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手 品 師 このページをアンテナに追加

2017-12-13

拠りどころ 拠りどころのブックマークコメント

普通、私どもは自分の判断でことに対処するといいます。自分の判断とはしょせんそれは知識によるものですから、自分でよいとか悪いとかいうのも、結局とらわれになってしまいます。ところがそうではなくて、すべて阿弥陀仏に立ち戻って考えるということは、分別を超えた智慧の立場にたって、われわれの行住坐臥の考え方がなされるべきであるというのです。つまりいかなることにもとらわれを離れることが、念仏に立ち戻ることにほかなりません。念仏者は南無阿弥陀仏というよりどころをもつが、それは分別というよりどころではなくて、分別を超えさせるよりどころなのです。

蓮如 その教えと生き方 響流選書 早島鏡正より】


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南無阿弥陀仏という拠りどころをもっての生活には安心と張りがあります。崩れ去るものを拠りどころにしての人生には明るい未来はありません。

私の計らいを超越したものには、その超越したものに、ただおまかせあるのみです。生きてよし、死んでよし。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

2017-12-06

津国郡家の主計(つのくにぐんけのかずえ) 津国郡家の主計(つのくにぐんけのかずえ)のブックマークコメント

津国郡家の主計と申す人あり。ひまなく念仏申すあひだ、ひげを剃るとき切らぬことなし。わすれて念仏申すなり。人は口はたらかねば念仏もすこしのあひだも申されぬかと、こころもとなきよしに候ふ。

蓮如上人御一代記聞書(62)】

※津国郡家の主計:摂津国島上郡郡家村(現在の大阪府高槻市)の妙円寺の開基


【訳】

摂津国郡家という村に主計(かずえ)という人がいました。しばらくもやむことなく絶えず念仏を称えているので、髭を剃るとき、口の辺を切らないことはなかったのです。それは髭を剃っていることを忘れて念仏を称えているからでした。「世の中の人は、意図して口を動かさないと、少しの間も念仏も称えられないのであろうか。まことに心許ないことである」といわれたそうです。


【解説】

 主計という人は、つねに念仏を称えていた篤信者であったと思われます。この条はこの主計という人の常念仏の様子をあげて、当流(浄土真宗)の憶念称名の相(すがた)を述べているのです。

 浄土真宗では、声を張り上げて念仏を称えなければならないというのではありません。信心をえた人の念仏は、他力の御催しのままに称えているのであって、称えなければならないという思いがなくてもおのずから口に出る念仏なのです。仏恩の深さはつねに心に念じて忘れてはなりませんが、信心をえた人は、そのありがたさのあまりに称えられる念仏が、行住坐臥、いかなる時にも絶えることなく出てくるのです。主計という人が「人は口はたらかねば、念仏もすこしの間も申されぬか」と不審を語られたのは、他力大行の念仏を申していた主計にとって、他の人たちがとくに意図して口をはたらかさないと念仏が称えられないことが不審であったからです。髭を剃っていることも忘れて念仏を申されていた姿に他力の念仏の真髄をみるような思いがします。

【現代訳 蓮如上人御一代記聞書 瓜生津隆真 大蔵出版 P109、P110より】


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おのずから口に出る念仏(南無阿弥陀仏)がこぼれ出たらしめたものです。

阿弥陀さまに対する報恩感謝のお念仏なのです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

2017-12-05

称名念仏 称名念仏のブックマークコメント

 「無行不成」とは、行として成ぜざるはなし、つまり凡夫のなす往生浄土の行を、すべて阿弥陀仏が代わって成就されたということ。それが実は他力回向の名号であり、われわれの口に称えられる称名念仏なのだというのです。

 ここから蓮如は「憶念称名積みありて」という覚如のことばをもってきて、称名つまり南無阿弥陀仏はいそいそと称えるものですよといいます。南無阿弥陀仏とは、「信心を得たうえは、おのずとうれしくて、いそいそと申す念仏なり」のことだというのです。だから「信心を得たうえは」というのですから、信心をいただいた人は、お風呂に入っていようが、寝るときであろうが、お手洗いにいても、食事をいただいているときだろうが、いそいそと称えさせていただく、それが信の上の念仏です。だから周りの人たちのことを気にして称えるものではありません。

 蓮如がわれわれの生活は念仏生活であるといったのには、根拠があるのです。それは、親鸞が「信心為本」、つまり「信心をもって本とす」といわれた根拠でもあります。信心をいただいた人はこういうすばらしい、いそいそと生活をさせていただくことができる。念仏もいそいそと称えさせていただくことができる。私が散歩に行くのも旅行に行くのも、レストランに食べに行くのも、私のいそいそと生活するすがたである。それは「南無阿弥陀仏」の心を心とさせていただいている、つまり信心をいただいておるからこそ、私の全生活がみないそいそと営まれていくのである、と。こういうことを蓮如は述べておりますが、その根拠がちゃんとあります。ということは、蓮如は若いときから親鸞や覚如の聖教を筆写し、よくよく血となし肉となしていたからです。

【蓮如 その教えと生き方 早島鏡正 響流選書より】


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「南無阿弥陀仏はいそいそと称えるものです」

⇒そういう身になりたいものですね。

いつでも・どこでも・わたしが、南無阿弥陀仏

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

2017-11-28

コペルニクス的転回 コペルニクス的転回のブックマークコメント

 君は、コペルニクスの地動説を知ってるね。コペルニクスがそれを唱えるまで、昔の人はみんな、太陽や星が地球のまわりをまわっていると、目で見たまま信じていた。

 これは、一つは、キリスト教の教会の教えで、地球が宇宙の中心だと信じていたせいもある。しかしもう一歩突きいって考えると、人間というものが、いつでも自分を中心として、ものを見たり考えたりするという性質をもっているためなんだ。

 ところが、コペルニクスは、それではどうしても説明のつかない天文学上の事実に出会って、いろいろ頭をなやました末、思い切って、地球の方が太陽のまわりをまわっていると考えてみた。そう考えてみると、今まで説明のつかなかった、いろいろのことが、きれいな法則で説明されるようになった。(略)

 しかし、自分たちの地球が宇宙の中心だという考えにかじりついていた間、人類には宇宙の本当のことがわからなかったと同様に、自分ばかりを中心にして、物事を判断してゆくと、世の中の本当のことも、ついに知ることができないでしまう。

 大きな真理は、そういう人の目には、決してうつらないのだ。

 もちろん、日常僕たちは太陽がのぼるとか、沈むとかいっている。そして、日常のことには、それで一向にさしつかえない。しかし、宇宙の大きな真理を知るためには、その考え方を捨てなければならない。

【漫画 君たちはどう生きるか 原作:吉野源三郎 漫画:羽賀翔一 マガジンハウスより】


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「君たちはどう生きるか」が漫画化されました。現在、話題になっています。

以前、あほうどりさんが、推薦図書として挙げていました。久しぶりに、漫画化verで読んでいます。

浄土真宗の教えを真に理解する上で、コペルニクス的転回の発想(視点)は非常に大事なことだと思います。自分中心・自分大好き視点から、客観的視点にたって物事を考えてみるのもよいですね。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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Nicolaus Copernicus statue in Torun, Poland

2017-11-19

本願他力に生きる人 本願他力に生きる人のブックマークコメント

 「他力の人」(本願他力に生きる人)というと、かならず依頼心の強い人、他人まかせの人といったレッテルが貼られたりもします。特に「他力本願」という語は横着者の代名詞のようにもなっています。ほとんどの辞典に「目的を達成するために他の助力をまつこと」などと記されています。このあたりから、自力は優れ、他力は劣っているというレベルでとらえています。(略)

 「他力をたのむ」とありますが、それはどういうことなのでしょうか。親鸞聖人は、「他力本願をたのみて自力をはなれたる、これを『唯心』といふ」(『唯信鈔文意』)と示しています。

 「信心」とは自力の心を離れて阿弥陀仏の教えに生きるということであるということです。少し詳しくいえば、「本願他力をたのむ」ということは、私自身の身、口、意の三業と自己の能力、社会的地位、学歴などを生きるうえでの根拠としないことです。これらの一切を人生のよりどころとせず、根拠とせずに、阿弥陀仏の教えを根拠として生きる者ということです。

【初めての歎異抄 山崎龍明 NHK出版 P91,P92より】


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「他力本願」という言葉が、本来の意味で使用されるケースが非常に少なくなっています。辞書等をみましても、棚から牡丹餅的発想の意味で一番最初の説明として挙げられています。浄土真宗の教えが衰退していることを如実に物語っているのかもしれません。最近では葬式仏教という形式的な部分さえも無くなってきているように思います。非常に残念なことです。

南無阿弥陀仏のはたらきは、人を選びません。つまり、いつでも・どこでも・だれにでも平等にはたらいています。ここでいわれている自己の能力、社会的地位、学歴などの生きるうえでの根拠は全く要しない、ということです。南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされない生活(人生)は、刹那主義的な人生ではないでしょうか。

「明日ありと思ふ心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」

タイムリミット、大丈夫でしょうか?!

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2017-11-12

仏法をあるじとし、世間を客人とせよ 仏法をあるじとし、世間を客人とせよのブックマークコメント

 「仏法をあるじとし、世間を客人とせよ」といわれているとおり、どこまでも仏法を主とし、世俗のなかを生き抜くことによって、浄土真宗をご再興していかれたのが、蓮如上人の生涯だったのです。

 仏法とは、阿弥陀仏の本願を信じて念仏し、生死を超え、愛と憎しみを超えた浄土を目指して生きることでした。それに対して世間とは、名誉欲と財欲に振り回されながら生きる私たちの世俗の日常生活を意味していました。ここでは真理についての無知と、愛欲と憎悪が支配しています。

 蓮如上人は、この仏法と世間とに主客をたてられたわけです。仏法を主人とし、世間を客人とするということは、仏法を中心として世俗を生きなさいといわれているのですから、念仏を中心とした人生観を表す言葉でした。すなわち世俗の日常生活を、念仏の縁として生きることであるともいえましょうし、この世を仏法の真実を確かめる道場とみなしていきることであるともいえましょう。それは念仏のなかに営まれる真摯な生活を意味しました。

 その反対は、世間を主人とし、仏法を客とみなす生き方です。この世をうまく生きるための手段として仏法を利用するというものです。仏法を主とし、世間を客とみなす生き方は、世間を仏法化していきますが、世間を主とし、仏法を客とするような生き方は、仏法を世俗化してしまいます。世俗化した仏教には、世俗を救う力はまったくありません。ただ世俗に押し流されるばかりです。親鸞聖人が現生で正定聚を語り、現生における阿弥陀仏の救いを強調されたことは、念仏を中心にした新しい精神の秩序の成立を告げる教説だったに違いありません。

【本願のこころ 梯 實圓 法蔵館 P166〜P168より】


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この文章を読んでいますと、

善導大師がご教示くだされた「二河白道の譬え」が連想されます。

白道に気付かされ、1歩1歩、浄土に向かって歩んでいく生活には安心と張り合いがあります。ここでもありますように、念仏中心の生活は、仏法の真実を確かめる道場である、ともいえます。世俗に押し流される生活からの脱却、つまり、念仏を中心とした新しい精神秩序の成立を急がねばなりません。それは、阿弥陀さまに依るしかありません。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2017-11-08

感応道交 感応道交のブックマークコメント

感応道交(かんのうどうこう)

仏と人、また教えるものと教えられるものとの気持ちが通いあうこと。衆生の機応と仏の応化とが相通じて融合すること。

広辞苑より】


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今回はいつもと違った試行で紹介します(笑)

なんと、手品でトライしました(驚)

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


D

miko415miko415 2017/11/09 06:47 YouTubeで見ました。無事に仏さまが出現されて良かったですね。純粋に仏さまとの気持ちが通じたのでしょう。(笑)  手品を通じて仏法に親しめるのもいいですね。

手品師手品師 2017/11/09 07:51 コメントありがとうございます!
まさしく、感応道交です^_^