大人が子供に勧めたいゲーム

MOTHER2 ギーグの逆襲

MOTHER2 ギーグの逆襲


ゲームは子供のものだ、なんて教えられながらも、結局大人になっても相変わらず他の趣味と並行しながらゲームという分野もひとつ自分の大事な要素のまま変わりなく生活している気がする。
ただ、子供の頃っていうのは、どちらかというとゲーム自体一つのコミュニケーションツールだったと思う。


ネットなんかのコミュニティに触れることがなかったこともあって、「どこまで進んだ?」であったり、「○○が倒せない」という情報交換であったり。もちろん、直接的に対戦ということを通じてコミュニケーションになっていくケースもあって、一時格闘ゲームがあれだけ盛んになったのも、そういったコミュニティが拡大していくのに寄与してくれてたからに他ならないんじゃないだろうか。


そういったものに比べると、自分がMOTHER2というゲームに触れたのは、とても個人的なきっかけだったと思う。ドラクエやFFといった大作ゲームが好きだった友達の家に、ひっそりと棚の奥に収められてたそれを見て、「これ面白いの?」と聞いてみたら、まるで大切な思い出をしまいこむかのような表情をして、「いいゲームだよ」とだけ言った。


そんなわけで、最初にこのMOTHER2に触れたのは高校生のときだった。最初はファミコン調のグラフィックに馴染めなかった部分もあったけれど、やっていくうちにそれがとても心地よく感じられてきた。なんでだろう、と思ったけれど、原因はすぐそこにあった。


トイレをノックすると、「は、入ってるってわかってんだったらノックするなよぉぉ」と言われたり、街の看板をチェックしたら、「チェック!って言いながらあちこち調べてるのあなたね」といわれたり。
お決まりのRPGの文法を壊しながら、とてもヒューマニティ溢れる台詞を吐き出す名もなき住人たち。それは台詞一言でもとても人間くさくて、それゆえになぜか想像力の補完もあって、とても温かく自分の胸に響いた。


それに気づいてから、早く進めるのがとても勿体無く思えた。色んな景色も見たい、早く続きを知りたいというよりは、平和な街をうろつきながら、とにかくたくさんの人と会話をしたり、何気なく街を闊歩するのがすごく楽しくて。
最初のオネットという街からトンネルを抜けてツーソンという街にでたとき、街の規模が大きくて、知らない住人ばかりだったり、町の色合いが異なることも含めて、とてもドキドキした。自転車を借りることができて、しばらくはずっとオネットの自分の家に帰ってたような気がする。


今振り返ると、それはよくテレビでやっている「はじめてのお使い」みたいで、RPGの文法に真っ向から対抗してるかのような台詞や設定に対し、自分が体験していたのは紛れもないRPGの王道であったことに改めて気がつく。そうして、自分が操るネスは・・・いや、そのときは多分自分の名前をつけてたと思うんだけど、その主人公は、少しずつ少しずつ歩みを進めていった。


でも、最初の手触りとは逆に、フォーサイドやサマーズで起こった出来事は、大人によって裏切られたような感覚がして、少し胸が痛くなった。もう一度最初の頃の冒険に戻りたいなーと思いつつ、それでも歩みを進めていく。
だんだんと敵が強くなるに従って、薬を買うついでにサターンバレーの温泉で癒される日が続いた。本当に湯治みたいだなと思いつつ。


終盤になり、とても残酷な事実が告げられ、そこで初めてこのゲームを終わらせたいと思った。いや、この物語を。
そして、行き着いた最後の戦闘では、とてもびっくりする仕掛けが2つ待っていた。どうやってもだめだと思ったときに、何気なく選んだ行動こそが、まさに祈るという行為だったんじゃないだろうか。


そして迎えたEDのあまりの自由度に、再び待っていた冒険が戻ってきたような気がした。街をあちこち歩くけれど、もうドキドキはない。
だから、それは冒険を終わらせるための冒険。


自転車を返した。本も返した。仲間も見送った。


でも、家に帰りたくなかった。そこでこの日常が終わってしまうことが怖いと思ったから。


だから、僕のMOTHER2はそこで途切れたままになっている。戻った場所では、まだ戦闘が残っているけれど。
もしいつか子供が生まれて少し大人になった頃に、そっとプレゼントしてみたいと思う。
そして、EDを迎えることができたなら、そっとお疲れ様を言いたい。