大峯 顕 先生との最初の出遇いは、ふと立ち寄った本屋の書籍コーナーでした。先生の文章を読んだとき、ビビビッときました(笑)。その出遇いがきっかけとなり、今なお、私の南無阿弥陀仏生活において大きな刺激となっています。南無阿弥陀仏のはたらきを独特の詩的表現で織りなす文章は素晴らしい、と思います。私の母も感銘を受けたひとりです。
先生が存命中、実際お会いする機会がありました。六角会館(京都市)と願教寺:2回(盛岡市)です。3回しかお会いしたことはありませんでしたが、私にとって忘れられない先生です。気さくでお洒落な先生でした。先生の「言葉は語る」という言葉は今なお私の心に深く刻まれています。
言葉といいましても本質のところは、その言葉に込められた、はたらきといいますか、意味合いを受け取ってはじめて言葉本来の意味をなすのではないでしょうか。
私としましては、「言葉の力」と銘打って南無阿弥陀仏のことを伝えていければと思っています。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏
人生百年時代
周りから、マジックバカといわれている私です(笑)。
結局のところ、「私が生きること」についてクリアにならなければ、本当の安らぎはない、と思っています。昨今、人生百年時代といわれていますが、皆さんはどう生きますか?
刹那主義的生活になってはいないでしょうか。
他力本願
たとえば、善根功徳(ぜんごんくどく)を積むこと、修行に励むこと、数多く念仏に勤しむことなどが問題とされるようになっていった。本来ならば、極楽に生まれさせることを手段として、無上涅槃という目的を実現させようとする。これが阿弥陀如来の本願であるから、極楽への往生は阿弥陀如来の側の願いであって、私たち人間の側の努力によって実現するわけではない。これが他力本願ということの本質である。
他力本願ということが世間では誤解され、何の努力もしないで、「果報は寝て待て」という意味に用いられるのがつねである。言うまでもなく、そういう意味ではない。阿弥陀如来の側から私たちにかけられている願いが本願であるから、それは他力である。他力本願と称する所以である。
【親鸞が出遇った釈尊 浄土思想の正意 小川一乗 真宗文庫より】
ここでもありますように、
世間一般的に『他力本願』という言葉が誤用されています。「果報は寝て待て」とか「棚から牡丹餅」的な意味ではありません。仏教用語ですので、それに従うべきです。
WikiArc(他力)より
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BB%96%E5%8A%9B
他力=阿弥陀仏の本願力(手品師ブログ)
http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20141026#p1