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手 品 師 このページをアンテナに追加

2017-08-15

歎異鈔 歎異鈔のブックマークコメント

 日本社会では、特定の宗教集団による強引な勧誘は盛んであっても、宗教とはなにかについて、まとまった知識を身につける機会が少なく、したがって宗教の中身がはっきりしないまま「無宗教」と称している場合が多いようだ。もしそうならば、宗教に関する知識を一通り身につけたうえで、「無宗教」を標榜しても遅くないではないか。

 加えて、私から見れば、「無宗教」もまた、一つの宗教心と考えられる。「無宗教」の人も、世界と自分が絶対的な存在だと確信しているわけではない。世界と自分の危うさは、深浅のちがいはあっても、だれでも意識して暮らしているのだ。だからこそ、その危うさを紛らす手段として、盆には先祖の墓に詣でて、正月には初詣に向かうのであり、神社や寺院、教会にも足を運ぶのであろう。

 それならば、人間存在の危うさに真正面から取り組んできた宗教という営みに向き合ってみるのも一つの選択ではないだろうか。

 いずれにせよ、『歎異鈔』は、宗教とはなにかを知るうえで、格好の教材となるように思われる。『歎異鈔』の内容を紹介することによって、宗教的なものの考え方が明らかになり、「無宗教」者にも「宗教」に対する共感が生じるのではないか。そうした期待が私にはある。

【無宗教からの『歎異鈔』読解 阿満利麿 筑摩eブックスより】


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ここで、

「人間存在の危うさに真正面から取り組んできた宗教という営みに向き合ってみるのも一つの選択ではないか」とあります。その格好の教材のひとつに『歎異鈔』の存在を挙げています。わたしも同感です。

いま・ここで・わたしが生きている(生かされている)意味を考えてみたいものです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2017-08-13

善知識も同朋の一員にすぎない 善知識も同朋の一員にすぎないのブックマークコメント

 問題は、集団が堕落していようがいまいが、私が自らの救済をどのように実現するかであろう。私の「生死からの出離」を実現するうえで、どうしても堕落した教団が邪魔だとなれば、それから離れればよい。教団とは無縁の救済論も存在するのであるから。

 大切なことは、信仰者たちがどのような原理にもとづいて集団を形成しているのか、ということであろう。教祖を崇拝するために組織をつくっているのか、集金マシーンを目指しているのか、等々。

 『歎異鈔』の場合、人々が集団をつくったのは、信心の相続のためであろう。序文にもあるように、『有縁の知識』に出逢うために、人々は集まり、そして本願のいわれを「聞く」ことに専心したのである。

 しかも、その「善知識」も、同朋(どうほう)の一員にすぎない。けっして特別の存在ではなかった。なぜならば、「善知識」という先達者であっても、ほかの同朋と同じように、その信心は阿弥陀仏からたまわったものであるからだ。本願念仏においては、信心はすべて阿弥陀仏から差し向けられたものであり、信者の努力・精進の結果、獲得されたものではない。ここに、本願念仏者たちによる信仰共同体の、本質的な平等性がある。

【無宗教からの『歎異鈔』読解 阿満利麿 筑摩eブックスより】


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ここでもいわれていますように、

『信心』はすべて阿弥陀仏から差し向けられるもの、とあります。「すべて」です。

あと、「善知識」と「教祖」の違いを明確にしておく必要がありますね。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2017-08-11

宗教と道徳の違い 宗教と道徳の違いのブックマークコメント

 本願念仏においては、信心が問題となるのであり、善悪は問題とならない、ということがくり返し述べられている。それは、『歎異鈔』を貫く根本テーマだといってよいだろう。別の言葉でいえば、『歎異鈔』は、道徳の書ではなく、宗教の書だということである。にもかかわらず、親鸞に教えを受けた念仏者たちのなかに、本願念仏を道徳の教えと勘違いする人が少なくなかった。なぜか。道徳の教えのほうがわかりやすいからであろう。悪事を避け、善を実践する。言葉のうえでは、まことにわかりやすい。

 だが、これほどわかりやすい道徳ではあるが、その実践がどんなに難しいことか。善に敗れ、悪に絡みとられる人間の哀しさが、やがて宗教の世界に開くのである。それだけではない。いかに善悪のけじめに神経をすり減らせていようが、人生そのもののはかなさ、不条理、虚空に、道徳は答えを出すことはできないのである。そこに宗教の存在意義が生まれてくる。

【無宗教からの『歎異鈔』読解 阿満利麿 筑摩eブックスより】


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宗教と道徳の違いを明確にする必要があります。とりわけ、浄土真宗の教えにおいては、「信心」が問題となります。悪事を避け、善を実践する教えではない、ということを重々留意しなければなりません。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2017-08-06

真実を覆い隠す蓋 真実を覆い隠す蓋のブックマークコメント

 阿弥陀仏の願いに出遇いながら、それを自分のことでないように横に置いておき、さとりを求める心をどのようにおこしたらいいだろうか、浄土に生まれるにはどのように行いを清く正しくしたらいいだろうかなどと考えることは、悲しむべき自力の執着心であり、かえって仏の願いを聞こえにくくしてしまいます。

 自力へのこだわりは、常識に沿って納得しようとする私の思いによって、真実をおおいかくす蓋となってしまいます。それが、仏の願いを受け取るジャマをしてしまうのです。

 阿弥陀仏の願いは、この私を離れては存在はしません。私が念じる、念じないによって変わるようなものでもありません。

 私の日常は、「ものぐさく懈怠(けたい)ならんときは」、となえることもしないまま、夜が明けるまで時を過ごしたり、日の暮れるまで時間を過ごしたりしてしまいます。それでも、「他力の信心、本願に乗りゐなば」、他力の信心という乗り物に乗せられ、本願におまかせするところに、間違いのない人生を歩むことができるのです。

 それを善導大師は、「阿弥陀仏というのは、衆生が浄土に往生する行である」とお示しになられました。阿弥陀仏は私の一切を飲み込み、あるがままを認め、そのまま救われていく教えてとして、完成されたものなのです。

【『安心決定鈔』を読む 佐々木 隆晃 大法輪閤 P166、P167より】


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南無阿弥陀仏のはたらきは私の常識を超越しています。ですので、私の常識というものさしで、どれだけ推し計っても推し計れるものではありません。

つまり、私の常識にどれだけ固執しても進展はない、ということです。ここでは、私の思いを「真実を覆い隠す蓋」といわれています。

南無阿弥陀仏のはたらきの中で生かされている状況下において、私の思いという蓋は必要ありません。このいま、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かせていただくことが大事になってきます。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2017-08-05

ギュギュッと凝縮 ギュギュッと凝縮のブックマークコメント

 親鸞の理解によれば、阿弥陀仏自体が、真理が人間のために仮に姿をとったもの、なのであり、阿弥陀仏の本体(法性・真理)は、人間の認識を絶しており、言葉でも理屈でも感覚でも捕まえることはできない、まったく人間とは隔絶している。だが、その絶対的な真理が人間のために辛うじて理解できる手がかりをもって登場しているのが阿弥陀仏という仏なのだ。

 辛うじて理解できる手がかりとは、経典に記されているように、阿弥陀仏はもとは人間であり、人間の願いを結集してその実現のために、気の遠くなるような時間をかけ、困難な修行を重ねて、ついに阿弥陀仏となり、人間のために自分の名を称せよ、そうすれば、いかなる人間でも救済して仏とする、という約束している点をさす。

 阿弥陀仏の根本には、人間の願いがある。この点が阿弥陀仏を理解する重要な鍵である。阿弥陀仏とは無数の人々が願い続けてきた、人類の願いの結晶であり、そのシンボルなのである。

【無宗教からの『歎異鈔』読解 阿満利麿 筑摩eブックスより】


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「自分の名(南無阿弥陀仏)を称せよ、そうすれば、いかなる人間でも救済して仏とする」とありますが、自分の名を称させるのも阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらき、ですね。

私の理屈や考えを超越したものにおいては、その超越したものに全託するしかありません。南無阿弥陀仏のはたらきは色や形はありませんが、「南無阿弥陀仏」という言葉となってわたしの上に具現化されています。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2017-07-30

死に様は無関係 死に様は無関係のブックマークコメント

 人は必ずしも臨終を平静に迎えるとはかぎらない。どのような悪相(あくそう)をもって終わることになるかもしれないであろう。そもそも苦しい息のなかで、念仏を唱えることはとても難しいのではないか。にもかかわらず、死ぬ瞬間には妄想を懐いてはならない、心静かにして念仏をしてはじめて、阿弥陀仏は来迎する、さもなければ、来迎はない、とまで主張するのは、現実を無視した、きわめてかぎられた達人のための教えとなるではないか。こうした主張は、現代でも、臨終に悪相のものは地獄へ堕ち、柔和な相のものは極楽へ生まれる、という俗信の一端となって生きている。

 この問題は法然を悩ませた、信者たちの誤解の一つでもある。法然は手紙のなかで、本願念仏を誤解している人々は、臨終の際に、自分が心静かに念仏することによって仏の来迎を勝ちとるのだ、と信じているが、それは逆であって、阿弥陀仏の来迎の目的は、臨終の念仏者を平静に保つためなのであり、阿弥陀仏の来迎は、平生の念仏のおかげによる、とのべている(『定本法然上人全集』第七巻、P154〜P156)。

 さらに法然によれば、阿弥陀仏が迎えに来られても、死の苦しみが軽減されるわけではない。死の苦しみはいかなる人でも免れることはできない。ただ、臨終の苦しみは髪の毛一筋を切るほどの瞬間的なものだろう、悶絶するかもしれないが、息が絶えれば、あとは阿弥陀仏の国だ、と念仏者を励ましている(『定本法然上人全集』第七巻、P217)。

 このように見てくると、念仏を「自行になす」はたやすく、阿弥陀仏の誓いのままに念仏することがいかに難しいか、がよくわかるであろう。本願念仏の理解は、時代の差を超えて難しい人には難しく、わかる人には容易に分かるのである。

【無宗教からの『歎異鈔』読解 阿満利麿 筑摩eブックスより】


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大事なことは、生きているこのいま、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされているか否か、です。死に方や死に様はまったく問題になりません。「あの人は眠るように安らかに亡くなったから浄土に往生したでしょう」と、残された人は思っている(思い込ませている)かもしれませんが、視点はそこではありません。

「いま・ここで・わたしが、南無阿弥陀仏のはたらきに気付くか否か」という点を見極めていきたいものです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

 

2017-07-29

お念仏(南無阿弥陀仏)が証拠 お念仏(南無阿弥陀仏)が証拠のブックマークコメント

『歎異鈔』では、明確な、阿弥陀仏への信仰が要求されている。となると、阿弥陀仏はどこに存在するのか、が問題となるし、かりにその物理的存在を問う必要がないとしたら、阿弥陀仏の存在をいかに納得するのか、が重要な課題となる。このような阿弥陀仏の存在を納得するプロセスは、日常的な、普通の考え方とはずいぶん異なることになろう。とくに、阿弥陀仏の存在を納得しなければならない必然性の有無が、こうした宗教的思考を受け入れるかどうかの分かれ目となろう。いずれにしても、常識から一歩踏み込んだ思考が要求されることには変わりはない。

【無宗教からの『歎異鈔』読解 阿満利麿 筑摩eブックスより】


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「阿弥陀仏はどこに存在するのか」と問われれば、

『ここに存在する』としか答えざるを得えません。

「阿弥陀仏の存在をいかに納得するのか」と言われれば、

自分から納得する必要はなく、(阿弥陀仏からその存在を)納得させられる、と回答せざるを得ません。これも縁と片付けていいものかどうか分かりませんが、理屈ではありません。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏