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手 品 師 このページをアンテナに追加

2018-07-19

合言葉 合言葉のブックマークコメント

ナモアミダブツは、2人が出会える合言葉!(光雲な毎日 P125より)


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「南無阿弥陀仏」は単なる言葉ではありません。「南無阿弥陀仏」をもってして、阿弥陀さまと会話ができます。いうなれば、阿弥陀さまと私の共有語なのです。まさしく、感応道交です。私の好きな言葉です。

仏教の教えを聞くということ 仏教の教えを聞くということのブックマークコメント

仏教の教えを聞くということは、死の解決をする、という言い方もできます。自分の命終わる時、それがたとえ急な事故で終わってしまうとしても、安心していられる。常に阿弥陀さまとともにあり、もし命絶えても、いよいよお浄土に行くことができるという大安心は、言葉で言いあらわすことができません。(光雲な毎日 P148より)


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生死問題の解決(回答)は、ズバリ、浄土真宗の教えにあります。このように断定すると、「そんなアホな!」と反発が起きそうですが、実際そうなのですから、そう言わざるを得えません(笑)。南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされるか、否か。あまりにもシンプル過ぎて、逆に、難しいのかもしれません。

大きな底力 大きな底力のブックマークコメント

阿弥陀さまに出会うと、自己肯定力が高まっていきます。自分がどんな姿であっても受け止めてくださる方がおられる、ということは、私たちの大きな底力となっていきます。(光雲な毎日 P169より)


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南無阿弥陀仏の身にならせて頂きますと、(私の)心の根底は末通った安心で満ち満たされます。安心がビシッと貫きます。つまり、大安心ということです。

大切なこと 大切なことのブックマークコメント

「今、死を迎えても大丈夫」と、大安心でいられるか、そのことを喜んでいられるかが、大切なのです。(光雲な毎日 P216より)


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「今、あなたは死んでも大丈夫ですか?」と問われましたら、皆さんはどう答えますか?!

ナンマンダ― ナンマンダ―のブックマークコメント

あなたの口から出るナンマンダ―は、阿弥陀さまがあなたの口を通して呼んでくださっている声なのです。ナンマンダ―と声が聞こえる、それに答える声もナンマンダ―です。(光雲な毎日 P221より)


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まさしく、感応道交!でーす。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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【光雲な毎日 久保光雲 コスモス・ライブラリーより】

2018-07-15

念仏者は無碍の一道なり 念仏者は無碍の一道なりのブックマークコメント

 念仏を信じる者は、現在においては、何らの幸福をも受けない者であるかというに、念仏者とは無碍の一道をゆく者であると申されたのであります。念仏する人はすべてのことにゆきづまらず、障害せられるということなく、常に自由の天地を進んでゆくのであります。こうしたことをいわれたのを見ても、単なる死後の問題ではないということは瞭(あきら)かであります。

 「念仏者は無碍の一道なり」ただこれだけであります。かかる一句の中に、(親鸞)聖人のいい尽くすことのできない喜びが、あふれているのであります。ここに注意すべきことは、念仏は無碍の一道なりといわれずに、念仏者と申されたの一字であります。私どもは常に、念仏は善の根本、万善の総体だと聞かされておりますから、念仏を鑑札か煙草入れのように心得て、それを腰にぶら下げておりさえすれば楽に通れる、すなわちこれさえあれば無碍の一道であると考えるのでありますが、念仏は私どもがもったり捨てたりする携帯品ではないのであります。また念仏は無碍の一道なりと思っている人は、念仏という大きな道があって、その道を歩いてゆくのであると考えるのであります。しかしここにも出ておりますように、念仏とありますから、念仏する人がそのまま無碍の一道でなければならぬのであります。本願を信じて、念仏が私のものとなり、念仏と私が一つになったこの私という者すなわち念仏者であります。その念仏者が無碍の一道であると申されたのであります。あたかも悪魔払いの払子(ほっす)でももって、邪魔なものがあればそれで払い退けて通るのが、無碍の一道であるというように考えるのは甚だしい間違いであります。そうではなく、本願を信じ、念仏を喜び、念仏すなわち如来と一つになった者は、無碍の一道であるということを申しておらるるのであります。念仏というもち物をするのではなくて、私自身が念仏者とならなければならぬのであります。

【歎異鈔講話 蜂屋賢喜代(はちやよしきよ)北樹出版 P160,P161より】


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ここでもありますように、念仏(南無阿弥陀仏)は、はたらきであって「何かのモノ」ではありません。「何かのモノ」であればやがて壊れてしまいます。念仏者とは、一心同体南無阿弥陀仏の者といえましょう。念仏(南無阿弥陀仏)をもってして、悪魔払いをしようとしても何の意味も効用もありません。ただ、そう思って(悪魔払いのため)唱える念仏(南無阿弥陀仏)もやがて称える念仏(報恩感謝の南無阿弥陀仏)になります。それは、このいまも、阿弥陀さまのお育てに授かっているからです。時間の問題ではありますが、このいまに越したことはありません。念仏(南無阿弥陀仏)を単なるモノや言葉として捉えるか、それとも、はたらきとして受け入れるか、では全く意味合いは違ってきます。南無阿弥陀仏には、阿弥陀さまの「願」と「行」が込められています。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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rr 2018/07/16 20:27 今回の記事、考えさせられる文章でした。念仏をモノととらえるか、働きととらえるか。そのような視点ではあまり考えたことがありませんでした。
確かに魔を払う払子のようなモノだととらえたら、まるで人間の所有物のようですね。念仏はそんな小さなものではないはず。
 
>このいまも、阿弥陀さまのお育てに授かっているからです。時間の問題ではありますが、このいまに越したことはありません。
 
私の細胞の1つ1つにいたるまで、阿弥陀仏の光が働きかけておられるように思います。そうでなければ、聴聞しようと考えたり念仏したりするような自分ではありません。
 
私には念仏をとなえようとする要素がありません。仏教的に見て善いものがない。念仏が念仏をしてくださっている、と言わざるを得ません。
南無阿弥陀仏

手品師手品師 2018/07/17 08:54 rさん、コメントありがとうございます。
>私の細胞の1つ1つにいたるまで、阿弥陀仏の光が働きかけておられるように思います。
⇒まさしく、一心同体南無阿弥陀仏ですね。こんなに心強いことはありません。ただ念仏を称えさせて頂くだけです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

2018-07-12

自分ワールド 自分ワールドのブックマークコメント


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 この図は何を表しているかというと、私が日・米・ブラジルで出会った浄土真宗の信者の様子である。全てとは言わないが、「阿弥陀仏の救いが有難い」という人の話をよく聞くと、こんな状態になっていることが多いように感じた。

 頭の中に小さな阿弥陀仏を作り、その阿弥陀仏に「必ず救うぞ」と言わせて、自分で安心しているのである。さらにその喜び(?)を、他人にまで広げようとする人もいる。

 頭の中で阿弥陀仏を作り上げるのは自力信心ですよ、1種の自己洗脳ですよ、それは親鸞聖人の教えとは違いますよと伝えるのだが・・・、「私の信心は本物だ」と強烈に思い込んでいる人には、何を言っても聞いてもらえない。しかし中には、話が通じそうな人もいる。

 そこで私は「頭の中で阿弥陀仏を作っているのは他力信心ではありませんよ」と、この図を使って説明することがある。

 すると、自分自身にかすかな違和感を抱いていた人は、正直に「私はこの状態なのかもしれません」と告白してくれる。

 ただし、その人が積極的な聞法を開始するかというと、必ずしもそうではない。自分の信心が間違っていることに気付きながらも、でも凡夫だからこんなものだろう、と誤魔化してしまう場合が多いようだ。

【仏教コラム『他力信心の世界』ミニ阿弥陀仏を作って安心しようとする人々 より】

https://ryuun18amida.blogspot.com/p/6.html


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このイラスト(ミニ阿弥陀仏を作って安心しようとする人々)は非常に分かり易いです。主語は、『阿弥陀さまは、阿弥陀さまが、』であって「わたしは、わたしが、」ではありません。阿弥陀さまを私物化しているといいますか、阿弥陀さまの上に立っています。まさに、私大好き人間の特徴です(笑)。自分の理屈を自分の頭でどれだけコネクリ回してもなんの進展も解決もありません。阿弥陀さまにおまかせあるのみ、です。


おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

rr 2018/07/13 09:01 >阿弥陀さまを私物化しているといいますか、阿弥陀さまの上に立っています。
 
手品師様、あの図を的確に言語化してくださってありがとうございます、まさしくその通りだと思います。
自分の手の中におさまるような、自分の頭で作った小さな阿弥陀仏は、私物化はできるでしょうが、私の莫大な罪業を滅して往生成仏させてはくれません。
 
南無阿弥陀仏

手品師手品師 2018/07/13 22:46 rさん、コメントありがとうございます。
絵心がない手品師としましては、rさんのようにイラストや図式化しての表現は羨ましい限りです。視覚的に訴えることは非常に分かり易いですね。私としても、頭の中で映像として思い浮かんだものを形として表現したいのですが、私には無理です。大峯顕先生は「言葉は語る」といわれました。専ら、わたしは、言葉で分かり易く南無阿弥陀仏のはたらきを表現したい、と日々意識しています。全くの驕りかもしれませんが、ときに、泉のように湧いてきます(笑)。阿弥陀さんとの会話は、私のこの上ない楽しみとなっています。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

2018-07-11

阿弥陀さまにおまかせ状態 阿弥陀さまにおまかせ状態のブックマークコメント

普段の生活におきまして、

楽しいこと、悲しいこと、嬉しいこと、つらいこと、嫌なことの繰り返しではありますが、

根底に南無阿弥陀仏、末通った安心があることはこの上ない幸せであります。

阿弥陀さまに ただ ただ 感謝

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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南無阿弥陀 南無阿弥陀仏のブックマークコメント

「我称え われ聞くなれど 南無阿弥陀仏 連れて往くぞの 親のよび声」(原口針水)

まさしく、阿弥陀さまと私の間で南無阿弥陀仏が循環しています。

いうならば、風通しがよい、ということでしょう。心地よい風が吹いています。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2018-07-09

手品師オススメ(リンク)に追加しました(その1) 手品師オススメ(リンク)に追加しました(その1)のブックマークコメント

仏教コラム 『他力信心の世界』

https://ryuun18amida.blogspot.com/


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手品師オススメ(リンク)に追加しました(その2) 手品師オススメ(リンク)に追加しました(その2)のブックマークコメント

久保光雲のホームページ

http://koun18.com/


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仏教論文の朗読1

伊藤康善 師の紹介『獲信解釈の研究』より(約30分)

https://www.youtube.com/watch?v=W4zzNmo5zSY

※関心がある方は視聴ください〜

rr 2018/07/10 22:39 手品師さま
私のコラムと、さらに久保光雲のホームページを紹介してくださりありがとうございました。私は以前から、手品師さんのように他力信心のことを分かりやすく書きたい、とずっと思っておりました。その憧れのブログで紹介していただいて、本当にうれしいです。
 
これまで手品師さんのブログを読ませていただいて、勉強になったことはとても多いです。
 
蜂屋賢喜代さんのお話やおそのさんの団子ナベ、念仏子守唄など、初めて知ることもあり、他力の働きを表現する文章を、内心驚きながら読ませていただいております。聞法で悩んでいる方にとっても大変有益なのではないかと思います。
 
私は九州出身ですが、五木の子守唄の真宗版替え歌があるとは知りませんでした。原口針水和上のお生まれになった場所は、私が子供時代に自転車でよく遊びに行っていた場所ですが、和上のことは手品師さんブログでくわしく知りました。
 
このような素晴らしい場所をネット上に作ってくださり、感謝しております。
 
 
南無阿弥陀仏

手品師手品師 2018/07/11 08:27 rさん、コメントありがとうございます!
そういって頂けますと、とても嬉しいです。手品師ブログをはじめ、はや9年目に入りました。このブログは、趣味感覚で書いていますのでなんのストレスもありません。といいますか、心地よいですね(笑)。引き続き、ご活躍されることを期待しています〜
仏法ひろまれ〜 響け〜 届け〜

光雲光雲 2018/07/17 07:00 初めまして。光雲です。ご紹介下さりありがとうございます。手品師さんのブログは興味深い記事がたくさんありますね! 

ただいま、ブラジルで開教をはじめて、三年目になります。サンバを踊り、ネイマールのプレイに興奮するようなお育てをいただいています。

ブラジルに浄土真宗がわたって60年あまり。日本には先代の残してくださった土徳があるなあ、としみじみ感じています。
お念仏を聞いたことがあるだけでも、どんなにありがたいことだろうか、と思います。
たった一人でも真実信心にめざめる人があらわれたらと思い、試行錯誤の日々です。

どこにおりましても、ネットでつながることができる素晴らしい時代だなあと思います。勉強させていただきます。これからもよろしくおねがいします。

手品師手品師 2018/07/17 09:12 光雲さん、はじめまして。コメントありがとうござます。
rさん共々、ご活躍素晴らしいですね(上から目線で申し訳ございません〜)。ひとりでも多くの方が、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かせて頂くよう念じています。わたしは、自己満足とともに、このブログが「浄土真宗の信心」に気付くきっかけになれば有難いと思っています。
地球の真裏(日本からみればですが)でも、いま、念仏が響いているのですね。素晴らしいです。
あと、「光雲な毎日」を読ませて頂いております(現在読破中)。非常に分かり易いです。
こちらこそ、宜しくお願い致します。

2018-07-03

いつも使っている茶碗の模様わかりますか? いつも使っている茶碗の模様わかりますか?のブックマークコメント

 さて、私どこへ行っても申し上げてるのですが、近頃世の中が忙し過ぎるためでしょうか、人間の出会いが粗末になってるんじゃないでしょうか。

 三年前でございました 。棟方志功先生なんかと一緒に 、日本的な板画の仕事なさってきた長谷川富三郎先生が 、著書を送ってくださいました 。読ませてもらっておりましたら 、あなたは 、毎日食べているご飯の茶碗の模様が言えますか 、とありました 。はてな 、わしの茶碗の模様どんなんだったかいな 。字が書いてあったようにも思うし 、絵が書いてあったようにも思うしと思うんですが 、毎日頂いているご飯の茶碗の模様が思い出せません 。わしだけこんなにぼんやりしているんかな 、と思いまして 、家内に 「お前のご飯の茶碗の模様ちょっと言うてみい 」と申しましたら 、 「さあ ? 」と申します 。亭主がぼんやりしとると女房もぼんやりしてる。ちょうど夏休みで伜(せがれ)が帰って来ておりまして、夕飯の時、伜の茶碗を隠して、「お前の茶碗の模様をちょっと言うてみい 」と申しましたら 「さあ ? 」 、親がぼんやりしてると子供もぼんやりしてる 。毎日キスしながら 、相手の模様が言えない 。何とはなしの出会い 、よく人の茶碗と間違えんことだという 、粗末な出会いやっとるんです 。茶碗はこれでも許してくれますが 、人間の出会いも近頃こういうことになっとるんじゃないでしょうか 。

【いのちとのであい 東井義雄 響流書房より】


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「何とはなしの出会い」「粗末な出会いやっとるんです」という言葉が印象的です。この茶碗の件(くだり)を、南無阿弥陀仏の視点からみてみますと、南無阿弥陀仏のはたらきの中で生活している者が、そのはたらきに気付かないで生活している、ことのように捉えることができます。「何とはなしの出会い」は、実は、「何とはなしでの出会い」ではなかったのです。

南無阿弥陀仏のはたらきは、いま・ここで・私にはたらいています。そのはたらきに気付かせて頂くことは、人として生まれた、この上ない幸せです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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rr 2018/07/05 09:55 手品師さま
いつも文章を楽しみに読ませていただき、面識も無く勝手なのですが、懐かしい法友だと思っております。
コメント欄では失礼かもと思ったのですが(もし不謹慎でしたら削除してください)、私もブログを作りました。もしよろしければご笑覧いただけると有難いです。
https://ryuun18amida.blogspot.com/p/index.html
南無阿弥陀仏の視点というのはすてきな言葉ですね。

手品師手品師 2018/07/05 13:21 rさん、コメントありがとうございます!
仏教コラム『他力信心の世界』を拝見致しました。素晴らしいブログです。経時的、図式化しての話の流れは非常に分かり易いです。一つ突っ込みを入れさせて頂くとしましたら、仏教コラム『他力信心の世界』のタイトルが黄色で見づらいところでしょうか(笑)。リンク貼らせて頂きました。画面上に反映されるまで、少し時間がかかるようです。今後とも、何卒よろしくお願いいたします〜

rr 2018/07/06 11:58 リンクしてくださったんですか!? ありがとうございます、感激です。そして確かにタイトルが見にくい!(笑)
ブログを一気に作ったため、一番大事なタイトルの見にくさに気付いてませんでした。教えてくださってありがとうございました、あのままだったら訪問者さまに優しくないブログになるところでした。
手品師さまの分かりやすくお念仏のことを伝えてくださる文章が好きです。またお邪魔させていただきます。

手品師手品師 2018/07/07 06:28 rさん、宜しくお願い致します〜

2018-07-01

阿弥陀如来の衆生済度 阿弥陀如来の衆生済度のブックマークコメント

阿弥陀如来の衆生済度、すなわち、わたしどもを助けたいという救済の目的は、信を発させるにあるのであって、それがための本願であり、それがための御修行であり成仏であったのであります。それゆえ、光明の如来となって、普(あまね)く十二光を放って、時間的に三世を通じ、空間的には十方無辺に、真に十方衆生の上にその光を放って、わたしどもに信の眼を開かせたいのであります。これを、「阿弥陀如来は光明と摂取との二つのことわりによって、衆生を済度したもう」と申すのであります。光明を放って、光によって照らし育てて、一念の信を発させて、信によって摂取不捨(せっしゅふしゃ)の身とならせようとせられておるのが、如来の本願であり、これを摂取不捨の誓約と申すのです。「光照(こうしょう)」とは、光明遍照十方世界のことであり、摂取とは念仏衆生摂取不捨のことであります。摂取不捨の自信に入らせることが如来の衆生済度の目的であって、摂取不捨の身にさせるには、信を発させたいのです。それを信によってたすけて下さったと申すのであります。

正信偈講話 上 蜂屋 賢喜代(はちや よしきよ)P149、P150より】


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ジョギングコースのお寺の墓に刻まれた「念仏衆生摂取不捨」の言葉に、念仏させられる日々です。阿弥陀さまの衆生済度のはたらきは目にはみえませんが、「南無阿弥陀仏」という6文字の言葉となって具現化されています。「南無阿弥陀仏」は単なる言葉ではありません。阿弥陀さまと私を繋ぐ架け橋といってもよいでしょう。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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