2012年02月03日 金曜日
■[game][eroge]「グリザイアの果実」(フロントウイング)ネタバレ全開モード 
全キャラシナリオ通してプレイした感想としては、ステルスマーケティングって、こういうのを言うんだろうなーと。
前評判がよくて、出る前からアニメ化企画が進行してて、どこぞの出来レースくさい業界アワードで年間1位とってて、と並べていくと、そんな今さらステマなんて言わなくても判りきってることだろうと言われるだろうが、そういうことじゃなく、プレイしてる触感がステマ。
まず、この手のエロゲとしては、細部に金と手間がかかってるのが凄くよくわかる。
OPはCG加工してグリグリ回転させる系じゃなく、いわゆるセルアニメの時間がけっこう長かったり。作中の細かい擬似アニメーション処理、街灯の移動で車両移動してる風味を出すとか、そゆセルアニメで定番化した手のかからないぐらいの画面効果を多めに採用してたり。人物の立ち絵の細かい動きとか、一生懸命に設定してあったり。主人公の設定も十代にして超優秀な軍人あがりで特殊工作員の5人や10人はあっさり撃退しちゃうぜとゆー厨二無双で、爆発したりカーチェイスしたり人がバンバン死んで、といった派手な展開が用意されてたり。なによりキャラデザに渡辺明夫連れてきたり、彩色がガッツりダウナー系に気合入れてたり。つーか化物語?ガハラさん?いや俺ホイホイ引っかかっちゃうよ?みたいなキャラデザだったり。
なんつーか、いろいろと企画レベルでプチ豪華で、売らんかなという気合は凄く伝わってくる。
のだが、まぁ、シナリオは、順当に、つまんないのである。それもブッチギリにつまらないんじゃなく、イマドキのエロゲのセオリーに忠実に無難に作ってて、結果としてイマドキのエロゲーらしい方向性でもって、イマドキの精髄のごとく、つまんないのである。すなわち「つまらないんだけど、イマドキのユーザーが批判する言葉を持ち合わせてないから上手く否定できず、個人的感想としてつまらないとしか言いようがなく、エロゲレビューサイトで定番化してる、個別要素の加点減点方式で判定してくと、なんとなく、そこそこの点数はとれてしまい、誉めてる声をあえて否定できないまま、つまんないなあ、という気分だけが宙ぶらりんに残されてしまう」という、つまらなさなのである。
こういう代物は、とにかく宣伝してナンボだし、ステルスマーケティングてーのと親和性が高いだろうなあ、と、そのように感じたのだった。
なんで、イマドキのこの手のエロゲがつまらないのかというと、受け手をグイグイと引っ張っていく力がない、てのが一番大きい。
なんで引っ張れないかというと、まず、昔のRPGのように細かいミニゲームとレベルアップの連鎖でプレイヤーの意欲を継続的に刺激してくような手法が使えない。なんせ選択肢は極限まで少なめになっている。にもかかわらず、物語で引っ張ることが禁止されている。ヒロインごとの個別シナリオに分岐させるために、冒頭では、物語の大目標を提示することが出来ない。そこは、この個別ヒロインシナリオ分岐形式恋愛アドベンチャーノベルのパイオニアであったKanonのように個別シナリオごとの設定が相互矛盾するぐらい割り切って話を展開すれば解決するのだが、その解決手段は良識に反すると封印されてしまっている。さらに「ヒロインの個別シナリオに突入してから他のヒロインが退場して出てこないのは嫌だ」という声に配慮し続けた歴史を重ねてきた結果、ヒロインたち同士で共同体や仲間関係を構築することがセオリーとなって、そのための描写を入れなければならないため、いわゆる「共通シナリオ」というパートが必須のように扱われ、その分だけ「ヒロイン個別シナリオ」に突入する前の段階のシナリオが長くなっている。しかも、このヒロイン共通シナリオでは、ヒロインの個別シナリオに物語を連結させられないために、しばしば「日常」が採用される。シナリオ後半にクライマックスを持っていこうと思ったら、前半では余計なことは何もできない。下手に前半で男性主人公やヒロインの抱える設定を消化してしまったら、途中でその物語の連続性をぶった切らないといけないので、えらく消化不良になってしまうか、前半で話が終わってしまう。ならば何もしないほうがいいということで、ヒロイン個別シナリオに行くまで、何の事件も起きない日常生活がそれなりの長さで描かれる。
しかも、これらの事情が「ヒロイン同士の仲良しなのが人気」「最近は日常描写が流行なんですよ」というふうに言い訳が用意されて正当化されるので、物語が必要とかどーとか言ったところで、じゃあ何をどうすれば改善できるのかを指摘できないまま、なんとなく維持されていく。実を言えば、例えば「つよきす」だったら前半戦勝負で後半ヒロイン攻略はオマケぐらいのバランスであるとか、指摘のやり方はいろいろあるのだが、時流のサブカル評論に流されて何も手をつけられないで来てしまったイマドキを見事に結実してしまったのが、無難に仕上げられた本作「グリザイアの果実」なのだった。
というわけで本編である。とりあえず、シナリオライター4人中の3人ぐらい、男性主人公の厨二病バリバリの最強軍人設定をもてあましてるようで、行動がひたすら頭悪い。また、派手な展開を作ろうとして、結果、登場人物のどいつもこいつもえらく間抜けな行動をとる場合が多い。成人向けのはずなのに小学生向け展開に見える。たぶんヒロインの萌えキャラな言動を書けるかどうかを優先条件にしてライターを決めたんじゃないかと思う。
ということで5人のヒロイン中、4人のシナリオは、男性主人公の最強設定が殆ど全く生かされずに終わる。ではヒロイン自身の物語が存分に語られるのかというと、これが中途半端である。軍人とかリアル要素を持ち込んでるせいもあってか、展開に飛躍が足りず、そのくせ派手にしようとしてバランスが悪い。たとえばガハラさんモドキの由美子シナリオは登場人物全員が魅力を損ねることこの上ない頭の悪さである。つーか、ひたぎさんの真似してカッターナイフ持たせてるのを中途半端に物語で説明しようとして大失敗である。ひたぎさんに謝れ。他にも、メイドはなんつーか本当に頭が悪いし、ツインテールはせっかくの声優さんの面白ボイスが個別シナリオに入ったらダウナーモードの別人格やらせやがって台無しだし、乳シナリオはヒロイン共同体の母親役をやらされる位置づけのキャラ配置と、凄惨な過去でマトモな人生を送れなくなりましたという個別シナリオ展開との整合性がうまくとれてないし、金返せ。いや本当に、ヒロイン共同体の中での関係性を優先してキャラを作って、そのキャラ設定を解体することで個別シナリオを展開しようとしてしまったために、とにかく頭悪いのである。カッター持たせてればいいと思ってんじゃねえぞ。ひたぎさんに謝れ。
それでも、まっとうだったシナリオが一本だけあったのが救いといえば救いで、入巣蒔菜シナリオを一番最後にプレイしたおかげで酷評にならずに済む。蒔菜シナリオは実質的には蒔菜シナリオというよりは男性主人公・風見雄二自身の物語のよーになってる。というか雄二と蒔菜の出来損ない人生な二人が寄り添って生きていけるようになりましたシナリオとゆーことで、や、なんで他のシナリオでこれやらないんだろう? とフシギなぐらい真っ当である。てゆか、厨二設定なところは設定と割り切ってしまいさえすれば、登場人物がみんな厨二設定なりに頭悪くないのが奇跡的だ。
んで、なんで蒔菜シナリオが成功したのかというと、これ、5人ヒロイン共同体の中で、蒔菜が最も幼い、守られるべき「子ども役」という役付けで作られたためだろうと、他4人のシナリオと比較して、思うのである。雄二の厨二設定はヒロインを物理的危機から救って大活躍しつつ、その見返りというわけではないが互恵的にヒロインから精神的救済を得るような設定なわけで。
この場合は個別シナリオの作り方としてヒロインの心理を解体してくような作り方(これ自体は伝統的なエロゲ作法)を選択してしまったのが失敗の元で、それやると男性主人公は空気と化す。だのに雄二という厨二主人公を押し出そうとするから間が抜ける。ところが、蒔菜シナリオに限っては、蒔菜の過去トラウマは解消されてない。エピローグで思いっきり病んだままですよ宣言されるぐらいに、蒔菜シナリオは雄二シナリオのまま終わる。なんでか。雄二と蒔菜の関係が、共通シナリオと個別シナリオの間で基本的に変わってないからである。共通シナリオの延長上だから、蒔菜は別段に精神病理を治療する必要はない。だって、共通シナリオでは、病んでようと楽しく毎日を過ごしてるんだもの、その延長で何の問題もないでしょう? そして共通シナリオの延長であっても雄二が蒔菜に関わっていけるのは、蒔菜が5人ヒロイン共同体の中でも「守られるべき存在」として最初から位置づけられていたためである。
結果論だが、本作は「本編:入巣蒔菜篇=風見雄二篇」と、その他の脱線エロシーン4本、みたいな構成になっている。そう思ってプレイすれば、とりあえずまあ、辛抱強い人ならば、まるきり損するわけでもない、と思う。ひたぎさんを期待した僕にとってはだいぶ辛かったが。
2012年01月31日 火曜日
■[game][eroge]『廻り巡ればめぐるときっ!?』(キャラメルBOXいちご味) 
1年以上も前にプレイしていて、空美シナリオだけはガチで気に入っていたのだが、しばらく放置してるうちにタイトルを思い出せないでいる自分に気づいたので備忘録の意味合いとして感想を。
まず本作品は、ネットで漁った情報によると企画・メインライターだった人間が逃げ出したらしく、発売前情報とテロップで流れるのと、シナリオライターが違っている。ライターが逃げたなんぞ今さら目くじらを立てる話でもないが、なぜ逃げなければならなかったか、逃げて丸投げされたあと、どういう代物になったかについて憶測で書き付けておく。
本作品は、最近のエロゲにありがちな構成だが、いわゆる共通パートで引き起こされる事件と各ヒロインごとのシナリオで描かれるエピソードとは、殆ど繋がっていない。共通パートで活躍するのは、おそらく男性主人公の鏡もしくは先達としての役割を与えられたムスカ似の中年のオッサンの幽霊*1なのだが、オッサンの引き起こす事件は主人公自身の抱えるはずの物語とも各ヒロインの物語とも全くといっていいほど関係なく、単なる賑やかしに終わっている。進展いっさいなし。
本来、この手のドタバタラブコメ話なら、オッサンの物語の進展に関わり感化されることで男性主人公とヒロインの関係が進展するのがセオリーと思われるのだが、そうしちゃうと特定ヒロインとの関係だけが進展してしまうので、各ヒロインごとの分岐前に特定ヒロインと仲良くなるわけにはいかず、オッサンの物語だけが進んで主人公たちのほうは足踏みし続けることになり、本作品が自身で企画した最初の作品らしい元のメインライターさんは、そのへんで煮詰まったんじゃないかなと思う。ちなみに、こなれたライターさん達は、エピソードの連鎖なんぞぶった切る。別の話を別の話のままくっつけ、そのとき使う接続方法は、学園など物理的な、もしくは常識的範囲内の正義観や倫理観、道徳観などの情操教育的な、既存の社会的枠組みの延長でもって外からキャラクター達の行動をコントロールする。こうした社会的枠組みに寄りかかった形式は、いうまでもなく作品に寄り添った形での個人の心理の掘り下げには読解上の不可視の障壁として働くので、そこに様々な言い訳、たとえば「日常」と呼び習わされるジャンル制約、などが読解の作法として援用されることになる。たとえば麻枝准的な主題としての「日常の尊さ、ありえなさ」などは、作家の資質であるのと同じ以上に、分岐アドベンチャーゲームの形式からもたらされる強制的なテーマであり、そこから離れることを許されない隘路でもある。行き着くところ、語りえぬものとして暗示するぐらいしかシナリオを接続する枠組みから逸脱することは許されないし、強引に離れてしまえば、作家が作家の強権的な立場でもってシナリオをコントロールしていることが丸出しになってしまい、作家性の発露ですね、読者を選びますね(作品を読む前から作者と同じ価値観や世界観を持ち合わせている読者しか受け付けませんね、ここはそういうコミュニティを養う場なのであって、他者との出会いなんてのは他所でやってください)、ぐらいしか言い訳がきかなくなる。他に言いようがない。
現状セオリーとして定着しているヒロインごとに別シナリオが用意されたエロゲにおいて「男性主人公自身の物語」をエピソードの連鎖で引っ張っていこうという行為の、困難さ・不可能性というのは、現状、あえて無視することになっているのが作り手と受け手の暗黙の了解になっている。その暗黙の了解をしらず、マンガ作品やアニメ作品あたりのラブコメと同じぐらいのノリで現状の分岐ノベルのシナリオを書き付けていこうとすると、まずもって心が折れる。では、メインライターが折れてしまったあと、残された作品は、どうなったのか。
おそらくメインヒロインであったはずの幼馴染のシナリオは、ほぼ何も起きない。彼女との関係は、上記の「らんま1/2」的なドタバタラブコメ展開で進展していくはずだったので、手をつけられなかったのである。長年にわたり恋人同士にならずに来てしまった幼馴染との関係を解体・再構築し改めて仲良くなるための大きいイベントを原理構造的に仕組めないのが恋愛アドベンチャーという代物であり、その構造を回避するための様々な小技を知らぬまま構成されてしまった本作品のパッケージの中心に位置する彼女のシナリオは、およそ一番ひどい。
同じく、男性主人公がもつ霊力・幽体離脱能力の説明にあたるシナリオも、男性主人公自身が己と向き合うような話にはならない。というより単なる前世話。
ということで、幽体離脱して幽霊や生霊と話せる主人公の能力についてはスルーしておく。つまり「できちゃうんだから細かいことは言うな」で既成事実化しておき、とりあえず、出会ってしまった幽霊や生霊の側の事情が語られるエピソードが骨格となる。枠組みとしては「オバケにゃ学校も試験もなんにもない」という「楽しい日常」と、その解体。ということで幽霊サイド代表の美世子シナリオ、生霊サイド代表の空美シナリオが骨格に準じたシナリオとして土台がしっかりしていることに(結果的に)なり、そのうち、おそらく元の原案・前半エピソードとの兼ね合いにおいて最も<本編>と関係ない、他から独立したエピソードであるところの空美シナリオが、自由に作れたせいかどうか、出来がよかったのだった。てゆか桜川未央の声は好きだ。
空美のよさについて言えば、宙に浮いてる気分が強調されてるのが何より素敵だ、としか言いようがない。現状のノベル系の美少女ゲームの画面構成というのは、背景画像と立ち絵の原理的なつながらなさ(背景から逆算される地面にキャラクターが立っていない)が「そこんとこはスルー」ということで誤魔化され続けたまま、なんとなく成立してしまっているので、空を飛んでいるキャラクターというのは、ただ地に足がついていないのが正当化されているだけでも圧倒的なアドバンテージを持ってしまうのではないかと、これは単なる個人的嗜好でしかないと自分でも思いつつも、考える次第である。
空美は空を飛ぶことの快楽と、宙に浮いたままでいることへの不安とを、素直に吐露してくれる。いや声優さんの演技が優れてるとは思わないが、桜川未央の声でゆってくれるのが好きなのである。\(>ヮ<)/きゃっほぉ。いや違うゲームだが。
*1:女性の乳に異常なこだわりを持つ点が男性主人公と共通している。
2012年01月26日 木曜日
■[game]井上明人「ゲーミフィケーション <ゲーム>がビジネスを変える」NHK出版 
まさかのビジネス書分類でのデビュー。なんでNHK・・・って、そういやMAGネットに出てましたね。
体裁としては、実践本じゃなくて「こういうことが起きている」という啓発本です。オバマの選挙戦略でミニゲーム的なモチベーション喚起がネット経由草の根選挙において非常に効果的に使われた、といった話を筆頭に、いろいろな「ビジネスの現場でゲームデザイン的な考え方が活用されてる」、かのような話。
ですが、著者の関心は、明らかに「ゲームじゃなかったものがゲームになる瞬間を捉える」であるとか「ゲームがゲームとして成立するシチュエーションの境目を見極める」でありまして、後書きで語られているように、とても判りづらいし捉えにくい「ゲームとは何か」とゆー思索的な内容が中心にあります。(てゆか改めて見たら帯に「<ゲーム>とは何か?」と書いてますね)
まあ実際、そういう視点を持っていないと、いろいろ余計な揚げ足取りに引っかかる話だと思います。おそらく、ここであたしがどんだけ紹介したところで、「ビジネスの現場でのゲーム活用って、要は売上ノルマ競争だろ」などと、本書で再三再四、様々な語り口で注意深く否定されてる考え方を粗雑に採用してあっさりと一刀両断し、無視する人のほうが多数だろうというぐらい、デリケートな内容です。デリケートな話を、様々な実例の積み上げによって、なんとか導き出そうとしています。偉い。
あたしらは逆に、ビジュアルノベルというジャンルにおいて、「ゲームであったものがゲームじゃなくなっていくこと」「もはや明らかにゲームではないようなものがゲームとして扱われ続けること」、つまり、「ゲームじゃないとはなにか」のほうが話の中心でした。ので、ここに書いてるようなことについては、成る程なあ、と面白く読みました。
2012年01月23日 月曜日
■[movie][anime]映画 劇場版けいおん! 
今日、3回目を見に行った。
「けいおん!」で唯たちが通う高校のモデルとなった豊郷小学校旧校舎が、自治体が解体を強行しようとして問題になった場所であるのは、知られているし、僕も知っていた。
・豊郷小学校旧校舎…解体の危機から町おこしの主役に
http://takuya870625.blog43.fc2.com/blog-entry-1058.html
ただ、そんなことは意識して見ていたわけじゃないし、今回も気分転換したかっただけだったのだが、あの校舎の階段のウサギとカメを見てしまうと、嫌でも今やってることを思い出さざるをえない。
僕は今、かつて県立高校があった土地の扱いを巡って神奈川県と争ってまでも公園設立を目指す住民運動を、手伝ってしまっている。
高校は生徒減少で廃校になった。廃校になったあと、文化活動や住民サービスで使い始めた矢先に土地を開発業者に転売する話が決まった。地元住民に反対されながら校舎は取り壊された。先週には競争入札にかけられたが、神奈川県の予定落札価格に届かず競売は成立しなかった。仕方ないので、再度の競争入札をやろうとしてる。大筋としては、それだけの話だ。
それだけの話なのだが、嫌になるぐらい紆余曲折がある。
ひとつめは、その高校の施設は生徒数が減少したら福祉施設なりに使うという話が、高校設立時からあったこと。
http://www.youtube.com/watch?v=YXk_jzDsJaE&feature=related
ふたつめは、高校のあった場所はもともと日本鋼管の産業廃棄物を投棄してたような、建物を改めて建てようと掘り返したりすると土壌汚染が見つかるような土地で、それを盛り土した上に校舎を建てていたこと。それをまともに調査して売りさばいた日には土壌汚染の処理で売却益なんぞ出ない、そうな。
みっつめは、小泉改革ではじまった不動産ファンド(TVのCMでいやというほど流れてたアレ)という投資の手法によって、常識的に見て利用価値のない土地でもファンド化して売りさばけるようになったこと。ショッピングモールの建物だけ作っておけばテナント収入が入りますからといって、そのテナント収入の予想でもって不動産を紙切れの束化したファンドを売りさばくことができるようになったのだという。実際にはテナント収入が伸び悩むことが予想されても、現地をろくに見ない海外の投資家や高齢者あたりに適当な収益予測を示して高値で売り飛ばせば開発業者は儲かる。
で。高校の跡地に目をつけた土地転がしの業者が、不動産ファンドの手法を使えばボロもうけだと考えてしまい、神奈川県や川崎市の偉い人たちを巻き込んで、その高校の土地を売り飛ばすことにした。
施設を住民サービスに提供するという約束があるが、そこは、土壌汚染があるから校舎は使えない、解体して売り飛ばす、という話にした。この説明がなんかヲイヲイ、だった。基準値オーバーしてるけど人体に影響はない、とかなんとか。
http://www.youtube.com/watch?v=zSItIncnF0E&feature=related
そのうち、よっつめが出てきた。校舎にはアスベストが使われていた。アスベストは建材として塗り込まれてるうちは問題ないが、解体工事でぶっ壊した際に飛び散ると大問題になるので、多額の費用をかけて飛散しないよう解体しないといけない。が、神奈川県はとりあわなかった。
この頃がヒートアップのピークだったのだが、神奈川県が反対運動してる人たちを片っ端から告訴したり(まるで関係ない人間まで何故か訴えられたりしたので、これまた盛り上がったhttp://www.youtube.com/watch?v=7rtWUfU3erY&feature=related)いろいろイベントやったあげく、強制執行命令が出たふりをして(裁判所の許可っぽいものをねつ造して)、警官やらガードマンやらを大勢繰り出して、けが人まで出したあげく、校舎解体は強行された。
ところが話は終わらなかった。校舎が解体されたが、その後、開発はされなかった。リーマンショックになっちゃったのである。不動産ファンドを盛り上げてた海外資本はどこぞに消え失せ、そもそも、真っ当に売ろうとしたら二束三文にしかならない土地(土壌汚染&アスベストつきで、立地もはなはだ悪い上に、土地転がしのために「住宅やマンションや老人ホームや病院や託児所は建てちゃダメ、商業開発だけやっていい」という開発計画にしてしまったため、使い途がまるでない)に成り下がった高校跡地に、転がす側が見切りをつけて手を引いてしまったのである。残されたのは校舎解体や土壌調査に億単位の金を使い、開発計画まででっちあげてしまって、もはや引くに引けなくなってしまった神奈川県と川崎市で、なにがなんでも当初の計画通りに売らなければならないと、競争入札に出すことにした。売らなきゃいけないから、土壌汚染もアスベストも全て適当に誤魔化してしらを切り通すことにした。
そこに、「校舎がないなら公園にすればいいじゃない」と言って、しょうこりもなく住民運動が出てくる。つまり、僕らだ。入札に参加して、参加するからには現地を見させろと言って、神奈川県がないと言ってたアスベストを探し出し、きちんと調べるまで売るなと言った。
で。
実を言えば、僕はそれまで全く関わっていなかったのだが、いきなり交渉役をやってる。
正直、どうでもいいと思っている。どうせ投げた人生だから。仕事だろうと住民運動だろうと好きにしろと思っている。僕が巻き込まれてること自体はどうでもいい。
けども、「けいおん!」で、教室で卒業ライブを敢行する唯たちを見てしまって、階段の手すりを見て、あの音楽室を見てしまって。振り返ってしまったときに、あの教室が解体されていたかもしれない教室なのかもしれないなどと余計な思いつきをしてしまったために、落ち着かなくなった。
映画が終わって外に出ると雪が降っていた。ロンドンから帰るときの雪。旅の終わりなのに映画はまだ終わらない雪が、映画と映画の外を繋げてしまってる。雪の中を歩いて余計なことを考える。
http://www.youtube.com/watch?v=om5PIwAvvb0&feature=mfu_in_order&list=UL
喋ってるのは僕だが、僕は、この延々と続く茶番劇に、ろくすっぽの思い入れもなく、いかにも判った風に口をきく。相手の神奈川県の課長も似たようなものだ。仕事だからやってるだけ。ついでに言えば喋っている場所は「アスベストはないから調べる必要はない」と何年も言い張ってきた神奈川県庁財産管理課の、その会議室だが、課長さんの背後のロッカーの上には「アスベスト」と大書された段ボール箱が5個も6個も積み上がっている。隠す気もなく、ただ言葉を言いつのり続けるだけ。お互いにどうでもいいと思っている同士がギャアギャアとわめく。当事者でなどありはしない。では本当の当事者なんているのかといえば、そんなのはない。あえて言えば土地転がしで金を儲けたい奴が当事者なんだろうが、それとてもはや、だ。福祉施設に入所できずに待機している高齢者、アスベストをばらまかれた周辺住民、神奈川県の予算をただ延々と垂れ流されてる県民は当事者と言えるかもしれない。が、その当事者の多くは種々の事情で黙っている。跡地のすぐ風下にある小学校の児童たちは最悪の被害者と言えるかもしれないが、教師も公務員なら親も土建業が多い地区ときては、何をかいわんや。誰もが都合で動く。住民運動だろうと金儲けだろうと同じだ。ただ特定の主体を想定し、その主体において合理的であるかどうか、効率的であるかどうかで物事の善し悪しが判断されるだけだ。そんなことは判った上の話。軽音部の部室。唯たちの教室。階段の手すり。
雪の中を歩く。教室での卒業ライブはどうしても涙を禁じ得ない。
2012年01月01日 日曜日
■[novel][anime]伊藤計劃『ハーモニー』感想(「ハーモニー」「輪るピングドラム」などネタバレ) 
「あの、『カエル君 東京を救う』って本は、どこにありますか」(輪るピングドラム9話)
まず先に書いておくが、あまり面白い本ではない。というか伊藤計劃についてはデビューしたばっかりの新人が雑誌の都合やネット論壇の都合や作者自身が死んじゃったのやで過剰に持ち上げられてる気がするので、そのへんを差し引けば、こんなもんじゃないかなと思う。
さておき同世代団塊ジュニアのゲーマー世代らしいひねくれ方ではあるのでとっつきやすく、文章は上手で読みやすいし、小ネタは面白い。現実世界の道具が全部バーチャルタグ付けされてて検索簡単になってると結果として部屋を片付けず散らかりっぱなしになる、というPCあるあるネタが繰り返し使われてて、作品全体への類推・投影がなされてるのだが、ソフトウェアが十分に進歩してしまえばハードウェア(本棚など)での管理は必要ない、てのがキモだ。
いちおう「虐殺器官」「ハーモニー」とオリジナル長編2本読んだが、伊藤計劃が重度の押井守フリークで劇場版パトレイバー大好きな人なのがよく知られてるわりに、東京ネタじゃないのが気になった。というのは、読む前に下記の展示を見に行ったので。
・メタボリズムの未来都市展
http://www.roppongihills.com/feature/metabolism/metabolism.html
「日本発の世界的思想展開」であるらしい、パンピーのこちらから見るとSF特撮・アニメの風景や大阪万博に結実し代表されるような都市計画およびそれに沿った建築思想の俯瞰を試みた展示で、建築模型も豊富で非常に面白い展示だったのだが、とりわけ直前に森ビル展望台から現実の東京を俯瞰できもして、現実の東京が建築家の思想を反映させず、さほど「未来」を展望していないのがよくわかったりした。
現実の東京に十分に反映されなかった理由はさまざまだと思う(スローガンをぶち上げるだけぶち上げといて仕事にありつければいい、という考え方ならば、十分にその役割を果たしてると思うし)が、特にこの「メタボリズム」(有機的な、新陳代謝を繰り返していくイメージ)についていえば、ソフトウェアの概念の発展と拡大が、ハードウェアの最たる建築や都市デザインの発展・展開を阻害していった、と言えるのじゃなかろうか。「虐殺器官」でも監視カメラが山ほど配置された市街の描写は、都市デザインの側ではなく、人体の側やソフトウェアの側の問題として描かれていて、市街そのものは言ってみれば昔からの町並みというやつだったりする。というか、その手の「ソフトなゾーニング」のアイデアが弄ばれてるときは、物理的な障壁などで「強制的に分離排除する」のではない、目に見えない仕分けの手法について強調していたように記憶してる。メタボリズム展で提示されるような建築・都市デザインは、人の実際の生態にあわせた形での都市の新陳代謝しやすさを題材にしていたが、そういう「人に即した形」は言うまでもなく空間デザインでもって人の行動をコントロールしようという発想の先にある(渋滞や通勤ラッシュなどを都市デザインでコントロールしようとしたわけで)ので、ソフトウェアによるゾーニングとは全く重ならない。
東京湾に巨大都市を建設しようとする計画をコンピューターウィルスが阻害する劇場版パトレイバー1作目は、おそらく、そうした面からもハードウェアからソフトウェアへの主題の移行を示していたはずで、その影響下の伊藤が「都市東京」をさほど取り上げないのもむしろ当然なのかもしれない。
だが一方でソフトウェアで事足れりという発想は小説という文章芸だから言えたこと、でもある。映像にするとなると、「見えないゾーニング」なんぞ扱いづらくて手に負えない。人間の文明てのは絵(表象)優位のタイミングと文字(コード)優位のタイミングが交互に入り組んで繰り返し現れてくるものなんだろうが、現状この「ソフトウェア」の展開というのはコード優位で回っているのだろう、映像文化に深く絡みつきながら、映像そのものに抽出しづらい(映像に絡んでるから映像にしづらいとも言える)。で、映像側は映像化しにくいソフトウェアを指し示せず、とにかくハードウェアに現状を落とし込んでくことになってるのだと思う。
つまり、「都市」なんて取り上げてもしょうがないかもしれないけれど、「都市」を指し示さざるをえない。
だからエヴァンゲリオンだったら「第三新東京市」なんてのを作りもする。「東京」はなくなり地方が舞台なのに、名前は「東京」となる。本来の東京の未来は描けない。代わりに地方を「未来」に、「東京」にする。第三新東京市の高層ビル群が状況に応じてフレキシブルに可動する代物だったというのも「ハードウェアとしての建築物」について軽やかにフレキシブルに、ソフトに扱おうという考え方なんだろう。新劇場版ともなると、もはや人が本来の目的に使用可能なのかも疑わしいほどフレックスな可動建築群が披露され、「都市東京」は薄っぺらな記号でしかないことを露呈しさえもする。95年のTVアニメであれば他人を拒絶することで他人の存在が作品世界に厳然と存在することをまがりなりにも示していたのだが、新劇場版はコミュニティ構築が上手くいきすぎてリア充になった結果、むしろ身内で固まり世界が狭くなってしまった。
そうして地方、もしくは地域共同体レベルへ逃避しはじめる。というのは、おそらく背景が細かくなってきたことと無関係じゃなく、ネットでファンが背景画像の元ネタを探し出すのが当たり前になるぐらいの「細密な背景」によって、無国籍な世界観が排除されはじめたのだろう。あるいは作劇上せいぜいスクリーントーンのテンプレ背景でしかないような「都市」しか求められていない時代。一方で、そのまま首都消失とゆーか東京の中心部は空洞だったり空白だったりするネタもしばしば見かける。皇居と皇族について語れないがゆえに中心部を空白にせざるをえない事情によるところが大きいのだろうが、東京なり都市なりのイメージは、そのモチーフの主軸を欠き、語り得ないところにおしやられる。
そうしたなか「廃墟となった東京」という終末戦争モチーフを逆手にとってそのまま都市デザインに持ち込んだコードギアスは、やはり独自の位置づけになるのだろう。租界とゲットーの対比で語られる東京の風景は登場人物達の生きる世界背景としてコントラストがはっきりして有効だ。ただし、ルルーシュらが「学園」の中で生活しているため、租界がどのような場所であるかは不明瞭なままで終わってしまい、実際には物足りない。ルルーシュの二重生活のコントラストは、学園とゲットー(廃墟)の対比になってしまっている。
ようやく『輪るピングドラム』が東京を主題にすえる。陽毬が探したのは自分のことでも友達のことでも家族のことでもなく「カエル君 東京を救う」で、物語の中の大きな事件は東京の救済である。いかにも全体主義的なモチーフの巨大男性像がリビルドされて東京タワーになったエピソードに象徴されるように、東京の再構築が目指されていた。そこで画期となったのは、東京を面で捉えるのではなく、地下鉄のライン=線で捉えた点にある。線はつまり「コード」だ。コードギアスもまたタイトルに「コード」を挿入していた。東京を語るには、映像で手広く面的に把握するのではなく、ストイックにコードでもって捉えていくべきと喝破してみせた。
京都の方形構造と対比したとき、東京を江戸城の縄張りから宮城を起点とする「渦巻き状」と形容したのは社会学者の内田隆三だ。渦巻きの長さ、奥行きの深さが東京の中心を見えなくしていると説く。「ピングドラム」はだから、コードの端である荻窪からはじめて池袋へとひとつづつ読み解いていく。そして最終話で「乗り換え」て、線は円環を描くように内側へと折り込まれる。それはまだ中心には達していない。が、その軌道は渦巻き線の中心がどこに向かっているかを指し示している。
2011年12月08日 木曜日
■[anime][movie]けいおんのけの字も知らない人を映画館に連れて行くべく、「けいおん!」解説を試みる 
題目の事情に対応しなければならないため、いろいろ後回しにして書かせていただきます。該当する人、別段、無理に読まなくてもいいよ。
- とりあえず押さえとくべきポイント
昨今のオタク系のコンテンツとしてみた場合、角川系列じゃない、というのが指標ではないでしょうか。
- 萌え4コマというジャンルについて
現状、日本においてマンガは欠かすことのできない産業であり文化です。が、マンガ業界は不況です。言うまでも無く不況のマンガ業界でコミケに代表される同人誌文化圏は作家の輩出元として欠かせません。昔だとエロ漫画や専門誌付属マンガみたいなサブジャンルからのコミケ系作家デビュールートが大きかったのですが、同人文化圏の拡大とマンガ業界への浸透の流れの中、萌え4コマというジャンルが発見されます。4コマだと背景にそんなに力をいれなくていいし、コマ割や構図の技術とか足りなくても描けるし、同人に手出しし始めたぐらいの人が描きやすいし、商業化するのにもコストが安い。まだ技術足りないかもしれないが、ちょっとセンスのある若手を拾ってくるのに適してる。
てゆか、大雑把に、昔はエロ漫画つったら劇画しかなかったのが今はエロ劇画が壊滅とゆーマンガ業界の変化が、遅まきながら4コマ業界にもやってきた、という程度に考えておけばいいです。
日常系とか空気系とか、マンガ評論な人らは好き勝手に言っているんですが、4コマなんて昔からサザエさんとか少年アシベとかコボちゃんとか、そーゆーものです。あずまんが大王が大成功した系譜があったとか、らきすたがヒットしたので脚光を浴びたとか、というのは間違いじゃないんでしょうが、実際に読んでみると、言うほど日常でも空気でもない。てゆか、普通のストーリーまんがで描いても良さげな程度にストーリーが進展してく率が、サザエさんなんぞのイメージよりかは、はるかに高いです。くだんの「けいおん!」にしても、けっこうストーリーが進みます。
つまるところ同人作家を捕まえてきてコマ割りとか背景とかに力を入れずにマンガを描かせたのが萌え4コマなのであって、中身はサザエさんみたいな古典的4コマであっても、4コマだと迫力に欠けるけどストーリー展開するんであっても、どっちもあり。4コマという単調なテンポの形式にあった内容として、ドラマチックじゃない、ささいな出来事や、他愛のないやりとりを上手く取り上げる作家のほうが向いてるというのは確かですが、まんが評論な人がいう「日常」とか「空気」とかは、そゆのが描けるハイセンスな人を持ち上げるためのキーワードであって、それも、あくまでガンダムとかのSF戦争モノや、あしたのジョーとかの命かけてのスポーツもの、ジャンプのバトルもの、とゆーのと比較して、つまりコッテリな過去ヒット作と対比して「日常」「空気」とゆってるんで、萌え4コマと括られるジャンルが全部「あずまんが大王」みたいな代物であるというのは、間違いです。
- 京アニについて
そもそも、バトルシーンがきっちり描けてるぜ、作画が細かいぜ、みたいな受け方をしてるところですから、京アニが扱うと、基本的に原作よりコッテリします。恋愛エロゲとか萌え4コマとか、ロボットものほど盛り上げるポイントが判りづらい代物を扱う手つきにおいて、京アニというコッテリ志向は、「派手じゃないものを派手にする」というやり方で、一般受けするのに丁度良かった。そのため「けいおん!」原作ファンがアニメを「原作破壊」として批判するのも、わりと見かけます。
「けいおん!」第一期は、明らかに予算少なめ(動画抑え目)でしたし、第二期を作るのを想定した内容でもありませんでした。実際、かなり無難な作りです。ハルヒで好評を博した楽器演奏シーンが深夜アニメ青春モノで繰り返され定番化してる中、「ハルヒの京アニ」として、動画の売りはオープニングやエンディングでの楽器演奏でしたし、物語のクライマックスは学園祭のバンド演奏でした。原作のチョイスも、4コマ女子高生もの「らき☆すた」が「等身大の女子高生を描いて同じ世代にヒット」した後、また芳文社「まんがタイムきらら」系の「ひだまりスケッチ」が成功したTBSでの製作ですから、いかにも通りやすそうな企画です。売れないものを出す気はないわけですが、狙いどころとしては堅実な小〜中ヒットぐらいを想定していたように見受けられます。第二期はうってかわって全力投球で作られるわけですが、ハルヒの第二期を大外ししちゃったから製作の軸足を「けいおん!」にシフトしたんじゃないのかな、と勘ぐりたくなるような豹変ぶりでした。
- 「日常」「空気」について
評論化筋がいうほど「日常」という要素が受けてるわけではないです。というか、基本的には一定以上のマスの客はいつだって派手な舞台やドラマを求めてるものです。
言うまでもなく周知のこととは思いますが、「女の子の可愛らしさ、セクシーさ、萌える度あい」を競ってる作品について、評論ぶって偉そうに言わなきゃいけないときに、「日常」とか「空気」とか使うんですが、最近はもう単語が一人歩きして、4コマだから日常ものと呼んでおけば大丈夫、のよーな感じです。
- 「けいおん!」アニメ第一期について
アニメ化が結果として変則的です。第一期は1クールで高校生活の2年間を駆け足に描写しており、スローテンポのガールズトークなんてのは少な目ですし、日常描写よりは主人公である平沢唯の部活動を通した成長物語としての骨格を重視して構成されてます。原作にないシーンを拾ってみると、感情落差がかなり激し目に増幅され、ドラマとして、とっつきやすい。「等身大の女子高生」、ようは日本一を目指して血反吐はいたりしない、とゆーぐらいの意味ですが、唯がギター練習する描写については原作より強調されてますし、まるきり駄弁ってるだけじゃないよ、努力もしてるんだよ、という作りになってます。
第一話の冒頭、学校に遅刻しそうになった(実際は時計を見間違えて1時間早く出たんですが)唯が必死で駆けているカットと、犬にかまったりして立ち止まり寄り道してしまうカットを交互に見せるというシーンが、第一期の全体を示しています。トータルとして、あらんかぎりの全力疾走じゃない、自分の身の回りプラスアルファぐらいの一歩前へ、ぐらいのニュアンスですが、そこは京アニ、バランスの取り方が派手でコッテリしてるんですね。つまり絵面としては熱血ドラマのような見せ方をする一方で、極端に「頑張ってない」絵面も用意する。シーン描写として熱血風味だけども脱力気味な意味合いを持たせ、絵としては日常ギャグっぽいシーンでは本人としては凄く青春して頑張っている、そういうベタな組み立てになっています。もともと、ジャンプあたりでも特訓シーンは一瞬であとは主人公の天賦の才で勝ち進んでいくものです。「けいおん!」第一期は、娯楽作品一般と比較してみても、部活動で努力する姿の描写率が取り立てて低いわけでもない。
評論化筋の意見を収斂させてくと、甲子園を目指さなければ野球マンガじゃない向きからすれば「より高みへ」度合いが足りない、といったあたりでしょうか。貧困描写がないとか科学技術批判がないとか戦争の悲惨さを提示していないとか言えなくもないです。が、そういう好みを表立って言う奴は、とりあえず1強となったワンピースについて批判してくれと思います。あたりさわりのないファンタジーじゃなければ勝利も友情も努力も説得力を持ちえなくなってしまったよーな状況下で、まがりなりにもコッテリした青春ストーリーをやってみせた、とりあえず、「頑張れるものを何も持ってなかった普通の女の子」が最初の一歩目を踏み出した、「けいおん!」第一期は、そういう位置づけになるかと思います。想定外にヒットしたのも、玄人受けしそうな日常描写が優れていたからではなく、一般にとっつきやすい青春ストーリーの体裁がしっかりと整っていたからでしょう。
- 「けいおん!!」アニメ第二期について
第二期「けいおん!!」になりますと雰囲気がガラッと変わります。なにしろ第一期が12話で1年半が過ぎていったのと比較して、24話で1年間を描写するわけで、単純に言っても時間を3倍に引き延ばさないといけません。原作ですっ飛ばしたエピソードを再構成したり、オリジナルエピソードが大幅に追加されたりと、わかり易い意味で原作から離れたオリジナル作品になり、また第一期で端折られた「女子高生の他愛ない会話」が復活します。こうなってくると、第一期のバランスで青春ストーリーをやるわけにはいかない。
結果、どうなったかといいますと、凄まじくノスタルジックの方向に寄って行きました。第一期で端折った原作ネタを消化するためでもあるのでしょうが、キャラクターそれぞれの過去の回想の比率が上昇しています。顧問であるさわ子先生はさわ子先生なりに自分の学生時代を思い出しますし、まだ青い女子高生でしかない唯たち主人公も、幼稚園時代や小学校時代、過去2年間の高校生活などを振り返ることが、この手のものとしては随分と多い。まあ、京アニらしい、コッテリした手法で乗り切ろうとしたわけです。ですので第二期は作品全体として過ぎてく時間への哀切が強調され、最終的に主人公たちの卒業に向かっての着実な歩みとして刻まれていくことになります。萌えアニメというのは「女子高生としての時間」を視聴者が愛でるもの、なわけですが、「けいおん!!」は、唯たち自身が自分たちの過ごしている今という時間を愛でるもの、という要素が加わりました。
そんなふうに卒業というイベントに作品全体が収斂してく作りであったため、本放映時期には、軽音部メンバーの4人が全員同じ女子大に進学するという展開についてネットで大ブーイングをかます人たちが出てきたりもしました。卒業して「けいおん!!」という珠玉の時間は終わりを告げるんじゃないのかよ、いつまで甘ったるい時間に浸るんだよ、というわけです。その件についての評価はとりあえず控えますが、別に、原作が継続することやアニメ第三期を作ることを狙ったといった作品外部の理由オンリーでもって、4人とも進路が同じになったわけでも無かろう、とは思います。
- 「けいおん!」の映画について
というわけで、まだ見てませんが、予想される見所について考えてみます。
正直、第一期と第二期があまりにも違いすぎるので、予想は困難です。「日常」だったり「空気」だったりすることは、まあ、ないでしょう。実写邦画よりかは、よほどエンタメになってると予想されます。背伸びしすぎない等身大、という部分は最重要視されるでしょう。第二期の修学旅行のエピソードではサザエさんOPのごとく名所巡りに精を出すことはなかったので、ロンドンの名所巡りにはならないと思います。楽曲を演奏してナンボの話ですので、そこから組み立ててくと思われます。人間関係についてみた場合、一人だけ1学年下である中野梓(あずにゃん)との、とりあえずの最後の思い出作り、という部分はバックグラウンドとして押さえておいたほうがいいかもしれません。表立ってはやらないかもしれませんので。
- 楽曲について
アニメ第一期では、原作で歌詞が提示されていた「ふわふわ時間」という曲が、実際にメロディーをつけて製作され、原作の歌詞そのままに劇中で唯たちが演奏しました。「ふわふわ時間」の歌詞は、作中でも「かゆい」とツッコミが入るような、いかにも「女子高生の可愛らしさを強調してみせたポエム」なのですが、それがきちんとロック調の曲に乗せて歌われます。いわゆる「女子高生たちの可愛らしい日常・ガールズトーク」の要素を楽曲のほうに任せたから、ベタな青春ストーリーであっても雰囲気が極度に重くならなかった、という見方が可能かもしれません。
abogard
2011/12/11 22:26
実に手堅くエンターテインメントに徹していたので、何も知らなくとも十分楽しめました。何気ない行為に思想性を加味するのが平沢唯の天然性であるところ、実に主人公していると思います。
tdaidouji
2011/12/12 13:04
楽しめたなら何よりです
2011年11月30日 水曜日
■[game]反発。 
しらんうちにリンクされてたようである。しかもまあ、ひどい。
http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.g.hatena.ne.jp/highcampus/20111116/1321427654
このへんについては、
とか書いた。
ざっくりいえば、「テキスト」だの「物語」だの分離して、あれは別、ゲームじゃないしシステムじゃないし、そんなのばっかなのは嘆くべき状況だし、というのは、やめたほうがいい、ということである。具体的には、「STGの演出史と『メタルスラッグ』シリーズ批評史」とか、もってくる意味と方向性が見当違いにすぎる。そんなもん「俺はこっちのほうが好きだ」とゆってるだけで、なんの交流にもならない。
はっきり、「なんか、もっと、できたんじゃないか」は、制作者サイドやゲームで青春した奴のロマンチシズムである。そんなこと言ってるうちは、なんもできぬ。つうか、ケチつけてるだけの煽りです。
>「おっと、補足し忘れていたけれど、アダルトゲーム(エロゲ)関連で、あの話題について多く呟いた理由として、別に現状の読み方に対して底浅いお! 悪いお! という意味じゃない」
とか、煽りの常套句だよね。
ゲー夢エリア51の同人誌ですか、読みましたが、何か? Digraの年会費払って会誌読んでますが(つまんない記事多いけど)、何か? とでも、返事して欲しいのかな。
これだけ書いて放置しても相手と同レベルなので、指針として提示しておくと、「(コンシューマーゲームやゲーセンのゲームを全て含めて)コンピューターゲームって、本当にゲームなのかな、ホイジンガをはじめとした思想家や言論者やコンピューターゲームが出現する前の一般の人々の言うゲームとコンピューターゲームは異なるものなんじゃないかな」という、自分自身の足下を疑う、という最低限のことは、やっとくべきだ。
たとえば、現実世界のサッカー競技と、エロゲのAVGを両極において、で、まんなかに、メタルスラッグでもなんでもいいぜ、コンシューマーの何かを置いたとしよう。いったい、どっちに近いか?
自分が子どもの頃から「それ」をゲームだと思ってるからって、それを思考の基準にしていいわけじゃないよ。
追記。
もう一つ、大事なのは、コンピューターゲーム文化の「負の側面」も、批評する側がきっちり取り込んでいかなきゃダメだよ、ということである。なんつうか「僕らの愛したゲームは、ゲーム文化は、こんなに素晴らしかった!」という話ばっかだから先が続かないんだと思っていて、ゲーム脳て言われちゃったよとか、目がショボショボするとか、ゲームを「原作に忠実にアニメ化」するとショボい話になりがちとか、本を読む時間が減って学力低下するよねとか、そゆのも飲み込んで包括して書かなかったら嘘だろう、と。
ススミハジメ
どうも初めまして。私の内容についての真っ当な批判ありがとうございます。このような的確な文章がもっと増えてほしい、という感じです(特に自分自身の足下を疑うと「負の側面」のくだり)。そういうところから始めないと、どうしようもないので。
ススミハジメ
ただ、「見当違い〜」という部分だけは、ぜひ補足させてください。わざわざSTGを持ってきてるのは、そのジャンルにおける演出がどう評価されてきたか? というを比較検討するために調べてはどうかという、提案したいという意図がありました。ああしたジャンルの中で演出はどう認識され、そこでの批評のあり方は、どのようにされてきたか? (どんなジャンルでもいいのですが)例としてSTGの演出を探ってみるのはどうか、ということを一例として挙げたい考えがありました。
ススミハジメ
最後に、Digra会誌はまあその……昔はそういうものにお金払ってきましたが、最近は無料で公開されてる業界紙(DevelopとかGDMとか)ぐらいしか段々読まなくなってきました。なんだか、ゴールの見えない経過だけを見てるような気分になってきて、葛藤の末に、という感じです(現状を確認するのも重要なんですが……)。それでは、長々と申し訳ありませんでした。失礼いたします。
tdaidouji
はじめまして。私語りをさせてください。世界が憎いです。どうあがこうと二次元の女の子に関わりようのないのなら全て滅びろと呟いて紛らわしに酒に逃げる程度に。俺の書くことなど、先のない捨て鉢です。他人を呪う以外に思いつかない。自分でそのようなところへ向かおうと決めてそのように考えてきました。もちろん、そんな「自分」なんてのは何もないんです。語るべき自分を持っている人への呪いでしかない。守るべきものを持っている人への縋り付きでしかない。
tdaidouji
Digraの会誌を指して「ゴールの見えない経過だけを見てるような気分」というのは的確だと思います。結局の所、ゲームを論じることの言いようのない不毛さに、誰もがぶつかって語り口が重くなっていくことの繰り返しなんです。ゲームについて真っ当に向き合おうとする人ほど、その困難さと向き合うことになります。東浩紀らの周辺がゲームの学術語りのパイオニアであるように振る舞えたのは、そんなことは百も承知とばかりにゲームについての論述を避けて通っていたからです。ですから「本当に、おはなしからしか語れかったのかな」というのは、まず、かつてゲーム論を語ろうとしては、その語り口から一歩奥へ踏み込む事の困難さでジャンルごとの語りに踏みとどまらざるを得ずにきてしまった、そういう事情があったんじゃないかと推測しないといけない。それが私の見解です。
tdaidouji
海外のゲーム論は、このさき、おそらくは日本のそれより余程に気楽にゲーム論を展開していくでしょう。ボードゲームやカードゲームであるならば発達心理学なりの発展として成立していくでしょうし、FPSやMMOなどでああれば現実世界に対するシミュレーションという側面をあっさりと認めていくでしょう。マリオを東洋の神秘のように別枠にしておけば、それでいい。
tdaidouji
何が困難なのかといえば、行き着くところ、客観であるような自己の立ち位置を設定できないから、となります。だから俺は自己などなくしてしまえと思いました。それはつまり、何かを語る資格を放棄して逃げ出すということで、それは百も承知でした。それで構わないと思いました。気分が悪くなる話ですが、二次元の女の子のため、それだけを基準にしました。二次元の女の子と、どうあがいても関わることなどできず、理解することも知ることもできないことを踏まえた上で、何の基準にもなりえないことを頼りにしました。
tdaidouji
守るべき場、戦う領域がある人への嫉妬と怒りと、それと諦めしかありません。
tdaidouji
勿論、それぞれの細部について語り続けるのは真っ当で、およそ、それしか手段はありません。ゲー夢エリア51のような手法はもっと評価されてしかるべきですし、かつてのSTGの、というかアーケードゲームがコンピューターゲームの主戦場だった頃の語りはいくらでも再発見されるべきです。それをエロゲのビジュアルノベルとの差別化のような形の語り口にしてしまったら元も子もないのですが、一方で、それを客観に落とし込むことについては、胃がおかしくなる感覚に身を捩らせます。何もない、という実感があります。
tdaidouji
おそらく公共とは何か、社会とは何か、そういった面からゲームを把握していくことになります。「実用でないのがゲーム」であるなら、実社会をとりあえず設定して、そこから弾かれたものとしてゲームを設定することになる。そうしたときに、いうまでもなく、哲学なり文芸なりの設定し紡ぎ上げてきた人格なり主体なりを否定し対決しないとはじまらないのも、おそらく確かです。それらはまずゲームなるものがあることを否定します。
tdaidouji
自己も確立できないのに「否定」したり「対決」したりできるわけがないんですよね。それこそ無理ゲーってやつです。
ススミハジメ
本当に真摯な返信、ありがとうございます(同時に時間を割いていただいてありがたい)。まず最初に、tdaidoujiさんが批評されていた伊藤さんの当該文章を読んで「(伊藤先生は)まだゲームには色々と語る視座と語られるための文体があるだろう」と個人的に受け取ったのです。折りしも、アダルトゲームにおいて今後いろんな表現や切り口が増えていく中で、現状の物語のみ、または物語部分を主体とした受け止め方では、いずれ袋小路に陥るだろうと考えていた自分にとって、むべなるかなという受け止め方をいたしました。
ススミハジメ
次にtdaidoujiさんの文章を拝読させてもらったとき、二つ自身の思索の中で看過出来ない部分がありました。「そこで批評的に眺められる「システム」というのは結局のところ物語だ」という部分と、「コンピューターゲームの固有の場を確保できるようなものではない」という部分です。
ススミハジメ
前者について、アダルトゲームにおけるゲーム部分について、これは私のような作り手側の怠慢であって、今後乗り越える可能性があるかもしれない……後者は受け止め方の色々な視座が生まれたとき、本当にtdaidoujiさんの結語のままなのかどうか、まだわからないのではないか? 前者後者とも、その可能性を含めてもよかったのではないか? と思ったのです(楽観的ではなく、そう必死に可能性を創出しなければいずれ消え去る市場だという悲壮感からです)。だから、私は「的確ではない。残念でならない」と思い、記述したのです。職業的矜持からの姿勢もあるので、暴論的表現で申し訳ありませんでした。
ススミハジメ
今回、tdaidoujiさんの返信を受けて、私はtdaidoujiさんが自分の想定している部分から離れ、もっと大きな論点から真摯に論じていたことがわかり、その点について汲み取れず、特に安易に引用してしまったことを反省します。ただ、tdaidoujiさんが指摘されるものが最終的に待ち構えていたとしても、まだtdaidoujiさんと同じようなレベルまで至った経験的測量、その歩んだ場所まで行けるだけの視座が、現状少なすぎるのではないか? と思います。最終的なゴールは荒涼とした極楽か楽しい地獄かわかりませんが、私の思索の立ち位置はそこに至る経緯の途中にあるため(というかまだ道は続いてるのないか?)、余計に視点の1サンプルとしてtdaidoujiさんとは異なる、対案的な視点を出しておかなければ、という思いも少なからずありました。
ススミハジメ
改めて、STG云々の部分を書いたのは「色々な視座を設ける」ことの訓練的なものであって、つまるところ私の視点が現在「進行形、可能性を含めたもの」として思索しているからでしょう。少ないパイの中から再生産的に消費を作り出すため、という偽善的な戦略ではなく、単純に一個人としてゲームのみならず様々な対象への思索の広げ方、広範な視座を育ててほしい、そこにもっと良いもの悪いものが見えてくるし、より語ることの内容も多岐に、深まるだろうという気持ちが優先的にあります。
ススミハジメ
またもや繰り返してしまいますが、最終的にこうしたゲームにおける視座と語りについて、tdaidoujiさんの指摘する場所があり方として正しいものだとしても、今のままでは道がゆっくりと荒地に還るだけだと個人的に思います。自分は、そうした場所に至るまでの道具を、まだ開拓していかないといけないのでは? と思っています。
ススミハジメ
最後に、こうしたやり取りが出来て嬉しく思います。また機会があれば是非。
tdaidouji
ありがとうございました。後日に。