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2010-03-20

[]猪瀬直樹ブログから非実在青少年問題について 猪瀬直樹ブログから非実在青少年問題についてを含むブックマーク

http://bit.ly/9sygkG

非実在青少年」はマンガのキャラクターのことである。小学生をレイブするなど相当ひどいものがあるのは事実だが、年齢の部分は「18歳未満」だと過度な行政の介入と誤解を招きやすい。

 13歳の少女とは合意のうえでも性交すると罰せられる。14歳の場合にはレイプであれば罰せられるが合意のうえでは罰せられない。こういう境目が法令にはこまかくあるので、13歳とか義務教育年齢の15歳とか、そのあたりに児童ポルノのキャラも線を引いたほうがすっきりするかもしれない。

 個人的な雑感だが、規制反対派の根拠の乏しい反論と、「表現の自由は無限」とでもいう論法、ただの戦闘的アジテーション、個人だけをターゲットにした魔女狩り、協議会などの一次資料さえもみないその低レベルな議論などなどには、正直辟易した。しかも全面的な規制反対以外に少しでも異論がでると、異分子扱いで叩きまくるその心性にもげんなりである。それが今回の非実在青少年問題についての一番の感想である。あとまことしやかな陰謀論とかが妙に人気をもったり、安っぽい反権力だとか、ファッシズムの押し売りだとか、あるいはただの脅迫まがいのおどしとか、そういうのをTwitterで随分経験させてもらった。もちろんその数倍もの好意的あるいは興味をもっていただいた人もいるのも事実だ。そういう「財産」は今後も大切にしたいが、どう考えてもこの不快感は払しょくできない。直接、猪瀬さんの意見とは関係ないが、「継続審議」をうけて、さらにいま書いたような単純な全否定の「戦術論」が随所で語られているのでアホらしくなっているのであえて書いた。

[]アリストテレスの需要(クレイア)の経済アリストテレスの需要(クレイア)の経済学を含むブックマーク

 今日の日本経済思想史研究会のレジュメの一部分(未完成)。ご笑覧下さい。

福田徳三とアリストテレス

福田徳三の息子福田了三は父親の死後、改造社経済学全集『経済学原理』(流通篇上巻)に序言を寄せている。その中で了三は、福田がフランスからの帰国後、アリストテレスの研究に没頭したこと、その研究は彼の経済学体系を表すはずだった『経済学原理』流通篇の改定のためであったと述べている。

 この了三の発言は、福田の弟子であった上田辰之助がやはり同趣旨のことを述べていることからも正しいものだろう。残念ながら、福田は1930年に持病の糖尿病によって慶応病院において死亡してしまい、アリストテレス研究の成果を十分に『経済学原理』の中に反映することなく終ってしまった。

 今回の報告では、この福田の最後の境地ーアリストテレス研究を基礎とした彼の経済学体系の方向性を確認してみたい。

 なおすでに報告者は、福田の経済学体系についていくつかの論説をまとめてきた。今回の報告でもそれらを利用して、福田の最後の経済学―需要(クレア)の経済学―を素描していく。

1 アリストテレスの流通の正義

 福田の晩年の経済学の立場は、『厚生経済研究』(上下巻、1930年)、『唯物史観経済史出立点の再吟味』(1930年)、そして『経済学原理』流通篇の特に第1章、2章に表れている。特にアリストテレスの解釈は、『厚生経済研究』に収録された「「アリストテレースの『流通の正義』」、「厚生原理としての流通の正義」、「余剰の生産・交換・分配―資本主義社会に於ける共産原則の展開」に展開されている。

 「アリストテレースの『流通の正義』」

 アリストテレス『ニコマコス倫理学』における私人間の任意的取引に関わる正義の問題=流通の正義を考察する。文献的研究が中心。カール・マルクスの『資本論』におけるアリストテレス解釈批判、河上肇の批判。

特にマルクスアリストテレス解釈を批判することで、マルクスらの経済観(配分の正義)と対立する資本主義経済観を流通の正義として提示することが福田の目的。

マルクス:配分の正義 VS 福田:流通の正義

 配分の正義:「配分の正義」は、公共的なものであり、経済的意義は流通・交換の上にあるのではなく、公納・貢献・公租の公経済的配分にかかわるもの。公共的な価値に応じてその配分量が決まる。共産原則のスローガン「各人からは其の能力に応じて、各人へは其の需要(欲望、必要)に応じて」を示す。必要(需要、欲望)に応じての配分を幾何的比例と名付ける。共産主義社会は幾何的比例という配分の正義に基づく社会。

 マルクスアリストテレス解釈(以下はマルクスの例示に必ずしも従わない):『ニコマコス倫理学』第5巻第5章が中心

 アリストテレスは何足の靴が一軒の家に等しく、あるいは一定量の食糧品と等しくなるには、これらの価値関係を成立させる同一単位で測るべきものが必要。ところがアリストテレスはそれを一定量の貨幣として算術的比例計算を採用した(つまり5足の靴が一定量の貨幣と等しく、その一定量の貨幣が一軒の家に等しいゆえに、5足の靴と一軒の家の等価が成立している等)。マルクスアリストテレスがこのような算術的比例で価値関係を補足したのは、彼の所属する都市国家(ポリス)が奴隷制度に依存していて、単一で平等な人間労働という観念を所持していなかったがため。

 マルクスアリストテレスは流通の正義(要するに資本主義経済のメカニズム)を人間労働一般という見地を採用できないがためにとらえていない。流通の正義は、単一で平等な人間労働一般に還元されることで計算可能な算術的比例関係に基づく。いいかえるとマルクスは資本主義経済のメカニズムを算術的比例関係に基づくものと理解した。

 対して、福田のマルクス批判は、アリストテレスの流通の正義は、マルクスのような算術的比例関係として把握されるべきではなく、幾何的比例関係に基づいていることを明らかにすることにあった。幾何的比例関係は、配分の正義と同じ原理。流通の正義、すなわち資本主義経済の原理にも配分の正義と同じ、幾何的比例関係=共産原則が一本の赤い糸のように織り込まれている、というのが福田の着眼点。

マルクス:資本主義経済共産主義社会 :流通の正義(算術的比例)から配分の正義(幾何的比例)の展開

福田:資本主義経済→より高度な資本主義経済:流通の正義の展開(幾何的比例の高度な自己展開)

マルクスー配分の正義―幾何的比例 vs 福田―流通の正義―幾何的比例

福田のアリストテレス解釈

 「アリストテレースが、其倫理学第五編中に、正義を分つて、広義の正義、狭義の正義とし、二者共に正しき中間を守ることによつて得られることを説き、狭義の正義を更らに、配分の正義と、匡正の正義の二つとしたことは、人の周く知るところである。此事は、今私が当面の問題とすることではない。而してマルクスの評論も、壱も此事に関係して居らぬのである。マルクスの取扱つて居るところ、而して、私が今問題とするところは、狭義の正義の中、「流通の正義」についてのアリストテレースの所論これである」(『厚生経済研究』16-17頁)。

匡正の正義‥‥私人間の経済・社会行動(貸与、窃盗など)にかかわる正義で、その原理が算術的比例に基づくもの。

福田の流通の正義‥‥私人間の経済行動のうち特に売買関係に注目。

広義の正義はとりあえず話題の外。狭義の正義(広義の正義=共同体における徳の全体ではなく、「その一部分である利益と損失との配分における中庸、即ち正しき比率の遵守としての正義」(48頁)が研究対象)の範囲でみると、正義=均等、不正義=不均等 になる。「而してアリストテレースの正議論の要点は、実に茲に存すると思ふ」(40頁)。

福田のアリストテレスの正義論の要点:均等=正義、不均等=不正義

この均等・不均等を、幾何的比例でみるのが配分の正義と流通の正義。均等・不均等を算術的比例でみるのが匡正の正義。

アリストテレースの匡正の原理といふのは、算術的比例の原理の上に立ち、配分の正義といふのは幾何的比例の原理の上に立つと云ふのが、其根本主張」(福田「厚生原理としての流通の正義」、329頁)。流通の正義は配分の正義と同じように幾何的比例の法則による。

 では、なぜ流通の正義は幾何的比例なのだろうか?

マルクスの算術比例式を成立させている「共通の実体」は人間労働。しかしアリストテレスでは幾何的比例式=交換=流通を成立させているのは貨幣の尺度としての機能。

福田のアリストテレスの引用。

「かく、貨幣は一の尺度として働いて、すべての財を通約的ならしめ、而して、すべての財を均等ならしめるものである。蓋し、交換が行はれなければ、流通は成立たず、均等がなければ、交換は行われず、通約性が成立たなければ、均等は行われないからである」(128頁).

さらに貨幣は単に尺度であり、その評価単位の実体は「需要」(クレイア、ギリシャ語で「必要不可欠」を意味する)である。貨幣は需要の代表物でしかない。

 ここでいう「需要」(クレイア)というのは、共産原則にある各人からは其の能力に応じて、各人へは其の需要(欲望、必要)に応じて」の「需要」と同じ。

 いいかえると「需要」(クレイア)があるからこそ、貨幣で表象された売買関係が成立している。資本主義経済の市場での取引には、「需要」(クレイア)が前提されている。

2 需要(クレイア、利用)の経済

 論文「余剰の生産・交換・分配」

アリストテレースの「流通の正義」」よりも簡潔なもの。

経済学の対立として費用原則(算術的比例)と利用原則(幾何的比例)をあげる。ギリシャアリストテレス経済学は利用の経済学。これが後代の解釈で利用原則が費用原則に読み替えられてしまう。そしてスミスからマルクスまでの労働価値論の淵源がアリストテレスに求められた。しかもマルクスアリストテレスの費用原則をさらに徹底して、「労働原則としての費用原則は、明らかに利用原則と対立するものなることが、茲に明らかにされた。併し其れと同時に、マルクスは、其信条たる共産原則の実現を遥に遠い将来へ押しやった」(142頁)。

福田は、アリストテレスの引用を行う。

「流通社会の任意的取引流通にあつては、報復は人と人とを結び付ける連帯である。即ち、それは一の比例に基づく報復であつて、均等の報酬に基づく報復ではない。何となれば、一のポリス(国家、社会)を結束するものは、比例的報酬の原則であるから…‥(略)医者と医者との間には流通は起こらぬ。医者と農夫との間には流通は起こる。一般に流通は相均しき者の間には起こらず、互に相異なる者同士の間に行はれる。何となれば、相異なる者たちこそ、均等に持ち来たされることを要するものであるから。これ即ち、交換されるものは、すべて、何等かの方法に於いて、通約的でなければならぬ所以である。‥‥すべての財貨は、何かある一物によってはかられるのでなければならぬ。此の評価の単位は真実に於いては、需要である。需要は、すべての物を結び付ける。(何となれば人々が、相互に、他人のものを要すること全くこれなく、若しくは、均等に、相互のものを、要することがないならば、交換は全く成立たないか、若しくは、相互同等の交換は成立たないであろうから)。しかしながら貨幣は(唯だ)便宜上設定せられた一種の需要代表物である(略)貨幣は、一の尺度として働いて、すべての財を通約的ならしめ、而して、すべての財を均等ならしめるのである。蓋し、交換が行はれなければ、流通は成立たず、均等がなければ、交換が行われず、通約性がなければ均等は行われないからである。さて、真実において、かく多くの相異なる諸物が、通約的となることは、不可能なことである。しかしながら、需要の立場から見れば、相応に可能である」(143-4頁)。

以上から流通行為は、比例報酬の原則のもとにおこなわれること、それを福田は、共産原則(「各人からは其の能力に応じて、各人へは其の需要(欲望)に応じて」)である、と指摘する。

「『人々が、相互に、他人のものを要すること全くこれなく、若しくは、均等に、相互のものを、要することがないならば、交換は全く成立たないか、若しくは、相互同等の交換は成立たない』というところの比例的報酬の原則は費用原則ではない。所謂交換原則でもない。其れは共産原則の最も早い、而かも或意味に於いては、甚だ徹底している言い現はしではくて、何であろうか。単なる均等報酬の原則とアリストテレースの名くるもの、其れは即ち費用原則であり、所謂交換原則であって、ア氏は明らかに、其の比例的報酬の原則を、之れと対抗せしめているのである。匡正の正義と配分の正義とを対立せしめ、前者は算術的比例に従い、後者は幾何的比例に従うとし、流通の正義も亦た幾何的比例に従ふものだとしたのは、更に此の対抗を明瞭ならしめたものである。費用原則は、匡正の正義に属し、算術的比例に従う。共産原則は、流通の正義に属し、幾何的比例に従う。流通の正義は、単なる利用原則を認めるものではない。其れは共産原則の展開を許容するものである」。

 費用原則(算術的比例)を典型的に示したのは、福田の時代の正統派経済学であった。それは福田にあっては以下のように要約されていた。

「正統派経済学は、自由競争の完全に行われる社会を前提とする。しかして、その前提のもとにおいて、労働の自由の完全なる実現を主張する。アダム・スミスが、ギルドを攻撃し、株式会社を非難し、あらゆる労働団結を否認したのは、それらを労働の自由の実現をさまたぐるものとみたからである。これらの人為的制限の存在せざる「自然的自由社会」においては、「各人よりは、その能力に応じて」なる原則は、単なる要求たるに止まらず、端的現実の事実となると主張したのである」。

「なんとなれば、この社会においては、(1)各生産物に対しては、ただ一つの価格のみが成立、(2)その価格は生産費と一致する、(3)各生産要因に対してもまたただ一つの価格のみが成り立つ。そして、一方においては、すべての有効需要--価格を支払いうる需要--はかならず充たされ、他方においては、また、すべての生産給付は、ことごとく所要せられるように、生産は嚮導せられるいわゆる「費用原則」に支配せられ、かくて、需要=供給、供給=需要、価格=費用、費用=価格という均衡が成立するものであるから」。

「したがって、資本についても、土地についても労働についても、供給=需要であり、需要=供給であらねばならぬ。各人はその適能する労働をかならず見出し、その労働の供給はかならず需要によって迎えられる。需要せられざる供給なるものはなく、供給せられざる需要なるものは存しえない。両者のあいだには、厳として紊(みだ)すを得ざる自然的均衡が存在するというのである」。

 このとき費用原則に立つ経済学では長期的な失業は存在しない。対して、福田は資料2でみたように、労使間の雇用契約の瑕疵によって長期的な失業が存在する。

 前者の費用の経済学では市場が調整することで共産原則が自然と成立してしまうかに思える。しかし現実は違う、と福田は考えた。現実の資本主義経済では市場をそのまま野放しにしておくことは、失業や労働者を極端な貧困の状況においたり、また経済的弱者を見殺しにしてしまうだろう。そのとき費用の経済学に代わるものとして、政府の介入を前提にした経済学―需要(クレア、利用)の経済学が要求される。

 需要(クレイア)の経済学とは、資料2でみたように、1)生存権を保障する、2)労使間の対等な交渉を可能にする、3)政府の介入を前提にした上で市場のメカニズムを信頼する、という特徴をもっていた。つまりクレアの経済学とは、単なる経済現象の記述にとどまらず、現実の市場システムを改良し、より高度の資本主義へと変容していくテクノロジーとして、福田はとらえていた。

 この高度な資本主義へのテクノロジーについては資料3を参照。

福田は論文「厚生原理としての流通の正義」の中で、ソ連は配分の正義で流通の正義を支配する世界であるとし、福田の目指すのは流通の正義に厚生の原理を求める世界観であると対比している。その世界観を体現し、また実現するためのテクノロジーが、需要(クレイア)の経済学であった。

未完