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手 品 師 このページをアンテナに追加

2018-05-21

法然親鸞の「信心」観 法然や親鸞の「信心」観のブックマークコメント

信心とは如来から与えられるものであって、自分の力で手に入れるものではなかったからです。わたしたち人間は如来から信心を賜ることによって救われるというのが、法然や親鸞の基本的な「信心」観でした。わたしたちは、浄土門門徒であるかぎり、この「信心」観に依拠しつつ、信心を与えられる瞬間を待たなければなりません。ですが、ただぼんやりと待っているだけでは、いつまでたってもわたしたちの胸底に信心が生まれるという事態は生じようもありません。

【念仏者 蜂屋賢喜代(はちやよしきよ) 伊藤益 著 北樹出版 P163より】


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浄土真宗でいう『信心』は、「阿弥陀さまから私へ」という点で、他宗教とは異にします。方向が180度違うのです(他宗教は、私から絶対者に差し向ける、お願いする、祈る)。まさにコペルニクス的転回というべきです。といいましても、ここでも指摘されていますように「ただぼんやりと(救いを)待っている」といった棚から牡丹餅的(労せずしてよいものを得る)なものではありません。『仏法は聴聞に極まる』と蓮如上人はご教示くださいます。聴聞に勤しませるはたらきも阿弥陀さまに依るものです。このいまも、私は、阿弥陀さまのお育てに授かっています。有難いことです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

2018-05-14

阿弥陀さま視点 阿弥陀さま視点のブックマークコメント

善悪のふたつ、

総じてもつて

存知せざるなり

(私は善と悪、二つの事柄について何も知らないのだ)

『歎異鈔』後序


(注釈)

親鸞ほどの人間がものの善悪がわからない、というのだろうか。しかしここでいう善悪というのは一般的な善悪のことではない。仏の目から見た善悪のことをいっているのだ。われわれの考える善や悪は、「自分の都合」を通して判断しているようなものである。本当の善とは何か、悪とは何か、仏でなければわからないのではないか。「自分の都合」で構築されたこの世のすべては嘘偽りにまみれたものだ。だからこそ親鸞は何が善で悪なのかわからない、といったのだ。

【親鸞 100の言葉 釈撤宗(監修) 宝島社P38,P39より】


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ここでいわれている「善悪」は、仏さま(阿弥陀さま)からみたものです。「自分都合の視点」は大きな弊害を生みます。また、自分視点はどうも不安で安定しません。何事も、仏さま(阿弥陀さま)視点で物事を捉えていきますと、私の視野は広がります。「わたしは、わたしは、」を少し横に置いときまして、「仏さま(阿弥陀さま)は(私を)どう見ているのか」という一歩引いた視点で自分を見つめ直す余裕が大事だと思います。仏さま(阿弥陀さま)視点という大きなスケールで自分を客観視することはとても大事なことだと思います。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2018-05-10

現代の私たちのプライド 現代の私たちのプライドのブックマークコメント

現代人が 「宿業 」という言葉を拒否するようになった理由も分かる 。つまり 、現代人においては 、自己に対する 「自信 」が肥大化しているのだ 。自らの行動は 、自らの意志で自由にできるという、まさしく 「思い込み 」が広がっていて 、自分の行為に 、わけのわからない 「束縛 」があるとは 、認めがたい 、ということだ 。自分のことは 、自分が一番よく知っているのであり 、自分の意志で決められないことはない、という 「自信 」である 。

もし、うまくゆかないことがあるとすれば、それは、あの人間が邪魔をしているからであり 、そうでなければ 、環境が悪いのだ 。あるいは 、自分の努力が足りないのかもしれない 。それだけのこと 。自分も知らないような過去に 、現在の苦境をもたらした原因があるなど 、とても受け入れられないし 、それは迷信だ 。迷信で非科学的である 、と思われることは、絶対に受け入れることはできない 。これが 、現代の私たちのプライドであり、それが 「宿業 」という言葉を拒否しているのであろう 。

 このような自己への「自信」は、死に方についても、できるだけ苦痛を少なくして安楽に死ねるはずだから、そうしてもらいたい、という要求ともなる。死に方も自分の意志で決めようとするのだ。

【行動する仏教 法然親鸞のおしえを受けつぐ 阿満利麿 筑摩eブックスより】

宿業(しゅくごう)

過去世につくった善悪の業、または善悪の行為の力のこと

【浄土真宗辞典より】


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わたしの自信やプライドは、確かに、生きていく上では必要です。ただし、南無阿弥陀仏のはたらきに気づかせて頂くという視点からみますとハードルになっています。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2018-05-03

目覚め 目覚めのブックマークコメント

縁が熟して、阿弥陀仏の本願という「物語」に納得できるようになると、「宿業」に縛られたまま、私は「完全な存在(「仏 )」に向かって歩み始める 。つまり、「宿業」という束縛から、自由になるのだ 。その自由とは、束縛がなくなるという意味ではない 。生涯 、「煩悩 」からは逃れることができない人間であるから 、自己愛に発する束縛は続く 。しかし、その束縛を恐れなくなる 。どのような束縛に出遇っても、たじろがずに引き受けて生きてゆける 。それが「凡夫 」にとっての自由な生き方、という意味だ 。こうなってみると、今までの人生とは著しい違いが生まれてくる 。一つは 、束縛としか感じられなかった「宿業 」が、今の「私」を「私」たらしめている無数の縁であったと肯定されてくる 。かつては 、自分には不都合で承服しがたい人物であり、ことがらだと切り捨ててきたものが、今の私をつくる縁であった、と了解できる 。文字通り、逆縁もまた縁であったのだ 。もっといえば、「因 ・縁 ・果」の巨大な網の結節点として、「私」が関係性のさなかに生きていることが実感されてくる 。

【行動する仏教 法然親鸞のおしえを受けつぐ 阿満利麿 筑摩eブックスより】


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南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされると、その後の人生の根底は大安心ということです。日々の喜怒哀楽といった感情や運不運は変わりませんが、「生きてよし死んでよし」の心境になります。言い換えますと、「阿弥陀さまにおまかせ状態」ということです。煩悩は変わりませんが、心の底にはビシッと末通った安心感があります。「南無阿弥陀仏」のお念仏がその具現化されたエビデンスであります。そのお念仏は、阿弥陀さまに対する報恩感謝であり、阿弥陀さまと私の言葉のキャッチボールでもあります。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2018-04-29

本願を信ずるとは 本願を信ずるとはのブックマークコメント

 煩悩を生きる私たちと(阿弥陀仏の)本願との関係について、親鸞は、次のように和讃している。


本願力(ほんがんりき)にあいぬれば

 むなしくすぐるひとぞなき

 功徳(くどく)の宝海(ほうかい)みちみちて

 煩悩の濁水(じょくしい)へだてなし

                「高僧和讃

         

 阿弥陀如来の本願の力に遇ったならば、煩悩のなかに生きているそのままに、私たちは無上涅槃に至らしめられる。仏になりたいと願う私たちに対して、そのような誓願されているのである。煩悩のままに生きる私たちの現実は、仏陀となることから見放された空しい人生ではけっしてない。浄土に生きる者となりたい、と念仏道を歩むならば、無上涅槃が約束された人生になろう。そのための目覚めが本願によって与えられているからである。

 本願を信ずるとは、「生かされている私」であると自覚しつつ、「私が生きている」という自我が念仏によってたえず打ち破られることなのである。

【親鸞が出遇った釈尊   小川一乗  真宗文庫より】


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「本願を信ずるとは何ぞや?!」の回答において、非常に分かり易く解説されています。いろいろな表現法があろうかと思います。ここでは「自我が念仏によってたえず打ち破られること」とあります。素晴らしい言いまわしだと思います。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2018-04-22

聴聞の振り返り(常例布教:築地本願寺) 聴聞の振り返り(常例布教:築地本願寺)のブックマークコメント

本日の東京は夏でした(暑)。先月に引き続き、常例布教(築地本願寺)に参加いたしました。1座と短いご縁でしたが、定期的な聴聞はよいものです。心のリフレッシュになりました。聴聞を終えて、個人的な思いや感想を織り交ぜて箇条書きにしました。


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・自分最高、自分のことが第一、これぞ、私に真酔なり(笑)

・自分大好きの自分中心人間、何を隠そう、この私なのですが、そんな自覚はサラサラありません。そう言う私の開き直りもほどほどに(笑)

阿弥陀さまは立っておられる。いま、溺れている者をすぐに助けるため、のんきに座ってはおりません。阿弥陀如来像の通りです。具現化されています。

・阿弥陀さまの「必ず救う!」というお誓いなので、私は救われます。仏語に虚妄なし、ですね。阿弥陀さまが発せられた言葉は次元が違います。大変力強いお言葉です。

・広島では、聴聞にいく、という表現が多いとのこと。さすが安芸門徒、違います。

・我々は、3つの銘柄に酔いしれている。貪欲、瞋恚、愚痴という・・・。

・私の迷いを破ってくれるのは、阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきなのでした。

・私の口から、南無阿弥陀仏のお念仏、阿弥陀さまのなせる業なのです。

・浄土真宗の教えは、こちら(わたし)から、お願いする、という教えではありません。そんな教えはほかにはありません。凄い!

・浄土真宗の教え(阿弥陀さま⇒わたし)は、他の宗教と方向が正反対。他力といわれる所以です。

・迷っていることの自覚もない者が、どれだけ頑張っても生死問題の解決はありえません。阿弥陀さまにおまかせあるのみ。

・南無阿弥陀仏のはたらきは、このいま、はたらいていますので、このいま、そのはたらききに気づかせて頂くことが大事です。

・「また会おう!」と今生のお別れができればお互い万々歳です。

・聴聞において、付き合いや、ただの義理でいく人をみて、なんと勿体無い、というのもわかりますが、阿弥陀さまの計らいは測り知れません。その人その人に応じてうまい具合にお育てになられているのでしょう。そのような私の計らいは、余計なお節介かもしれません。


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撮影:平成30年4月22日(日)

2018-04-21

聴聞 聴聞のブックマークコメント

 南無阿弥陀仏が私の口から溢れ出て、いまあなたと一緒にいるという、お念仏の働きをお聞かせに預かるのが、私たちの聴聞ということであります。

 一番大事なことは、『御文章』の中で繰り返しおっしゃっている、信を取れということです。報恩講でお布施を持って来てくださるのはありがたいのですが、肝心の信心を取ってもらわないと、何の意味もありません。自分の力では気づかない、阿弥陀さまの助けずにはおかないという真心をたのめということを、お念仏を通して気づかされていく世界が開かれるのです。

【光蓮寺 寺報 110号 ご法話紙上再録より】


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「お念仏を通して気づかされていく世界」に触れたいものです。

つまり、いま・ここで・わたしが、南無阿弥陀仏のはたらきに気づかされる、ということです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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