with the Uncertainty Principle このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2011-12-29

はてなブログ

始めてみた。いずれメインにするのだろうか?今はまだ決まらない。

http://tashin.hatenablog.com/

2011-11-08

我流「バランス」考

ワーク・ライフ・バランス。

バランスと言う名の何かなのだが、何をどうバランスするのか、今ひとつはっきりしない。

オフィシャルとプライベート、オンとオフ、などと切り替え論をよく耳にするのだが、そんなに綺麗に切り分けられるものなのだろうか?

ワークとてライフの一部としてバランスするものであって、オン/オフという見方は馴染まないと思う。そして、そう思う人は僕だけではない。

さりとて、朝から晩までこなしてるだけの仕事をこなすような生き方は、バランスの悪いものだと思う。

つまりは、どんな小さな事でも創造的に思考するのであれば、それはワークというライフの一部をバランスしているのではないかと思う。

と、訳の解らないことを書いた所で「バランス」という単語について考えてみようと思う。

balance

名詞】天秤、釣り合い/均衡/差し引き残高…

動詞】平衡を保たせる/釣り合わせる/比較する

(研究社 新英和中辞典)

ここで「平衡」という言葉に注目してみたい。

平衡

(1)物の釣り合いがとれていること。変化すること無く安定に存在していること。

(2)力が釣り合っている状態。力学的平衡。

(3)系のエネルギーが変化しない状態。熱平衡。

(三省堂 大辞林)

と説明されているのだが、どうしても物のことを第一に想像してしまうのは、自分想像力の貧困を痛感させられる。

しかし(3)には「熱平衡」という説明がある。熱平衡は「動的平衡」(見かけは状態が変化してないが相互に逆向きのエネルギーの流れが釣り合っている状態)であるらしく、実は常に動いている

ワーク・ライフ・バランス。

動的平衡だと思えば、ライフの中にあるワークは、オフと言われるものの中を還流してオンに達して、またオフ還流していく、と見てもさほど大きな齟齬はないであろう。

それが綺麗にバランスしているように見えるのが理想状態だと定義すれば、綺麗に切り分けてしまうことは意味を失って、ワークとライフは相互作用を果てしなく昇華して、ひとつに融け合ってしまうのではないだろうか?

何となくそこそこ綺麗にまとまった気がするので、よしとしよう。

2011-07-08

個人力

こんな記事を読んだ。

群れから新発想は生まれない、個人の力を磨こう

集合知、という言葉があるが、どうもその使われ方に疑問を覚えるときがある。という訳で、いつものWikipediaに頼ってみることにする。


さて、「集合知」をGoogle先生に問うてみれば、「集団的知性」が最上位に現れる。これを基準としよう。そこには、

集団的知性

多くの個人の協力と競争の中から、その集団自体に知能、精神存在するかのように見える知性である

と書かれている。この文章を読んで、自分の抱いていた違和感を現す部分が「多くの個人」であると感じた。つまり、「集合知」という言葉を使うからには、「多く」の個人が関与する必要があるだろう。さて、この冒頭の説明の後半に、次のような記述がある。

Atlee は集団的知性を「集団思考集団浅慮)や個人の認知バイアスに打ち勝って集団が協調し、より高い知的能力を発揮するため」のものと主張している。

集団思考集団浅慮)」って何だ? 浅慮などと不穏当な言葉が現れるということは、「集団」と「知」を結ぶに際して、注意すべき点があるということだろう。リンクをたどって、Wikipediaに訊いてみる。


集団思考

集団思考(しゅうだんしこう、英: groupthink)とは集団で合議を行う場合に不合理あるいは危険な意思決定が容認されること。集団浅慮と訳されることもある。

なるほど。つまりは集団であることが間違った方向に意思を向かわせることがある、と。そしてこのページの下部に、「欠陥のある決定の兆候」がある。

  1. 代替案を充分に精査しない
  2. 目標を充分に精査しない
  3. 採用しようとしている選択肢危険性を検討しない
  4. いったん否定された代替案は再検討しない
  5. 情報をよく探さない
  6. 手元にある情報の取捨選択に偏向がある(Selective Bias in Processing Information at Hand)
  7. 非常事態対応する計画を策定できない

うーむ…。気になっていた点に符合するような気が…。最初に見た「群れから新発想は生まれない、個人の力を磨こう」の記事を読んで共感した部分と、「集団思考」で指摘されている部分は、共通点があると感じられる。

プロジェクトマネジメントの観点で考えれば、通常、目標は精査するだろうな。同じく、計画に関しても大丈夫だろう。だが、情報アイデア(案)に関する部分は、どれだけ自分を疑うか、にかかっているように思われる。ま、情報をよく探さない、のはあまり人のことを言えないのだが…。いずれにしても、「集合知」を謳うなら、かなりの人数を考慮に入れて初めて面を上げられる程度の謙虚さを持ちたいと感じた。

日頃から思うのは、研究エンジニアリングは「非常識からの発想も重要であると、感じる点。エジソンは(きっと)奇人だったろうし、アインシュタインとて同様だろう。今知っていることに基づいて考えても、知らないことは理解できないのであって、「非常識」に基づく発想は、その知らないことにアプローチしている可能性を持つ。だから説明を上手にするのはとても大事なことなのですね。

さてさて、個人力を高めるべく皆日々研鑽を積むわけであるし、但し「自分のフィールド」を決め過ぎないようすべきだろうし、自分がしばらく前に記憶したことも疑うべきであろう。そうやって、開き直りでも何でもいいので、明日自分今日とは違う新しい自分、として生きていければ「個人力」を高めるには有益なことだろうと思う。ひとりの人間がそのひとつの頭の中で連関させた多様な知識が、常識を疑う非常識を生み出し、それが新しい理論として実証されるのであれば、そこに新しい理論が成り立つのであるから


から、「非常識バンザイでいいと思うのです。


それから、この「群れから新発想は生まれない、個人の力を磨こう」を書いている方。科学の知見を人という集団になぞらえて、そのアナロジーを持って社会を理解しているのだろうか。その手の理解の仕方は好きな方だ。一見関係ないように思えることも、アナロジーの捉え方によっては、社会を表現していることがあってもいい。きっといろんなものが根っこの部分で繋がっていて、その筋を垣間見人達が居るんじゃないかと思う。そんな風にいろいろな物事から、身近なものに対して今までにない気づきを得ることができれば、明日やってくる新しい自分は思わぬ向きへ進んでいくという、とても楽しいからない未来へと行き着くことができるんだろうなー、と思いましたとさ。最後はとても抽象的で謎なまま終わるのです。(笑)

2011-06-24

自知者明+言語

およそ生き物というものは、感覚器官というセンサーで外界の変化を信号として取り込み、神経を通じて脳で信号をより分けつつ情報として捉え直して生きている。特に人間は、情報意味を与えることで、他の動物よりも高い社会性を獲得できたのだろう。

(という、信号情報意味の三階層モデルは、以前、原島先生の講演でお聞きしたもので、ただ、出展が原島先生かどうか定かには記憶していない)


言葉」というものは空気を震わせ、鼓膜を震わし、その信号を神経により脳に送って、その意味を得る。「言葉」は人間にとって、社会を成していくのに必須の要素なのだと思う。


さて、先だってから言葉」というものについていくつか考えたことがあるので、それをまとめてみようと思う。


ツイッターでこんなことを述べた。

例え誰かに言われた事がきっかけで何かを感じ始めたとしても、それは当人が勝手に感じる事で、自己責任だ。ただ、人は全てをコントロールできる訳でもない。その責任を果たすために言葉を使って意思を疎通させることは大事な事だ。決して言葉なしで成せる訳でも、言葉だけで成せる訳でもない。

また、こんなことも述べた。

認識の転換にはやはり言語化が有効である。無言より音声言語が意外にいい。あとで文字言語に落とし込むとなおいい。文字からではない気がする。段階的に思考を制約して自由変数を減らすことで、新たな認識が明確になる。って、実はこれは補助関数法による制約付き最適化だったのか?!(笑)


言葉には音声と文字と、更には身振り手振り表情といったノンバーバル(nonverbal;「言葉を用いない」の意)がある。専門的には、イントネーションリズム、ポーズ、声質といった言語の周辺的側面を示す「パラ言語」というもの存在する。

パラ言語


人は音声言語をまず獲得し、それよりもずっとずっとあとの今から数千年前に文字言語を獲得したという。


「思い」を言葉に表すことを考えてみよう。

思いの中には、言葉にしづらい部分も存在する。そのしづらさがあろうとも、作家さんはその素晴らしい言語能力でかなりの部分を言葉にしてくれる。とはいえ、これは余談。

音声言語は「パラ言語」も併せて、表現バリエーションが豊かである。つまり、「思い」の中のどれだけの部分を削ぎ落として言葉とするか。その度合はさほど大きくないと言える(「さほど」と曖昧言葉を使うのは、定量的な評価が非常に難しいところだから)。

一方、文字言語というものがある。今この文章を書いているのもそれだ。文字にすると「パラ言語」「nonverbal」全て削ぎ落とされてしまう。然るに、削ぎ落としの度合いはかなり大きなものであると言えよう。


人が認識するものは、直接会って話をしていればパラ言語やnonverbalも含めた多彩な情報を以て、認識されることとなる。翻って、直接会ってで無い場合、昨今ではSNSチャットといった文字を基本においたコミュニケーション手段が多く用いられていることだろう。つまり、かなりの情報が落とされた手段でしか、やり取りが行われないことを示している。


では、情報が削ぎ落とされてしまうことは悪いことなのか?


もちろん、一面的には悪いことであろう。しかしながら、「シンプル」にすることは「本質」を突くためにとても重要なことだと思い返せば、良い面があることはすぐに気がつくであろう。


から、何かの思いを文字まで落としこむこと自体は、かなり「いいこと」なのだ。


されど、

いきなり文字で始めてしまっていいかというと、そうではないと思う。

自分が感じたことを意思疎通するために言葉を使う。またそして、己との意思疎通のためにも言葉を使う。

「考える」という行為は頭の中で何らかの言語を用いて行われるだろう。しかし、全て「無言の言葉」で考えられている訳はない。必ず「言葉にしづらい」部分は存在するからだ。そういった部分も無言のままならば、「思い」そのもの認識されて意味を感じていると思う。

それを音声という言葉に直していくと、「思い」そのものの部分は言葉にならずはたと困ることとなる。その困ったもの重要であるかないかは、言葉にならずとも当人には解っている。重要であれば、何とかして言葉にする「言語努力」を必要とするだろう。

このとき、「思い」から「音声」へと変換が行われるのだが、この変換には何らかの削ぎ落としが含まれてしまう。

だが、真剣に考えて「これは本質を突いた!」と思えるような言葉出会えれば、その削ぎ落としは有効に働いて、残ったもの価値は高まる可能性すらある。

更には、音声だったものを文字に直すこともでき、文字言語への変換においても、同様の削ぎ落としが発生する。

から、思いから音声へ、音声言語から文字言語へと変換を重ねることで、認識が明確になる。そして思い自体は自分が感じたこと。自らの責任において、言葉を使って思いを表し、自らに対しては認識を明確にし、友人たちとは意志を疎通させる。


老子の一節に「自知者明」というものがある。

自知者明

明というのは、智よりも深い洞察力があること、らしい。


思いを言葉に直すとき、音声を経て文字と変換してみたことがある。すると、いきなり文字に落としこむよりもやりやすかった。これは「削ぎ落とし」を段階的に行うことで、ゆるく本質を突いていったのだろうと思う。


先に述べたが、言葉に直すことは自らの認識を明確にする効果がある。これは「己を知る」ことの手助けであり「明」である自分に近づく一歩であろう。

そして、明確になった認識は、新たな自分発見し、新たな思いを生み、その思いはいずれ言葉によって自らの認識に役立つことがあろう。

こうやって、言葉にすることが己を知るための一助となり、また思いと言葉の連環が連鎖して、己を知る上昇気流に乗っていける。


日頃からそんな風に在りたい。

2011-06-02

「妙」が両義的?

「妙」という文字が気になったので、調べてみた。

みょう

(1)非常にすぐれていること。なみはずれてすばらしいこと。また、そのさま。

(2)普通と違っていて変なこと。不思議なこと。また、そのさま。

絶妙ともいうし、奇妙ともいう。上述の意味において、いずれも「何かから外れている」さま、を示している。

僕の「妙」に対する感覚としては「すっぽりハマっている」感じもある。これは"絶妙"の語感から来ているものと思う。

「並から外れる」ことは、「優れて」いたり「変だ」ったり、いずれ劣らず統計的平均から大きく離れた Outlier であることを示す。シックスシグマの外側かな。そういう感覚は、スポットに入った感覚の時にも得られる感じがするのは、僕だけではないと信じているが、何の裏付けもないので妄想かもしれない。

ともあれ。

両義的な点が確認できて良い勉強になった。今後はもっと意識的に使えるようになりそうだ。

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