傑作まどマギ同人誌『隣の家の魔法少女』

 ネタばれ注意!未読の方は、どこかで本作を御一読されてから、この記事を読むことをオススメします。

 この記事は、「グロい」「鬱な」同人誌として悪名高い『隣の家の魔法少女』の評価を、わずかばかり向上させる事を目的として書いた、所謂プロパガンダ記事であります。
 確かに、ネットで言われているように、本作がグロくて鬱なことに間違いはありません。そこは認めます。そもそも、18禁同人誌でもなかなかお目にかかれないくらいに尖った作品ですしね。好き嫌いが大きく分かれるのもいたしたないでしょう。
 ですが、本作がその二言"だけ"で片付けられてしまっているような現状は何かヘンですし、なによりも、もったいないです。本作には、他にも多くの語りどころがあり、その深さは原作に勝るとも劣らないものがあると思いますから。
 
 以下本題、ネタばれ注意です。

・はじめに
 『隣の家の魔法少女』は、同人サークル蛸壺屋が2011年に発表した、人気アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』の成人向け同人誌である。


・これまでの個人的な流れ
 本作の発表直後、小説『隣の家の少女』を模した表紙とタイトルに一本釣りされ、こわいものみたさで読んだ。すると意外にも熱い感動作で滅茶苦茶びびり、いまでは生涯ベスト級に好きな作品になった。
 しかし、ネットでは「グロイ」「欝なだけ」と不評。これまで蛸壺屋に対し好意的だったかたがたも、本作には首をひねっている様子。
 ずっとそんな状況を傍観していたが、3年近くたっても自分の感動を代弁するようなレビューが現われないから、自分で記事を書くことにした。

蛸壺屋
 ベテランサークル。けいおん三部作で一気に知名度を増す。鬱で有名。アンチ多し。
 萌え作品に「現実の闇」をガンガンぶち込む悪意のある作風と、「自分にとって魅力的な物語」をあくまで追求する、創作への真摯さ(ガチンコっぷり)が特徴。
 私はまだ最近の作品しか読めていないが、その中では「隣の家の魔法少女」「けいおん三部作」「俺妹本」が好き。
 まどマギ脚本家の虚淵玄田中ロミオと似たタイプの作家だと個人的に思う。

・全体構成
 基本的に原作tv版10^12話をリメイクしたような内容の物語。主役はほむら。4幕構成(私の数えるところ)。
 特異な部分が多々ある。作品の大部分を「隣の家の少女」「バニシェフスキー事件」「女子高生コンクリート詰め事件」を模したまどかへの虐待描写がしめ、序盤と終盤に数ページずつ、tv版10~12話をなぞる展開がはさみこまれている。

・あらすじ<1幕目>
 ワルプルギスの夜によって世界が破滅。ほむらが魔法少女化、時間を巻き戻す。<2幕目>
 巻き戻した世界では、まどかが和子先生から執拗な虐待を受けている。ほむらは傍観。虐待がどんどんエスカレートしていく。それと並行しほむらが変な行動を取りはじめ、最後にはまどかを溺死させる。まどかを地獄に叩き込んだ犯人が、ほむらであったことが明かされる。<3幕目>
 ほむら、まどかを救うために時間を巻き戻して戦う。tv版の流れに戻る。何度繰り返しても、ワルプルに勝てない。まどかが魔法少女化し、世界が改変される。<4幕目>
 魔女が消え、マジュウとの戦いへ。世界が滅びるまで戦い続け、マジュウとの最終決戦に挑むほむらに、天からまどかが声をかける。エネルギー回収の任務を終え、地球を離れるきゅうべえが、2人に敬意をしめす。

・第二幕の(表面的な)元ネタ
 1、「隣の家の少女」ジャックケッチャム(1986)
 バニシェフスキー事件を下敷きにした作品。最大の特徴は、事件を傍観する少年の一人称視点で書かれた物語であること。少年は事態の異常さに気付きながらも、被害者少女へ救いの手を差し伸べることができず、事態は最悪の結末を迎える。そんな立場の少年目線で事件の一切を体験させられてしまうため、読者はまるで自分が罪を犯してしまったような、実にいやーな気分になる。

 2、「バニシェフスキー事件」
 1965年にアメリインディアナ州で起きた殺人事件。事件を担当した検察官は、「インディアナ州の犯罪史上で最も恐ろしい事件」と評したとされる。『隣の家の少女』の元ネタ。
 小説との大きな違いは、①セックスの有無(実際の事件では、セックスが一度も行われない)②刺青の文字(「バニシェフスキー事件」では「I'm a prostitute and proud of it」だったところが「隣の家の少女」では「I FUCK ,fuck me」と改変されている。)

 3、「女子高生コンクリート詰め事件」1988
 詳細を知りたい方はwiki等でどうぞ。自分が知る限り、1人の少女に降り掛かった事件としては最も凄惨だと思う。
 
 このあたりの部分(まどかへの虐待描写)に関して最も重要なポイントがあるとすれば、それは「隣の家の少女」のパロディにはなっていない、という点だろう。本作『隣の家の魔法少女』は、小説『隣の家の少女』のあからさまなパロディ同人誌という体裁をとっているが、その内実はかなり違うのだ。はじめて本作を読んだ時に最も驚かされたのが、この点だった。
 本作では、セックスが一度も行われないし、まどかの腹部になされる刺青は「I'm a prostitute and proud of it」となっている。これは『隣の家の少女』ではなく、先述した実際の事件である『バニシェフスキー事件』からの引用である。そして、まどかへの虐待描写のディティールの中には、明らかに『女子高生コンクリート詰め事件』で被害者少女になされたものが含まれている。
 作者は、あくまで「現実の闇」を引用する事に、こだわっている。これが何を意図してのものであるかは、後述する。
 
 ・第二幕の(本質的部分の)元ネタ 
 本作の虐待描写部分が、『隣の家の少女』のパロディに見せかけた、日米の実際の事件の引用だった、ということを先述した。
 しかし、それはあくまで表面的ディティールにおいて、だ。
 私は、それよりも重要な元ネタが実はあるのではないかと思っている。ここから先は完全に個人的な深読みというか、勘ぐりである。

 作者が虐待部分を描くにあたってまずはじめに着想元としたのは、映画評論家の町山智浩による、映画『ダークナイト』の解説なのではないだろうか。
 
 その内容を以下にかんたんに。

 ジョーカーというキャラクターの源泉には、「失楽園」のサタン(=悪魔)の存在がある。
 金、女、名声等をまったく求めないのに犯罪を繰り返すジョーカーの行動原理が、キリスト教的文化背景を持たない日本人にはわかりづらい。「失楽園」を読むとその動機がわかる。
 「失楽園」で神に戦いを挑み敗れたサタンは、神が自身の分身として作り上げ愛している人間を誘惑する。蛇に化け、りんごを食わせる(原罪)。
 ジョーカーのやっていることも同じ。人間を誘惑する。人間が信じている正義、倫理を突き崩し、悪へと堕落させようとする。人間の本質が善でなく悪であることを証明しようとする。(人間を悪に誘う存在=悪魔)
ジョーカーとサタンは、これを通じて「神という絶対者」へ反乱しているのだ。俺たちは神の被造物ではない。俺たちは神の定めた道徳、倫理、その全てから自由であり、どんな罪だって犯すことが出来るのだ、と。
 キリスト教的文化のない日本の作家で、例外的にこのような価値観をもっていたのが石原慎太郎だと町山はいう。それが一番顕著に出ている作品が「完全なる遊戯」だ。
 「完全なる遊戯」のあらすじ。知恵遅れの清純な少女をチンピラたちが誘拐、監禁、輪姦する。それでも少女は全然へこたれず、善きままでありつづける。チンピラたちは少女を崖から突き落として殺してしまう。終わり。
 何故殺した?それは、「彼女の善性が恐ろしかったから」だ。チンピラたちは、人間に生まれつき備わった(神から与えられた)善性など存在せず、自由なのだと信じたい。なのに、少女は、人間には生まれつき善性が備わっていることを証明するかのような存在でありつづける。それがチンピラたちには恐ろしかったのだ。そしてその恐怖が臨界に達し、とうとう殺してしまった。

 この一連の町山解説から、着想を得たんじゃなかろうかと考える。まどかの善性を試すほむらは「ダークナイト」のジョーカー(=悪魔)。清純な少女を監禁・暴行し、どうなるかを試してみるというのは「完全なる遊戯」。善性に恐怖を抱き、最終的に主人公が少女を殺してしまうというラストも、「完全なる遊戯」と符合する。
 
 余談だが、なぜ『完全なる遊戯』単体ではなく「町山の解説」が元ネタだと思うのか、その理由を一応書いておきたい。 
 それは、『完全なる遊戯』からキリスト教的善悪の対決を読み取っている町山氏の解釈が、かなりユニークなものだからだ。にわか知識のため少し不安ではあるが、私は、そのように『完全なる遊戯』を解釈している論者を、他にしらない(いたらぜひ教えてください)。一般的な解釈は、倫理観・道徳感なき若者の凶行を描いた小説、ということになるのではないかと思う(少なくとも江藤淳や三島はそのように解釈している)。

 話をもどそう。作者が町山解釈による『完全なる遊戯』を使い何を描こうとしたか――それは、原作よりもはるかに壮絶な、ほむらという1人の少女の成長物語である。

・ほむらの物語
 強いコンプレックスを抱えた人物に改変されている。(元のほむらもそういう要素をもっていたが、それがより強く描かれる)

 「私にとっての苦痛とは身を切られるような劣等感 生来の病弱・弱気、人と同じことが出来ない自分」「私はそれに襲われるたび、自殺かあるいは世界の破滅の妄想を繰り返していた」(台詞は本作から引用したもの。以下、全ての台詞は同じく引用。)

 しかし、いざ死が近づくと、戦おうとするまどかを残して逃げ出す。
 そこにきゅうべえが問いかける。何で逃げるんだい?死にたかったんじゃないの?

 「そんなの当たり前じゃない!」「私はあの人たちと違ってフツーの人間なのよ!!」「それに・・・鹿目さんは家族が仲良くて友達もいて、守りたいものがたくさんあるから戦ってるんでしょ」「だれもお見舞いに来ない、友達もいない私とは違うよ」
 内心まどかを馬鹿にしている。
 「小柄でおとなしい」「特にとりえも無く平凡で目立たない娘」「私がクラスで仲間はずれにされても鈍いのか1人だけ態度が変わらなかった変な娘」「戦うなんてことは一番似合わない」
 ここでちょっと余談。本作では、ワルプルギスの夜が台風ではなく明確にラスボスとして改変されている。これにより原作の粗の一つ(台風ならば、まどかを連れて避難すれば良いじゃん)が解消されているのが面白い。

 きゅうべえがカミングアウトする。ワルプルには絶対勝てないし、敗北した時点で地球は滅ぶと。それを聞いたほむらは、何故か魔法少女になりたがる。ほむらの魔法で時間が巻き戻る。

 巻き戻った世界では、まどかを取り巻く環境が激変している。危うい家庭環境、友達ガラ悪い、頭はばか、運動神経もにぶい(全部ほむらよりもちょっと下というのがポイント)
 とうとう和子先生にあずけられてしまう。ここから虐待がスタート。

 虐待を傍観しながらヘンな行動をとるほむら。まどかに、「約束してきゅうべえと契約しないって」「きゅうべえより私を信じるって」とせまる。なのに、きゅうべえに「契約するように言って、今なら我慢できずにするはずよ」なんて言ったりする。とうとう最後には、まどかを溺れさせ、殺す。ここで、まどかを地獄に叩き込んだ犯人がほむらであった事が明かされる。

 ほむらは何故こんな犯行に及んだのだろうか。以下は、私の個人的解釈である。
 第一幕目、自分よりも格下の存在と見くびっていたまどかが、ワルプルなんて途方もない怪物に立ち向かったという事実が、ほむらの心をいたく傷つけた。彼女の持つ強いコンプレックスを刺激されたのだろうと思う。
きゅうべえに対する台詞からも明らかなように、それからほむらはこんな風に考えた。まどかにはたくさんの友達としあわせな家族、つまりは守るものがあるから戦えるのだ。私はそういうものを何ひとつもっていないから、逃げ出すのも仕様がない、と。
 ナイスタイミングできゅうべえが世界の破滅をカミングアウトしたこともあいまって、ほむらはひとつの「遊戯」を思いつく。
 「まどかをひどい目に合わせてみたい。自分よりも、もっと過酷な境遇に置いてみたい。まどかが私と同じように弱い人間だと証明したい」
 ほむらが魔法少女化するさいに何を願ったのかは明かされないが、それはたぶんこんなところだろう。
 そして第二幕目、虐待がエスカレートしていく中で、ほむらはまどかと約束を取り交わす。「きゅうべえが契約をもちかけてくるだろうが絶対に応じてはいけない。私だけを信じて」と。
 どこまでまどかがこの過酷な状況に耐え続けることができるのか、彼女の強さを試すのだ。
 ほむらの勝利条件は、まどかがきゅうべえの甘言に負け、契約をとりかわすこと。その条件が満たされれば、私と同じような境遇になれば、まどかだって弱さを見せるに違いない、という仮説を証明できたことになる。
 しかしまどかは一向に契約に応じる気配を見せない。ほむらは、そんなまどかに対して徐々に恐怖を覚えていく。
 自身の命が消える寸前になっても約束を守り続けるまどかに耐え切れなくなったほむらは、彼女をバスタブに沈め、溺死させてしまう。
 まどかは圧倒的強者だった。ほむらは、敗れたのである。

 長々と書いてきたが、以下の台詞を読めばだいたいわかってもらえるだろう。

 「私は、人類がワルプルギスの夜を迎える前に、ひとつだけ知っておきたかっただけなんだ」「私のたった一人の友達、まどかも私と同じようにつらくなったら逃げ耐えられなくなったら約束も反故ににするってことを」「なのになんで」

 きゅうべえ「彼女に、君との約束を破りマミやさやか達を危険にさらすなんて、そもそも選択肢に出なかったんじゃないかな」

 「なによそれ、それじゃ私だけが馬鹿みたいじゃない」
「馬鹿じゃないよ、君はただフツーの人なんだよ」

 この「フツー」は、いじめ加害者でありながら罪の自覚がまったくないとか、さんざん周囲に迷惑かけてきた不良が「いつまでもハンパやってられねぇからさ」なんて言ってしれっと就職するみたいなニュアンスだろうか。

 地面に突っ伏して泣くほむら。たぶんここは『罪と罰』の名シーン(大地に接吻して詫びなさい!)の引用だろう。

 ジョーカーほむらは、ここではっきりと自身の敗北を悟り、「回心」する。キリストに出会い生まれ変わったパウロのように。私が間違っていた。私もまどかのように生きるのだと。まどかという圧倒的に善なる存在の、その突き抜けたカリスマに感化されたのだ。そして時間を再び巻き戻し、まどかを救おうとするのだが、ここできゅうべえがかける言葉が非常に重い。

 「時間を巻き戻すつもりかい」「いろんな人のこの数ヶ月を全て無かったことにするつもりかい」「まどかが味わった想像を絶する苦痛も苦悩も、全部無かったことで済ますのかい」「きみにそんなことをする資格があるのかい」

 しかし他に取れる手段はない。全ての罪を背負い、ほむらは時間を巻き戻す。ここからTV版と同じストーリーが展開していくが、大きく違う点が一つある。
 ほむらの「戦わなければいけない理由」が、これ以上ないほどの強さで付与されているという点だ。この人のようになりたいという「憧れ」と、その憧れの存在を自分自身が仕組んでしまった地獄から救わなければいけないという「贖罪」である。TV版の最大の弱点である、ほむらの動機付けの弱さ(単なるレズとしか思えない)が完全に解消されている。

 承知の通り、最終的にはまどかがアルティメット化して世界が書き換えられる。
 改変後の世界でも、ほむらはずっと戦い続ける。tv版では「彼女の意思を継いで」がその動機であった。本作にもその要素はもちろんあるものの、それ以上の動機がある。贖罪だ。ほむらにとっては、まどかが救った世界を守りつづけること=懺悔なのだ。
 とうとう地球が滅ぶまで戦い続けたほむらは、デビルマンみたいに翼を展開して最終決戦にいどむ(TV版ラストと同じ)。そこに、「がんばってね」とまどかが声をかける。
 
 TV版ではそれを聞いたほむらは微笑みをうかべる。目元は見えない。それが本作では文字通り「号泣」するのだ。とても感動的で切ないワンカットだと思う。
 かつて生き地獄にたたきこんでしまった。そして、私もこんな風になりたいと憧れた。彼女の意思を守るため、自身の罪をあがなうために、はてしない長き戦いにたえてきた。そんな相手からの激励である。このときのほむらの心境を想像すると、胸が締め付けられる思いがする。
 
 この後がまた泣けるんだ。最終ページで、エネルギー回収の任務を終えて地球をはなれるきゅうべえが、彼女”達”に敬意をしめすのだ。オマエら、凄かったぜと。あのきゅうべえが!
 この意味はでかい。原作TV版のラスト付近、改変後の世界で、ほむらがきゅうべえにまどかの話をする場面があったことを憶えているだろうか。ほむらの説明を聞いたきゅうべえは、「でもそれって君の妄想なんじゃない?」と冷たく言い放っていた。確かに、世界中でまどかを記憶しているのがほむらただ1人である以上、それは個人の妄想と区別がつかない。(ラストで、「これまでの物語がほむらの夢かもしれない」という可能性が語られる。このことからも明らかなように、原作は実は、ベタなハッピーエンドではなく、映画『トータルリコール』的な含みをもたせたエンドになっている。この意地悪さが実に虚淵らしい)
 しかし、本作のほむらは、徹底的に戦い抜いてみせた。きゅうべえにまどかの実在を信じさせ、敬意を抱かせるほどに。
 ここに描かれているのは、ささやかで、尊い、一種の勝利である。
 
 私ははまどマギ(原作のほうね)が大好きだし、10年に1本の傑作アニメと考えている。だが、「物語の切実さ」という点では『隣の家の魔法少女』のほうがはっきり勝っていると思う。

蛸壺屋が本作でやろうとしたことの推測
 「アニメのシナリオの骨子が、鬱屈からのカタルシス、すなわちしゃがみからのジャンプなワケですが、果たしてまどかのしゃがみでジャンヌダルククレオパトラに届くだろうか、というとちょっとカルマが足りていない気もしました。そこでもう少し高く飛べるようにしゃがみを大きくしてみたのが、この作品です。」あとがきから引用。

 TV版の設定を確認。魔法少女の強さは、本人が背負った因果、業に比例する。普通の少女であるまどかが世界を書き換えられたのは、ほむらが頑張ることで因果がまどかに集中したから。では、何故ほむらはあんなに頑張ることができたのか。そこがTV版の弱い部分だった。
 それを解消するために、ほむらに途方もない業を背負わせた。そして、ジャンヌやアンネ――歴史上非業の死をとげた少女――を上回る悲劇をまどかにあたえるべく、日米の少女にふりかかった最悪の事件を題材として選択した。
 ちなみにこの時期、3.11とその余波によって現実世界が大混乱している真っ最中である。そんななか、「コレ」を作り上げたのだ。
 ここまで物語性を突き詰めることの出来る作家は、そうそういるものではない。作家としての真摯さと業の深さに、私は敬意と、それから恐怖を感ずる。