齊藤俊彦『轍の文化史:人力車から自動車への道』

轍の文化史―人力車から自動車への道

轍の文化史―人力車から自動車への道

 明治維新以降の車両の発展を、明治期の馬車と人力車に力点を置いて通観した本。自動車黎明期に、乗合自動車が乗合馬車の妨害を受けたという話は多いが、その乗合馬車も、明治に入ってから発展した、新来の交通システムであったというのが、実に新鮮。
 第一章から第四章までは、通史的な整理。明治維新までの日本社会では、車両の利用はごく限られた状態にあったが、幕末期から東海道筋での乗合の人力車のような萌芽が見られたこと。横浜の居留地と江戸の往復から乗合馬車が始まったこと。明治のごく初期に人力車が発明され、全国に爆発的に広がったこと。その後、鉄道の路線が延びるに従い、長距離の乗合馬車路線が壊滅。駅を起点とするフィーダーシステムに再編成される。その後、市電の導入と自転車の普及に伴って、明治の30年前後をピークに、人力車は衰退局面に入る。
 第五章から第七章までは、馬車と人力車による交通の周辺。車夫・御者の生活、人力車の生産、車両の導入に伴う道路等のインフラ整備について。後二者が個人的には興味深い。人力車が、自転車と似たようなアッセンブル産業であったこと。ただし、人力車の場合には木製部品が占める割合が多い。また、海外、主に東南アジアに輸出され、それは現地好みの模様が描かれ、また国内の衰退期から輸出のピークが15年ほど後だったため、生産者への影響を押さえた点等が指摘される。また、これらのメーカーの一部が後に自動車のボディ生産に転じたことや明治期の自動車のボディが木製であったという話も興味深い。後者は、道路整備の話。車両の普及に伴って、街道の整備が必要とされ、「車両が通れる道」の整備は進んだ。が、自動車を通すには難しかったこと。有償道路の存在が興味深い。
 第八・九章は自動車の初期の状況。最初の自動車の追及と初期の自動車の所有者。自家用車の運転手について。あるいは初期のバス事業者。自動車の規制と乗合馬車と規制の類似点。
 人力・畜力の車両という部分から、近代の陸上交通史を追求したのが興味深い本。馬車と人力車が、日本の道路交通を改変し、その流れに自動車交通が乗っかったという指摘が興味深い。一方で、本書では、乗用車両のみに言及して、荷車や荷馬車についての言及が少ないのが残念ではある。馬車や人力車ですら、断片的な状況であることを考えると、さらに追求が厳しそうではあるが。


 車両に対する身体的反応が興味深い。

 大森貝塚の発見で有名なエドワード・S・モース(1873-1925)も、通行人の様子について、次のように述べている。


 東京のような大きな都会に、歩道が無いことは奇妙である。往来の地盤は固くて平らであるが、群集がそのまん中を歩いているのは不思議に思われる。人力車が出来てから間がないので、年とった人々はそれを避けねばらぬことを、容易に了解しない。車夫は全速力で走ってきて、間一髪で通行人を轢き倒しそうになるが、通行人はそれをよけることの必要を知らぬらしく思われる。乗合馬車も出来たばかりである。これは屋根がある四方あけ放しの馬車で馬丁がしょっ中走っては人々にそれが来たことを知らせる。反射運動というようなものは見られず、我々が即座に飛びのくような場合でも、彼らはぼんやりとした形でのろのろと横に寄る。(E・S・モース著、石井欣一訳『日本その日その日』)p57-8

当時の江戸の人間は、車が来ても、そのような反応しか出来なかった。反射運動の類も、時代に規定されるのだな。