稲川實・山本芳美『靴づくりの文化史:日本の靴と職人』

靴づくりの文化史―日本の靴と職人

靴づくりの文化史―日本の靴と職人

 稲川氏の研究を下敷きに、山本氏が再構成したという感じの書物らしい。日本へのヨーロッパ式の靴の導入とその生産の歴史、ヨーロッパの靴生産の歴史、稲川氏の経歴から戦後の靴生産の浮沈、現在の靴生産技術の継承活動といった構成。靴が日本社会に根付くのに非常に時間がかかったことや、その中で靴生産が基本的に軍需に依存していたこと。ロシアへの軍靴納入が機械化を可能にしたことなど、いろいろ興味深い。東京の浅草周辺や山の手、大阪西濱、近江八幡などが有力な靴の生産地だそうだが、東京に多いのは、やはり軍や国家公務員の需要が中心だったからなのだろうな。本書では、問屋制家内工業としての側面はまったく等閑視されているが、そのような側面から靴生産を見直すと、また面白いのではなかろうか。雑貨やアクセサリーなど、問屋制家内工業軽工業が、かつては日本にはたくさんあったわけで。
 あとは戦後、空気圧で革と底を圧着するセメンテッド製法が非常にダメージを与えたという指摘とか、近年、靴作りが再評価され、若者が技術を学ぶようになっているが、未熟な腕で独立してしまう危険性などの指摘も興味深い。


 以下、メモ:

 ただし、この時期、日本人が靴をはくのは一般的ではない。幕府が急速に西洋化が進行することを恐れ、異国の筒袖着用を禁じ、見つけ次第捕えると布告したためである。文久元年の御触れには次のものあった。


皮覆の儀も 御軍艦方等 船中に限り 相用候儀は不苦 百姓町人共儀も 職業柄商売体に寄り
筒袖着用 雪中皮履相用候儀在来の品は不苦といえども 外国の製に紛敷仕立候儀は不相成候


 幕府は、軍艦方が町中で革靴をはくことを禁じたのである。同じ御触れで、百姓や町人についても従来の服装で、仕事上必要であれば防寒靴をはいてもよいが、外国製に紛らわしい仕立て方であってはならない、と命じている。p.19

 幕末の洋装禁止。攘夷派の攻撃も含め、なかなか洋装には抵抗が強かったようだ。

 女性に洋装が定着するのは、大正に入って腰巻に変わってズロースが用いられ、女性たちが職業婦人として働くようになってからである。モガの登場も手伝って、都会での洋装化は進んだ。また、昭和初期に松坂屋が、気軽に着られる「アッパッパ」を売り出したことで全国的に女性の洋装は浸透していく。だが、昭和三十年代に「セメント靴」(底をはりつける接着剤による糊づけ)の製法が普及して大量生産が可能になるまで、日本全国の人々が靴をはくにはいたらなかった。都会から遠ざかるほど、靴になじみがない生活を送っていたのである。大方の人は、第二次世界大戦から戦後の物資不足まで、苦労して手に入れた一足の革靴を大切にし、磨き、底が破れれば、はきつぶすまで直していた。大量生産以降は、誰もが靴をはいているが、大切にしない時代がはじまったのである。p.40

 靴の普及そのものが昭和30年代までかかった上に、消耗品扱いで、手入れなどの「靴文化」は定着していないという話。まあそうなのかもな。

 昭和の終わりまで現役の靴職人として活躍した藤田時蔵の記録によると、河井市次郎という靴仕事の親方により明治末年にはミシンが導入されていたことがわかっている。また、ロシアを注文元とする婦人用軍靴(長靴)の製造・輸出が活況をもたらした。大正の初期までロシア向けの靴の輸出が盛んだったため、この地域ではロシア紙幣がしばしば見受けられ、商用でロシアと行き来する人もいたという。p.87

 大正三(一九一四)年、世界の製靴法に革命をもたらしたグッドイヤー・ウェルト製法の機械を日本製靴がアメリカから輸入する。これは手江靴と同じ工程がとれるが、当時は日産二足に達しなかった。日本製靴が大量生産を試みたのは、第一次世界大戦に参戦したロシアから十五万足の大量注文が入ったためで、他社を含めての輸出額総計は千九百万円にのぼった。これは、日本の陸軍省一年間の発注高四百万円の四倍という巨額の受注であった。受注は当時の製造能力を大きく上回ったので、皮革産業界は空前の好景気となった。しかし、大正五(一九一六)年に、ロシアからの軍用革製品(軍靴・長靴・弾薬盒・馬具・帯革)の発注は打ち切られる。大正七(一九一八)年に戦争が終結し、ロシアが負けたのでルーブルが「紙くず」同然になるなどの悲喜劇があった。しかし、特需で得た利益から、製造能力が優れたグッドイヤー機を輸入して一般向けの靴を生産する製靴会社が次々設立されていく。大塚製靴も大正十(一九二一)年に、海軍から軍靴を受注してグッドイヤー機を導入している。昭和三(一九二八)年には、機械靴の年産は二百万足を突破し、手工靴をしのいだ。p.100-1

 靴産業の発展に対するロシアへの輸出の重要性。軍靴を基本に、ロシアへの輸出で発展している感じだな。それで、製靴の機械化を果たしていると。第一次世界大戦の特需って、ものすごかったんだなと。

 機械生産は、さらなる分業化を進めた。靴の製造過程は機械化されても外観からは隠れた部分の作業が最低八〇から一五〇段階を数え、部品も多い。通常、一足の靴は二二点の革を継ぎ合わせてつくられる。製甲と底付けは分業の最低単位で、単純に言えば、製甲の裁断、底革の裁断、製甲、底付け、仕上げとなる。修業を終えた人が増え、機械化が進み、靴産業全体が拡大するにつれて、作業はより細分化した。デザインして型紙を起こしたり、革を裁断したり、アッパーを縫ったり、底をつくったり、接着作業だけをしたり、鳩目穴の加工を担当したり、靴の飾りのふさだけをつくったりなど、分業が広がったのである。夫が工場で底付けをし、家で妻が靴関係の内職をおこなうのは、産地ではよくみられることである。効率を追求し、各作業を専門の会社や事務所、個人が担当する。その各作業は、さらに下請け、孫請け、ひ孫請けに出されていく。靴が戦後に目まぐるしく変わるファッションと深く関わりをもつようになると、分業体制は小回りの効く生産を支えた。しかし、資金繰りが順調ならよいが、親会社と子会社、下請け、孫請けから家内職まで緊密に結びついた関係は、しばしば連鎖倒産を引き起こした。これは現在の靴業界にもある構造なのである。言い換えれば、このような業界の構図は、その人がどのような立場でどのように靴に関わるかで見えてくる景色、考え方を大きく異ならせてしまう。だから、この本で靴のすべてを書きつくしたわけではなく「あくまで自分たちが知りえた限りの」と前置きしなければならない。それだけ、裾野が広く、また深い世界が製靴産業には広がっているのである。p.101-2

 このあたり、企画や資金提供をする立場から見ると、確かにだいぶ見える光景が違いそうだ。問屋制の分業生産と理解して、整理すると、どういう構図になるのだろうな。

 以上が、世界的にみたスポーツシューズの開発とその普及の歴史である。だが、「アサヒコーポレーション」や「ムーンスター」などの日本のスニーカーや運動靴などの主要メーカーの発祥は、大正時代の地下足袋(貼付式ゴム底足袋)の発明にさかのぼる。地下足袋は、九州の久留米市に本拠を置く「日本足袋」と子会社の「アサヒ地下足袋」を経営していた石橋徳次郎によって大正十一(一九二二)年に現在の原型が開発された。それまでも地下足袋は生産されたが、ゴム底縫付け技術が開発されず耐久力にとぼしいため、第一次世界大戦後まで草鞋が優勢だったのである。上京した徳次郎は、三越百貨店で米国製テニスシューズを購入し、貼り合わせ方式の着想を得た。ゴム糊をゴム底粘着に利用して堅牢なゴム底を開発し、現在と遜色ない品質と外観の地下足袋生産に成功した。底を滑らない波型にしたのも徳次郎の発明である。地下足袋は、近隣の炭鉱夫に好評で、全国に爆発的に普及した。はきやすく、安全性が高く、足が冷えにくいことから工事現場や炭鉱、農村で愛用されたが、特に人力車の車夫が用いた。靴では足の親指を開けず、五指を束にするのでふんばりが効かず長く走れなかったためである。関東大震災後、地下足袋業界は日産一万足を達成した。この「日本足袋」はゴム底靴製造販売にも進出し、のちに「アサヒコーポレーション」となる。
 また、ムーンスター(旧・月星化成株式会社)も、福岡県久留米が出発点になった企業である。明治六(一八七三)年に初代倉田雲平が座敷足袋の生産をはじめ、大正十一(一九二二)年に地下足袋を発売したあと、徐々に運動靴やウォーキングシューズ生産に主軸を移してきた歴史がある。ランニングシューズ、特にコンマ一秒を競うトップアスリート向けの靴開発で知られるミズノは、野球やテニスなどのスポーツ用品の開発と生産から靴づくりに参入している。子供用の運動靴「瞬足」のヒットで知られるアキレスは、戦前は織物会社で、戦中に国策でゴム製品を扱い、戦後になってゴム長靴を手がけるようになった。だが、昔かたぎの靴職人のなかで、「おれ、スパイクつくっていた」と語る人もいたという話なので、スポーツシューズの開発に「人間工学」が君臨する以前は、職人たちは互いの業界を行き来していたのだろう。p.108-110

地下足袋から発展した神戸のケミカルシューズ
 神戸でケミカルシューズを手がける靴メーカーも、地下足袋生産を発祥とするものが多い。ケミカルシューズは革靴以外の靴を指す名称で、人工皮革や塩化ビニール製の靴のことである。ゴム底足袋が明治三十五(一九〇二)年ころから阪神岡山県などで生産されたのは、神戸が日本のゴム工業発祥の地であったことと関係がある。明治十八(一八八五)年に、最初のゴム工場でゴム球とゴム枕の製造がおこなわれた。神戸にゴム工業が立地した理由は、生ゴムの輸入、製品の輸出に適した港に豊富な労働力があったことである。明治四十二(一九〇九)年に、神戸ダンロップ護謨株式会社が設立されたのを契機として大正時代にゴム履物工業がおこり、ゴム長靴、地下足袋など総ゴム靴が生産され、のちに運動靴も手がけるようになった。戦後も、ゴム製はきものは急成長したが、昭和二十五(一九五〇)ごろより業界環境の変化に合わせてさまざまな材料を用いて靴を生産するようになった。そして、昭和二十七(一九五二)年ごろにに、第三の靴として塩化ビニール製のケミカルシューズが誕生した。神戸の長田区が主要な生産地となり、朝鮮や韓国から来た人々、奄美以南の喜界島、徳之島、沖永良部島与論島沖縄本島などから出稼ぎに来て定着した人々など多様な背景の人々が、生産に関わるようになった。ところが、平成七(一九九五)年の阪神・神戸大震災によって、企業の八割が壊滅的な打撃を受けてしまった。現在も、復興させようと日本ケミカルシューズ工業組合はさまざまな取り組みをおこなっている。p.112

 革靴は軍需を中心に東京や大阪などで発展したが、ゴム製や塩化ビニール製の靴生産は別の出自をもっているという話。

 東京は全国の革靴メーカーのほぼ過半数を占める、その四割強が台東区にある。以下、足立、荒川、葛飾区で都内全体の九割を占める。台東区隅田川沿いの今戸・橋場・浅草・花川戸・千束といった地区は、全世帯の七〇%が皮革関連産業に携わっており、日本における有数の皮革産業地帯である。平成二十(二〇〇八)年度の東京都の革製はきもの事業所数は三八一、仕事に従事する人は三〇二八名で。国内最大の靴の産地となっている。なかでも、台東区の浅草を中心とした一帯には、靴や革に関連する中小企業が多数集まる。皮革・製靴産業が振興していくにつれて、一大皮革産業地帯であった浅草を中心に江東六区(荒川・墨田・足立・江東・葛飾・江戸川)へと製靴工場が広がっていった。つまり、浅草は靴に関係する人とモノが集中する土地であり、全国の皮革と製靴産業のほとんどが何らかのつながりをもっている。p.151

 工業地帯としての東京。ファッション関係の企業の層は厚いらしい。北村嘉行編著『中小工業の地理学』asin:4883615979で、ジュエリー生産が取り上げられていたな。

 また、戦前は朝鮮や台湾などの植民地において日本製の靴のカタログ販売が広まり、日本発の技術が移植されて職人たちが養成されていた。浅草の靴メーカーと旧植民地の職人たちの関係は戦後も途切れず、稲川さんによれば、現在からおよそ十五年ほど前に韓国から出稼ぎに来た職人が浅草の靴メーカーの門を叩いたという。実は昭和五十年代より、日本の靴生産は原価計算からすると利益率の悪い状態となっていた。また。熟練した職人の中心が七十歳代となって、中堅の働き手がいなく、三十代以下の若手がいるという状態であった。そのあいだを埋めたのが、韓国からの出稼ぎの職人だった。中国から来た人々は建設工事などの単純労働系の仕事に就いたが、韓国から来た出稼ぎ職人は、浅草のメーカーにとって「ありがたかった」という。言葉が通じなくても道具の名称などは日本語が定着しており、靴づくりの手法は植民地時代のものと、六〇年代より七〇年代に韓国にあった日本企業の下請け工場から伝わったもので、身ぶりで意思が通じたためでもあった。他産業では「外国人労働者を安く使う」というような話はあったが、靴メーカーは、日本の職人と同じ待遇をした。文句を言わず何でも仕事をこなしてくれ、夫が底付けを、妻がヒールの革巻きや中底巻きなどの仕事など内職的な作業をして夫婦で稼いでいた人々もいたという。特に十年ほど前には来日者が相次ぎ、浅草の街角に韓国の食材店や食堂が見られるようになった。しかし、不法滞在の人々は、一九九九(平成十一)年以降、徹底的に取り締まられて次々に帰国していった。二〇〇三年七月五日付の『毎日新聞』に「揺らぐ『地場産業』 台東の靴工場 韓国人ら逮捕』という見出しの記事がある。記事によれば、台東区今戸の下町の一角で、靴工場を経営する韓国人夫婦とそこで就労していた韓国、中国人十三人が出入国管理法違反容疑で警視庁に逮捕された。摘発は取引先に影響を与え、靴底が届かずに操業を止めざるを得ない工場もあったという。観光ビザで韓国から入国した四十歳代の靴職人は「違法は承知だが韓国では仕事がない。ここでは自分の技術が必要とされている。ずっと働きたい」と訴えたという。産業構造の変化や働き手の不足もあって、一時は二百社から三百社を数えた浅草の靴メーカーは、現在は八〇社から百社に減っている。その浅草の靴メーカーを一時期支えたのが、外国人労働者だったのである。p.155-6

 韓国人の靴職人が90年代あたりに浅草の靴メーカーに大量にいたという話。技術や用語の共通性も興味深い。こういう手に職を持った人を追い返して、「実習生」という名の未熟練労働者を移入してくるって、わけのわからない話だよなあ。

たかやKi『ひょうい☆ドン 1』

ひょうい☆ドン! 1 (チャンピオンREDコミックス)

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 『恋糸記念日』で絵が気に入ったので、買ってみた。妖怪がエロハプニングを起こしまくり、それを退治する話。美少女が脱がされまくる。露骨過ぎる、もっとやれ。
 特に第三話のオチが、笑える。
 ただ、委員長と桜さんが微妙に見分けがつかない…


 ところで帯の「No.1美少女絵師」というのを読んで、素でたかやKi氏は美少女なのかとか思ってしまった。かなり頭湧いてるな。美少女を描く絵師のNo1と冷静に考えれば分かるだろうと、セルフツッコミせざるを得ない。


たかやKiの初 一般コミックス ひょうい☆ドン!1巻 「予想を超えるエロさwww」 - アキバBlog