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2013-08-28

理不尽な暴力に負けるな、ヒッキー

最近、宇多田ヒカルのファンになった
 4月にInterFM 76.1MHzで始まった「KUMA POWER HOUR with Utada Hikaru」を聴いてから、好きになった。彼女の歌はあまり聴いた事がないのだが(すまん)。
 月に1回しか放送がないけど、素敵な番組だ。僕は最近の歌、踊れる歌はほとんど聴かないので、宇多田ヒカルの案内で聴くそうした歌が新鮮だ。
 あと、この番組の直前にやっている「Soul Searchin’ Radio」も素晴らしい。この二つの番組を連続して聴ける、第三火曜日の夜は最高に嬉しい。
 個人的なことだが、第三火曜日の夜は埼玉から車で帰る途中で、暗い首都高をソウルに乗って飛ばしてくると、池尻大橋の蝸牛ジャンクションでしばしば渋滞にひっかかる。この辺で22時がすぎ、番組がソウル・サーチン・レディオからクマ・パワー・アワーになる。吉岡正晴さんのベルベットボイスから、ヒッキーの少し寂しげなDJに替わり、ちっとも動かない車列の中でじっくりとヒッキーの喋りを聴いている。ちなみに首都高山手通りトンネルから大橋ジャンクションの中はFM電波が入らないので携帯電話のradiko.jpを使っている。

 クマ・パワー・アワーはまだ4回しか放送されていないのだけど、なんでか偶然、もっとも静かな環境で普段よりかじっくり聴く羽目になり、すっかりヒッキーに魅了された。自分でかけた曲があんまりご機嫌なんで鼻歌でハモッた回なんか、車の中で爆笑したよ。

 僕は不勉強で宇多田ヒカルが歌手としてどれほど偉大か、知らずに番組を聴いているのだが、月にたった1回、1時間にすぎない番組だけど、聴けば彼女が芸術家としていかに偉大か、すぐにわかった。
 喋りのバックには蛙の鳴き声や木の葉擦れ、虫の声などの環境音が挿入されている。他のInterFMの番組が、スタジオから飛んでくるように聞こえるのとは違って、ヒッキーの個人的な空間から直接飛んでくるようなダイレクト感覚リスナーはヒッキーと向かいあっているかのような奇妙な感覚に包まれる(事実、スタジオではなく個人宅で収録しているらしい)。
 選曲は素晴らしい。僕の趣味とは違うが、どの曲も素敵に聞こえる。喋りによるイントロダクションは適切で、曲の背景やヒッキーとの関係、いまこれを聴く意味などが自然にわかる。毎回緩やかなテーマがあり、1時間通して聴くと、ヒッキー選曲によるコンピレションアルバムを聴いたような充実感がある。隅々まで心が配られた、テンションが張りつめた、それでいてしっとりとした手触りの1時間なのである。美しい、芸術的な、宝石のような時間である。このクオリティだからこそ、月にたった1回でも僕は満足なのだ。
 ワグナーの時代、オペラは文学・音楽・絵画・演劇などを融合した総合藝術とされた。僕は、クマ・パワー・アワーは音楽だけでない、エッセイ・ジャーナリズムなどの要素を備えた総合芸術の一種じゃないかと思っている。ラジオには、時々そういう凄い番組があるのだ。


自殺は、残された者を傷つける暴力だ
 そのクマ・パワー・アワー4回めから数日後、ヒッキーのお母さんが死んだ、というニューズが流れた。藤圭子、伝説的な歌手である。しかもマンションからの転落死。自殺だという。
 テレビはどの局も現場にロケチームを派遣し、故人の映像を流し、歌を繰り返し繰り返し流したようだ。ようだというのは僕はテレビを見ないから伝聞だ。僕はテレビよりラジオが好きなのでテレビは見ない。そしてInterFMはほっとんどニューズを流さないしそもそもワイドショーのような番組がないので、この哀しいニューズを繰り返し聴かずにすんだ。

 僕は故人にはあまり思い入れがない。それより気にかかったのはヒッキーのことだ。
 彼女の家族は少人数だと聞いている。少ないメンバーの一人と死別するのは辛いことだ。
 まして、それが、ゆっくりと訪れたものでなく、無理矢理インタラプトされたような、突然の死であれば、なおさら。

 家族や知り合いが自殺すると、残された者は深く傷つく。
 なぜ傷つくかというと、残された側は「私がいるこの世界が厭だったのか?」という無言のメッセージを受け取ってしまうからだ。「私のせいだったのか?」という疑念に捕らわれるからだ。故人から「お前のいる世界には愛想が尽きた、さらばだ!」と最後通牒を突きつけられたような気持ちになるのだ。

 実際は、故人は何も言っていない。ただ黙ったままだ。メッセージを残すこともあるが、たいがいは「身勝手で申し訳ない」という謝罪の言葉のはずだ。責任死ぬ側にある、それは明瞭なのだ。
 だが、なぜか残された側は、ついついいろんなことを考えてしまう。「私には故人のためにできたことがあったかもしれない、それをしなかったから死んだのか」「つまり私のせいなのか?」「私がいるこの世界は生きるに価しない、ということなのか?」「そんなに私のことが嫌いだったのか?」……残された側は、往々にして考えなくてもいいことにまで考えが及んでしまう。時間ばかりがあって、問いかけてもそれを否定してくれる者はいないから、要らざる妄念がわき起こってやまない。

 決定的に拒絶された感じ、一方的に通行を打ち切られ、修復は絶対不可能!と宣告された感じ。お前との関係を永遠に断つ!と言われた感じ。これらの絶望的な断絶感に、残された側は打ちのめされる。

 死んだ人は、ダンマリを決め込むという窮極の攻撃で、残った生者を傷つける。生者がじぶんで勝手に傷ついていくのを黙って見ている。生者にとっては絶対に勝ち目のない戦いだ。これは理不尽すぎる暴力だ。

■その暴力は、意図されたものではない。
 先日父がメールで、親しい人が自殺で亡くなった、と知らせてきた。父にとってはかなり年下の知り合いで、むしろその齢は息子の僕に近かった。
 InterFMではしばしば音楽家の訃報が流れ、故人の音楽が流される。ロック全盛期の音楽家たちが六十代から七十代になっているのでそろそろ亡くなる人もいる。病気で亡くなることが多いが、ときどき、自殺の例を聞く。
 著名人の自殺では、僕はジャック・マイヨールのそれがショックだった。生命の躍動感に溢れたイメージの人だっただけに。だが、それはパブリックイメージであって、彼個人はそんなことと関係なく苦しんでいたのだろう。
 その後僕は三十代の半ばに鬱病を患い、希死念慮に悩まされた。幸い死なずに済んだが、死の誘惑は執拗で、強烈で、まがまがしく甘美なものだった。魅入られなくて本当にラッキーだった。主治医や職場の仲間など大勢の人に助けられた。
 念慮に患わされている間は、残る家族や友人のことはほとんど頭に浮かばない。自分がこの苦境からどうすれば逃げることができるか、ただそれだけを思い悩む。なんでもいいから楽になりたい、とだけ思っているのだ。誰かを恨んでいる余裕は、ない。

 僕は23歳のとき、親しい友人というか先輩を亡くした。大学の一級上の人(留年で同学年になっていたが)が、春の新学期に自殺したのだ。その日の午前中、その年の履修届を提出したのに、午後には下宿近くの駐車場自死したという。
 その人はサルの実験チームにいた。チームといっても指導教官含めて3名くらいの小所帯だ。多くの同級生は動物を使う研究は手間が掛かるので嫌がっていた。僕はネズミの実験をしていた。こっちは指導教官と2人きりだ。サル棟とネズミ棟は隣り合っていた。
 ネズミの清掃は3年生たちが毎週交替でやる。僕は実験の当事者だから毎週参加する。ネズミは小さいので扱いが楽だ。頭も良くないので反抗したりしない。しかしサルは、大きくて頭が良い。世話してくれるヒトを見分ける。僕なんかははなからサルに負けているので、ウンコを投げられたりする。その点、亡くなった彼はサルの扱いが上手かった。上手いというより、誠心誠意お世話いたします、という彼の姿勢を、サルが心許していたのだ。指導教官も舌を巻くほど、彼はサルとうまくやっていた。
 動物実験をやっていると、実験棟に詰めることも多くなり、世間から隔絶した感じになる。浮世離れした同士、なんとなく連帯感があった。研究室遠足で金甲山に行ったときは、帰りのバスの中で話し込んだ。今年は卒業するぞという意気込みが感じられたし、良いパチンコ台・パチンコ店の見分け方、といったくだらない話に花が咲いたりした。その日の彼は明るかった。
 だが、それからあまり日も経たない四月半ば、彼は突然逝った。誰にも断らず、誰にも挨拶せず、黙っていってしまった。
 研究室の面々は、主要メンバーの一人が広い部屋に下宿していたのでそこに集まり、二晩くらい帰らずに寄り添って過ごした。同じように悲しんでいる仲間がすぐそばにいることは、大いに慰めになった。宗教色はなかったけど、これは仲間で彼を送るお通夜のようなものだった。
 検死が済んで彼の体が実家に戻り、葬儀が営まれた。日蓮宗不受不施派の葬儀を初めて目にした。彼は経帷子を着てお棺に入っていたようだが、顔は覆われていたかもしれない。お母さんが彼の名前を叫ぶように呼び、涙を誘った。
 その後研究室の面々は、ふとした瞬間にふさぎ込むことが多くなった。虚無に捕らわれるようだった。一番気の毒だったのは指導教官だ。教え子を失った彼は、どんな気持ちで彼がやっていたサルの世話を続けたのだろう。めっきり白髪が増えていた。
 その時、僕は「私がいるこの世界がそんなに厭だったのか?」と考えてしまったのだ。
 この考えは彼から返事が返ってこない以上、決して対話にはならない。出口のないグルグルのスタートのようなもので、同じところを行ったり来たりしながら、自分の心身を傷つけるだけだ。

 僕が「自殺は残された者への理不尽な暴力だ」と思うのは、このときと、自分が希死念慮に悩まされた経験を振り返って思ったことだ。理不尽、というのは、それが意図されたものではないからで、誰もトクしない、仕掛けた側もそれに気づかない、からだ。
 最大のミスマッチは、残された側は「私がいるこの世界が厭だったのか?」と思ってしまうことと、逝った側がそんなことまったく思ってもいない、露ほどの関心もなかった、ということだ。そんな意図などまったくないのだ。なのに、残った側は苦しみ続ける。
 この皮肉構造は、ほとんどの自殺がそうだろうと僕は思う。
 ごく稀に、誰かに当て付けるため、復讐のために自ら死を選ぶ人がいるかもしれない。そうした復讐はだいたい失敗に終わる。死を以て復讐したいほどの相手は、たいがい、誰に死なれても何とも思わないからだ。相変わらず枕を高くして寝ている。
 むしろ傷つくのは、死者に哀悼を捧げる人、死者のことを思っている人、ときどき思い出すほど情が深い人だ。死者に同情的な人ほど、自死によって傷つけられる。こんな理不尽なことがあろうか。

 僕は、自分の乏しい経験ではあるが、一所懸命考えて一つの結論に達した。
 自ら死んだ人のことは悼むべし。ただし、思い煩うことなかれ。彼らはエゴを貫いて死んだのだから、必要以上に彼らの死に責任を感じてはいけない。往々の場合、残された者にその死の責任はない。むしろ、突然死んでしまって一方的にコミュニケーションを絶った彼らのエゴに怒るべし……。
 ごくまれに、計画的に亡くなる人がいる。
自死という生き方 (双葉新書)※こういうのは例外中の例外だが、珍しいことに顛末が本になっているので示す。
 しかしほとんどの人は、何かに追い詰められて、そこから逃げ出すために、無計画に死を選ぶのではないか。突発的に、考え無しに死んでしまうのではないか。
 ノンフィクション作家の日垣隆さんが言っていたが、借金の額と自殺とは比例しないのだそうだ。借金数十万円から数百万円くらいがいちばん自殺する例が多い。数千万円となるとあまり死なない。借金数億円となると反対に生命力旺盛なのだそうだ。
 こういうことを考え合わせるに、自死を選ぶ瞬間というのは、理知的計算などできない精神状態にある。
 ここから逃げ出したい、という衝動に突き動かされたにすぎず、お前のせいだ!とか、死んで何とかを訴える!なんてことは考えてないんじゃないか。
 だから、残された者のせいなんかじゃない、と僕は考える。

■著名人の自殺を報道するやり方は、狂っている
 ところで、今回のニューズやワイドショウについて、報道のやり方がひどい、という指摘があった。
藤圭子さんの自殺 テレビのニュース報道は、国際的な「ルール違反」だらけ」水島宏明 | 法政大学教授・元日本テレビ「NNNドキュメント」ディレクター

 非常にもっともなことだ。内閣府の「自殺予防 メディア関係者のための手引き」はシンプルなので、報道に関係ない人も見ておいて損はないと思う。いろんな立場の人向けのガイドラインもpdfで閲覧できる。
 http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/link/kanren.html
 どうも話しに聞くテレビの報道は、このガイドラインすべてを踏みにじっているらしい(僕はテレビを見ていないので伝聞だが)。

 自殺も暴力である。報道も暴力である。
 いま、僕の好きな芸術家が、こうした理不尽な暴力に晒されている。
 負けるな、と言いたい。

 ヒッキーの芸術に心慰められた人が何百万人もいる。そういった大勢の人たちが、彼女が与えてくれたモノの数百分の一でも返す事が出来ればいいのに、と思う。残された者を毎分毎秒苛む悲しみを、肩代わりできればいいのに、と思う。

 日本の人は自殺への性向が強い。率でいうと韓国の人が最も多いらしいが、日本は年間3万件弱。交通事故の3倍の人が自殺を遂げているので、残された親しい人、深く傷ついている人はその3倍とか4倍にのぼるはずだ。
 僕らは、誰もが「残された側」になる可能性がある。けっして「残す側」にならないようにしないと。残すより残される方が圧倒的につらいのだから。

2013-08-02

幻想画家ベクシンスキーに夢中

 今朝は、涼しいですな。

 最近、この人の絵が好き。ポーランドの幻想画家、ズジスワフ・ベクシンスキー。名前が覚えにくいよね…)
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 公式のバーチャル美術館がある(http://beksinski.dmochowskigallery.net/galeria_past.php?lang=e)。
 このweb美術館は、スライドショーで彼の作品を画面一杯に広げて楽しめる。年代別・技法別などに分類されており、見やすい。
 彼の作品には題名がなく、見る側が判じ物のような解釈をせずにすむ。大人な作者だなーと思う。実際に見るとわかるけど、どの作品もみな、わかりやすい。見る側に鑑賞する主導権をやさしく委ねている感じがする。デビューから人気だったというのも納得する。

 僕は自分には絵心がないと思っていたし、画を見るような趣味もないと思っていた。アンリ・ルソーなど素朴派展やポーラ美術館のフジタとかは人に連れられて見に行ったが、まあ気に入ったんだけど、忘れてもかまわない感じだった。「連れて帰って部屋でも楽しもう」とまでは思わなかった。ルソーは絵はがき2枚買ったけどね。
f:id:tanu_ki:20130802075731j:image※ポーラ美術館(http://www.polamuseum.or.jp/exhibition/03_17.html)からお借りしました。
 ルソー、みんな好きだよね。ホッとするわな。

 ベクシンスキーの画は、初めて「欲しい」と思った。一人でじっくり見たいなー、と思った。
f:id:tanu_ki:20130802081505j:image
 最近は、夜寝る前にベッドで彼の作品をぺらぺら、といくつか鑑賞するのが、楽しくてしょうがない(バーチャル美術館はjpgなのでダウンロードして保存できる)。ルソーと違って暗く陰惨な画だけど、見ていると気持ちがやすらぎ、リラックスしていくのがわかる。
f:id:tanu_ki:20130802081506j:image
 ベクシンスキーの風景はほとんどが荒野や廃墟だ。人物は骸骨や畸形やケロイドやエイリアンで、美しいものはほとんど描かない。でも、ハッとするくらい神々しい画があったり、ごくまれにチラッと描かれた植物が(彼はほとんど植物を描かない)乾いた画面に潤いを与えている気がして、気持ちが良いのである

f:id:tanu_ki:20130802081507j:image※彼の描く十字架はT字型。映画「キリスト最後の誘惑」なんかもT字型でしたね。

「ベクシンスキー 3回」で検索すると、「3回見ると死ぬ画」がヒットする。僕は福澤徹三のエッセイ『怖い話』でそれを知ったのだが、ほんと良いものを教えて貰ったと思ってる。
f:id:tanu_ki:20130802081508j:image

 今頃ベクシンスキーを知って喜んでいる、流行遅れの自分がちょっと恥ずかしいが、流行とは関係なく出会えたことは幸運でもあったと思う。
 福澤は言う。「そもそも、この絵を見ようと見まいと、人間はどのみち死ぬので、死なないほうが不思議である。」このあっけらかんとした物言いは、ベクシンスキーの、実はちょっとユーモアのある画風と似ている。

エントリ内のベクシンスキー作品は公式のバーチャル・ミュージアムから借用しています。

2013-08-01

土屋アンナ舞台中止騒動…の一件について、個人的まとめ

 数日前から話題で、僕のようにテレビを見ない者にもSNSなどで聞こえてきたので、興味を持っていた。何しろ、ちょっと知ってる人物の名前が挙がったりしてるからナ。


◆主要Actのまとめ
 僕が最初に読んだのはコレ、著者(舞台では原案者?と呼ぶのか)のブログ

日本一ヘタな歌手☆濱田朝美ブログ☆ 重大なお話!

 どうも、最初は土屋アンナがドタキャンしたのが悪い、という調子で一方的に叩かれていたらしい。へー。
 次に読んだのはNAVERまとめ。主要登場人物が整理されてて読みやすい。著者のブログが出てから風向きは完全に変わったようだ。

炎上商法?濱田朝美「日本一ヘタな歌手」が土屋アンナで舞台化!

 ※超簡単なまとめもあったので転載する。

ここまでの超簡単なおまとめ
1、原作者「脚本が気に食わない」
2、製作側「脚本は変えない。文句あるなら他探す。」
3、原作者「ところでそもそも舞台許可してないよ?」
4、製作側「は?」当然放置。舞台続行。
5、原作者「土屋さん私舞台許可してないの。辛いの。」
6、土屋側「そういう事なら舞台降板するは。」
7、製作側「損害賠償請求する」 ←いまココ

 J-CASTニュースでも繰り返しネタになっているが、この記事は興味深かった。
土屋アンナの公演中止騒動、どっちが正しい? 「稽古に来ない」vs「原作者の許可取ってない」
 伊藤芳朗弁護士って懐かしいな。オウム事件で毎日テレビ出てた人だな。その彼のコメントが、けっこう気になるじゃないか。

 ここまで、おおむね製作者と出版社(元担当)が、ネット市民のみなさんからボコられてる印象。
 そしたら、舞台の製作者が原作者(原案者?)に反論。
製作者のFacebook投稿

[マイナビニュース]土屋アンナ舞台騒動、製作側代表が反論「代理人の承認は濱田朝美の承認」


 両者の言い分が出揃い、ボールがどっちにあるのかわからなくなって膠着状態になったかな?という昨日あたり、読んでていちばんしっくりきたのはこのニュースだった。

爆笑問題、土屋アンナ“舞台中止騒動”について語る……「演劇界はトラブル多い」

 付かず離れず、当たらず触らずの爆笑問題のスタンス絶妙、と思った。メディアの乗りこなし方を心得ていらっしゃる。

 僕も最初は「土屋アンナ、偉いじゃん」と思っていたのだが、しばらくして思い直した。物事は、綺麗じゃない、論理的じゃない。誰が潔白で彼が悪者、とはっきり割り切れるなんてことはない。この件、迂闊にどっちかに加担すると、恥を掻くんじゃないかな、と。


◆個人的感想のまとめ
 多くの人は、障碍を持った著者が一所懸命綴ったであろうブログの文章に心を動かされた。弱い側に立ち、力を持つ側(製作者)に立ち向かった土屋アンナに拍手を送った。
 けど、事実はそんな風にわかりやすく美しくはなかったようだ。
 著者はブログエントリに書かなかったことがたくさんあるようだ。なかでも、弁護士立ち合いで舞台化の打合せをしていたことが欠落しているのは、大きい。この1行の有無でブログの効果が随分違うことを、書いた側も認識していたのではないか。

 ちょっと冷めた目で改めてネットを見まわすと、盛り上がった人たちの熱い発言が目に付く。あんまり盛り上がると足を掬われるよ、と思う。

ここは出版不況のあおりを受け、経営再建が進められている出版社でもある。真相は依然「藪の中」とはいえ、今回の騒動には昨今の出版事情が見え隠れしているような気がします。

と書いたのは「アゴラ」の「今日のリンク 出版不況も見え隠れする土屋アンナ舞台中止騒動」。この書き手はけっこう好きだが、ちょっと異論がある。

朝から知的財産ないし契約法のお勉強素材が話題になっている。

と書くのはBLOGOSに寄稿している大学教授「土屋アンナ舞台事件」)。
 お勉強するにはあまりにもソースが足りないのではないかと思うが。

 同じBLOGOSには「「あんたの小説をドラマ化してやることになったから」という傲慢」というエントリもあった。
 言葉にしにくい感情の流れをうまく文章化していて上手いと思う。が、それがこの件の事実と関係あるかというとそれは多分に「??」なので、冷静に読んだほうがいい。

 またBLOGOSなのだが、「TPPに参加すれば土屋アンナ舞台中止騒動なんてあり得ない」はなんなんだ? ご自分田圃に水を持っていくのに一所懸命で、事件そのものにはあまり興味をお持ちでないようだ。

 BLOGOSには、わりとニュートラルにまとめたものもあった(「日本一ヘタな歌手」舞台中止騒動について)。これは読者をミスリードしようとしていない、良いエントリだったと思う。

 ネットは広いから、もっといろんなことが言われてるだろうが、僕的に憶えてるのはこのくらい。

 この件、人としての心――正義の実現を欲する心、義侠心、強者に加担するより弱者の側に立ちたいという心――があれば、誰だって土屋・著者側に立ちたいと思うはずだ。僕も、最初に聞いたときはそう思った。
 だけど、いま明らかになっているだけでも、登場人物たちの行動は奇々怪々で、割り切れない。そもそも、主演女優と著者が完全に志を同じうしているかというと、それも疑問だ。

 なんとなく思うのだが、この件は、「著者の側に立って男気を見せた主演女優の勇み足」という風に収束するんじゃないかと思う。いかにも煮え切らない、パッとしない予想だが、物事は傍から見て楽しい方向にまとまることは少ない。正義が勝って悪が懲らされることはないのだ。そもそも誰に正義があるか不明瞭なのだから。


◆個人的な記憶のまとめ
 僕はこの件については内部情報など知らない。だが、主要登場人物の一人である「出版社の元担当」と思しき人物のことは憶えているので、そのことを思い出して書いておきたい。異能編集者A氏の思い出、である。
(※ネット上には「元担当」の氏名を出している描き込みも多いが、僕は仮名で書く。まあ僕は実名が好きでないからだが、もう一つ、著者が言う「元担当」=僕の知っている彼、という確証がないからだ。ネット情報であれこれ言う人は、ここ確認が取れているのか不思議だ)

 A氏は、身長173cmの僕から見ると雲衝くような巨体だ。実際は身長にして10cmも違わないだろうが、体重は50kgくらい違っただろうな。それくらい体格差があると、印象としてはオトナと子ども、くらいになる。
 余談だが、十数年前にオタキング岡田斗司夫氏と会ったときも「ずいぶん大きな人だな」と思った。だが、その後ダイエットした彼の身長体重は、なんと僕とほとんど同じだった。なんだそりゃ!? デブデブ詐欺か?と思ったものだ。
 体重の大きな人には威圧感がある。A氏は僕より何歳も若かったが、態度は堂々たるものだった。色白で三白眼、喋る声はひっそり気味で、外見とのギャップ面白かった。ちょっと早口で聞き取りにくい時は、こっちが耳を傾ける。するとなんだか、結果的に彼に説得されてしまうことがあった。不思議なものである。
 この調子でモデルを口説いたり、企画を通したりしているんだろうか、と思った。

 僕が知った当時の彼は、写真週刊誌の増刊号編集部専任の編集者だった。増刊号は、本誌が合併休みの週に、年間5冊から6冊くらいのペースで刊行される。とくに年末・GW・お盆などの大型連休は書き入れ時だ。そして、彼が在籍していた写真週刊誌増刊号は、毎号毎号完売に近い、驚くべき売れ行きを見せていた。
 彼はグラビアも記事も両方作っていたが、読者アンケートでは彼の企画がいつも1位だったらしい。グラビアで憶えてるのは、「エロテロリスト」としてインリンを街頭や地下鉄構内に連れ出して撮影したもの。記事では、「あいのり」の人気メンバーのその後を「全部サラす!」とやったものなど。どっちも業界では先駆けだったんじゃないかな。
 彼の企画は、テレビ番組の後をしつこく追うもの、テレビに映らなかったものを暴露するものが多かった。彼は僕に、「テレビ番組表のないテレビ雑誌を作りたいんですよ」と言っていた。彼はテレビのことを本当によく知っていたが、なかでも、何が面白くて世間の人たちはこの番組を見ているのか、を適確に捉える力と、一回ひねって提案できる力量があった。

 後にこの増刊号編集部は解体され、バカ売れしていた増刊号も休刊した。彼は、二、三人しかいない編集部に異動し、細々と単行本を作るようになった。
 最初は、ちょっと変わった、メインストリームではない芸能人の本を出していた。伝説的なバンドのボーカリストの激白本とか。A氏は本の作り方も上手かったが、プロモーションも上手かった。マメなのである。必ず銀座の有名な書店でイベントを開き、記者会見をやって翌日のスポーツ紙に載るようにしていた。
 そのうちに出たのが『筆談ホステス』だった。これも銀座でイベントをやったが、著者が働いていたクラブママさんや同僚たちが大勢応援に来てくれた、華やかなサイン会握手会だった。また、障碍を持った人が「仲間のひとり」として応援に駆けつけた、という風情のお客さんも多かった。ここまで来るのも大変だったろう、という人もいて、感動的だった。
『筆談ホステス』は大ヒットし、続編や派生商品がいくつも生まれ、美人女優主演でドラマ化された。
 書籍の商品寿命というのは難しい。3万部売れればかなりのヒットなのだが、それを大ヒットにするのは大変だ。発売当初は売れても、しばらくすると話題にされなくなり、新聞や雑誌が書評を載せても時すでに遅し、店頭では新鮮味がなくなって返本……となってしまう。続編の刊行やドラマ化は、商品を延命させる特効薬なのだ。なかでも「ドラマ化!」は効く。テレビ屋さんが作った新しいビジュアルイメージが使えるので、一度古臭くなった本が、華々しく化粧直しできるのだ。ドラマ化!のポスターは書店さんも喜んで掲出してくれるし、POPも作りやすいし。
 ヒットしている本だからといって、テレビ屋さんが「ドラマ化させてください」と声を掛けてくるわけじゃない。このドラマ化はA氏の働きによるものと信じている。細かい事情は知らないが、彼以外の誰にこんなお膳立てができるか? できはすまい。

 全盲の夫婦エピソード『愛はみえる』も同時期だった。これもテレビ化されたらしい。らしい、というのは僕はテレビを見ないので知らないのだ。ドラマだったのか、もともと取材していたテレビ局がいて、ドキュメンタリーだったのかも知らない。そして『筆談ホステス』とは違ってこの本の場合はドラマ化で本が売れたという記憶がない。

 同じ年の秋に出たのが、今回舞台化云々の『日本一ヘタな歌手』だった。
 当時僕は京王線沿線担当の販売営業だったのだが、この著者が多摩センターの駅前で路上ライブをやっているのを知らなかった。迂闊なことに、部数比例で配本してしまったので、多摩センターの書店さんから「うちの近所でライブやってるのに、配本こんだけ?」と言われてしまい、慌てて電車で本を持っていっただか急送したよーな記憶がある。
 迂闊な話だが、一冊一冊の本の内容を発売前に熟知することなんて無理だから仕方がない。Aさんよ、一言教えてちょうだいよ、と思ったものだ。A氏のプロモーションはマス媒体専門なのだった。

 それにしても、よく立て続けに“障碍者モノ”を出せるなァ、と感心した。僕もいっとき編集をしていたが、著者と付き合うというのは体力を使う仕事なのだ。まァ仕事って何だって疲れるものだが、一番疲れるのは人間関係だよね。
 A氏の本作りの特徴は、「本を書くプロ」には頼まない、ということだった。
 本を書いたことのない人、普通なら書かない人、の本を作る。それがA氏の企画の共通点だ。これは凄いことだ。
 今でこそ、誰もがSNSやらブログで自分の書いたものをバンバン世に出しているが、見ず知らずのお客様にお買い上げ頂くレベルのものは一朝一夕にはできない。そもそも、いい体験をしているからといっていい文章が書けるなんてことはない。
 A氏は、読まれるべき体験をしているけれどそれを人に伝える術のない人たち、を世に出す、異能の編集者だったのである。
 もちろん、編集のA氏が一対一で著者と向き合って本を作ったわけではないだろう。そうだったら画に描いたような美談になるかもしれないけど、現実はそうじゃない。大勢で、一つのエピソードを、一篇の“売れる”原稿=ちゃんとした商品にまで仕上げていったのかもしれない。


◆騒動はどう展開するのか?
 A氏は、おそらく、どの著者とも、二次使用も含めた包括的な出版契約書を交わしているだろう。A氏の企画はテレビ化・映像化が大前提のものばかりだ。舞台化だけ漏れてました、なんてソツがあるわけ、なかろう。
 いずれ、契約書云々の話題は見向きされなくなると思う。あんまりキャッチーな話じゃないし、たぶん、法的な手続論で押すと、著者や主演女優側にはメリットがない。むしろ出版に関する契約の詳細を公にすると、著者にデメリットがあるんじゃなかろうか。

 こっから先は、感情的な行き違いをどう償うか、の話になるだろう。そうした場合、主演女優が、弱い著者の側に立って見せた侠気は、ドライな契約社会では「はいはい、わかったから、手を下ろして」といなされてオシマイ、になる種類の行動かもしれない。
 また、あんまり考えたくないが、著者のブログエントリが「事実と異なっている」とされた場合、どう転ぶか。あまり楽しい話じゃないので考えたくないナ。

 僕は思うのだが、この一件は、いわゆる“出版不況”のせいで起きたことじゃない。むしろ“好景気”だから起きた事件だ。
 出版不況とは、どんなに本を出しても誰からも見向きもされず、誰からも読まれず本が消えていく、という事態だ。本書は、こんなに大勢の人から注目され、いろんな人がこの件について言及している。いろんな人がビジネスにしようと群がっている。こんなに景気の良いことはない。
 この景気に火を点けたのは、ひとえに元担当のA氏だ。
 正直、僕が営業マンだったとき、この本が売れたという記憶はない。刊行翌月には大方、取次に返本されたんじゃなかろうか。
 それを、何年も何年も執念深く諦めず、ついに有名女優をキャスティングした舞台化にまで話を繋ぎ、本を蘇らせたA氏は凄い。そこを忘れて話をしては何にもならない。

『テルマエ・ロマエ』の作者が映画化でも僅かしか報酬がなかった、なんてキャッチーな話と比べるのもいーだろう。面白いからね。でも、そういうスポットライトの当たる話ばかりしたがるのは素人だ。出版にちょっと詳しい人だったら、「4年前に出た本の舞台化」というレアさに気づいてもらいたいものだ。それだけで、いろんなことが解るはずだよ。

 また、「TPPで契約社会になったらこんなトラブルはなくなる」という見方、ほんとは正反対だとわかりますね。契約社会になったら逆に、契約書に書かれたことに納得できないという感情的なトラブルが増える。泣き寝入りも増えるはずだ。
 いや、それはトラブルが可視化されなくなる、というだけかもしれない。今回のように、原著者が自らブログで意見を述べ、紛争の相手を攻撃できるのは、契約がテキトーだからだ。ガチガチに契約していたら、こういう行為だって契約違反になり、ペナルティが発生するんじゃ?

 そもそも、多くのクリエイターは細々した契約だの決まりだのをハンドリングするのが苦手だ。だからクリエイターになったのであって、契約や経理が得意だったら法律家ビジネスマンになっている。
 出版業界というかドメスティックエンタメ産業国際標準の契約慣行を導入しようとすると、まず、事前に契約するというハードルが高すぎてダメだろう。原稿を渡す際に契約する、となると、「内容の質もわからない原稿を受け取るために、出版を確約する契約が必要なのか??」となろう。
 アメリカの出版業界ではシノプシスやサマリーが頻繁にやり取りされているが、梗概が面白くても本編がつまらないなんてことは普通にある。みんな常に相手の裏を掻こうとしている。
 そんなビジネス慣行よりも、契約は後回しで、とりあえず意気投合したから本を一緒に作ろう、一緒に価値創造していこう、まずは一杯やろう、という、ある意味牧歌的でゆるい取り組みが許される日本の商慣行も、案外捨てたもんじゃないと思うのだ。

 まあ商慣習は時代と共に変わっていくだろうから、この先は出版契約も事前になるかもしれんけど。ただ、そうなると出版点数は激減するね。あるいは、契約を結ばないグレーな出版物が横行するだろう。誰に文責があるかわからない本とか。尤も、これは今でもあるか。
 ともかく、商慣習を変えたらトラブルが減る、という見方は甘いと思う。トラブルは形が変わったり見えなくなったりするだけで、減りはしないだろう。そして、何も面白いものを創造しない弁護士が、儲けを分捕っていくようになる。

 この一件、あとどのくらい耳目を集めるかな?
 ネットの中だと「人の噂も7・5日」くらいのスピードに感じる。来週にはみんな忘れてそうな。

 僕がちょっと心配、というか残念に思っているのは、こんなに話題になっているのに、本そのものが売れている、という噂は聞こえないことだ。物理的に在庫がないのかもしれないし、今から刷るのはリスクが多すぎるし。
 そして、この一件に口を挟む人でこの本を読んだ人、読みたい人がどのくらい居るのか、僕にはよくわからない。芝居の宣伝WEBサイトには「あのベストセラーの」と書いてあったが、けっしてベストセラーじゃない。読む人を選ぶ、届く人には届くだろうけどアンテナのない人には雑音でしかない、そういうクセのある本の存在しにくい世の中になったことよの、と思うのだ。