手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

理屈なしに南無阿弥陀仏

 弥陀は南無阿弥陀仏、これ一つを与えることを以て地金(じがね)としていられます。「廻向を首(しゅ)とする」とはこのお示しです。与えることを地金とされ給う弥陀は、いまわけへだてなく救うことを告げ給うています。私たちはこの無碍光(むげこう)のいわれ(義)を聞くところに、お助けにあずかるのです。本願の尊さに満足して、これはこれはと大安心するばかりです。すべての計らい心はおのずからすたるのです。ほんとに手がはなれてすたるのです。この広大な仏恩を心に感ずるとき、南無阿弥陀仏と声にあらわれて下さいます。
 このお与えの南無阿弥陀仏は、頂くけいこをしてもらうのではありません。かためるけいこをすることでもありません。念を押すこともいりません。たしかめることもいりません。お与え下さるものです。聞こえて下さるものです。私としては耳傾けて聞きますから、聞えたまま、私の上に来て下さるのです。与えられるのですから、このままときばるのではありません。助かると思うから助かるのではありません。事実、無碍摂取(むげせっしゅ)の弥陀の救いのはたらきに助けられるのです。
【名号不思議の信心 加茂仰順 百華苑 P49,P50より】



タイトルを「理屈なしに南無阿弥陀仏」としました。
そうなればしめたものです(笑)。「南無阿弥陀仏」と、自然に私の口からこぼれだすことは尊いことです。阿弥陀さまのなせる業(わざ)です。
妙好人の)才市さんは、「聞いて助かるじゃない 助けてあるをいただくばかり」とうまく表現されました。その言葉に、わたしの計らいは1ミリもありません。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏