アマルティア・セン、吉原直毅、大塚英志ほか『atプラス』02号

 昨日の講演でも紹介したが、今回の『atプラス』2号は、いまの経済問題を基本的に考える上で欠かせない論文が掲載されている。ひとつはアマルティア・センの「危機を越える資本主義」だ。もうひとつは吉原直毅氏の鋭利な論文「ヒューマン・セキュリティに関する厚生経済学からのアプローチの可能性」である。さらによくこのふたりで対談ができたなあ、という隠れ意欲座談(大塚英志氏と鶴見太郎氏という組合せは面白い)の柳田國男をめぐる話である。

 この大塚氏と鶴見氏が柳田の社会政策を論じている場に僕がいたら、「それ待った!」と乱入しそうになったが 笑。他には僕の前号のレビューが掲載されているのはすでに紹介した。これは自分なりに複雑系の経済学をどう見ているかを合わせて論じたものでもある。

atプラス 02

atプラス 02

 さてセンの論文「危機を越える資本主義」であるが、スミス、ケインズ、そしてピグーのセンらしい再解釈を通じて、現在の効率性中心の資本主義ではない価値多元的な資本主義を展望するものになっている。センのスミス解釈は刺激的だ。まず彼はスミスの自由貿易論が実は食物輸入を保持するための飢饉対策で優先されたのであり、その背景には国家が市場に介入して雇用の創出。収入の増加を実現する試みと密接につながっていたのだ、という指摘がある。

 このようなスミス像は実は日本においてもスミスの経済発展論、自由貿易論が不均衡理論であることを喝破した根岸隆先生がすでに指摘したことでもある。昨日、講演で説明した僕のスミスの余剰吐け口論論文はそれをフォーマルに説明しようとしたものだった。

 センによれば、スミスはこの政策介入を行う上で、「慎重な徳」よる多元的な価値に配慮することで実行されるべきだと考えていたという。ここらへんは現在の堂目卓夫氏の主張とも共通しているし、日本では百年近く前に福田徳三がスミス生誕二百周年講演(「厚生哲学の闘士としてのアダム・スミス」)で発言したものと同じ意図をもつ。

 センはさらにケインズには現在の金融危機への対処としていまだ有効な面があるものの、危機を超えて資本主義がどうあるべきかは、ケインズのライバルであったピグー(そしてスミス)の厚生経済学にこそ見習うものが多いと指摘する。センの問題意識は次の発言に端的に表れている。

「もちろんこれは長期的な問題だが、それでもなお指摘しなければならないのは、特に医療がすべての者に保証されていないような場合、景気悪化によって生まれた傷口は、すざまじい勢いで広がっていくということである」。

 これは特のアメリカの医療保険改革をめぐる議論を意識して書いているが、それでも日本においても説得力をもつ。例えば医療をメンタルの面にまで拡大してみよう。景気の悪化による貧困や失業や過度な勤務などが、児童虐待や自殺の増加を生み出しているのではないだろうか。このときメンタル面のケアへの公的介入が必要になってくるだろう。そして日本のようなデフレ状態で停滞が続く日本では、センが指摘した短期的な処方を超えてケインズ的な景気対策ピグー的のものよりもいままさに必要とされているだろう。

 吉川論文は経済的効率性基準だけではなく、センと同様にベーシック・ニーズを考慮した価値多元的な経済のあり方を原理的な見地から解明しようとしたものだろう。このベーシック・ニーズ的な発想は心地よく聞こえるし、私も価値多元的な発想(パレート原理だけを経済学的には支持している経済学者だってみんなクリスマスプレゼントや影響がないとしりつつ投票にいっている! という事実は脇においておこう)は支持している。さらにニーズ論も興味の対象だ。ここらへんは(いま鈴木亘氏と論争??している権丈善一氏と似たような立場だが)、これまた昨日、話したことだが、日本の経済思想の歴史をみるとこの種のニーズ論は、有意義な面とそして社会を暗黒に突き落とす役割の一部を担ったことでも玉虫色(暗黒色も含めて)輝いているものだということを忘れてはいけない。その点が言及されていないことで、吉原の原理論は僕には堕天使のトルソに思える。ただこの吉原論文を精読していけば現代の厚生経済学の最前線へ短距離で案内してくれることだろう。僕は批判的になりながらもかなり使える議論なので面白く読んだ。

 しかし01号も個人的につぼだったが、02号もつぼに入った。

すばらしいプレゼント:『プレゼントの経済学』

 ジョエル・ウォルドフォーゲルの『プレゼントの経済学』。クリスマスの贈り物をイメージした白と赤のブックデザインもとてもいい。原題はScrooreconomics。つまり『クリスマス・キャロル』のかの守奴銭スクルージと経済学を結びつけた経済学の贈り物だ。編集の方から今朝、贈っていただいたとてもすばらしい著作。

 贈り物が贈り主の「よろこばせたい」という動機に反して、貰い手の多くが「うれしくない」と感じてしまい、社会的なムダが発生している、とウォルドフォーゲルは指摘している。このムダは先進国を中心に膨大な金額になる。この贈与経済の分析を、著者は途上国への援助、政府が行う現物給付や日本での定額給付金などのようなタイプの現金給付の分析に応用していく。現金が一番贈り物として効率的なのに、現金を贈ることが社会的な規範、宗教上の理由、たんなる見栄などで控えられてしまうことも、贈与経済が非効率的になる原因である、と著者は書いている。その分析は鮮やかであり、消費者余剰や簡単な需要の価格弾力性、上級財と生活必需品などの経済学の基本的な考え方をスムーズに学べてしまうことも著者の熟練した教育的スキルの高さを感じる。

 例えば、クリスマスプレゼントは特別な財ではなく、生活必需品と同じものであること。つまり日々食べている夕食となんらかわらないものであること、さらに寄付金は所得が増えれば増えるほど支出が増加する上級財であること、などが簡単な統計的分析やデータとともに提示されていて、読んでいてまったく飽きない。軽い皮肉も利いている。「地獄への道は善意が敷き詰められている」という実例として、やさしいおばあちゃんとしつけのいい孫の話がでてくる。やさしいおばあちゃんは普段会わない孫にプレゼントする。喜んでもらえると思って。ところが孫の趣味にまったく合わない。そういえば僕も昔経験した。田舎の祖父が手編みのセーターを贈ってくれたことがある。高校生のときだ。母親(その祖母の娘)は「とてもあたたかそうじゃない!”」と喜んでいた。しかしこの母親ももちろん祖母も、孫(僕)がこんなごわごわしたださい(死語)セーターを外にきてけるわけがない、とがっくりきていたのを知らない。しかししつけがいいかは別にして、彼(孫)は外には着ていかず、部屋の中で着ることにした。その祖母の娘はその子どものセーター姿(家の中だけ)をみて、「あたたかくてにあってる」と嬉しそうにみつめたっけ!w

 そんな思い出のひとつやふたつ、贈り物に関してみんな持っているだろう。そういう個人的な思い出を経済学の視線からみるとどうなるか、この本は自分で身の回りの出来事を考えるヒントにもなる。いまの祖母を政府、孫を国民にしたりすればいろんな応用が可能だ。ただ本書ではふれられていないが、クリスマスのプレゼントやそのほかのさまざまな贈り物が、ネットオークションや質屋で転売される可能性も考慮すれば(実はこのケースを考えるヒントも本書にはちゃんと書かれてはいる)日本のクリスマスプレゼントへの興味深い考察が追加されたかもしれない。

 この薄くて1時間もかけずに読める著作には、経済学のエッセンスが濃縮して詰まっている。

 ただ注意が必要だ。本書には深刻な例外がある。この本を贈られた人(例えば僕)はこのプレゼントをとても気に入るだろうから。

プレゼントの経済学―なぜ、あげた額よりもらう額は少なく感じるのか?

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