文中に頻出するキーワードの整理

*1:北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』、日本放送出版協会、2005年2月

*2:坂村健『不完全な時代 −科学と感情の間で』、角川書店、2011年7月

*3:Jonathan Zittrain,The Future of the Internet and How to Stop It,Yale University Press,2008

*4:マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』、早川書房、2010年5月

*5:堀紘一コンサルティングとは何か』、PHP研究所、2011年5月

*6:リチャード・フロリダ『クリエイティブ・クラスの世紀』、ダイヤモンド社、2007年4月

論考:第三の広告 〜 エゴフーガリストの生み出す力と育てる力 〜

2010年に『.review』という批評誌で発表した論考をこちらでも公開します。ウェブサイトでも公開されてましたが閉鎖されてたので。この論考で考えてたことやいきさつについてはこのエントリでかいたのでご参考までに。

第三の広告 〜 エゴフーガリストの生み出す力と育てる力 〜

本論の目的は、日本の広告表現に蔓延る二項対立とはなにか、業界に従事する広告人たちが歩むべき第三の道とはなにかを指し示すことにある。広告の実務家が抱えている二項対立とは、第一に利益志向な企業の視点、第二に顧客志向な生活者の視点である。彼らはこのふたつの視点のあいだで悩まされながら広告のあるべき姿とはなにか追求し続けている。後述するが広告手法の歴史は、手練手管であらゆる論理が提唱されてきたが、どれも単純な二項対立に陥っている。これが筆者の問題意識だ。その解答として、ふたつの視点を止揚した広告のあり方を筆者は「第三の広告」と名付けたい。実務家たちが二項対立から抜け出すための、新しい広告表現の視点を授けることが本論の基本線である。
ただし留保しておかねばならないのは、本論は企業にてマーケティングや宣伝活動に携わる人々へ向けた文脈を多く含んでおり、事情に通じていない読者に対して解説すべき前提を大幅に省いてしまっている。そのため結論に至るまでの道のりは、広告の話に終始しているだけにみえるかもしれない。だが筆者の本当の狙いは、コンテンツとメディアが入り混じった新しいコミュニケーション世界の彼岸を照射することにこそある。ミネルヴァの梟を黄昏へ飛び立たせる前に、広告表現における考察を重ねながら少しずつ第三の広告とはなにか明らかにしてみよう。


第一章:第三の道
糸井重里が理想とした広告
一九九二年の『広告批評』で行われたコピーライターの糸井重里と思想家の吉本隆明による対談のなかで、糸井が発したアイデアの素描には、広告の彼岸がぼんやりと描かれていた。
要約すると糸井は、これからの広告はCMの最後に字幕で企業名を入れておくという方法ではないやり方で、企業名を視聴者に認識させなければならない。その前提のうえで、さらにその商品の素晴らしさと表現の面白さを演出し、なおかつ文化財としても優れた作品にならなければならない。そのような広告を作ることがこれからの広告人の職責になるのではないか、と極めて難解な課題を設定している。 *1
企業が望むメッセージ。生活者が欲しがるエンターテイメント。そして文化に貢献するメセナ活動。これらすべてをひとつのパッケージに収斂させるあまりに理想主義的な広告。一九九二年当時では、はたしてこんなアクロバティックな広告表現は可能なのか、読者や実務家は思い悩んだであろうが、あれから二十年近くも時を経た二〇一〇年の現在では、夢想に過ぎないと切り捨てるにはもったいないアイデアだと筆者は考えている。
企業という送り手と、生活者という受け手は、どちらも広告活動で最も重要な主体であるが、そのどちらにも満足がいく広告とはどのような姿をしているのだろうか。本論はかつて糸井が理想とした広告の未来についての答えを明らかにすることで、これからの広告はどうあるべきか照射したい。さらにその過程のなかで、広告の送り手であるマーケッターやクリエイターに代表されるこれからの広告人たちへむけて、二項対立に硬直化した視点を切りかえる発想法を提案していきたいと思う。


企業と生活者の二項対立
企業と生活者という関係は、広告界で不偏不党の原理としながら、いつも議論の種とされてきた。長い歴史のなかで広告の形がいかに変容してきたとしても、広告を供給する広告主と、受容する生活者という需給関係は変わらない。確かにインターネットの登場によってその関係性が双方向になったり、生活者が情報を生産する能動性を獲得して主従が逆転する現象は起こったかもしれない。広告のビジネスがダイナミックに変質したことは事実ながら、送り手と受け手のどちらかがコミュニケーションの主体になるという意味において、基本的な二項対立の枠組みは変わっていない。この現状に対して本論は批評性を見出したいと思う。
視点の二項対立とはなにか。ひとつは企業の視点。ふたつは生活者の視点だ。企業視点ではマネジメント論や管理システム論が毎年のように更新され続け、生活者視点からは分衆や個衆論・階層論・智民論・鐘衆論というように、このふたつはそれぞれ様々な下位概念へと分化てきたが、突きつめれば利益志向なのか、あるいは顧客志向なのかという二分法に還元できるのではないか。
博報堂生活総合研究所の定点調査『生活新聞』にて、発刊四〇〇号を記念した「生活者創造へ」と題したレポートには、広告プランナーが抱えるジレンマが顕著に示されている。要約すると、生活者は消費者としてだけでなく生産者という側面を持ち始めており、マーケティングの論理からは矛盾や逸脱するような行動が目立つようになってきたにも関わらず、広告業界はいまだに生活者の視点でプランニングすることをあまりに前提とし過ぎているというのだ。 *2
もうひとつ例を挙げておこう。マーケティングが日本に輸入されたのは一九五〇年代半ばであるとの通説があるが、その立役者である日本生産性本部マーケティング専門視察団が一九五六年に渡米した報告書にはこう記されている。マーケティングとは「セリングが企業中心の考え方で売ればよいことに重点を置いているとすれば、マーケッティング消費者を対象とし、中心として、それにどう売るかを考える行き方」だと示されているように、当時から広告人の考え方の根本は更新されていないことがわかるだろう。 *3
シーズ発想からニーズ発想へ。広告の技術は歴史を経ながら発展を繰り返してきたが、コミュニケーションを考える時に立ち返るのは、企業の主張を重んじるか、生活者の本音を代弁するか、そのどちらかにおもねることの決断を常に迫られてきた。企業側に立てば商業主義的な表現となりすぎてターゲットの関心を呼ばなくなり、生活者側に立ちすぎれば売るために不可欠なメッセージは削ぎ落とされ、広告の本質を逸脱しかねない。


自由意志と共同体を架橋する「第三の道
企業の視点と生活者の視点。このふたつのあいだには大きな川が流れている。したがって本論の目的は、この川に第三の道という大きな橋を架けることで、広告人が歩むべき新たな第三の視点を切り拓くことにある。
第三の道とは、イギリスの社会学者であるアンソニー・ギデンズによる政治の方針である。ギテンズは閉塞した社会が目指すべき道標として、個の自由を尊ぶ思想と、公の共同体を重んじる思想を融合させた考えとして「第三の道」という着想に至っている。*4 この思想をごく簡単に言い換えるならば、たとえば強いものも弱いものも平等に富を分配するのではなく、目的意識を持ってより自由に自発的に動くことができる者にこそ積極的に支援することで、結果としてよりよい社会作りが行われ、人々の自立と協調が両立できるというものだ。ギデンズはブレア政権を下敷きに、この理論の正しさを証明してきた。
第三の道とは、狭い政治の主義思想ではなく、広告に携わる人々も見習うべき指針だと筆者は考えている。広告人は、第三の道を見つけなければならない時代に直面している。というのも企業やメディア業界は、新しい広告の手法はたくさん開発してきたにもかかわらず、二一世紀を迎えてもなお、その視点は硬直化しているからだ。自由でありながら社会を尊重すること。そのあいだに道を拓いた先には、はたしてどんな世界が待っているのだろうか。


第二章:エゴフーガルなモノ
利益志向・顧客志向・公益志向
さて、ところで企業の視点と生活者の視点のあいだを止揚するものとして、商品があることは誰でもすでによく知っているはずだ。そして多くの広告表現もまた、商品を起点にして作られてきた。だがその内実を鑑みると商品とは企業が製造したモノであり、同時に生活者が消費するモノであるがために、どちらかのエゴに回収されてしまいがちだった。仮にメーカーがエコを意識した商品を開発しても市場の流行に便乗したものだと揶揄されたり、グリーンコンシューマーという生活像は消費の楽しみ方のバリエーションに過ぎないとみなす意見は少なからずあるだろう。まるで商品はつねに誰かのエゴが蔓延ることを宿命として背負っているかのように。
そこで本論では商品が持つ、企業と生活者のあいだにたゆたう中立性に立脚しながらも、利益志向でも顧客志向でもない、公益志向とでも呼ぶべき価値を商品に与えたいと考えている。その手がかりとして、二〇〇一年に開催された芸術の国際展であるイスタンブールビエンナーレで統一テーマとなった「エゴフーガル」は大きな参照項になるはずだ。
エゴフーガルとは、エゴという個我や欲望から、「遠ざかる」という意味のラテン語「FUGAL」を結びつけた造語である。*5  近代人はこれまで自我を重んじ、個人の自由を追求してきたが、二一世紀を迎えると個人主義だけでは解決できない社会問題が勃発するようになってきた。エゴフーガルとは、そういった個人や組織が持つエゴイックな欲望から解き放たれることで、新しい主体を目指すための標榜であると思い浮かべてみてほしい。
企業と生活者の意思がそれぞれ内在し、時と場合によってどちらかの思いに引き裂かれてしまう商品。その二者の個我から遠く離れることで、商品は独立して社会的な意識をもった存在に変容することはできないか。商品を「エゴフーガルなモノ」として解釈しなおすことで、そこから生まれる広告がこれまでの広告のスタイルを刷新してくれるのではないか、仮設を立ててみたいと思う。


エゴフーガルとしてのデイリーミルク
たとえば二〇〇八年度のカンヌ国際広告祭において、フィルム部門のグランプリを受賞したキャドバリーチョコレート「デイリーミルク」はまさしくエゴフーガルの視点に立った広告の構造が採られていた。このCMはチョコレートの広告であるにも関わらず、九〇秒間のほとんどをゴリラの瞑想と、そのゴリラがドラムをBGMに合わせて豪快に叩くシーンで占められており、CMというよりまるでミュージックビデオのような奇抜な演出と、その破天荒さが賛否両論を呼んだ。

しかし一般の視聴者はもちろん、業界関係者でさえこの表現方法には呆然とさせられただろう。なぜなら言うまでもなく、デイリーミルクの商品性とゴリラのドラマーには何の因果関係もないように見えるからだ。いったいこのCMは本当に広告として機能しているのだろうか。そう疑問に感じた人は少なくないだろう。
そこで本論で注目してほしいのは、CMの冒頭に表示される「a GLASS and a HALF FULL PRODUCTIONS」という企業名のような表記と、CMの終わりにようやく登場する商品カットとその下にある「A glass and a half full of joy」という奇妙なタグラインだ。通常であれば、冒頭にはキャドバリーの社名、そして終わりに商品のキャッチコピーを置いて構成するのが通常の制作の基本形である。対してこのゴリラを起用したCMではキャドバリー社の代わりに存在しない擬似的な組織「a GLASS and a HALF FULL PRODUCTIONS」が放映している広告であるかのような錯覚を与えている。しかも商品カットが挿入されるとはいえ、そこにはデイリーミルクの本来のタグラインではない別の言葉が使用されているのだ。
「a GLASS and a HALF FULL PRODUCTIONS」と「A glass and a half full of joy」の元ネタになっているのは、イギリス人なら誰しもが知っているデイリーミルクの有名なタグライン「A glass and a half full of milk(コップ一杯半の生乳)」だ。デイリーミルクはイギリスのチョコレート市場で圧倒的な売上比を誇る国民的なお菓子である。だからこそこのタグラインはイギリス人ならば誰もが知り、愛されているため、本来、キャドバリーという企業が自社のチョコレート商品に与えたエゴイックな意思(このチョコレートはコップ一杯半の生乳を使っているほど贅沢なお菓子なんですよという主張)から一定の距離を取ることができている。つまりデイリーミルクという商品自身の声としてタグラインが認識されつつあるのだ。その空気感は日本でいえば、くいだおれという店の宣伝ツールであったくいだおれ人形に「くいだおれ太郎」という名がつけられ、本来の目的とはかけ離れたところで人々に愛されていった。そんな話と通ずるものがあるだろう。
いずれにせよそこでキャドバリーは、キャドバリー社の主張ではない、デイリーミルクの独立したステートメントをより際立たせるために擬似的に中間体を仮構したのである。本線に接ぎ木しながら言い換えると、キャドバリーとイギリス人のあいだで浮遊するデイリーミルクの意思を「PRODUCTIONS(エンターテイメントを制作する会社)」というエゴフーガルに託すことで、あらゆる個我を捨て去ろうと試みたのだ。


気前が良いから二次創作が生まれる
実際にこの企画を担当したファロンの戦略ディレクターであるローレンス・グリーンによると、デイリーミルクは「チョコひとつにコップ一杯半の生乳」というメッセージが示しているように、長い間、お客さんに気前の良さを語ってきた商品だったという。しかしいまの時代の人々は、デイリーミルクの気前の良さを語るだけじゃなく、行動で示してほしいと言うだろうと考え、あえてチョコレートとは何の関係もない、人々を楽しませるためのキャラクターとしてゴリラの表現に行き着いた、と解説している。*6  だからこそこのCMは商品が持つアイデンティティをより際立たせながら、企業でもない生活者でもない、その中間体であるエゴフーガルの表明をした広告になりえたのである。
エゴフーガルとしてのモノ。この視点に立ってつくられた広告は、最終的に送り手が伝えたかったことをきちんとターゲットに伝えつつ、受け手もまたその広告を楽しんで受容することができる。デイリーミルクのCMは「コップ一杯半の生乳」に現れているような、商品が最も伝えるべき本質を深耕しながらも「milk」という企業のエゴを取り払い「Joy」という社会性のある言霊に置き換えた。だからこそ視聴者はこのCMを素材にして、二次創作に励んだのである。
たとえば動画共有サービスのYouTubeでは、このゴリラをぬいぐるみに置き換えたパロディ動画や、ゴリラが撮影中に暴れだすサイドストーリーを公開する人まで現れた。そのいずれもが数十万から数百万の視聴数を誇っており、通常のプロモーションビデオよりも遥かに高い視聴数を稼ぎ出していることにも注意を促しておこう。

その拡がりの大きさも評価されてのグランプリ受賞であったが、このような話題性の高め方は、バイラルマーケティングの名の下に企業が意図的に扇動するだけでは起こりえない。送り手でも受け手でもない、そのあいだにエゴフーガルという意識、つまり第三の視点に立つ意識を持ったからこそ、あらゆるプレイヤーたちに「Joy」を感じさせることができたのだ。


第三章:生み出す力と育てる力
生活者をエンパワーメントする広告へ
私たちは第二章にてエゴフーガルという概念を用いることで、キャドバリーの広告がどのようにしてセリングとマーケティングを両立することができたのか確認してきた。しかし本論はこの事例をみて、クチコミを誘発するための新しい手法を考案したいのではない。どうすれば広告人はすべての人を幸せにする広告をつくることができるか、その道標を照射することに目的があったことを忘れてはならない。
日本においてもCMという空爆を落とすことでネットや店頭で闘う地上戦に持ち込み、クチコミを大量発生させる戦術が近年賑わいを呈しているが、それはコミュニケーション環境が地殻変動していく昨今において表層的な動きのひとつに過ぎない。話題になることとは、生活者が無意識のうちに誰かに話して共有したい、という欲求を与えられてから引き起こす帰結なのである。それより私たちは表層ではなくその深層、つまり広告のクリエイティブが生活者たちの価値観を変え、彼らの創造性を喚起してしまう可能性にこそ関心を向けなければならない。


創り出す力から生み出す力へ
そこで筆者はデイリーミルクの事例を通して分析したように、エゴフーガルのモノから立脚した広告によって、生活者の購買行動を促すだけでなく、創造的な活動を引き起こす契機を与えてくれる広告のあり方を法学者ジョナサン・ジットレインの言葉を借りて生み出す力(Generativity)と呼んでおこう。生み出す力とは、送り手の都合のよいメッセージを送るのではなく、受け手にとって有益なプレゼントを贈ることに主眼を置いた考え方だ。その発想にエゴが介在することは許されない。*7
長年、広告制作者のコアコンピタンスは創り出す力(Creativity)にあるとクリエイターたちは信じてきた。だから彼らも強くユニークな表現さえ創り出せば、その思いはちゃんとターゲットに届き、クチコミも自然に広がっていくのだと考えてきた。強いクリエイティブが話題になるのは今も昔も変わらないが、ここ数年で、企業が伝えたかったことがなかなか生活者に受け入れられなくなっている危機感は広告人ならみな実感しているだろう。枚挙に暇がないように数多の企業が取り組みはじめたCGМやソーシャルメディアを用いた戦略はことごとく失敗しているのに象徴的だ。その現象は作品の創造力が足りなかったのではなく、作品を受容する環境がエゴを感じるコンテンツを嫌ったのが原因であることはこれまでも分析した通りだ。
いま、広告のあり方は政権交代を余儀なくされている。創り出す力の限界を認め、生み出す力の可能性に鉱脈を見出すことこそが、時代が求めている必然ではないだろうか。ジットレインは生み出す力とは「種々雑多な幅広い人々の貢献を選別せずに受け入れることによって思いもよらない変化を実現する能力」だと語っているように、  企業は生活者の良心を信じ、寛容の精神(デイリーミルクでいえば気前の良さ)を持たなければならないのだ。


触媒としてのメディア
広告が生み出す力を持つためには、送り手だけでなく、受け手の協力も必要不可欠となる。その具体的なヒントになるのは、二〇〇九年七月から森美術館が行っている「クリエイティブ・コモンズ」を採用した展覧会のあり方だ。森美術館では中国の現代美術家であるアイ・ウェイウェイの展覧会で、観客による作品の写真撮影を許可する試みを始めている。写真は非営利目的であり、クリエイティブ・コモンズと呼ばれるライセンスを明記すれば、ウェブでのアップロードや自由な引用が許される。ライセンスの定義次第ではその写真を加工して、二次創作として活用することも可能だ。
だがいくら送り手が著作権というエゴを放棄したとしても、受け手が悪意のある引用や加工をしてしまっては、このシステムは早々に瓦解してしまう。生み出す力とは、送り手や受け手、あるいは作品そのものまで、あらゆる主体がエゴフーガルの意識を持たなければ成立しえない力なのだ。
広告を芸術作品と同じく、創作物として捉えてみるとこの森美術館の取り組みに学ぶことは多いはずである。単純にいえば駅のポスターにクリエイティブ・コモンズの表記を貼っておくことで、人々が写真を撮り、ブログに掲載することでパブリシティ効果を狙うこともできるであろう。iPhoneなどの高性能のスマートフォンがさらに発達すれば、そのポスターのなかにICチップを内蔵させ、端末でチップを読み込むことで、より複雑な情報を伝達することも可能になっていくはずだ。そして贈り手がギフトとしての情報を贈ることで、情報は受け手のネットワークのなかで様々な形となって拡散し増殖していく。このような媒体(media)のあり方は、媒介するだけでなく、周りの人々の能動性を促進するという意味において、もはや触媒(catlyst)であるといってもよいだろう。
しかしながらそのような技術の進歩史観は、一方で楽観的すぎるとただちに留保しておかねばならない。重要なのは手法が進化することでなく、その手法を存分に活かすために送り手も受け手もが襟を正さねばすべては無駄となる。みんなの純然たる想いを商品に宿すことで、エゴフーガルなモノへと生まれ変わる。そしてエゴフーガルなモノから作られる広告は、自然と生み出す力を備えており、その広告に触れた生活者を楽しませることができるのだ。楽しませた結果に付いてくるクチコミや話題性は副次的なものに過ぎない。


ハビトゥスを育てる力
以上でエゴフーガルと生み出す力の関係についての議論はひとまず終着したこととするが、このエゴフーガルなモノを起点にした広告表現には、もうひとつの未来が隠されていることも示唆しておきたい。
どういうことか。人間が創造をしたくなる時には、その内面になにかを創りたいという感情の発露があるわけだが、さらにその奥底には文化的な慣習とでも言うべきマグマが培われていることに広告の送り手は気付いていない。文化的な慣習とは、常識的には親や学校が教えて培われていくものだと考えられているが、しかしながら人々はテレビを見たり、街を歩いたり、友達としゃべったり、ふと出会った言葉に感動したり、様々なる意匠に触れながら性格や考え方は形成されていくものだ。つまり行動の裏側に潜んでいる文化的な慣習を育むことができる広告のあり方を、先ほど提示した生み出す力と対比させて「育てる力(Constructivity)」と命名したいと思う。生み出す力が外向きのベクトルだとすれば、育てる力は内向きのベクトルだといえよう。
ちなみに文化的な慣習のことを社会学ピエール・ブルデューハビトゥスと呼んだ。ハビトゥスとは、英語のhabit(慣習)の語源でもあるhabere(持つ)から派生されて考案されたブルデュー独自の概念である。ブルデューはある著書で「ハビトゥスは、最初に力を加えてやらないと動かないバネのようなものだ」と語っているように、*8 それは心の奥底で眠っているため、普段は表面化されない。しかしモノを買う時の行動に、ハビトゥスの質は大きく関与する。


モノの真理を啓発する
たとえばビールAを買おうとする二人の男性がいたとする。一人目のハビトゥスは「ビールは麦で出来ているから健康に良い」と考えており、二人目は「ビールは高プリン体だから体に悪い」と教え込まれていたとする。だから広告のマーケッターは、一人目にはビールAの麦芽が増量したことをアピールし、二人目にはプリン体を大幅にカットしたことを告知すればよいと考えてきた。その設計こそがマーケティングの基本だと信じて疑わなかった。
だが本論で模索しているハビトゥスを育てる広告の力とは、AとBの個人的な選り好みを超えて「健康に良いとか悪いとかの次元じゃなく人間はビールを飲みたくなる瞬間がやってくる。だからその時間を大切にしてあげよう。人生は使い分けが肝心なんだよ」と、商品を通じてわかりえる真理を啓発することに他ならないのだ。


価値観の羅針盤としての広告
育てる力という言葉の耳障りは、まるで学校教育のことを指しているように聞こえるかもしれない。だがここで筆者が想定しているのはもちろん広告の可能性にまつわる議論だ。広告は人間のハビトゥスを育てる力を持つことができる。広告を通せば、どんな時でも場所でも言葉でも、どんな人種とだって通じ合うことができる。そして広告人が担っていく広告の領域はメディアの介在だけに留まらず、人と人が交わる空間すべてがコミュニケーションの接点なのだ。そう捉えなおすことによって、広告人の責任はより重くなったのかもしれない。ゆえに広告は生活者の慣習やライフスタイルさえも変えてしまう文化様式であることを、彼らは強く自覚しなければならない。
先述したようにデイリーミルクのCMを見て創造力を刺激されたイギリス人たちは、そのCMをお手本にして自分の作品を作っている。その有り様は、黒板に書かれた方程式を使って問題を解こうとする生徒たちの姿と重ね合わせてみることができないだろうか。送り手が望む望まないに関わらず、広告は人の価値観をナビゲートする羅針盤となるのだ。


エゴフーガリストがつくる贈与価値
広告は人類の教科書である。この宣言はいささか大げさに聞こえるかもしれないが、マーケッターやクリエイターはそれほどの覚悟と責任を負って仕事に取り組まねばならない。だからこそ筆者は、企業の主張でも生活者の声でもない、その中間点である商品をエゴフーガルとして独立させ、そこを広告の出発点とすることで、そのメッセージは人々に広く(創造的活動を生み出させる)、そして深く(文化的慣習を育てていく)、受容されることを論証してきた。
ここまでの分析を通してみれば、冒頭で提起した糸井のつぶやきはあながち理想論ではないことに気付かされるだろう。さらに補助線を引いておくと、対談相手である吉本隆明は糸井の発言を受けて、これからの社会は贈与価値が必要だと語っている。モノの価値は交換できるからこそ価値があると思われているが、企業精神が交換価値だけで縛られていては臨界点を迎えるだろうと警告を発しているのだ。
広告人にいま求められているのは、商品がそうしたように、企業と生活者それぞれのエゴを牽制しながら、むしろ自分の利を誰かに贈与することで、結果として自分に還ってくるのだ、という原理を、広告の形を借りながら実践していくことではないだろうか。
広告人もまた商品と同じように、企業や生活者のあいだに立つ中間地点であるのならば、個我を忘れ、社会に贈与する想いや心構えを重んじるべきである(それは社会貢献活動をせよという意味ではない)。そう、先達の誰もが「エゴフーガリスト」としての広告人が、社会へと大きく巣立っていく時代を、ずっと心待ちにしているのだから。

*1:糸井重里 吉本隆明「いま何を考えるのか?」『広告批評』マドラ出版、一九九二年七月

*2:博報堂生活総合研究所『生活新聞 No.400』博報堂、二〇〇四年七月

*3:松井剛「消費論ブーム:マーケティングにおける『ポストモダン』」『現代思想青土社、二〇〇一年一一月

*4:アンソニー・ギデンズ第三の道日本経済新聞社、一九九九年一〇月

*5:美術手帖現代アート事典』美術出版社、二〇〇九年三月

*6:THE INDEPENDENT「Advertising: Spot the link between a gorilla and chocolate」

*7:ジョナサン・ジットレイン『インターネットが死ぬ日』早川書房、二〇〇九年六月

*8:ピエール・ブルデュー『リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待』藤原書店、二〇〇七年一月

プロセスにこそ企画は宿る

広告はアイデアとデザインの時代から、ストーリーとテクノロジーやクラフトワークの時代へと変わったと主張する人がいる。この主張に異論はない。エビデンスを持った人こそ強者になるべきだと思う。賛成である。ただここでひとつ抜け落ちている観点がある。その広告というアウトプットができる前、いわばインプットの次元で考えるべきことはないのだろうか。

ぼくらはなにかモノに触れるとき、アウトプット=結果にばかり目をむけている。できあがったものをみて、おもしろいつまらないと話をしている。だがインプット=因果にもおなじように、できる前のプロセスをみて、おもしろいつまらないと話をしてもよいのではないか。というか実際に現場ではそういう話はすでにおこなわれており、現場のひとたちはそのおもしろさを享受している。知らないのは受け手である大衆だけだ。以下これは余談だが、そういう因果のおもしろさを楽しむための場が関係者限定のセミナーやシンポジウムだったりするのだが、最近は守秘義務だ競合意識だとかで、アウトプットとかわらないコマーシャルであたり障りのない話ばかり聞かされる。もっとぶっちゃけた話をしてほしいと切に願う。


さて、なぜこんな話をしてみたくなったのだろう。藤原伊織が書いた小説『シリウスの道』のことをよく思い出すからだった。『シリウスの道』はある広告代理店がコンペに参加したことを舞台にしたハードボイルド小説。読むと広告屋が世間のしらぬところでどんな仕事をしているのかよくわかる内容にもなっている。現場で働いている人でなければかけない内容だろう。芥川賞作家であると同時に、現役の電通社員(たぶん営業)だった藤原だからこそかける小説である。

そして藤原は芥川賞をとった後もなお、ずいぶん長い間、電通で働いていた。それは電通で働くことが小説の肥やしになったから、もっといえば働くことそのものが小説を超えるアウトプットとなったからだと思う(と、巻末の解説でこれまた博報堂で働いていたなんとかって小説家が書いてたけど忘れた)。

つまりそれはプロセスがアウトプット化しているということであり、そしてそのプロセスにはいろんな人たちが関わってアイデアクラフトワークだ様々なものが結集されている。そして世の中には出てこない政治的な活動というのも含まれている。つまり営業マンの作業だ。この活動にはとても緻密で大胆なアイデアが積み重なってできている。広告の単純なアウトプットに比べると、ぼくはインプット=因果=プロセスのほうがよほどおもしろい。


いずれプロセスにこそ企画が宿る時代はやってくるだろう。アウトプットの華麗さよりも、インプットの泥臭さにスポットがあたる時代になるのは、肯定的にとらえればだれでもがんばりさえすればスターになれるという話であり、否定的にとらえれば視聴者の欲望が天井をついてしまって、もっと刺激を求めるという話でもある。結局はプロセスも食って散らかされてポイになるのかもしれない。

でもプロセスにこそ人間の叡智が結晶されている。その叡智はどれだけ陳腐でも、パターン化されていても、ぼくたちはそのリアリティに感心をよせてしまう。リアルな現場にこそアイデアを込める世の中になってほしいし、そこを見る人たちも評価してほしいと思う。とあるテレビCMが話題になってワイドショーをにぎわしているが、ぼくはその制作背景を知っている。ぼくの感想は、CMのアウトプットよりも裏側でおこなわれていることのほうがよほどアイデアが込められていると思った。

マーケターやクリエイターはおなじ企画という水準でおなじテーブルに並べたとき、アウトプットのそれよりも、プロセスのほうが優れていることをちょっとは自覚してほしいかな。それを政治的だとかピュアじゃないとかいってしりぞけてる場合じゃないのではないか。なぜなら受け手がそれを耳にしたとき、彼らもまたプロセスのほうがおもしろいというのかも。プロセスがおもしろいからこそ、ぼくもまたこの形式的空虚な世界をガマンしてやっていけてるし。

シリウスの道〈上〉 (文春文庫)

シリウスの道〈上〉 (文春文庫)