【読書記録】忘れられた日本人


忘れられた日本人
宮本常一(著)
岩波文庫



日本民俗学を代表する名著。
著者・宮本常一は生涯を通じて全国の農村・漁村・山村を歩いて回り、
文字を持たない人の口承・伝承を記録した「旅する民俗学者」と呼ばれています。
彼の出身地は、山口県周防大島
郷土の民俗に関する著作や論文も多く残しています。
また、一人の文字を操る伝承者としての宮本常一は、
彼自体が今も研究の対象であり続けています。



民俗学という学問は、19世紀以降、日本が近代化していくなかで
驚くべき速さで失われていく百姓の生産技術、
農村社会の政治構造、紛争調停システム、祭礼のありかた
―ムラの生活知―
を、記録しなくてはならないという問題意識から生まれました。



彼らが得た知見は、実は地域社会における地下水脈として
今もなお、たしかに流れている。
現代の地域や都市を研究する者にとって、民俗学の知見や研究手法から
学ぶことは多いのです。



…と、固く考える必要はありません。
本書は明治・昭和初期に全国各地で百姓や漁民として生きた、
年寄のライフヒストリーから構成されてるのですが、
彼らの話が抜群に面白い。
人の生活というのはわずか数百年でここまで変わるのか、
と驚かれること請け合いです。
「現実は小説より奇なり」とはよく言ったもの。
岩波文庫からお求めやすい価格で出ていますし、
是非一人でも多くの方に読んでいただきたいと思います。



○非定住民のライフヒストリー
昔の村には、大きく分けて二種類の人々がいたと言われています。



・定住民…村に土地や家を持ち、一生をあまり村から出ることなく生きた人々。
多くは百姓。
・非定住民…村と村、村と都市を移動し、一生を旅するように生きた人々。
多くは漁師や大工、木挽、芸人、宗教者(山伏・聖)などの
専門技術を持つ者。
(とはいえ、彼らが拠点となる土地や家を全く持たなかったわけではない)



日本の村の構造を知るためには、定住民を中心に展開する生産活動(田植えや稲刈りなど)
、祭礼、村の寄合(村で起こる問題の話し合い)の実態に迫る必要がありますが、
非定住民の生活や、非定住民と定住民の交流にも着目しなければなりません。
また日本の村は、そもそも非定住民が生業を求めて切り開いたというルーツを
もつ場合も多く、非定住民の人生に迫ることが村の誕生を知ることにもなりえます。



本書には定住民・非定住民双方の興味深い話が収録されていますが、
本稿では非定住民を扱ったものから一つ、紹介いたします。



【梶田富五郎―漁師】
梶田翁は明治の世を生きた、対馬(長崎県)の漁師。
生まれは周防大島の久賀(くか)。



久賀は当時、タイ釣りの技術に秀でた漁師を排出する漁村でした。
久賀の漁師はタイの漁場をもとめて、
角島(山口県・下関の北方)、唐津(佐賀県)などにも出かけていったそうです。



梶田翁がまだ漁師見習いのときです。
当時すでに対馬に漁へ出かけていた広島の漁師によれば
対馬の海は魚で埋まっているという。
若き梶田翁を含む久賀の漁師一行はその話を聞き、対馬へ足を伸ばします。



行き着いたのは浅藻(あざも)という、木々の生い茂る何もない浦でした。
浅藻は土地の人々が「天道法師の森」という聖地と捉えていて、
当時誰も住んではいけない、通ってはいけないとされていた。



このような庶民のタブーだけではなく、
対馬は当時、侍が多く、しきたりにうるさい土地だった。
彼ら久賀の漁師はしがらみを逃れるべく、土地の人々の制止を押し切り
浅藻を漁の拠点として開発していきます。



浅藻を港として整備するのは並大抵の苦労ではなかったそうです。
特に大変だったのは、沖に沈む石の除去。
港というのは船が入れるだけの水深を必要とします。
大きな船が入れるようにするには沖の石をどけなければならない。
久賀の漁師は潮の満ち引きと船を駆使して少しづつ石をどけ、
三十年をかけて浅藻を立派な港にしていきました。



浅藻は港が整備されるにつれて人が住むようになってくる。
久賀からだけではなく、平戸(長崎県)や沖家室(久賀と同じ周防大島の集落)の漁師も
来るようになる。
貿易や商売の才覚がある者も住みつくなるようになり、
納屋が商店もできるようになる。
こうして浅藻は集落として発展していきました。



梶田翁はそんな浅藻の集落を、
自ら創りあげ、その生成を一から見つめてきた人でした。
宮本に浅藻の話を語るなかで、残した言葉が印象的です。



「やっぱり世の中で一番えらいのが人間のようでごいす」



○考察―専門技術者と未開地の開拓―
梶田翁・久賀の漁師のような人たちが切り開いた集落は、
全国各地に見られるでしょう。
興味深いのは、漁師の世界でみられる専門、
漁法の違いによって、漁師が切り開いた集落の成り立ちが
推測できるのではないかという点です。



久賀の漁師は一本釣りを基本とする漁法による
タイ釣りを専門としていました。
当然、彼らはタイの釣れる漁場を求めて対馬に来て
浅藻を切り開いたわけです。
江戸や明治の漁師は、自らの出身地で行われている漁や
漁法の適用できる土地を、どんどん見つめて拡げていった。



つまり、日本の漁村における
・漁場(どんな魚が獲れるか)
・漁法(どんな漁業技術が見られるか)

を検証していくことで、その漁村を切り開いた人たちのルーツや
その漁村を介する交易ルートが明らかになっていくということ。



とりわけ交易ルートは、日本の漁村の成り立ちに大きくかかわっている。
例えば周防大島のような漁業の盛んな島の集落は、
浦々の集落同士のつながりよりも
集落と遠く離れていながらも交易関係のある他郷の集落とのつながりが
強かったそうです。



交易関係があるということは、
そこに文化や習慣の上での類似点も見られるようになる。
海を介した村と村の交易関係を検証していくということ。
日本のような多くの島々からなる国家の都市、地域を考える上では
非常に重要な視点です。



現代にあてはめて考えれば、
交易ルートは交通手段(飛行機や船)や通信手段(電話やインターネット)は
世界規模に拡がり、つながっています。
従って専門技術者は、言葉の壁さえ超えれば
仕事を求めて世界各地を越境することができる。



現代の非定住民は自分の仕事や技術を介して
世界中の文化をつないでいるともいえるのではないか。
現代都市や現代人の国際移動を考える上では、
人々の民族や宗教、言語に注目するとともに、
越境者の専門技術や、彼らが作り出す産業のありかたに
着目する必要がありそうです。



ところで、日本史に関する議論においては
鎖国などの例をとり、「島国日本」の閉鎖性を主張する言説が
今なお根強く見られます。
誰がこう言いたがるのかは、それはそれで興味深いのですが、
昔も今も、海洋国家である日本は開かれていて、
世界とたしかに繋がっているという当然とも言える事実は
しばしば軽視されてしまう。



もちろん、ある国家や都市、地域の特徴や独自性を追求することは
これらを研究対象とする者にとって、根本的な姿勢であるといえます。
ただ、独自性の追究に固執するあまり、
広域での類似性をとらえる視点を失ってしまってはいけない。
そう思っています。