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手 品 師 このページをアンテナに追加

2017-06-23

浄土真宗の信心 浄土真宗の信心のブックマークコメント

 もしかしたら、私たちは信心があるかないかということで、浄土とか阿弥陀さんということを私たちの思いの中だけの小さな器(うつわ)の中に閉じ込めていたのではないか。阿弥陀さんは、私たちに信じられなくても心配しなくてもいいよと言ってくださっているのに、私たちの方がかたくなに信じられなければだめだと思っている。

 信心とは、むしろそういう小さな世界を破っていくようなはたらきをするようなものでなければならないのではないかと思います。如来の心にふれたら、信心があると思っているか思えないかということは気にする必要がないようになる。それが浄土によって開かれていく世界である。

 逆説的な言い方になりますが、信心の有無なんか気にする必要がない世界を開くのが信心である。何を信ずるのかと言えば、如来を信じられなくても、如来は決して見捨てないということを信じるのです。

【往生浄土の道 藤場俊基 サンガ伝道叢書より】


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(浄土真宗でいう)信心といいましても、自分から掴もうとして掴めるわけでもありません。といいましても、「棚から牡丹餅」的な発想でもありません。「自分を信じろ!」という言葉は前向きな意味合いで使われますが、「浄土真宗の信心」を語る上では意味をなしません。阿弥陀さまに依ることが大切です。

南無阿弥陀仏のはたらきに気付かせられたといいましても、

自分自身に言い聞かせる必要もなく(敢えて確信する必要もなく)、ただ、南無阿弥陀仏とお念仏を称えるだけです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2017-06-14

南無阿弥陀仏の人 南無阿弥陀仏の人のブックマークコメント

 お葬式は、浄土に向かって、そして仏さまに成る最後の仕上げなのです。そういう仕上げに向けて生きていくような生き方を、私たちは今この場で、「なんまんだぶつ」を申していくということの中で、一歩一歩、歩んでいるのです。仏に成るという大仕事が完成するかどうかは、今は気にしなくてもいいのです。名前さえ忘れなければ、誰かがちゃんと導いてくれるし、気が付いてくれるし、迎えにも来てくれるのだと。そういう生き方を自分自身が今ここからしていくということです。そうでない限り、いろいろなことに迷ってしまいます。そういう迷いの生き方をしていくしかないけれども、どう迷ったって、どう苦しんだって、私は仏さまに成っていくのだと。浄土に往って、仏さまにしてもらうのだと。

 そういう生き方をしていく人たちが、「南無阿弥陀仏」の人たちなのですね。そのことに気が付いた人たち。「あなたもそうか。あなたも往こうとしているのですね」という目で、念仏をしている人を見ていくことができたときに、大変心強くて頼もしい人たちに囲まれて生きているということになります。

 だから、お葬式のときに「なんまんだぶつ」が聞こえないようになってきたのですけれども、まことに心もとないのです。いくら「念仏申しましょう」とお説教をしても、みなさんなかなか念仏しないのです。

【南無阿弥陀仏の葬儀  藤場 俊基  サンガ伝道叢書より】


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まずは、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かせて頂く、ことですね。

あとは、阿弥陀さまにおまかせ。なるようになります。

南無阿弥陀仏の人にとって、葬式は浄土参りの門出なのです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2017-06-07

ギャップ ギャップのブックマークコメント

「人は死ぬ」当たり前のことですが、

では、「私が死ぬ」となるとどうでしょう。

そこのギャップはなかなか埋まりません。

生かされている命 生かされている命のブックマークコメント

わたしは生かされているんだなぁ〜、と気付かせて頂くことはとても尊いことです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀

生きる意味 生きる意味のブックマークコメント

本当の「悔いなき人生」とは、一体何なんでしょう。

今一度、考えてみたいものです。

自分の世界 自分の世界のブックマークコメント

わたしの希望や思いをどんなに頭の中でこねくり回してもなんの進展もありません。

肝心の阿弥陀さまは一体何処にいったのでしょうか。

自分探し 自分探しのブックマークコメント

「自分探し」といいましても、

到底、自分を自分自身で探し切れるものではありません。

結末は容易に想像できます。

阿弥陀さまに依らなければ、本当の自分探しは完結しません。

本当のわたし 本当のわたしのブックマークコメント

偉そうなことをいっていますが、

醜い奴なんです。

日々、反省。

仮定 仮定のブックマークコメント

〜したら とか

〜すれば とか といった仮定をどれだけ並べまくっても仮定のままです。

そこに解決はありません。

真実に向き合わせて頂きたいものです。


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2017-06-01

執着心 執着心のブックマークコメント

 菜種ほど落ちやすいものはない。触っただけでもパラパラ落ちる。その落ちやすい菜種でも莢(さや)がまだ青いうちはいくら唐竿で叩いても落ちん。実が入るとこちらが何もせんでも、ちょっとした風でもパラパラ落ちる。

 心に実の入らしてもらったものは自分の肉体にも、また物にも執着しないのです。執着から離れられんのは実が入っとらん証拠です。そこまでわからせてもらいながら、いつまでたってもその実が入らんので頭が上がらんのです

【北の大地に念仏の華ひらく おとうさんとよばれたひと 林 暁宇 響流書房より】


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阿弥陀さまのお育ての中で生活している人生、そのお慈悲のお心を感じさせて頂きたいものです。先人は、「助かってみれば助かることもいらなかった」といわれています。すでに南無阿弥陀仏のはたらきの中で、私が生かされていることを的確に表現された言葉です。

わたしに向くのではなく、阿弥陀さまに真向きにさせて頂きたいものです。わたしの執着心は曲者です。「聴いているうちに、向こうから聞こえてくると」いう先人の言葉があります。阿弥陀さまのお育てに授かって生かされていますので、遅かれ早かれ、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かせて頂けます。(その気付きは)いまに越したことにはありません。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2017-05-30

優先順位 優先順位のブックマークコメント

お乳の中には蛋白質もビタミンも赤ちゃんが育つために必要な養分がみんな含まれておりますので、飲みさえすれば栄養の知識がなくても大きくさせてもらえます。わかることに骨折るよりまず飲ませてもらうことが大事なんです。お乳を飲んで大きくなれば自然に智慧がついてその道理を知らせてもらえるのです。お念仏はいわれがわかってから称えるのでなく、称えさせていただいていると知恵がいただけるのです。

【北の大地に念仏の華ひらく おとうさんとよばれたひと 林 暁宇 響流書房より】


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まずは、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かせていただくことが先決です。

わたしの思いや計らいは、ちょっと横に置いておきまして、阿弥陀さまと真向きにさせていただくことが大事ですね。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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ハルハル 2017/05/30 09:08 いろいろな喩え話や引用から教えていただいております。ありがとうございます。私の思いを置いて、南無阿弥陀仏にま向きになる?とはどういうことでしょうか。いつも試行錯誤しています。

手品師手品師 2017/05/30 12:50 ハルさん、コメントありがとうございます〜。
ハルさんのお言葉を借りますと、「わたしの試行錯誤」に目を向けるのではなく、阿弥陀さんに向くということです。阿弥陀さまのお救いに、「わたしの試行錯誤」は全く関係ありませんので〜。違う表現でいいますと、阿弥陀さまにおまかせするということです。阿弥陀さまにおまかせするといいましても、(阿弥陀さまに)おまかせさせられるといった方が正確です。ハルさんの試行錯誤は阿弥陀さまの試行錯誤でもありますね。一心同体南無阿弥陀、そのはたらきに気付かされるか否か、です。
まとめますと、「私の思いを置いて、南無阿弥陀に真向きになる」とは、阿弥陀さまにおまかせする、南無阿弥陀のはたらきに気付かせて頂く、ということです。他にも表現はあるかと思いますが、そういうことです〜。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

ハルハル 2017/05/31 08:38 ありがとうございます。南無阿弥陀仏のはたらきに気づかせていただくこと。
ここがどうしてもわからないとこです。でも、大切なのだとわからせていただきました。ありがとうございました。

2017-05-21

真実とは 真実とはのブックマークコメント

先生(鈴木大拙)は、テーブルを叩いて

今の聞こえたか? どこで聞いた? といわれたので

私は賢ぶって、耳で聞いたと応えずに「全身で聞いた!」と応えました。

すると、(先生は)

「いやいや、そんなけち臭いものではないぞ。全宇宙が聞いたから、美穂子さん、あんたが聞いたのではないか。真実というものは、爐海海らここまで瓩鳩廚譴襪發里任呂覆ぁ△修譴、無だ」と仰られるのです。

つまり、余すところがない、つかまえる必要もない、というのが無(無限)ということです。

それは、阿弥陀仏のお名前そのものです。

計ることがないという仏さまです。


※ア・ミタ  

ア :梵語の否定を意味する、ミタ:メートル(距離)をあらわす

つまり、計ることがない

大拙先生とわたし こころの時代 より】


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真実は、南無阿弥陀仏ということですね。

つまり、その(南無阿弥陀仏の)はたらきは、余すところなくひとりひとりにはたらいている、ということです。

ですので、わたしから、つかまえる必要もありませんし、つかめるものでもありません。

わたしの計らいを超越したものにおいては、そのものに従うしかありません。

いま・ここで・わたしが、南無阿弥陀仏のはたらきに、気付かせていただく、ということです。わたしの計らい、曲者です

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2017-05-14

将棋の譬え 将棋の譬えのブックマークコメント

 おとうさんに会った人の中に山本太朗さんという人があった。この人は仏法はおろか、平素から人間の心とか思想とかに関心のない人で、その夜も「林さんのところへ偉い人が来る」ということで奥さんに引っぱられて仕方なしに顔を出したにすぎなかった。

 私が、この人は将棋が大好きな島一番の指し手であることや、店の仕事をほったらかして将棋に夢中になって奥さんに叱られている人であることを話して紹介したところ、一切勝負事をしないと聞いていたおとうさんが、「やあ、将棋ですか、将棋は素晴らしい!」といわれたのでびっくりした。

 おとうさんのいわれるのには、

 「将棋では桂馬さんでも香車さんでも歩(ふ)さんでも、敵の陣内に入ると狎る瓩箸い辰洞發汎韻犬呂燭蕕をするんですね」

という話からだんだんと、

 「仏法さんでも、お念仏の世界に入れていただきますと、こんなお恥ずかしい者が、゛瓦礫(がりやく)も金と変じける瓩函∧さんと同じお徳がいただけるんです。将棋はそれと同じことを教えて下さっているので素晴らしい」

と、手を取り肩を叩いて親しく話をすすめていかれたので、はじめは場違いの所へ連れて来られた感じで面喰らっていた太朗さんも一度に打ちとけて話し合いの仲間に入ったのであった。

【北の大地に念仏の華ひらく おとうさんとよばれたひと 林 暁宇 響流書房より】


『ただ回心して多く念仏せしむれば、よく瓦礫をして変じて金と成さんがごとくせしむ』※顕浄土真実行文類二(教行信証・行)

【現代語訳】

(貧しいものと富めるものをわけへだてることなく、知識や才能の高下によってわけへだてることなく、博学多門のものも清らかな戒律をたもつものもわけへだてることなく、戒律を破ったものも罪深いものもわけへだてることなく、)ただ信を得て念仏すれば、瓦や小石を黄金に変えるようにしてお救いくださるのである

顕浄土真実教行証文類(上) 原文・現代語訳 本願寺出版 P142、P143より】


成金(なりきん)

なり‐きん【成(り)金】

1 急に金持ちになること。また、その人。「土地成り金」

2 将棋で、駒が敵陣に入って金将と同じ働きをするようになったもの。

デジタル大辞泉より


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南無阿弥陀仏の話をしていく上で、話す相手の背景(趣味、仕事、性格等)を考慮することは非常に大事なことだと思いました。仏法を伝えることにおいても、フレキシブルな対応が求められますね。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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