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維新雑記

2016-10-02

書評 佐野真由子氏『幕末外交儀礼の研究』

 幕末期の日本は日米和親条約日米修好通商条約の2つの条約を締結したことによって、「西欧」へと投げ出された。

和親条約の第11条の規定によりタウンゼンド・ハリスがアメリカ総領事として下田に着任したのは安政3(1856)年7月21日のことであった。

佐野 真由子氏『幕末外交儀礼の研究』は、そのハリス着任後の翌安政4(1857)年10月21日の将軍家定への拝謁に始まり、慶応3(1867)年3月25日から4月1日に行われた、英仏米蘭4か国代表と将軍慶喜拝謁に終わる幕末外交を「外交儀礼」の視角から分析している。

一般安政5(1858)年6月19日に締結された日米修好通商条約は、幕府(公儀)がアメリカとの間に結ばされた「不平等条約」であるという評価がなされることがあるが、現在ではそのような評価も含め、幕府外交見直しが進められている。そして本書でも、随所に幕臣外交儀礼交渉における奮闘ぶりが滲み出ている。

本書のテーマである「外交儀礼」とは、本来、「外交官の日常規範をも含んだ全ての事柄」と定義することができるが、本書では、武家儀礼や将軍拝謁式などといった、より広い意味の「儀礼」に着目し、幕末外交史の研究に新たな視点を提示している。

本書は、2部6章で構成されている。

第1章は、儀礼研究の前提として、幕府における儀礼である「殿中儀礼」を概観し、江戸城内での儀礼における服装や殿席、さらに対外使節を迎えた儀礼の例として「朝鮮通信使」を取り上げる。慶長12(1607)年から文化8(1811)年までの計12回に渡る朝鮮通信使との交流が幕末幕府がハリスに対応するための経験的蓄積となった、と指摘している。また、幕臣筒井政憲を取り上げ、ハリスの将軍拝謁式に至るまでの、いわば準備期間を描いている。

第2章では、欧米諸国の「外交官」が儀礼に際し、如何なるマナーや認識を以て望むのか、あるいは望むべきなのかということをアーネスト・サトウ著作から探り、あわせて、西欧諸国の外交官が、主として東アジア諸国の外交儀礼にどのように臨んだのかということを中国やタイの例を用い、記している。

第3章は、前章までを受けて、安政4年10月21日に行われたハリスの将軍拝謁式と、それが挙行されるまでの経緯が詳細に述べられている。本章では、幕府朝鮮通信使や殿中儀礼での経験蓄積を参照しながら、柔軟にハリスの将軍拝謁式に対応していった、ということが指摘されている。幕府側にとって、将軍拝謁式の準備や挙行、そしてその先に生まれてくるであろう諸外国との交際や交流は、(十分に想定しえたことで)「未曾有」の事態にはなり得なかったのである。無論、以前の朝鮮通信使とハリスの例を比較して、如何なる位置づけでハリスの使節を迎えるのかということについては、様々な意見が交わされた。そして、無事に挙行された将軍拝謁式を、ハリスは「西洋の作法」で執り行われた儀礼であると評価した。著者はハリスの将軍拝謁式を「西洋国際社会を視野に入れ、信任状捧呈式を含む国際法に基づいて展開されていく近代の外交に連結された場面」である、と述べている。

第4章では、ハリスの将軍拝謁式以降の外交儀礼史上試行錯誤とでもいえる時期を、安政5年4月1日のドンケル=クルティウス、同年7月12日のプチャーチン、そして10月11日のハリスによる再びの将軍拝謁を通し、描いている。特にオランダ商館長から、領事官へと就任したドンケル=クルティウスは、ペリー来航の情報を日本にもたらしたことでも著名である。ドンケル=クルティウスを分析することは、幕末期の外交儀礼を考察する上でも非常に興味深い。また、アメリカ公使となった、ハリスの将軍再拝謁の際には、ハリスの立ち位置などに関わる、いわば儀礼の「簡略化」といった問題があり、ハリスと幕臣の間で議論が行われた。安政5年頃までの、この一連の儀礼や将軍拝謁式をめぐる動きは、幕臣に日常業務としての「外交儀礼」を意識させ、外交儀礼を平穏無事に挙行させるための「規範」づくりが行われていったのである。それは、「永世不易の禮典」という言葉に表されている。筆者は、当該期のドンケル=クルティウスやプチャーチン、ハリスの将軍拝謁式およびそれに関わる外交儀礼を「持続可能な外交」への萌芽であると評価している。

第5章は、万延元(1860)年7月4日のハリスの3度目の将軍拝謁から、文久2(1862)年閏8月9日のゴシケーヴィチの将軍拝謁までを扱い、外交儀礼の「安定期」について述べている。もっとも、これは外交儀礼や、将軍拝謁の側面からみて、「安定」したといえるのであり、この後の文久3(1863)年に朝廷に迫られ、幕府が(表向き)攘夷標榜したことで政局が混乱していったのは、周知の通りである。そのため閏8月9日のゴシケーヴィチの将軍拝謁の後、外交官側から将軍拝謁に対するいくつかの要請があったものの、幕府外交儀礼は「空白期」を迎えた。また、文久3年の上洛以来、数度の上洛を経て、家茂の拠点が大坂城へ移ったこともこの時期の特徴であるといえるだろう。このような状況下で将軍拝謁が中断されたのはむしろ自然なことであった。著者はこの時期を安政4年から続く、「儀礼様式の成立期」であると評価している。

最終章である第6章は、慶応3年3月25日から4月1日にかけ、大坂城で行われたパークス、ポルスブルック、ロッシュ、ヴァルケンバーグの4名に対し、個別に行われた慶喜への拝謁について詳細に検討している。そして、今回の将軍拝謁幕末最後の外交儀礼の事例となった。前回の将軍拝謁から4年半の空白が存在したにも関わらず、今回の事例は、幕臣たちがそれまで蓄積してきた外交儀礼の「先例」に則り、基本的枠組みとして適用しようとしたということを明らかにしている。また、今回の将軍拝謁では新たな試みとして「内拝謁」、つまり初めての晩餐会が行われた。このフランス料理のフルコースを用いた豪華な晩餐会は、従来言われてきたようなフランス側のロビー活動がきっかけでなされたものではなく、幕臣側の発想から生まれたものであるということもこの晩餐会を考えるうえで重要な指摘であろう。

ちなみにこの時の晩餐会のメニューも収録されている。慶喜や、パークスたちがどのような料理を食したのか、想像するのも1つの楽しみ方かもしれない。

慶喜の将軍拝謁外交官のミットフォードが詳細な助言を行っていたこともその大きな特徴であるといえるだろう。結果として、慶喜による将軍拝謁は、サトウに「全くヨーロッパの流儀」で行われたと驚嘆させ、また、慶喜は「外国人に対して友好的な気質」であり、「環境の変化に適応する力」がある将軍であると、パークスたちに強烈に印象づけ、魅了したのである。皮肉なことにその約半年後には幕府は瓦解することになるのだが―。幕末の「外交儀礼」はここに頂点を迎えたといってよいであろう。そして幕末期に行われた外交儀礼維新政権へと引き継がれてゆく。

以上、内容の一部を紹介した。評者の誤読もあるかもしれないが、間違いなく、本書は幕末外交儀礼研究に一石を投じている。味読したい1冊である。

2016-07-24

【エッセイ 徳川家茂】

今回は番外編として第14代将軍・徳川家茂について述べたい。幕末期の将軍というと、徳川慶喜の名を思い浮かべることが多いかもしれない。しかし慶喜が「征夷大将軍」であったのは慶応2(1866)年12月から慶応3(1867)年10月のわずか1年弱というごく短い期間である。したがって安政の大獄桜田門外の変、また薩長盟約(同盟)そして長州戦争など幕末期の重要事件のほとんどは、家茂政権下に起こったことだったのである。以下、家茂の履歴を振り返ってみよう。家茂は、弘化3(1846)年閏5月24日に紀州徳川家第11代当主である斉順(なりゆき)の嫡男(次男ともされる)として赤坂にある紀州江戸屋敷で生まれた。前将軍・家定の養子になるまでの名を慶福といった。嘉永2(1849)年閏4月2日に第12代当主である斉彊(なりかつ)の跡を継ぎ第13代紀州徳川家当主となり、嘉永4(1851)年10月9日にわずか6歳で元服した。慶福は第11代将軍・徳川家斉の孫で第13代将軍・家定とは従兄弟という間柄から、徳川将軍家の「血統」を継ぐ者として申し分のない人物であった。また慶福は幼いながら動物を愛する心優しき性格であった。その後、彦根井伊家の当主である直弼らから次期将軍に推されたのはよく知られるところである。安政5(1858)年11月21日には名を家茂に改名した。家茂は直弼に絶大な信頼を寄せており、8代将軍・吉宗の鞍や家定から賜った小刀を与えている。桜田門外の変で直弼が斃れた際にはあまりの衝撃に食事が喉を通らなかったという。家茂は大変に家臣思いであった。ある時、家茂は所の教授をしていた老齢の家臣である戸川安清に硯の墨を頭の上からかけ、「あとは明日にしよう」と述べ出て行った。当の戸川は泣いている。周りの者は家茂の行為を不審に思い、戸川に問うと「自分は老齢のため、思わず失禁をしてしまった。上様の前で粗相をしたとなれば厳罰は免れない、それを隠すためにわざと墨をかけるふるまいをしたのだ」と、戸川はまた家茂の温かさに泣いたという。安政5年に13歳で将軍になった家茂はその後幕末の難局に自分の身をすり減らすかのように立ち向かってゆく。文久2(1862)年には紆余曲折を経て孝明天皇の妹である和宮と結婚した。2人は大変仲睦まじいことで知られ、家茂が御所を離れて寂しさを感じているであろう和宮金魚をみせて喜ばせるなどの逸話はその一端を表していよう。文久3(1863)年、家茂は孝明天皇に「攘夷」を誓うため、229年ぶりに上洛した。この「攘夷」という言葉は良くも悪くも幕末政局を動かす1つであった。元治元(1864)年にはいわゆる禁門の変と呼ばれる「戦争」(元治甲子戦争)が起こる。そして勢いづいた長州毛利家は公儀と緊張状態に陥いり戦端が開かれる(「長州戦争」)。慶応2(1866)年2度目の「長州戦争」の陣頭指揮を行っていた家茂は、7月20日脚気衝心のため大坂城内で死去した。21歳の若さであった。なお死後の調査によると家茂の歯はたった1本を除いて全て虫歯であったという。家茂は大の甘い物好きであり、政務や戦闘の合間にストレス解消がてら菓子を食べていた、ということであるらしい。この家茂の歯の逸話に激動期に若くして亡くなった将軍のせつなさを観る思いがする。勝海舟は、後年、家茂の思い出を語るたびに涙を流したという。この逸話こそ何よりも家茂の人柄を物語ってはいないだろうか。

2016-04-02

びっくりぽんな幕末維新史~広岡浅子

 「あさが来た」が最終回を迎えました。そこで「あさ」こと、広岡浅子の経歴を振り返りたいと思います。浅子は京都油小路出水の小石川三井家6代当主である三井高益の4女として嘉永2(1849)年に生まれました(西園寺公望が同年の生まれです)。三井高益が50歳を過ぎてから生まれた子で、「別腹」、いわゆる「妾の子」でした。浅子の回想録である『一週一信』によると、幼い頃の彼女は裁縫生け花茶の湯・琴などを習わされましたが、あまり性に合わなかったようです。浅子はそのような芸事よりも、当時、「女性には不要」とされていた学問に強い関心を持っていたそうです。そのような浅子を家族は心配し、13歳の時、浅子は読書を禁じられてしまいます。浅子は、その状況を打ち破ろうと奮起したようです。この頃の心情を『一週一信』で「女子といえども人間である。学問の必要がないという道理はない、かつ学べば必ず習得せらるる頭脳があるのであるからどうかして学びたいものだ」と述べています。「あさが来た」でも、お転婆で、学問好きな性格が、丁寧に描かれていました。さらに、浅子は2歳という物心もつかないうちから許嫁として広岡家に嫁ぐことが決められていました。浅子は、自らの意思に関わりに無く広岡家に「嫁いだ」ということに関して「何という不当なことであろう」と「慨嘆」した、と後に『一週一信』のなかで述べています。浅子が白岡「新次郎」こと、9歳年上の広岡信五郎の妻となったのは慶応元(1865)年、17歳の時でした。「あさが来た」では大らかで、あさを優しく見守る新次郎ですが、実際の信五郎について、「少しも自家業務には関与せず、万事支配人任せで、自らは日毎、謡曲茶の湯等の遊興に耽っている」とその第一印象を述べてはいますが、やはり後年の浅子の活躍を考えると信五郎は魅力溢れる最大の理解者であったような気がしてなりません。慶応4(1868)年、20歳の浅子は維新を契機に実業界に飛び込みます。明治9(1876)年、28歳の時には娘の「千代」こと、亀子をもうけます。それから10年後の明治19(1886)年、38歳の時には、筑豊の潤野炭鉱の経営に乗り出し、「多くの荒くれた鉱夫どもを相手に生活し」、また明治21(1888)年、40歳の時には、加島屋を母体とした加島銀行を経営し「利に鋭き男子らを指揮して算盤場裡に没頭した」と『一週一信』にあります。浅子が48歳を迎えた、明治29(1896)年には、「成澤泉」こと、成瀬仁蔵の思想に共鳴し、「日の出女子大学校」こと、日本女子大学校の発起人として名を連ねます。明治33(1900)年には、目白台の三井家別荘に日本女子大学校が設立されました。浅子が52歳の時のことです。浅子54歳の明治35(1902)年には大同生命保険会社を設立します。浅子56歳の明治37(1904)年には夫の信五郎が亡くなります。享年64.信五郎の死因についてはよくわかっていないようです。ほどなくして浅子は実業界を引退します。61歳を迎えた、明治42(1909)年、浅子は乳がんを患い、東京帝国大学付属病院で手術を受け一命をとりとめます。明治44(1911)年63歳の時には大阪教会でキリスト教に入信しています。大正7(1918)年には、回想録である『一週一信』を出版し、翌大正8(1919)年1月14日東京麻布の別邸で亡くなりました。70歳でした。

浅子の生涯を親交の深かった渋沢栄一大隈重信と比較してみると面白いかもしれません。

「あさが来た」はとても爽やかで、柔らかい物語であったと思います。

2016-02-17

書評 竹内誠(他)編『徳川「大奥」事典』

 「大奥」は、江戸城内の公的空間である「表」や将軍の居住・執務空間である「奥」に対して将軍やその家族が住む私的空間である。今や見る影もないが、誰もが一度はその言葉を耳にしたことがあろう。近年はドラマや小説などで、絢爛豪華なイメージとともによりいっそうなじみ深いものとなっている。あるいはそこに住まう人々の情念や欲望が渦巻く場所という少し不気味なイメージを抱く人もいるかもしれない。大奥とは何ぞやという問いかけに答えられる人はそう多くないかもしれない。

 本書『徳川「大奥事典』はそうした問いかけに史料や構造、人物といった側面から大奥女中の日常や髪形に至るまで、丁寧かつ詳細に答えてくれる。本書は3部構成の形をとり、第1部「江戸城大奥』」、第2部「将軍と『大奥』」そして、第3部が「大名家の『奥』」となっている。

 評者は幕末維新期に関心があるので、天璋院和宮、美賀子ら将軍の正室を始め滝山、庭田継子、観行院、一色寿賀、中根幸、新村信といった関係人物にまで、最新の研究に裏打ちされた記述がなされており、ありがたい。また大名家の「奥」について言及しているところにも本書の特色があろう。本書を読んでいると、江戸時代の女性たちも子孫を残すというだけではなく男性とともに戦っていたのだということがよくわかる。大奥や御台所に光をあてることによって、「表」や将軍を浮かび上がらせている。260年の太平の基盤を築いた徳川家の見事さに改めて気づくことのできる事典であり、今後の徳川・大奥研究の指針となるだろう。

びっくりぽんな幕末維新史~渋沢栄一

「あさが来た」を観た。明治20(1887)年頃だろうか。「銀行の神様」こと渋沢栄一が登場。渋沢は天保11(1840)年生まれなので数え年で五代より6歳年下である(!)渋沢は、2月13日、武蔵野榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県藤沢市)の養蚕や製藍を営む家に生まれた。若き頃の渋沢は、家業の藍の売買に精を出していたが、22歳になった文久元(1861)年には、江戸に出て海保章之助に儒学を、北辰一刀流千葉栄治郎に剣を学んだ。翌文久3(1863)年には、「攘夷」を実行しようと横浜異人館焼き討ちを計画するが、従兄弟の尾高長七郎の説得を受け中止した。もっとも渋沢が本気で異人館を焼き討ちしようとしたのか怪しいところである。しかし、青年期の渋沢にも志士的側面があったことは興味深い。その後、京都に出て一橋家の用人であった平岡円四郎や川村恵十郎らの知遇を得、翌元治元(1864)年からは一橋家に出仕し、徳川慶喜に仕えることとなった。慶応2(1866)年には一橋家の歩兵取立御用掛として一橋家領内の農兵の募集を行い、一橋家の兵力強化に尽力した。慶応3(1867)年になると、川慶喜の弟である昭武(あきたけ)のパリ万国博覧会参加に伴い昭武に随行し、その側近として昭武の身辺警護を行いながらヨーロッパを見聞した。同年10月の権返上により、幕府が崩壊したため、明治元(1868)年11月3日には日本に帰国した。明治2(1869)年からは新政府に出仕。明治4(1871)年には大蔵権大丞として新貨条例国立銀行条例の起草に関わった。明治6(1873)年に官を退いた後は民間にあって第一国立銀行のほか、500以上の企業の発展に寄与したことは良く知られている。明治33年(1900)61歳の時には男爵となった。大正期には福祉や女子教育などの支援を行った。明治30年代からはかつての主君である慶喜の名誉回復のため慶喜の伝記編纂(『徳川慶喜公伝』)に情熱を傾けた。なお、渋沢自身が若き日の自らを回想した、岩波文庫『雨夜譚(あまよがたり)』は渋沢の性格や想いが垣間見え興味深い。渋沢は昭和6(1931)年11月11日、92歳で没した。渋沢の多岐に渡る活動の根底には、幕臣であったという強い誇りと自負があったのではないだろうか。48歳の渋沢は「あさ」との出会いに何を語るのだろう。

2016-01-22

【びっくりぽんな幕末維新史 〜 五代友厚】


 ドラマ「あさが来た」で主人公・白岡あさの人生に強い影響を与えた五代友厚が亡くなりました。いうまでもなく、この五代は幕末明治を生きた実在の人物です。個人的には五代とあさの最期の交流や想いを丁寧に描いたとても感動的な回であったと思います。「五代ロス」になる前に改めてその足跡を追ってみたいと思います。

五代は天保6(1835)年12月26日薩摩藩に生まれました。大河ドラマで有名になった天璋院篤姫小松帯刀土佐坂本龍馬と同年代です。五代は13歳の時、正確な世界地図を模写し藩主島津斉彬に献上するなど、向学心溢れる少年だったようです。五代は安政4年(1857)19歳の時、郡方書役という役職に就き、その後長崎海軍伝習所への遊学を命じられます。

五代は、この長崎海軍伝習所オランダ語や航海術など最先端の文化や技術に触れ、やがて世界へと眼を向けます。

長崎の遊学を経た五代は、薩摩本国に徴用され、文久2年(1862)28歳の時には、船奉行添役に就任します。同年、幕府艦・千歳丸の水夫として上海密航薩摩のために軍艦購入の契約を交わしています。この上海密航で五代は長州高杉晋作とも交友を温めています。劇中、あさと五代が大坂で初めて出会ったのは、この密航前のことでしょう。

文久3年(1863)には薩摩イギリスとの間に起こった薩英戦争において後の外務卿・寺島宗則とともに自ら進んでイギリス捕虜となります。イギリスへの情報収集も含めてのことかもしれませんが、この辺りのエピソードは五代の豪胆さを感じさせます。

その後、慶応元年(1865)五代は31歳の時、長崎のグラバーの配慮で薩摩留学生を引き連れ、自らもヨーロッパを見聞して周ります。これには、薩摩家老小松帯刀意向が働いていたといわれています。最近、長州の海外留学生を指して「長州ファイブ」という言葉が流行りましたが、対して五代が引き連れた留学生たちは、「薩摩スチューデント」と呼ばれています。薩摩スチューデントと長州ファイブはロンドンで交流をしたというエピソードが残されています。

五代は慶応2年(1866)に国内でも目覚ましい活躍をみせます。慶応3年には坂本龍馬海援隊紀州徳川家に起こった海難事故である「いろは丸事件」を土佐後藤象二郎とともに海援隊に有利な形で解決に導いています。

慶応4年(1868)には新政府の外国事務掛に就任し諸外国との事件の解決に尽力しています。五代はこの年の2月に初めて大坂を訪れています。明治2年(1869)には政府の職を辞し大坂の発展に力を注ぎます。

余談ですが明治3年(1870)には、大坂の経営にもかかわっていた小松帯刀が亡くなります。小松の最期を看取り、その遺児の面倒をみたのは、五代でした。五代にとって小松は自分を引き立ててくれた恩人のような存在だったのでしょう。

以後、五代は大阪商工取引所や大阪商船の設立など亡くなるまで大坂の発展・繁栄に力を尽くしました。五代友厚は明治18年(1885)年9月26日東京で亡くなりました。49歳でした。

五代の死後「あさ」がどのように実業家として成長してゆくのか楽しみです。