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手 品 師 このページをアンテナに追加

2018-01-20

善魔 善魔のブックマークコメント

 仏教辞典には、自己の善根(ぜんこん)に執着することを「善根魔(ぜんごんま)」となっていますから、「われこそ善事をなせり」という思い上がりを「善魔」というのでしょう。それだけに、悪魔には誰しも警戒しますが、この善魔には気づかないようであります。

 地球上に、争いの絶えた時がありません。お互いに自己の非を非と、率直に認める謙虚さがあれば争いは生まれないでしょうに、「われは善なり、われこそは正義なり」とそこに執われるところから、争いが生まれております。

 大は国家間の戦争から、小は家庭内のもめごとまで、すべてこの善魔が動いています。

 お釈迦さまの発見された宇宙の真理である仏法は、人間のこの善魔そのものが、仏法を邪魔するのです。「私は仏法の為に努力し世の中に貢献もしてきた。それなのに、私を認めない。お念仏を称えていてもあの人は口先だけで、ほんものではない。私こそ仏法の為に努力しているのだ」とここで善魔が動き出す。折角争いをなくすはずの仏法をききながら他人をせめる武器にしてしまう善魔が正義の味方を集めて相手をやっつけるのであります。

 もとより悪魔もそしてこの善魔も、誰しも自分の内にあるのですが、如来さまの悲しまれるもとが、悪魔よりむしろこのタチの悪い善魔にあることを気づかせていただけば、聴聞は決して他人事でなくなるわけであります。

【死はかねて生のうちにあり 豊島學由 自照社出版 P81~P82より】


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歴史は戦争史ともいわれますが、ここ最近におきましてはその緊張感が高まっています。

それはさておきまして、

自分優先主義、自分大好きの固執は、日々の生活だけではなく、私の生死問題解決という点からにおきましても大きなハードルとなっています。悪魔は勿論ですが、善魔にもより留意して聴聞していきたいものです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2018-01-18

如来さまの出番 如来さまの出番のブックマークコメント

京都の西陣の早川一光先生は、

「病人が死ぬのがこわいといえば医者はどうにもならん、これはお坊さんの出番だ」

とおっしゃっていましたが、それをもっと正確にいえば、お坊さんよりも如来さまの出番なのであります。そしてもっと大事なことは、死ぬのがこわいといい出してから動き出すような如来さまではないということです。いつでも今です。もっといえば、如来さまの出番の方が先であります。

【死はかねて生のうちにあり 豊島學由 自照社出版 P122より】


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南無阿弥陀仏のはたらきの中で生活している身としましては、そのはたらきに気付かされることが大事です。阿弥陀さまの智慧と慈悲の心が南無阿弥陀仏の六文字に込められています。そのはたらきに気付かされると、おのずと「なまんだぶ なまんだぶ」とお念仏が毀れてきます。それは、報恩感謝、サンキュー、ありがとうのお念仏なのです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2018-01-13

玉ねぎ 玉ねぎのブックマークコメント

玉ねぎって、おもしろい野菜です。

どれだけ剥いていっても、中に種があるわけでもなく、目に見える核があるわけでもなく、後にはなにも残りません。いうならば、丸ごと玉ねぎ、です。

「南無阿弥陀仏」もなんかそんな感じですね。うまく表現できませんが(笑)

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2018-01-08

勇みの念仏 勇みの念仏のブックマークコメント

東京駅から築地本願寺までタクシーに乗車したときの出来事です。

乗車してから、ずう〜と「なもあみだぶつ なもあみだぶつ」とお念仏を称えているものですから、運転手さんに「お客さん、縁起が悪いのでやめてください」といわれました。

加藤幸子 師(専念寺:三重県津市) 平成24年4月 築地本願寺 常例布教法話より】


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まさしく、勇み(いさみ)の念仏です。

阿弥陀さまのはたらきが、「なもあみだぶつ」というお念仏となって運転手に届いています。ただそれだけではありません。「縁起が悪いからやめてください」とまで言わしめたのです。阿弥陀さまは、手を変え品を変え、運転手を南無阿弥陀仏の身になるように誘導してくれています。語弊があるかもしれませんが、阿弥陀さまは偉大なマジシャンなのです。運転手の立場からいいますと、阿弥陀さまのお育てに与っている、ということです。

遅かれ早かれ、(縁起が悪いからやめてください、と受け取った「なもあみだぶつ」は)報恩感謝の「なもあみだぶつ」となります。団子汁の譬え(妙好人おそのさん)の通りになるのです。仏語に虚妄なし。阿弥陀さまのお約束ですから。それは、今に越したことにはありません。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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阿弥陀さまは、偉大なマジシャン

http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20171223


いさみの念仏

http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20120812


団子汁の談合(妙好人 おその)

http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20100815

2018-01-07

お育て お育てのブックマークコメント

なもあみだぶつで 今があります。

なもあみだぶつで 安心があります。

なもあみだぶつで 一生青春! 育ち盛りの我らです。

加藤幸子 師(専念寺:三重県津市) 平成30年 年賀状より】


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元気漲るお言葉です!

加藤先生とは、築地本願寺の常例布教(平成24年4月)がご縁で、現在も便りを頂いています。そういえば、法話の中で「吉兵衛さん」の話があり、その書籍を貸して頂いたことを思い出しました。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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お念仏時雨

http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20140818


「さくらんぼ返し」の数え唄

http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20140630


人間に生まれた意味

http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20120510

2018-01-06

選民思想 選民思想のブックマークコメント

 選民思想の大きな弊害の出来事として第一次世界大戦にみることができます。下記、抜粋(小学館日本大百科全書)です。

『 選民思想は、20世紀に入って、とくに第一次世界大戦後のイタリア、ドイツ、日本における経済的・政治的危機状況のなかで、ナショナリズムと結び付いたファシズム運動となり、再度、悲惨な世界戦争を引き起こす誘因となった。

 イタリアでは、ムッソリーニが、民族とは生成・発展する「精神の力」であり、国家は民族が政治形態において具現化されたもの、と述べ、古い民族国家は指導者階級が「上から」つくった国家であるが、ファシズム国家は「下から」形成された新しいタイプの国家であるとして、イタリア民族の世界史における使命感を鼓舞したのであった。

 ドイツでは、1870年代以降、ゴビノーの『人種不平等論』(1853〜55)やH・S・チェンバレンの『19世紀の基礎』(1899〜1901)などの人種理論を根拠に、アーリア人種の優越性と「血の純潔」の思想が強調されてきた。ここでは、民族は生活の基礎としての耕すべき土地をもたなければならないから、土地を離れたユダヤ人は名誉を知らない民族である、とされた。そして第一次大戦後のナチズム運動のなかで、「血と大地」「ゲルマン民族の優越性」「反ユダヤ主義」がますます高唱され、『世界に冠たるドイツ』という国歌の下に、ドイツ民族の統一を図り、ドイツ人による世界支配を正当化する思想が内外に喧伝(けんでん)された。

 日本の場合には、日本民族は万世一系、神聖不可侵の天皇をいただく天孫民族であり、日本は「神国」であるとして、とくに「十五年戦争」時代に入ると、天孫民族による世界支配すなわち「八紘一宇(はっこういちう)」の思想によって「大東亜共栄圏」の実現という名目で日本のアジア侵略が正当化された。

 第二次大戦後のアメリカによる自由社会を守るという思想や行動は、イデオロギーと結び付いた選民思想の変種といえるし、また中東にみられる宗教的対立による紛争も選民思想を根底にしている場合が多い。』

 「わたしは選ばれた人間である」という強い思い込みは、いろいろな弊害を生みます。最悪の結果として、殺し合いまでに発展することを歴史は物語っています。


 では、「浄土真宗の教え」という視点からみてみるといかがでしょうか。

 いつでも・どこでも・だれでも救うと誓われている阿弥陀さまの立場においては、私(自分)は選ばれし者、と自負していようがいまいが全く関係ありません。平等です。逆に、救われる私(自分)の立場からみますと、(私は選ばれし者、と思い込むことは)単なるひとりよがりの何ものでもありません。選民思想的発想は、日々生活していく上だけでなく、阿弥陀さまの救いという視点からみましても大きな弊害となっています。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


選民思想(せんみんしそう)

自分たちは神によって選ばれた特別な民族・人種である、という信仰、確信。

※日本大百科全書より


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2018-01-01

元日の念仏 元日の念仏のブックマークコメント

【現代語訳】

勧修寺村の道徳が、明応二年(一四九三)正月一日に、蓮如上人のところに年頭の挨拶に来られたとき、蓮如上人は仰せになりました。「道徳は何歳(いくつ)になられたか。道徳よ、念仏申されよ。その念仏に自力と他力とがあって、自力の念仏というのは、念仏を数多く称えて阿弥陀仏にさしあげ、称えた功徳によって仏がお助けくださるように思って、称える念仏である。他力の念仏というのは、阿弥陀仏を信じて疑わない心がひとたび起るとき、ただちに仏のお助けにあずかるのであるから、そののち念仏を称えるのは、お助けにあずかったことを、ありがたいことありがたいことと喜び、その思いからただ南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と称えるばかりである。そういうことであるから、他力とは、仏の力ということであって、凡夫の力ではない。この他力を信じて疑わない心が寿命(いのち)の終わるまで貫きとおって、浄土に生まれていくのである」と仰せになったのです。

※勧修寺の道徳

蓮如上人の門弟で、山城国山科勧修寺東出町)の西念寺の開基


【解説】

 これは、年頭の挨拶に来られた勧修寺村の道徳に対して蓮如上人が述べられた元日の朝のご教化です。明応二年(一四九三)は蓮如上人の七十九歳の歳で、この上人晩年のご教化を最初に掲げているのは、念仏往生という浄土教の根本をふまえながら、信心を中心とする浄土真宗のかなめについてのご教化であり、このご教化こそ、本書の主題をなしているからです。

 蓮如上人は、年頭の挨拶に来られた門弟に対して世間一般の年始の言葉ではなく、「念仏を申されよ」といわれています。元日は年頭の挨拶だけですますというのは、世間のやり方です。年始であろうと年末であろうと、つねにいまが大切です。なぜなら歳月は人を待ってくれないからです。「道徳は何歳になられたか」というお言葉には、ともにいつしか年を重ねて老境にいたったという感慨があふれています。

 瞬時もとどまることなく移り変わっていく無常の現実を知るとき、「いまは年始だ、念仏でもあるまい」というような考え方は、捨てなくてはなりません。

【現代語訳 蓮如上人御一代記聞書(一) 瓜生津 隆真 大蔵出版P15、P16より】


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無常という現実の前では「今日は正月だから!」というフレーズも尻すぼみです。

「念仏のみぞまこと」これに依るしかありません。

おかげさまで 正月も 南無阿弥陀仏


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