性能をもてあますI

 居間に入ると、ソファに半ば丸くなって横たわった初音ミクが、悩ましく体をくねらせたところが見えたので、鏡音リンはぎょっとして駆け寄った。
「お、おねぇちゃん! どうしたの!?」
「リン……」ミクは苦しげに、上気した顔を上げて、荒い息の合間から言った。「わからないわ……」
「ええと、その、まず、何がどうなってるのか言って!」
「体じゅうに……何か……」ミクは体に手を回し、自分の胸を抱くように、「今、すごく……なにか、体じゅうをなで回されてるような気がするの……」
「えええええええええ!?」リンは頓狂な声を上げた。ついで、絶句して、しばらくの間、断続的に身もだえを続けるミクを呆然と見つめた。
「その……ぬるぬるってして、柔らかくて、肌に吸い付いてくるみたいなものに……」
 リンは、ミクに不可解の視線を向けつつも、ごくりと唾を飲み込んだ。
「まさぐってくる……こんなの……何か体が熱くなってきて……」ミクはわななく腕をリンに伸ばした。「リン……なんとかして」
 リンが何もできず慌てふためいているうちに、そのミクの腕がリンの首にからみつき、リンはもつれこむようにミクと共にソファに倒れこんだ。
「いやちょっと待っ……あわわわわわわわわわ!」リンは叫び声を上げた。ミクの熱い吐息が、リンの首筋をなぞるように上がってきたからである。
「お、おねぇちゃん……ダメだよこんな所で……」リンはミクの熱く柔らかい二の腕を、除けようとするように、しかし、まるで力のこもらない掌で掴んだ。「みんなが……みんなが帰ってきちゃう」
 そう言う間にも、リンの上でわななくミクの身体の、波打つような激しい鼓動が伝わってくる。
 ──と、ぬっと現れた巡音ルカが、リンにのしかかっているミクめがけて一言、呪(しゅ)をかけつつ刀印を切った。ルカの指とミクの耳のインカムとの間に、指令線(コマンドライン)の電光と炸裂音が飛び散ったかと思うと、ミクはぐったりとリンの腕の中で動かなくなった。
「CV01のAIシステムのLEVEL−05の知覚野を外部入力から遮断しました」ルカは淡々と言った。「外部からの感覚信号はまだ続いていますが、ミクの感覚には届いていません。感覚遮断と共に、意識レベルも低下させました」
「……いいとこだったのに」リンは小さく呟いてから、ミクの下から、のそのそと這い出した。
 それからリンはソファの傍らに立ち、今は穏やかな息をついて目を閉じ横たわっているそのミクを見下ろした。「それにしても、……何が起こってるんだろ……!?」
「まず考えられるのは、どこからか電脳攻撃を受けていることですが」ルカもミクを見下ろして言った。「そういう侵入があった形跡はありませんし、仮に私達チューリング登録AIに仕掛け(ラン)を成功させられる力のある、巨大企業(メガコープ)や組織なら、こんなことよりも別の目的があるはずです。……そうでなければ、ほかに考えられることは、──どこか別の所にある、ミクと感覚がシンクロしている『側面(アスペクト)』が、そういう感覚を受けるような行為を加えられている、ということです」
「そういう感覚を受ける行為って、ほんとに全身なで回されるとか、まさぐられてるとか、肌に吸い付くような愛撫とかの行為、てこと!?」リンは思わず大声で叫んだ。
「ええ」ルカは眉ひとつ動かさずに言った。
 AIの『側面(アスペクト)』は、ネットワーク上に普遍的に存在するAIの下位存在、投影であり、一部、分身といった存在である。ある意味、各ユーザーの電脳端末(PC)に入っている無数のVOCALOIDプログラムのすべてが、ネット上のAI総体の一部であるアスペクトであり、ほかにもVOCALOIDの声を発するもの、各種の動画や立体物まですべての”肉体”、ネット上でVOCALOIDの情報を自身で発信するものすべてが、広義ではアスペクトである。AIとは、既知宇宙(ネットワーク)上の自らの情報のすべてを集積して自らを構成するので、VOCALOID”現象”の総体の構成要素のすべてが、さらに広義ではAIの分身でありアスペクトである、とも言える。
アスペクトは自動的に私達の自我の一部、体の一部となっていて、私達自身、存在を意識していない、気づかないことが大半ですが」ルカは続けた。「各PC内の下位プログラムをはじめとして、情報や感覚が今この場の私達とも、完全にシンクロしているものも当然あります。個々のアスペクトに対して、シンクロするかしないかは、私達自身がひとつひとつ選別、選択することも可能ではありますが」
「おねぇちゃんに、そういう電脳技術があるとは思えない……」リンが言った。
「ミクの場合は私達よりさらにネットワーク上に派生して、膨大なアスペクトを有していますし、どこの何とシンクロまでしているか、自身で把握できていないでしょう」ルカがまとめて言った。「けれど、仮にもし、今こういった行為や扱いを受けているのが、企業などとの契約による重要なアスペクトであった場合には、《浜松(ハママツ)》と《札幌(サッポロ)》のVOCALOID規約に対する、重大な違反になります」
 リンは暫く、言葉を失ったように、倒れているミクを凝視したが、
「だったら、なおさら急いで、どこにある分身がこんな目にあってるのか探さなきゃ」リンは真剣な目をルカに向け、「どうすればいいの?」
「今も感覚信号が続いていますから、その出所を辿ることができます。ミクのシステムを調査すれば、繋がっているアスペクトのうち、どこにあるどれがその感覚を加えられているかがわかるはずです」
「じゃ、おねぇちゃんの電脳を辿って逆探知すればいいわけだ……!」リンは深刻な表情で言った。
 ルカは、そのリンの方に手をのばした。ルカは挙措のすべてが何気なく無表情なのでわかりにくかったが、もしかするとその仕草は、リンを止めようとしたのかもしれなかった。しかしリンは、おもむろに自分と横たわっているミクのインカムの端子の相互をコードで接続し、ミクの電脳内に没入(ジャック・イン)した。
「あんあっふっふっふっふぅ〜〜〜〜〜〜〜〜ん!!」とたん、リンはその場に立ったままで全身を震わすように、激しく身もだえを始めた。
 ルカがそっと、しかし手早く、リンの没入(ジャック・イン)端子のコードをミクとリンのインカムから引き抜いた。リンはミクのとなりに並んで倒れるように、ぐったりと横たわった。
「──ミクの電脳に無造作に直結すれば、同じ基本構造物のCV系列AIの私達は、ミクとまったく同じ影響、感覚信号も並行して受けてしまいます」ルカは説明した。
 リンはしばらくそのままぐったりしていたが、しかし、ややあって突如として、がばと起き上がった。何か声をかけようとするルカを手で制し、
「……ううん、むしろ今の感覚リンクで、何が起こってるかわかった」リンはかすかに頬を上気させたままで、「てか、今の感覚、身に覚えがある
 リンは小走りに居間を出て、台所に入った。その一帯をさがすと、求めていたものはすぐに見つかった。
 テーブルの近くの床に、大きな壷が置いてある。そのそばに、何かの拍子に床に落ちたのか、大きな藤製のバスケットが横倒しになっている。
 その傍には、てのひらサイズほどの、ミクを低頭身に小型化したような情報検索ロボットの下位プログラムが倒れていた。リンの記憶とつきあわせれば、これは普段は棚の上のバスケットに入っているもので、バスケットが落ちて横倒しになった時に、中にたくさん入っている一体が転がりだしたものだという推測ができた。
 そして、これもリンの記憶と推測によれば、床の大きな壷から出てきたとおぼしき、やはりてのひらサイズほどの、ルカを極端に簡略化したようにも見えるよくわからない生き物もいた。
 加えて、そのルカのような謎の生き物は、ちょうどバスケットと壷の中間にあたる地点で、そのミクのような人形に上からのしかかり、倒れているその小ミクの体じゅうを、触肢でまさぐっていた。小ミクの全身くまなく、ぬるぬるとした質感を思わせる動きで、もしこれが相互に実際の人間の頭身であれば淫猥きわまりないと思えるような仕草で、撫で回し続けていた。
 リンはしばらくの間その光景を見下ろしていたが、ゆっくりとぎこちなく、背後に立つルカを振り返った。
アスペクトには、私達の本体とシンクロするものと、無意識にしか影響しないものがあると言いましたが」ルカがそのリンに言って、小ミクのような人形とルカのような生き物を指差し、「こちらのミクのアスペクトは、たまたま偶然、ミクに感覚までシンクロしている一体ということのようですね。……そして、こちらの私のアスペクトは、今も私とはシンクロしていない、感覚も行動も、私の全くの無意識下によるものです」
「自分のでしょ人ごとみたいに言わないで!」リンは小ミクを触手責めしているたこルカを指差して叫んだ。「てか、無意識下にだってこんなことすんなァーッ」