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今年の頭に「第二のゲーム脳本」としてちょっと話題になった「脳 内 汚 染」の著者インタビューが出てて、コメント欄とかまたゲーム脳だ、とかいろいろ反応してる。
ゲーム批判ということで、既にIDGAでも取り上げられてたりするんだけど。
http://www.igda.jp/modules/news/article.php?storyid=716
えー、それで、内容よく知らなかったんだけど、上のインタビューで

岡田◆第三の問題は、人間としてやってはいけないこと、つまり脳の禁止プログラムが書き換えられてしまう可能性が高いということです。昨今頻発する少年少女による殺人事件は、端的にいうと、同種間の殺し合いはしないという本来組み込まれたプログラムが書き換えられてしまったと考えて、初めて理解できるのです。
もともといかなる生物でも同種間の殺し合いはしないようにできている。ところが、今、人間の社会では、ささいなことで、この禁止プログラムを飛び越えてしまうということが頻発している。
それを説明するためのひとつのモデルがあります。その禁止プログラムを解除しなければならない軍事訓練です。実際に戦争になったときに、敵を撃てないと困る。
そこで軍隊ではこの禁止プログラムをいかに解除するかが課題でした。かつて黒丸の標的で射撃訓練をやっていた頃は、実際の戦場では一割か二割の人しか発砲できなかった。これを人型のシルエットの標的に変えたところ、実戦での発砲率が八割を越すまでになった。
つまり、禁止プログラムはシュミレーションによって解除し得るのです。それはオペラント条件付けという行動心理学の原理を用いています。オペラント条件付けとは、理性のチェックなしに行動できるように訓練することです。
言い換えると、理性の座である前頭前野を素通りして運動系の神経に指令が行くようになることで、同種を攻撃する嫌悪感を取り去ることになる。
そういう状況に時間をかけて徐々に慣れさせることを脱感作(だつかんさ)といいますが、オペラント条件付けと脱感作を組み合わせることによって、実際の人間に対しても躊躇なく引き金が引けるようになってしまう。
コロンバインハイスクールの事件を初め、無差別殺人など凶悪な犯罪を起こした少年たちの多くが殺人を内容としたゲームなどのマニアでした。彼らは、ゲームによって、知らないうちに禁止プログラムを解除するシュミレーション訓練をしてしまっていたのです。
ゲームは、慣れないうちは前頭前野が活発に使われている。ところが習熟してくると、前頭前野は使われなくなり、視覚と指の運動だけ繰り返されることになるのです。
前頭前野のチェックなしに行動してしまうオペラント条件付けを、知らず知らずにしているという環境に子供たちが置かれているということです

って書いてて。
あーこれ、もろにデーブ・グロスマン「戦争における人殺しの心理学」(ちくま学芸文庫
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31373625

戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)

戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)

からの受け売りだ、と。*1
僕も読んだ。非常に興味深い本、ではある。けど割と雑。詳しいレビューは
http://d.hatena.ne.jp/Gomadintime/20040821
などいろいろ参照していただきたく。で、グロスマンの「その後」については
http://d.hatena.ne.jp/Gomadintime/20050322
など。*2
ちょうど、6月30日にDiGRAの例会に行ってきて、
http://www.igda.jp/modules/news/article.php?storyid=856
質疑応答のあたりで「ゲーム脳」の話も出て、海の向こう側では暴力ゲーム規制の流れは抗いがたく、米国のゲーム業界も非常に強い危機意識で事に当たってるとのことだけど、おそらく先頭にたってゲーム規制を唱えてそれなりに成功を収めてるらしい論法が、ようやく海を越えて日本にも輸入されてきたわけです。多分、今後は「ゲーム脳」よりもこちらの論調のほうが活発になるんじゃないかしら。
で、この先、厄介て書くとアレだけど、真剣に慎重な議論が要求されるようになるなあ、少なくとも俺らみたいのがいつまでも感情的に「奴らはゲーム脳論者だ!潰せ!」と短絡反応してたら洒落にならんなあ、と。
例えば、ゲーム業界の方も「シリアスゲーム」つってゲームを使用した学習効果の高い学習方法の研究みたいな話が盛り上がっているみたいだけど、そうすると当然、「市販の殺人ゲームは、ゲームの持つ高い学習効果によってプレイヤーに殺人意識を学習させているのではないか」みたいな議論が出てくるだろう。
あるいは、コンピューターゲームは現実のコンピューターではないゲームの全てを再現できる、みたいな無邪気なコンピューターゲーム万能論的なゲーム論は、今までは「コンピューターの将棋と現実の駒と盤を使用した対局は等価」(だからコンピューターは素晴らしい)程度の話で済んでたけれども、そこんとこでモニターを介した体験の中身を吟味しとかないとマジで洒落にならない。いつまでも「二次元少女に萌えてるのは擬似恋愛なのだ」とかの話に固執してたら上の議論に巻き込まれるのは確実だろうな、と。
ゲームのどの部分が何を学習させるのか、ゲームのどの要素がユーザーに訴えるのか、まっとうな児童心理なり教育学なりの専門の人たちの出番になるんでしょうけど、その流れについていけず自分らの抱えてる思い込みによって、ゲーム規制論者に転身するゲーム系のブロガーやオタク関連のライターの人たちも結構大勢出てくるだろうなぁ、と想像してみたり。
その関連で、今度『ゲームの処方箋〜人とゲームの新しい関係〜』
http://www.igda.jp/modules/news/article.php?storyid=879
てイベントが7月14日(金)にあるそうで、そのへんの話が聴けるんじゃなかろうかと期待するものの、僕は行けません。誰か行ってきて〜。

*1:しかしこれ、日本の大学の授業でも取り上げられてるんだな。http://www.keiho-u.ac.jp/faculty/syllabus/1704_01.html授業計画の「第8回「条件付け」される心」参照のこと。

*2:てゆかGomadintime氏、「ルワンダの歴史」http://blog.livedoor.jp/hotel_rwanda/archives/cat_10013977.htmlを書かれた方なのね