はいはい酔ってますお〜。すきっ腹にグーデンカロルス一本(330ml)で既にええ感じですよ〜。ベルギービールはアレですな。安酒テイストなところが俺の性に実にあっててええ感じですな。単価は無駄に高いけどビールにコリアンダーだのカモミールだの香辛料を入れて味を調整するつーのが実にこー俺好みで、いや発泡酒ウェルカム(第3のビールは何故かダメ)だからさ。なんか「リッチな味わい」って日本語の説明には全っ然納得してないけどね。たかが輸入ビールで何がリッチだー。ラーメンが1000円だったらリッチなのか? カレー博物館で3万円カレーを食ったらリッチなのか? ああん?(からみ酒) まあいいや。

ライトノベルに「キャラ/キャラクター」は適用できるか

そいや忘れてたので酒の勢いで。てゆかid:nanari:20060218#p1を読んでてなるほど、と思ったので。
ええと
http://d.hatena.ne.jp/genesis/20060215/p1
への返答なんだけれども、例えば口絵や挿絵と小説本文とを有機的に結合させた、漫画に近しい形式として考えるなら、「キャラ」の概念で挿絵と本文を横断させるっていう発想は使えそうだし面白そうだと思います。小説本文の中でのみ「キャラ/キャラクター」を抽出しようとするのはあまり意味がないように思われます。それを抽出するにはまず小説本文の文章の中で生成されてる/読者に読み取られてると思しき階層構造を抽出するのが先決で、まず構造が先行していることを証明した後に「キャラ/キャラクター」を見出すならオッケーと思われますけど、先に「キャラ/キャラクター」を見出すことで逆算的に階層構造を発見しようとするのは無謀かと。理由は「人間」的なものは「物語」なら何処にでも見出しうるから、という先日の話により。


それはそうと、今回はこいつはすげえぜ! と手放しで。

ぱれっと『もしも明日が晴れならば』

演出マジすげえ。超絶洗練されてます。なんつーか現在の技術水準のノベルエロゲー演出の教科書にしたいぐらい。最近の標準がどのあたりかは知らないけど、僕がTYPE-MOONFate/hollow ataraxia 』やLittlewitch『少女魔法学 Littlewitch ROMANESQUE 』あたりと比較して言ってるというあたりで適当に判断してくれ。対象が良くない? ほっとけ。
ブランドとしての「ぱれっと」はアドベンチャーパートの立ち絵に拘り続けてきていて、1作目で後姿、2作目で横向きの立ち絵を使用するなど、立ち絵表現を積極的に展開してました。中には結構な率で外れもあったんだけど、気づかない内にノウハウ蓄積してったんだなと素直に感心することしきり。テキストアドベンチャーで正面向きでない立ち絵を用意するのについては直接的にはアージュあたりからの流れがあるのだろうし、昔を振り返れば『 Prismaticallization 』でもヒロインの後頭部をみせてみたりするし、ポリゴンヒロインの『ゆめりあ』でも振り向いてくれてたりして、けして手法的に独創的なわけでも何でもない。ぱれっとは現在のノベルエロゲーの形式における最も効率的な表示方法のひとつを示して見せただけ、ではある。でもそれがすげえんですよ。
まず背景の話をまとめよう。ノベルエロゲーにおける写真をトレースしたような背景というのは、基本的には視線を素通りさせるためにある。これについては、視線を跳ね返してくるような背景を採用してきたゲームを思い起こしてもらえば納得してもらえると思う。『雫』のモノクロームの教室、『月姫』のツキハギだらけのセカイ、『沙耶の唄』の主人公を取り巻く醜い光景、これらはどれもプレイヤーの視線を捉えようと試みてくる。対するに、透視図法を使用し奥行きを持つ写実的な背景は、「場所」の情報と「空間」という意味だけをプレイヤーに伝え、その手前にいるキャラクターの立ち姿を阻害することはない。ノベルゲームの写実的な背景とは常に「固有の名前のない場所」である。

北野武の背景は、地域性を剥ぎ取られた、ほとんど抽象的なものだ。あえて言えば「貧しい」背景だ。そして、ギャルゲーの背景はもとよりそういうもので、『AIR』にしろ、設定上はおそらく瀬戸内海沿いと推定されるのだけれど、たとえば東北でも山陰でもいい気がする。その気になれば、海沿いでさえなくとも、ああいう町はある、と思える。
http://d.hatena.ne.jp/imaki/20050213#p1

そのような固有性のない、しかし確かに立体感のある背景描写によって成立している「空間」に「立ち絵」が配置されるとき、主人公視点を模したゲーム画面に対象の立ち絵(ヒロイン)との間の距離感が生成される。これは物理的距離を想定させることで成立する心理的な距離だ。この距離感がヒロインの立ち絵に説得力を与え、プレイヤーがゲーム内ヒロインを人格を持った相手と見なす根拠のひとつとなる。
しかしこの「立ち絵」は一方で「遠い距離の立ち絵」「近い距離の立ち絵」などの物理的距離感を表記するのにも使用されてきた。この心理的な位置関係と物理的な位置関係の微妙な混同が立ち絵の演出を巡る違和感の原因となってきた。
これに対し現在ノベルの最大手となった『 Fate 』シリーズが採用したのは立ち絵を動的演出の一要素とみなし動画演出を前面に押し出すことで「立ち絵の事実上の消滅」を促すというものであった。実際、『 Fate 』シリーズにおいて立ち絵は物理的な位置関係を示すものとしては全く機能していない。どちらかといえば立ち絵の「動き」そのものが独立した一つの時間の流れと空間の演出を作り出しており、奈須きのこのテキストも武内崇のイラストもしばしば演出のサブとして機能している感がある。これらの「立ち絵演出」から受ける印象はFlash動画的というより何か「同人イラスト」的なものだ。「手前に凛のアップ顔、後ろに桜の全身立ち絵」といった配置は主人公から見た二人の位置関係ではなく、キャラクター絵だけで上手く構図を決めようとするCGイラスト的な考え方から来ている。イベントCG画の一部アップ、スクロールを多用する手法とあわせ、これらは「動くイラストストーリー」とでも言うしかないような形式に辿り着いた。(これはテキストを全画面に展開するビジュアルノベル方式が立ち絵を後景へと押しやっている点に注意を向ける必要があるだろう。ノベルAVGとは立ち絵の位相が異なるのだ)
閑話休題、『もしも明日が晴れならば』においては、立ち絵の心理的距離と物理的距離の完全な連動、位置関係をそのまま会話の流れに生かすという形で会話演出が最適化されている。
まず対面する一対一の関係は従来通りだからいいだろう。ここで男性主人公に気を許している、照れている、求めている、など様々な表現を背中と後頭部に語らせている。なお、以前に失敗だった横向きの立ち絵も、男性主人公と距離を置こうとするヒロインの態度表明として効果的に使用されている。
次に3人の場合だ。奥のヒロインと手前のヒロイン。これはそのまま、そのときの主人公との関係の距離感をきっちり再現しているのだが、そこでさらにヒロイン同士の会話を演出してくれる。普通に話していれば手前のヒロインは男性主人公から見て背中を見せているわけだが、例えば奥の人物に対して呆れてみせたり怒ったりすると主人公の側に顔を向けることになり、「奥のヒロインに見せない表情を男性主人公に見せる」という演出が心理的な近さと連動する。
それだけではない。これらの立ち位置の演出を確実なものとするために、各キャラクターには通常の立ち絵の他に、黒枠で囲まれた「ウィンドウ立ち絵」が用意されている。この形も頭部が枠から半分はみ出ているなどバランスの取れたものなのだが、この「ウィンドウ立ち絵」を正面に立っている通常の立ち絵と区別して使用することで、前述の立ち絵の演出の基本を崩さないようにする。そればかりか、「ウィンドウ立ち絵」を巧妙に駆使することで「同じ方向を向いて並んで歩いている」「空を見上げながら話す」といった演出がなされ、男性主人公と各キャラクターのそれぞれの台詞の向かう先にあわせてシーンが構成される。
また、後姿の立ち絵は、ヒロイン視点の独白の導入にすらその効果を発揮する。元々、light もぱれっとも女性視点の導入に積極的なブランドではあったが、ヒロイン視点による心理独白は実は非常に危うい演出手法である。「葉鍵」などの「感動ゲー」は、それ以前の恋愛AVGの尻尾を残した主体の欠けた男性主人公人格による一人称という、会話を主体とし男女のコミュニケーションをはかるのが目的であるにも関わらず男女どちらの内面も不透明なままでしかいられない、最後までディスコミュニケーションの可能性を残し続けるある意味で非常にストイックな記述方法に支えられていたためである。
しかし、21世紀のノベルゲームにおいて、イベントCGで顔が描かれ、ヒロインの声優により名前が呼ばれ、もはやシステムの一部ではありえずプレイヤーと別の主体を持つことが要求されるようになった男性主人公が主体性を欠いたままであり続けることは難しい。Prismaticallizationトノイケダイスケシナリオの主人公のように徹底した深入り詮索志向で自分自身を見極めようとし続ける主人公、『天使のいない12月』の人生放棄してて主体性ナニソレな主人公、『 Fate 』の説明するのも面倒くさい主人公などの一人称の手法もあるが、そこまで泥沼に入り込んだ主人公ばかりではいられない。何がしかの主体性を獲得してしまった男性主人公はその主体性ゆえに「一本道シナリオ」へと傾かざるをえない。それでもなおシナリオを複線化しぶれさせるならば各ヒロインの物語主人公としての独白が導入されざるをえない。(原理的には『ONE』と一緒。3月2日追記:マップ画面でキャラクターを選択するタイプは主人公視点から離れたところで分岐を選択するため、上記の原則に当てはまらない。あくまで文章内選択肢でシナリオが分岐するタイプに限る)
ということでヒロイン独白とヒロイン後姿の組み合わせとなる。まず立ち絵のない状態でのヒロイン視点の独白が入り(メッセージウィンドウの色が青から赤に変わる)、独白の途中、あるいは最後にヒロインの後姿(場合によっては手前向き)の立ち絵が挿入される。立ち絵の距離感が独白をヒロインから引き剥がし、遊離した言葉がただ男性主人公の主体性に拠りかかろうとするプレイヤーの立ち位置を揺さぶりにかかる。これがただ「ヒロインの言葉」であっては押し付けがましいことこの上ないが、このワンクッションは想像以上に効果的に働く。
これらの演出効果により導き出されるのは、三角関係の非常に効果的な採用である。現在シナリオ中盤時点において、それぞれのヒロインは相互の連携をこそ主眼としているように見える。後半個別シナリオに分岐するとは考えられないほどだ。
さらにこれが極めつけなのだが、現実という立体空間に等身大サイズのバスタオルという平面性を持ち込むことで画集やポスターでは困難だったヒロインの実存の確信へと私を誘うことになる。予約していなかったにもかかわらず偶然そふまっぷで(予約分がうれのこったんだろうけど)かったらとくてんでついてきて、かいふうしてやばいとおもったんだ、おもったんだけどわたしはぬいぐるみだきしめたりするのだいすきでましてやおろしたてのばすたおるの触かんとやくひんのかおりが(ああかいださかいだとも)ままってくれおおおおれはへんたいじゃないまだ抱きまくらだってもってない、いやこれはほんとうにきけんなしろものなんだだれだってこのあきほのちょっとえっちなばすたおるをまのあたりにしたら○○○○○○○○○○○○○○○○○いやちがうそうじゃないやめろそんなめでおれをみるなやめてくれああああああああああああああああああああああああああああああああああああああきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあきほあき