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2016-01-22

寒波前の趣味展

趣味展、初日である。

寒い。大寒波が来ているそうでこの週末は大雪かなどといわれているが、はて東京はそこまでもなかろと思う。しかし先週に比べグッと冷え込んできたのは確かで陽の出ている昼間でもマフラー無しはつらい。そして今日は趣味展に遅刻。30分遅れの入場であった。扶桑棚を2時間くらいかけてじっくり見て行き、その後会場をまわる。扶桑の棚に、胡蝶本の「悪魔」が4500円で列んでいる。背が痛み裏表紙など取れかけだがこれが棚に列んでいるというのもある意味すごい。途中、古書仲間らとお茶しに抜けて、14時頃からまた午後の部参戦。『独歩全集』凾付前後編揃800円とかそんな出物もあったが(あの菊版上製のでかいやつ)、結局最終的に購入したのは以下。

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坪内逍遙「小説春廼家漫筆」(春陽堂明治24年10月22日訂正再版背欠綴穴400円

里見「今年竹」(プラトン社)昭和2年10月25日25版凾付署名入300円

寺木定芳「人、泉鏡花」(武蔵書房)昭和18年9月5日初版美500円

谷崎潤一郎「私」(全国書房)昭和22年限定千部凾300円

森銑三「古本覚え書」(古通豆本昭和50年5月1日200円

さすがに開場から30分も経過していると、いいのはとうに抜かれてしまっているのかもしれない。単行本よりは雑誌が今日も賑わっているようであった。気になる本も少しあったが金欠を考え戻したりして自粛モード。「今年竹」は、確か初版は元から署名入だったが好評だったのでその後の重版署名を入れて発売されたのであったか。凾欠署名入は持っていたが、凾付で300円はないだろうというので買ってしまった。寺木の本は鏡花関係で必須の本だが、200円くらいで欲しかった。無理か。

それからこのなかでは「私」がヒット。いやこれはよく見かける本だしとうに持っているのだが、よくある本とパッと見全く同じ体裁だが、奥付の発行日、定価が異なるのである。

さるにても、橘の書誌から半世紀を過ぎて、この本とか「細雪」の300部本とかあれに漏れている本は幾つかあるわけだけれども、今度の谷崎全集の書誌はその辺のところバシッとおさえているだろうし、書誌の巻くらいは買うかと思っている。

お次は雑誌。

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「大衆文芸」第1巻第3号500円

「ほゝづき」2の2(昭和10年8月)300円

中央公論」昭和18年1月号、3月号、6月号、各300円

「演劇」昭和26年7月号200円

「大衆文芸」は創刊3号で、乱歩「灰神楽」掲載。「ほゝづき」というのは、伊志井寛らの同人誌伊志井寛宛の大入袋の実物や、芸者のあと口の実物などがそれぞれ貼付されていたりする。

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中央公論」は、谷崎の「細雪」初出。昭和18年の1月号、3月号、6月号と連載予定が、6月号には連載中止の告知が掲載されることとなったのは周知の事実。これが実物。

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三島由紀夫作「黒蜥蜴」宮城演出@SPAC(静岡芸術劇場

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恥ずかしながらSPACは初めて。綺麗でいろいろ完備されている劇場のようである。そして宮城演出の「黒蜥蜴」。上手下手にシンメトリーにイントレを組んだような大階段。中央がホテルの部屋のつもり。真っ正面を向いた緑川夫人と早苗があたかもしゃべるマネキン人形かのようにセリフを繰り出す。どうしても美輪版(舞台も映画も)が頭の中のイメージとして固着しているので、あのメロドラマティックなそれと比べるとずいぶんな異色さにおうおう攻めてる演出だという序盤。そして雨宮が来て早苗誘拐。こういうシンプルな舞台装置の上で見て初めて、そうこれは商業演劇の芝居だったと初めて気がつかされる。流暢だが筋をつなげていくための会話のやり取り。これが作り込んだゴテゴテの舞台装置でギンギラギンの緑川夫人衣裳で、他に目玉を楽しませる要素があれば全体の雰囲気に流されつつこのキャッチボールも楽しめたのであろうが、しかしあくまでシンプルな舞台。会話の一言一言が際立たされ、だからこそ逆に役者の伎倆が問われるようなストイシズムがあった。そして明智登場。台詞回し、古畑任三郎かと思った。真っ正面からやるのではなくって、古き良きキザ男をキッチュでしょって意図的に演技する感じといったらよいか。こういうキッチュさはわかるのだが、これが全編続くのかと思うとちょっとつらい。実際、ホテルで黒蜥蜴に逃げられた箇所ではセリフが全然聞こえない(まあ初日というのもあろうが)。

しかしまあ、先述したようにゴテゴテの舞台装置やら商業的なあれこれを抜いた舞台だからこそセリフが問われるところもあって、明智というのは批評性で黒蜥蜴は詩なのかというのがよくわかる。三島探偵小説にあまり入れ込まなかったのもこういうことなのかと見ていて感じたのであった。つまり、推理という批評をすら批評(自意識)してしまうのだ。犯人と同化してしまう探偵こそ名探偵なのだろうが、その時、既にパズルを解く面白さなどは何もない。というのも、とうに同化しているのだから。

ところでク・ナウカ時代からお馴染みのパーカッション・バンドがオーケストラピットのごとく舞台前面に場を占めて、この生演奏がちょっとでも緊張を欠くと中だるみしそうなセリフのキャッチボールを背後から支えていた。BGMというほどうるさくなく、効果音というわけでもない。これが絶妙なリズム感を舞台全体にもたらしており、場によっては全く消える。例えば岩瀬家の台所、ここはまあ商業演劇ならでわのサービス場面というか、映画などだったら漫才師を使ったりするであろうちょっとしたコミカルな場である(山だし方言丸出しの女中あり、ボケだらけの筋肉男なり)。こういうところは、会話のピーチクパーチクがつまり舞台を司るリズムになっているのであって、パーカッションを入れたらうるさくなる。その意味では、東京タワーの場の雑踏SEのみ変にリアルでむしろ入れなくてもよかったのかもしれない。あとモブも変に現代風の格好で、この「黒蜥蜴」という戯曲の持つ、レトロフューチャー的なキッチュが殺されてしまった。あそこは是非50'sな格好、みゆき族みたいな衣裳にするべきではあるまいか(あるいはその錯誤を意図的に入れたのか)。

上手が明智の事務所、下手が黒蜥蜴の隠れ家の場では、明智の手下が、おおという台詞回し。ク・ナウカ時代のように、わざとセリフの音節を妙なところで区切って話す(セリフまわしの脱構築と勝手に思っている)のを2度ほどやったが、この後の割台詞で盛り上がるシーンの直前、敢えてロマンチックな応酬を異化する目的なのだろうか。そしてその割台詞で明智と黒蜥蜴が交互に応酬するシーンも、戯曲よりは細かく割っていて切り替えが早い。おそらく美輪版を意識したものか、ロマンチックな会話ではなく切り替えのリズムで処理していた。おそらく、ラストで黒蜥蜴が自殺するシーンも同様だろう。舞台でも映画でも、明智の腕に抱かれて事切れる黒蜥蜴という演出が美輪のものであったが、宮城黒蜥蜴では上手と下手と離れたまま、ついに抱くことすらしないのである。

美輪版への批評的距離を担保しつつも、いかにして商業的シーン横溢のこうした長篇を改めて組み直すか、だから岩瀬邸などの中だるみしやすい場所など苦労したのではないかと思う。装置やムードではなくパーカッションを支えに会話のやり取りそのものをリズムにして一定のテンポを保たせること、通底しながらも理性と感性というネガポジ関係の明智と黒蜥蜴の関係が徐々に浮かび上がり、本物と偽物といった二元論的在り方も、とりわけラスト近くの檻の中の雨宮と贋早苗のシーン(実はこの戯曲の一番の本質的シーン)を際立たせることで一層明確になっていたと思う。さすがである。黒蜥蜴の女優さんかなりの好演でもあった。1月16日所見。

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