『ひぐらしのなく頃に』07th Expansion

その8。(完結)
その1はid:tdaidouji:20050720#p1
その2はid:tdaidouji:20050723#p1
その3はid:tdaidouji:20050729#p1
その4はid:tdaidouji:20050731#p1
その5はid:tdaidouji:20050804#p1
その6はid:tdaidouji:20050809#p1
その7はid:tdaidouji:20050810#p1
 
いよいよ、これで終わりです。途中で多少粗雑に処理しちゃいましたが、何とか発売前に間に合いました。
 
 
 
以下ネタバレ。

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月姫」という作品は、従来のエロゲービジュアルノベルの文脈をまるきり無視したところからスタートしています。
それはつまり、ビジュアルノベルやノベルADVが(遡ってはRPGやAVGのシナリオが)「ゲーム」と向き合ってきた経緯を全く理解しないまま、絵付小説のバリエーション程度の気持ちで作り上げてしまった、ということです。奈須きのこが「ビジュアルノベルは小説だ、物語だ」(要するに「VNはゲームではない」との意味を言外に含む)という発言をしてるように、自分が半ば身をおいている「ゲーム」とは何かを問い掛けようとする意識はなかった。「月姫」は自らがノベルであることに全く疑いを持たなかった。それが、「歌月十夜」でビジュアルノベルの形式の閉鎖性について肯定的に言及し(何せ同人ファンディスクだから終わらない学園祭を謳歌してても別段に突っ込まれる筋合いはない)、「Fate」において、内容が「聖杯戦争というゲーム」を題材にしているように、ようやく「ゲーム」なる概念を(自らの足元を)懐疑的に問い掛けるところにまで至る。ここでようやく、他のゲーム作品のシナリオと同じスタートラインに辿り付くわけですが、それは当然、ゲームという文脈と寄り添って成立している「異世界」の概念を揺るがせてしまう。しかしそうした試みは中途で潰え、結局、「Fate」は「奈須ワールド」だか「きのこワールド」に設定のみを回収され、「月姫」などとのリンクによって異世界を維持することになります。*1
 
この「異世界」を見出し「世界観」「世界設定」を消費する姿勢は、別に「月姫」だけがそうであるわけではありません。そもそもコミケでの作品消費は女性陣のやおい同人市場のほうが圧倒的なわけです*2し、そのへんの新聞や週刊誌のゴシップ記事の思考様式も基本的には「自分に関係ない世界の住人の生態を勘ぐる」というレベルですし、ネットのオタク分析も業界分析記事も似たようなもんです。客観性というよりは無関係な他人事としての距離感により成立してる。そのうちに自分自身に近しいことまで他人事としての距離感を取り始めると一人前の引きこもりの出来上がりですが、そういう話は俺の手に余るので放置。ともかく、受け手の側の、世界観をつまみ食いする態度は、送り手には制御しようがない現実としてある。
 
ここにおいて、「ひぐらし」の仕掛けの意味がようやく理解されます。

ですから、あなたは小まめなセーブ&ロードから解放され、

フラグのオンオフ、現在のルートが誤りであるか否かを心配することなく

物語の顛末の最後の最後までゆっくりと楽しむことができます。
http://rena07.sakura.ne.jp/Soft/Prolog.htm

物語を最後までゆっくりと楽しむ、ただそれだけのために、「ゲーム」という言葉は生かされたまま本編から分離されます。ここでもし(奈須きのこのように)「ゲームではない」と宣言したならば、例えばパラレルワールド、時間移動というSF的解釈に身をゆだねたり、ミステリーの文脈に照らし合わせた「フェアな謎解き」コードによる文章チェックに晒されたり、俺みたいのに「ギャルゲーの文脈に照らし合わせて」正しいとか間違ってるとかやられることに対して全く無防備になってしまう。そしてもちろん、設定が完全に公開されないことに対して、「魅力的な世界観じゃないから」といった理由で無視される可能性も高い。しかし、多くの人が求めているのが実は「設定」ではなく「異世界」であり、そこへは設定によらずとも、ゲームという概念を経由していけばたどり着けることを「ひぐらし」は示したのです。その結果、「ひぐらし」は異世界という枠組みから外れた物語を展開することも、それを多くの人に受け入れてもらうことも、理論上は可能になる。物語の外に「ゲーム」を確保することによって。
 

*1:繰り返しますが、異世界という考え方が悪いわけじゃない。それが設定の無限の再生産にのみ従事する(ここではSFもミステリもその片棒かつぎでしかありません)ことで、元となった作品も物語も星の彼方にまで追いやられてしまうのに多く無頓着で、作品論も作家論も表現論も批評も素朴な感想すらも殆ど成立しない状態が一部である、というだけの話です。

*2:こっちは世界設定の代わりにキャラ設定に特化してる

ひぐらし予報

ここからが俺の言いたいことです。
ひぐらし」は現時点まで、5本のシナリオが出てきました。明日だか明後日に6本目も出ます。
以前にリンクした記事では、次のように述べていました。

美少女ゲームに内在する抽象的な意味での「学校」を、本作は無残に壊していきます。
http://d.hatena.ne.jp/judgement1999/20041003

壊すのは、そんな抽象的な「学校」だけでしょうか?
そんなことはないのです。既に、「学校」以外の多くのものを、「ひぐらし」は破壊していく。メタフィクションの様式によるものでも何でもなく、ただエンターテイメントとしての物語を5本綴り続けているだけで、です。
まずは、ゲームという言葉を巡る怪しげな使用法。

これだけ露骨に表現されているにも関わらず「ゲームじゃない」と吠えれば自分の読解力の無さをさらけ出すだけだし、気付いてしまえばゲームと認めるか、あるいは口をつぐむしかない。「『ひぐらし』は選択肢が無いからゲームではない」という表層的な誤解を撒き餌にして、読んでしまったら否応なく「ひぐらシステム」に取り込まれプレイヤーとして認定されるという、アリ地獄のような論理トラップだ。スプラッタな描写よりこっちの方がえげつない。
http://ab.txt-nifty.com/ab/2005/01/post_1.html

何せ、最初のゲームがガンパイのトランプを使用したカード勝負ですからして。「ひぐらし」は、ゲームの根拠となるロジック、論理的説明をまず破壊するところから開始し、続けてプレイヤーの足場となる均質な空間を次々に破壊していきます。
ヒロインへの幻想が破壊されます。ギャルゲーマー的には、これだけでも大ダメージです。*1次に「学校」、これは上記のリンク先の言う通り。なんだか「Sense Off」を髣髴とさせるやりくち。そして「雛見沢」という土地と、その土地にまつわる様々な逸話。「目明し編」では、それまでに語られてきたおどろおどろしいエピソードなどが全くの出まかせであったことが示される。何がしかの根拠があると思われていたものはことごとく薄っぺらで、ただ言葉だけが行き交い増幅されたものであったことが露骨に提示されます。次のシナリオの煽り文に至っては「それは喜劇」ですし。ゲームと、ゲームの概念がサポートし作り上げてきた世界観を容赦なく潰していく。エンターテイメントの形のままで。
元長柾木のシナリオによる「嬌烙の館」と同じことをやっているだけじゃないか、と思う向きもあるでしょう。それはある意味、正しい指摘です。ただ、「ひぐらし」のほうがスケールが大きいだけ。容赦ないだけ。
 
…要するに、ですね。
私はデスネ、期待しているのですヨ。
それは1年と半年後。あっという間に二次創作アンソロジーが山ほど出て、漫画化されて、ドラマCDが出て、曲がりなりにも講談社っつー老舗の出版社の雑誌に特集されて、アニメ化して、コンシューマー移植されて、コミケで流行って、気がつけば映画化もされたりなんかしたりしちゃったりして、ジャパニーズホラー移植とか言うてハリウッド映画化の情報が!とか何とか言ってさ、評価の逆輸入で一般誌でも取り上げられて、「徹子の部屋」に竜騎士07氏が登場! そして遂に発表された最終章、明かされた真実は!?
 
そんな夢の未来を想像して書きました、「ひぐらし」の真相です。
こうだったらいいな、というボクの夢と希望をこめて書きました。
もちろん、推理の根拠もあります。
 
 
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怒っちゃヤ(はぁと)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

*1:というか殆どこれだけで全てが終わってしまうのが立ち絵+背景で構成されたビジュアルノベル形式の恐ろしいところですが。