すごく、よく見かける「問題設定」なんだけど

ライトノベルの主人公に親がいない設定ばっかなのは何で?」
http://mubou.seesaa.net/article/369484260.html

いつもみんな、ややこしいことを言いたがるのだが、実際には

以外の意味なんかまるでなく。
実際に親が作中で出しゃばったてきたらどうなるか、想像すりゃ一発でわかると思うん。
これについては、宮崎駿も同じようなこと言われて「親を出したら子供を動かせないでしょ」と切り捨てていたのだが、にもかかわらずインタビューしてる稲葉振一郎が「いやしかしそこに宮崎駿の隠れた深層、作家性があるのではないか」だったか忘れたけど、深読みするフリしてて、なんだかなあ、と思った。
で。
この「問題」は、むしろ、
「なんで保護者が同居もしくは密接な距離にいるのが当然と思われるような幼い少年少女(場合によっては児童)ばっかりを主人公に据えた作品が溢れているのか」
のほうが、実は適切なのね。
これに対する典型的な回答例としては「子どもが主人公のほうが同世代の読者や視聴者の目線で身近だから」とかそーゆー言い方になるんだけど、子供向けだから子ども主人公、なんてのは、かなり嘘でさ。エヴァンゲリオンは少年が操縦してるけど、子どもたちに大ヒットしたマジンガーZなんかは、操縦してる主人公は大人(青年)。月光仮面でも仮面ライダーでも戦隊ヒーローでも同じく。ファンタジーだって、青年ぐらいの年齢設定の主人公はラノベでもマンガでも普通にいる。大人になりかけ、親から自立しかけ、けどまだ社会に順応しきれていない青年層ってのは、本当だったら便利な存在で、しかも実際、今でも普通に便利に使われてる。
けど、青年とまで行かないぐらいの年齢を主人公に据えたがるのは、なんでか。
さらに言えば、ラノベやアニメ、メイン視聴層や読者層はティーンエイジャーと同時に30代40代ぐらいもターゲットなわけで、「子どもウケするため」なんてのは、かなり嘘くさいので、そっちも含めて疑問に思うべきでね。
 
おそらく、子どもと呼ばれる年齢層を主人公にしたほうが都合がいい、文脈的な積み重ねでの理由ってのが、重層的複合的にあって。
たとえば、「学園もの」という枠組みの「異界性」。(現実世界から隔離された空間であること)
「学園」だったら戦闘しようと超能力を使おうと余計な説明がいらない。むしろ生徒会が日本経済を裏で支配してたってオッケー。だって「学園」だから。けど「学園」の中にいるには未成年じゃないといけないのです、といった。
「学園もの」は、少女マンガや少女漫画をさかのぼる諸々の文脈から受けついで、そゆことになってるんだけど、そういう様々な文脈の積み重ねの上で、僕らは、何の説明もなく謎ビームや謎メカや謎モンスターが入り乱れるド派手な物語を楽しめるわけですが。
逆に言いますと、保護者不在が目立って見えるほどに文脈依存の度合い強い作品が多い状況ってのが、現状で。それってつまり、現実離れ度合いが目立っていても、それを修正しようとは供給側も需要側も思ってない、ってことで。
 
私なんかは、映像中心の文化圏がテキストの理屈付けを置いてきぼりにして、どんどん先に進んでしまっているせいで、ビームサーベルやドリルやミサイル乱射や謎のオーラが身体から立ち上る等々の画面効果の派手さに対し文章の・理屈の説明が追いつかなくなってて、だから説明を端折るためにジャンル化が先鋭的になり、先鋭化しすぎて追いかけるのも大変ななか、既存のジャンル文脈に読者視聴者がついていくため、新規顧客を巻き込む意味もかねて、ニコニコ動画の解説コメントのごとく、「ライトノベルの主人公に親がいない設定ばっかなのは何で?」のような、大して意味もなく、しかしどっかのブロガーが意味をねつ造しながら解説してくれるようなツッコミが日々消費されるているのだろうと想像しています。
真実がどうであるかというよりは、こういう意味のないツッコミとボケが繰り返されること自体が、ジャンルのお約束の根拠もあいまいなまま、なんとなく判った気にさせてくれて、ふと思った疑問や違和感を放置したままの消費活動を助けてくれる。考えない人、考えが堂々巡りに陥る人を増やすという意味では、この手の「考察」は、考察という呼び方にふさわしくはないとは思いますが、しかし一方で、日々を大過なくやり過ごすための重要なツールであるのかもしれません。

2013年07月17日ログ