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手 品 師 このページをアンテナに追加

2018-12-16

一寸先も光 一寸先も光のブックマークコメント

人生、一寸先は闇といわれていますが、皆さんはいかがでしょうか?

南無阿弥陀仏の人は、いうならば、一寸先も光なのです。浄土参りが確定しています。ですので、寿命尽きるまでの生活の根底には安心があります。


おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

2018-12-09

雲泥の差2(受けとり方の違い) 雲泥の差2(受けとり方の違い) のブックマークコメント

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 石川県の藤原正遠作の一首が想起される 。

 念仏に自力 ・他力の別が説かれるのは 、すべて人間からのかかわりかたによることであって 、念仏そのものに自力 ・他力の別があるはずはない 。いまの一首からわたくしは 「出る念仏 」と 「出す念仏 」の違いを教えられる 。 「出る 」は自然 ・他力 、 「出す 」は人為 ・自力 。 「念仏 」がいずれも如来の名告りであるかぎり 、その名告りの意味からは 「出る念仏 」にこそ人間の救いが象徴される 。だが 、如来の名告りの念仏は 、「出す念仏 」も 、「出る念仏 」と転じてやまない仏願力の念仏なのだ 。

 念仏は出そうと思って出せるものでもなく 、出さずにおこうと思って出さずにおれるものでもない 。

親鸞から蓮如へ 真宗創造−『御文』の発遣− 池田勇諦 真宗文庫 より】


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 南無阿弥陀仏は南無阿弥陀仏です。普遍です。それを受けとる私側によって意味合いが全く異なります。南無阿弥陀仏を単なる言葉として受けとるのか、あるいは、はたらきととして受けとるか、ということです。

 念仏でいいますと、念仏を出す、のか、念仏が出る、のかということです。念仏はあくまでも念仏です。普遍です。私側の問題となります。

さて、皆さんはどっちでしょうか?


おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

2018-12-08

雲泥の差1(受けとり方の違い) 雲泥の差1(受けとり方の違い)のブックマークコメント

 本日の青森市は大雪です。

雪かきをしても、次から次へと降り積もります。この期間は、ジョギングができない代わりに雪かきで体力づくりをしています。ですので、私にとって、中途半端な積雪よりドカッと降り積もってもらった方が嬉しいです。但し、想定外のドカ雪は苦しみになってしまいますが(笑)。青森市に住んでいる人においては、ドカ雪ということにおいては、みな同じ環境です。憂鬱になる人もいる中で、心のもちようではドカ雪が楽しみになります。

 南無阿弥陀仏のはたらきも然り。

南無阿弥陀仏のはたらきの中で生活していることにおいては、みな同じです。しかしながら、そのはたらきに気付かされた人とそうでない人の差は大きすぎます。

 「されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。」といわれた蓮如上人のお言葉(白骨の章:御文章5帖目第16通)が心に響きます。


おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2018-12-02

出遇い 出遇いのブックマークコメント

出会いがあれば別れがあります。そんなことは誰でも分かっていることです。しかしながら、阿弥陀さんとの出遇いには別れはありません。果たして、そのことを知っている人はどれだけいるのでしょうか。

南無阿弥陀仏となって 南無阿弥陀仏となってのブックマークコメント

阿弥陀さまはどういう視点でいわれているのか、と阿弥陀さんと対話しながら生活していくことの意義は大きいですね。

阿弥陀さんとの出遇いがない人生は、まさしく、糸が切れた凧です。制御不能です。自分まかせの人生、結末は目に見えています。

対して、阿弥陀さんと歩む人生はブレません。大安心という末通った基盤での生活、あとは往相・還相回向のはたらきに依って、南無阿弥陀仏の仲間入りです。ですので、この世を去っても落ち着く暇はありません(笑)。忙しくなるなぁ〜


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2018-12-01

涙流しながらの自慢 涙流しながらの自慢のブックマークコメント

 自分はとてもひとさまの前に顔を出せるような心ではないといって、利口ぶって反省をしておるというような姿を見せるのも自力だといわれるのです。私はこれがいちばんきついと思います。わが身を頼むとか、わが力を頼むとか、わが心を頼むとかいうほうは、いわれれば「ああ、そうかな」というけれども、自分は救われない人間だとか、自分は悪い人間だとかいうことを、利口ぶって、さかしくかえりみるというのです

 ついでに申しますけれども、慢ということが仏教でいわれます。自慢、高慢の慢で、たかぶっているということばです。だから慢というと、普通に考えると、肩をいからせるのが慢だとお思いになるでしょう。ところが慢の中でいちばんたかぶっている慢は卑下慢なのです。私のようなものはとても駄目でしてというて、これがいちばんの慢、いちばんたかぶった心なのです。仏教ではそういっています。

 案外宗教はここでひっかかるのです。私のようなおぞましいものがといったとき、それをさかしくかえりみる心でいっているかぎりは、それは高慢なのです。自慢しているのです。人間はなにもいいことばかり自慢するとはかぎらないのです。おれは悪い人間だというのも、実は涙流しながら自慢であるという厄介な生き物を人間というのです。ともかくそういうものを全部ひっくるめて自力と親鸞聖人はおっしゃるのですから、自力の信心というのはそれでおわかりになるでしょう。そういう要素が入っている信心は全部自力作善です。そういう心で善をなすということを自力作善というのです。自力の心で善をするということです。 

【親鸞の宿業観 歎異抄十三条を読む 廣瀬 杲 法蔵館 P186、P187より】


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「涙流しながらの自慢」

そんな心に気付かされゾォッとさせられます。自力の心、ホント、しぶといです。

阿弥陀さまに依るしかありません。


おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

2018-11-25

あほうどりさん のこと あほうどりさん のことのブックマークコメント

 先日、Kさんから送って頂いた「あほうどり記」を読みながら懐かしんでいます。娘がまだ小学5年生の頃と記憶しています。マイケルジャクソンがこの世を去った少し後の時期でしょうか。あほうどりさんと弟が、日本海(寝台車)に乗ってはるばる富山から青森まで来て頂きました(現在、日本海は廃止)。滞在時間12時間と短いひと時でしたが、その時の記憶は今でも新鮮です。義母にも来てもらい、一緒に南無阿弥陀仏のお話を聞かせて頂きました。そのために、学校に置いてあるような大きなホワイドボードも用意しました(笑)。

 夜は焼肉でワイワイガヤガヤ(笑)。用意した大量のお肉が、あっという間になくなりました(驚)。大食家3名(あほうどりさん、弟、私)の凄さに唖然としていた嫁の顔は今でも覚えています。当然、嫁が食べるお肉はなかったのでした(笑)。今となっては、よい思い出です。

 あほうどりさんとは、その時初めてお会いしてその後1回だけのご縁でした。直接、お会いした回数は少ないですが、私にとって忘れられない恩人です。(あほうどりさんは)南無阿弥陀仏となってここにいますね。たぶん・・・。

 さて、当時、小学5年生だった娘も二十歳となり、その晴れ着姿を見て感慨深いものを感じます。時が流れるのは本当に早いものです。やっぱり、南無阿弥陀仏しかないなぁ〜。しみじみ思います。「いま・ここで・わたしが 南無阿弥陀仏」。人生これに限りますね〜。


おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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miko415miko415 2018/11/26 06:30 ほのぼのとした思い出の記ですね。三人の大食いさんがもたらした「結果」に爆笑してしまいました。(笑)               
あほうどりさんは懐かしい人です。私もお世話になりました。

手品師手品師 2018/11/26 08:52 今でも、あの時の嫁の顔が忘れられません(笑)

2018-11-24

試行錯誤 試行錯誤のブックマークコメント

 時代にあった表現方法で、南無阿弥陀仏を伝えることはとても大事なことだと思います。そうしませんと、本来、伝わるべきことも伝わらないケースが少なからずでてくるのではないでしょうか。まずは、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かせて頂くことが先決です。やはり、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされている人の話にはパンチがあるといいますか共感を覚えます。

 私はといいますと、どうしたら、多くの人に、南無阿弥陀仏のはたらきについて分かってもらえるか、阿弥陀さまにお伺いしながら試行錯誤していきたい、と思っています。はっきりいいまして楽しい時間です。

 留意点としまして、あまりにもカスタマイズしすぎて、本来の意味が損なわれることは絶対に避けなければならない、というところです。


仏法ひろまれ 響け 届け


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言葉のはたらき 言葉のはたらきのブックマークコメント

語られた言葉

われわれの学者のなかには、書記言語、すなわち「書かれた言語」にしか意味を認めない人もいます。しかし、本当に重要なのは「語られた言葉」です。なぜなら、そこには言葉だけではなくて身体的なものが全部ひっくるめて存在しているからです。

親鸞 いまを生きる 朝日新書 姜 尚中 P48より】


語られた言葉の大切さ

 二九歳の親鸞が法然のもとに通ったとき、法然は六九歳でした。親鸞には、法然に聞きたいことが山のようにあり、多くの質問を投げかけたに違いありません。

 姜先生がおっしゃったように、語られた言葉、オーラルな言葉、そういうものが、教えにおいては大事なのだと思います。

 人が全存在をかけて、生きている内実を語り、それをその場で聞くこと。それはいったん文字化され客観化された文章に触れるのと違って、時間、空間、そして湿度などを肌で感じながら共感することができます。その人の体験したことに、より近いかたちで触れることができるのです。

 私自身も、運よく京都で、親鸞学徒の泰斗である曽我量深先生(一八七五-一九七一)や安田理深先生(一九〇〇-一九八二)の教えに触れることができました。「お育て」というのですが、自分で育とうと思ったわけじゃないけれど、その教えを、わからない、わからないと聞いているうちに、その聞いた言葉が育ててくれるのです。言葉で何回も何回も考え直していくうちに、ああ、そうだったのかとわかるときがきます。

 ところが現代では、新聞やテレビ、雑誌、インターネットなどからひっきりなしに情報が流れています。人々はそれを受け取ることに精一杯で、何かを探そうとしたときに、師となる人を訪ね、じかに触れて、先生が何を考えていらっしゃるかを直接聞くということが珍しいことになってしまいました。

 肉声で伝えられる教えに耳を傾け、身体に通すというのは、生きた言葉に触れ、それを自分自身で確認しながら、本当かどうか、時間をかけてたずねていけることなのです。

 促成栽培みたいに与えられた栄養で、どの株も同じように育つという考え方では、本当の、人間のいのちが燃えるような情熱は伝わりません。一度、尊敬する人からじかに話を聞くことの大切さを見直してみるとよいのではないのでしょうか。

【親鸞 いまを生きる 朝日新書 本多弘之 P67〜P69より】


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まさしく、「言葉は語る」ですね。

南無阿弥陀仏も然り。

南無阿弥陀仏は単なる言葉、記号や呪文ではありません。

南無阿弥陀仏には、阿弥陀さまの智慧と慈悲のはたらきが込められています。

そのはたらきを感じとれる身になりたいものです。

今回、この本を図書館で読破しました(笑)。かなりオススメです。早速、アマゾンで注文致しました。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏