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手 品 師 このページをアンテナに追加

2017-05-21

真実とは 真実とはのブックマークコメント

先生(鈴木大拙)は、テーブルを叩いて

今の聞こえたか? どこで聞いた? といわれたので

私は賢ぶって、耳で聞いたと応えずに「全身で聞いた!」と応えました。

すると、(先生は)

「いやいや、そんなけち臭いものではないぞ。全宇宙が聞いたから、美穂子さん、あんたが聞いたのではないか。真実というものは、爐海海らここまで瓩鳩廚譴襪發里任呂覆ぁ△修譴、無だ」と仰られるのです。

つまり、余すところがない、つかまえる必要もない、というのが無(無限)ということです。

それは、阿弥陀仏のお名前そのものです。

計ることがないという仏さまです。


※ア・ミタ  

ア :梵語の否定を意味する、ミタ:メートル(距離)をあらわす

つまり、計ることがない

大拙先生とわたし こころの時代 より】


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真実は、南無阿弥陀仏ということですね。

つまり、その(南無阿弥陀仏)はたらきは、余すところなくひとりひとりにはたらいている、ということです。

ですので、わたしから、つかまえる必要もありませんし、つかめるものでもありません。

わたしの計らいを超越したものにおいては、そのものに従うしかありません。

いま・ここで・わたしが、南無阿弥陀仏のはたらきに、気付かせていただく、ということです。わたしの計らい、曲者です

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2017-05-14

将棋の譬え 将棋の譬えのブックマークコメント

 おとうさんに会った人の中に山本太朗さんという人があった。この人は仏法はおろか、平素から人間の心とか思想とかに関心のない人で、その夜も「林さんのところへ偉い人が来る」ということで奥さんに引っぱられて仕方なしに顔を出したにすぎなかった。

 私が、この人は将棋が大好きな島一番の指し手であることや、店の仕事をほったらかして将棋に夢中になって奥さんに叱られている人であることを話して紹介したところ、一切勝負事をしないと聞いていたおとうさんが、「やあ、将棋ですか、将棋は素晴らしい!」といわれたのでびっくりした。

 おとうさんのいわれるのには、

 「将棋では桂馬さんでも香車さんでも歩(ふ)さんでも、敵の陣内に入ると狎る瓩箸い辰洞發汎韻犬呂燭蕕をするんですね」

という話からだんだんと、

 「仏法さんでも、お念仏の世界に入れていただきますと、こんなお恥ずかしい者が、゛瓦礫(がりやく)も金と変じける瓩函∧さんと同じお徳がいただけるんです。将棋はそれと同じことを教えて下さっているので素晴らしい」

と、手を取り肩を叩いて親しく話をすすめていかれたので、はじめは場違いの所へ連れて来られた感じで面喰らっていた太朗さんも一度に打ちとけて話し合いの仲間に入ったのであった。

【北の大地に念仏の華ひらく おとうさんとよばれたひと 林 暁宇 響流書房より】


『ただ回心して多く念仏せしむれば、よく瓦礫をして変じて金と成さんがごとくせしむ』※顕浄土真実行文類二(教行信証・行)

【現代語訳】

(貧しいものと富めるものをわけへだてることなく、知識や才能の高下によってわけへだてることなく、博学多門のものも清らかな戒律をたもつものもわけへだてることなく、戒律を破ったものも罪深いものもわけへだてることなく、)ただ信を得て念仏すれば、瓦や小石を黄金に変えるようにしてお救いくださるのである

顕浄土真実教行証文類(上) 原文・現代語訳 本願寺出版 P142、P143より】


成金(なりきん)

なり‐きん【成(り)金】

1 急に金持ちになること。また、その人。「土地成り金」

2 将棋で、駒が敵陣に入って金将と同じ働きをするようになったもの。

デジタル大辞泉より


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南無阿弥陀仏の話をしていく上で、話す相手の背景(趣味、仕事、性格等)を考慮することは非常に大事なことだと思いました。仏法を伝えることにおいても、フレキシブルな対応が求められますね。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2017-05-10

破れ傘 破れ傘のブックマークコメント

(浄土)真宗阿弥陀如来様ってのは南無阿弥陀仏という言葉となって私のところへ私を目覚ます働きとして現れ出てくださっている、というのが南無阿弥陀仏という名号ということなんですよ。

 だからそのことがご縁あって聴聞さしていただいて「なるほどなぁ。仰る通りの私でございました」と頷けた時に「長い間ご無礼しておりました」と返事をする時が仏恩報謝の称名ですよ。これは私なりの受け止め方でございますけれどね、どうもそのね、ありがたいとかお慈悲を喜んでとか言うけれど、そんなの出来過ぎですよ。出来過ぎの信心なんてやめたほうがいい。本当に破れかぶれくらいがいい。破れ傘になったほうがいい。破れ傘なら雨水が私に染みてくださいますでしょ。立派な傘なら雨が降っても弾きとばしちゃいますからね。だから悲愛のまなざしは破れ傘のほうが受け止めやすいですね。

【ナンマンダブツの中の人生になる 響流書房 近田昭夫 より】


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破れ傘という表現、非常に分かり易いです。

私の計らいや私の思い込みといったものは、立派な傘なんですね。

南無阿弥陀仏の法水を浴びるには、わたしの計らいといった立派な傘は不要です。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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Business man holding umbrella against dollar rain concept

2017-05-02

他力の信心 他力の信心のブックマークコメント



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2017法語カレンダー(真宗教団連合


 今月のことばは、親鸞聖人の『浄土和讃』の中、「諸経讃」と呼ばれる一首です。さまざまな経典の言葉を通して阿弥陀さまと浄土の功徳を讃嘆するもので、この一節では信心について示されています。

 はじめに「大信心は仏性なり(大いなる信心は仏性である)」とあります。信心とは私が信じるのであって、私の心のことをいうのだとすると、そこに大の字がついて大いなる信心と表現されるのはおかしいのではないでしょうか。親鸞聖人が、自分の心をそのように立派なものとお示しになるとは、考えにくいように思います。

 親鸞聖人は、私の心、すなわち凡夫のはからいによる思いがいかにたよりにならないものであるかを、明らかにしてくださいました。この私が信じるとか、信じないとかいった場合、いくら言葉を尽くして信じているといっても、あるいは確固たる信念で信じ続けるなどといっても、自分の考えで信じている以上、都合が悪くなると信じなくなってしまします。

 親鸞聖人がお示しになった信心とは、他力の信心です。阿弥陀さまから与えられる、たまわりたる信心のことです。阿弥陀さまから回向されるので大信心(大いなる信心)といえるのであり、金剛心や一心ともあらわされるのです。

 阿弥陀さまは、たよりにならない私の心を自分で何とかせよとおっしゃるのではありません。私たち衆生が煩悩を身にそなえた凡夫であることをはじめから知っておられて、救わずにおかないと大いなる慈悲の心で本願をおこされたのでした。

【月々のことば 佐々木 隆晃 本願寺出版 P65~P67より】


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一般的に、信心といいますと、「私が信じる」と絶えず主語が私になります。

そのような信心は、わたしの思いや都合で、いかようにもなります(笑)。

「世界に宗教多し」といいましても、浄土真宗の教えはそれらの宗教(他宗教)とは一線を画します。浄土真宗は、本願力回向の教えともいわれます。信じる心さえも阿弥陀さまから賜る、というのです。まことに凄いといいますか有難いことです。

「私が」信じているように思いますが、実は阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらきのお育てに授かっているのでした。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

2017-04-28

散る桜 残る桜も 散る桜 散る桜 残る桜も 散る桜のブックマークコメント

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弘前公園外堀(弘前さくらまつり) H29.4.27撮影


 江戸時代の曹洞宗の僧侶で、歌人でもあった良寛和尚の辞世の句と言われている歌です。意味は、「今どんなに美しく綺麗に咲いている桜でもいつかは必ず散る。そのことを心得ておくこと。」というように受け取れます。要するに限られた「いのち」です。

 皆さん少し平生を振り返って考えてみましょう。今の世の中は色々悩み事が多くあります。仕事、家庭、対人関係、子育て、自分の将来、健康やお金のこと等、幸せな事より悩み事の方が多く重たくのし掛かっている毎日ではないでしょうか。

 しかし、物事にはすべて結果があることは言うまでもありません。無常にも時間は止めることができません。ならばどう時間を過ごすのかを考えること。 即ち、限られた「いのち」の中で、その結果に到るまでを如何に充実したものにし、悔いの残らないようにすることが大事だと思います。

 また、この良寛和尚の句から親鸞聖人が得度をされる時にお詠みになられたと伝えられる「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」という歌を連想させられます。「明日があると思い込んでいる気持ちは、いつ散るかもしれない儚い桜のようです。夜に嵐が吹こうものならもう見ることはできません。」とそのような心境で親鸞聖人は慈鎮和尚に得度を願われたことと思います。

 この二つの歌から伺えることは、今生きている命を「如何に生きるか」ということではないでしょうか。自分自身が積み重ねてきた過去の経験(苦しみや楽しみ)を現在に生かし、そして未来につなげていくことができるのは、自分一人の力ではありません。いろいろな人に支えられているからこそ実現できるのです。

 そのことに気付き、そして感謝の気持ちを持って日々充実した生活を過ごさせていただくことが私たちの使命なのではないでしょうか。

【『散る桜 残る桜も 散る桜 (良寛和尚)』今月のことば(光華女子学園)より】

http://gakuen.koka.ac.jp/words/h21_04.html


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弘前公園青森県弘前市)のさくらは、いまが満開です!

日本一の桜とも称されています〜 今週末がピークでしょう〜

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

2017-04-23

信心は仏心である 信心は仏心であるのブックマークコメント

 親鸞聖人は、信心、すなわち無疑心のことを、「信文類」では、しばしば「疑蓋雑わることなし(ぎがいまじわることなし)」とか、「疑蓋間雑(ぎがいけんぞう)有ること無し」とも言い表されています。「蓋(がい)」とは、覆い隠すものという意味で、一般的には煩悩は真理を覆い隠すというので、煩悩のことを蓋と呼んでいました。おそらく親鸞聖人は、疑は如来の本願を覆い隠すという性質が強いところから、とくに疑蓋という用語を使われたのでしょう。また「間雑」とは「まじわる(まじる・まざる)」ということで、不純物がまざることを意味していました。清浄真実な智慧の言葉である本願を聞きながら、凡夫のはからいをまじえることによって、真実なる法を変質させてしまうことを疑蓋間雑といわれたともいえましょう。

 また蓋とは容器の蓋を意味していますから、「疑蓋間雑有ること無し」とは、疑いという蓋をしたまま水を注ぐならば、水は蓋にさまたげられて器(うつわ)に入らないように、本願の法水は、疑いの蓋に隔てられて、私たちの心の器に届かない状態を表そうとされたともいえましょう。凡夫のはからいという心の蓋さえなければ、法水は、衆生の心に入り満ちていきます。その意味で、信心とは疑いのない状態であるということは、本願の法が私の上に届いて主体化していることでもあったのです。信心は、私たちの上に実現している事実ですが、その本体は、人間の心ではなくて如来の本願であり、仏心だったのです。

【本願のこころ 梯實圓  法蔵館 P92、P93より】


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「信心は仏心である」素晴らしい言葉です!

(信心とは)疑いのない状態である、ということは、

阿弥陀さまにまかせきっている状態である、ということです。

この「状態」という言葉がつきますとより分かりやすい、ですね。

つまり、いま現在、そういう状態であるということです。

いまの(南無阿弥陀仏の)はたらきに、いま気付かされる

つまり、このいま、わたしの「あ〜だ、こ〜だ」といった(阿弥陀さまのお約束に対する)詮索が一切なくなったとき、一心同体 南無阿弥陀仏 となります。

そこにあるのは大安心です。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2017-04-15

ただおまかせ ただおまかせのブックマークコメント

阿弥陀さまに「ただおまかせ」といいましても

自分から「おまかせする」のではありません。

阿弥陀さまより「おまかせさせられる」のです。

誤解がないようにしたいものです。

ただおまかせは、(わたしは)阿弥陀さまに、おまかせ状態ということです。

その根底には大安心があります。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

身体は、しばらくの借り物 身体は、しばらくの借り物のブックマークコメント

ある先生が、この人生それぞれが演じている、といわれていました。

男性、女性、日本人、西欧人、高身長、美人など人それぞれです。職業でみましても、医者であったり、弁護士であったり、芸能人であったり、会社員であったり、自営業であったり、と様々です。ひとそれぞれ自分を演じています。演じるということは、本来の自分ではない、ということです。この世は仮住まいである、といった先人もいます。

限られた人生ですので、自分の身体(肉体)とも必ず別れの時がきます。

人生のその先は大丈夫でしょうか?!

胸を張って大丈夫!といえる人生でなければ意味がありません。

今一度、私とはなんぞや?!という自問をしてみてはいかがでしょう。

最近、「この人生それぞれが演じている」いうフレーズがやけに響きます。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀

ボタンの掛け違い ボタンの掛け違いのブックマークコメント

南無阿弥陀仏の「いま」のはたらきに対して

「そのうちなんとかなるさ」というわたしの甘い期待や思いが、噛み合う筈はありません。

こういうことを、ボタンの掛け違い、というのでしょう。(ボタンの掛け違いは)見た目も変です。

「いま」のはたらきに「いま」気付かせて頂く、ことが肝要です。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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一 致