浜本篤史編『グローバル社会を歩く8:発電ダムが建設された時代:聞き書き御母衣ダムの記憶』

発電ダムが建設された時代―聞き書き 御母衣ダムの記憶 (グローバル社会を歩く 8)

発電ダムが建設された時代―聞き書き 御母衣ダムの記憶 (グローバル社会を歩く 8)

 岐阜県の白川村に建設された御母衣ダム建設と、それにまつわる生活の変化を中心に、当時の住民から聞き書きした本。当時、10代前半から20代前半あたりの人ばかりで、村内政治の中核にあった人々の子供の世代で、村内の軋轢や地域の変化という状況をほとんど知らない人ばかりなのが、時間の経過を感じさせるな。特に、この地域は戸主の権力が強い風土だったようだから、余計子供世代は何があったのか知らないのだろうな。まあ、土地補償に関わった人のインタビューで、そのあたりにあまり突っ込んでいないあたり、生活感覚の変化がテーマで、地域社会にどんな亀裂が走ったかというところは意図的に外してあるんだろうな。
 前半は白川村の住民が主体で、その後も同じ地域に住み続けた人々の体験談、後半は移転した人の体験談。
 当時、白川村や旧荘川村では、義務教育が終わった後、進学する人がほとんど居なかった状況。あるいは、平瀬集落が、工事景気で繁栄していた姿。たくさんの商売人が集まって、御母衣銀座ができたとか、次の九頭竜ダムでは何らかの対策が行われたのかあまり儲からなかったと言うのも興味深い。作業員も、後先考えないような荒っぽい人々が集まって、治安が悪化したとか。建設作業でも、百人以上の死者が出ているそうで、荒っぽい時代だったのだなと。作業中の写真が紹介されているが、この時代のショベルは、電動で、ケーブルを使う方式だったのだな。現在はほぼ油圧式に切り替わっていて、この当りも時代を感じる。
 後半は、補償を受けて、移動した人々。補償金を元手に不動産を取得して、それで生計を立てた人が多かったのかね。高度成長やバブルで取得した不動産は値上がりしたし、リゾート開発なんかで荘川村の山林なんかも値上がりしたそうだから、そういう点でも幸運に恵まれていたのだろうな。現在だと、不動産経営は厳しそうだし。ただ、話者4人中、2人が官公庁勤務というあたり、本書の登場人物が「典型的」とは言えなさそうな。後は東京で割烹店を開き、後にホテルに転じた人、関市で銭湯を購入し、後に自動車の縫製業に転じた人が紹介されるが、こちらの方が典型的な姿なんだろうな。御母衣ダムの移住者が、東京のラブホテル経営に転じたというのは有名な話らしいし。関市では、11軒の銭湯のうち、5件を御母衣ダムの水没地の人々が占めたというしな。
 本書でのインタビューの対象は、何らかの形で、ある程度成功し、安定的な生活を続けられた人々と言った感じ。ただ、ちょこっと触れられているけど、補償金をあっという間に芸者遊びで使い尽くした人とか、給料を使い果たしていたダムの作業員なんかが、その後どういう生き方をしたのかが気になる。消え去っていった人々をどう追うか。


 以下、メモ:

 御母衣のあとは、大白川ダムをつくっていたときも人夫さんが入って来ました。けど、最初ほど多くはなかったねえ。ダムで平瀬が賑やかだったのは昭和三十八(一九六三)年ころまでやね。村の人口も三千人くらいになっていたんです。そのあとはまた、九頭竜ダムができることになってねえ。それでこっちの地元の人も向こうに行って、やっぱり賠償金を狙ってね、家建てたり土地買ったりと、そういう人、何人かみえましたよ。それで結局はね、御母衣ダムに賠償したころのようなお金にはならなんだやって。元も取れなんだぐらいに、失敗に終わったってことだとかは聞きました。そういう人けっこう、地元の人もいんだよ。私たちは生え抜きでずっとやってきたので、ここで宿を続けたんやけど、まわりでは人夫さんについていく宿も多かったよ。蕎麦とか料理屋とか、映画館なんかも。そういう一時期だけ建てた人は、工事が終わるとすぐに店をたたんで、人夫さんについて九頭竜の方へ行ったんやよ。p.51

 なんか、鉱山町みたいな話だな。あと、補償金目当てで、土地を買ったりとか。御母衣ダムは、それだけ潤沢な補償を受けられたってことなんだろうな。