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手 品 師 このページをアンテナに追加

2018-09-22

言葉の力 言葉の力のブックマークコメント

「言葉の力」ということに拘っています。大峯顯 師は「言葉は語る」という表現で「言葉」というものについて掘り下げて語られていました。『南無阿弥陀仏』も然り。単なる言葉や記号として捉えるか否か、では雲泥の差があります。

願行具足の南無阿弥陀 願行具足の南無阿弥陀仏のブックマークコメント

「南無阿弥陀仏」という言葉はたったの6文字ではありますが、そこに込められた願いと行は甚大です。阿弥陀さまの命が込められています。

私のテーマ 私のテーマのブックマークコメント

私のテーマは、短い文章で、いかに分かり安く物事を伝えるか、ということです。勿論、「南無阿弥陀仏」を語る上でも拘っていきたい、と考えています。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

縄文人と現代人 縄文人と現代人のブックマークコメント

 「小牧野遺跡」という縄文時代の遺跡が青森市にあります。今から約4000年前(縄文後期前半)のものといわれています。その遺跡の特徴に、大規模な環状列石(ストーンサークル)があります。当時、呪(まじな)いや祈りを捧げたモニュメントといわれています。

 お釈迦様が、この地球上に生まれ、悟りを開かれたのは今から約2600年前といわれています。残念ながら、縄文人は仏教に出遇うチャンスはありませんでした。

 平成の時代を生きている私たちはいかがでしょうか?この時代においても、呪(まじな)いや祈りを捧げる、ことはごく一般的に行われています。ただ、縄文時代と違うことは、仏教という真実の教えがあることです。それだけでも有難いことではありますが、その教えを知らずして人生を終えることは誠に勿体ないことです。


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環状列石(ストーンサークル):小牧野遺跡(青森市)

2018-09-16

理屈なしに南無阿弥陀 理屈なしに南無阿弥陀仏のブックマークコメント

 弥陀は南無阿弥陀仏、これ一つを与えることを以て地金(じがね)としていられます。「廻向を首(しゅ)とする」とはこのお示しです。与えることを地金とされ給う弥陀は、いまわけへだてなく救うことを告げ給うています。私たちはこの無碍光(むげこう)のいわれ(義)を聞くところに、お助けにあずかるのです。本願の尊さに満足して、これはこれはと大安心するばかりです。すべての計らい心はおのずからすたるのです。ほんとに手がはなれてすたるのです。この広大な仏恩を心に感ずるとき、南無阿弥陀仏と声にあらわれて下さいます。

 このお与えの南無阿弥陀仏は、頂くけいこをしてもらうのではありません。かためるけいこをすることでもありません。念を押すこともいりません。たしかめることもいりません。お与え下さるものです。聞こえて下さるものです。私としては耳傾けて聞きますから、聞えたまま、私の上に来て下さるのです。与えられるのですから、このままときばるのではありません。助かると思うから助かるのではありません。事実、無碍摂取(むげせっしゅ)の弥陀の救いのはたらきに助けられるのです。

【名号不思議の信心 加茂仰順 百華苑 P49,P50より】


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タイトルを「理屈なしに南無阿弥陀仏」としました。

そうなればしめたものです(笑)。「南無阿弥陀仏」と、自然に私の口からこぼれだすことは尊いことです。阿弥陀さまのなせる業(わざ)です。

妙好人の)才市さんは、「聞いて助かるじゃない 助けてあるをいただくばかり」とうまく表現されました。その言葉に、わたしの計らいは1ミリもありません。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2018-09-05

苦しいときの神だのみ 苦しいときの神だのみのブックマークコメント

 例えば、健康な人が突然病気になるとします。もちろん医師の診断を受け、薬も飲むでしょうが、回復がはかばしくないと、いろいろの行動をし始めます。民間療法は言うまでもなく、お札(ふだ)をまつったり、呪(まじな)いをしたり、方角や年まわりを占ったり、あらゆる迷信・俗信にかかわります。病気とは何の因果関係もないそういう行為をするのは、予測しがたい未来につよい不安があるからです。

 病人だけでなく、家族の人たちも迷信・俗信にとりつかれます。「苦しい時の神だのみ」で、信じてもいない神や仏に祈り、お百度をふんだり、病人が大切な人であればあるだけ、あらゆる手段方法を試みます。そしてその効果がないと、「神も仏もあるものか」ということになるのです。こうした対応は、どんなに不合理だとか、無意味だと言っても、当事者たちはやめません。「やむにやまれぬ」気持ちがそこにあって、人を駆り立てるのです。

 従って、そういう不安や、やむにやまれぬ気持ちを転じて、直面している事態をそのまま受けとめる態度を確立しなければ、迷信や俗信にわずらわされることはなくなりません。問題は、迷信や俗信そのものではなく、それをうけいれる人間の側にあると言ってよいでしょう。

 迷信や俗信に左右されない唯ひとつの道は、真実の教えによって人生について正しい見方を得、そして本当の拠りどころを見いだしてどんなことにもゆり動かされぬ心構えをもつことです。諸行は無常であり、いかなるものも永続しないことを知り、万物はとらえるべき実体をもたぬ仮のものであることを思うなら、どうしてうつりかわる事物に心を動かされる必要がありましょう。財産も名誉も、この身体さえも自分のものとしてとらえることのできぬつかのまのものです。それを永続させようと無理につとめたところで、この世界の鉄則を破ることはできません。それよりもその実相をよくわきまえて、真にたのむべきもの、願うべきものを見いだすならば、それが本当の私たちの拠りどころとなるのです。

『歎異鈔』の

「念仏者は無礙の一道なり。そのいはれいかんとなれば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障礙することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなり」

という文章は、親鸞聖人の迷信・俗信に対する態度をよくあらわしています。本願力廻向の信心にめぐまれて念仏申す身になった者を、天地の神々も尊びうやまい、魔性のものや仏教徒以外のものたちもさまたげない、この世の善悪ということも、その人にはもはや問題とはならない、という言葉の中には、いかなるものにもさまたげられない大道を歩む真実信心の人の生き方が示されています。そこに立ってはじめて迷信や俗信からときはなたれると言えましょう。

【生きることの意味−現代の人間と宗教− 石田慶和 本願寺出版社電子書籍版)より】


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突然、なにかの不幸が自分に降りかかってきた時、「何かにすがりたい!」という思いが生じるのは分かる気がします。ここでは、そういった迷信、俗信からの離脱は、(阿弥陀さまによって)真実信心を確立させられることによって成しえる、といわれています。つまり、(私が)南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされると、自ずと迷信や俗信の呪縛から解き放たれるということです。

話は変わりますが、今まであまり意識していませんでしたが、自分のこの身体も借りものである、という思いがここ最近強くなっています。だから、どうこうではありませんが(笑)。財産(個人的に何もありませんが)や名誉だけでなく、自分の身体ともしばらくの縁です。


我人生、悔いなし

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2018-09-01

摂取不捨の利益 摂取不捨の利益のブックマークコメント

 本願の名号の大悲心によって 、〈出離の縁有ること無き身〉と知らされ 、自我のはからいが絶対的に否定されるところにおいて 、そういう者をこそ助けんとする無碍の大悲心は 、煩悩具足の凡心に届いて信心となり 、真実主体となりたもうのである 。これを 〈摂取不捨の利益〉という。

 摂取不捨の基本的な事態は 、阿弥陀仏は 、阿弥陀仏ではないもろもろの存在 (私)と一瞬たりとも離れない不可分不可同な原関係である 。これは万人 (万物)に共通な真実である 。阿弥陀仏は 、今ここの場所となって私たち全てを根底的に置いており 、私たちと不可分の関係となっている 。

 しかるに 、幸いなるこの原関係に私たちが無条件におかれているにも拘わらず 、私たちはそれに気がつかず 、それを無視して生きている 。

 そういう私たちが縁あって仏法にであい 、縁熟して 、尊く有難いこの原関係に気がつく時 、阿弥陀仏の功徳が私たちに活性化し 、私たちの無上の利益となる 。

真宗教学の諸問題 土井紀明 響流選書より】


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南無阿弥陀仏のはたらきの中で生かされている状況下において、そのはたらきに気付かされるか否か、ということはとても重要です。腹ペコ状態でありながら、目の前にある美味しい料理に手を付けない人っているでしょうか。気付かないって本当に勿体ないことです。蓮如上人は次のように仰っています。「宝の山に入って生活しているにもかかわらず、その宝物に気付かずに生活することは本当に勿体ないことですよ」と・・・。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2018-08-26

「生きること」について考える 「生きること」について考えるのブックマークコメント

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 私の日課のひとつは、「生きること」について考えることです。周りからは、かなり馬鹿をしている親父(オヤジ)といわれていますが、心の内は違います(笑)。ここ最近は、今まで以上に、「生きること」について考えています。蓮如上人のお言葉(御文章 第十六通 白骨の御文:現代語訳)が心に響きます。


『さて、人間の定まりのない有り様をつくづく考えてみますと、およそはかないものとは、この世の始中終、まぼろしのごとき一生涯であります。人が一万歳生きたとは、いまだかつて聞いたことがありません。一生は過ぎやすいものです。末世の今にいたっては、いったい誰が百年の命を保ち得ましょうか。我がさき、人がさき、今日とも知らず、明日とも知らず、人に遅れ、人に先立ち、根もとに雫がしたたるよりも、葉先の露が散りゆくよりも繁く、日々老少定まることなく、人は死んでいくものと言われています。それゆえ、朝には紅いの血気盛んな顔色であっても、夕には白骨となる身であります。今にも無常の風が吹いたならば、二つの眼はたちまちに閉じ、一つの息は永遠に途絶えてしまいます。紅顔もはかなく変り、桃李のような美しいすがたも失われてしまうのです。そのようなときには、家族親族が集まって歎き悲しんでもまったく何の甲斐もありません。そのままにもしておかれないと、野辺に送り火葬して、夜半の煙となってしまえば、ただ白骨が残るばかりです。あわれといってもなお十分ではありません。人間のはかないことは、老少定まりのないこの世界のならいです。ですから、どの人もはやく後生の一大事をこころにとどめ、阿弥陀仏を深くおたのみ申し上げて、念仏するのがよいでしょう。あなかしこ、あなかしこ。』


『私の生死問題の解決』なくして、人として生まれ、生きている意味はありません。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏


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2018-08-24

真実の宗教とは(2) 真実の宗教とは(2)のブックマークコメント

科学の進歩にもかかわらず 、現実の生活には予測の不可能な部分がなお多くあり 、交通事故を初めとする多くの事故や災難 、経済的変動 、現代の医学では治療の困難な病気等 、私たちの生活はやはり 「一寸先は闇 」と言われる面をもっています 。そうした危機的な状況がたまたま起こると 、日頃合理的な判断をしている人も 、一転して不合理な態度をとります 。攘災招福という現実的な関心の下に神々に祈り 、その加護を求めたりするのです 。その態度そのものを誤りということはできません 。そうした対応もやはり広い意味で宗教的対応と言うこともできましょう 。しかし大抵の場合 、危機的な状況が終ると日常へ帰ってしまいます 。 「もとのもくあみ 」となるのです 。このような対応を真の宗教的対応と言うことはできません 。またそうした 「苦しいときの神だのみ 」に金銭などによって応ずるものも 、真の宗教とは言えないのです 。それではどのような場合が真の宗教的な態度なのか 。それは先にも言ったように私たちが危機的な状況に直面し 、そこに人間存在そのものの在り方 、日常生活においてはかくれていた有限な在り方があらわになるとき 、その自らの有限性を直視してそこから脱却しようとする 、そのことにおいて人間は初めて宗教的な場にあるのです 。そしてそうした人間の有限性の自覚を導き 、それをきっかけとして新しい覚醒への道を教えるのが真実の宗教なのです

【生きることの意味−現代の人間と宗教− 石田慶和 本願寺出版社電子書籍版)より】


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ここでは、「真実の宗教の定義」について述べています。いうならば、ごまんとある宗教の中で、どういう宗教が本当の宗教として成立するのか、ということです。

回答として、

「人間の有限性の自覚を導き 、それをきっかけとして新しい覚醒への道を教える宗教」真実の宗教である、とあります。

このことを、「浄土真宗の教え」に当てはめてみますと、いかがでしょうか?

浄土真宗 中興の祖である蓮如上人のお言葉(御文章 白骨の章)に注目できます。その一部(御文章 白骨の章より)を抜粋致します。

『人間のはかなきことは、老少不定のさかいなれば、誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり』

蓮如上人のこのお言葉から鑑みますと、「浄土真宗の教え」は、ここでいわれている「真実の宗教の定義」に合致している、といえます。

あとは、

その教えに理屈なしに頷けるか否か、ということが非常に重要になってきます。そこに、人として生まれた生死問題の解決があります。本来ですと、敷衍して検証していくべきとても重要な内容ですが、簡単にまとめさせて頂きました。

おかげさまで  今日も  南無阿弥陀仏



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2018-08-19

そのかごを水につけよ、我がみをば法にひてておくべき そのかごを水につけよ、我がみをば法にひてておくべきのブックマークコメント

「そのかごを水につけよ、我がみをば法にひてておくべき」

               (蓮如上人後一代記聞書)


 これは五百年も前のことですが、ある人が蓮如上人に自分の心を素直に告白して言いました。「仏様のお話を聞かせていただき、その場では有り難く尊いものであると思っていても、何日か経つと、まるで籠からすくった水がぼたぼた落ちるかのように、仏法の有り難さも忘れて、元の状態に戻ってしまいます。どうすればいいのでしょうか。」

そう言われた問いに対して、蓮如上人は「そのかごを水につけて、我が身を仏法に浸しておきなさい」とお答えになりました。つまり、籠に水を入れようとするのではなく、籠自体を水に浸しておくかのように、自分自身を常に仏法に浸しておけばいいのですと、おっしゃったのでした。

【浄土真宗本願寺派 立徳寺 法話より】

http://www.ryuutokuji.com/blog/2014/10/post-63.php


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妙好人おその 編

「そのかごを水につけよ、我がみをば法にひてておくべき」という蓮如上人のお言葉

を、妙好人おそのさんの「団子汁の譬え」に置き換えてみますと以下のようになります。

「団子(わたし)をグツグツ煮立ったお鍋の中に入れておきなさい」

グツグツ煮えたぐった熱湯の中にある団子は、嫌でも、いずれ煮え上がり鍋の上へ浮いて来ます。団子といいましても、大きい団子、小さい団子、団子の素材等バラバラです。時間差はあれでも、いずれ鍋の上に浮き上がってきます。時間の問題です。

南無阿弥陀仏のはたらきの中で生きている我々も同様です。私は無宗教といっている人、キリスト教を信じている人、お金稼ぎに夢中になっている人など様々です。時間差はありますが、いずれ鍋の上に浮かび上がります。それは、常に、南無阿弥陀仏のはたらきに包まれて生活しているからです。そのはたらきに気付くか否か。時間の問題ではありますが、それは、今に越したことにはありません。


団子汁の談合(妙好人 おその)

http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20100815



●手品師 編

「そのかごを水につけよ、我がみをば法にひてておくべき」という蓮如上人のお言葉

を、私の切り口からいいますと以下のようになります。

以前の話になりますが、「恋するフォーチュンクッキー」というAKB48の曲が流行りました。当時、AKB48のファンであった娘とのテレビチャンネル権争いに負けて、四六時中、その曲を聴かされる状況が続きました。当初は「耳障りだなぁ〜」と鬱陶しかったのですが、ある時、「フォーチュンクッキ〜♪♫」とメロディーを口ずさむ自分に気付いてハッとしたことがありました。何故か刷り込まれていたのでした(笑)。なんか似てますね〜。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



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miko415miko415 2018/08/20 06:51
「手品師 編」の譬え、面白くて、分かりやすいです。                
ひとえに○○○ちゃんのおかげ?ですね。(笑)

手品師手品師 2018/08/20 15:06 ニヤリ^_^