2024年2月に観た映画

王国(あるいはその家について)(’23/監督:草野なつか)
実験的手法で二時間半はちょっと勘弁してほしかった。特に定期演奏会のあだ名ウケ繰り返しはキレそうになった。
人はどんな親しい間柄でも、まるで見えないカメラや観客が存在するかのように演技しながら会話しているものだというのは、おそらくは統合失調症めいた世界観なのだが、あえてそういう芝居の稽古風景としてのセリフ読み合わせで映画を構成することで、時折挟まる定型的映画のドラマシーンのやり取りが二重の像を描いてみえてくる。ともに居る場での言葉の効果や影響がそれぞれに異なるなら、〈合言葉〉がじっさいに存在するという切なる願いにすがってしまう魔の刻というのは確かにあるかもしれない。しかしこれは何映画と呼べばいいんだろう。事件ミステリ、舞台劇映画、心理スリラー、現代人情もの… もうちょっと構成を練ってくれとは感じたが、主観と客観のズレからくる孤独な内奥というテーマは今の自分のメンタルにマッチしたのは確かなので特に不満はない。

哀れなるものたち ('23 イギリス・アメリカ・アイルランド/監督・ヨルゴス・ランティモス)
予告編で想像していたよりはるかに軽やかな作品だったが、主演のエマ・ストーンの奇矯さと気品とのありえそうにない両立をやってのけた偉業にかなりの割合でその印象は拠っているのかもしれない。トロフィーワイフの属性から遠いはずの主人公が男たちから主導権を奪っていくエピソードは、近代小説の躍動感に満ちているが、教養小説でありがちな女性の匿名化という定型は反転されており、いわばビルドゥングスロマンや恋愛小説のハックを監督はこの映画で志向したのだと思う。再生の父の欺瞞に怒り、赦したのち和解して、本を読み世界を見ることで自我を再構築した女は、みずからの楽園である屋敷の主となる。その構成員を選ぶのも当然彼女の指向の産物なのである。破綻のない見事な終幕だった。それにしても素晴らしいSFファンタジー的な美術の数々。あれが主人公からみえる世界なんですね。大作映画らしい映画を今年も観られてよかった。

2024年3月に観た映画

ボーはおそれている ('23 アメリカ/監督:アリ・アスター)

日々を送る中で予測を立てる時(こうなったらやだな)、(こうなったらパニック状態になってお手上げだろうな)と考えるにおぞましい状況が、この映画の導入でつるべ落としにやってくる。特にオートロックを自ら無効化せねばならなくなるくだりは、観ている方が泣きたくなるぐらい気の毒。であると同時に、人は打つ手に詰むと望まずとも自ら墓穴を掘るしかないのだなという描写の絶妙なバランスに苦笑というか乾いた笑いが湧いてくる。癒しハウスでは話がつうじない庇護者のもとで暮らす懊悩、オーガニックキャンプ地でのひとときの落ち着きも現実でないかもしれないという予感により、アニメで表現された神話の不穏さにやがて覆われる。そして常に襲ってくる不意の暴力。主人公は客観をなくしながらやがて資本家である母の家にたどりつき、そこで更なる世界の残酷を目の当たりにする。ラストは『おめでとう』ENDと『きもちわるい』ENDを合わせたような不条理裁判スタイル。アリ・アスターは現代のカフカだ。それにしてもこれだけ長尺なのにダレない映像をつくれる編集センス。やはり非凡な監督なのだと再確認。

 

瞳をとじて ('23 スペイン/監督:ビクトル・エリセ)

謎の失踪を起こして久しい俳優をさがすドキュメンタリーに出演する監督という、3つのレイヤー(劇映画、テレビ番組、それらを捉える本作)が入れ子として重なりあい、ほんとうのだれかに出会うのは、自らの瞼を閉じて心の中に問うしかないという永遠の孤独についての秘密があらわれてくる。何枚ドアを開けても、他者という実在に触れることは決してできない。だから人は詩をうたい、映画を撮る。うつくしい静かな時間。映画じゃない、作品という時間だった。

 

2024年2月に読んだ本

潜水鐘に乗って

試作という印象の短編が続いた後、ピントがぶれずにグリップを保った仕上がりのいくつかが後半に。『願いがかなう木』は娘にさえ老いを見せたくない母へ距離を縮めようとする繊細な心の動きが、コーンウォールの風と波の感じられる文章で語られる。『ミセス・ティボリ』は娯楽寄りの読み口となってミステリアスな老女を施設職員の目で追い、奇想の中に切実な心情が漂って味わいが強い。

2023年12月に観た映画

窓ぎわのトットちゃん('23 監督/八鍬新之介)

子供が二人、かたわれを手助けしながら木に登る。その木肌の荒くてしかしどこか親し気な手触り、陽ざしのやわらかさ。あるいは初めて大勢とプールで水遊びする時の、くぐもった音の響き方。世界へのどうしようもない壁の高さにただ立ちすくむしかないながらも、親や先生の庇護のもとで見つめることを第一の仕事とできたあのチャイルドフッドの日々。真の意味で子供の視点に立った映画がすくないことが本邦の映画の弱点だったが、ここに屹立と傑作があらわれた。大人は弱くて剛く、子供ははかなげで強靭。その二面性を示すためにホラーチックな表現が用いられているのが最も印象的。未来の自分に言い聞かすかのように駅の雑踏でセンテンスをつぶやく泰明、エゴを持たない聖職者像をみずから破壊してくる炎の目の小林。あと汲み取り便所の臭さ、汚さを覆い隠さず描いてきた覚悟に恐れ入った。(さすがの小林先生も一瞬止めようか迷っておる…)

 

RE:cycle of the PENGUINDRUM [後編]僕は君を愛してる('22 監督:幾原邦彦

前編よりも新規作画の割合がグッと高くなった印象で、映画としては断然こちらの方が面白く感じて没頭できた。終盤、主人公たちのアイコン的存在であるペンギンたちが暗い寒空のもと氷河をみつめるシーンで、ああこれは時代の方がテーマにいよいよ追いついちゃったねと。私たちはもう常に氷の時代に生きてる。息をしようともがいてる。でも答えは、常にひとつしかないんだよね。宮沢賢治が100年前に伝えようとしたみたいに。

2023年12月に読んだ本

地球にちりばめられて

国境という区切りに沿う形で規定される言語とは何なのかというのは作者のメインテーマであるわけだが、その集大成的な雰囲気を感じるシリーズ第一作。日本という国が消滅した近未来、ジェンダーや人種が様々な若者がゆるやかにチームをつくり、かつて存在した“日本人”の存在を探しに旅にでる。どこに到着する物語なのかが気になる長編。

2023年10月に読んだ本

最後の三角形

「タイムマニア」は片田舎で幽霊に導かれた少年が町の住民が複雑に絡む犯罪の謎解きをする。その過程でインフェルノを垣間見たり、同級生とのほのかな恋を経験するという一際ふしぎな味わいの一篇。グラント・ウッドの絵画を前にした時のような"のどかな無限地獄"としてのカントリー風景が脳内で浮かんでくる。表題作「最後の三角形」はミステリ仕立ての読み口、疎外という社会問題、そして徐々にあらわになるオカルト色と多層的な構造で忘れられない読後感を残す。なかでも印象を残されるのは恋愛のような関係性のあまりの幅広さ。多様性というイシューを無視できない作家としての誠実さも感じる。総じて、姉妹編『言葉人形』よりもややオポティミズム寄りでユーモアが漂う短編が多くまたロマンス要素も強め。技巧の精緻さはそのままに読みあたりはこちらの方が柔らかい。

 

寝煙草の危険

ただ自分らしく生きようとするだけで罰せられる。女性にとっての煉獄であるこの地上では、気付かぬうちに自らの失火で死ねる悲劇すら救いのある昇華行為なのかもしれない。表題作は孤独な老女の内面世界を綴ったものだが、他は集団の中で充足感と一体化した息苦しさを感じる様々な年代の女性の心象風景を感じさせる作品が多い。クイーンビーである人気者を無視できないティーンエイジャーが沼地から離れられない『湧水池の聖母』、中流階級住宅街がゾンビ群に侵食されていく様子にリアルな不安を感じる『ショッピングカート』が特に鮮烈なイメージだった。

 

天に星、地に花、人は怨 -NETFLIX『陰陽師』-

多分に伝説的な人物である安倍晴明を主人公とした夢枕獏による小説シリーズ「陰陽師」はこれまでにも沢山の映像化、漫画化が成されているが、このNETFLIXが全13話のアニメシリーズとして製作した『陰陽師』はそのなかで最も地味なルックの作品となるのではないかと思われる。しかしそれは企画の消極性を意味するのではなく、むしろメディアミックス同タイトルがいくつもある中での差別化に成功したのだと主張するのがこの記事の目的である。夢枕による小説は未読だが、おそらくは原作をも含めた安倍晴明ものの中で、等身大の人間としての晴明を描き出す点に最も狙いをフォーカスしたのがこのネトフリ版『陰陽師』だ。

たむらかずひこによる端正だが線が多くならないように調整されたバランスの取れたキャラクターデザイン。格段に華美ではないものの親近感を持ちやすく表情を豊かに付けやすいラインで描かれる本作の登場人物たちは、例外なく心の裏面である妬みや嫉み、あるいはそれを受けての心の傷を持っていると過去のエピソードやダイアローグによって示される。一見して雅やかで静謐にみえる平安時代の宮中が主な舞台となるがそこで横溢するのは表立って争いがないゆえの陰にこもった誹謗中傷であり、限られた官職をお互いに牽制しあいながら奪いあう貴族たちの閉ざされた心の冷たさ。それらのリアルな描かれ様で平安の世と新自由主義による格差が拡大しつつある現代の日本とをストレートに接続しようという基本演出が読み取れる。そしてこれまでのメディアミックスのなかでは、“狐の子”と蔑まれ恐れられる晴明はそれら人間関係の喜怒哀楽から一段たかい場所で俯瞰気味に構えている構図が多く採られていたが、本作ではシリーズが後半にすすむにつれ唯一に友人といえる源博雅(みなもとのひろまさ)が、超然としてみえる晴明の心に孤独がふかく根付いており彼もまた他の人間と変わらない精神構造を持っていると知っていく趣向が最大の特徴になっている。

安定した官職に付くために宮中歌合せに臨んだ貧乏貴族が絶望して自死したあとに亡霊と化すエピソードなどは、たとえば活劇アクションのスケールではかるとすれば少々矮小に感じられるが、オカルト異能力ストーリーというケレン味以上に心理ドラマを重視した本作では、心を揺らす自制心の喪失はすなわち内面のおおいなる危機であると表現される。それは十分に人を破滅させ殺す可能性を持ったもので王朝文学においては「鬼」と名付けられた心性と現象なのだが、そのともすればかび臭く古めいて感じられる観念を現代のエンターテインメントにおとしこんで描くための真摯さがストレートかつ自然に感じられる。

また、『堤中納言物語』内の「虫愛づる姫君」をアレンジしたエピソードにおいては自分の感性をつらぬき世間から孤立する不安にスポットが当てられるが(財を持つ貴族の娘であるエクスキューズ一点においてやや力任せに問題が解決されるものの)のちの晴明の心の変遷のための補助線として機能するなど、個々のゲストたちの個性を埋没させないように気を払いつつも関わった騒動からの影響がクライマックスにおける晴明の行動に現れるというシリーズ構成の巧みさが非常に堅実であり、オーソドックスなテーマである“孤独が生む孤立と絶望からの回避”安倍晴明ものでかたる新鮮さを成立させる。


時の天皇を『あの男』と無造作に呼び捨てる晴明の出自は劇中でそれとなくほのめかされるに留まるがおそらくは誰よりも血筋としては高貴であり、また「陰陽師」という平安京における天文学者と占い師とを掛け合わせたような役職における才能を最強に持つ晴明にとって、真実の敵はみずからの内側にあった驕りと諦念だと俗物きわまる大臣からの捨てセリフがもっとも鋭く指し示しているわけだが、同様に兄弟子の賀茂保憲の振る舞いの冷たさが必ずしも敵意だけでなく実の弟のようにともに育ってきた晴明への労りが垣間見えるように描かれるのが、設定の破綻ではなく人間が心にはらむ矛盾が負としてだけではなく時には正として働くという社会の一筋縄では行かなさを徐々に作品に彫り込んでいく。その醍醐味はやはりシリーズものならでは。

天の星で国の未来を読み、地の花をめでて人の心を知る。そしてそれらの回転のうちに怨みと慈しみのたえまない円環を見出す。陰と陽。生まれ持った特質ゆえに孤独だった晴明とかざりけない人柄のあたたかさで輪の中心となる博雅。物語とはタペストリーを宙に織り出してそこに情を刻印することなのだと教えてくれる佳作だった。抑えめながらも陰陽術の特徴を表現したエフェクトと、彩度と明度にこまやかに神経を払った美術もすばらしい。もっと多くの人に広く視てもらいたい作品。