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手 品 師 このページをアンテナに追加

2018-11-16

人生百年時代 どう生きるか  ※投稿文 人生百年時代 どう生きるか  ※投稿文のブックマークコメント

 「死はいつか来るものではなく いつでも来るものなの」という言葉を残して、先日この世を旅立ったのは樹木希林さんである。彼女をはじめ、今年も多くの有名人がこの世を去った。このことは、有名人に限ったことではない。朝刊のお悔やみ欄に名前が載らない日はない。しかも、それは老若男女を問わない。そういう現実を真正面から考えることは大事なことではないだろうか。人生百年時代といわれている昨今、いかに自分の人生を終えるか、ということを真剣に考える時間は大切であると思う。

 私の日課のひとつは、生きることについて考える、ことだ。それは、ある人との別れが縁となっている。「人は必ず死ぬ」ということは誰もが頭では分かっているが、実際のところはどうも違うようだ。そのことをうまく表現している諺(ことわざ)がある。「臭い物に蓋をする」がそれである。その臭い物の最たるものが「私は死ぬこと」ではないだろうか。その蓋を開けて、生きることについて真正面から考える時間を大切にしたい。

 私見であるが、人生百年時代といわれている現代、ただ長生きすればそれでよい、とは思わない。私が今生きている意味をじっくり考えその意味を解決する、ことが大事といえよう。「私の人生悔いなし」と笑顔で旅立てる人生にしたい、と思っているこの頃である。

miko415miko415 2018/11/17 13:47 「人生百年時代 どう生きるか」について理路整然と書かれていて、意図がすーっと胸に届いてきます。最後の言葉「『私の人生悔いなし』と笑顔で旅立てる人生にしたい」。いいですね。

B級手品師B級手品師 2018/11/17 23:13 ありがとうございます!!!

2018-11-11

いま・ここで ・私が 南無阿弥陀仏 いま・ここで ・私が  南無阿弥陀仏のブックマークコメント

こんなことを書くと怒られるかもしれませんが。私自身、もう死んでもよい、とも思っています。嫁にそんな話をして叱られていますが(笑)。勿論、今後も生きれる限り渋とく生きて行きますけど。何が言いたいかと申しますと、人として、この地球上に生まれ、南無阿弥陀仏に出遇えたことは、この上ないよろこびと同時に、私の人生もう思い残すことはない、ということです。

ただただ南無阿弥陀仏。

時は静かに流れる 時は静かに流れるのブックマークコメント

諸行無常、残念ながらこれ現実です。

しっかり受け止めて生きていきます。

娘ももう二十歳。私も歳とったなぁ〜。

嬉しい反面悲しい。

南無阿弥陀仏があって本当によかったなぁ〜と思えるこの頃です。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

しあわせもの しあわせもののブックマークコメント

こうやって今、南無阿弥陀仏のことを書かせて頂けている私は幸せ者です。生きてよし、死んでよし。

ただただ南無阿弥陀仏。

2018-11-10

大峯 顕 先生のこと 大峯 顕 先生のことのブックマークコメント

 大峯 顕 先生との最初の出遇いは、ふと立ち寄った本屋の書籍コーナーでした。先生の文章を読んだとき、ビビビッときました(笑)。その出遇いがきっかけとなり、今なお、私の南無阿弥陀仏生活において大きな刺激となっています。南無阿弥陀仏のはたらきを独特の詩的表現で織りなす文章は素晴らしい、と思います。私の母も感銘を受けたひとりです。

 先生が存命中、実際お会いする機会がありました。六角会館(京都市)と願教寺:2回(盛岡市)です。3回しかお会いしたことはありませんでしたが、私にとって忘れられない先生です。気さくでお洒落な先生でした。先生の「言葉は語る」という言葉は今なお私の心に深く刻まれています。

 言葉といいましても本質のところは、その言葉に込められた、はたらきといいますか、意味合いを受け取ってはじめて言葉本来の意味をなすのではないでしょうか。

 私としましては、「言葉の力」と銘打って南無阿弥陀仏のことを伝えていければと思っています。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

言葉の力 言葉の力のブックマークコメント

私のテーマは「言葉の力」でいかに物事を伝えるか、です。南無阿弥陀仏についても然り。面と向かって相手と直接話すことは最も効果的かと思います。

ときに、言葉という活字を通して、伝えることがより相手に響くこともあると思います。今後も試行錯誤して言葉で伝えることに拘っていきたい、と考えています。併せて、「行間を読む」センスも養なっていきたい、と思っています。

人生百年時代 人生百年時代のブックマークコメント

周りから、マジックバカといわれている私です(笑)。

結局のところ、「私が生きること」についてクリアにならなければ、本当の安らぎはない、と思っています。昨今、人生百年時代といわれていますが、皆さんはどう生きますか?

刹那主義的生活になってはいないでしょうか。

私の善知識 私の善知識のブックマークコメント

南無阿弥陀仏のはたらきに気付かさせられて、かれこれ9年経つでしょうか。

私の善知識は、今は亡きアホウドリさんであり母であり弟です。生きてよし、死んでよし。私の人生悔いなし。阿弥陀さんにただ感謝しかありません。

アホウドリさんは、いまは南無阿弥陀仏となって私にはたらきかけてくれているのでしょう。なんか懐かしい。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



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他力本願 他力本願のブックマークコメント

 たとえば、善根功徳(ぜんごんくどく)を積むこと、修行に励むこと、数多く念仏に勤しむことなどが問題とされるようになっていった。本来ならば、極楽に生まれさせることを手段として、無上涅槃という目的を実現させようとする。これが阿弥陀如来の本願であるから、極楽への往生は阿弥陀如来の側の願いであって、私たち人間の側の努力によって実現するわけではない。これが他力本願ということの本質である。

 他力本願ということが世間では誤解され、何の努力もしないで、「果報は寝て待て」という意味に用いられるのがつねである。言うまでもなく、そういう意味ではない。阿弥陀如来の側から私たちにかけられている願いが本願であるから、それは他力である。他力本願と称する所以である。

親鸞が出遇った釈尊 浄土思想の正意 小川一乗 真宗文庫より】


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ここでもありますように、

世間一般的に『他力本願』という言葉が誤用されています。「果報は寝て待て」とか「棚から牡丹餅」的な意味ではありません。仏教用語ですので、それに従うべきです。


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  WikiArc(他力)より

  http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BB%96%E5%8A%9B


 他力=阿弥陀仏の本願力(手品師ブログ) 

 http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20141026#p1

2018-11-03

阿弥陀さまと真向きに 阿弥陀さまと真向きにのブックマークコメント

 私はマジックにハマっています。その魅力のひとつとして、固定観念を超えたところを突くところ、があります。いうならば、1+1=2という世界ではないということです。1+1=10にでも100にでも1000にでもなる世界です。ですので、どんなに頭の良い人でも、簡単にそのトリックにひかかってしまいます。そこがマジックの醍醐味であり凄いところです。固定観念を超えたところを突かれますと、皆、お手上げです。

 さて、「南無阿弥陀仏のはたらき」について述べてみます。私の計らいを超越したはたらきが、いま・ここで、私にはたらいているとしたら、皆さんはどう考えますか?本当にそうであれば、そのはたらきに乗っかるといいますか、従うのが賢明ではないでしょうか?

 といいましても、「南無阿弥陀仏のはたらき」と言われても信じ難い、という方が大半だと思います。この辺りは、仏縁としか言いようがありません。「仏教(浄土真宗)は聴聞に極まる」と蓮如上人(浄土真宗・中興の祖)はご教示下さっています。繰り返し繰り返し聴聞していくことで、「南無阿弥陀仏のはたらき」に気付かされるときが必ず来ます。時間の問題です。まずは、いま・ここで・私が生かされていることへの驚きや疑問がもてるか、というところが大事ではないでしょうか。

 ここで、留意したい点としまして、「聴聞したら阿弥陀さまに救われる」「聴聞すれば南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされる」というのも違います。阿弥陀さまの救いに、「〜したら」とか「〜すれば」という条件はありません。聴聞といいましても、聴聞に固執するのではなく、阿弥陀さまと真向きになることが大事です。肝心要の阿弥陀さまの存在が抜けてはいないでしょうか?

 「南無阿弥陀仏のはたらき」の真っ只中で生活している状況下で、そのはたらきに気付かされずに一生を終えることは、誠に勿体ないことです。

「いま ・ここで ・私が 南無阿弥陀仏」

これに限ります。


おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

miko415miko415 2018/11/04 09:01 どうしたら阿弥陀さまに救われるのか(信心決定できるのか)ということについて、とても分かりやすく示して下さっていますね。何と言っても浄土真宗の肝心要のことです。蓮如上人は、御文章の中でも「信心決定せよ」、「信心決定せよ」と何度も仰り、そのためには、手品師さんが言われるように、「聴聞に極まる」とご教示下さっています。でも、「聴聞したら〜」とか「すれば〜」という条件はないのですね。私の場合、聴聞歴をふり返れば、「どうしたら」「どうすれば」と、悶々とした期間がどれほど長かったでしょう。この期間は自分の計らいの真っ最中だったのです。それが、ある時、気づいた(気づかされた)のです。「ふっと気づいた(気づかされた)」という表現がより適当かと思います。言われるように、常に「阿弥陀さまと間向きになること」が大事ですね。

手品師手品師 2018/11/04 10:09 コメントありがとうございます〜
「ふいっとわからしてもらったいな」と振り返られた源佐さんの言葉と重なります。
「自分のことは、ちょっと横に置いておいて、阿弥陀さんに向かわせてもらおう」というmiko415さんの言葉が今でも印象に残っています。阿弥陀さまと真向きにさせて頂く、そうなればしめたものですね。後は、南無阿弥陀仏とお念仏を称えるだけです。

miko415miko415 2018/11/04 14:53 訂正です。
私の書きましたコメントの、最終行の「間向き」は、「真向き」の間違いでした。最も大事な所を間違えるなんて、すみませんでした。

2018-10-27

浄土があるかないか、論じる必要性ってありますか? 浄土があるかないか、論じる必要性ってありますか?のブックマークコメント

 一億円の宝くじが当たったことは、当選番号が証明するでしょう。当選番号が発表されてから、当たるだろうか、当たらないだろうか心配する人がいるでしょうか。でも、お金がもらえるのは券と交換してからです。浄土の証明は、名号以外に何がありますか。

 あるかないかを論ずる必要はありません。ただ我々は相待的(そうだいてき)に生きているのですから、肉体を持っている限り煩悩に邪魔されているだけです。そうすると、今は (浄土に )支えられているわけです。つまり(浄土は )私の成立根拠になるんです。どこで倒れても、倒れた場所がお浄土であるわけです。芭蕉の弟子に曾良という妙好人がおりましたが、彼は「行き行きて、倒れ伏すとも、萩の原 」と詠っています。どこで倒れてもお浄土なんです。死んだらしまいだという人が癌にかかって、いよいよあと五日しか命がないとなった時、何ともなしにいられるでしょうか 。そんな人は動物です。浄土は、私がどのようにひっくり返っても心配がない、という私の成立根拠です。選択本願は私のための別誂えですから、私にちゃんと届いているんです。これに遇うている人は、浄土があるかないかを論ずる必要がない。無上の仏果、ちゃんと約束されているわけです。

※別誂え(べつあつらえ):特別に注文してつくること

【浄土 そのうけとり方を中心に 稲城選恵 響流選書より】


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「浄土があるかないか」という問い自体愚問です。無意味だからです。浄土の有無を論じる以前に、南無阿弥陀仏のはたらきに気づかされることが大切です。そのはたらきに気づかされますと、自ずとわかります。まずは、このいま・ここで・私が南無阿弥陀仏のはたらきに気づかさせられる、ことです。

そのあとは、南無阿弥陀仏とお念仏を称えるだけなのでした。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

2018-10-24

最高の贈りモノ 最高の贈りモノのブックマークコメント

(下記引用させて頂きます)


 今年の夏から9月にかけては、猛暑続きの中、6個もの大型台風や北海道では巨大地震等にも見舞われ、日本のあちこちで甚大な被害を被りました。まだまだ完全な復興に至っていない所も多く、「災害大国日本」と呼ばれ始めているほどです。            

 でも、ここに来てようやく本来の季節らしさを感じる秋が巡ってきました。公園の木々が知らぬ間に紅葉し始めています。静寂なたたずまいの中に、いつもと違う寂しさが感じられます。この夏の、暑い最中に親戚に不幸があったこと、また仲良くしている近所の奥さんのご主人が、余命いくばくもないらしい等と聞かされたりしているからでしょう。会者定離とはいえ、寂しいものです。                             

 このような時、思い出される歌が「恋しくば南無阿弥陀仏と称うべし 我も六字の中にこそ住め」です。六字を称える中で、いつでもどこでも、いとしい人たちに会えるのです。 

 阿弥陀さまは、最高の贈り物を届けて下さっていたのです。             

 ありがとうございます。「南無阿弥陀仏」。                     

If you long for me, say, “Namu-amida- butsu”. I do also live in the six characters.

   (恋しくば南無阿弥陀仏と称うべし 我も六字の中にこそ住め)         

【In the Six Characters(六字の中に):お慈悲のままに より】

リンク先:http://d.hatena.ne.jp/miko415/20181019


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「恋しくば南無阿弥陀仏と称うべし 我も六字の中にこそ住め」

心に響きます。

今生の別れは必ずやってきます。『信心の定まったひと』は、本当の意味で「死んだら仏」となります。そういう方々は、南無阿弥陀仏となって、いま・ここで・私に呼びかけてれおられます。「必ず救うぞ!」と。私も「南無阿弥陀仏」と応えます。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

miko415miko415 2018/10/24 11:36 『信心の定まったひと』は、と強調されている所がいいですね。
私が付けた星マークは、手品師さんのコメントに対してもの、と受け取ってください。

手品師手品師 2018/10/24 22:05 はい、そのように受け取ります〜

2018-10-14

大安心 大安心のブックマークコメント

このいま・ここで・私が生きている原動力は南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏あっての私であり、南無阿弥陀仏がない人生は虚しさしかありません。

南無阿弥陀仏が根底に末通った生活には大安心があります。ですので、いつ死んでも後悔はありません。南無阿弥陀仏のなせる業です。(私はといいますと)南無阿弥陀仏とお念仏をただ称えるだけです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

ただ感謝 ただ感謝のブックマークコメント

面白いもので、人生折り返し地点を過ぎますと、未来のことより、過去の楽しかったことを振り返る時間が多くなっているようです(笑)。私の人生に悔いはありません。阿弥陀さまと共に歩む人生にただ感謝。

私は不死身? 私は不死身?のブックマークコメント

朝刊のお悔やみ欄に名前が載らない日はありません。死ぬことを他人事でしか捉えられない第3者の私がいます。私は死なない、不死身の人間なんだと・・・。

私は不死身?(続編) 私は不死身?(続編)のブックマークコメント

しかしながら、阿弥陀さまと共に歩んでいる私は不死身なのです。