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手 品 師 このページをアンテナに追加

2018-04-22

聴聞の振り返り(常例布教:築地本願寺) 聴聞の振り返り(常例布教:築地本願寺)のブックマークコメント

本日の東京は夏でした(暑)。先月に引き続き、常例布教(築地本願寺)に参加いたしました。1座と短いご縁でしたが、定期的な聴聞はよいものです。心のリフレッシュになりました。聴聞を終えて、個人的な思いや感想を織り交ぜて箇条書きにしました。


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・自分最高、自分のことが第一、これぞ、私に真酔なり(笑)

・自分大好きの自分中心人間、何を隠そう、この私なのですが、そんな自覚はサラサラありません。開き直りもほどほどに(笑)

阿弥陀さまは立っておられる。いま、溺れている者をすぐに助けるため、のんきに座ってはおりません。阿弥陀如来像の通りです。具現化されています。

・阿弥陀さまの「必ず救う!」というお誓いなので、私は救われます。仏語に虚妄なし、ですね。阿弥陀さまが発せられた言葉は次元が違います。大変力強いお言葉です。

・広島では、聴聞にいく、という表現が多いとのこと。さすが安芸門徒、違います。

・我々は、3つの銘柄に酔いしれている。貪欲、瞋恚、愚痴という・・・。

・私の迷いを破ってくれるのは、阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきなのでした。

・私の口から、南無阿弥陀仏のお念仏、阿弥陀さまのなせる業なのです。

・浄土真宗の教えは、こちら(わたし)から、お願いする、という教えではありません。そんな教えはほかにはありません。凄い!

・浄土真宗の教え(阿弥陀さま⇒わたし)は、他の宗教と方向が正反対。他力といわれる所以です。

・迷っていることの自覚もない者が、どれだけ頑張っても生死問題の解決はありえません。阿弥陀さまにおまかせあるのみ。

・南無阿弥陀仏のはたらきは、このいま、はたらいていますので、このいま、そのはたらききに気づかせて頂くことが大事です。

・「また会おう!」と今生のお別れができればお互い万々歳です。

・聴聞において、付き合いや、ただの義理でいく人をみて、なんと勿体無い、というのもわかりますが、阿弥陀さまの計らいは測り知れません。その人その人に応じてうまい具合にお育てになられているのでしょう。そのような私の計らいは、余計なお節介かもしれません。


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撮影:平成30年4月22日(日)

2018-04-21

聴聞 聴聞のブックマークコメント

 南無阿弥陀仏が私の口から溢れ出て、いまあなたと一緒にいるという、お念仏の働きをお聞かせに預かるのが、私たちの聴聞ということであります。

 一番大事なことは、『御文章』の中で繰り返しおっしゃっている、信を取れということです。報恩講でお布施を持って来てくださるのはありがたいのですが、肝心の信心を取ってもらわないと、何の意味もありません。自分の力では気づかない、阿弥陀さまの助けずにはおかないという真心をたのめということを、お念仏を通して気づかされていく世界が開かれるのです。

【光蓮寺 寺報 110号 ご法話紙上再録より】


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「お念仏を通して気づかされていく世界」に触れたいものです。

つまり、いま・ここで・わたしが、南無阿弥陀仏のはたらきに気づかされる、ということです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2018-04-16

死を問わないこと 死を問わないことのブックマークコメント

現代の私たちは 、この生死する 〈いのち 〉への問いを見失っている 。そう言えないであろうか 。その理由の一つは 、こうである 。私たちにとって 〈いのち 〉とは 、生きていることに関わるだけのものとなり 、死から切り離されてしまっているのではなかろうか 。肉体的な生命の延長をはかることにおいてのみ 〈いのち 〉を考え 、死をタブー視し 、見えなくしている 。たとえば 、脳死による臓器移植や遺伝子治療などの先端医療も 、その例外ではない 。そして 、私たちは無意識のうちに 「人は死ぬけれども 、自分は死なない 」と 、死を他人事として生きている 。そうしなければ楽しく生きていけない 、という死についての無思想のなかにいる 。死を問わないようにすることによって 、生まれ 、老い 、病んで 、死んでいくという 、生死する 〈いのち 〉のありのままのあり方が覆い隠されていく 。新たな生命の誕生を 、生きている人間にとって好都合のものに変えようとする 。老いることを阻止しようとする 。治らない病気を根絶しようとする 。ひたすら延命を求め 、長寿に拍手喝采をする 。これが現代である 。このように 、死を生活のなかから排除して 、いつまでも生きていようとし 、たとえ死んでも死んでいないと幻想したりする 。あたかも死なない 〈いのち 〉を生きているかのように 、物質としての生命の循環が美しく物語られたりするのも 、そのためであろう 。

親鸞が出遇った釈尊   小川一乗  真宗文庫より】


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臭いものには蓋をする、という諺がありますが、この世で最も臭いものは何でしょう。それは、私が死ぬ、ということではないでしょうか。そのことに異論を唱える人はいないでしょう。私が死ぬ、ということを考えないように生きていましても、そんな私の思いとは関係なく死はやってきます。残念ながら。

行き先(死後)がハッキリしない生活は不安です。そこに本当の安心というものはありません。真正面から、私が生きること、裏を返せば、私が死ぬことについて考えていきたいものです。多くの哲学者をはじめ、いろいろな人を悩ませ苦しめた生死問題ではありますが、幸いにして浄土真宗の教えにその回答があります。手品師さん、なにをあなたはそう決めつけているのですか?!と突っ込みが入りそうですが、実際そうなのですから、そういうしかありません(笑)

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2018-04-10

未来予想 未来予想のブックマークコメント

「要するに」仏とは此んなものであろう、

「要するに」信心とは此んなものであろう、

「要するに」信心を得たら、此んな心になるのであろう、

と考えます。そしてその様になろう、それを得ようとします。これは私は予想信(よそうしん)と名づけます。予想信は駄目です。予想信とは、きっと此んなものであろうということです。あろうということは信ではありません。「要するに」と考えることは、撤廃すべきであります。要するにと先決して考えずとも、正しく聞き、正しく考え、正しく進んでゆくならば、要するには、考えなくとも自然に出ることであります。辿るべきを辿らずして「要するに」を急いでおる人は、何時までも、要するに、分からないのであります。

 仏とは此んなものであろうと、予想することは、よくないことであります。予想しておいて、その予想と合致しようとするのであります。それこそ自力的努力であります。たといああ分かった、ああそうかと一時は喜んでみても、それは自分の予想と一致した事の喜びであるから、自力で造ったものの、やがて壊れるのは当然であります。

【聞法の用意 蜂屋 賢喜代(はちや よしきよ) 法蔵館 P120,P121より】


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阿弥陀さまを語る上で、

「要するに 〜であろう」という自分本位の想像にまかせることは曲者です。

自分の頭でどれだけ捏ね繰り回しても何の解決にもなりません。

肝心の阿弥陀さまは何処へ?! ですね。

かつてのわたしもそんな時期がありました。「あ〜だ こ〜だ」と私の好きなように阿弥陀さまを解釈していました。自分本位のなにものでもありませんでした。

勿論、いまも自分中心の自分大好き人間ですが、阿弥陀さまにまかせきっている点で、その頃とは根本的なところは違います。阿弥陀さまにまかせきらされた、というのが本当のところですね。ほんまもんは、『南無阿弥陀仏』です。それに尽きます。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2018-04-04

桜の花に思う 生きることとは 桜の花に思う 生きることとはのブックマークコメント

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「生きることについて」じっくりと考えてみたいものです。

地元紙に投稿し掲載されました。

手品師ブログ(3月19日 更新)の文面を若干手直ししました。

http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20180319


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弘前城 外堀の桜

miko415miko415 2018/04/07 06:22  新聞に掲載されてよかったですね。この時期、桜の花を通して、生きることについてじっくり考えてみる人が出てくることを期待したいですね。                
手品師さんが今のオヤジ期を過ぎて、将来のジイッ(爺)期にもジイッと心から花咲く人生を送ってほしいです。((笑)                             
ところで、弘前城の桜の写真、お堀の水が全面ピンクに染まっていて本当にきれいですね。道路上に桜の花びらが一面に散ってピンクのじゅうたんになっているのはよく見かけたことがありますが、この写真のような風景は見たことがないので感動しました。

手品師手品師 2018/04/07 11:51 miko415さん、コメントありがとうございます!
爺期まで生きていれるかの保証はありませんが、がんばります(笑)。
阿弥陀さまに、心の花は咲かせて頂いていますので全く心配はありませんね。この花は散り去ることはありませんし(なむなむ、ですね)。
ところで、今年の弘前の桜は、これからになります。例年よりかなり早い開花になるようです。昨日は雪も降りなんだか分からない天候ですが、着実に、青森にも春は来ています〜。

2018-03-31

「冥加」を知る者 「冥加」を知る者のブックマークコメント

 梯 實圓 先生が「冥加ということ 」という題で書いておられる文章の一節を紹介して、結びにかえさせていただきたいと思います。


如来さまの厳しい智慧の眼と、暖かい慈悲のまなざしに見守られていることを実感するものには、如来のしろしめす領域に心の視野が開かれています。それゆえいたずらに他人とくらべて傲慢になったり、卑屈になったりしないで、遠慮もせず 、気ままもせず 、おおらかに 、しかし慎みふかく生き、安心して死ねる世界が開けてきます。それが冥加を知るものの安らぎであり、喜びなのです。』

【親によばれて  南無阿弥陀仏の親に遇う(あとがき)藤澤信照 響流書房より】


冥加(みょうが)

仏、菩薩のはかり知ることのできないはたらき。

また、はたらきをうけること。

※浄土真宗辞典より


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「冥加を知るものの安らぎであり 、喜びなのです」

南無阿弥陀仏のはたらきに気づかされた人の安らぎ、喜びは計り知れません。

根底に大安心があります。阿弥陀さまにおまかせ状態ということです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2018-03-25

南無阿弥陀仏の親に遇う 南無阿弥陀仏の親に遇う のブックマークコメント

南無阿弥陀仏で  親を知り

南無阿弥陀仏の  親に遇い

南無阿弥陀仏と  二人連れ


 二〇一六年十月一日、「伝灯奉告法要 」の初日に御門主が発布された御親教には、私たち宗門の人々が目指すべき「念仏者の生き方 」を示されています 。この御親教は、あらためて私たちに「浄土真宗の念仏者 」とはどのような者のことをいうのか、と問いかけられたものと私は受けとめています。

 それについて思い浮かぶのが、生前、梯實圓先生がよくおっしゃっていた 「私たちの人生にとって一番大切なことは、親鸞聖人が出遇われた阿弥陀さまに出遇わせていただくことです 」というお言葉です。

 親鸞聖人は「南無阿弥陀仏 」の六字のお心を、「本願招喚の勅命(願いをもって私たちを招き、喚びさまされるみことば)」であると示されました。そして、その声に喚びさまされ、「あなたの仰せにしたがいながら、この人生を生きていきます 」と阿弥陀さまにおまかせしていることを信心といわれたのです。

 こうして、「南無阿弥陀仏 」とお念仏するところ、阿弥陀さまと私との間に対話の回路を開いてくださったのが親鸞聖人であり、蓮如上人であると梯先生は教えてくださいました。九州の布教使が作られた「念仏子守唄 」(五木の子守歌の替え歌 )があります 。


おどんがお父さんは 南無阿弥陀仏

おどんがお母さんも 南無阿弥陀仏


もろたもろたよ 六字の智慧を

愚痴が感謝に かわる智慧


おどんが笑うときゃ 阿弥陀様も笑う

おどんが泣くときゃ 弥陀も泣く


夜半の寝覚めの 南無阿弥陀仏

つれてゆくぞの おやの声


あゆは瀬に住む 小鳥は森に

わたしゃ六字の うちにすむ


 一人一人が「南無阿弥陀仏で親を知り、南無阿弥陀仏の親に遇い、南無阿弥陀仏と二人連れ 」の生活をしていきたいものです 。

【親によばれて  南無阿弥陀仏の親に遇う (119号)藤澤信照 響流書房より】


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阿弥陀さまと私との間に対話の回路を開いてくださった親鸞聖人、蓮如上人は以下のようにご教示くださっています。


「弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜんひとはみな ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなふべし」(親鸞聖人)


「かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり」(蓮如上人)


一心同体 南無阿弥陀仏

寝ても醒めても 南無阿弥陀仏

阿弥陀さまと共に歩む人生は格別です。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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