ミルトン・フリードマンの香港論

 下にも書いたが、『ダイヤモンド』の特集で飯田さんと若田部さんのものだけ読む価値があり、あとは屑か、よくあるエコノミストの予測やたわごとの羅列であり残念だった。

 その若田部さんのフリードマン『資本主義と自由』の解説を読んで、そういえば新訳は高橋洋一暗黒卿の解説以外ろくに目を通していないことに気がつく。

 この新訳には、2002年版まえがきがついていて、ここに非常に興味深いというか僕にはまだ十分消化できてない発言がある。でれば原文を知りたいとも思うところなのだが。

「この本に一つの大きな変更が加えられるなら、経済と政治の二つの自由を、経済・市民・政治の自由という三つの自由にあらためたい。本書を書き終えてから、返還前の香港が私に一つの教訓を与えてくれたー経済的自由は政治的自由と市民の自由を実現する必要条件だが、政治的自由は、もちろん大いに望ましくあるけれども、経済的自由や市民の自由の必要条件ではないことである。政治的自由は、状況によっては経済や市民の自由を促すが、状況によっては阻むこともある。このように考えると、本書では政治的自由が果たす役割の扱いが不十分だったように思う」(翻訳9ページ)

 ここででてくる「市民の自由」がよくわからない。それと返還前の香港については、以下の記事にフリードマンの評価が書かれているが、簡単にいうと競争市場の成果として香港の半世紀にわたる経済成長は実現してそれは望ましかった、というものである。

http://www.hoover.org/publications/digest/3532186.html

:Yet within four decades the residents of this spit of overcrowded land had achieved a level of income one-third higher than that enjoyed by the residents of its former mother country.
I believe that the only plausible explanation for the different rates of growth is socialism in Britain, free enterprise and free markets in Hong Kong. Has anybody got a better explanation? I’d be grateful for any suggestions. :

 この成果は郭伯偉Sir Cowperthwaiteのアダム・スミスから影響をうけたレッセ・フェール政策のもたらしたものである、というのがフリードマンの評価であった。経済的自由が政治的自由を実現する、あるいは経済的自由が市民の生活を豊かにするというフリードマン命題はこの記事からもわかるのだが、2002年版の記述する内容がわかるか?と聞かれるとなると、僕には正直わからない。ここらへんは三つの自由をどうフリードマンが定義したのか、明示したものを今後探してみたい。
 
 そしてフリードマンの香港の今後については以下に書かれているがかなり悲観的である。

http://online.wsj.com/article/SB116009800068684505.html

:A half-century of "positive noninterventionism" has made Hong Kong wealthy enough to absorb much abuse from ill-advised government intervention. Inertia alone should ensure that intervention remains limited. Despite the policy change, Hong Kong is likely to remain wealthy and prosperous for many years to come. But, although the territory may continue to grow, it will no longer be such a shining symbol of economic freedom.:

 香港とフリードマン関係のソースは、hicksianさんが整理しているhttp://d.hatena.ne.jp/Hicksian/20080416#1208294137

資本主義と自由 (日経BPクラシックス)

資本主義と自由 (日経BPクラシックス)

ご尊顔コラージュ雑感

 『週刊ダイヤモンド』の経済学特集号が本屋にあったので立ち読み。飯田泰之氏のご尊顔コラージュはやりすぎ感ありありで、この間会ったときでは、NHKブックスの帯のどでかい顔写真は「他の人もやってたので(不承不承)」というニュアンスだったが、どうもご本人の戦略みたいである。僕はそういうの某剛、某勝ほかの戦略と似ていて好きじゃないけどね。まあ、流行なのかな。え? ブログも同じだろうって? そりゃ、そうだ 爆。

 ただ経済学的にはこの種の自己宣伝は広告効果をもつから、その人の提供する発言・行動の質の高さのシグナルともいえる(顔バレしているのでへたな発言や行動がとれない)。その一方で、その発言や行動の「中味がなんであるか」までは広告は伝えない。たとえば、顔出し自己宣伝をいっぱいやる人が、トンデモ経済学を吹聴していることも十分ありえる。そのとき、自己宣伝がシグナルとしているのはせいぜい「トンデモ経済学の質の高さ」であろう。

 これは世界的に広告を展開しているファーストフードの提供するハンバーガーが世界中どこでも同じ品質を維持している反面で、それを上手いと思う人、不味いと思う人さまざまでありハンバーガーの味まで伝えないのと同じである。あるいはそのハンバーガーの原材料など中味までは伝えないのとも同じであろう。

 味や、いまは原材料などの評価などでも、ハンバーガーの経済的価値は判断される。尊顔コラージュ効果(ブログ効果もww)もまた同じであろうか? 

 『ダイヤモンド』の他の記事では、若田部さんの『資本主義と自由』の解説が一読の価値をもつ。誤ることの自由、という行動経済学(の援用がもたらすパターナリズム)との距離感は面白い指摘。