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2009-07-29

シリコンバレーで将棋本を読む(1)

将棋を指さない人でも楽しめる将棋本、ということで、まったく指さないのに『シリコンバレーから将棋を観る』を読んだ。「サバティカル」中に生まれたこの本は、梅田さんのこれまでの著書のようなひとつのテーマをめぐって論考をめぐらせるような本ではなく、次のようなさまざまな側面を持っている。

今回はこの中で、まずは最初の2点について感じたことを書いてみたい。

ひとつの本の中にこのようなさまざまな側面があると発散しそうなものであるが、それらを貫くひとつの軸となっているのが、将棋好きな無邪気なおっさんであるところの梅田さん自身である。この本を総体的に語ろうとすると梅田望夫論になってしまう。その点に関しても少しだけ触れたいと思う。


観賞の対象としての将棋

自分はこれまで将棋に関しては基本的なルールを知っているだけで、探索問題のひとつとしての計算科学的な興味があるという程度である。将棋に興味がないというよりは、一歩踏み出すと大変奥の深い世界だと思って敬遠していたというのが実情である。そんな素人でありながらも、将棋鑑賞の楽しさの一端を感じることはできた。*1

将棋を指す人には当然のことかもしれないし、まったく的外れかもしれないけれど、素人理解で面白いなあと思ったのは将棋の持つある種の「文芸性」である。おそらく、将棋というゲームの複雑さの度合いが絶妙で、そこにある種の言語構造が生まれるのだと思う。*2

将棋の探索空間は膨大である。人間が指す以上、その空間を人間がどう認識・理解するかという点が重要になる。その理解を蓄積・共有していく過程で、将棋という空間に一種の構造が生まれる。それは、駒の配置や移動のパターンからなる局所的なフレーズレベルから、いまこの局はどこに向かっているのかといった大局的なレベルまであるだろう。文学が単なる文字の列以上のものであり、音楽が単なる音の列以上のものであるのと同様に、その構造が、鑑賞するに足る面白さを将棋にもたらしている。

構造的な理解を背景に、人間現在の局面の中に過去の将棋の局面を見出し、比較検討することができる。とすればそこには「引用」があり、引用に基づく批評性も生まれる。

第二章の観戦記ではそれがスリリングに描かれていると思う。

佐藤棋聖が山崎六段を3年前に制した時と同じ局面が、おそらく羽生さんのリードによって、再現される。お互いどう指そうが自由なはずなのに、二人の手によってまったく同じ流れが再現される。その「引用」が続いていく緊張感。そして、ある地点から羽生さんの一手によりついに引用を離れ、未知のコースをたどる。「山崎君の1五歩が悪手でしたからね。」と羽生さんは後に振り返る。その一手にはある種の批評性がある。

しかし、構造化・言語化にも弊害がある。それが共有され、蓄積されていけば、ともすると形骸化を招き、正統派とか邪道とか、お約束に満ちた世界に陥る可能性がある。羽生さんたちの「現代将棋」における挑戦は、そのような権威的な世界破壊創造を仕掛ける試みであった。現代将棋における羽生さんたちの仕事は、現代ジャズにおけるマイルス・デイヴィスのようなものなのだろう。マイルスたちの革新によって、ジャズはそれまでのコード進行に縛られた即興演奏から離れ、自由度が増したことによって、新たな緊張感が生まれたのである。

マイルス・デイヴィスの曲を楽しむのにジャズ理論を知っている必要はないし、自分演奏できる必要もない。それと同様に、将棋も、よりカジュアルに楽しんでもらいたい。それが「観る将棋」という梅田さんの考えにつながる。

とはいえ、まったくの素人には将棋はとっつきにくい。文学はそれを楽しむベース日常経験から得られる。音楽日常生活で受動的に接するものがベースになる。しかし、将棋盤の上で行われているそれは日常接するものとはまったく別の「言語」で語られている。指さない素人が観て楽しむには、これを人間言葉で補う必要がある。そこで、梅田さんは「将棋を語る豊潤な言葉」の必要性を説く。そしてウェブによる将棋観戦記の可能性がそこから広がっていく。


ウェブ実況の文芸的可能性

これまで梅田さんは、(主に文系のための)ウェブによる知の拡張に興味を持ち、自らも「人体実験」と称して実践を行ってきた。その第1弾は、膨大な数になる読者の反応をウェブ上で集約するというものであった。そして、その「人体実験」第2弾がウェブを駆使した将棋観戦記となった。

「指さない将棋ファン」に観て楽しんでもらうためには、盤上の局面そのものの解説だけではなく、それをさまざまなコンテクストと結びつけ、「豊潤な言葉」で語る必要がある。それをウェブが可能にした。膨大な過去の資料を蓄積して、それらを参照しつなぎ合わせていくことが、観戦をしながらでもその場で可能となったのである。

とはいっても、今そこで行われている事象と膨大な資料をリアルタイムに結びつけて物語をつむいでいくのには、ウェブリテラシーだけでなく、かなりの文才が必要である。そこに文芸の一形式としての広がりが出てくる。

特に、リアルタイム性は観戦記の大きな要素である。対局にどのようなコンテクストを与えるか、そこには観戦記著者の創作性があるが、対局後に振り返って書く様なオフライン観戦記と違って、その創作性は著者の完全なコントロール下にはない。著者が思う方向に書こうとしても、その端から物事が勝手に進んでいく。たとえば、先日行われた棋聖戦第五局観戦記ではコンピュータの将棋と人間の指す将棋との比較がテーマの中心となった。でも局面しだいではそんなテーマも吹っ飛んで、全然別のテーマに発展していったかもしれない。

そもそも将棋自体にも、同じ性質がある。一方の棋士がどう指そうかと構想を持っていても、相手がどう指すかによってやろうとしていたことが途中でできなくなってしまう。羽生さんはそれを「他力思考」と呼んでいる。リアルタイム観戦記も、その「他力思考」で一手一手を指していくダイナミックな作品となる。

今後このリアルタイム観戦記に「人体実験第1弾」で行ったような読者の反応の集約がさらに組み合わさると、そこに新しい将棋観戦の形ができてくるのかもしれない。


さて、リアルタイムの実況という意味では、twitterで講演や会議の実況をする(tsudaる)動きが最近注目されている。講演そのものを映像や音声で流すよりも、twitterフォーマットに短くまとめられた一文一文が、返って生々しさを与えている。これに対してウェブ将棋観戦記の方では実況にコンテクストを与えるために大変饒舌である。

フォーマットによってウェブ実況は俳句のようにも、小説のようにもなる。このようなウェブ実況の同時代的な発展をみていると、そこにはジャーナリズム的可能性だけでなく文芸的可能性もありそうで、これから面白くなってくるのではないかと期待される。



自伝としての将棋本

この本の帯には梅田さんの笑顔とともに「本当に書きたかったのはこの本」と書かれているが、それだけ見ると、「じゃあウェブ進化論は、趣味の将棋本が書きたいための印税稼ぎか」とか「日本のウェブはもう残念だから見限ったのか」とか思う人もいるかもしれない。内容を読めば、これまでと一貫した梅田さんの志向性の「結果」としてこの本が生まれたということがわかる。

梅田さんの知への向き合い方、イノベーションが行われる場への関心と、その中の人に対する触媒的な働きかけ、(特に文系的な)知の増幅ツールとしてのウェブの可能性を追求し、炭鉱カナリアとして自ら「人体実験」をする探究心、これまでの作品や言動に一貫して表れるテーマが、前から好きだった将棋でひとつにつながったのである。それが梅田さんにとってのブレークスルーであり、「書きたかった」というのは出来上がった本を振り返ってこそ言えることであろう。


プロとしての将棋の能力プロとしての文才を兼ね備えている人は確率的に非常に少ない。梅田さんが若いころに耽溺した金子金五郎のような人が現れるのはまれであろう。「指さない将棋ファン」が増えていけば、その中から「平成の金子金五郎」のような役割の人が現れるかもしれない。将棋がより多くの人に広がっていくには、それゆえ、プロのように将棋を指せなくても臆せずに将棋を語ることが大事である。

梅田さんの「指さない将棋ファン宣言」をきくと、コンサルタントとしての梅田さんの生き方に重ね合わせてみてしまう。過去ブログ記事を見るに、これまでコンサルティング業を続けてきて経営者から「虚業のくせに我々の経営の何がわかる」とかいう無理解にも接しただろうと想像される。そんな中で戦ってきたからこそ、「将棋も指さず、ろくに将棋のこともわからない奴が何を…」という(内なる)声に自粛する「指さない隠れファン」に、「立派なファンじゃないか」と勇気付ける肯定的な声に力を感じる。

ウェブの普及によって、たとえば欧米の情報を単に輸入するだけというような単なる事情通や物知りといった人の価値は下がったかもしれないが、情報肥大化によって、批評編集、あるいは表現の価値は逆に上がる。圧倒的な情報量の中からどのように価値見出し、それをどのように表現していくか。将棋にとどまらない、梅田さん本来の問題意識があってこそこの将棋本が生まれたのだと思う。

単なる「将棋を観る」ではなく、「シリコンバレーから将棋を観る」というタイトルのこの本は、そんな梅田さんを「観戦」できる「自伝」本でもある。

*1:ただし、将棋をまったく知らないと、第一章からの飛ばしっぷりにいきなりドン引きするかもしれない。

*2:多分、駒の役割があまり均一すぎても、逆にこれ以上各駒が意味を持ちすぎても、将棋はまったく違ったものになったかもしれない。

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