「ガールズ&パンツァー」

たまったスタンプカードで「風立ちぬ」見てきたので。
最近の、アニメで軍用兵器が出てくると「軍靴の足音が聞こえる」という話題でいうなら、「風立ちぬ」や「艦隊これくしょん」よりか、ガルパンのほうがよろしくない。あくまで非常に消極的な話として。
理由としては、「戦車をカッコよく動かしたい」ために「余計なノイズは挟まない」よう緻密に作り上げちゃったから。
形式としてスポ根、ウェットな要素はなるべく抑え、実弾がこれでもかと飛び交い、鉄の塊が大質量同士で衝突しまくっても、大けがしたり死んだりしない。オタ的なこだわりを十分に実現しつつ超設定を駆使し文脈や演出スキルをこれでもかと張り巡らせて、兵器を娯楽作品に持ち込むにあたって煩い批判筋からナンカ言われそうな隙を潰しに潰した。おそらくは「余計なことを何にも考えずに純粋に楽しんでもらおう」っていう作り手の称賛に値するサービス精神のおかげで。
結果、ほんとにノイズの少ない超絶純度の結晶体のようなコアな本体が出来上がった。

その副作用というか当然の帰結として、現実との切り離しが進んだ。
こういうふうに純粋すぎるほど自己完結してしまったオブジェクトは、その自由度ゆえに、どの文脈に置いても違和感なくスポッとあてはまるようになる。ということは評者や観客、あるいはそれ以外の誰かによって「読み方」を規定されやすい。モンタージュの技法によって映像の意味が180°変わってしまうように、作品外の誰かの意図で作品の位置づけを多少変更することで、大した意味もなかった萌えアニメが、何かシリアスな意味づけを持たされてしまう。外部に対するメッセージが薄いことが逆手にとられ、メッセージの中に組み込まれてしまう。
そして、そういうふうに「読み方」をコントロールされうるフリーな素材は、各人が自由に読み込み多様な見解を披露できる以上に、現実の資本力や権力をもっている側が読解のコントロール権を握るのは自然の流れだ。現実の側に読解の権利を渡した以上、現実の力関係の前に屈服せざるをえなくなる。
「現実と関係のない」娯楽作品は、別に戦車を出さなくとも、常にそういった状況に置かれ続けている。良い悪いではなく娯楽作品はそういうもので。それを指して「作品が悪いのではなく、作品の読解を歪めようとした権力が悪いのだ」と言っても詮無い。ただし、そんなふうに現実の力が作品読解をコントロールしうることは最初から判りきっているのだから、後から「そんな使われ方をするとは思わなかった」という言い訳だけはできない。そんな陰謀論的な状況は起こりようはずがないという釈明もあまり意味をなさない。実際問題として、そういうふうに現実の力に屈服した娯楽作品を横目に眺め、多くの文芸作品や娯楽作品はそうなることを嫌って、意識的に現実と対抗し現実に反発し純然たる娯楽であることから一歩なり二歩なりはみ出してノイズにまみれ、どこかで踏み外してきたのだから。
そういう、極めて消極的ではあるが、言い訳のきかない意味において、「ガールズ&パンツァー」は「軍靴の足音が聞こえる」ような使われ方をする可能性に頓着しなかった。良いか悪いかは置くにしても。「実弾撃ちまくっているくせに人が死なないのが問題」なのではなく「人が死なない不自然さを幾重にも言い訳を積み上げてうやむやに見えなくしている丁寧な仕事ぶりが結果としていざというとき取り返しがつかないのが問題」なのだ。視聴者を信じて全てを預けてくれた作り手の誠意は疑うべくもないが、しかし視聴者は気心の知れた身内のオタだけではない。予想外の大ヒットをしてしまったことが、誤算といえば誤算だったのかもしれない。
この話についていえば作品の側はもう完成し公開した時点でユーザーにその読解も用法も全部を明け渡しており、今さら作り手を糾弾する話でもない。今から出来ることといえば、ガルパンという作品の読解の権利をファンの手元に置き続け、けして手放さないようにすることだろう。たとえば大洗の地域振興というローカルな共同体と結びついている現状を大事に守り続けること。自分たちが楽しんでいるのはただの娯楽であることを強く主張し、小賢しい論者の高尚ぶった解釈がまかり通るのを認めないこと。
外からの攻撃に対しあまりにも打たれ弱いという点で、ガルパンは「風立ちぬ」よりもはるかに「軍靴の足音」に近しい。