ブログトップ 記事一覧 ログイン 無料ブログ開設

手 品 師 このページをアンテナに追加

2017-10-18

思わんようになる 思わんようになるのブックマークコメント

 浄土真宗は「そんな旨い事あるかい」「そんな馬鹿な事あるかい」と言うて、禅宗の人なんか言うとるわ。「『行』も積まず、『願』も起さず、『善』い事も一寸(ちょっと)もせず、三毒の煩悩、八万四千の業を煮やして居りながら、一編に『閉眼絶息の夕べには、大般涅槃を超証す』と言うて、直ぐに仏に成ると言う、そんな『旨い』事があるかい」と言うわ。是は無理じゃろ。聖道自力の人から見たら、「そんな旨い、棚から牡丹餅みたいな事あるかい」と言う取る。「そんな事あるかい」「そりゃ無理じゃ」「そんな道理は無いわい」とこう言うのが、まあ普通やな。

 けども、如来様から見たら、喚び声(南無阿弥陀仏)の中には、智慧も、慈悲も、智慧の力も、慈悲の力も、誓願の力も何もかも込めて、喚んで下さって居る。この「まこと」の力は、仏のまことの力、仏の誓願力、仏の真実心によって凡夫が仏に成れんと言う事があるかいと、こう言うのや。是は何が無理かい。何が棚から牡丹餅かい。そう言う見方をするのが自力やな。自力の心を持っていては、お他力と言う事が分からん。他力と言うものは仏様にならんと本当には分からんのやでえ。この世の中で」、自力や他力や言うたって分からへんわい。分かるもんかい。仏様に成って阿弥陀様と同体の悟りを開いて見たら「捨てて置いてくれと言われたとて、捨てて置かれぬ親心」と言うものが、仏自心がボォーッと、自分で出す事が出来るから、その時に分かるわい。その力で以って、力一つで以って凡夫を助けると言う事が分かるわな。まあ、凡夫で迷うとる間は分からんわい。「そんな事あるかい」と、心の底ではそう思う取るやろうな。皆、口には出さへんけど。「お他力」「お他力や」と口では「上手い」こと言う取るけど、心の底では、「見た事も、信じた事も、善い事をした事も無い。こんな私みたいな者が仏様の本願力とやらで以って仏に成るって、そんな馬鹿な事があるかい」と心の中では思う取るやろ、思う取らんと言うても、思う取るに違いないんじゃ。

 其れやったら「仏様の自然(じねん)」「法の自然(じねん)」「願力の自然(じねん)」と言う事には成らんのやでえ。「思う取らん」と言うても、思う取る。「思わん」様に成ったら「不思議やなあ!」と言うのや。

【自然法爾章 稲垣瑞劔 師講述 昭和35年2月21日 正蓮寺(彦根市)より】



自然法爾(じねんほうに)

 仏教では、自然を〈じねん〉と訓じて「自ら然る」という意味に解する。人間の作為のない「そのまま」の在り方が自然である。法(真理)が「そのまま」に顕現していることを示す法爾(ほうに)と自然とは同義語で、その両者を合わせて「自然法爾(じねんほうに)」「法爾自然(ほうにじねん)」という四字熟語ができた。

 浄土宗開祖の源空は、「法爾自然」を略して法然と号した。浄土真宗を開いた親鸞は、「自然法爾章(じねんほうにしょう)」と称する一文を認め、その中で「自然といふは、自はをのづからといふ、行者のはからひにあらず、然といふはしからしむといふことばなり」(『末燈鈔(まっとうしょう)』)と説いている。

【生活の中の仏教用語より】

http://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000ro3.html


f:id:tarou310:20120716095419j:image

「不思議やなあ!」というフレーズがでてきたらしめたものです(笑)

称えるお念仏(南無阿弥陀仏)は報恩感謝となります。阿弥陀さまと真に心が通じ合ったということになります。迷いの世界からの脱却でもあります。

生きてよし 死んでよし。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

2017-10-09

南無阿弥陀 南無阿弥陀仏のブックマークコメント

 「南無阿弥陀仏」についてお話ししましょう。「南無阿弥陀仏」は、六字の名号(仏の名前)と呼ばれます。名号を称えるのが「称名」です。仏の名を称える、という形態は仏教の初期からありました。「南無」はナマス(namas)というサンスクリットの言葉に漢字を当てはめたもので、「帰命」「帰依」を意味します。要するに、「おまかせします」ということです。次の「阿弥陀」は、アミターバ(アミタ・アーバ、amitabha)とアミターユス(アミタ・アユース、amitayus)という言葉からできています。ミタが「限界」、アが「〜でない」という否定の意なので、アミタは「限界がない」「限りなし」となります。「アーバ」は光で、「アユース」は生命のことです。つまり、アミターバは「限りない光」、アミターユスは「限りない生命」です。

 そして最後の「仏」は、この場合は「はたらき」という意味になりますので、「南無阿弥陀仏」と称えることは、もともと「この世界に充ち満ちる限りない光と命のはたらきにおまかせします」という意となり、自分自身の生きる方向性を表す言葉なのです。

 ところが親鸞は、南無を「おまかせします」ではなく、「まかせてくれよ」と仏に呼ばれているのだと領解(りょうげ)します。自分の称えた「南無阿弥陀仏」が、仏の呼び声となって聞こえてくる、それが他力の念仏なのです。「称える」ことは、すなわち「聞くこと」である。「称名」は、すなはち「聞名(もんみょう)」である、ここが親鸞の念仏の本質です。「聞名」という思想は、『無量寿経』にも繰り返し出てきます。親鸞はそこに注目したのです。浄土真宗の教学では、「称即聞」「聞即信」―「称えること」「聞くこと」「信じること」の三つが一つであるとされています。浄土真宗の大きな特徴です。親鸞の念仏と信心を考える上でも重要です。

【NHK 100分de名著 歎異抄 釈 徹宗 NHKテキスト10月 P48〜P49より】


f:id:tarou310:20120716095419j:image

浄土真宗は、本願力回向の教え、ともいわれます。

方向は、「阿弥陀さまから私」であって、「私から阿弥陀さま」ではありません。

いうならば、川の流れに身を任せ、ぷかぷか浮いているようなものです。それに対し、逆流はしんどいですね(笑)。それ以前に、(私に)激しい流れに立ち向かうパワーは元々持ちあわせていません・・・・・・。

南無阿弥陀仏を単なる言葉ではなく、はたらきとして受けとりたいものです。

以下、このことを分かり易く表現した事例がありますので提示します。


講演の中で、重力の話に及び、私(横山)は皆さんにこう質問しました。

「実験で重力の加速度を計ることができますが、重力そのものを体得するには、どうすればよいでしょうか」

質問には誰も答えられません。そこで私は前に進み、高さ1メートルほどの講壇から下にドスンと飛び降りました。

「これが重力を体得するということです」

すると全員、拍手をしてくれまた。

【「唯識」という生き方 横山紘一 大法輪閤より抜粋】


重力を知る上で、主観的理解(身をもって)と客観的理解(計算式に入れて)では全く意味合いが違います。「南無阿弥陀仏」も然り、です。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


f:id:tarou310:20171009063554j:image

2017-10-06

理性や知性ではとどかない領域 理性や知性ではとどかない領域のブックマークコメント

念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき。

歎異抄 第十条)

(本願他力の念仏においては、自力のはからいがまじらないことを根本の法義とします。なぜなら、念仏ははからいを超えており、たたえ尽くすことも、説き尽すことも、心で思いはかることもできないからですと、聖人は仰せになりました。)


 「義」は「自分のはからい」のことを意味しますから、「無義」とは「自分のはからいがない」ことです。親鸞の手紙に、「義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり」(『親鸞聖人御消息集』)とあります。「はからい」とは分別のことです。もっと言えば、自分の都合にもとづいた判断や理屈のことです。そういった理屈はないのが他力念仏の理屈というわけです。

 法然には私たちの賢(さが)しらな理性や知性への懐疑がありました。また、親鸞は自分のはからいがどれほど虚妄であるかを痛感していました。他力の仏道では、ここが問題になるのです。

 でも、「理屈を言わずに信じろ」という話ではないのです。理性や知性ではとどかない領域がある。その最後の一線のところで、「はからいを捨てる」というジャンプをしなければならない。そうしなければ見えない景色があるのだ、ということでしょう。仏の導きは、とても私たちの理性や知性では言語化も説明もしきれない。虚妄の存在が、真実を完全に表現できるはずもありません。それが 「不可称不可説不可思議」の意味となります。はからいを基盤としている限り、他力の念仏・信心とはならない。

【NHK 100分de名著 歎異抄 釈 徹宗 NHKテキスト10月 P45〜P47より抜粋】


f:id:tarou310:20120716095419j:image

仏の導きは、私のはからいを超えています。

ですので、私のモノサシで、あれやこれやと推し測っても推し測れるものではありません。阿弥陀さまにおまかせ、あるのみです。

今日も 理屈なしに 南無阿弥陀仏 

2017-09-30

ありのままの姿とは ありのままの姿とはのブックマークコメント

 仏教では、私たち人間が自分中心的に自分のものさしで物事をはかり、思い通りにしようとするあり方を分別智(ふんべつち)といいます。世俗において、「分別」という言葉は、世事に関して常識的で慎重な考え、判断する能力を指す意味があり、社会生活を営むうえでは必要不可欠なモノでもあります。また、その反対語として「無分別」という言葉がありますが、一般常識や思慮を欠いた状態を指す意味として使われています。この「分別」「無分別」は、仏教でもしばしば使われる言葉ですが、その意味するところは日常での用法とは正反対のものとして考えられています。

 仏教で「分別」というときは、言葉や考えによって、こちらが勝手に作り出す妄想という意味があり、「無分別」は、そういった自分勝手な妄想にとらわれず、ありのままに正しい真理を理解することを言います。私たちは何かを理解しようとすると、「分かる」という言葉が示すように、物を「分ける」ことによって事がまず始められます。同じ「わかる」という漢字には「判る」(物事の善悪を区別する)とか「解る」(ばらばらにわける、ほどく)などがあるように、人間は一つのものをそのままでは知ることができず、「わける」事を通して初めて知ることが出来るのです。ですから、私たちの知識で捉えられた世界は、必ず前後、左右、善悪、美醜などというような、相対的な姿であらわれています。

 私たちはそうした「分別」なるモノの見方に自分自身が振り回されて、自他を比べる事で、時には優越感の中で安心したり、劣等感の中で苦しんだりしています。しかし、いくらそこで安心したとしても、私たちの欲望にはキリがありませんし、この世のことはすべてにおいて移り変わっていくもの(諸行無常)ですから、あてにはなりませんし、本当の安らぎとはいえません。

 しかしながら現代の社会は、特にこの「分別」の方向をひたすら押ししすすめてきているように思えてなりません。あらゆる物事において、「分別」された姿は本来の形、ありのままの姿ではありません。真の姿を捉えようとするならば、モノを分けて差別する「分別」をなくし、「無分別」によるしかないというのが、仏教の考え方です。そしてまさにそれが仏さまのモノの見方、「無分別智」(むふんべつち)です。

 相対的なモノの見方を離れた「無分別智」なる仏さまの教えを聞かせていただく中で、いま一度自分自身の有り様を省みる生き方が、仏教徒としての大切な生き方だと言えます。

【心のともしび(鹿児島教区懇談会)「他人と比べるところから不幸は始まる(前期)」より】

http://kokotomo.net/2014/10/2110 


f:id:tarou310:20120716095419j:image

仏教でいう「分別」と「無分別」について非常に分かり易く述べられています。

また、他の書では

「分別には必ず概念がからんできます。概念というものは、リアリティーがなく、頭の中でこねくりまわしたものなのです。それは全部妄想です。そのような妄想の粋を打ち砕いていかなければなりません(唯識に生きる 横山紘一 NHK出版 P9より)」、とあります。

南無阿弥陀仏のはたらきは、わたしの分別を超越しています。ですので、あれやこれやと自分の頭の中でいくら考えても考えきれるものではありません。阿弥陀さまにおまかせ、ただそれだけなのでした。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


f:id:tarou310:20170930093832j:image

2017-09-24

「知る」と「智る」の違い 「知る」と「智る」の違いのブックマークコメント

 万有引力という理を認識する方法には次の二つがあります。

〔椶料阿罵遒舛襪△詈体の落下を観察し、分析して引力の法則を記号と数式とで表して理解する。

△匹海高いところから飛び降りて、自らその引力を体験する。

同じ「引力」という言葉でいわれる「もの」(理)なのに、,鉢△箸呂匹里茲Δ飽磴Δ里任靴腓Δ。

f:id:tarou310:20170918024704j:image

,録瓦涼罎留徳(A´)の動き、すなわち落下を観察するのに対して、△AとかA´にわけられない引力そのものになり切ってしるという知り方です。

 ところで、,両豺腓録渕┐垢襪海箸できるのですが、△両豺腓呂匹Δ靴討眇泙防舛ことができません。それはなぜでしょうか。それはなり切って体験するときには客観と主観とが未分の状態なので、空間がそこに存在しないからです。ですから、二次元、あるいは三次元の図で象徴的に描くことができないのです。図に描くことができるもの、それは心が主観と客観とに分かれ、客観として、すなわち対象として認識されたものに限られるのです。

 このように考えてきますと「しる」という和語に対して漢字を用いて表すと、

(一)知る

(二)智る

の二つを当てることができます。このうち、前者はあくまでも直接知るのではなく、対象として、しかも記号化され、数式化されあるいは言語化された「もの」として知る方法であり、これに対して後者は対象としてではなく、それになり切ってしる、一体となってしるという智り方です。(二)の智り方には言葉や記号は必要ありません。しかし、(一)の知り方には言葉や記号が必要です。

【「唯識」という生き方 横山紘一 大法輪閤 P96~P98より】


f:id:tarou310:20120716095419j:image

ここでは、「万有引力」を例として挙げています。

では、『南無阿弥陀仏』という言葉についてはいかがでしょうか。

南無阿弥陀仏を「知る」と南無阿弥陀仏を「智る」とでは雲泥の差です。つまり、南無阿弥陀仏を単なる記号や呪文のように捉えるのか、それとも、(南無阿弥陀仏を)はたらきとして受け入れるのか、ということです。後者は、『一心同体南無阿弥陀仏』ということです。そこには、(南無阿弥陀仏に対する)わたしの計らいは一切ありません。南無阿弥陀仏を「智る」身になりたいものです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


f:id:tarou310:20170924091535j:image

2017-09-16

アリから人間は見えない アリから人間は見えないのブックマークコメント

80歳近い男性の方の思い出の話です。小学生のころの夏休みのことです。庭で、アリが行列をつくって物を運んでいるのを、おもしろくてジット見とれていたら、急に夕立が降って来ました。滝のような雨に屋根から落ちて来る雨水が、アリの行列に襲いかかって来ました。

慌てて逃げ惑うアリの姿が面白くて見ていたら、お母さんが出て来て、

「ジット見ているのではなく、溺れているアリさんを、助けて上げなさい」

と言われたそうです。

落ちていた木の葉で、そっとすくい上げるとアリは、手の方へはい上がって来ました。

「よかったね。アリさんにとっては、大洪水だろうから、渡りやすいように橋をかけてやってごらん」 

といわれて、そばに生えていたヨモギの茎を使って、橋をかけてやりました。

アリたちは、やがて白い卵をくわえて、橋を渡り始めました。

一緒に見ていたお母さんは、 

「アリさんは、ありがとうといったかい」

と聞かれました。

「なぜアリは、ありがとうと言わないかわかるかい。アリさんは、小さな虫の世界に生きているので、目の前の小さなものは見えるけれども、人間のような大きなものは見えないのだろうね。だから小さな葉っぱは見えても、それを持っている人間の姿は大きすぎて見えないのでしょう。ヨモギの茎の橋は見えても、人間がどんな気持ちで橋をかけてあげたかは、分からない。だから、アリは、人間にありがとうとは言わないんだよ」

と、お母さんは言われたそうです。

そして、

「私たちは人間の世界にいるから、アリは見えるが、アリからは人間は見えない。世界が違えば、こちらから見えても、向こうから見えないこともある。それと同じように、この世には仏さまの世界というのがあって、そこは人間の世界より、ずうっとずうっと大きい。だから、ほんとうの仏さまは私たちの目には見えない。けれど、仏さまの方からは、いつも見ていてくださるのだよ」

といわれたそうです。この子供のころの印象深い思い出が、第二次世界大戦での戦場でも、戦後の混乱の中でも、いつも心の底に残っていたそうです。

「み仏さまは、いつも見ていてくださる。 私から見えなくても。み仏さまは、いつも見ていてくださる。ナモアミダブツの橋を渡りなさい。」

この言葉にうながされて、お寺の本堂に座るようになりました。おかげさまで、仏さまの教えにあわせていただきました。どこにでもある、アリが溺れているのを見とれている少年にむかって、これだけ確かに話せる人は、めったにありません。今は亡きこの母は、ことによると、お浄土から来られた方ではないかと思えます。と。・・・・・・・

【妙念寺・電話法話原稿一覧 平成 9年8月14日〜  第238回より】

本願寺新報(浄土真宗の新聞)の記事掲載文より

http://www2.saganet.ne.jp/namo/inahouwahyousi.htm#22nenn


f:id:tarou310:20120716095419j:image

「わたしの生死問題の解決」におきまして

自分の創造や考えをどんなに思い巡らわせてもなんの解決も進展もありません。なぜならば、いま・わたしが・ここで生きていること自体、わたしの持分の範疇を超えているからです。自分の都合がよい自分ワールドに依っているうちは、自分の狭い世界からの脱却はありえません。その殻を破るには、「南無阿弥陀仏に依るしかない」と、浄土真宗(の教え)では教えます。

つまり、いま・ここで・わたしが、南無阿弥陀仏のはたらきに気付くか・否か、ということです。

金子大栄 師(真宗大谷派僧侶・仏教思想家)は、「念仏は自我崩壊の音である」と表現しています。(わたしが)南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされると、わたしが称える念仏(南無阿弥陀仏)は報恩感謝の念仏となって響きます。つまり、ここででてくるアリが、人間にありがとう、とお礼を言う関係になったということです。そんなことって想像できますかね?! アリが、人間にありがとう、ということはまず考えられません。しかしながら、わたしが阿弥陀さまにありがとう、と報恩感謝のお念仏を称えることはできるのです。まさに不可思議です。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


f:id:tarou310:20170916181336j:image

2017-09-09

生死一如(しょうじいちにょ) 生死一如(しょうじいちにょ)のブックマークコメント

 私たちの分別というものは、それを対象化して実体化します。生は生。死は死と。そこで今自分は生きている。これが何十年先までも生きる。そうするとその間が生だ。そして、その先に死というものがやってくる。こう対象化して考えているわけなのです。

 でも今の事実からするとそうではないわけですよ。一息一息が生死なのです。吐いて吸って。そして吸って吐いて、吸って吐いてというこの一息の入出ということ。だから私たちが生きていることは正にこれ「生死一如」という形で運ばれているのですけれども、私の分別はそんなものではありませんね。今申し上げた通り、実体化しておりますから。

 よく日頃、門徒さんとも話をしておりますと、「そんな死ぬなんてことを考えとったら生きていけますか」なんてことを素直に言う方がございますけれど、他人事ではないのです。私はそういう言葉を聞くと、だからこそ、「生きてあるという今の生が虚しいのではないだろうか」ということを思うのです。

 全く一息の中の出来事であるにもかかわらず、生の方の一面だけを見て死を見ないという生き方ですから、だからそれが充実した生を開くということはあり得ないのではないかということを思わせられるわけでございます。

真宗佛事の回復 池田勇諦 響流書房より】


f:id:tarou310:20120716095419j:image

「生死一如」といわれましても、「生」という片方だけにしか目が向か(け)ない現状があります。

ここでもありますように、

「そんな死ぬなんてことを考えとったら生きていけますか!」というのが本音でしょう。しかしながら、「一息切れたら死」というギリギリのところを生きているのも事実です。この文章を読んでいまして

「人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり」と、ご教示くだされた蓮如上人のお言葉がより一層重みを増しました。

このいま、南無阿弥陀仏のはたらきに気付くか否か、非常に大事になってきます。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


f:id:tarou310:20170909220206j:image