ウンコがちょうどいい肥料になりますた


 というわけでハリー・G・フランクファートの『ウンコな議論』の興味深いところをいまさら抜書き。

ウンコな議論

ウンコな議論


 この本の「ウンコ議論」は、以前、hicksianさんのところでecon-economeさんや梶ピエールさん、銅鑼衣紋さんたちと意見交換した西部邁らの文化的相対主義への批判を補強する意味で重要だと思いました。


 「ウンコ議論」、日本語ではとりあえず「屁理屈」でイメージしてもらってもかまわないでしょう。フランクファートはウンコ議論や屁理屈の本質はそれが嘘や真実でないということではなく、「まやかし」だということを後半で特に強調しています。


 しかも人はしばしば嘘よりもウンコ議論を人生の処世としても、また道徳的な観点からも優れているとみたり、また大目にみてしまう傾向があるといっています。フランクファートはそのような寛容?な態度は、「物事の状態を観察するという通常の人に備わった習慣は弱まったり失われたりしてしまう」(49頁)と批判的です。


 例えば下のエントリーで書きましたbewaadさんが注目している苺掲示板から例を拾ってみたいと思いますが、


1 金利を上げると消費が減少する


が真であったとします(これはかなり真なのですが最近はちょっと違いますかw)


それに対してとりあえず嘘は


2 金利を上げると消費は増加する


となります。そして考えられる屁理屈では


3 814: 名無しさんの冒険   2006/09/09(Sat) 18:18
(引用者略)
金利が上がったのにというか、織り込んでしまっている場合は経済活動が活発だというのは成り立つのでは??*1


 というものだと思います。これは一見すると2の補助仮説ないしそれを弁護しているようにみえますが、実は2とは違う「屁理屈」になっています。なぜなら日本語で「金利が上がったのにというか」としてますので、金利上昇要因とは切り離された上で(そんなのはとりあえず関係ないものとして)、「織り込んでしまっている場合に経済活動活発論」という新種の話に転換しているからです。この織り込み屁理屈であれば、金利の高低が消費にどのような影響を与えるのかということとは一切関係なく、(織り込めば)経済の活発化を説明できてしまうからです。


「嘘をつく人物と真実を語る人物とは、同じゲームの中で反対の立場を演じている。それぞれは自分が理解した事実に反応するが、片方の反応は真実の権威を否定してその要求に応えることを拒絶する。ウンコ議論者はそうした要求そのものを無視する。その人物は嘘つきとちがって真実の権威を否定もせず、それに逆らう立場に身を置くこともしない。真実の権威をまるで意に介さぬ。この点からして、ウンコ議論は嘘よりも大いなる真実の敵なのである」(訳書50頁)。

 私は織り込み活発ウンコ議論が、真実ゲームに参加するものだというならばフランクファートとともにウェルカムですが、フランクファートは「ウンコ議論や屁理屈は、知りもしないことについて発言せざるを得ぬ状況(このケースだと安倍政権の金利上げの消費増加という理屈をどうフォローすべきかという状況)に置かれたときには避けがたいものである」(51頁)と書いています。つまり知らないことに口出したいという欲望を抱き、それを実行した場合にまま見られるであろう、ということです。なんか掲示板やブログでもこういうのは日常的光景でしてもって他山の石と以下略w


 さてフランクファートのウンコ議論は文化的な相対主義への批判になると私は書きました。文化的相対主義懐疑論の一形態といえます。なぜなら文化的な相対主義は、世論や大衆によって物事の真理が左右される、と考えているからです。


「そうした議論は人が客観的現実に信頼できる形でアクセスできることはあり得ないと主張し、したがって物事が本当かどうなのかを知り得る可能性すら否定する。こうした「反現実主義」の教義は、何が真で何が偽であるかを見極めようとする冷静な努力の価値を損なうものであり、さらには客観的検討という発想がまともなものだという信頼すら薄れさせてしまうのである」(52-53頁)。


 この種のウンコ=へ理屈主義者は、真実や正しさをなおざりにしているので、「誠実さ」という理想を追求せざるをえない、とフランクファートは述べています。そして「そのほかのすべてのものについては決定性があり得ないと想定しておきながら、自分自身だけは何か確固として決まった存在であり、したがって自分については正しい記述や間違った記述が存在すると想像」している人であるとフランクファートの批判は核心をついています。


 これは冒頭のhicksianさんのブログでのやりとり、そしてその議論に依拠した私の近刊を参照いただきたいのですが、文化的相対主義に依拠している例えば村上、西部氏らの諸説は、彼等が望ましいとする「官僚」や「政府」あるいは「テクノクラート」がいるわけでして、それ以外の現実の専門家たちは単に大衆の声を反映する堕落した存在なのです。ここにフランクファートのウンコ議論の典型をみることはたやすいと思われます。


 ところで思い出したのですが、かって黒木掲示板で登場された塩沢さんもしばしばリフレのメリットをとくだけで、インフレのコストやデフレのメリットをいわないことは「誠実ではない」とでもいわんばかりのスタンスで、経済学的ならざる理屈に依拠していた気がいたします。いや、まだ「誠実さ」を論拠としたのは塩沢さんだけではないように思えます。金子勝さんや小林慶一郎さんたちもしばしば「モラル」=「誠実さ」を彼等の理屈の究極的なありかとして語っているように思えてなりません。もっともこの点は今後もここで突っ込んで考えていきたいと思います。私にはウンコ議論とおもえるモラリストたちの肖像を描ければと。


 フランクファートは最後に、誠実について以下のように述べています。


「自分自身についての事実はあまり確固たるものではないし、また懐疑的な曖昧さによく耐えるものでもない。それどころか人の本性は、実にとらえどころがないほど実体に欠けているーー他のどんな物の性質と比べても悪名高いほど不安定でつかみどころがない。そしてそうである以上、誠実さなんてもの自体がウンコ議論の屁理屈なのである」(54頁)。

*1:名無しさんの冒険さんには例であげて申し訳ございませんm〔〕m。名無しのコストと思い耐えてください

 政権の変わり目にはアホが跋扈するw

 実はまだ勢い的(なんの勢いだw)には不十分というのが僕の読み。 「構造改革なくして景気回復なし」、不良債権ハードランディング などなど小泉政権のはじまりでやろうとしたことにくらべればまだまだ 笑。

これからが本番でしょう。とりあえず以下、メニューですw (リンク先は批判的な検討をしているところ)


1 利上げすると消費拡大w


2 高校でたらボランティアしないと大学いけない


3 この株上がるのでおススメw


4 ニートは農村に逝けw

 教育ヴァウチャー制 →予定プチ変更、山形さん新訳


 昨日、オフ会での宿題で、教育ヴァウチャー制の経済学的貢献でどのようなものがあるのか、という話題になりました。例えば

http://econpapers.repec.org/

 の検索欄に School Voucher と入力しますと何十件かの論文がヒットします。有力なエコノミストが理論や実証、実験の成果などを書いております。どの論文がはずせないかどうかは、ここ数年のは把握してはいないのですが。ちょっと本日はこの問題を継続的にみていきたいと思います。以下続く。

(と思ったら急用w)

とりいそぎ教育問題といえばまず次でしょう。


ダメなものは、タメになる テレビやゲームは頭を良くしている

ダメなものは、タメになる テレビやゲームは頭を良くしている


とりあえず子どものとき「テレビやマンガみてるとバカになるよ」といわれても見続けてよかったあ! おかげでブログのネタにこまら以下略