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手 品 師 このページをアンテナに追加

2018-10-14

大安心 大安心のブックマークコメント

このいま・ここで・私が生きている原動力は南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏あっての私であり、南無阿弥陀仏がない人生は虚しさしかありません。

南無阿弥陀仏が根底に末通った生活には大安心があります。ですので、いつ死んでも後悔はありません。南無阿弥陀仏のなせる業です。(私はといいますと)南無阿弥陀仏とお念仏をただ称えるだけです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

ただ感謝 ただ感謝のブックマークコメント

面白いもので、人生折り返し地点を過ぎますと、未来のことより、過去の楽しかったことを振り返る時間が多くなっているようです(笑)。私の人生に悔いはありません。阿弥陀さまと共に歩む人生にただ感謝。

私は不死身? 私は不死身?のブックマークコメント

朝刊のお悔やみ欄に名前が載らない日はありません。死ぬことを他人事でしか捉えられない第3者の私がいます。私は死なない、不死身の人間なんだと・・・。

私は不死身?(続編) 私は不死身?(続編)のブックマークコメント

しかしながら、阿弥陀さまと共に歩んでいる私は不死身なのです。

2018-10-13

しばらくの縁 しばらくの縁のブックマークコメント

「袖振り合うも多生の縁」という諺(ことわざ)があります。知らない人と道でたまたま袖が振り合うちょっとしたことも、前世からの深い因縁である、という意味です。このいま、同じ空間をともに過ごしている不思議な出会いを大切にしたいものです。親や子どもは勿論のこと、いま接している多くの方とも、過去世においてかなり深い因縁があったのでしょう。そう考えますと、今生の「しばらくの縁」を大切にしなければ、と思います。

称名念仏 称名念仏のブックマークコメント

おかげさまで  ありがとう

阿弥陀さまに対する報恩感謝のお念仏です。

私の口から念仏が溢れ出ましたら、しめたものです。換言しますと、理屈なしに南無阿弥陀仏、ということです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

自称念仏者 自称念仏者のブックマークコメント

南無阿弥陀仏を盾に、上から目線で話をしている方を拝見しますと、違和感を覚えます。こういう方を自称念仏者というのでしょう。

自力のひと 自力のひとのブックマークコメント

南無阿弥陀仏を盾にしている方は、南無阿弥陀仏と同化していない人です。換言しますと、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かせられていない自力の人といえましょう。

2018-10-11

自分への問い 自分への問いのブックマークコメント

 我々は生きています。しかし、生きているというところでは問いは出てきません 。死の自覚のない人間には 、一人ということは出てこないんです。フランスのブレ ーズ ・パスカル (1623−1662 )が 『パンセ 』のちょうど真ん中あたりに、「人間は考える葦である 」とか「人間を殺すには一滴の毒で足りる 」ということを書いていますが、そこのところに、人間が動物と違うところは、死ぬということを知っているということである、と書いています 。一滴の毒で死ぬということを知っていると。ですから、死を通さなければ一人ということは出てこない。ですから、私一人に問いを持たないものは宗教ではないんです。これを蓮如上人の言葉でいえば「後生の一大事」ということになります 。ですから、後生の一大事の気にかからない人は動物なんです。

 知識人ほどそういう人が多いんです。私たちには宗教は関係ないという。お寺参りをばかにする人がたくさんおります。そういう人は、家にいる犬と同じです。少しも違わない。自分で自分を侮辱している話になるんです。自分に問いを持たないということは動物と同じだということです。ですから、後生の一大事の気にかからない者は、本当は動物なんです。ところが、そういう私もわかったつもりで、実は気にかからないんです。ですから宗教ほど厳しいものはないんです。みんな自分はわかったつもりでいるけれども、実は自分のことが問題になっていない 。

【浄土 そのうけとり方を中心に 稲城選恵 響流選書より】


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私が・いま・ここで、生きているのは何故なのか?という「自分への問い」が、私の生死問題解決の出発点です。生きることを楽しむ、その先は死です。人として生まれてきて本当によかったぁ〜、と死んでいける人生でありたい、と思いませんか。

なぁんと、私の生死問題解決の回答は「浄土真宗の教え」にあるのでした!

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2018-10-04

まずは、本尊対面 まずは、本尊対面のブックマークコメント

 早稲田大学五十嵐力氏という『源氏物語 』の専門の学者がおりましたが、あの方が 『源氏物語 』の研究の方法論について、「道作り業 」と書いております 。例えば高速道路を作るのに、まず周囲の地盤などを色々と調べなければいけないでしょう。まず 「ぐるり調べ 」、それから最後は「本尊対面」です 。学者は客観的な「ぐるり調べ」だけに終わってしまいがちですが、「本尊対面 」がなければ宗教の意味がない。このあいだ『毎日新聞 』に宗教学者が、「私は神も霊魂も信じない 」と書いていました。それで宗教が論じられるでしょうか。それは宗教ではない。ただ外から見ているだけです。「本尊対面 」に至るための「ぐるり調べ」に過ぎない。

【浄土 そのうけとり方を中心に 稲城選恵 響流選書より】


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この文章を読んでいまして、先人(深川倫雄和上)の以下の言葉が思い浮かびました。

『譬えていえば、ある町へ行くと、お城があって大変高い石垣がある。お城へ登って外を見て、「ああ、いい景色」といえばそれでよろしい。下へ行ってから石垣を見て、「まあ高い石垣。よく組んだもの」と、暇があるから、この石垣の組み方を見てみようではないか。それがお聴聞。お聖教の勉強。上に立って、いい景色を眺めさえすればよろしい。だけども、暇があるから、よくもこんな石垣を組んだものだとその石垣の組み方を調べてみては、「ようこそ、ようこそ」というわけです。調べなくとも、景色に変りはない。石垣がどう積んであるかと研究しようがしまいが、石垣の上からの景色に変りはさらさらない。ないけれども、石垣を研究してみればみるほど、「ようこそ、ようこそ」とご恩が知らされる(佛力を談ず 深川倫雄 講話集P117〜P118 永田文昌堂 より)』


まずは、「本尊対面」です。換言しますと、まずは「南無阿弥陀仏のはたらきに気付かせて頂く」ということが大事です。時間は限られています。優先順位に留意したいものです。生死問題は自分の問題です。ぽか〜んとしている暇はありません。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2018-09-29

お念仏とは お念仏とはのブックマークコメント

 お念仏をよろこぶとか、お念仏を大切にするとか申していますが、そのお念仏とはいかなることなのでしょうか。またさらに率直に言えば、お念仏称えたら救われるとはどういうことなのでしょうか。いまそのおこころをうかがってみるのであります。

 大概の人は、お念仏は人間の祈りであり、つとめであると思っているかもしれません。しかし、ご開山様(親鸞聖人)はそれではありませんでした。これは、阿弥陀如来が私の救われるいのちになってあらわれたのが、このお念仏であるといただかれました。おさとりを開かれた如来様は、浄土にありながら、迷っている私をながめて、ただ可哀いそうにと思っておられるだけではありません。如来様は、この私を救わねば生きていけないのです。それですから、お浄土にあらわれる如来様が、私の身の中へとびこんできて、私がお浄土まで行きぬくいのちとなって下さるのがお念仏です。浄土にある親様が、この私の受けとり易い、称え易いお念仏となって、私の人生に入り込まれてきます。そして、それがお浄土に生れるのです。心には信心となり、口には念仏となり、姿には拝む手となり、ざんきの姿となって、私を浄土まで行き抜かせる力が如来様であり、それがお念仏です。

【名号不思議の信心 加茂仰順 百華苑 P51,P52より】




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祈りや努めの念仏が、報恩感謝の念仏になればしめたものです。同じ念仏(南無阿弥陀仏)であることには変わりありません。受けとり手の私の問題です。受けとるといいましても、「南無阿弥陀仏」は何かのモノではありません。(南無阿弥陀仏の)はたらきという表現が分かり易いと思います。そのはたらきに気付かされますと、「南無阿弥陀仏」とお念仏がこぼれでます。それは、まさしく報恩感謝の念仏です。

「心には信心となり、口には念仏となり、姿には拝む手となり」素晴らしい表現ですね。100%(身口意)南無阿弥陀仏です。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

2018-09-24

有無同然 有無同然のブックマークコメント

 遺産相続をめぐり、バトルを繰り広げている内容の報道をみていますと、私もそういう悩みをしてみたい、と思います(笑)。

 お釈迦様は、

「田あれば田に憂へ、宅あれば宅に憂ふ」(大無量寿経)という言葉を残されました。田んぼが無ければ田んぼが欲しいと願い、手にすれば手にしたで、田んぼの心配をしなければなりません。家が無ければ家が欲しいと思い、手に入れたら手に入れたで、火事や地震などの災害に気を使わなければならないですし、もっとよい家に住みたいという思いが出てくるなど、あっても無くても苦しまなければならない、という意味です。

 どれだけ時代が変わろうとも、人である限り、執着心は底なしです。何事も、ほどほどがよいのかもしれません。


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仏法聞き難し 仏法聞き難しのブックマークコメント

 地元に小牧野遺跡(青森市)という縄文時代の遺跡があります。さぞかし、多くの地元住民が見学に来ているかと思いきや、殆どが県外の縄文遺跡ファンとのことでした。好きな方は、何回もリピーターとして訪れるているそうです。県外からですと、飛行機や新幹線を乗り継いでタクシーを利用せざる得ないところに小牧野遺跡はあります。関心があれば、お金、時間や労力を費やすことは特に問題とはなりません。

 一方、(小牧野遺跡に)何の関心も無い方は、歩いて行ける距離に住んでいましても今まで1回も見学に行ったことはありません。私の隣人の多くも同様です。

 以上のような話を聞いていますと、南無阿弥陀仏に関心がある人とそうでない人、がオーバーラップします。「仏法聞き難し」という言葉が身に沁みます。


おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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展望所(陸奥湾を一望):小牧野遺跡(青森市)

2018-09-22

言葉の力 言葉の力のブックマークコメント

「言葉の力」ということに拘っています。大峯顯 師は「言葉は語る」という表現で「言葉」というものについて掘り下げて語られていました。『南無阿弥陀仏』も然り。単なる言葉や記号として捉えるか否か、では雲泥の差があります。

願行具足の南無阿弥陀 願行具足の南無阿弥陀仏のブックマークコメント

「南無阿弥陀仏」という言葉はたったの6文字ではありますが、そこに込められた願いと行は甚大です。阿弥陀さまの命が込められています。

私のテーマ 私のテーマのブックマークコメント

私のテーマは、短い文章で、いかに分かり安く物事を伝えるか、ということです。勿論、「南無阿弥陀仏」を語る上でも拘っていきたい、と考えています。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

縄文人と現代人 縄文人と現代人のブックマークコメント

 「小牧野遺跡」という縄文時代の遺跡が青森市にあります。今から約4000年前(縄文後期前半)のものといわれています。その遺跡の特徴に、大規模な環状列石(ストーンサークル)があります。当時、呪(まじな)いや祈りを捧げたモニュメントといわれています。

 お釈迦様が、この地球上に生まれ、悟りを開かれたのは今から約2600年前といわれています。残念ながら、縄文人は仏教に出遇うチャンスはありませんでした。

 平成の時代を生きている私たちはいかがでしょうか?この時代においても、呪(まじな)いや祈りを捧げる、ことはごく一般的に行われています。ただ、縄文時代と違うことは、仏教という真実の教えがあることです。それだけでも有難いことではありますが、その教えを知らずして人生を終えることは誠に勿体ないことです。


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環状列石(ストーンサークル):小牧野遺跡(青森市)