手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

私の口から出るお念仏

 南無阿弥陀仏は、如来のお名前でもあります。阿弥陀仏は、私たち人間の世界にどのように表われたもうのかというと、それは「南無阿弥陀仏」として自己を表現されているのです。その意味からすれば、名号とは、如来自己実現の世界であるといってよいでしょう。
 ところが、私たちの世界では、すべての事物には名前がつけられています。しかし、私たちの世界での名前は事物の呼称であっても、名前は名の指し示す物の働きをしません。たとえば水といっても、水という言葉は、喉を潤し渇きをいやす働きをしませんし、火という言葉も、物を焼く働きはしません。すなわち、名と、名の示す物の働きとは別であります。これに対して「南無阿弥陀仏」の如来のお名前は、如来自己実現であるのですから、名前において智慧と慈悲の活動がなされているのであります。
 私たちの世界での名前と、如来の名号とは、いったい、どこがどのように違うのでしょうか。この問題について、中国の曇鸞大師の師であった僧肇(そうじょう)(三七四〜四一四)に『肇論』という書物があります。この書物のなかに、世間の名前と如来の名前の違いが述べられています。それによりますと、この世間の名前は、物が先にできて、その物に名前がついています。ところが如来の名前は、この世間の者の名前とは逆に、名前が如来より先行しているというのです。
 いまこの『肇論』の説に依って、南無阿弥陀仏如来の名号をうかがいますのに、「もし、われ仏になれば、南無阿弥陀仏という名の仏になりたい。そしてわずか六字のそのなかに、自己の積んだ徳(智慧・慈悲)の全体を投含して、衆生に渡していかれるような名の仏になりたい」と。そして名前が名前のごとく完成したとき、法蔵菩薩阿弥陀仏となられたのです。
 ですから南無阿弥陀仏とは、如来の徳の全体であり、それはそのまま如来自身といってもよく、徳はまた活動ですから、智慧と慈悲の活動が常になされているのです。衆生をして信ぜしめ、念仏せしめて、必ず往生成仏せしめる活動が無限に続けられているのが南無阿弥陀仏です。ですから、私たちは、仏を遠くに探し求める必要はありません。現に私に至り届いていてくださるのです。
 それでは、どこにその如来のまします証拠があるのでしょうか。それは現に、私の口から「南無阿弥陀仏」とお念仏が出るではありませんか。お念仏のおの字は、敬語です。自分でする行為に敬語をつけるものはいません。念仏に敬語をつけて、お念仏といっても人は笑いません。なぜなら、念仏は私が称えるのでなく、如来が私の口を通して「南無阿弥陀仏」と出ていてくださるからなのです。
真宗Ⅰ 三年次 学習課程 中央仏教学院 通信教育テキスト P41~P44より】



南無阿弥陀仏
躍動に満ち溢れています。
計り知れないお働きが漲っています。





ゴダイゴ
GODIEGOゴダイゴ)は1975年に結成し、人気を集めたバンド。日本のプログレッシブロックバンドの草分け的存在。1970年代後半から1980年代前半にかけて、立て続けにヒット曲を世に送り出した。(ウィキペディアフリー百科事典より)