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手 品 師 このページをアンテナに追加

2018-02-18

咬み合わない 咬み合わないのブックマークコメント

 「方法」という言葉の意味をあらためて国語辞典でみてみますと、「目標に達するための手段。目的を遂げるためのやり方。てだて」とあります。すでに届いているもの(南無阿弥陀仏のはたらき)に対して、「方法」という言葉がでてくる余地は微塵もありません。南無阿弥陀仏のはたらきの中で生活している私としましては、そのはたらきに気付かされるか否か、というところが問題になってきます。

 例えば、私の目の前に花束を差し出されている状況で、どのようにすれば目の前の花束を受け取れるのかと「あ〜だ、こ〜だ」と悩んでいる人はいるでしょうか。もしそのような人がいたら、よっぽどのヒネクレ者でしょう(笑)。この場合は、「どうもありがとう!」と素直に(花束を)受け取ればよいだけです。阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきも然りです。

 阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきを語る上で、「方法」という言葉は馴染みません。それは何故か?それは、このいま、ここで、わたしは、南無阿弥陀仏のはたらきの真っ只中で生活しているからです。才市さんが、「聞いて助かるじゃない 助けてあるをいただくばかり」と、いわれている通りであります。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2018-02-17

「疑う」とか「惑う」ことについて 「疑う」とか「惑う」ことについてのブックマークコメント

 他力本願によって助けられると聞いても、本当に此の私が助かるのか、どうかをよくよく考えねばなりません。十方衆生を漏らさぬと聞くから、私も助かるであろうというようなことでは、如何に信じたつもりでも、それは信じたのではなく、助かったのでもありません。

 法のことを聞いても機(き)のことを聞いても、そういわれるが、それは本当に私のことであろうか、本当のことであるかどうかと、考えるべきであります。考えるということは、惑うことであるといってもよろしい。ちっとは惑いでもすればいいのです。疑いです、疑いでもすればいいのです。疑いや惑いはいつかは信になります。信ぜられぬとか疑いがとれぬとかいいますが、多くは、それが疑いでもなく惑いでもなく、ただ安心ができぬだけのことであります。疑うとか惑うとかいうことは、実は自覚あっての上のことであります。多くはそれさえないのであります。

【聞法の用意 蜂屋賢喜代 法蔵館 P53,P54より】

 

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南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされますと、(阿弥陀さまの救いに対して)「疑う」とか「惑う」といったものは吹き飛ばされてしまいます。つまり、「わたしは(阿弥陀さまに)救われたのだろうか?」というような疑いや惑いは一切ない、ということです。わたしの自覚を超えていますので、自覚する必要性がありません。いうならば、当たり前すぎて自覚する必要がない、ということです。

このいま、吹雪の中を歩いている人が、今日の天気は吹雪ですか?と、聞くでしょうか?!

ここでは、「多くはそれさえないのであります」と端的に表現しています。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2018-02-11

宗教は「今」の問題 宗教は「今」の問題のブックマークコメント

 初めは誰でも、この世のことから出発するのですけれども、いつの間にか、その出発した処を忘れて、あの世から出発して、求道聞法するようになってしまうのであります。それがため、聞いても聞いても会得(えとく)がいかなくなってしまうのであります。

 求道の出発点が明らかであって、聞法の道程を経て、信に達したものならば、信は未来の問題、死の問題、死後の問題をも解決し、また現実の人生の諸問題をも、解決する筈であります。しかるに、出発した家を忘れて、方角を転換してしまうものですから、如来は未来のみを照らして、現在を照らさなくなるのであります。自己の信が、未来を照らしているように思うているけれども、現在を照らさないような光は、真に未来を照らしているのではありません。ですから未来の往生を喜んでいると言いながら、実はちっとも喜べていないのであります。未来の成仏を楽しんでいるというけれども、事実は楽しめておらないのであります。その証拠には、未来こそ一大事じゃと口にはいうていても、事実の上に、毎日毎日真剣になっている事は、現実生活のことばかりであります。この世こそ真に一大事であって、寸分のぬかりもないほどに、電報や、電話や、金の事で、眼を光らしているではありませんか。そして聞法となると居眠りばかりしているではありませんか、眠らぬにしても、なおざりに付しているではありませんか。

 朝から晩まで、家にあっても、外にあっても、旅をしても、そのいつでも、何を考え、何を煩い、何を悩んでいるのかと、ちっとは本気に自分の胸の中をのぞいてみるべきだと思います。偽るべからず真に悩んでいる問題は何か、真剣に心配している問題は何か。あの世のことに安心しているといっても、此の心は、此の世のことで一杯ではありませんか。(略)

 親鸞聖人の信の問題は、未来の問題ではありません。現に「今」の問題に立ってのことであります。それゆえ一念発起(いちねんほっき)、平生業成(へいせいごうじょう)の宗旨と申されるのであります。問題を未来としている人は、臨終正念(りんじゅうしょうねん)をいのる人であります。その人は他力の信心がないのであります。かかる人々は深く内省して、「今」の心と、現実の問題を問題とする心に、立ち帰らねばならないのであります。宗教の問題は現実の問題であり、求道の出発は現実の諸問題であることを、忘れないようにして、この問題を求め求めて、聞法すべきであります。此の心を持しつつ、聞法してゆくところに、真実の信心は決得(けっとく)せられ、現実人生の諸問題は解決せられて現実に歓喜信楽(しんぎょう)の生活を得るのであります。

【聞法の用意 蜂屋賢喜代 法蔵館 P111〜P113より】


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ここでもありますように、宗教は「今」の問題です。

南無阿弥陀仏のはたらきは、いま・ここで・わたしに、はたらいています。ですので、「このいま」、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かせて頂けます。阿弥陀さまの救いを、自分の思いや計らいでどれだけ計らっても計らい切れるものではありません。また、阿弥陀さまの救いを未来においたところで何の解決もありません。(阿弥陀さまの)救いの先送りは、いつまでたっても先送りなのです。「このいま」が大事になってきます。阿弥陀さまの救いは「このいま」なのです。なぜ、「このいま」なのか? それは、わたしは、「このいま」南無阿弥陀仏のはたらきの中で生かされているからです。「いま」そのはたらきに気付かされるか否か、非常に大事なところです。

おかげさまで このいまも 南無阿弥陀仏


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2018-02-10

心得たと思ふは心得ぬなり、心得ぬと思ふは心得たるなり 心得たと思ふは心得ぬなり、心得ぬと思ふは心得たるなりのブックマークコメント

 一休禅師の逸話が思い出されます。ある時、禅師が人々を集め一本の曲がりくねった松を指して誰かあの松をまっすぐに見ることが出来るかと謎をかけた。人々がいろいろ工夫して竪(たて)から見たり横から見たり、股の間から覗いたり、何とか真直に見ようとさんざん努めたが、その曲がりくねった松はどうしてもまっすぐには見えない。とうとう腹を立てて和尚さん人を揶揄(からかう)ものではない。一体貴僧(あなた)はまっすぐに見ることが出来ますか、と言ったところ、一休禅師はニコニコしながら「ああ出来るとも、それはなんでもないことじゃ。見なさい、あの松は曲がりくねっておろうが、曲がりくねっているものを曲がりくねっていると見たら、それがまっすぐに見たことじゃ」と答えられたというのです。われわれは正見といえば、何か特別な見方をして変ったものを見つけ出すように思うのですが、それが計らいというものです。真実は常に足許にある。我執をことさら取り除いて正見を探すのでなく、我執を我執と知らしめられたとき、そこに正見への道は開けるのであります。

 しかしそれは決してわれわれの反省で達しられるようなものではありません。反省はどこまでも自己の視野に過ぎないからです。そうではなくただこの自己の全分が自己以上の鏡の前に立ち、自己以上の光に照らされたとき、そこに自己の全(まった)き姿が照らし出されるのです。しかしその自己が知らしめられるのは理解というような仕方を通じて知られるのではありません。理解は自己が何ものかを眺めているときの意識です。『御一代記聞書』に、「心得たと思ふは心得ぬなり、心得ぬと思ふは心得たるなり」と言われていますが、心得たという理解の態度は自己が何ものかを眺めるのであり、その眺めている自己そのものは取り残されています。我執は眺められた自己にではなく、眺めている自己の底に潜むのです。心得たと思うときは、自分は心得ているのに人は心得ておらぬ愚かなことだという態度にどうしてもなる。しかしこれでは肝心の自己の正体は知らされてはいません。「心得たと思ふは心得ざるなり」と言うのは詭弁ではなくして当然の事実を指摘しておられるのです。

【慈光の旅 −信仰と反省− 井上善右衛門 自照社出版 P99,P100より】


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前半では、

一休さんの有名な逸話」が紹介されています。

本来のありのままのすがたを歪めてしまう、わたしの計らい、について指摘されています。

後半では、

真実は、わたしの計らいを超越しています。ですので、わたしの頭の中で「(真実は)あーだ、こーだ」とどれだけコネクリ回しても進展はありません。

ここでは、

「自己の全分が自己以上の鏡の前に立ち、自己以上の光に照らされたとき、そこに自己の全(まった)き姿が照らし出されるのです。」とあります。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2018-02-09

念仏は希望の源 念仏は希望の源のブックマークコメント

 法を聞いて至らぬ己れに気づくということは、自己に執じていた心の結ぼれがほぐされてゆくことである。自己を中心に廻っていた執我の軌道を破れて、自己を超えるまことの世界が現れて下さることである。法の静風に吹かれると始めて滞ることなく、自己を忘れることが出来る。自己の至らぬことが気を病む原因とはならずに、慚愧と摂取という不思議なよろこびの種となる。そうならねばならぬ訳がある。

 アミダ仏の大悲のむねにしっかり抱かれている自分に帰ってみれば、自分のなしたことに批判指摘を豪ってもさのみ気を病む種とはなり難い。こうした至愚に自分であれば、間違いを起すことももとよりであり、それを指摘されて気づくことは寧ろ有難いことである。至らぬ己れとは、己れの愚かさを口実に自己を弁解することではなく、批判をよろこんで聞く心である。どんな失策をしでかしても、抱かれている大悲のみ手に狂いはない。その点安心なことである。そうなってくると右にも左にも気を病むところはなくなって清々する。何を煩って過去の幻を追って苦しんでいたのであるか。有難いことだと肩の荷が下りる思いがする。

 こうして開かれる新しい心の底からも、気に病む旧(もと)のままの心がまたフト湧き起る。しかしそれこそ執我の外なき私の心の偽らぬ姿である。偽りの心よりも偽らぬありのままこそ有難い。なぜならその底にはいつも大悲がまちうけたまうてあるからである。限りない我執が限りない大悲に転ぜられてゆくところ、われわれの日々は新しい。法を聞く人は日毎に新しい門出に立つ。昨日までの失敗も間違いもすべて拭われた出発点に今日は置きかえられてあることを知る。大悲はたえまなく過去のくもりを拭いたまう。だから念仏は希望の源である。

【慈光の旅 −信仰と反省− 井上善右衛門 自照社出版 P77,P78】


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「底にはいつも大悲がまちうけたまうてある」

ですので、

「限りない我執が限りない大悲に転ぜられてゆく」

となります。

そのことに気付かされた日々の生活には安心があります。

つまり、「生きてよし、死んでよし」の人生です。

南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされるか否か、非常に大事なところです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2018-02-03

南無阿弥陀仏のはたらき 南無阿弥陀仏のはたらきのブックマークコメント

 現代人の一般的な感受性から最も遠ざかってしまったものが、まさしくこの普遍化の方向への生命の自己超越である。現代のわれわれには、個体としての生命の輪郭だけが強く意識され、普遍的生命と個体とのつながりは、ほとんど見えなくなっている。生命とは、個人の中でせいぜい数十年のあいだ機能している量的なプロセスやシステムにすぎないのであって、われわれの身体が死滅すれば、生命もまた終わってしまうのだ、という生命観が当たり前のようになってしまい、これに対する疑問が真剣に出てこないのである。これは一般人だけでなく、生命を論じている専門家たちの場合でも同じである。そして、宗教とは、個体的なものに決まっている生命というものへの哀惜の心情の合理化か、個体の次元での生命の拡大を不合理な仕方で求める主観的信念にすぎないものとみなされているのである。

 しかしこれは、生命に対する基本的な誤解だと言わなくてはならない。個体性としての生命をすべてだとするのは、すでに硬直した生命観である。この世の生存が生命の唯一の究極目的だと考えている生き方は、実は生命それ自身の方向にそむいた生き方であり、真に生きていない人生である。そのとき、生命の運動はそこで停止し、生はいつのまにか固定して死に変わっているわけである。この時世の生の充足、個人的な幸福と長命だけを最高善とするだけの生き方では、生に影のようにともなう空しさ、一種のニヒリズムをどうしても克服できない理由はここにある。この世の命がすべてであって、死ねば何もないという人生は、生命そのものの本来の流れに逆行しようとする不自然な生き方だからである。

 宗教的信仰とは、生命に対して個人が抱いている観念とかイデオロギーではない。そうではなく、自我中心的な生の立場を捨てて、個人の内にはたらいている普遍的な生命そのものの要求に自分をまかせて生きることである。偉大な世界宗教の開祖たちが、「神」や「仏」の名で教えたところのものは、生命のこの大きな運動のことに他ならない。この世だけで消えてしまうものは生命ではない。消えると同時に消えないもの、自己を否定して自己を肯定するダイナミックな運動こそ、生命の真の本質である。「生命の尊厳」ということばが、たんなるスローガンだけで終らないためには、生命論の場面に、このような視点を回復することがどうしても必要だと思われる。

【宗教の授業 大峯 顯 (現代人の生命観)P210、P211より】


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 勝手ながら、タイトルを「南無阿弥陀仏のはたらき」と致しました。

哲学者であり、俳人でもあった大峯師ならではの独特の言い回しです。「南無阿弥陀仏のはたらき」について躍動的にダイナミックに表現されています。こういった表現は大峯師にしかできないでしょう。深遠なるものを感じます。

 先生とは京都、願教寺(盛岡市)2回の合計3回、会話を交わす機会に恵まれました。とても気さくでユーモアがあってお洒落な先生でした。本当にありがとうございました!

おかげさまで 誕生日も 南無阿弥陀仏 


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2018-02-01

念仏はよろこびの声 念仏はよろこびの声のブックマークコメント

 家が小さいので四畳半の部屋を増築して、一方に取付けの書棚を大工に作ってもらった。洋間にしつらえたので塗装屋が来てその書棚にニスを塗って仕上げた。帰ってから見ると上の方の棚は塗ってあるが、下二段の裏が塗ってない。さては忘れたなと思うて早速呼んでみると、なにも忘れたところは無いと言う。下二段の裏をのぞかせて此処だと言うと、へへと笑うて、「座っておれば見えぬところです」と答えた。私は唖然とした。「見えても見えないでもよいから全部塗って下さい」職人は、「いらんことだっせ」と言いながら塗り上げて帰った。

 私は建築や部屋造りの事は知らぬが、昔はこうでもなかったのではないかと思う。総てが人間だけの眼だけを相手にして作られ動かされてゆくとしたらどうであろう。世界は人間の眼で見えるだけのものではない。見えても見えずとも動いている世界の真実がある。此の真実を敬い、この真実を見る眼が慕われる。現代の果敢なさは、人間がその眼を以って総てとしているところにある。人間中心の自覚が更に人間を超えたものの自覚に生かされて来なければならぬ。単なるヒューマニズムに止まっておられない所以もここにある。念仏は人間を超えて、人間の上に生かされる光をしかと此の身にいただいたよろこびの声である。

【慈光の旅 −信仰と反省− 井上善右衛門 自照社出版 P15,P16より】


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最後の文いいですね。

「念仏は人間を超えて、人間の上に生かされる光をしかと此の身にいただいたよろこびの声である」

南無阿弥陀仏と受けとって、南無阿弥陀仏と(報恩感謝の念仏を)称える。阿弥陀さまと私の距離感がなくなった証拠です。感応道交です。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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