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手 品 師 このページをアンテナに追加

2017-11-19

本願他力に生きる人 本願他力に生きる人のブックマークコメント

 「他力の人」(本願他力に生きる人)というと、かならず依頼心の強い人、他人まかせの人といったレッテルが貼られたりもします。特に「他力本願」という語は横着者の代名詞のようにもなっています。ほとんどの辞典に「目的を達成するために他の助力をまつこと」などと記されています。このあたりから、自力は優れ、他力は劣っているというレベルでとらえています。(略)

 「他力をたのむ」とありますが、それはどういうことなのでしょうか。親鸞聖人は、「他力本願をたのみて自力をはなれたる、これを『唯心』といふ」(『唯信鈔文意』)と示しています。

 「信心」とは自力の心を離れて阿弥陀仏の教えに生きるということであるということです。少し詳しくいえば、「本願他力をたのむ」ということは、私自身の身、口、意の三業と自己の能力、社会的地位、学歴などを生きるうえでの根拠としないことです。これらの一切を人生のよりどころとせず、根拠とせずに、阿弥陀仏の教えを根拠として生きる者ということです。

【初めての歎異抄 山崎龍明 NHK出版 P91,P92より】


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「他力本願」という言葉が、本来の意味合いで使用されるケースが非常に少なくなっています。辞書等をみましても、棚から牡丹餅的発想の意味で一番最初の説明として挙げられています。浄土真宗の教えが衰退していることを如実に物語っているのかもしれません。最近では葬式仏教という形式的な部分さえも無くなってきているように思います。非常に残念なことです。

南無阿弥陀仏のはたらきは、人を選びません。つまり、いつでも・どこでも・だれにでも平等にはたらいています。ここでいわれている自己の能力、社会的地位、学歴などの生きるうえでの根拠は全く要しない、ということです。南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされない生活(人生)は、刹那主義的な人生ではないでしょうか。

「明日ありと思ふ心はあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」

タイムリミット、大丈夫でしょうか?!

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2017-11-12

仏法をあるじとし、世間を客人とせよ 仏法をあるじとし、世間を客人とせよのブックマークコメント

 「仏法をあるじとし、世間を客人とせよ」といわれているとおり、どこまでも仏法を主とし、世俗のなかを生き抜くことによって、浄土真宗をご再興していかれたのが、蓮如上人の生涯だったのです。

 仏法とは、阿弥陀仏の本願を信じて念仏し、生死を超え、愛と憎しみを超えた浄土を目指して生きることでした。それに対して世間とは、名誉欲と財欲に振り回されながら生きる私たちの世俗の日常生活を意味していました。ここでは真理についての無知と、愛欲と憎悪が支配しています。

 蓮如上人は、この仏法と世間とに主客をたてられたわけです。仏法を主人とし、世間を客人とするということは、仏法を中心として世俗を生きなさいといわれているのですから、念仏を中心とした人生観を表す言葉でした。すなわち世俗の日常生活を、念仏の縁として生きることであるともいえましょうし、この世を仏法の真実を確かめる道場とみなしていきることであるともいえましょう。それは念仏のなかに営まれる真摯な生活を意味しました。

 その反対は、世間を主人とし、仏法を客とみなす生き方です。この世をうまく生きるための手段として仏法を利用するというものです。仏法を主とし、世間を客とみなす生き方は、世間を仏法化していきますが、世間を主とし、仏法を客とするような生き方は、仏法を世俗化してしまいます。世俗化した仏教には、世俗を救う力はまったくありません。ただ世俗に押し流されるばかりです。親鸞聖人が現生で正定聚を語り、現生における阿弥陀仏の救いを強調されたことは、念仏を中心にした新しい精神の秩序の成立を告げる教説だったに違いありません。

【本願のこころ 梯 實圓 法蔵館 P166〜P168より】


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この文章を読んでいますと、

善導大師がご教示くだされた「二河白道の譬え」が連想されます。

白道に気付かされ、1歩1歩、浄土に向かって歩んでいく生活には安心と張り合いがあります。ここでもありますように、念仏中心の生活は、仏法の真実を確かめる道場である、ともいえます。世俗に押し流される生活からの脱却、つまり、念仏を中心とした新しい精神秩序の成立を急がねばなりません。それは、阿弥陀さまに依るしかありません。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2017-11-08

感応道交 感応道交のブックマークコメント

感応道交(かんのうどうこう)

仏と人、また教えるものと教えられるものとの気持ちが通いあうこと。衆生の機応と仏の応化とが相通じて融合すること。

広辞苑より】


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今回はいつもと違った試行で紹介します(笑)

なんと、手品でトライしました(驚)

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


D

miko415miko415 2017/11/09 06:47 YouTubeで見ました。無事に仏さまが出現されて良かったですね。純粋に仏さまとの気持ちが通じたのでしょう。(笑)  手品を通じて仏法に親しめるのもいいですね。

手品師手品師 2017/11/09 07:51 コメントありがとうございます!
まさしく、感応道交です^_^

2017-11-04

念仏者の生き方 念仏者の生き方のブックマークコメント

 阿弥陀如来の本願が、信心となって私の上に届いているということは、如来の智慧と慈悲が私を内側から導いてくださることを意味していました。信心の行者は、まずこうした尊い徳を頂戴しているものでした。しかし、その徳にふさわしい生き方をするどころか、煩悩に明け暮れる生活を送っている自分は、まことに恥ずかしいことであり、もうしわけないことであるという慚愧の心がおこってきます。

 今までは、ただ我欲の命ずるままに、自分に都合のよいことばかりを追求し、不幸は人に押しつけても自分だけは幸せになりたいと思って生きてきましたが、それは貪欲の煩悩であって、人を傷つけ、自分も傷ついていく元凶であったと知らされます。また自分に都合の悪いものを排除するのは当たり前で、気に入らないものに腹を立て、憎み呪って何が悪い、私に腹を立たせる人が悪いのだとばかり考えていましたが、それが瞋恚の煩悩であると気づかされます。こうした瞋恚の根源に、自己中心の想念があって、何事も自分本位に考え行動することは、愚痴(無明)の煩悩であって、それこそ諸悪の根源だったのだと、うなずくようになってきます。

 そのように自分を煩悩具足の凡夫であると認め、自己中心の想念に引きずられて起こすさまざまな悪を悪と認め、罪を罪と認めるようになったということは、いままで当たり前であったことが当たり前でなくなったのですから、大変な変化が起こっているわけです。いわば自分のなかに革命が起きているのです。

 仏陀の智慧と慈悲こそが真実であると知らされた念仏者は、愛欲と憎悪を超えた涅槃の浄土こそ私たちが目指さなければならない真実の領域であることを思い知らされます。もっとも、それを知らされながらも、自分の現実は、それに背いて愛憎の泥沼に足を取られそうになっている危ない足元を懺悔せざるにおれません。ただしかし、阿弥陀仏の本願を聞き、煩悩を超えた涅槃の浄土に向かって歩んでいくのだという生きる方向性を与えられていることのありがたさを思うとき、少しでも如来の御心にかなうような生き方をしなければならないという思いが湧いてきます。そこに煩悩の真っ直中にありながらも、たえず本願に呼び覚まされて、生きようとする新しい精神の秩序が与えられていることに想いを致さねばなりません。

【本願のこころ 梯 實圓 法蔵館 P159、P160より】


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ここで述べられていますように、

「念仏者の生き方」に共感できる身になりたいものですね。

煩悩の真っ直中にありながらも、たえず本願に呼び覚まされて生かされていることに気付かされる、ことは大変有難いことです。

すべて、阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきのなせる業(わざ)です。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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『御二河白道之柵』 棟方志功 作 ★再掲載★

福光時代、最後の作品(昭和26年11月) 善興寺:富山県高岡市

棟方志功は昭和20年から戦時疎開のため富山県現南砺市に移住して昭和29年まで在住。

「NHKカルチャーラジオ 文学の世界『歎異抄』と現代 (NHKシリーズ) 表紙より」

2017-10-26

自分本位 自分本位のブックマークコメント

「七仏通誡偈」には

 諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教

(もろもろの悪を作〔な〕すことなかれ、すべての善を奉行せよ、みずからその意を浄〔きよ〕くす これ諸仏の教〔きょう〕なり)と示される。このような考え方の基礎となっているのは、「善因楽果・悪因苦果」といわれるような、みずからの善業(福)を因として好ましい結果(楽果)をえて、みずからの悪業(罪)を因として好ましくない結果(苦果)をえるという因果の道理である。この因果を信じる心を「信罪福心(罪・福を信じる心)という。

 しかし、阿弥陀仏がすでに成就した本願の法は、善悪、賢愚をえらばず救うという我々にとっては不可思議なる救済法である。その不可思議の本願に対して、衆生がみずからの善悪、賢愚といった価値判断を持ち込み、念仏によって廃悪諸善して、救われるか否かを「思議」することは、たよりにならない自分をたよりにし、本当にたよりにするべき如来の救いを拒絶しているのであって、如来の本願を疑っていることに他ならない。よって、この信罪福心を不可思議の本願に向けた場合は「疑心」、あるいは「(衆生の)はからい」といわれ、自力の信心として否定されるのである。

親鸞聖人の教え  勧学寮編 P235,P236より】


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自分の世界に閉じこもっていてもなんの進展もありません。

自分大好き人間は、

宝の山に入っておりながら、宝物には全く目もくれないような人のことをいうのでしょう。

肝心の阿弥陀さまは何処にいったのでしょうか。

「わたしのはからい」曲者です。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2017-10-18

思わんようになる 思わんようになるのブックマークコメント

 浄土真宗は「そんな旨い事あるかい」「そんな馬鹿な事あるかい」と言うて、禅宗の人なんか言うとるわ。「『行』も積まず、『願』も起さず、『善』い事も一寸(ちょっと)もせず、三毒の煩悩、八万四千の業を煮やして居りながら、一編に『閉眼絶息の夕べには、大般涅槃を超証す』と言うて、直ぐに仏に成ると言う、そんな『旨い』事があるかい」と言うわ。是は無理じゃろ。聖道自力の人から見たら、「そんな旨い、棚から牡丹餅みたいな事あるかい」と言う取る。「そんな事あるかい」「そりゃ無理じゃ」「そんな道理は無いわい」とこう言うのが、まあ普通やな。

 けども、如来様から見たら、喚び声(南無阿弥陀仏)の中には、智慧も、慈悲も、智慧の力も、慈悲の力も、誓願の力も何もかも込めて、喚んで下さって居る。この「まこと」の力は、仏のまことの力、仏の誓願力、仏の真実心によって凡夫が仏に成れんと言う事があるかいと、こう言うのや。是は何が無理かい。何が棚から牡丹餅かい。そう言う見方をするのが自力やな。自力の心を持っていては、お他力と言う事が分からん。他力と言うものは仏様にならんと本当には分からんのやでえ。この世の中で」、自力や他力や言うたって分からへんわい。分かるもんかい。仏様に成って阿弥陀様と同体の悟りを開いて見たら「捨てて置いてくれと言われたとて、捨てて置かれぬ親心」と言うものが、仏自心がボォーッと、自分で出す事が出来るから、その時に分かるわい。その力で以って、力一つで以って凡夫を助けると言う事が分かるわな。まあ、凡夫で迷うとる間は分からんわい。「そんな事あるかい」と、心の底ではそう思う取るやろうな。皆、口には出さへんけど。「お他力」「お他力や」と口では「上手い」こと言う取るけど、心の底では、「見た事も、信じた事も、善い事をした事も無い。こんな私みたいな者が仏様の本願力とやらで以って仏に成るって、そんな馬鹿な事があるかい」と心の中では思う取るやろ、思う取らんと言うても、思う取るに違いないんじゃ。

 其れやったら「仏様の自然(じねん)」「法の自然(じねん)」「願力の自然(じねん)」と言う事には成らんのやでえ。「思う取らん」と言うても、思う取る。「思わん」様に成ったら「不思議やなあ!」と言うのや。

【自然法爾章 稲垣瑞劔 師講述 昭和35年2月21日 正蓮寺(彦根市)より】



自然法爾(じねんほうに)

 仏教では、自然を〈じねん〉と訓じて「自ら然る」という意味に解する。人間の作為のない「そのまま」の在り方が自然である。法(真理)が「そのまま」に顕現していることを示す法爾(ほうに)と自然とは同義語で、その両者を合わせて「自然法爾(じねんほうに)」「法爾自然(ほうにじねん)」という四字熟語ができた。

 浄土宗開祖の源空は、「法爾自然」を略して法然と号した。浄土真宗を開いた親鸞は、「自然法爾章(じねんほうにしょう)」と称する一文を認め、その中で「自然といふは、自はをのづからといふ、行者のはからひにあらず、然といふはしからしむといふことばなり」(『末燈鈔(まっとうしょう)』)と説いている。

【生活の中の仏教用語より】

http://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/nab3mq0000000ro3.html


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「不思議やなあ!」というフレーズがでてきたらしめたものです(笑)

称えるお念仏(南無阿弥陀仏)は報恩感謝となります。阿弥陀さまと真に心が通じ合ったということになります。迷いの世界からの脱却でもあります。

生きてよし 死んでよし。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

2017-10-09

南無阿弥陀 南無阿弥陀仏のブックマークコメント

 「南無阿弥陀仏」についてお話ししましょう。「南無阿弥陀仏」は、六字の名号(仏の名前)と呼ばれます。名号を称えるのが「称名」です。仏の名を称える、という形態は仏教の初期からありました。「南無」はナマス(namas)というサンスクリットの言葉に漢字を当てはめたもので、「帰命」「帰依」を意味します。要するに、「おまかせします」ということです。次の「阿弥陀」は、アミターバ(アミタ・アーバ、amitabha)とアミターユス(アミタ・アユース、amitayus)という言葉からできています。ミタが「限界」、アが「〜でない」という否定の意なので、アミタは「限界がない」「限りなし」となります。「アーバ」は光で、「アユース」は生命のことです。つまり、アミターバは「限りない光」、アミターユスは「限りない生命」です。

 そして最後の「仏」は、この場合は「はたらき」という意味になりますので、「南無阿弥陀仏」と称えることは、もともと「この世界に充ち満ちる限りない光と命のはたらきにおまかせします」という意となり、自分自身の生きる方向性を表す言葉なのです。

 ところが親鸞は、南無を「おまかせします」ではなく、「まかせてくれよ」と仏に呼ばれているのだと領解(りょうげ)します。自分の称えた「南無阿弥陀仏」が、仏の呼び声となって聞こえてくる、それが他力の念仏なのです。「称える」ことは、すなわち「聞くこと」である。「称名」は、すなはち「聞名(もんみょう)」である、ここが親鸞の念仏の本質です。「聞名」という思想は、『無量寿経』にも繰り返し出てきます。親鸞はそこに注目したのです。浄土真宗の教学では、「称即聞」「聞即信」―「称えること」「聞くこと」「信じること」の三つが一つであるとされています。浄土真宗の大きな特徴です。親鸞の念仏と信心を考える上でも重要です。

【NHK 100分de名著 歎異抄 釈 徹宗 NHKテキスト10月 P48〜P49より】


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浄土真宗は、本願力回向の教え、ともいわれます。

方向は、「阿弥陀さまから私」であって、「私から阿弥陀さま」ではありません。

いうならば、川の流れに身を任せ、ぷかぷか浮いているようなものです。それに対し、逆流はしんどいですね(笑)。それ以前に、(私に)激しい流れに立ち向かうパワーは元々持ちあわせていません・・・・・・。

南無阿弥陀仏を単なる言葉ではなく、はたらきとして受けとりたいものです。

以下、このことを分かり易く表現した事例がありますので提示します。


講演の中で、重力の話に及び、私(横山)は皆さんにこう質問しました。

「実験で重力の加速度を計ることができますが、重力そのものを体得するには、どうすればよいでしょうか」

質問には誰も答えられません。そこで私は前に進み、高さ1メートルほどの講壇から下にドスンと飛び降りました。

「これが重力を体得するということです」

すると全員、拍手をしてくれまた。

【「唯識」という生き方 横山紘一 大法輪閤より抜粋】


重力を知る上で、主観的理解(身をもって)と客観的理解(計算式に入れて)では全く意味合いが違います。「南無阿弥陀仏」も然り、です。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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