はじめて読まれる方へ

このブログは「川柳しなの」という川柳雑誌に関わる記事をブログ形式で収録したものです。


「川柳しなの」は石曽根民郎が主催した、長野県松本市を発信地とした雑誌で、1955年から2000年まで続きました。
およそ50年にわたる雑誌から、民郎に関わる記事を中心に収録しています。


「山々の顔」は雑誌の巻末載せた民郎の随筆です。
「月々の句」は表紙見返しに掲載した民郎のそのときどきの最新の川柳句です。
「書誌」は川柳しなのの毎月の目次です。


他にも石曽根民郎が書いた文章を収録しています。


「古川柳信濃めぐり」は、江戸時代の古川柳を365日にわたって紹介した随筆です。365日、四季折々の季節のトピックに合わせた内容になっています。


「まつもと歳時記・住めばわが町」は、信州にまつわる様々な習俗・伝統儀式などを川柳文化にからめながら紹介した文章です。


「川柳の話」は、戦後の復興がまだ十分でない時代、まだ年若い石曽根民郎が川柳のふたたびの興隆を願って書かれた、川柳入門の文章です。

年の暮れ

 年の暮れは何かと気ぜわしく、新しい年を迎える数日を指折りかぞえ、予定を樹てながら過ごすことになります。
 二十八日は餅つきときまっていました。味噌焚きとこの日だけに使う臼と杵を持ち出して綺麗に洗い、炊き立ての餅米をズシリと臼の中に入れるといよいよ餅つきです。
 八十二歳まで生きた達者な父はいつも搗く手、母が手返し、方言では「てんげえし」ですが、呼吸がよく合って見るからに調子づいていました。なかなか私の番には廻って来ませんでした。
 松飾りには毎年きまった人が忘れないで来ました。それをどこへいくつ飾るかは父の指図でしたし、気に入らないと叱られたものです。
 いつの年からか松飾りは縄手通りの露天から買うようになり、また「おみきのくち」と言って呼び声高く街の中を売り歩いた人も通らなくなり、これもいっしょに縄手で求めました。
 おみきのくちはお正月の神棚に供える神酒徳利に挿す竹製品ですが、初春には欠かせない縁起もので、竹を削り、そいで、細いひごを美しく輪のかたちに折り曲げてゆく手づくり、三階松とか五葉松、宝船の名があります。毎年代えるのですが、古いのも大切にするようにしております。
 お年取りにはみんないつもと違った素直な気持ちで顔を合わせます。富山から飛騨を越えて来たという飛騨ぶりが先ず大物。ひとときに大きくなる魚だから、家の身代も同じように見る間に大きくなる、そう信じてもいました。または鮭、これは出世魚
 黒豆はまめ(丈夫)でありますように、たつくりは田んぼの収穫がありますようにと願うしるしです。数の子はこのところ縁遠いですが、これもなくてはならぬご馳走でした。
 大根の煮物、福大根、細目にきらず輪切りにします。ちくわ、午蒡、蜜柑も出ます。お吸物、栗のきんとんなどいかがでしょうか。
 お年取りのご飯は三杯以上、二杯のような偶数でないのがよい、小盛りに数を多くしてほしいというのです。
 人間ばかりでなくて鼠などにも心を配るところがあり、鼠の年取りといってその出そうな所へ好物を供えておけば、年中いたずらをしないとか。
 みそかそばに舌鼓を打ちながら、折からの除夜の鐘を聞き、逝く年を送る感慨にひたり、二年詣りの人通りのざわめきにふっと耳を澄ませます。
 初音を売りに来る声がなつかしく、一年に一度のこの出会いをどんなにか待ちこがれことでありましょう。
  佳き年の使者とも思う初音来る   弓人

冬至

 同じ昔話でも農村の人からじかに聞けばまたひと味違うだろう、その機会がほしいものだと思っていました。ある日、友だちが「うちのおばあさんが乗り気だから」とさそわれました。
 郊外に住む友だちの家に出向いて、そのおばあさんから昔話を聞いたのですが、私の母から聞いたものもあり、またいままで耳にしないいくつかの話が出て大変参考になりました。
 話のなかばで「ひと休みしてはいかが」と、南瓜【かぼちゃ】の煮物が出ました。「きょうは冬至ですよ」というのです。一年中で昼が最も短く、そのかわり夜が長いわけですが、話好きなおばあさんは「こんな冬の寒い日に、珍しい野菜を神様にお供えする習わしがあったものだが、それにあやかってこうしていただくのだ」といわれ、いろいろ興味深い話題を披露してくれました。
 小豆にまぜた南瓜の甘さを賞味することもありますが、冬至の日のせいか煮える音もまことにゴキゲンです。
  大鍋の冬至南瓜や煮えたちぬ   犀州
 南瓜は年越しをさせるものではなく、この日までに食べてしまうと聞いたことがあります。また冬至の日を「南瓜の年取り」といい、それだから南瓜を食べるところもあるようです。
 冬至の神様は犬が嫌いで、戌【いぬ】の日が来ると帰ってしまうかわりに、冬至から戌の日までの間が長いと、家の穀物をみんな食いつくす――といわれたものでした。
 冬至には柚子【ゆず】の実を切り、風呂に散らせて入浴する習俗があります。五月節句と同じようにみそぎの名残りではないか、ということです。
  柚子の香のほのかにありぬ仕舞風呂   蒼鬼
 寒い日、気品の高い旅人がとぼとぼ村々を訪れるものだと信じていた時がありました。外国のサンタクロースが訪れる話にも何か結びつくような気がします。現に美濃から尾張にかけて、冬至の夜に弘法大師が村々をめぐった、という伝説が残っています。
  老牧師に扶【たす】けれクリスマス   雉子郎

冬雪

 季節はずれに雷様がゴロゴロと鳴り出すときがあっても、最盛期とちがいますから、こわがりもせず、不思議そうに耳を澄ませます。
 十一月に雷が鳴ると、雪の降ることが多いとか、来春は米価が高くなるとか、魚がたくさん獲れるという地方があります。
 秋雷は鰤【ぶり】の値が上がる先触れと古老から聞いたことを思い出しますが、大晦日に雷が鳴ると、雷様は外で年をとるものだとは、民話にもなりそうなニュアンスを感じさせます。
    雷の手間取●
  浪人者、合力を頼み申すと門に立つて貰ひければ、亭主「もしもしそなたは何商売をさつしやるぞ」「拙者は雷の手間取で御座る。いつも夏の内は口過も出来ますが、冬はとんとひまで、ほんに天竺浪人さ」   (太郎花・寛政年間)
 雷様の手伝いをしている季節労働者で、冬はこれという稼ぎもなくて、しがない天竺浪人さ―とぼやくあたり、住所不定の浪人をいいあらわしています。
 昔は雷様をいろいろに見立てたもので、まことしやかに雷獣にたとえた話も出てきます。支那雷州では冬に雷獣を捕えないと、翌年しきりに落雷するからその肉を食う――と「市井雑談集」にあります。また、毎年正月、人々が集まってイタチに似ている雷狩りを決行すると、その夏は雷鳴が少ない――などといいました。
 北安曇地方の口碑伝説には、こんなのがあります。社区曽根原のある人が昔、山田の近くで木を伐っていますと急に夕立がして大荒れとなり、代田の中に雷様が落ちて来て空へ上れない。そこで早速生捕って家へ持ち帰りますが、ちょうどヒグマの子どもぐらいのものだったそうです。
 雷獣というものは実際雷様として天上から落ちて来たのではなく、雷鳴に驚いた獣がそこここと走り出たのを機に、やあ雷様だと推量したのでしょう。
 最近松本地方で十一月に雷様があったとしは昭和三十七年、四十五年、四十七年、五十二年で、十二月と一月にはなく、二月は昭和五十三年、三月は昭和四十四年、四十八年、五十年という松本測候所の記録です。
 中谷宇吉郎の『雷の話』に、雪雷という吹雪で起きる雷が、北極地方に探検に行ったとき遭遇することが述べられ、温かい氷と冷たい氷とが衝突すると、はっきりした電気現象が出ます。
   雷一声まことしからず寒の雨   白雄

瞽女余情

 こどものころ、天蓋【てんがい】で顔をおおい、袈裟を引っ掛け、尺八を吹く虚無僧が門付けに立っているのをよく見かけました。テレビや劇画に出てくる扮装ですから、時代を超えた印象が強く、むかし仇討に身をやつし、あるいはまた仇討の目からのがれた姿にも見られます。
 動くカラクリ人形を乗せたのを首に掛け、門口を訪れることもありました。太鼓、笛を伴ったお神楽連の三人が賑やかに一軒一軒廻ることもあって、それがすむと、贔屓【ひいき】とめざすところへ寄って大振る舞い。子供ごころにも浮き立ち、友達と一緒に広間に座りこんで見たものであります。
 今まで晴れていたのに急に泣き出すような空模様、チラチラ雪も降り出す。そんなとき三味線を小脇にした年寄ったおばさんが、トボトボと杖を頼りに来ます。目が不自由で眉毛に雪が舞い、また消えます。瞽女【ごぜ】といったのか、どうも思い出せません。このおばさんは、私の家に寄った記憶はないのですが、少し先に住んでいた老夫婦の家にはよく参りました。小脇に控えた三味線を両手で支えるのに変え、一曲奏でるのです。
  安寿の姫にずしおう丸
  船別れのあわれさを
  あらあら読みあげてたてまつる
  佐渡と丹後の人買いは
  沖の方へといそがるる
 説経節山椒大夫」であったかどうか、それはさだかではありません。
 水上勉の『はなれ瞽女おりん』は篠田正浩監督で映画化され、岩下志麻の純情一筋の演技が評判を呼びました。仲間を作って一定の住所に集団生活をしながらの旅の哀話です。
 前に立つ手びきの女の肩に手をのばし、一人がつづくとそのあとにまた同じように手を先の背に添える姿で、漂白の旅愁をつづけてゆく。
 はぐれ瞽女とは、何かしくじりを起こし、つい離れ離れになってしまい、仲間はずれで定宿に泊ることはできず、村はずれの地蔵堂阿弥陀堂をねぐらにしなければなりませんでした。
  瞽女かなし水仙ほども顔あげず   一都
 沢田早苗はこの句をこう解説しています。―ー手引瞽女の内向的な性格なのか、いつも伏目がちで顔を上げることがない。厳寒にめげず咲き出る気品高い水仙。垂れ咲く花のうつむく習性など、すべて瞽女を象徴するかのような可憐さーー。
 私が幼い頃見たおばさんが、果たしてはなれ瞽女であったのでしょうか。

煤払い

 松本城が暮れに迫って大掃除をする日といえば、仕事納めの十二月二十八日ときまっています。思い思いの掃除道具で煤【すす】払いしている様子を見ると、普通の建物と違うものですから目立ちます。それだけに歳晩風景にふさわしく思われてきます。
 家庭の煤掃きはいつというわけでなく、都合のよい日を選んでやるようです。先頃まで農村ではところにより十三日、十四日にしたものでした。この日を「よごれ年」といって煤払いをし、風呂へ入ってさっぱりしたあと、スルメやサンマで「よごれ年の年取り」をしたのです。
 江戸城を始め、武家方の煤払いの日は十三日ときまっていました。
  十三日富札の出るはづかしさ   (柳多留 十四)
 江戸時代の句。富札というのはいまの宝くじのことですが、大掃除をしているうち部屋の思わぬところから富札が見つかったのです。他人の目にふれてはずかしいとは、一かく千金を夢見る当時の地道だった心情をうかがうことができます。堂々と、だれにも遠慮なく買いに行く今日の見馴れた風俗として定着しているのにくらべて、隔世の感があるといえましょうか。
  十四日昨日は胴で今日は首   (柳多留 十一)
 昨日は胴、今日は首とはいささかクイズめいていますが、実は煤払いが終わったあと、主人以下一同胴上げをしてめでたく掃き納める習慣がありました。それが胴で、十四日の首とは、元禄十五年十二月二十四日を指し、赤穂浪士の本懐を遂げた日、吉良上野介の首級を意味するわけです。
 東京高輪の泉岳寺は主君浅野長矩夫妻と四十七士の墓が並んでいます。鉄道唱歌に、
  右は高輪泉岳寺
   四十七士の墓どころ
  雪は消えても消えのこる
   名は千載ののちまでも
 香煙絶ゆるときがないといわれています。
 義士顕彰会というものがあって、松本市高宮の藤沢千里はこの世話人で、戦争前まで記念の催しものや講演会を開いたり、機関誌を配布したものでした。

物臭太郎

 東筑塩尻教育会(開智二丁目)の前庭にある物臭【ものぐさ】太郎の像は、悠然と腹這って無心に大空を眺めている童児で、いかにも天衣無縫なたたずまいを思わせます。
 物臭とは、しごくめんどうくさがりやということでしょう。お伽草子の「物臭太郎」によると、竹の棒を四本押し立てこもをかけただけの小屋に住んで、さっぱり働きもせず寝てばかりいました。
 あるとき、情深い人が可哀想と思って大きな餅をやったところ、早速平らげたが、ひとつだけ残しておきました。遊んでいるうちにひょいっとすべらして、道ばたに転がしてしまいましたが、拾うのもおっくうがる始末。
 なるほどこれでは物臭といわれてもしかたがありません。そうした怠惰の少年が京都へのぼって見出されるようになる物語が人のこころを打つわけは、ひとつに幸運であり、栄達である憧れが、だれしもの胸にあるからでありましょうか。
 物臭太郎像をつくった彫刻家の上条俊介は「初め仰向いて餅をもてあそぶポーズを試みたが、それでは物語中の一瞬間にすぎないから、地に這って瞳を天空に向けた空間的な広がりを想像した」といっています。
 物臭太郎は京に出てみめよき美女を見いだして連れ帰り、甲斐、信濃二国の国司に任ぜられる道が開け、長寿を保って多くの人に崇められたという良縁、栄進の一典型をこの物語に見ることができます。
 天寿を全うしてからは太郎が「おたがの明神」、妻が「朝日の権現」となって信仰を集めたとあります。太郎館跡と称するところは、あちこちに散在しています。
 松本市新村南新に物臭太郎遺跡地の記念碑があり、また島立三の宮の沙田神社にも太郎塚の碑が建っていて、穂高神社には物臭太郎をまつる若宮大明神の祠があります。
 松本市出川の多賀神社は「おたがの明神」として現れたといい、物臭太郎物語一巻を浄写して奉納する習俗が、かつてこの神社にみられたほどでした。
 おたがの本地について横山重の『物臭太郎と私』によると、三説があるとし、その一つは「をたぎ」=愛宕で、萩野由之平出鏗二郎藤岡作太郎と続いて来たが、今はこれをいう人はない。その二は、「おたが」=お多賀で、正保頃の丹緑本の、おたがの本地のなかに「おたがの大みやうじん」とある。その三は、「ほたか」=穂高で、『信府統記』に、「穂高神社の背に、物臭太郎の塚がある」としるされているとあります。