新型コロナウィルス感染症禍

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新型コロナウィルス感染症禍の中で抜けるような青空

新型コロナウィルス感染症禍。
この「災厄」。
昨日の世界と明日の世界。
ついこの間のあのころが過去。
ウィルス蔓延禍の今。
そして、ウィルス蔓延が収束した未来。
昨日と今日と明日。
過去と現在と未来。
2月27日(木)。政府(=安倍晋三)は小中学校の休校を決め、今後2週間、人が集まるイベントの自粛を要請しました。
そして、わたしも計画していた講演会「当時の小学生が伝える東日本大震災 -大切な人の命と心を守るために-」(TTT講演会)(3月6日実施予定)の中止を決めました。
わたしにとってはこの日を境にして、世界が変わりました。
それは、他の皆さんも一緒だと思います。
このウィルス禍が収束した明日の世界は、ウィルスなんか存在しなかった昨日と同じ世界が戻ってくると思いますか?
・・・・・戻って来ないかもしれない、という漠然とした不安。
戻れないかもしれない、という諦観があります。
戻れるかどうか、それは断言できません。
明日の世界は昨日の世界と同じではない。
ウィルス禍の今を経験してしまった私たちはたぶん昨日の私たちに戻ることはできないと感じています。
ウィルスは姿を変えてまた現れるでしょう。
アルベール・カミュ『ペスト』の最後の文章を知っていますか?
“・・・・・ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、数十年の間、家具や下着類のなかに眠りつつ生存することができ、部屋や穴倉やトランクやハンカチや反古のなかに、しんぼう強く待ち続けていて、そしておそらくいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストが再びその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来るであろう・・・・・”(宮崎嶺雄 訳 新潮文庫)。

私たちはそれと共存しながら、生きていかなければいけないのです。
未来のために、未来を生きる子孫のために、それと戦いながら、生存していく義務があるのですね。
明日は昨日ではないけれど、明日を昨日以上によりよいものにする力を蓄えているのが、現在なのかもしれません。
皆さん、ご自愛を。
おのおの自分の持ち場で戦いましょう。

 『のこった −もう、相撲ファンを引退しない−』

 角界が喧しい。
 問題点としては2点ある。
 ひとつは、土俵上の取り組みに対する批評ではなく、大相撲を主催している公益財団法人日本相撲協会に対しての批判や意見である。それらが世間に入り乱れている。その運営方法や管理能力に対して、さまざまな人たちがさまざまな意見を吐き散らかしている、という印象。そのような外からのたくさんの批判や意見に対して、日本相撲協会はしっかりそれらに向き合っている、という印象はない。はぐらかしている、とまでは云わないが、黙っていればそのうち収まる、と考えているのではないか、という態度のような感じ。それから、素人が伝統ある大相撲のことにとやかく口を出すな、という上から目線の横柄な態度も隠しているような気になってしまうのは、私だけではないはずだ。
 もうひとつは、関取たちに直接、投げかけたい事柄。弱い横綱。強すぎてオレ様になっている横綱。故障を押して出場するから、さらに悪化させ故障が長引いてしまう関取たち。そもそも関取たちに故障者が多すぎること。・・・そういう関取たちに対する物言いもたくさん噴出している。
 とにかく、長年の相撲ファンとしては、この処のおすもうを巡るごたごたがもどかしくて歯がゆくて仕方ない。

『のこった −もう、相撲ファンを引退しない−』(星野智幸 著)
(発行:ころから)(2017年11月17日発行)

のこった もう、相撲ファンを引退しない

のこった もう、相撲ファンを引退しない

 著者の星野智幸氏は、日本を代表する小説家である。今回、本書が刊行するにあたり新聞に載ったその紹介記事には、星野智幸氏は幼少時より熱烈な大相撲ファンであり、2003年に貴乃花が引退したときに、一度はきっぱりと大相撲を観なくなった。と書いてある。そして約10年のブランクを経て、2014年に久しぶりに大相撲を観始めたら、相撲の会場も相撲を観ている世間も10年前とは様変わりしており、様子が違っていることに著者は驚き、憤慨している。
 本書は、星野智幸氏がどういう経緯で大相撲を観ることを止めたか、また再びどうして観始めることになったか、そして古くからの大相撲ファンである星野智幸氏が大相撲を巡る現状をどう考えているか、が丁寧に書かれているエッセーである。本書の最後に星野智幸氏の最初の小説(相撲小説)が掲載されている。この作品は氏が始めて文学賞に応募した作品であり、落選している小説である。まさにおまけとして楽しく読める作品である。

 相撲は国技だ。と云われている。が、「国技」ってなんだろう。「国技」という言葉が大相撲を観戦するときに不必要なナショナリズムを煽っているのではないか。ここ10年以上に渡ってモンゴル人力士が大相撲の土俵を席巻している。日本人関取による幕内優勝が望まれ続け、ついに三年前(2015年)の初場所琴奨菊が優勝した。これにより、大相撲におけるナショナリズムは最高潮に盛り上がり、以後、場所中の雰囲気は、日本人力士を過度にたたえ、たくさんの声援を送り、反対に外国人力士(主にモンゴル人力士)には、声援を送らない(実際に執筆子は彼らに対して歓声が極端に少ない状況をたくさん目撃している)のだ。
 相撲は土俵で一対一の勝負をする、孤独な競技だ。個人競技の極みと云ってよい。素晴らしい勝負、いい相撲に対する大声援ではなく、力士の出身地で声援を区別していることがそもそもマナー違反なのだ。そのような相撲の見方は邪道である。
 本書は、出身国によって差別せず、技や土俵での態度を観る純粋な相撲観戦を是とし、現状を憂いている。
 そして大相撲が八百長問題や暴力事件に揺れていたとき、ひとり横綱として、土俵に立ち続けていた白鵬を讃えている。白鵬の評価はさまざまであるが、あの大相撲の危機のときに、かれは大相撲を支えていたし、また数々の記録を塗り替えた彼の相撲を同時代に観られたことを喜んでいる。

 大相撲に関してはさまざまな意見がある。本書はその中のひとつの意見である。でもその意見はとても傾聴に値するいい意見だと思う。

 この原稿は、2月2日の日本相撲協会理事選挙の後に書き始めた。その後、2月7日に民放で渦中の貴乃花親方に対する単独インタビューが放送された。土俵の外が喧しすぎる。

 『何が映画か −「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって−』

 黒澤明監督の遺作となった『まあだだよ』は、1993(平成5年)4月の公開されている。この後黒澤は、『海は見ていた』のシナリオを書き、1995年(平成7年)に『雨あがる』のシナリオを書いている時、怪我を負い、そのまま床に伏す生活となり1998年(平成10年)に逝去する。
 一方の宮崎は、ナウシカ(1984年)、ラピュタ(1986年)、そして1988年のトトロ、さらに『魔女の宅急便』が1989年。1993年時点での最新作は『紅の豚』(1992年)であり、アニメーション映画監督として、第一人者の地位を確立していた。
 1910年(明治43年)生まれの黒澤は、1993年当時、83歳。そして、1941年(昭和16年)生まれの宮崎は、52歳。ふたりの年齢差はおよそ30歳である。
 このふたりが1993年(平成5年)のとある日にテレビで対談した。今回紹介する本は、その時の模様を文字にした対談集である。

『何が映画か −「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって−』(黒澤明 宮崎駿 著)
(編集発行:スタジオジブリ)(発売:徳間書店)(1993年8月31日初版発行)

何が映画か―「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって

何が映画か―「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって

 本書は、黒澤作品の『まあだだよ』が公開された1993年の5月に宮�啗駿が御殿場にある黒澤明の別荘を訪ねて対談をする、というテレビ番組が基になっている。その対談を文字に起こした。そして後日、スタッフがスタジオジブリを訪ねて宮崎駿に黒澤との対談に関しての単独インタビューをし、それも後半に登載されている。さらに付録というかおまけとして、『七人の侍』の助監督を務めた廣澤榮氏のエッセーが巻末を飾っている。このエッセーが爆発的に面白い。

 順を追って確認していこう。

 黒澤明監督待望の新作『まあだだよ』が前月4月に封切られたので、対談はこの『まあだだよ』の話題が中心になる。そして宮�啗駿自身が日本映画最高峰の作品と考えている『七人の侍』についてもたくさんのページを割いている。

まあだだよ [Blu-ray]

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七人の侍 [Blu-ray]

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 対談部分の章見出しは「ちゃんとした映画を作るには・・・・・」。
 映画の監督業とは、何をしているのか、ということから解きほぐしている。実写の映画監督とアニメーションの映画監督のやることにはたくさんの違いがあるのだが、まずは基本として“こだわる”ことが大切なのだ、ということでふたりの意見は一致する。

 対談というスタイルは、互いが対等な立場で対話していく姿が正しいのだろうが、黒澤明宮崎駿。このふたりが対等であるはずがない。宮崎が敬愛してやまない巨匠・黒澤に対して教えを請う、という姿勢であるため、宮崎は質問し、黒澤が答える、という対談の姿になっている。黒澤はほとんど宮崎には質問をしない。宮崎はインタビュアーになっている。インタビュアーとしての宮崎の質問がとても的を射ているので、本書は読んでいる我々としても、とてもわかりやすい黒澤映画の解説書になっているのである。
 そして写真が多い。もしかすると本文ページの半分は写真かもしれない。黒澤映画の場面場面の写真が載っている。三船がいる。志村喬がいる。そして最新作の『まあだだよ』の写真もふんだんに掲載され、それとともに黒澤監督から場面場面の制作秘話を聞く。実に贅沢な書籍なのである。

 この二人の対談において、特に『七人の侍』と『まあだだよ』を使い、映画の作り方の講義を受けている、と云えばよいか。・・・・・そんな内容の対談になっている。

 対談の最後に宮崎駿は、時代劇をやってみたい。と語る。是非おやりになりなさい、と云う黒澤。そして宮崎駿は、この対談の4年後、黒澤の死の前年になる1997年(平成9年)に『もののけ姫』を完成させた。だから本書は、この『もののけ姫』も『千と千尋の神隠し』もまだ影も形もないときの内容なのだ。宮崎駿のこの2本を黒澤明は観ていない。もし観ていたら、そして元気であったなら、黒澤はどんな感想をもったのであろう。宮崎駿は、黒澤明の作品からたくさんの示唆やヒントを得て、それらを作ったに違いない。そういうことを考えると何か不思議な感じがしてならない。

 最後にの付録のような「『七人の侍』のしごと」という廣澤榮氏のエッセーが抜群である。助監督による『七人の侍』の制作ノートだ。黒澤映画ファンにはたまらない一文である。と共に映画制作を志している人たちにもいい経験談だと思うのだ。

 全体として、本書は映画作りを志望している若い人たちにこそ読んでほしい一冊だ。映画がどのように作られるか。・・・・・ということを考える本だ。どのように脚本を書くか、どのようにロケ地を選ぶか、どのようにセットを作るか、どのように道具を揃えるか、どのように撮影するか、どのように役者をその気にさせるか、どのように編集するか・・・・・。そういう映画作りのノウハウがぎっしり詰まっている本になっている。

 『御巣鷹山と生きる −日航機墜落事故遺族の25年−』

 1985年(昭和60年)8月12日午後6時54分。羽田発伊丹行の日航123便の機影はレーダーから消えた。日航ジャンボ機御巣鷹山墜落事故である。520人が事故に巻き込まれ、命を落とした。このときから残された家族の戦いと慰霊が始まる。事故の遺族は関係者ではない、という理由で事故調査から締め出された。残された家族は、「8・12連絡会」を結成し、連帯した。この会は遺族会という名の補償交渉の窓口ではない。遺族同士の絆で互いに支え合うことが会の目的となっている。そして政府や日航には事故原因を明らかにして再発防止に努めることを要求していく会となっている。
 この「8・12連絡会」の事務局長である美谷島邦子さんは、仲間とともに社会に向けて事故の原因究明と空の安全対策の実施を広く訴え続け、少しずつではあるが、社会を動かし、航空会社や政府の考え方を修正させていき、遺族に寄り添った政策がひとつずつ実現してきた、その原動力になって動いてきた人だ。

御巣鷹山と生きる −日航機墜落事故遺族の25年−』(美谷島邦子著)(新潮社)
(2010年6月25日初版発行)

御巣鷹山と生きる―日航機墜落事故遺族の25年

御巣鷹山と生きる―日航機墜落事故遺族の25年

 本書は、美谷島邦子さんが事故を風化させたくない、という一点によって書かれた書籍である。今年は2017年。そして事故が起きたのは1985年。もう32年も前になる。520人という大勢の人が一瞬にして命を喪った。東京と大阪を結ぶ夕方の便ということでビジネス客が大勢搭乗していた。夫や妻、父や母、子を喪った家族の苦悩は計り知れない。著者の美谷島さんは9歳の息子さんを亡くした。この事故はいくつかの物語として紡がれている。山崎豊子さんの『沈まぬ太陽』や、横山秀夫さんの『クライマーズ・ハイ』は映画化もされている。映画では、お母さんが息子さんの手を引いて搭乗口まで一緒に来て、航空会社の地上勤務の女性にその子を託して、手を振って「いってらっしゃい」「いってきます」と別れるシーンがあるが、そのシーンのモデルが美谷島さん親子である。息子さんの名前は健ちゃんという。
 事故の後の状況は経験した者でないとわからない。でも想像することはできる。一緒に寄り添うための指針にもなる。本書は苦しむ人たちに対して、私は何ができるのだろう、という最初の疑問を提示してくれる。
 さらに本書は安全対策や慰霊の問題、責任の所在、遺族の心のケアなどのさまざまな問題を読者に対して提示し、「8・12連絡会」の25年間の歴史資料でもある。
 本書を読み、ご遺族のみなさんや関係者のさまざまな努力に敬意を表するとともにその行動力に脱帽するのだ。

 美谷島さんの不思議な経験が書かれている部分がある。ある日突然“私の心の中にストーンと健が入ってきた”と書かれている。2階建ての新幹線をみて、健ちゃんの知らない車両だ、と美谷島さんは思った途端に、その経験をした。それは他の人にはわからないことかもしれないが、美谷島さんは“その日から、健は私といつも一緒にいる、心の中で生きている”と思うようになっていった。という。美谷島さんが一歩前に進むことができた瞬間なのだろう。このような経験は実は、それぞれの人がさまざまな形で経験していることであり、それを意識しているか、していないか。あるいは、そのような潮の変わり目を覚えているかいないか、という差なのかもしれない。むろん最愛の息子さんを亡くされた美谷島さんの深い悲しみには及ぶことはできないが、それぞれの人は一生の間に家族を亡くしていく。あるいは若かったら大失恋もあるし、就職や受験に失敗して失意の内に日々を過ごしている人は大勢いる。そういう人たちもこの美谷島さんの経験、この潮の変わり目に遭遇しているのではないか、この経験をして人は前に進む気力を得て、そして一皮むけるのではないか、と思うのだ。忘れ去るのではなく、自己の体の中、心の中にそれらを吸収してしまうのだ。もしかするとそのように吸収してしまうことが忘れる、ということなのかもしれない。
 というふうに思ったのであるが、本書の最後に美谷島さんはこんなことを書いている。
 「私は、悲しみは乗り超えるのではないと思っている。亡き人を思う苦しみが、かき消せない炎のようにあるからこそ、亡きとともに生きていけるのだと思う。」
 ここまで読み進めて、上記のこと、潮の変わり目とか、吸収することが忘れることなどと思ったことが実は間違いであったことにようやく気づいた。忘れることはできない。吸収してもそれは忘れることではない。共に歩んでいくことなのだ。そうやって美谷島さんはじめご遺族は今も歩まれている。そのことを理解できたことが本書の読後、最大の収穫と云えるだろう。

 御巣鷹の尾根は、現在、運輸交通災害の聖地になりつつあるという。信楽鐵道列車衝突事故(1991年)、名古屋空港での中華航空墜落事故(1994年)、福知山線脱線事故(2005年)、竹ノ塚駅踏切事故(2005年)、さらにシンドラー社エレベータ事故(2006年)などのご遺族が毎年、御巣鷹の尾根に集うという。慰霊は記憶だ。慰霊することで、ご遺族は亡くなった方々と共にいることを確認する。そして、われわれは事故を思い出し、事故を風化させず、安全対策を怠らないことを誓うのだ。そのために慰霊がある。慰霊はご遺族だけのものではない。私たちこそ、慰霊という行為が必要だと思う。
 大災害には、慰霊のためのしくみが必要だ。ご遺族の心を癒やし、再発防止や安全対策を考える拠り所となる。過去の慰霊場所は、たとえば原爆ドームが真っ先に思い浮かぶ。関東大震災では、最大の死傷者が出た被服工廠跡地に東京都の慰霊堂が建つ。その流れで云えば、建築物や被災遺構の保存という方法ではないものの、この御巣鷹の尾根は充分に慰霊のしくみになっているのではないだろうか。かなり深い山の中にあるので、巡礼者は一歩一歩時間を掛けて進むことがすなわち慰霊の行為になっているのだろうと推測される。
 東日本大震災でも慰霊のしくみが必要なのだが、6年と10ヶ月経った今、はっきりとしたものがまだない。
 美谷島さんは、東日本大震災のとき、児童と教師の74名が津波に呑まれて亡くなった事故の「事故検証委員会」のメンバーに選ばれている。まさに原因究明と安全対策、そして慰霊のしくみを考え、社会を動かした人たちの代表としてそこに名を連ねているのだろうと思った。
 悲惨な事故と事件を忘れないために私たち、生きている者がやらなければならないことは多い。

 『帝都防衛 −戦争・災害・テロ−』

 阪神・淡路大震災(1995年)や東日本大震災(2011年)の惨状をみて、70数年前の空襲などの戦災をイメージした人は多いと思う。すべてが焼き払われている(あるいは流されている)様子は、戦争を体験していない人々でも写真を比較してほとんど同じ状況だなぁ、という感想を持つに違いない。
 特にいま心配されている、首都直下型地震において、東京という街がどんな様子になってしまうのかを想像する上で、過去に経験した自然災害や戦争に対する対策と被害状況をみてみることは、すこぶる有益なことということになる。まさに歴史を知ることは将来への対策になるのである。
 首都のことを戦前は「帝都」と云っていた。幕末・維新(1868年)から終戦(1945年)までの東京の守り、防衛体制はどのようになっていたのかを知り、防災対策・災害後の復興対策のヒントになるいい本がある。

『帝都防衛 −戦争・災害・テロ−』(土田宏成 著)(吉川弘文館
(歴史文化ライブラリー452)(2017年9月1日初版発行)

 本書は、江戸幕府によるお台場構築から始まる。“街を防衛する”ということについては、ペリー提督の来航までは、ずっと国内の敵から街を守る、という発想しかなかったが、大砲を備えた蒸気船が太平洋を越えてはるばるやってきたとき、人々は海からの敵から街を守らなければならない、ということに気づいた。それで東京湾に大砲の陣地(台場)を構築していくのである。
 帝都となった東京を外敵から守るのはもっぱら、海からの備えをしていればよかったのは日清・日露戦争まで。第一次世界大戦のとき、飛行機が登場して空からの敵にも備えなくてはならなくなった。
 しかし帝都の防衛は外敵だけではないのである。
 自然災害(関東大震災)と暴動(日比谷焼打事件など)とテロ・クーデター(2.26事件など)などからも帝都を守らなければならなかった。
 実際、帝都に配備されていた軍隊は、帝都において一度も外敵と戦ったことはなく、帝都での動員は同じ日本人を取り締まるためのものだった。日露戦争後の講和に対して不満を爆発させた群衆を取り締まるために軍隊が出動する(明治38年(1905年)9月5日)。関東大震災後の無秩序な混乱の中で、朝鮮人の大虐殺が行われ、それを阻止し秩序を回復させるために出動する(大正12年(1923年)9月1日)。情報が不足していたこの時代。思い込み(流言や蜚語)ほど恐ろしいものはない。朝鮮人虐殺事件はもっともっと情報があれば、起こらなかった事件と云えるかもしれない。関東大震災のとき、日本人はまだラジオを持たなかった。ラジオ放送自体が存在しなかった。実際に、執筆子の祖母(明治25年(1892年)生まれ)は死ぬまで、朝鮮人が井戸に毒を投げ入れたと信じていた。この間違った考えを覆すことができなかったのは、とても残念なのである。
 さらにクーデターも起こる。帝都防衛を任務としている第一師団の一部が反乱を起こし、政府要人を暗殺して政府の転覆と新政府の樹立を目標としたこの事件に対して、軍隊は同じ武力で立ち向かった(昭和11年(1936年2月26日))。

 昭和20年(1945年)8月15日の終戦後、最も心配されたのは、終戦=降伏に反対し、徹底抗戦を叫ぶ身内の軍隊の反乱であり、そのために帝都はただならぬ緊張の中にあったという。実際に、一部の兵士たちは決起しており、それを取り締まったのも同じ帝国陸軍の兵士たちであった。
 こうしてみると、戦前は実にさまざまな出来事があり、人々は若く、体の中に溜めたエネルギーの持って行きどころがなく、それが暴動やクーデターなどの負の行動に出てしまったんだろう、という観察もできる。

 さて、帝都における最大の危機は、云う間でもなく戦争末期の空襲である。敵は容赦なく民間人を殺戮した。敵との技術の差は、歴然としている。さらに帝都東京は木と紙でできている。一夜にして10万人の人々が空襲によって命を落としたのは、昭和20年(1945年)3月10日の未明のことだった。
 政府の方針も間違えていた。最後まで焼夷弾を消すこと(初期消火)を住民に強いていたので、人々は避難をしたくてもできず、そこに踏みとどまり、迫る炎に対する恐怖と戦いながら、火を消そうとする。・・・そんなことできるわけがない。
 なんということだろう。敵の理不尽な攻撃と政府の間違った方針により、何人の人々が死ななければならなかったのか。想像するだけで怒りがこみ上げてくる。
 その場に踏みとどまる、という発想は実は現在の防災対策でも云えるかもしれない。東京都の方針として、人々は自分たちの力で自分たちを守るように云っている。被害が大きすぎて、公的な救助はお手上げ状態。ならば住民同士で命を守り、命を繋いで行こう、ということだ。それはそれで仕方がないし、快適に過ごすためにさまざまな装置が隈なく身の回りに張り巡らされた私たちの生活では、生存への強い行動は起こせなくなっている。現代の都民は、寝床と餌を与えられなければ何もできないペットのようだ。ここで生きる力を取り戻そうとするためには、あらためて身の回りを振り返り、いざと云うときのために備えなくてはいけない。
 そのためにあの時代。あの空襲の時代をもっと研究しなくてはいけないし、経験者の話を聞かなければいけないと思うのである。

 首都を何から守るのだろう? 外敵や自然災害、そして群衆。さらに病原菌からも守らなくてはならないことになるのかもしれない。
 いつの世もたいへんなのだ。自分の身は自分で守らなければいけない。そのために我々は歴史を学ぶのだ。

 『帝都防衛 −戦争・災害・テロ−』

 阪神・淡路大震災(1995年)や東日本大震災(2011年)の惨状をみて、70数年前の空襲などの戦災をイメージした人は多いと思う。すべてが焼き払われている(あるいは流されている)様子は、戦争を体験していない人々でも写真を比較してほとんど同じ状況だなぁ、という感想を持つに違いない。
 特にいま心配されている、首都直下型地震において、東京という街がどんな様子になってしまうのかを想像する上で、過去に経験した自然災害や戦争に対する対策と被害状況をみてみることは、すこぶる有益なことということになる。まさに歴史を知ることは将来への対策になるのである。
 首都のことを戦前は「帝都」と云っていた。幕末・維新(1868年)から終戦(1945年)までの東京の守り、防衛体制はどのようになっていたのかを知り、防災対策・災害後の復興対策のヒントになるいい本がある。

『帝都防衛 −戦争・災害・テロ−』(土田宏成 著)(吉川弘文館
(歴史文化ライブラリー452)(2017年9月1日初版発行)

 本書は、江戸幕府によるお台場構築から始まる。“街を防衛する”ということについては、ペリー提督の来航までは、ずっと国内の敵から街を守る、という発想しかなかったが、大砲を備えた蒸気船が太平洋を越えてはるばるやってきたとき、人々は海からの敵から街を守らなければならない、ということに気づいた。それで東京湾に大砲の陣地(台場)を構築していくのである。
 帝都となった東京を外敵から守るのはもっぱら、海からの備えをしていればよかったのは日清・日露戦争まで。第一次世界大戦のとき、飛行機が登場して空からの敵にも備えなくてはならなくなった。
 しかし帝都の防衛は外敵だけではないのである。
 自然災害(関東大震災)と暴動(日比谷焼打事件など)とテロ・クーデター(2.26事件など)などからも帝都を守らなければならなかった。
 実際、帝都に配備されていた軍隊は、帝都において一度も外敵と戦ったことはなく、帝都での動員は同じ日本人を取り締まるためのものだった。日露戦争後の講和に対して不満を爆発させた群衆を取り締まるために軍隊が出動する(明治38年(1905年)9月5日)。関東大震災後の無秩序な混乱の中で、朝鮮人の大虐殺が行われ、それを阻止し秩序を回復させるために出動する(大正12年(1923年)9月1日)。情報が不足していたこの時代。思い込み(流言や蜚語)ほど恐ろしいものはない。朝鮮人虐殺事件はもっともっと情報があれば、起こらなかった事件と云えるかもしれない。関東大震災のとき、日本人はまだラジオを持たなかった。ラジオ放送自体が存在しなかった。実際に、執筆子の祖母(明治25年(1892年)生まれ)は死ぬまで、朝鮮人が井戸に毒を投げ入れたと信じていた。この間違った考えを覆すことができなかったのは、とても残念なのである。
 さらにクーデターも起こる。帝都防衛を任務としている第一師団の一部が反乱を起こし、政府要人を暗殺して政府の転覆と新政府の樹立を目標としたこの事件に対して、軍隊は同じ武力で立ち向かった(昭和11年(1936年2月26日))。

 昭和20年(1945年)8月15日の終戦後、最も心配されたのは、終戦=降伏に反対し、徹底抗戦を叫ぶ身内の軍隊の反乱であり、そのために帝都はただならぬ緊張の中にあったという。実際に、一部の兵士たちは決起しており、それを取り締まったのも同じ帝国陸軍の兵士たちであった。
 こうしてみると、戦前は実にさまざまな出来事があり、人々は若く、体の中に溜めたエネルギーの持って行きどころがなく、それが暴動やクーデターなどの負の行動に出てしまったんだろう、という観察もできる。

 さて、帝都における最大の危機は、云う間でもなく戦争末期の空襲である。敵は容赦なく民間人を殺戮した。敵との技術の差は、歴然としている。さらに帝都東京は木と紙でできている。一夜にして10万人の人々が空襲によって命を落としたのは、昭和20年(1945年)3月10日の未明のことだった。
 政府の方針も間違えていた。最後まで焼夷弾を消すこと(初期消火)を住民に強いていたので、人々は避難をしたくてもできず、そこに踏みとどまり、迫る炎に対する恐怖と戦いながら、火を消そうとする。・・・そんなことできるわけがない。
 なんということだろう。敵の理不尽な攻撃と政府の間違った方針により、何人の人々が死ななければならなかったのか。想像するだけで怒りがこみ上げてくる。
 その場に踏みとどまる、という発想は実は現在の防災対策でも云えるかもしれない。東京都の方針として、人々は自分たちの力で自分たちを守るように云っている。被害が大きすぎて、公的な救助はお手上げ状態。ならば住民同士で命を守り、命を繋いで行こう、ということだ。それはそれで仕方がないし、快適に過ごすためにさまざまな装置が隈なく身の回りに張り巡らされた私たちの生活では、生存への強い行動は起こせなくなっている。現代の都民は、寝床と餌を与えられなければ何もできないペットのようだ。ここで生きる力を取り戻そうとするためには、あらためて身の回りを振り返り、いざと云うときのために備えなくてはいけない。
 そのためにあの時代。あの空襲の時代をもっと研究しなくてはいけないし、経験者の話を聞かなければいけないと思うのである。

 首都を何から守るのだろう? 外敵や自然災害、そして群衆。さらに病原菌からも守らなくてはならないことになるのかもしれない。
 いつの世もたいへんなのだ。自分の身は自分で守らなければいけない。そのために我々は歴史を学ぶのだ。

 『知らなかった、ぼくらの戦争』

 戦後72年。戦争を経験した人々はどんどん減っている。直接の語り部が消滅しかけている。それならば、今後は若い人がその代わりを務めなければならない。戦争体験者から直接聞くことは不可能でも、それを直接聞いた人から話を聞くことは今後も可能だ。むろんその場合、聞いた人の考えや感情が入り込む。しかしそれもよし、としなければならない。年月は容赦なく過ぎていき、すべての出来事が歴史の遠い遠い彼方に去ってしまう。戦争とか災害とかそういうことは、忘れてしまってはいけないのだ。我々は常に戦争の惨状、災害の惨禍を語り継ぎ、教訓にしていかなければいけない。
 そういう意味で、今回取り上げる書物はとても興味深いものである。なにしろ戦争体験者から聞いているのは、米国人なのだから。聞き役が勝利者の米国人という処がとてもおもしろい。

『知らなかった、ぼくらの戦争』(アーサー・ビナード 編著)(小学館
(2017年4月2日初版発行)

知らなかった、ぼくらの戦争

知らなかった、ぼくらの戦争

 本書は、ラジオの文化放送の番組「アーサー・ビナード『探してます』」のうち、23名の戦争体験談を採録し、加筆・修正をして再構成したものであり、聞き手はアーサー・ビナード氏。
 アーサー・ビナード氏は、1967年にミシガン州で生まれた。大学の時に日本語と出会い、1990年23歳のときに単身、来日。以来27年間、日本に住み続け、日本語で本も書いている詩人だ。
 本書には23名の“体験者”=“語り部”が登場する。全員、ビナード氏がインタビューをしている。
 軍国少女、真珠湾攻撃時の飛行士、日系米国人、北方領土在住者、兵器工場勤労動員、BC級戦犯、戦艦武蔵の生き残り、硫黄島生き残り、海軍特別少年兵、満州在住者、沖縄出身者、疎開せずに東京にいた噺家、広島生存者、長崎生存者、空襲の語り部、GHQ在籍者・・・・・。
登場するすべての人たちが、まさに輝かしい経歴を持っている。そしてこの人たちを選んだビナード氏や関係者に敬意を表する。インタビューはおよそ2年前の2015年に行われたものであるが、2017年9月現在、この中でもかなりの方が鬼籍に入られた。
 ビナード氏の揺るぎない視点は、真珠湾攻撃が米国の策略で実行された、というものだ。米国が連合国として第二次世界大戦に参戦するためには、米国市民が犠牲となる何かしらの事件がなくてはならないと、米国政府は考えていた。そしてそのために対日交渉を途中で打ち切り、日本が米国へ攻撃を仕掛けるように仕向け、実際にその試みは成功した、という視点。ビナード氏はかたくこの考えを信じている。そしてその意見を補完するように真珠湾攻撃に参加した元戦闘機乗りにインタビューをして次の台詞を引き出した。曰く「空母は何隻いたのか?」
 日本は米国太平洋艦隊の本拠地である真珠湾への奇襲攻撃を食わらしたが、そこには戦艦が数隻しか停泊しておらず、航空母艦は一隻もなかった。もし本当に不意打ちの奇襲攻撃だったなら、空母は必ず停泊していたはずだ、という。米国政府は日本の攻撃を事前に察知していて、空母をすべて出港させていた。偽装の奇襲において、さすがに空母を犠牲にするわけにはいかない、ということだ。しかし、それは本当にそうなのか?米国が参戦するために自国民を何千人も犠牲にするのか。自国民をそんなに簡単に裏切ることができるのだろうか。
 確かに、以後日本憎しの世論が形成され、米国民は一丸となって戦争への道を歩み、圧倒的な物量で枢軸国に圧勝した。広島長崎も一般市民を標的にした度重なる都市への空襲も卑怯な日本人に鉄槌を下す、という乱暴な論法で正当化ししているし、米国に住み、米国市民権を持っている日系人を収容所に入れる蛮行、さらに占領した日本に対する態度など、もしかしたらすべてが米国政府のシナリオどおりなのかもしれない。しかしそれではあまりにも悲しすぎるし、第一に歴史を一面しか見ていないような気がするのである。
 本書はビナード氏が生存者にインタビューをして、そしてそれぞれのインタビュー掲載後に彼の考えを述べているものであるが、この米国政府陰謀説をバックボーンにして解釈しているのに、やっぱいすこし違和感を覚えるのだ。
 そうは云いつつも、さすがにビナード氏は詩人だけあって、ことばに対する鋭さが違うのである。彼らの吐いた何気ないことばに反応し、それを手がかりに想像力を働かせて戦争を表現しているのはさすがなのだ。一例を挙げる。
 BC級戦犯としてスガモプリズンに収容されていた元兵士にインタビューをした時、ビナード氏は彼から「君は「狭間」ということばを知っているか?」と聞かれた。そしてビナード氏は次のように応えた。
「国家がいっていることとやっていることがかみ合わない中で、自分が国を愛してやったことが、犯罪として裁かれる。とんでもない話だと思います。責任者の国家が責任回避に明け暮れて、飯田さん(元兵士)は個人として責任を背負わされた。そしてそれを果たしつづけてきたんですね。」・・・・・この部分で執筆子のわたしは泣いた。

 日本では「戦後」ということばは、1945年以降を指すことばであるが、米国では「postwar」は必ずしも第二次世界大戦が終わってから後のことを指すわけではない。なぜかと云えば、その後も米国は世界中のあちこちで戦争をしているからだ。ビナード氏は日本に来てはじめて日本語の「戦後」に遭遇した。米国は「戦後のない国」だから。そしてビナード氏は、この戦争体験の話がその枠に収まらず、戦後をつくることにつながっていることに気づき、そして実は彼自身の生き方にも多大な影響を与えていると、あとがきで正直に吐露している。
 翻って、我が身に置き換える。戦争を知っている身内がどんどんいなくなっているが、それでも若い時に祖母や伯父伯母、そして両親からさまざまな戦争の話を聞いてきた。主に東京での戦争体験であるが、父の経験した3月10日の東京大空襲の体験記は今思い出しても鳥肌が立つ。父が生き残ってくれたお蔭でこの身がいまここに存在するわけで、社会の中に居場所を得て、こうして人々に囲まれて生きているのである。そういうことに思い至ったとき、これが自分の戦後なのか、と思わざるを得なかった。