手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

真実を覆い隠す蓋

 阿弥陀仏の願いに出遇いながら、それを自分のことでないように横に置いておき、さとりを求める心をどのようにおこしたらいいだろうか、浄土に生まれるにはどのように行いを清く正しくしたらいいだろうかなどと考えることは、悲しむべき自力の執着心であり、かえって仏の願いを聞こえにくくしてしまいます。
 自力へのこだわりは、常識に沿って納得しようとする私の思いによって、真実をおおいかくす蓋となってしまいます。それが、仏の願いを受け取るジャマをしてしまうのです。
 阿弥陀仏の願いは、この私を離れては存在はしません。私が念じる、念じないによって変わるようなものでもありません。
 私の日常は、「ものぐさく懈怠(けたい)ならんときは」、となえることもしないまま、夜が明けるまで時を過ごしたり、日の暮れるまで時間を過ごしたりしてしまいます。それでも、「他力の信心、本願に乗りゐなば」、他力の信心という乗り物に乗せられ、本願におまかせするところに、間違いのない人生を歩むことができるのです。
 それを善導大師は、「阿弥陀仏というのは、衆生が浄土に往生する行である」とお示しになられました。阿弥陀仏は私の一切を飲み込み、あるがままを認め、そのまま救われていく教えてとして、完成されたものなのです。
【『安心決定鈔』を読む 佐々木 隆晃 大法輪閤 P166、P167より】



南無阿弥陀仏のはたらきは私の常識を超越しています。ですので、私の常識というものさしで、どれだけ推し計っても推し計れるものではありません。
つまり、私の常識にどれだけ固執しても進展はない、ということです。ここでは、私の思いを「真実を覆い隠す蓋」といわれています。
南無阿弥陀仏のはたらきの中で生かされている状況下において、私の思いという蓋は必要ありません。このいま、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かせていただくことが大事になってきます。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏