文章を書こう!

文章を書くことの何が楽しいのかを語ってみたいと思います! このエントリであなたの文章に対する気持ちが少しでも前向きになればいいな。


まず始めに、僕がどうして文章を書いているのかを思い出してみたいと思います。

僕は中学生のころにインターネットなどにハマって、その中で文章による表現というものに慣れてきました。小学生のころ作文が苦手で、どうしても原稿用紙が埋められなかった僕が、中学生の無駄に高まる自意識とともに、はみ出るほどの文章を書き始めました。

文章に親しみ始めると自然と小説を読むようになりました。そうすると自然と国語の成績も上がってくるのかと思いきや、僕は漢字がとても苦手なのでいつも八割くらいの点数しか取れませんでした。とはいえ英語ではいつも三割位の点数しか取れなかったので、よいバランスだと思います。

たぶんどうして文章を書くのかということを考えずに書き始めたのだと思います。そして、僕は出される文章課題のすべてをいつも同じ調子で書きました。文章によって調子を変えなくてはいけないということを思う人がどれほどいるのか知りませんが、どんなところでも同じようなことを言ってはいけないというのは、皆さん共通の認識だと思います。酒の席では言ってもいいことだって、それ以外では問題になるように。

これは僕の文章に対する姿勢というよりは、表現や生き方に対する状態なのだと思います。僕は自分の顔をうまく使い分けることができません。昔から好きなように生きてきたので、そういったことが分からないのかもしれないし、逆に自分で自分を抑圧しすぎた結果なのかもしれません。


文章を書くことの何が楽しいのか。

こうやって文章の楽しさを伝えようとキーボードをたたいている瞬間に僕の考えていることは、文章なんておもしろくもなんともないってことです。

文章を作ることよりも楽しいことは世の中にたくさんあります。と言うよりも、文章を作るというのはさほど楽しいことではありません。いつも、どうやって書けばいいのかってことを意識しながら書かなくてはならないから、伝えたいことなんて二の次になるんですね。とにかく文章をこうやって、こうやって、繋げていくことしかできない。まったく楽しくない。

文章の楽しさって流れるようなリズムにそのひとつがあると思います。文、文章のつながりが、それがだんだんと積み重なって、波紋のように広がっていく感覚ですね。文脈という言葉がありますが、文脈がしっかりしていない、フラフラしている文章はおもしろくない。

だから僕は村上春樹を読んでも、その文章の楽しさには感動するけれど、たぶん内容については何も分かっていないと思います。だいたい、小説なりフィクションを鑑賞するときに理解がどうとか持ち出すのはバカらしいことだとも思いますね。それはごく個人的なことなので、他人の作品を理解するとかしないとかっていうのは、つまり他人との優越感ゲームに他ならないわけです。バカバカしいですね。

さて、そういったわけですから文章というものは自由に書くことができるわけですが、決して書いている自分は自由じゃない。僕が文章を楽しいと思うのは自由だからじゃなくて、単純にその作業が好きなのと、自分の考え方が目の前に現れるということからです。

ようは、話せば楽になれる、の文章版です。書けば楽になれるというのは心理療法でもよくある(とかよく知りもしないのに憶測でものを書くのは恥ずかしいことだと思います)。

たとえば、僕は今悩んでいる、ということを書けば、何を悩んでいるかということにフォーカスを移すことができる。頭の中だけで考えていると、今悩んでいる、これこれこんなことがあったから、だから僕は今悩んでいる、これこれこういうことが……、というような無限のループに陥ってしまいます。

しかしそれを、僕は今悩んでいる、から、仕事ができないことについて悩んでいる、という具体的な言葉にして表現することで、本当に自分が「仕事ができないこと」を悩んでいるのかもう一度考えることができます。仕事ではない、これはきっと自尊心の問題だ、とか、新人なんだから仕事できなくて当たり前じゃんプギャー、とか。

僕の場合はもっぱらそれが自分を慰める方向に向かって、それがたぶん僕にとっての文章の楽しさなんだと思います。自分が考えていることを分解していく感じがするんですね。もちろんそれはただの錯覚で、言葉で連想ゲームをしているだけなのですが、その連想ゲームの中に自分の気に入った文章が現れると、とたんにうれしい気持ちになれたり、やる気がみなぎってきたりする。

そんなわけで、僕は文章を書くことが好きなんです。そして楽しい。


ブログとか書かないの? って人に聞いてみると、だいたい興味ないってそっけない言葉が返ってきます。でも、何かを表現したいって飢えている人の中には、どうやって文章を書いたらいいか分からないから書けないって言う人もいます。

文章を書くのは難しくないというのは、小学校時代の自分自身を否定するような言葉なので言いたくありません。また、文章を書くことが難しいのは本当のことなので、簡単だなんて口が裂けても言えませんというか口が裂けたら痛くて喋る気にはむしろなれない。

誰でも喋ることができるのだから、文章を書くこともできるということについて、多くの文章を書くプロの人が否定していますが、それは喋る言葉と書く言葉の違いに焦点が当たった反論です。僕はむしろ、誰でも喋ることができるのだから、という前提がそもそもおかしいのだと思います。誰でも喋ることができるという意味で言えば、日本人は、誰でも書くことができるんですね。日本人の識字率の高さというのはすごいとよく耳にすることです。

僕は人と気軽に会話することができません。たぶんここに書いた文章だけですでに僕がこの一週間に喋った言葉よりも多いです。だから文章を書くことなんて、やっぱり喋ることと同じなのかもしれないって思います。どんな状況で喋れないのか、または書けないのかってことです。

文章が書けないという人でも、大学のレポート課題なんかでは無理やりにでも文章を作らなくちゃいけない。そのような機会は大学に限らず小学校中学校高校とあったと思うのですが、ようはその調子で文章を書けばよいということですね。たぶん、多くの文章を書くのがつらいって言う人に共通していることは、どこに向かって書けばいいか分からないってことです。レポート課題なら、とりあえずその学問に向かってか、あるいはその先生に向かって書けばいいので、書くことができる。でも個人的なブログなんかでは、誰に向かって、何に向かって書けばいいか分からなくなる。

僕がいつも向かっているのは自分自身で、今文章を作っている作業を自分の文章を読みながらその検査をしている自分自身に僕は語りかけています。今書いていることは本当のことなのかとか、どこかで聞いた話だなとか、心にもないこと言いやがってとか、そういうことを思いながら文章を書いています。とか言いながら本当は文章の最後を「ます」にするかとか「です」にするかとか、いっそ言い切ってしまうかとかそういうことしか考えていません。不自然でない文章を書くのに精一杯です。

さて、そういったわけなので文章を書けないという人は、せひ独り言を言うような感じで書いてみるといいと思います。誰が読むとも思わないで、自由に書けばいいんですね。ちんことかまんことかスジとか書いておけば文章はより格調高いものになるでしょう。ファック!


分裂と文章について。

たぶん僕は僕の書く文章が好きです。どんなところが好きかと言うと、さっき書いていたことと違うことを書いている自分を見ることができることです。僕は女が大好きだってことを書いていたその次の瞬間には女への恨みを書いていたり無関心を書いていたりします。ようは、言いようならいくらでもあるということです。

言い方、書き方ならいくらでもあるということ。それが僕の、世の中は相対的なのだという非前向きな慰めの基になっているのです。僕はバカだ、僕なんてまだマシだ、周りはみんなバカばかりだ、どうして女の子はあんなに素敵なんだろう、どうして女の子はあんなに■したくなるんだろう、あの人は嫌いだけど好きだ、新房×シャフトなんて滅べ、丸谷とは絶対友達にはなれないだろう、ベース難しいすぎる、プログラミングクソ食らえ。

ただそういった部分を楽しみたいがために書いているところがあるので、上で書いた文脈みたいなものが切れ切れになってしまうことがすごく多いです。何か一貫した主張を持って文章を書きたいと常日頃から思っているのですが、そもそも僕に一貫した主張なんてものはないのでした。


文章は手軽な趣味でもあります。そして奥深いです。その楽しさも少し分かりにくいですが、一度「自分が本当に真実に嘘偽りなく思っていること」を文章化してみるといいと思います。僕はそんなこと、怖くてできませんが、やればきっと泣けると思います。それで泣けないということは、あなたは精神が本当に健康なのか、ただのバカなんでしょう。

しまりのないしまりですが、みんな文章を書こう!