ブログトップ 記事一覧 ログイン 無料ブログ開設

手 品 師 このページをアンテナに追加

2017-04-23

信心は仏心である 信心は仏心であるのブックマークコメント

 親鸞聖人は、信心、すなわち無疑心のことを、「信文類」では、しばしば「疑蓋雑わることなし(ぎがいまじわることなし)」とか、「疑蓋間雑(ぎがいけんぞう)有ること無し」とも言い表されています。「蓋(がい)」とは、覆い隠すものという意味で、一般的には煩悩は真理を覆い隠すというので、煩悩のことを蓋と呼んでいました。おそらく親鸞聖人は、疑は如来の本願を覆い隠すという性質が強いところから、とくに疑蓋という用語を使われたのでしょう。また「間雑」とは「まじわる(まじる・まざる)」ということで、不純物がまざることを意味していました。清浄真実な智慧の言葉である本願を聞きながら、凡夫のはからいをまじえることによって、真実なる法を変質させてしまうことを疑蓋間雑といわれたともいえましょう。

 また蓋とは容器の蓋を意味していますから、「疑蓋間雑有ること無し」とは、疑いという蓋をしたまま水を注ぐならば、水は蓋にさまたげられて器(うつわ)に入らないように、本願の法水は、疑いの蓋に隔てられて、私たちの心の器に届かない状態を表そうとされたともいえましょう。凡夫のはからいという心の蓋さえなければ、法水は、衆生の心に入り満ちていきます。その意味で、信心とは疑いのない状態であるということは、本願の法が私の上に届いて主体化していることでもあったのです。信心は、私たちの上に実現している事実ですが、その本体は、人間の心ではなくて如来の本願であり、仏心だったのです。

【本願のこころ 梯實圓  法蔵館 P92、P93より】


f:id:tarou310:20120716095419j:image

「信心は仏心である」素晴らしい言葉です!

(信心とは)疑いのない状態である、ということは、

阿弥陀さまにまかせきっている状態である、ということです。

この「状態」という言葉がつきますとより分かりやすい、ですね。

つまり、いま現在、そういう状態であるということです。

いまの(南無阿弥陀仏の)はたらきに、いま気付かされる

つまり、このいま、わたしの「あ〜だ、こ〜だ」といった(阿弥陀さまのお約束に対する)詮索が一切なくなったとき、一心同体 南無阿弥陀仏 となります。

そこにあるのは大安心です。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


f:id:tarou310:20170423063531j:image

2017-04-15

ただおまかせ ただおまかせのブックマークコメント

阿弥陀さまに「ただおまかせ」といいましても

自分から「おまかせする」のではありません。

阿弥陀さまより「おまかせさせられる」のです。

誤解がないようにしたいものです。

ただおまかせは、(わたしは)阿弥陀さまに、おまかせ状態ということです。

その根底には大安心があります。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

身体は、しばらくの借り物 身体は、しばらくの借り物のブックマークコメント

ある先生が、この人生それぞれが演じている、といわれていました。

男性、女性、日本人、西欧人、高身長、美人など人それぞれです。職業でみましても、医者であったり、弁護士であったり、芸能人であったり、会社員であったり、自営業であったり、と様々です。ひとそれぞれ自分を演じています。演じるということは、本来の自分ではない、ということです。この世は仮住まいである、といった先人もいます。

限られた人生ですので、自分の身体(肉体)とも必ず別れの時がきます。

人生のその先は大丈夫でしょうか?!

胸を張って大丈夫!といえる人生でなければ意味がありません。

今一度、私とはなんぞや?!という自問をしてみてはいかがでしょう。

最近、「この人生それぞれが演じている」いうフレーズがやけに響きます。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀

ボタンの掛け違い ボタンの掛け違いのブックマークコメント

南無阿弥陀仏の「いま」のはたらきに対して

「そのうちなんとかなるさ」というわたしの甘い期待や思いが、噛み合う筈はありません。

こういうことを、ボタンの掛け違い、というのでしょう。(ボタンの掛け違いは)見た目も変です。

「いま」のはたらきに「いま」気付かせて頂く、ことが肝要です。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


f:id:tarou310:20170415101405j:image

一 致

2017-04-12

空っぽ(その2) 空っぽ(その2)のブックマークコメント

信心といいましても空っぽです。

色も形も匂いもありません。

しかし、不思議なことに南無阿弥陀仏とお念仏すると具現化されます。

智慧のない私に、6文字の名号をもってして知らしめてくれるのでした。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



f:id:tarou310:20170412170150j:image

空 箱

2017-04-09

空っぽ 空っぽのブックマークコメント

信心といいましても空っぽです。

ですので、自分から(信心を)獲りに行っても獲れるはずもありません。

信心獲得(しんじんぎゃくとく)と聞きますと、自ら何かの物体を取りに行く、と想像しがちですがそうではありません。最近の聴聞や書籍においては、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かせて頂く、という表現が多く使われます。これは、信心は空っぽである、ということを示している表現とも捉えることができます。南無阿弥陀仏のはたらきは、いま・ここで・私に、はたらいていますので、(私は、いま、ここで)そのはたらきに気付かせて頂く、ということが大事なってきます。言い換えますと、阿弥陀さまにただおまかせ、ということです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


f:id:tarou310:20170409090718p:image

空っぽ(金欠)

2017-04-02

私の基準って?! 私の基準って?!のブックマークコメント

 実は私たちは、親鸞聖人のおっしゃるように、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」としかいえない立場なのです。善悪など私たちにはわからないのです。本当の善というものは「如来の御こころ」にあります。(略)

 ところが、残念なことに、私たちは「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界」の存在であって、愚かな人間であり、とても「如来の御こころ」と同じような善悪を知ることのできるような存在ではないのです。私たちのやっていることは「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなき」としかいいようがないと見限っておられます。(略)

 今、私たちは発想を大きく転換する必要があるのではないかと思います。これまで善悪や損得を考える基準としてきたあらゆる価値観に、少しばかり批判的な目を向けてみる必要があるのではないでしょうか。私たちには特段の根拠もなく信じ込まされた分別の基準があります。この「常識」が一度覆されてみないことには、真に出遇うべきものがみえてこないように思えます。

【非常識のススメ 真宗教育シリーズ 浅野 玄誠 真宗文庫より】


f:id:tarou310:20120716095419j:image

生死問題の解決において、私の常識や価値観でなんとかなるものでしょうか?

よくよく考えてみたいものです。私の思い込みや計らいの堂々巡りに進展はありません。

ここでも述べられていますように「発想の転換」が大事です。今一度、客観的に自分を見つめ直すこともよいかもしれません。私の基準まかせは曲者です(笑)。阿弥陀さまの基準に依りたいものです。つまり、阿弥陀さまに「ただおまかせ」あるのみです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


f:id:tarou310:20170403000409p:image

私の基準(ものさし)

2017-03-26

わたしは、生かされて生きている わたしは、生かされて生きているのブックマークコメント

 お念仏がわかりにくいのならば、呼吸ということで考えたらどうでしょう。「吐いてみろ、吸ってみろ、おおよくできたな」などということではないですね。オギャーと生まれたときに呼吸をしているのです。これは自然のはたらきによって呼吸をしているのです。このいのちは誰が与えてくれたのか、母です、父ですといっても、息をすること自体は、両親が教えたわけではありません。息をするようになって生まれたのです。

 普段は、呼吸というものを意識しません。それでいて、この呼吸が止まればいのちは終わるというように、呼吸は大事なものなのです。生きているというのも、はからっているのではない、生かされている。生かされているという言葉は大事な言葉です。それでまた、みな平等なのです。お念仏というのは、まことの自然の行いである。はからって念仏するというのではなくて、催促によってお念仏している。この催促とは、自然のはたらきなのです。呼吸は肉体の自然現象であり、本願他力の自然のはたらきとは違うのではないかと思う人もおられるでしょう。しかし、これを分けて考える限りは、わかりません。

 親鸞聖人は『末燈鈔』の自然法爾章(じねんほうにしょう)など、八十歳を過ぎてから特に自然ということをくり返し、お話しになったようです。『歎異抄』第一条には、「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」とありました。こころ起こすときではなくて、心の起こるときなのです。私の計らいよりも先に念仏しようという心が起こってくる。心が起こってきたときには、もうお念仏している。そういうお念仏を、私たちはもういただいているのです。普段は、当たり前のことのように思っている呼吸ですけれども、それこそが大事なことなのです。そこに大きな自然のはたらきがある。そいうことを教えてくれるのが、お念仏の教えなのです。

【(改訂新版)歎異抄講義 上 三明智彰(みはるとしあき)P161、P162より】


f:id:tarou310:20120716095419j:image

 ここでもいわれていますように、私は無意識に呼吸をしています。私が、どう思おうが、思うまいが呼吸をしています。呼吸が止まれば死にます。つまり、私の思いとは全く関係なく呼吸をさせられている、ともいえます。

 では、わたしが、このいま生きていることについて考えてみるといかがでしょうか。私の思いや希望に関係なく、この時代に、この土地に、この容姿で、生かされています。このことを鑑みますと、「私は生かされて生きている」ということは疑いのない事実だと認めざるを得ません。「南無阿弥陀仏のはたらき」は、いま・ここで・わたしに、はたらいています。(私が)そのことに気付かされたとき、報恩感謝のお念仏がわたしの口からこぼれます。

 いま・ここで・わたしは、呼吸をしていますが、果たして意識して呼吸をしているひとはいるでしょうか? 当たり前すぎて、そんなことは意識しないでしょう。

森林浴で「空気がうまいなぁ〜」と深呼吸をするときや、風邪をひいて「息苦しいな〜」という場合に意識する程度ではないでしょうか。

「南無阿弥陀仏のはたらき」の真只中で生かされている私が、なにかの機会に、ふと、「南無阿弥陀仏」とお念仏がこぼれ出たらしめたものです(笑)。

 言葉を換えていいますと、

当たり前に生きている生活が、実は当たり前ではなかったことに気付かされた、ということです。そこからの人生は大安心です。死んでよし、生きてよし、です。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


f:id:tarou310:20170326054303p:image

2017-03-20

自分の殻を破る (浄土真宗の視点から) 自分の殻を破る (浄土真宗の視点から)のブックマークコメント

 「自分とは何者か」を考える際、私たちは他人の評価を気にせずにはおられません。もちろん、それは言葉だけに限らず、他人の目や顔の表情や態度などにも現れますが、私たちはそれに基づき、自分自身について自問自答をすることになります。その時の私の行為や感情を自ら確認するのです。自問自答することによって、自らのあり方や資質を客観的に顧みることができると考えるからでしょう。(略)

 その際には、当然のことながら、題材になっているその「自分」を客観視し判断している「もう一人の自分」がいることになります。あの時あのように思ったことは、正しかったどうかを判断する「もう一人の自分」です。これは何も過去に限ったことではありません。今、この時においても、「自分」とそれを客観視しようとする「もう一人の自分」は常に存在するといってよいでしょう。(略)

 「もう一人の自分」は常に「自分」に対して、評価を出し続け、自らそれに苦しんでいくということも、よくある話といえるでしょう。つまり、知らず知らずのうちに、「もう一人の自分」は絶対的に正しいものになってしまっているのです。

 「自分の殻を破れ」

などといわれることがあります。けれども、「自分」を判断する「もう一人の自分」が絶対的に正しいものとして存在している限りは、「自分の殻を破る」ことにはならないのではないでしょうか。ものの見方や感じ方にしても「自分」と「もう一人の自分」との関係に終始しているのが私たちの世界であって、大抵の場合、この関係の中から抜け出せないでいるのが私のあり方といえるでしょう。

【白き蓮華のひらく刻 森田 真円 P212~P216より】


f:id:tarou310:20120716095419j:image

このあと、

「私とはどんな者か」について、親鸞聖人は以下のように示されています。

是非しらず邪正もわからぬこのみなり (正像末和讃 自然法爾章)

善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり (歎異鈔 後序)

簡単にいいますと、わたしは、善悪の見分けが全くつかない者ということです。


では、

一体なにをもってして、わたしの善悪を判断すればよいか、ということですが。

そのゆえは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど…… (歎異鈔)と述べられています。

わたしの善悪を判断する基準は、仏さま(阿弥陀さま)である、ということです。


もちろん、

「もう一人の自分」視点で、客観的に自分自身を見つめ直すことは大事ですが、

とりわけ、生死問題においては、「阿弥陀さま」視点を意識していくことが大事になってきます。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


f:id:tarou310:20130225221506p:image