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手 品 師 このページをアンテナに追加

2018-06-13

お念仏 お念仏のブックマークコメント

 「念仏」は人間が起こすところの修行ではない。なぜか。その理由は、「念仏」が阿弥陀仏の工夫になる「行」だという点にある。「わが名を称せよ」という要請は阿弥陀仏が設けたことである。人間が成仏の手段として開発、発明したことではない。もっぱら阿弥陀仏の工夫にかかる。ということは、私が「南無阿弥陀仏」と称することは、同時に阿弥陀仏が私のなかではたらいていることを意味する。阿弥陀仏が私のなかではたらく相(すがた)が「念仏」にほかならない。

 たしかに「南無阿弥陀仏」と称えるのは私である。阿弥陀仏の誓願を信じて「念仏」しようと決意するのは私である。だが、私が「南無阿弥陀仏」と称するのは、同時に阿弥陀仏の誓いが私において現実化していることなのである。阿弥陀仏の存在という点からいえば、阿弥陀仏は称名という形式によって私のなかに存在する、ということになろう。

 それ故に、親鸞は称名を「大行」とよんだ。「大」とは阿弥陀仏の行為であることを示す。人間の修行ではない、という意味でもある。『歎異鈔』の文章でいえば、「誓願の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名号を案じいだしたまひて、この名字(名号のこと)をとなへんものを、むかへとらんと御約束あることなれば」(第十一章)とあるところの、阿弥陀仏によって「案じいだ」されたものが名号(「南無阿弥陀仏」)にほかならない。称えるのは私だが、阿弥陀仏が私にいう「場」を得て、自らの工夫を実践しているのである。

【行動する仏教 法然・親鸞のおしえを受けつぐ 阿満利麿 筑摩eブックスより】


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まさしく、一心同体 南無阿弥陀仏です。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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科学忍者隊ガッチャピン

2018-06-09

阿弥陀仏の本願と念仏の関係 阿弥陀仏の本願と念仏の関係のブックマークコメント

親鸞聖人が本願と念仏の関係、念仏と私どもの関係を最も深く知らしめんとして、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏もうさんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」と申されたのであります。このお言葉は一面、悩める衆生が助かるのはまったく他力である、自分のはからいでは助からないことを強く主張していられるのであります。摂取不捨とは仏の光の中に生まるることであり、どこまで行っても仏の光であり、光の中に自分を見いだすということであります。その光の中に自分を見いだしたということが、私どもの助かったということであります。「往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんと思い立つ心の起こるとき、念仏するという行によってではなく、念仏に対する信によって、如来の魂が私の胸に到達してくだされるのであって、そしてそれが摂取されたときなのであります。すなわち、誓願のご不思議によって助けられるのだと信じて、念仏申そうと思い立つとき、すでに如来と私は接触しているのであります。すなわち、念仏によって如来の心が私に通い、私の心は如来に通うのであります。もう一歩極言すれば、念仏の萌しが私の胸に起こりて、口に出るか出ないうちに、私はすでに助かっているのであります。そしてその念仏の信が自然に行となって相続されるのであります。これは、念仏するというそのことによって助かるのではないということを、知らしめんとしていらるるのであります。火のあるところには自然と煙が立つように、念仏の信は自然に念仏の行を生み出すのであります。かく仏心と凡夫の交通によって、実に私どもは死んでからではなく、現在ただいまから、救いの中に生まるることができるのであります。すなわちそこに明らかに光を見、光を感じつつ、この多難なる人生の行路を安らかに進みゆくことができるのであります。

【歎異鈔講話 蜂屋賢喜代(はちやよしきよ)北樹出版 P35より】


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念仏(南無阿弥陀仏)は、阿弥陀さまと私を繋ぐ架け橋です。南無阿弥陀仏の6文字の言葉をもってして、智慧のない私に「念仏の世界」を知らしめてくれています。念仏生活の根底には大安心があります。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2018-06-02

極論の効用 極論の効用のブックマークコメント

法然親鸞の時代では、人は源信がいう「妄想」のかたまりだ、ということを聞けば、「なるほど私は愚かで妄想のかたまりそのものだ」と頷いて、そうした凡夫に注がれている阿弥陀仏の本願の意味が身に染みるように理解できたのであろう。しかし、現代では人は皆、自らの智恵と賢さを誇りにして生きている。人よりは勝れているという自尊心が生き甲斐の根拠となっている。だから、自らすすんで「妄想」の身だと自覚したり、真理に暗い愚かな身だと認めることは、しばしば人生の敗北者になることを意味する。

 こんな時代に、あえて人は妄想のかたまりだという「極論」を主張することは、誤解を受けやすいだろう。しかし、それは、私たちの自我にどのような問題が内在しているのかを明らかにし、常識の限界に気づくためなのである。あるいは、自己の有限性に気づくための「極論」といってもよい。

 「信仰心」だけではなく、「極論」に導かれて、「非常の言葉」に向き合う。そこから法然や親鸞の仏教がはじまるのである。「極論」がただちに求道心を喚起することができた中世と、「極論」によって、しぶしぶ、問題の所在に気づき、日常の価値観を相対化する現代の私たちの間には、やはり、深い溝が生じているといわねばならない。

 だが、その溝にかかわらず、中世人の求道の跡をたどることしか、現代の私たちの求道もないのである。「極論」に頷くことが現代の求道の始まりなのである。「信じる」のは、そのあとのこと。「信じる者は救われる」という言葉に惹かれて、無理に信じようとして、結局は信じることができない、という悩みに陥るのは仏教の教えではない。納得すべきことは、わが身が「妄想」のかたまりだということであり、それが納得できてはじめて阿弥陀仏の誓願という「物語」に頷くことができる。人によってはずいぶん時間がかかるが。

【行動する仏教 法然・親鸞のおしえを受けつぐ 阿満利麿 筑摩eブックスより】


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時代背景の違いは、仏教を聞く環境においても大きく違ってきます。ここでは、現代と中世(法然聖人、親鸞聖人が活躍された時代)の違いについて述べられています。「現代では人は皆、自らの智恵と賢さを誇りにして生きている。人よりは勝れているという自尊心が生き甲斐の根拠となっている。」とありますように、現代人の(多くの)生き甲斐は、自尊心が大きな原動力となっている、と考察しています。そういった自分たのみの生き方は、阿弥陀さまの救いという視点からみますと、ハードルになっているように思います。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2018-05-25

念仏 念仏のブックマークコメント

弥陀によって誓われた本願ということがあります。そしてその本願の対機として、無量の衆生が存在するのであります。この本願と衆生の関係を結ぶ唯一の糸は念仏であります。川を渡って向こう岸にゆこうとするには橋を渡らなければならぬ、その橋が念仏であります。こんな例を引きますと、あるいはその比喩に引っかかって困られるかもしれませんが、もっと端的にいえば、本願の趣旨がわかったのが念仏であり、念仏の意義がわかったのが本願に接したのであります。では何ゆえ、衆生が弥陀の本願に救われねばならぬか。今日でもなぜ宗教を聞くのか、宗教は我々の生活上にどういう意味を有するのかという人があります。毎度聞いている人でも、こういう人があるかもしれません。しかしこれは実に重要な問題であって、何がゆえに聞くのであるか。なにゆえ助からねばならぬのかということが、自分の心に明らかにならなければ、宗教を聞くことは、何らの根拠がないこととなります。

【歎異鈔講話 蜂屋賢喜代(はちやよしきよ)著 北樹出版 P25より】


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阿弥陀仏の本願に(いま・ここで・私が)接していることに、気づくか否か、非常に大事なところです。「南無阿弥陀仏」の念仏は、いま、ここで、阿弥陀さまと私を繋いでいます。「南無阿弥陀仏」という6文字の言葉となり音声となって、智慧のない私に、知らしめてくれます。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2018-05-21

法然親鸞の「信心」観 法然や親鸞の「信心」観のブックマークコメント

信心とは如来から与えられるものであって、自分の力で手に入れるものではなかったからです。わたしたち人間は如来から信心を賜ることによって救われるというのが、法然や親鸞の基本的な「信心」観でした。わたしたちは、浄土門門徒であるかぎり、この「信心」観に依拠しつつ、信心を与えられる瞬間を待たなければなりません。ですが、ただぼんやりと待っているだけでは、いつまでたってもわたしたちの胸底に信心が生まれるという事態は生じようもありません。

【念仏者 蜂屋賢喜代(はちやよしきよ) 伊藤益 著 北樹出版 P163より】


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浄土真宗でいう『信心』は、「阿弥陀さまから私へ」という点で、他宗教とは異にします。方向が180度違うのです(他宗教は、私から絶対者に差し向ける、お願いする、祈る)。まさにコペルニクス的転回というべきです。といいましても、ここでも指摘されていますように「ただぼんやりと(救いを)待っている」といった棚から牡丹餅的(労せずしてよいものを得る)なものではありません。『仏法は聴聞に極まる』と蓮如上人はご教示くださいます。聴聞に勤しませるはたらきも阿弥陀さまに依るものです。このいまも、私は、阿弥陀さまのお育てに授かっています。有難いことです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

2018-05-14

阿弥陀さま視点 阿弥陀さま視点のブックマークコメント

善悪のふたつ、

総じてもつて

存知せざるなり

(私は善と悪、二つの事柄について何も知らないのだ)

『歎異鈔』後序


(注釈)

親鸞ほどの人間がものの善悪がわからない、というのだろうか。しかしここでいう善悪というのは一般的な善悪のことではない。仏の目から見た善悪のことをいっているのだ。われわれの考える善や悪は、「自分の都合」を通して判断しているようなものである。本当の善とは何か、悪とは何か、仏でなければわからないのではないか。「自分の都合」で構築されたこの世のすべては嘘偽りにまみれたものだ。だからこそ親鸞は何が善で悪なのかわからない、といったのだ。

【親鸞 100の言葉 釈撤宗(監修) 宝島社P38,P39より】


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ここでいわれている「善悪」は、仏さま(阿弥陀さま)からみたものです。「自分都合の視点」は大きな弊害を生みます。また、自分視点はどうも不安で安定しません。何事も、仏さま(阿弥陀さま)視点で物事を捉えていきますと、私の視野は広がります。「わたしは、わたしは、」を少し横に置いときまして、「仏さま(阿弥陀さま)は(私を)どう見ているのか」という一歩引いた視点で自分を見つめ直す余裕が大事だと思います。仏さま(阿弥陀さま)視点という大きなスケールで自分を客観視することはとても大事なことだと思います。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2018-05-10

現代の私たちのプライド 現代の私たちのプライドのブックマークコメント

現代人が 「宿業 」という言葉を拒否するようになった理由も分かる 。つまり 、現代人においては 、自己に対する 「自信 」が肥大化しているのだ 。自らの行動は 、自らの意志で自由にできるという、まさしく 「思い込み 」が広がっていて 、自分の行為に 、わけのわからない 「束縛 」があるとは 、認めがたい 、ということだ 。自分のことは 、自分が一番よく知っているのであり 、自分の意志で決められないことはない、という 「自信 」である 。

もし、うまくゆかないことがあるとすれば、それは、あの人間が邪魔をしているからであり 、そうでなければ 、環境が悪いのだ 。あるいは 、自分の努力が足りないのかもしれない 。それだけのこと 。自分も知らないような過去に 、現在の苦境をもたらした原因があるなど 、とても受け入れられないし 、それは迷信だ 。迷信で非科学的である 、と思われることは、絶対に受け入れることはできない 。これが 、現代の私たちのプライドであり、それが 「宿業 」という言葉を拒否しているのであろう 。

 このような自己への「自信」は、死に方についても、できるだけ苦痛を少なくして安楽に死ねるはずだから、そうしてもらいたい、という要求ともなる。死に方も自分の意志で決めようとするのだ。

【行動する仏教 法然親鸞のおしえを受けつぐ 阿満利麿 筑摩eブックスより】

宿業(しゅくごう)

過去世につくった善悪の業、または善悪の行為の力のこと

【浄土真宗辞典より】


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わたしの自信やプライドは、確かに、生きていく上では必要です。ただし、南無阿弥陀仏のはたらきに気づかせて頂くという視点からみますとハードルになっているように思います。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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